196章 イエスが逮捕される
   マルコ14章43節〜52節/マタイ26章47節〜56節/
   ルカ22章47節〜53節
                【聖句】
■マルコ14章
43さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが現れた。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
44イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。
45ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。
46人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
47居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。
48そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。
49わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」
50弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
51一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、
52亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。
■マタイ26章
47イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
48イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。
49ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。
50イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
51そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。
52そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。
53わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。
54しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」
55またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。
56このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
■ルカ22章
47イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。
48イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。
49イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。
50そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。
51そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。
52それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。
53わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」
               【注釈】
               【補遺】マルコによる秘密福音書
                【講話】
 今回のイエス様逮捕の出来事について、ローマ帝国によるユダヤの滅亡(70年頃)以後は、イエス様逮捕の部隊にはローマ兵も加わっていたという解釈も生じました。また、イエス様の「優柔不断」とも見える態度への批判も出ました(ケルソス)。後には、「ユダヤ人は、神の言葉を聞く耳を切り落とされ、一方、キリスト教徒にはお言葉を聞く耳が与えられる」などという「反ユダヤ」むき出しの解釈も現れました。
 しかし、テルトリアヌス(160年頃〜220年頃)は、この逮捕物語から、旧約聖書の神の義がイエス様に顕れて、敵対する他者への思いやりが示されていると解釈し、ペトロによる抜刀をイエス様が咎めていることに注目し、同時に、「神の民」と呼ばれる(キリスト教会の)人たちでさえ、唇だけで神への愛を語るに過ぎない偽善に向けて批判を提示しました(Bovon. Luke 3.220.)。今回の逮捕物語が私たちに突きつける課題は、「剣の使用に対する非暴力」と、「ユダによる裏切りの接吻」の二つです。この二つは、現代の私たちへの難問です。私たちは、今もなお、ここで語られている「イエス様逮捕」の劇を続けているのではないか? こういう懸念と恐れを抱かせるからです。
 剣とこれを控える非暴力については、マタイ26章52節〜54節、とりわけ、「誰でも剣を採る者は剣で滅びる」(52節)というイエス様のお言葉に言い尽くされています。「人の血を流す者は、その血が流される」(創世記9章6節)、「人の肉に蒔く者は肉を刈り取る」(ガラテヤ6章7節)、「大言と冒涜の言葉を吐く獣が、聖なる者たちを襲い、剣で殺されるべき者は剣で殺される」(ヨハネ黙示禄13章10節)とあるように、「剣は剣を呼び」「暴力は暴力を生む」という「因果応報」の原理をそこに見ることができましょう。これに対して、今回の逮捕にあたっては、イエス様が、いかなる敵に対しても、武力の行使を禁じ、非暴力を貫き通す姿勢を崩さなかったとあります。イエス様による耳の癒やしは、イエス様が、いざという時には、その創造的な神の御業を顕示されることを示しています。
 このいわゆる「絶対平和主義」への信仰は、特に、近代の宗教改革以降において、国家権力、あるいは公共の権威が、社会の政治的安定(公共の秩序)を暴力に訴えて乱そうとする者たちに対する場合だけは、権力側による武力の行使が許容される。しかし、国や自治体を構成する個人の場合は、その「キリスト教的良心」に従って、いかなる武力(暴力)の行使も許されないという考え方を成立させます。だから、今回の逮捕劇で言えば、剣を用いたペトロの場合は、非暴力の「個人の良心」に従うべき事例にあたるのでしょう〔ウルリヒ・ルツ・小河陽訳。『マタイによる福音書』第4巻。EKK新約聖書註解:教文館:208頁〜213頁を参照〕。
 いかなる場合も、国権の発揚として武力の行使を放棄することを謡(うた)っている現在の日本国憲法は、まさに「イエス様憲法」と呼ぶのにふさわしいと言えますが、それでも、「警察国家」として、国内の治安を乱す者には権力による武力の行使を認めています。これも、宗教改革以来の公私の二重構造に準じているからでしょう。こういう二重構造の「平和主義」では、国家や権力がその武力を行使することで、キリスト教徒のような聖なる者たちを弾圧する場合は、聖なる者たちの側に、ひたすら「忍耐と信仰」(ヨハネ黙示禄13章10節)が試されることになります。これでは、神殿と国家の治安維持のために派遣する大祭司の部隊は武力を行使できますが、イエス様とその弟子たちには許されないかのようにも聞こえます。さらに言えば、国家権力同士の武力の行使(戦争)は、誰が、どのような根拠で、それを止めるのでしょうか。
 イエス様は、国家権力を装って向かってくるユダの一隊に対しても、彼らの見当外れな対策とその姿勢を厳しく批判しています。その上で、ご自分は、平然とした姿勢を崩さず、武力(暴力)に頼らない方針を貫いています。イエス様逮捕の出来事で、大事なのは、イエス様が提示する非暴力と無抵抗の有り様には、その根拠として、「神のお言葉である聖書が実現する/成就する」ためという確固とした信念と展望が拓(ひら)けていることです。イエス様の逮捕劇には、イエス様の復活と、これに伴う弟子たちの信仰復興という神のお取りはからいへの展望が存在していました。だから、イエス様は、神の御心に服従して、平然と事に臨みました。しかし、現在、世界で行なわれている権力者たちの武力行使の場合には、これを阻止して平和を貫くだけの展望が、はたして私たちに拓(ひら)けているでしょうか。核廃絶や絶対平和主義こそ、正義であり、そこには、人類の歴史を導く確固とした神のお取りはからいがあることを国や自治体に納得させることができるでしょうか。いざという時になると、イエス様に提示されている展望を察知できなかった弟子たちのように、わたしたちもまた、ただその場から逃げ出すのではないでしょうか。
 もう一つの問題であるユダの接吻について言えば、古来、その「卑劣な偽善」を非難するのが習わしですが、イエス様への愛情と敵意の両面をユダの心理に見る分析が試みられたり、接吻を受けるイエス様の側にも、ユダへの哀惜の念を見いだす解釈があります〔ルツ『マタイによる福音書』第4巻201頁〜204頁の画像を参照〕。しかし、大事なのは、テルトリアヌスが指摘するように、キリスト教徒と言われる人たちの心に潜む「ユダ」のほうでしょう。クリスチャン同士の親しみをこめた交わりを装いながら、その実、クリスチャンたちの交わりを分裂させたり壊したりする「イエス様信仰」を装う「偽(にせ)接吻」が、現在でも見られるからです。
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