【注釈】
■マルコ14章
今回の逮捕の場面は、「ゲツセマネ」での受難の始まりと、それ以後に続く受難の出来事との「つなぎの一場面」(R.T.France.
The Gospel of Mark. NIGTC, Eerdmans. 591.)だと見なされることが多いようです。マルコの資料では、「ゲツセマネ」と「イエスの逮捕」とは、すでに結びついていたと考えられます(Adela Yarbro Collins.
Mark. Hermeneia. Fortress Press. 684.)。このためか、今回の逮捕場面では、マルコが、受難物語において、ゲッセマネと逮捕とをどのような構成と意図のもとで扱っているのかに注目が集まっています。しかし、私が注目したいのは、この逮捕の出来事それ自体が「どのような事態」なのか?そこで起こっている出来事それ自体のほうです。
ユダの率いる一隊の到来とともに弟子たちの姿は消えて、イエスの身は敵の手に渡ります。それまで終始共に居たイエスと弟子たちは、以後離ればなれになります。ペトロだけが例外ですが、ペトロの行為もイエスへの「助け」というより「当惑」のほうが近いです(France.
The Gospel of Mark. 590)。今回の逮捕の場面でも、イエスが、深い意味において出来事を「取り仕切っている」ことを知ることができます。この出来事も「聖書が成就する」ためだからです。しかし、先の読めない弟子たちの「あわてふためいた行為と、続いて起こる惨めな逃亡」(France.
The Gospel of Mark. 592)は、イエスの振る舞いとは対照的です。「裸で逃げた若者」のこっけいな仕草もこの対照を際立たせます。
[43]【ユダが現れる】出来事の発端が「ユダの裏切り」であることを改めて確認させます。ユダをすでに見抜いているイエスは、少しも動じません。しかし、「十二人の一人」という言い方は、マルコ14章10節と同20節を想わせますから、その場の重苦しい物物しさだけでなく、イエス自身の「哀しみ」をも漂わせています(Collins.
Mark. 684.)。
【群衆】大勢の人たちを思わせますが、具体的には、武装した「部隊」を指すのでしょう。これは、エルサレム神殿を無法な敵対行為や暴動による攻撃から神殿制度を守るための警備隊ですから、長剣を腰に帯び、棍棒を手にしています。ただし、それ以外の人たちもいたと見ることができます。
【祭司長たち】「祭司長、律法学者、長老たち」とあるのは、国の最高法院(サンヒドリン)によって任ぜられた「神殿の主管」(使徒言行録4章1節)の指揮下におかれた部隊のことです。その中の一つの「小隊」が派遣されたのです。このような逮捕の有り様は、単なる個人的な犯罪行為ではなく、神殿と国家への公的な犯罪行為に対処するという印象を与えますから、その物物しさに接した弟子たちは、動揺を隠しきれなかったでしょう。ユダヤのエルサレム神殿の主管直轄の警備隊であれば、おそらく、ユダヤ人だけの編成で、ローマ兵はいなかったでしょう(France. The Gospel of Mark. 592)。
[44]~[45]【前もって合図を】「イエスにキスをする」というユダの言葉から判断すれば、ユダは、おそらく、イエスが抵抗しないことを予想していたと思われます。ユダのこの想いと、物物しく武装した警備隊の思惑(おもわく)とは食い違っているように見えます。ただし、警備の人たちも、神殿で常々教えていたイエスを見知っていたはずですから(14章49節)、彼らは、イエスよりも、イエスの周りの弟子たちが激しく抵抗することを予想していたのかもしれません。
【接吻する】原語「フィレーマ」は、ほんらい「愛/友情」の意味で、愛情や尊敬を示す挨拶です。キスは、家族同士の親しみの挨拶から始まったとされます。したがって、ヘブライでもギリシア・ローマでも、キスは、親しみを表すごく普通の挨拶の仕方でした(ルカ7章45節/使徒言行録20章37節を参照)。キスは、する側とされる側との上下関係に応じて、頬や手や膝などに、奴隷が主人に対するときは主人の足にするものでした。おそらく、ユダは、ここでイエスの手にキスをしたのでしょう(Bovon.
Luke 3. 215.)。これは、その場の人々の警戒心を解く最もふさわしい行為です。とりわけ、「ラビ」と信仰の師に対して呼びかけるキスは、相手に名誉と尊敬を与える仕草ですから、ユダが、この仕草を「イエスを見分ける」ための合図としたのは、いかにも「わざとらしく」、その場の物物しい雰囲気にそぐわない「奇妙な」印象を与えたでしょう。
【逃がさないよう】ユダが、警備隊に「逮捕してからガードする」よう告げているのは、通常なら相手が逃げ出さないための方策ですが、ここでは、その場から、直接に、「裁判の場」である大祭司の官邸へ、あるいは最高法院の法廷へイエスを連行することを意図しているからです。
[46]~[47]【そばに立っていた者たち】原文の「周りに居た人たちの一人」という言い方は、もしも、十一人とイエスだけが居ることを前提としているのなら、おかしな言い方です(France.
The Gospel of Mark. 594)(Collins. Mark. 685.)。弟子たちのほかにも、「周りの人たち」が居たとなれば、祭りのときに、武装した部隊がぞろぞろ出掛けて行く様子を見た人たちが、「なにごとか」と野次馬根性でついてきたのでしょうか(France.
The Gospel of Mark. 592)。もしもそうなら、この「物物しさ」は、イエスが「国と神殿に逆らう犯罪者」であることを人々に示すために、大祭司たちが仕組んだことを意味します。
【剣を抜いて】ユダの率いる一隊の物物しい雰囲気にまるで対抗するかのように、イエスの平然とした威厳が、その場の物物しさを鎮めた様子をうかがわせます(とりわけルカの記述では)。ところが、いざイエスを逮捕する段になると、誰も予想しなかった混乱が突然に生じたようです。弟子たちの一人なのか、誰なの分からない混乱の中で、誰かが突然、「大祭司の僕に切りかかる」事態が生じたのです。
どうやら、逮捕の際に、思いがけない混乱が生じたようです。「大祭司の僕に向けた」剣という言い方からすれば、切りつけた側は、事態を仕組んだのが実は大祭司であることを知った上での行為だと考えられます。弟子たちと警備兵との間に今にも争いが生じる緊張が走ったその時に、イエスは、「聖書を実現させなさい!」と言いつつ、切られた僕の耳に手を触れて、その場の雰囲気を鎮めています。緊張と、これを抑える不思議な力とが同時に働いたことが分かります。この理解を超えた事態に、弟子たちは、その場から全員逃げ出したのです。
【耳を】マルコは、通常の「耳」(原語「ウース/オートス」)ではなく、「小耳」(原語「オータリオン」)という言い方をしています。ヨハネ福音書(18章10節)では、この「大祭司の僕」の名前が「マルコス」であると記されています。マルコは、切り落とした者と切られた者を「匿名で」記述していますが、これは、(まだ存命の)その人たちに危険が及ぶことを配慮したからでしょう。イエスも、切りつけた本人に向いては、何も言いません。誰だか分からなかったからでしょうか(France.
The Gospel of Mark. 594.)。
[48]【まるで強盗に】イエスは、何一つ「不法な行為」をしていないと抗議しています。その上で、イエスが「抵抗して戦う」ことなどないのを(ユダたちは)知っていたはずであると、彼らの「わざとらしい」物物しさを強くたしなめています。イエスのこの叱責で、相手側は、ややひるんだ様子がうかがわれます(ヨハネ18章6節を参照)。ここでの「強盗」は、イエスが「二人の強盗」とともに十字架につけられたことと象徴的に関連するという見方がありますが、ここの「強盗」に、そのような比喩的な意義を関連させるのは適切でないでしょう。
[49]【聖書の言葉が実現】マルコの言い方では、ここのイエスの語気は、単なる叙述ではなく、「聖書で書かれていることを実現させなさい」のように命令として受け取るほうが適切です(Collins.
Mark. 686.)。“But let the scriptures be fulfilled."[NRSV][REB].
マタイは、イエス逮捕の出来事全体を旧約聖書の預言だと見ていますが、マルコの記述では、この逮捕の出来事が、旧約聖書の特定の箇所の預言の成就だという言及はありません。マルコは、イエスによるこれまでの受難予告でも、旧約聖書に言及していません(マルコ8章31節と同9章12節を参照)。ただし、マルコ14章27~28節は、ゼカリヤ13章7節を引用する形で、マルコが編集したと見る説があります。ゼカリヤ13章7節では、神が「羊飼いを打つ」ことと、「羊が散り散りになる」ことの二つが預言されています。前半の預言は、マルコ14章46節で成就し、後半は、同50節の「弟子たちの逃亡」で成就します。イエスが、この49節で、「聖書が実現する」と告げているのは、この二つの出来事を指していて、イエスの聖書への言及は、イエスの逮捕と弟子たちの逃亡との間に挟まれて出てきます。このことから、マルコ14章48~49節は、資料へのマルコによる編集(挿入)だという見方もあります(Collins.
Mark. 687.)。
[50]この記述から、警備隊がとらえようとしていたのは、イエス一人だけであって、弟子たちは無視されていたことをうかがわせます(France.
The Gospel of Mark. 595.)。弟子たちが逃げ出したのは、イエスが、まったく無抵抗のまま逮捕される出来事に接して、「ただ逃げ出す」以外に、ほかの選択が考えられなかったからでしょう。マルコは、この逃亡を一つの出来事として記しているだけで、そこに弟子たちへの非難は感じられません。
[51]~[52]「裸で逃げた若者」は、やや滑稽で、この一連の重々しい出来事にそぐわない感じがしますが、マルコは、そのように考えてはいません。オリーブの林を抜けて逃げ去ったこの若者は、誰なのか? 今の私たちには分かりませんが、マルコも、マルコの読者たちも知っていた可能性があります(France.
The Gospel of Mark. 595.)。ここにでてくる「若者」とは、イエスの「十一弟子」ではないが、イエスと親(ちか)しい人だったのでしょう(France.
The Gospel of Mark. 596--597.)。
実は、マルコ14章51節~52節は、これをマルコによる挿入あるいは創出だと見なして、ここに、マルコの様々な意図を読み取ろうする試みがなされてきました(Collins.
Mark.688-- 695.) 。イエスの逮捕物語の締めくくりとして、このいささか滑稽な若者が出てくるのは、場にそぐわない印象を与えるからです。マルコは、十一弟子を含め、イエスに味方する者たち全員が、いざというときに、イエスを見捨てるという無様な有様を描こうとしているとも受け取れます。おそらく、マルコ福音書のの読者たちには、この若者が誰であるかを知っていたと思われますが、マルコ自身は、この若者の無様な仕草を締めくくりとして適切だと思っているようです〔France.
The Gospel of Mark. 595.〕。ゲッセマネ物語と逮捕物語の締めくくりとして、このように「重みに欠ける」〔France.
The Gospel of Mark. 596.〕若者の話が登場するマルコの真意を巡って、いろいろな推測がなされています。
幸い、この「若者」に関して、マルコの記述を深く洞察した上で、その問題点を適切にまとめた文献がありますので、これを参照しながら、以下で簡略ながら紹介したいと思います〔R.T.France.
The Gospel of Mark. The Paternoster Press (2002). pp.410--411/ 595--597.〕〔Adela Yarbro Collins.
Mark. Hermeneia. Fortress Press (2007). pp.688--693.〕。
(1)マルコ14章50~52節は、史実に基づくだけでなく、この記述がマルコだけであることから、ここの「若者」は「マルコ自身のこと」だと見る説があります(France. The Gospel of Mark. 595--596.)〔フランシスコ会聖書研究所訳注(12)〕。しかし、これは憶測でしょう。若者=マルコ説は、19世紀に、逮捕の記述が、作者自身が体験した事実に基づくと証しする意図から出たものです(France. The Gospel of Mark. p.596. 脚注54.)。「若者」に関するこの伝承は、前マルコ資料の受難物語の逮捕伝承とは別個に伝承されたのかもしれません。
(2)ここには、旧約聖書(例えばアモス2章16節)が反映している。
(3)若者の「亜麻の布」と、イエスの遺体をくるんだ亜麻布(マルコ15章46節)とを関連させることで、一旦は逃げ去ったはずの弟子たちでも、最後には再び信仰を取り戻すことを予想させ、弟子たちの「信仰的な復活」を予兆する象徴的な意図が隠されている。
(4)衣を脱ぎ去って「素肌になる」ことには、洗礼の祭儀が示唆されている。
(5)十一人のほかにも、このような若者が居たことについて、これを「マルコによる神秘福音書」に登場する若者とイエスとを関連づける見方もあります。これについては、【補遺】「マルコによる秘密福音書」を参照してください。
結論として、素肌で逃げた若者とは、弟子たち全員が逃走した際に生じた(史実に基づく)一つ事例となる出来事であったことです。マルコが証しようするのは、この若者の仕草が、逮捕され、衣を脱がされ侮辱されて(マルコ15章16節/20節)、十字架刑に処せられたイエスの姿勢とは対照的なことです〔Collins. Mark. 694--695.〕。
【素肌に亜麻布を】「素肌に亜麻布をまとって」とありますが、「亜麻布」は、「亜麻の布」あるいは「亜麻の下着」とも解釈できます。1世紀のユダヤでは、人々は、通常、上着の下に下着をまとっていました。この若者は、素肌に亜麻布だけだったのか?あるいは、通常の意味で、「素肌にまとう亜麻布」と、その上にも、軽い(袖なしの)衣(ころも)をまとっていたのか?よく分かりません。だから、イエス同様、彼も捕らえられそうになると、素肌のまま逃げたのか、あるいは下着のままで逃げたのか、どちらにも解釈できます。
【とらえよう】46節と51節のこの動詞が現在形なのは、逮捕されそうになるそれ以前に、弟子たち/若者が逃げ去ったことを指すのでしょう(France.
The Gospel of Mark. 595. )。
■マタイ26章
マタイは、ほぼマルコの記述に準じていますが、マタイの版では、ユダのキスに向けたイエスの言葉と、大祭司の僕の耳が切り落とされた後でのイエスの言葉とが加わり、マルコの「若者」の話が抜けています。マタイ福音書では、この逮捕の場面と、ペトロによるイエスへの否認の場面(マタイ26章69~75節)とが対応していて、これら二つの場面が、最高法院でのイエスの裁判(26章57~68節)の記事を囲んでいます。裁判を頂点に置くこの構成によって、イエスと弟子たちとの違いが、はっきりと浮かび上がってきます。
ルカが独自の資料(ルカ22章48節と同51節後半)を持っていたのと同じように、マタイも独自の資料によるところがあります(マタイ26章52~53節)(John Nolland.
The Gospel of Matthew. NIGTC. The Paternoster Press: 2005. 1107.)(W.D.Davies & D.C.Allison. Matthew 19--28.
ICC. T & T Clark:1997. 505)。また、マタイ26章52節は、ヨハネ18章11節とも共通することから、この両者に共通する(マルコの資料とは別個の)イエスの言葉伝承があったと考えられます(Davies & Allison.
Matthew 19--28. 506)。
[47]47節も、ほぼマルコの記述に準じています。
【ユダが】原文は「見よ、十一人の一人であるユダが来た」です。マルコ好みの「すぐに」が抜けているのは、「イエスがまだ話しておられる間にも」があるからでしょう。「見よ」は、新しく話し始めるためで、これは、51節の「すると、<見よ、>イエスと共に居た一人が」と対応していて、マタイは、逮捕の物語全体を二つに分けています。「(ユダが)来た」は、マルコと異なって動詞の過去形(アオリスト)です。マタイは、出来事をマルコよりもやや客観的に見て、イエスの動じない姿を言い表しています。
【大勢の群衆】マタイは「群衆」の大きさや数に注目しますから、ここで「大勢の」を加えています。原語(「ホクロス」単数)は、軽武装の「部隊」を指すこともありますが、マタイの言う「多くのホクロス」は、警備隊の動きに「扇動された」人々も共にいたからです。祭りの最中ですから、野次馬が加わったのでしょう。マルコの「律法学者たち」が抜けて「祭司長たちや民の長老たちからの群衆」とあるのはマタイ26章3節からです。「劔や棍棒を所持する大勢の群衆」という言い方で、マタイは、同53節の「(イエスの祈りによる)十二軍団の天使たち」と、この「群衆」とを対比させているという見方があります(Nolland.
The Gospel of Matthew. 1108.)。
[48]マタイは、マルコの「前もって示し合わせておいたしるし」という希な用語を「合図」に変えて、マルコの「(イエスを)しっかり捕らえて逃がさない」を「捕らえる」と簡略にしています。マタイは、細部の動作にはこだわらないのです(Nolland.The Gospel of Matthew. 1109)。
[49]マルコの「すぐにやって来て、彼(イエス)に近づいて」をマタイは「直ちに彼に近寄り」とし、マルコの「言う」を「言った」にしています。
【こんばんは】原語の「カイレ」は、「喜ぶ」の命令形で、挨拶用語です。「おはよう/こんにちは/こんばんは」のほかに、「やあ(元気か)」「おめでとう」「では、さよなら」などの意味も(織田昭『新約聖書小辞典』630頁)。
[50]【友よ】原語の「ヘタイロス」は、「気持/心意気を同じくする仲間」のことで、ここでは、その友への呼びかけです。だから、イエスは、ユダをなおも「仲間」として愛しているという解釈もあります(17世紀のフランスの哲学・物理学者パスカル)。
これに続くイエスの言葉は意味が分かり難く、字義通りには、「あなたがこの場に居合わせているそのことに立て」とでも訳せるでしょうか。「お前がその目的で来ているその任務(を遂行せよ/とは何か?)」(織田昭『新約聖書小辞典』443頁)。本文の読みに方にも乱れがありますから、本文自体を読み変えて、「なんのためにあなたは?」と疑問文に読んだり、逮捕される直前のイエスの言葉が、感情に動かされて、とぎれたままになっているという説もあります。次に、幾つかの訳例をあげます。現在では、2番目の意味にとるのが一般的です。“Do what you are here to do."(NRSV)(REB)
「それが(キスのこと? 裏切りのこと?)、あなたがここに居る理由なのか?」
「あなたがそのために居ることをしなさい。」
「あなたが、何のためにここにいるのか私は知っている。」
(Davies & Allison.
Matthew 19--28. 509--510.)
ちなみに、日本の訳では、聖書協会共同訳のほかに、次のような例があります。
「友よ、そのために来たのではあるまいが!」(塚本訳)
「友よ、あなたがなそうとしていることをするがよい。」(岩波訳)
「友よ、しようとしていることに取りかかりなさい。」(フランシスコ会聖書研究所訳)
[51]マルコに準じる記述ですが、51節でマタイは、マルコの記述に「見よ」を加えて47節に合わせています。「居合わせた人の一人」とあるマルコの曖昧な言い方に換えて、「イエスと共に居る一人」とすることで、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの中の一人であることを示唆しています。この三人の一人については、ヨハネ18章11節を参照してください。
[52]52節後半~54節のイエスの言葉は、マタイ福音書だけですが、「私の父」とあり、聖書の成就が語られることから、内容的にヨハネ12章27節と通じています(Nolland.The Gospel of Matthew. 1114.)。なお、「私の父」や「天使の顕現」などは、マタイの特徴を表わしますから、この箇所が、マタイの編集、あるいは創出かが問われています(Davies & Allison.
Matthew 19--28. 513.)。
イエスは、十二弟子による武力の介入を拒み、さらに、ここでは、天使の介入をも拒んでいます。同時に、イエスのここの言葉は、剣に頼ろうとする弟子たちへの厳しい叱責をも含んでいます(カルヴァン)。イエスが、聖書を引き合いに出すのは、神の意志を尊重するからで、「仕えられるためでなく、仕えるために」来た者は、その超自然の力を他者のために用いるのです。それは、「敵をも愛する完全性」(マタイ4章44節~48節)を具えていますから、サタンの力に打ち勝つ道です(マタイ12章26節~28節)。
52節で、イエスは、この場を取り仕切っていることを明確にしています。「剣」についてのイエスの言葉は、古代の教父(例えばテルトリアヌス)の時代から、「絶対平和主義」(pacifism)の基本となる教えとされています。なお、世界を滅ぼす洪水の後で、神がノアに与えた契約の言葉(創世記9章6節)をも参照してください。
【手を伸ばして】「手を伸ばして」は、アブラハムがイサクを捧げるときの仕草です(創世記22章10節)。マタイは、この七十人訳の言い方を借りたのでしょう(Nolland.The Gospel of Matthew.
1111--1112.)。
【剣を鞘に納める】旧約聖書の歴代誌上21章で、ダビデ王は、エブス人オルナンの土地を贖(あがな)って、そこに祭壇を築き、「(罪の赦しのために)焼き尽くす生け贄」を捧げて主に呼びかけます。すると、主はこれに応えて「祭壇に天から火が下った」とあり、その折りに、神は、み使いに命じて「(争いを避けるために)剣をもとの鞘に納める」よう取り計らっています(歴代誌上21章27節)。マタイは、ここで、この事例を念頭においていると想われますが、イエスが、これを念頭に、「剣」の言葉を語ったかどうかは、分かりません。「剣」についてのここのイエスの言葉は、マタイ福音書とヨハネ福音書とルカ福音書に共通した口頭伝承から出ているのでしょう(Davies & Allison.
Matthew 19--28. 512.)。
[53]【十二軍団以上の天使】「十二軍団以上の」とあるのは、イエスの十二弟子と対応するのでしょう。これに類する天使の軍団は、エリシャの祈りによる事例があります(列王記下6章17節)。イエスの頃の1軍団は5600人で構成されていましたから、十二軍団は7万近くなります〔ウルリヒ・ルツ『マタイによる福音書』小河陽訳。EKK新約聖書註解。教文館:2009年。210~211頁〕。「天使の力」については、最初にマタイ4章6節にでてきます。しかし、そこでもイエスは、サタンの誘惑に対抗して、神の御心に己を委ねるのです。天使の力がサタンの力に勝ることはマタイ4章11節を、「人の子」が天使たちを遣わすことはマタイ13章41節を、人の子イエスが終末に天使たちと共に顕現するのはマタイ16章27節とマタイ25章31節とを参照してください。
[54]【必ずこうなる】「こうなる(起こる)」とあるのは「どのようになる」のか? それは、ひとえに、弟子たちが「今現在見ている」現実の出来事を読み取ることにかかっています。なお、「必ず起こる」という言い方は、マタイ16章21節の受難予告に始まりますが、同時に、マタイ24章6節では、終末的な意義が含まれてきます。
[55]この節は、ほぼマルコ14章48~49節と同じですが、マタイは、イエスが、「弟子たち」から「群衆」に向きを変えて語っていることを重視しています。
節の冒頭の「その時に」は、マタイ18章1節以来です。「群衆に向いて」は、26章47節の「武器を持った群衆(部隊)」を指します。続く「劔と棒を持って・・・・・」は、疑問文と平叙文のどちらにも読めますが、どちらでも、皮肉をこめた意味は変わりません。
イエスが「毎日」神殿で語ったという記述は、マルコ福音書にもマタイ福音書にも見当たりませんが、その主旨は、「神殿で充分に語った」ことを指します。「毎日」を「昼間に」の意味に理解して、「強盗ども」の密かな「夜間の逮捕」に向けられた皮肉だという説もあります。
マルコの「あなた方と一緒にいて教えた」をマタイは「座って教えた」に言い換えています。イエスが「腰を下ろして(座って)教えた」とあるのは、5章1節の「山上の教え」の始めを想わせます。終わりの「それなのに、(あなたたちは)わたしを逮捕しなかった」は、彼らが「密かに」逮捕できなかったことを指すのでしょう(Davies & Allison. Matthew 19--28. 515.)。
[56]【すべてこうなった】「このすべての出来事」が、預言者たちの言葉が成就するためだとあるのは、マタイ1章22節でも同様です。そこは、マタイ自身の言葉になっていますが、この56節では、預言者の言葉の成就が、イエスの言葉の続きなのか? マタイの言葉なのか? これがはっきりしないところがあります。現在は、これもイエスの言葉に含めて読んでいますから、56節の前半はイエスの言葉の続きで、後半はマタイの言葉になります。マタイが、マルコにはないこの言い方を加えたのは、イエスの言葉に、マタイ自身の想いをも重ねているからです。マタイは、「このすべての出来事」で、受難物語の出来事全体を考えているのでしょう(Davies & Allison.
Matthew 19--28. 516.)。
【この時】マタイは、この独特の言い方を加えて、直接行動を共にしてきた3人だけでなく、イエスの教えを信じてきた弟子たちの全員が逃げ去ったことを示唆しています。「すべてを捨ててイエスに従った」はずの弟子たちが(マタイ19章27節)、「この時」、イエスを見捨てて逃げ去ったのです。「この時」、イエスに頼ろうとする人々の意欲が失われただけでなく、イエスの教え全体が放棄されました。しかし、この事態が最終ではなく、イエスの復活の出来事によって、弟子たちは、最悪の事態から、再び立ち直ることができました(Davies & Allison. Matthew 19--28. 516--517.)。
■ルカ22章
ルカは、マルコに全面的に準拠しながら、かなりの編集を加えています(I.Howard Marshall.
The Gospel of Luke. Eerdmans: 1978. 834.)。接吻の意味がイエスの口から語られるのもルカだけです。マルコでは、イエスの逮捕の際に、弟子たちが相手に斬りかかりますが、ルカでは、その順序が逆で、イエスの逮捕の前の段階で、イエスの周りの一人が斬りかかります。ルカ版では、イエスの逮捕は54節にきます。イエスが、切られた耳を癒やしたことも、「闇の支配」を告げるイエスの結びの言葉もルカだけです。ルカは、弟子たち全員が逃げ去ったことを述べていません。十二使徒への配慮からでしょうか。ルカ版のイエスが、マルコ14章49節の旧約聖書への言及を避けているのはなぜでしょう。イエスが、すでにルカ22章37節でそのことを示唆しているからでしょうか。それとも、ルカは、旧約聖書の預言よりも、イエスの語りと行動(53節)のほうを重視しているからでしょうか(F. Bovon. Luke 3. Hermeneia. Fortress Press: 2012. 214)。
なお、マタイとルカは、逮捕の場面で、マルコの記述には見られず、しかも、それぞれに異なる形のイエスの言葉と行為を記しています(マタイ26章52節/ルカ22章51節後半)。このことは、ルカが、マタイの福音書を知らなかったことを証しするものです(ルツ『マタイによる福音書』198頁)。また、ルカとヨハネとの共通点については、もしもヨハネがルカ福音書を見ていなかったとすれば、ルカは、共観福音書に共通の伝承とは別に、ルカ=ヨハネだけに共通する(口頭の?)伝承を知っていたことになります(Bovon. Luke 3. 214.)。
[47]【群衆が現れ】ルカ版では、「見よ、群衆が」で、マタイと同じに、ここから話が始まります。いきなり「群衆(一隊)」が出てきますが、マルコ=マタイの版のように、祭司長たちや民の長老たちの「物物しい姿」はまだ見えません。ルカでは、逮捕間際になって初めて、祭司長・神殿守衛長・長老たちの一隊が、イエスから「まるで強盗を捕らえに来ているようだ」と一喝されます。
【ユダという者】ルカの言い方は独特です。「いわゆるユダが」「ユダという名の者が」という意味ですが、「ユダとかいう奴(やつ)」がルカの真意でしょぅ(Marshall.
The Gospel of Luke. 835.)(Bovon. Luke 3. 215.)。ルカ版のユダは、一隊を「率(ひき)いる」のではなく、ただ「群れの先頭にいて、イエスに近づく」のです。ルカは、ユダの接吻が、一隊との合図であることを省いています。
[48]【接吻で】マルコ版のイエスはここで何も言わず、マタイ版では、やや謎めいた言葉を発します。ルカは、イエスの言葉で、ユダの「裏切りの接吻」を明瞭に証ししています。
【人の子を】これもルカだけです。マルコ14章41節のイエスの言葉を取り入れたと見る説がありますが、ルカ独自の資料からで、本来は「わたしを(裏切る)」とあるのが、伝承の過程で「人の子を」に入れ替わったという説もあります(Marshall.
The Gospel of Luke. 836.)。ルカは、「人の子の受難」を示そうとするのです。
[49]この節はルカだけです。マルコは「周囲に居合わせた人たち」という言い方で、人物の特定を避けていますが、ルカも「イエスの周囲に居た者たちが、まさに生じようとすること(出来事)を見とって」と人物の特定を避けています。ルカ版では、剣による介入のこの申し出が、イエス逮捕の前後の様子をはっきりさせています。このほうが史実に近いのでしょうか(Marshall.
The Gospel of Luke. 836.)。
弟子たちがイエスに訊(たず)ねる「(斬りつけ)ましょうか」は、「~どうでしょうか?」という言い方で、これは「七十人訳」ギリシア語旧約聖書で、神や身分の高い人に尋ねたり、神が語りかけるときに使われる言い方です(七十人訳創世記17章17節/同44章9節/アモス3章3節)(Bovon. Luke 3. 216.)。ルカは、七十人訳をしばしば用います。
[50]【そのうちのある者】「彼らのひとり」とは、「使徒たちの中の(私もその名を知る)誰かさん」(Marshall.
The Gospel of Luke. 837.)の意味でしょう。
【大祭司の僕】「大祭司の僕」とは、大祭司自身へ向けられた刃(やいば)を意味します。ヨハネ18章10節には、僕の名前は「マルコス」だとあります(Joseph A. Fitzmyer
The Gospel According to Luke. Vol.2. The Anchor Bible. Doubleday: 1983. 1451.)。
【右耳を】古来「右」は、「左」に対して、より重要だという言い伝えがありますから、「右耳を切り落とす」行為は、その相手への大きな侮辱を象徴するという見方があります(Bovon.
Luke 3. 217.Undernote 40.)。なお、相手の「右」なら、切るほうは左利きでしょうか。ルカは、マルコの記述にある「片手」を「右手」に換えていますから(マルコ3章1節とルカ6章6節を比較)、ルカは、この50節でも、「右」のこの象徴的な意味を意識しているのでしょう。ただし、「右耳を切り落とす」は、ルカとヨハネ(ヨハネ18章10節)に共通しますから、これは、ルカによる編集ではなく、ルカ=ヨハネ共通の(口頭の?)伝承からです。
[51]ここでのイエスの言葉は、字義通りには「この事(時点)まで、(物事が)生じるままに」です。「この事」を、「切りつけた事」だと解するなら、「(敵への)手向かいはそこまでにしなさい」の意味になります(Fitzmyer
The Gospel According to Luke. Vol.2. 1451.)。「この事」が「弟子たちから見た緊急事態」なら、「戦闘の事態はそこまでにしなさい」の意味です(Bovon.
Luke 3. 217.)。「止めなさい。(相手の部隊の)するままにさせなさい」(Marshall. The Gospel of Luke. 837.)。イエスは、剣をとる弟子たちから身を引き離し、弟子の戦闘態勢を否定し、その弟子の行為を「癒やし」によって償うのです。「耳の癒やし」はルカの記述だけで、「剣」(武力)に頼ろうとしないことを明瞭に示すためです。この「癒やし」は、後の伝説だという見方もありますが、ここでの「癒やし」の行為が示す意義から見れば、(史実を踏まえた)口頭伝承から出ているのでしょう(Bovon.
Luke 3. 217.)。事実無根の伝説だと決めつけることはできません(Fitzmyer The Gospel According to Luke. Vol.2. 1451.)。
[52]~[53]ルカは、逮捕の部隊の構成で、マルコの「律法学者たち」に代えて、神殿を警護する「神殿の管理者たち」をあげています。「神殿の管理者たち」は、ユダが裏切りを相談した相手だからでしょう(ルカ22章4節)。なお、ルカが、マルコの記述から「私を捕らえに(来た)」を省いたのは、イエスが逮捕を自らの選択として許容するからです(Fitzmyer
The Gospel According to Luke. Vol.2. 1451.)。
【まるで強盗に】「強盗」には、ルカの時代において、ローマ帝国に対して「テロ行為」を行う者を念頭に「煽動者」あるいは「革命家」の意味を読み取ろうとする説もあります(ルカ23章18~19節を参照)(Bovon. Luke 3. 219.)。
【手を下す】ルカは、マルコの「逮捕する」を七十人訳に見られる「手を下す」に代えています(エレミヤ6章12節)。
【闇の力】マルコの版では、「聖書の実現」(14章49節)が強調されますが、ルカ版では、「あなたたち(悪魔)の時」と「闇が権能を発揮する」時だとあります。ルカ版のイエスの言葉の結びは、ヨハネ福音書とも共通する内容が指摘されています(ヨハネ19章30節/同19章11節)(Fitzmyer
The Gospel According to Luke. Vol.2. 1452.)。「あなたたちの時」「闇の権能」は、イエスの言葉を伝えているのでしょう(Marshall.
The Gospel of Luke. 838.)。
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