【注釈】
■マルコ14章について
マルコは、大祭司が主催する最高法院でのイエスの裁判とペトロによる否認とを重ね合わせるように続けています。最高法院の中で起こっていることが先に来て、外で起こっていることをこれに続けて、イエスへの裁判とペトロによる否認とが同時に起こったことを印象づけています。このためでしょうか、『四福音書対観表』(302〜303頁)では、マルコ14章54節と同55節との間に、小さな活字で、ペトロの否認の場面(マルコ14章66節〜72節)が挿入されています。マルコは、最高法院での裁判とペトロの否認の二つの出来事が「同時である」ことを明示することで、イエスの堂々とした告白の姿勢と、ペテロの卑劣な行為とを対照させるのです(A.Y. Collins. Mark. Fortress Press:2007. 698--699. )。イエスの逮捕と弟子たちの逃避(マルコ14章43節〜52節)の場面、これとペトロによる否認の場面(同66節〜72節)、この両方の間に、裁判の場面が挿入される「サンドイッチ方式」は、「マルコの典型的な語りの手法」(Collins. Mark.699. )だと言えましょう。
ユダヤの指導者たちからのイエスに対する批判は、マルコ2章7節の「罪の赦し」に始まり、マルコ3章6節では、ファリサイ派によるイエス殺害の意図へ発展します。エルサレム当局によるイエスへの断罪は、マルコ3章22節に始まります。さらに、イエスがロバに乗ってメシアの権能を帯びてエルサレムへ入城し(マルコ11章7〜10節)、続くイエスによる神殿での浄めの行為が(同11章15節〜18節)、エルサレム当局によるイエス処刑への意図を決定的にします。
最高法院においてイエスに問われていることは二つあります。一つは、イエスが「神殿を破壊しようとした」こと(マルコ14章57〜58節)。もう一つは、イエスが、自分をメシヤとすることで「神を冒涜している」(同14章63〜64節)という嫌疑です(R.T. France. The Gospel of Mark. NIGTC. Eerdmans: 2002. 600.)。
ところで、マルコの最高法院での裁判の記述には、次のような疑義が提示されています。マルコの記述では、マルコ14章53節〜65節の「最高法院」と、同15章1節での「最高法院」とがあり、あたかも、「二つの最高法院」が開かれたかのような印象を与えます。マタイとルカの記述には、このような「重複」はありません。このために、『四福音書対観表』では、マタイ27章1〜2節=マルコ15章1節=ルカ22章65〜65節の並行箇所が、303頁(やや小さな活字で)と307頁とに(繰り返して)二度でています(307頁ではルカ22章66〜23章1節)。
このためもあって、マルコの裁判の記述は、なんら歴史的信憑性に基づく伝承によるものではないという説が、20世紀に提示さたことがあったようです。そもそも、ユダヤ人がイエスを処刑するために裁判を開くことはありえない。なぜなら、当時のユダヤ人には、死刑の判決を下す権限が与えられていなかったからです。ユダヤ人がイエスを死刑にした根拠は、ほんらい宗教的な理由からであって、そこに、なんら政治的な理由がなかったことをマルコの記述は証明しようとしている。マルコとその先人たちは、ローマの支配下にあってイエスを信じる共同体のためを慮(おもんばか)って、イエスが犯罪者ではなかったことを証ししよと意図している。言い換えると、ローマ側から見れば、イエスは無罪であったことを知らせるためである。ざっと、こういう主旨で、マルコの記述への否定論が提示されました。
最高法院の裁判のあり方については、ユダヤ教のミシュナの規定(200年頃)があります。これによれば、裁判は昼間に行われるべきこと。祭りの宵には行われてはならないこと。大祭司の屋敷が裁判の場所には含まれていないこと。まず被告への弁護がなされるべきこと。裁判の当日に判決を出してはならないことなどです。しかし、イエスへの裁判のマルコによる記述には、これらの規定のどれもあてはまりません。ただし、ミシュナは、エルサレム崩壊(70年)以後の200年頃に定められたものですから、この規定を、イエスの時代に当てはめることはできません(Craig S. Keener. The Historical Jesus of the Gospels. Eerdmans:2009. 314--315.)。
何よりも問題なのは、イエスの頃のユダヤ人による裁判では、死刑を宣告する権限が与えられていなかったことです(France. The Gospel of Mark. 601.)。そもそも、マルコが伝えるイエスの最高法院での裁判は、公式のルールに従うものではなく、むしろ、意図的に非公式な形で行われたと考えることができます。だから、マルコの記事をユダヤ教の最高法院の規定にあてはめて、その史実性を判断することはできません。裁く側は、始めから、自分たちには死刑の権限がないことを承知の上で、イエスを「危険な指導者」として、ローマの権力によって死刑にすることを予め想定していたと思われるからです。大祭司の屋敷での非公式の尋問は、イエスをピラトの正式な裁判に引き渡すための、いわば手順の一つだったのです(France. The Gospel of Mark. 602.)。だから、イエスの裁判は、言わば「非公式な」手順で、真夜中から夜明けまで、かなりの時間をかけて行なわれました。そのメンバーたちは、イエスを危険な人物として、なんらかの(公式をよそおう)判決によって、処刑しようともくろんでいたのです。マルコは、自分の意向に沿った記述の仕方をしていますが、最高法院でのイエスの裁判の時間とその順序についてのマルコの記述には不明瞭なところがあります。とは言え、マルコは、史的に信憑性を有する伝承を保持していたと指摘されています(Keener. The Historical Jesus of the Gospels. 316.)。
■マルコ14章
[53]【大祭司のところ】マルコは、大祭司の名前をあげていません。マタイは、彼がカイアファであると明記しています。ルカは、「アンナスとカイアファが大祭司であった」(ルカ3章2節)と記しています。
アンナスが大祭司の職にあったのは紀元6年〜15年です。彼はシリア州の総督クィリニウスによって、ユダヤの大祭司に任命されます(紀元6年)。その時のユダヤの代官はルフスです。しかし、ネロがローマ皇帝になると、ネロはグラトゥスをユダヤの代官に任命します。このグラトゥスによってアンナスは罷免され(15年)、代わりにイシマエルが大祭司職につきます。しかし、これもつかの間で、今度はアンナスの息子エレアザルがグラトゥスによって大祭司に任ぜられます。しかし、これも1年ほどで、その後アンナスの義理の息子カイアファが大祭司に任ぜられます(18年)。その後グラトゥスがローマへ戻ると、代わりにピラトがユダヤの代官として赴任します〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』18巻2章〕。
カイアファは、アンナスの義理の息子です。ローマの代官グラトゥスは、カイアファを大祭司としました(18年)。カイアファは、20年近くも大祭司の職にありましたが、36年に、シリアの総督ウィテリウスによって退職させられました。ピラトは、カイアファの在任中にユダヤの代官に任ぜられましたが、カイアファと同じ頃にウィテリウスによって更迭されています。大祭司職は、ユダヤの法律では終生職でしたが、実際はローマの意向によって退職あるいは任命されたのです。ユダヤ教の規定では、ほんらい終身であるべきユダヤの大祭司職が、ローマの総督あるいは代官によって左右されるきわめて不安定な状態にあったことが分かります。
アンナスは、グラトゥスによって罷免された後も、大祭司としての権威を失うことなく、依然として「大祭司」の名称で呼ばれていました。したがって、正式の大祭司職と実際の大祭司の権威とが二重になっていて、この混同が新約聖書の「大祭司」に反映しています。アンナスの5人の息子たちは、全員が大祭司職についており、さらに娘婿のカイアファまでがこの職にありましたから、アンナス一族は「大祭司一族」と見なされていました。アンナスは、退職した後も、息子たちを通じて影響を及ぼしていました。マタイ26章57節では「大祭司カイアファ」とあり、ルカ3章2節では、大祭司が「アンナスとカイアファ」とあるのはこのためです。
イエスの神殿制度に対する批判的な行為は、大祭司の一族への直接の脅威であったでしょう。最高法院での尋問と裁判に先立って、大祭司が、重要な犯罪人を呼び出して予備尋問をすることが、しばしば行なわれていました。だから、イエスが夜間に「大祭司並み」の権威を有するアンナスの邸宅に連行されても不自然ではありません〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)〕。マルコは、「大祭司のところ(邸宅)」としていますが、まず予備尋問がアンナスによって行なわれ、この予備尋問の後で、カイアファが開いた最高法院へ、尋問と審議が引き継がれたと見るほうが史実に近いようです。
【祭司長たち】「祭司長たちと長老たちと律法学者たちの全員」とあるのは、イエスの逮捕と裁判が、ユダヤの最高法院全体の意向に沿うことを指しています。「全員」は、その中に立つイエスの孤独をいっそう強めます(France. The Gospel of Mark. 603.)。
[54]この節は、内容的に見て、66節につながるものです。ここでペトロを出したのは、イエスが連行された場所を特定するためで、「(イエスに)ついて行ったペトロの真意」を伝えるためではないでしょう。ここでの「ペトロの真意」に着目したのは、マタイのほうですから、この件はマタイの並行箇所で扱います。
【大祭司の屋敷】イエスは、逮捕されてから、「大祭司」(ヨハネ福音書ではアンナス、共観福音書ではカイアファ)の邸へ連行されます。問題は、この大祭司邸と、これに続いて出てくるピラトの官邸との位置関係です。現在の通説では、ヘロデ大王が建てた(前23年)ヘロデの宮殿がピラトの官邸にあてられていたことになっています。この宮殿は、上流の住宅街(上の町)の西の部分にあって、エルサレムの西側の城壁に沿って南北に延びる長方形の敷地に建てられていました。また、カイアファの邸宅は、そのヘロデの宮殿の南東に位置していたことになっています〔例えばダヴィッド・フルッサー『ユダヤ人イエス』教文館(原書は1998年)301頁の地図〕。現在エルサレムのイスラエル博物館に展示されている紀元66年のエルサレムの模型でも、カイアファの邸宅はヘロデの宮殿の南東に位置しています。しかし、この位置では、ゲツセマネからも、正規の最高法院の会議場までも遠すぎるように思われます〔コイノニア・ホームページ→聖書と講話→イスラエル一巡記→「イエスの頃のエルサレム」の地図を参照〕。
ピラトの官邸が、ヘロデの宮殿にあったというのは、現在の学者たちの想定であって、これを支える伝承は存在しません。これに対して、ピラトの官邸は、以前の「ハスモン家の宮殿」にあったという教会の古い伝承が存在します〔The Anchor Bible Dic.(5). 447--48."PRAETORIUM" by Bargil Pixner 〕。神殿の丘を囲む城壁の西の入り口から、ティロポエオンの谷を渡る橋が「上の町」へ通じていて、ハスモン家の宮殿は、城壁の入り口から橋を渡って100メートルほどの所にあり、そこからは、神殿の内部の庭が見えたとあります〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』2巻8章189節以下〕。ここは、ヘロデの司令部でもあったのですが、その後、ヘロデ大王は、安全のためにエルサレムの西の端に宮殿を移し、そこが「ヘロデの宮殿」になりました。紀元6年にユダヤの領主アルケラオスが追放されて、ユダヤがローマの属州になると、神殿に近いハスモン家の宮殿は、代官ピラトの官邸に転用されました〔The Anchor Bible Dic. (5) 448.〕。だから、イエスの頃は、このハスモン家の宮殿がピラトの官邸であって、「知恵の人イエス」が、ここに立たされて判決を受けたという言い伝えがあり、そこに、ハギア・ソフィア(聖なる知恵)教会が建てられました(450年頃)〔The Anchor Bible Dic. (5) 448.〕〔Dan Bahat: The Illustrated Atlas of Jerusalem. Carta (1989)69.〕。
こいうわけで、現在では、ピラトの官邸は、ハスモン家の宮殿とヘロデの宮殿との、二つの説が可能です〔Bahat: The Illustrated Atlas of Jerusalem. 55.地図を参照〕。また、イエスの頃は、大祭司カイアファの邸宅も、神殿に近いこのハスモン家の宮殿の南にあったという推定があります〔Leen and Kathleen Ritmeyer. Jerusalem in the Year 30 A.D. Carta Jerusalem: 2004. 71.地図参照〕。大祭司の邸宅が、9世紀に、西側のエルサレム城壁に沿った「ヘロデの宮殿」の南東に移されたという記録があるからです〔Anchor(5)448.〕。
こういうわけで、イエスが十字架を背負って歩いた"Via Dolorosa" (嘆きの道)については、その終点はゴルゴタ(現在の聖墳墓教会)に定まっていましたが、その出発点は定まりません。イスラムの時代に、ハスモン家の宮殿も大祭司の邸宅の跡も失われたために、十字軍時代には、イエスの裁判の場所を神殿の北西側に隣接するアントニアの砦(ローマ軍が駐留)だと認定して、そこを「嘆きの道」の出発点としました。これが現在に至っています。
ピラトの官邸が神殿近くの旧ハスモン家の宮殿にあり、大祭司(カイアファ)の邸宅がそのすぐ南にあったとすれば、カイアファの邸宅、すなわち福音書が言う「最高法院の議場」と、ピラトの官邸とが、神殿の南西の地域にまとまります。これだと、イエスが連行された足取りとしては、ゲツセマネから大祭司宅へ、そしてピラトの官邸へいたるルートがごく自然に理解できます。ハスモン家の王宮は、神殿のすぐ西にあたりますから、確かなことは分かりませんが、カイアファとアンナスの邸もその南にあった可能性があります。
以上述べたように、イエスへの尋問とピラトによる裁判の場としては、エルサレムの西側城壁に沿うヘロデの宮殿とその南にある大祭司邸という見方と、神殿に近いハスモン家の宮殿とその南の大祭司邸と、二通りの組み合わせが考えられます。ヘロデの宮殿説のほうが現在では通説ですが、伝承の裏付けがありません。ハスモン家の宮殿説のほうには伝承があり、こちらが聖書の記事とよく合っています。ただし、ヘロデの宮殿がピラトの官邸であり、大祭司の邸宅は、神殿の近いハスモン家の宮殿の南という<第三の組み合わせ>も提示されています〔James Tabor. The Jesus Dynasty. Simon & Schuster (2007). Map2. Jerusalem in the Time of Jesus.〕。イエスの頃の大祭司の邸宅の位置と、過越祭の時期に、ピラトは、エルサレム市内のどこに居留していたのか? この問題は、これ以上確かめることができません。
【大祭司の中庭】大祭司の邸宅には、広い「中庭/広場」があり、屋敷の使用人たちも集まっていたと思われます。イエスがその屋敷へ連行されたことから、寒空(さむぞら)の中庭では、たき火があり、警護のためもあって、イエスを連行した部隊の者たちも居残っていた可能性があり(France. The Gospel of Mark. 604.)、大祭司を援助するため、他家から派遣された人たちもいたでしょうか(John Nolland. The Gospel of Matthew. NIGTC. Eerdmans: 2005. 1124.)。ペトロは、大胆にも(!)、その大勢に紛れて身を隠し、中庭のたき火で体を温めていたのです。
[55]〜[56]マルコの記述では、法院のメンバーたちは、最初からイエスの処刑ありきで、イエスに不利な証拠を求めたが、(処刑するための)証拠(証言)が得られなかった。そのわけは、イエスに不利な偽りの証言が多すぎて、相互に一致しなかったからです。
なお、ここにでてくる「最高法院」については、問題があります。マルコ15章1節にも「最高法院」がでてくるからです。実は、14章53節の前半、「彼らはイエスを大祭司の所(屋敷)へ連行した」に続いて、ほんらいは、15章1節が来ていたのではないかという推定がなされています(Collins. Mark.712.)。14章55節の「最高法院」は、15章1節の「最高法院」と同一だからです。だから、最高法院が15章1節で(再び?)でてくるのは、出来事の順番から見ておかしいと言えます〔Collins. Mark.711. Text criticism(a)〕。おそらく、マルコのほんらいの原資料では、イエスが「大祭司」のところへ連行されたに続いて、「朝早く、大祭司と他の祭司長たちは、会合して」とあったのでしょう(Collins. Mark.712.)。この件は、さらに、ルカ22章66節の最高法院に関する注釈で扱います。
【死刑にするため】この裁判は、最高法院の構成を模(も)してはいるものの、正規の訴えに基づく容疑/嫌疑ではなく、嫌疑それ自体を作り出そうとしていること、また、容疑そのものがあいまいなまま、死刑の判決を前提に行われていることから(マルコ14章1節)、正規の法に基づかない「不当な?」裁判であることが分かります(France. The Gospel of Mark. 604.)。なお、マルコ14章のここ55節にでてくる「最高法院」については、問題があります。この件では、ルカ22章66節の「最高法院」に関する注釈をお読みください。
【偽証する者】イエスに対する容疑を見つけ出す目的で、裁判官のほうから証人に向かって「質問する」方法がとられたのでしょう。死刑の判決は複数の証人によらなけれならないこと(申命記17章6節)、証人は偽証してはならないこと(申命記19章15〜19節)、これがイスラエルの正しい裁判のあり方ですから、マルコは、ここで行われた裁判が、神の前に正しい裁判ではなかったと告げているのです。
[57]〜[59]58節で引用されているイエスの言葉は、マルコでは、その証言が「数人による偽証」だとされていますが(マルコ14章57節)、マタイでは、「二人が証言した」とあり、「偽証」を省いています(マタイ26章60〜61節)。大事なのは、ここにいたって、イエスへの容疑が「神殿破壊」に向けられていることです。ここの「神殿」の原語は、神殿全体を指す「ヒエロン」ではなく、とりわけ「聖所」をも含む意味での「ナオス」です。イエスが神殿の崩壊について実際に語ったことは、マルコも記述しています(マルコ13章1節)。ただし、イエスはそこで、「私が神殿を建てる」と言ったのではなく、「神のお計らいによってそうなる」(いわゆる「神による受動態」)と告げていますから、マルコが言う「偽証」とは、この点を指すのでしょう(Collins. Mark. 701. )。
マタイの記述が示唆するように(マタイ26章60〜61節)、この「神殿破壊」の容疑は、史的に見て、イエスの裁判において、極めて重要な意義を帯びています。イエスが、ユダヤの指導層からだけでなく、一般の庶民からも「死刑に値する」犯罪者と見なされたのは、この証言によるところが大きいからです。だから、ここの「神殿破壊と三日目の再建」は、人々の口から、十字架上のイエスに向けられることになります(マルコ15章29節/マタイ27章38〜39節)(France. The Gospel of Mark. 605.)。なお、神殿破壊の容疑と死刑判決との関連については、旧約聖書に次のような事例があります。
南王国ユダの預言者エレミヤは、もしも王や民が主の律法に従わないなら、主の神殿は、かつての聖地シロのように廃墟になると告げます。このため、エレミヤは、祭司たちや民の代表に逮捕され、祭司たちは、エレミヤへの死刑の判決を求めます。しかし、高官たちと民は、「主の名によって語った」エレミヤを死刑にしてはならないと主張しました(エレミヤ書26章4節〜16節)。イエスの裁判に臨んだ大祭司たちにも、この事例が念頭にあったと考えられます。だから、神殿破壊の容疑は、「メシア」と称されるイエスが、真正な預言者かどうか、言い換えれば、イエスは「主の名によって語る者」かどうかという問いにつながることになります。マルコ14章61節の大祭司の発言は、まさにこの点を付いています。
【神殿崩壊と終末信仰】イエスの頃のエッセネ派のクムラン宗団は、この世の終末には、天のエルサレムから地上のエルサレムへ、新たな栄光の神殿が降下するという黙示的な信仰を抱いていました(Collins. Mark. 703. )。マルコ13章1節でのイエスによる「神殿崩壊」への預言も、イエスの頃のこのような終末信仰が背景にあります。マルコ13章1〜2節の預言では、イエスは、神の御手による「新しい神殿」の建設には触れていませんが、「人手によらない別の(新しい)神殿を建てる」とある証言からも察せられるように、イエスも「新たな神殿」について預言したと思われます(Collins. Mark. 701. )。終末のイスラエルには、メシアが出現して、人手によらない神の御手による新たな神殿が建てられるという当時の黙示的な信仰は、大祭司たちの念頭にもあったと思われますが、「イエスのメシア性」を認めようとしない彼らには、「イエスの証言」とされる58節も、神への冒涜罪だと見なされたのです(Collins. Mark. 702. )。「人の手で作った神殿を壊して、三日で、人手によらない神殿を別に建てる」には、イエスによる「三日目のよみがえり」の預言(マルコ8章31節)と「神殿崩壊」の預言とが組み合わされています。「人の手で作った」は「偶像」を指す用語であり、「三日目」はイエスの復活と関連しますから、この証言には、後のキリスト教会の伝承も反映していると思われます(第二コリント5章1〜2節を参照)。
【神殿崩壊とマルコ】ここで、どうしても注目したいことがあります。マルコがこの福音書を著(あらわ)したのは、65年〜70年だとされています(場所はおそらくローマ)。すなわち、ユダヤ戦争で、ユダヤがローマの軍団に敗(やぶ)れて、エルサレムとその神殿が、字義通りに崩壊する危険が現実になる頃のことです。だから、マルコもまた、終末における神殿の崩壊と、これに伴い、新たな神殿を立て直すであろう「人の子」の到来への黙示信仰を抱いていたと考えられます(Collins. Mark. 11. )。このため、かつて(20世紀)、マルコ福音書をエルサレム陥落の出来事と結びつけて、ペトロ以後のユダヤとローマとの状況から、この福音書の内容を解釈しようとする試みがなされ、史実としてのマルコ福音書の内容に疑義が持たれたのです。マルコの記述が、そのような「偏向」によるものではないことが分かり、この福音書が史的信憑性を取り戻すのは、21世紀になってからです(France. The Gospel of Mark. 39.)。このように、マルコ以後のマタイとルカとヨハネを始め、70年以降の福音書の読者・聴衆は、神殿の崩壊と再建を告げる今回の預言を聞いて、特別の感慨を覚えたに違いありません。
[60]〜[61]大祭司は、会議場の上座の中央に立って、被告への尋問が、最終の段階に来たことを示すために、自分への不利な発言に対するイエスの沈黙を咎め、その上で、イエスから、なんらかの反応を引きだそうします(60節)。だが、イエスはただ沈黙を守るだけです。イエスのこの「沈黙」は、法廷の不当な手順への軽蔑を示すという説もありますが、むしろ、孤独な囚人の姿をしたイエスの「沈黙」は、イザヤ書の「受難の僕」について語られた言葉、「ほふり場に引かれる小羊の沈黙」(イザヤ53章7節)を想起させます。「苦しめられ、抑圧されることもまた神のお計らいのもとで生じる」(イザヤ53章4〜5節と10節)ことを悟り、己が置かれた状況を拒否ではなく、沈黙で受け入れるのです(Nolland. The Gospel of Matthew.1129.)。
そこで大祭司は、被告に向かって、おそらく前もって用意していたであろう「最終尋問」を発します(61節)。大祭司の尋問は、イエスへの告発の核心を突くために、二重になっています。
【あなたは、メシア、ほむべき方の子か】「メシア」(ヘブライ語)のギリシア語は、冠詞つきの「クリストス」です。“Are you the Messiah/Christ, the Son of the Blessed One?"[NRSV][REB]。 ギリシア語で、二人称単数形の動詞と共に、「あなたは」と、わざわざ主語を出すのは、主語の重要性を強調するためです。囚人に対しては、いささかおおげさな質問の仕方だと見て、そこに大祭司の困惑ぶりを読み取る向きもありますが、むしろ、大祭司の念頭には、エルサレムを訪れて以来のイエスの言動と、これに伴うイエスの「権威と権能」があったのでしょう。だから、大祭司は、イエスの「自己認定」の根拠を聞き出そうとしたのです。大祭司は、ユダの口から、イエスが弟子たちに「密かに語った」とされるイエスの自己認定を知っていたのでしょうか(France. The Gospel of Mark. 609.)。
「ほむべき/祝されるべき方」とは、神の名を口にすることをためらうユダヤ教で、間接的に神を指す用語です(Collins. Mark. 704.)。ユダヤ教で、「神(主)の子」を意味する言い方が出てくるのは、サムエル記下7章14節の預言者ナタンの言葉と詩編2篇7節です。マルコ福音書では、イエスのことを「神の子」、あるいはこれに類する言い方で呼んでいるのは、マルコ1章11節/3章11節/5章7節/9章7節で、いずれも限られた弟子たちの間でのことであり、ほかに悪霊憑きから発せられた言葉があります。また、イエスが「メシア(キリスト)」であると言われるのは、マルコ福音書では8章29節だけで、その際、イエスは、人々には「メシア/キリスト」とは言わないよう弟子たちに厳しく戒めています。
ここで大祭司は、それまで「なんとなく」伝えられていたことを裁判の場で公式にイエスの口から聞き出そうとして、「メシア」と「神(主)の子」の二つの称号を持ち出します。大祭司は、「メシア」を「神(主)の子」と同一視しているようにも思えますが、むしろ、1世紀のユダヤ教の「メシア」は、「ダビデ王の後継者として、ユダヤを他国に勝る主の御国にする者」だと理解されていましたから、大祭司は、ここで「メシア」をさらに限定して、「あのダビデ王のような主の子」のことなのか?と尋問しているのでしょう(France. The Gospel of Mark. 610.Note 32.)。大祭司は、「メシア」と「神の子」とを組み合わせて、当時のユダヤ教の理解に基づいて、イエスの霊的な権能が帯びる二面性を言い表わそうとしたのです。ただし、これは、後のキリスト教会が用いる「キリスト」と「神の子」という意味ではなく、キリスト教特有の神学的な内容を含むものではないことに注意してください。大祭司のこの質問の背後には、とりわけ、イエスがエルサレムで語った「ぶどう園のたとえ」が(マルコ12章1節〜12節)、すなわち、ぶどう園の主人の独り息子が殺される物語があると指摘されています(France. The Gospel of Mark. 609.)。
[62]62節は、大祭司の尋問に向けて、イエスが裁判の場で発する正式な応答です。
【そうだ】原語は「エゴー・エイミ」(英語の"I am.")で、「私は(あなたが言うとおりの)者」だと単純明快な答えです。マルコが記述するこの明快さは、マタイとルカのイエスのやや遠回しな返答、「あなたがそう言うのなら」「たとえ私がそう言っても」とは対照的です。
【人の子を見るだろう】イエスは、「私がそうだ」というのは、自分が「あなた(大祭司)の考えも及ばない者」であること、イエスに起こる出来事が、主のお計らいに依存することを証(あか)しします。この62節の「人の子」には、ダニエル書7章13節(前2世紀)以来のユダヤ教の「人の子」像が背景にあります。旧約聖書の「人の子」は、ほんらい人間一般を指しますが、エゼキエル書(エゼキエル2章1節以下)で、おそらく初めて、「わたし」(エゼキエル)に向かって、神が「人の子よ」と呼びかけます。これは、エゼキエル個人を指しますが、そこには、イスラエルの民の代表としての「わたし/あなた」の意味も込められています。ダニエル書の「人の子」も同じで、個人と共同体とが重なる存在です(ダニエル8章15〜17節)。
ダニエル書は、ギリシア系のアンティオコス四世によるユダヤ教迫害(前2世紀中頃)の時期に、これに対抗したユダヤ民族の歴史を踏まえて書かれました。ダニエル7章13節の「人の子」は、人間存在ではないのに、「人のように見える」という不思議な人物像です。それは、次の三つの特徴を帯びています。
(1)王やメシアとして高められた個人像。
(2)ユダヤ人全体の象徴。
(3)大天使ミカエルのような天的な存在。
この「人の子」は、ミカエルあるいはガブリエルの大天使にも相当する権威と、同時に王権を具える人物でもあり、ダビデ王朝に約束された終末的な権能を帯びるメシアへの預言だとされています(ダニエル7章14節)。なお、主(ヤハウェ)は、ユダヤの王をその即位に際して「わが子」と呼ぶので、ダビデの王権には、「父と子」のイメージが重なります(詩編2篇7節)(Matthias Albani.“The‘One Like a Son of Man’(Dan7:13) and the Royal Ideology.”)。
ただし、ユダヤの黙示文学では、「王」よりも、むしろ「義なるユダヤ人たち」のほうが、「星々」となり「天使たち」になります。これら「天の星々」は、アンティオコス四世を指す「小さな角」(ダニエル8章9〜10節)と闘うことになりますが、その結果、「多くのものを義へと導く賢者」たちは、「天の星々」として「復活する」のです(ダニエル12章3節/第一エノク104章2〜6節)。この「地上の義人たち」(ダニエル7章10節)は、永遠の相のもとでは、すでに天の聖者たちであり、彼らは「天に記された者たち」ですから(ダニエル12章1節)、この「神の義人」が、人の世と神の天界とを結ぶ存在になります。
【力ある方の右に座る】詩編80篇18〜20節では、「人の子」は、「あなたの右に居る人」と呼ばれていて、この詩編は、「人の子」を苦しめる者どもから彼を救い出し、イスラエルを回復するよう祈り求めています。この詩編に出てくる「神の右に立つ(人の子)」は、神によって立てられた「イスラエルの王」をも指しています(詩編110篇1節と5節/同18篇36節を参照)。「神の右に座る人の子」の即位と、「人の子」による神の敵の征服とその滅亡は、ダニエル書7章9〜14節の「人の子」像に通じます。14章62節のマルコの「人の子」像は、詩編のこういう「神の右に座る(者)」を踏まえています。
【天の雲に乗って来る】ダニエル書7章13節の「人の子」は、「天の雲に乗って」来ます。アンティオコス四世の不義と圧政に苦しむ義なるイスラエルの民は、暴君との戦いの死後には、天使によって「天の星々」へと高められます(ダニエル12章3節)。彼らを代表する者こそ、大天使ミカエルであり(ダニエル12章1節/10章13節)、「人の子<のような>者」です。この大天使の援助によって、「いと高い神の聖なる民」(ダニエル7章27節)が苦難から救われ、民は、「いと高き者の聖者らに授けられる王権」(7章18節)に与(あずか)ります。「人の子」は、終末に、「雲に乗って来臨する」天からの支配者であり、地上において「神の子たち」を自称するアンティオコス四世の王権に対抗するものであり、「雲の頂(いただき)に登って、いと高き者の<ように>なろう」とする高ぶりの王たち(イザヤ14章13〜14節)を滅ぼす者です。この天的な存在こそ、「イスラエルの民を救う神の角」(詩編89篇18節)であり、「人の子」は、その権能を神から授与されます。
マルコ14章62節で、イエスが、間接的に「自分」を言い表す用語として「人の子」を用いているのは、そこに、ダニエル書7章13節の「人の子」像が反映していると見て間違いありません〔Adela Yarbro Collins. "The Influence of Daniel on the New Testament." In John J. Collins. Daniel. Hermeneia. Fortress Press(1993)pp. 90--96.〕。
ただし、大祭司の前に立つイエスが、今の自分を「人の子」と完全に同一視したのか、その自分と「人の子」とを何らかの意味で区別しているのか、そのどちらかに限定するのは難しいようです。むしろ、その両義性そのものに、イエスの霊性の特徴が潜んでいると見るべきでしょう。この視野から見るなら、イエスは、自分と人の子とを同一視し、しかも同時に、人の子が将来何らかの姿で「来る」ことを予想していたことになります。
カトリック教会の法王ベネディクト16世(Joseph Ratzinger)は、次のように述べています。「大祭司を始め最高議会は、イエスの答えを正しく理解した(それゆえにイエスを断罪した)。イエスは大祭司に、『あなたたちはわたしの言うことを誤解している。来るべき人の子とは別の者のことだ』などとは言っていない。イエスのケノシス的生涯(フィリピ2章5〜11節にある復活したイエスの生涯のこと〔私市〕)と、その彼が(終末に)栄光のうちに来ることとは、内面的に一つであって、イエスの言動は一貫している。そこにこそ、イエスの言う『人の子』の新しさがあって、後の教会による創出などではなく、逆に、これらの言葉こそ、イエスの姿と言葉の真相を顕わす縮図である。ルカ17章24〜25節も、まごうことなく二人の人物を同一視している」〔ヨゼフ・ラツィンガー『ナザレのイエス』里野泰昭訳。春秋社(2008年)414頁〕。
この「人の子」像とともに、人の子の「降下」あるいは「再臨」の問題もまた謎に包まれています。イエス自身は、「人の子」が、イエスの霊性の正しさを立証するために、差し迫った将来に顕現すると見ていたでしょう。しかし、その顕現は、必ずしもこの世の終わりの終末に起こる「(イエス・キリストの)再臨」と結びつくものではなく、イエス自身は、彼の「人の子」が、「神の右に座る」こと、すなわち、至高の権威を帯びるために高挙されると考えていたと思われます。だから、人の子の顕現を直ちに終末の時の「再臨」だと解釈できません(France. The Gospel of Mark. 613.)(この点ではいろいろ議論があります)。
ここで、歴史のイエス自身が実際に観ていた「人の子」像をあえて明確にするなら、次の3点に絞られましょう。
(1)「人の子」は、イエス個人を指すと同時に、主の律法の下にあって、イエスが属するユダヤ共同体全体を、さらには人間一般をも指すという「個人と共同体」の二重性を帯びています。
(2)「人の子」は、歴史的な人間イエスを意味すると同時に、神の権能を帯びた神的な存在にもなります。「人の子」は、人間性と神性との二重性を帯びています。
(3)歴史のイエスは、「人の子」である自分が、受難の後で三日目に復活する出来事と、世界の歴史が終末を迎える時に「人の子」として再臨する時とを、言わば、二重写しに見ています。
【復活と昇天のヴィンディケイション】マルコ14章62節のイエスの言葉を知るために、ここでどうしても理解しておきたいことがあります。人々に捕らわれ、不義の者として裁かれ、罪人として処刑された者が、神の御業によって復活することで、彼が「正義の者/義人」であると証(あか)しされ、この出来事によって、己を裁いた者たちを逆に裁くこと、これを「ヴィンディケイション」"vindication"(義人である証し)と言います。この「ヴィンディケイション」(義人である証し)が、「人の子」の復活によって起こるのを大祭司たちが「観る」ことになります(France. The Gospel of Mark. 613.)。
だから、イエスが言う「人の子が来るのを観る」とは、マルコ9章1節で証しされているとおり、復活したイエスが、「人の子」として、昇天して「神の右に座る」ことであり、天において至高の権能を授(さず)かって、その権能を帯びて地上に降(くだ)り、その力(デュナミス)を発揮することを示唆します。これが、マルコ14章62節でのイエスの「天の雲に乗って来る」ことの意味です。
復活顕現によるヴィンディケイション(義人である証し)こそ、イエスが度々予告したとおり、この世に遣わされた己(おのれ)の使命の達成にほかならない。こう、イエスは明言します。これを「観る」のが大祭司たちです。この「人の子」の力(デュナミス)こそ、イエス復活以後に、「メシア」(キリスト)の教会が広がり、全世界に向けて成長する「働き」(エネルゲイア)の源です。イエスを「裁く者たち」が、亡き者にして滅ぼしたと想ったその「メシア」が、至高の権能を授かる(雲に乗って来る)こと(マルコ13章26節)、この驚くべき出来事を大祭司たちが「観る」のです(France. The Gospel of Mark. 613.)。「観る」のは大祭司自身ですが、マルコの記述では、その時期があいまいです。マタイとルカの記述では、「今この時から」ですから、大祭司の存命中に、(復活の)イエスが、「雲に乗って、天からこの地上へ降り立つ」のを(霊的に)観ることになります(ウルリヒ・ルツ『マタイによる福音書』EKK新約聖書註解Iの4:小河陽訳。EKK新約聖書註解。教文館:2009年。662頁(注)43を参照)。
イエスは、マルコ8章29節〜30節で、ペトロたち弟子には隠すよう命じたことを、今ここで隠さずに語り、マルコ8章31節で「メシア」について秘密に話したことを、今ここで明確に宣言しています。そして、マルコ12章36〜37節 で語った「(ダビデの子のメシア=イエスが)神の右に座す権能」の時期が、何時起こるかをここで明らかにするのです。それは、大祭司たちが思い描いていたような「ダビデ王に倣(なら)う地上の民族国家の出現」ではなく、神の右に座る人の子イエスの至高の権能が、全人類に及ぶ新たな御国を創造することです。
ただ、先に指摘したように、人の子が「来る時」については、内容的に問題があります。伝統的には、ここのイエスの言葉は、最後の審判に際して「来る」イエス・キリストの「再臨」を指すとも解釈されています。この解釈は、ほとんど自明だと思われるかもしれませんが、必ずしもそうとは言えません。なぜなら、ここでは、ダニエル書7章13〜14節がその背後にあるからです。ダニエル書の「人の子」は、地上に降下するよりも、むしろ、神の王座の右に座り、全世界の民に対して永遠の至高の権威を授けられます。だとすれば、ここで言う「来る」は、必ずしも再臨を指すとは言えなくなります。「来る」とは、地上への王権を含むものの、それは、第一義的には、天の王座に「就く」ことをも同時に指すと考えられるからです(France. The Gospel of Mark. 342〜43.)。人の子がこのように至高の座に就く事態は、現在の人間の歴史の中で生じる出来事のことであって、いわゆる、この世の終末で生じる「再臨」を指しているとは言えません(France. The Gospel of Mark. 611.)。だから、必ずしも終末での裁きを指すと断定できません。
ダニエル書7章の証しが、大天使が人の姿をして「人の子」となり、何時とも分からぬ遠い終末の時に、天から地上にメシアとして降下し、かつてのダビデ王国の栄光をユダヤに取り戻してくれると言うのなら、大祭司たちも納得したでしょう。ところが、自分の目の前に居る囚人のイエスこそ、ダニエル書に預言された「人の子」であり、この人の子が、大祭司たち人間が誇示する裁きの権限と真っ向から対立して、復活のヴィンディケイションを通じて、「人の子」に具わる神の義を証しする。しかも、大祭司たちがこの出来事を観ると聞けば、大祭司が逆上するのも無理がありません。
*ここでの「人の子」については、コイノニアホームページ→聖書と講話→「ヘブライの伝承とイエスの霊性」→第4部35章「イエスと人の子」を参照してください。
[63]〜[64]この箇所の解釈に関して、ユダヤ教の諸規定を大成した『ミシュナ』の規定がしばしば引用されます。『ミシュナ』は、ラビ・アキバ(50年〜135年)たちが、旧約聖書の時代からの古来の口頭伝承を編集した頃に始まりますから、これの最終的な成立は200年頃でしょう。『ミシュナ』には、「冒涜」に関して、次のような記述があります。
「神(主)の名前(ヤハウエ)それ自体が発言されなければ、(神への)冒涜(レビ記24章1節〜16節)の罪状にはあたらない。通常の裁判の席では、(冒涜を聞いたとする)証人たちに対する(裁判官の)質問でも、(神の名前を)言い換えて質問している。(今回の)判決は、(被告が)御名を言い換えていたという理由で、死刑の宣告を控えた。しかし、人々を外へ出した後で、(裁判官たちは)、証人たちの中心人物に、「聞いた言葉を正確に言う」よう迫った。彼がそれを口にすると、裁判官たちは、立ち上がって、自分たちの衣を裂いて、それを修理することを許さなかった。」(Herbert Danby. The Mishnah. Oxford University Press: 1933. 4:Nezikin. The Sanhedrin. 5:The blasphemer. p.392.)。
【大祭司は衣を引き裂いた】大祭司の衣が複数形なのは、正装した大祭司が着ている衣が一枚でなかったからだとも考えられますが、「衣」の複数形は、大祭司が「幾枚もの衣」を脱いだことではなく、単に「(幾重に)着ている衣」の意味で使われているのでしょう(France. The Gospel of Mark. 614.)。ここで大祭司が、「衣を裂く」仕草は、以下に例示する旧約以来の伝統に基づいています(Collins. Mark. 705--707. )。
(1)大祭司アロンの息子たちは、モーセの教えとその祭儀に従わず、自分たちだけで祭儀の火を炊きます。すると、モーセの教えとその祭儀に逆らって、「異火(ことび)を炊いた」ために、主から裁きの火が降り、彼らは火に焼かれて死にます。しかし、モーセは、主から油注がれ聖別された大祭司アロンが、その件で、自分の聖衣を裂いてはならないと告げます(レビ記10章6節と同21章10節)。これは、「衣を裂く」行為が、「汚れ」と関係するからです。
(2)イスラエルを率いるヨシュアは、イスラエルの兵士が、異国のアイの兵士に敗れ、意気消沈していると聞いて、上着を引き裂いた(ヨシュア記7章6節)。これは主(ヤハウエ)のための戦いに敗北したことを懺悔するための仕草です。
(3)ダビデは、サウル王とその息子ヨナタンが死んだと聞くと、自分の衣を引き裂いた。すると、ダビデと共に居た者たちも、これに見倣(みなら)った(サムエル記下1章1節)。これは「王の死」という公(おおやけ)の出来事に対して、特別の悲嘆と哀悼の意を表すためです。
(4)アッシリア王センナケリブが、ヒゼキヤ王の南王国ユダを攻めて、エルサレムを包囲したとき、エルサレムを攻撃するアッシリアの将軍は、センナケリブ王の言葉として、「この地(エルサレム)に攻め込むよう我々に告げたのは、お前たちが頼りにする主(ヤハウエ)自身なのだ」と大声で告げます。これを聞いたヒゼキヤ王の宮廷長と書記官と史官の三人が、ヒゼキヤ王にこの言葉を伝えます。するとヒゼキヤ王は、イスラエルの主を無能呼ばわりして侮辱し、「主を罵り、主を冒涜する」言葉を聞いたとして、衣を引き裂いて主の宮殿で祈ると、主は、み使いを送って、アッシリア陣営の兵士たちを18万5千を殺しました(列王記下18章13節〜19章1節)。このように、「衣を裂く」のは、死者への哀悼や冒涜行為などへの悲嘆、懺悔、参与拒否のためです。今回、大祭司自らが、衣を裂く行為は、イエスの返答が、彼にとっていかに大きなショックであったかを示しています。
【証人が必要か】ミシュナの規定によれば、「冒涜」とは、「神(主)の名前(ヤハウエ)を口にする」ことです。だから、その名前が発せられるのを人々が「聞くこと」もまた「(神への)冒涜」にあたります。これを聞いた人は、自分の「衣を裂いて」、二度とその衣を直すことはしませんでした。しかし、この場合、「神(主)の名前が実際に口に出されたかどうか」、これを証言する証人が必要です。実際に主の名前を聞いた人たちは、その全員が、自分たちの着物を裂くことも決められていましたが、マルコは、この辺の事情については、何も言いません。(イエスの頃だけでなく)マルコの時代でも、後代の『ミシュナ』(最終の成立は200年頃)の規定が、それほどはっきりとは定まっていなかったと思われます。
【冒涜の言葉を聞いた】「冒涜を聞いた」の「冒涜」の語形が、マルコでは、対格ではなく属格(所有格)になっているのは、冒涜の言葉を「語った人」よりも、「(その言葉が)聞かれたこと自体」のほうに注意を向けているからです。「冒涜」の内容は、様々に議論されています。自分が「メシヤ」だと主張することそれ自体が、直ちに「冒涜」だとは見なされされてはいませんから、イエスが冒涜に値するかどうか? イエスの言動を「神(主)の名前を口にする」という定義だけから判断すれば、マルコの記述からは、冒涜にあたるかどうか判断できません。マルコが記述するイエスは、注意深く、主の名前を「御力(みちから)」と言い換えているからです。マルコの記述には、イエスが、「自分は、神(主)である」と主張した箇所は、どこにもありません。だから、「神(主)の名前を口にする」という(後代の)ミシュナ規定から、イエスの冒涜罪を判断することはできません。また、「メシア」という言葉をイエスが自分にあてはめたとすれば、それが「冒涜」だと判断される根拠になるかどうか?
最近のD・Mボック(Bock)の研究では、「冒涜」は、イエスの頃のユダヤ教とその文書において、「神(主)の名前を口にする」ことだけでなく、神に対する傲慢な言葉や行動などをも含むより広い内容を指していたと思われます。だから、大祭司は、イエスが神(主)の名前を口に出したどうかではなく、当時の一般的な判断に基づいて、伝えられているイエスの言動の全体を「冒涜」に値すると判断したのです(France. The Gospel of Mark. 615.)。
【死刑に値する】「(彼は)死刑に値する(相当する)と断罪した」というやや回りくどい言い方は、法廷の全員が、イエスの言動を「冒涜罪による死刑」だと公式に断罪したわけではなく、全体の「空気を読んだ」上でのマルコの言い方です。
[65]この節を直訳すると次のようになります。
「そこで、ある者たちは、彼に向かって唾を吐きかけ始め、彼の顔を(布で?)ぐるりと覆い、その顔をげんこつで叩いてから、彼に向かって言った、『言いあててみろ』。すると、下役どもも、彼に平手打ちを加えた。」
マルコの記述は、「ある者たち」と「下役たち」とを分けていますから、「ある者たち」とは、最高法院のメンバーたちの中の幾人かです。これは私的なリンチに近いという説もありますが〔Collins. Mark. 707.〕、彼らの行為も、「冒涜罪を許さない」という意思表示からでしょう。「言いあててみろ」と言うのも、もしもイエスがメシアなら、「その目で見ることで判断せず、その耳で聞くことで断定しない」(イザヤ11章3節)とあるのを踏まえての言葉でしょう。まことのメシアは、相手を「匂いで嗅ぎ分ける」という言い伝えがあったようです。主の僕(しもべ)が「唾を吐きかけられる」こともイザヤ書50章6節に預言されていますが、これは、洋の東西を問わず、一般的な侮辱の表現です。議員たちの仕草を見た下役たちも、おそらく見倣って、イエスを「平手で」打ったのでしょう(原語では「棒で殴る」ことも含まれるが)。下役たちの行為は、ペトロも居た屋敷の中庭でのことでしょうか。ただし、マルコの読者たちは、これらの仕打ちも、すでにイエスによって預言されていることに気づくでしょう(以上はFrance. The Gospel of Mark. 617.)。
■マタイ26章
マタイの最高法院の記述は、マルコ14章53〜65節に準拠していますが、問題は、マルコの記述にはなくて、ルカとマタイの記述に共通する点があることです。
(1)マルコのイエスの返答「私はそうである」に対して、イエスの曖昧な答え(マタイ26章64節前半=ルカ22章67〜68節)。
(2)マルコの記述にはない「今のこの時から」(マタイ26章64節)=「今から後」(ルカ22章69節)。
(3)マルコの記述にはない「メシアよ。お前を打ったのはだれかを我々に」(マタイ26章68節)=「お前をなぐったのだれか、言い当てて見よ」(ルカ22章64節)。
もしもルカがマタイの記述を知らなかったとすれば、ルカとマタイとに共通する(マルコの資料とは)別個の伝承があったことが想定されます。ルカ26章66〜71節の最高法院の記述からも、おそらく、マルコの記述(マルコ14章53〜65節)とは、別個の伝承が存在したと考えるべきでしょう(Davies & Allison. Matthew 19--28. ICC. T&T Clark:1997. 519--520.)(John Nolland. The Gospel of Matthew. NIGTC. Eerdmans: 2005. 1120.)。
[57]【大祭司カイアファのところへ】マタイが、ここで「大祭司カイアファ」の名前を出したのは、マタイ26章3節からですが(Nolland. The Gospel of Matthew. 1122.)、57節での「カイアファ」へのこの言及は、後述するように重要な意味を持ちます。並行するマルコ14章53節の「大祭司」には、カイアファの名前がありません。さらに、マタイの記述では、ペトロは、「事の成り行きを見届けようとして」(26章58節)カイアファの邸宅の「中庭」へ入っていきます。だから、最高法院は、カイアファの邸宅の「中庭」で開かれたとマタイは見ています(英語の"court"も、ほんらい、支配者の大邸宅の中庭で、貴婦人たちがテニスなどをしたり、判事が裁判を開いたりする場所を指す)。だから、マルコの「(法院のメンバーたちが)集まって来た」(マルコ14章53節)をマタイが「集まっていた」(マタイ26章57節)に変えたのは、法院のメンバーたちが、「(イエスが連行される以前に)すでに、そこに集まっていた」ことを示すためでしょう(Nolland. The Gospel of Matthew. 1121--22.)。ただし、イエスの裁判が行われた最高法院の「場所」については、カイアファの屋敷ではなく、(後述するように)正式の会議場であった可能性もあります。
【律法学者たちや長老たち】マタイは、マルコの「祭司長たち、長老たち、律法学者たち」を「律法学者たちや長老たち」に変えています。「祭司長たち」が抜けているのは、大祭司の邸宅であれば、祭司長たちが加わるのは自明のことだからでしょうか(Nolland. The Gospel of Matthew. 1122.)。「律法学者たちや長老たち」はここだけで、マタイ26章47節と一致しません(最高法院の場所とその性格については諸説があります)。イエスの頃の最高法院の正式の議場は、神殿と上の町とを結ぶ橋の下にあったと考えられます。しかし、法院は、その時々に応じて、構成メンバーも、場所も、したがって、その性格も一様ではなかったことが知られています。マタイの記述も、この法院が、大祭司の邸宅の中庭で、夜明け間近とは言え夜間に開かれ、「イエスの処刑を目的とする」変則的な性格のものだったことを示唆しています(Nolland. The Gospel of Matthew. 1123.)。
[58]マタイは、マルコに準拠しながらも、マルコの「そして」を「ところで」に変え、「従った」(一度限りの行為)を「従っていった」(継続する行為)とし、マルコの「中庭へ入って」を「屋敷の中庭まで(ついて)行き、事の成り行きを見届けようとして、(中庭の)内へ入った」へと変えています。「内へ入った」はヨハネ18章16節を参照。マタイは、「たき火」も省いています。
【成り行きを見届けようと】ペトロは、イエスがかねて予告していた、「イエスの受難と死」が実現することを察知したようです。イエスの処刑をも視野に入れて、「遠くから従った」となれば、原語の「従う」は弟子であることを指しますから、イエスを「メシアで神の子」(マタイ16章16節)だと告白したペトロは、「不祥ながらも弟子であろう」と志(こころざ)したのでしょう。イエスの最後を「遠くから見届けた」女性たちのことがマタイ27章55節にでていますが、マタイは、ここ26章75節を最後に、以後、ペトロには一切触れていません。マタイは、「<最後まで>見届けよう」とするペトロを、(皮肉にも)26章69節以下のペトロの否認と重ねています(Nolland. The Gospel of Matthew. 1124.)。
[59]〜[60]マルコの記述では、法院のメンバーたちは、イエスの処刑をもくろんで、処刑に値する証言を求めたが、偽の証言が多くて、処刑に値する証言を得ることができないままに・・・・・」です。これに対して、マタイのほうは、「大祭司を始め法院全体は、イエスを処刑するために、なんとかして偽りの証言を得ようとしたが、偽証する者が多く出たので、(死刑を課すだけの証言を)得られなかった」です。これでは、分かり難いので、「得られなかった」のは、「偽証」のほうではなく、「処刑に相当する証言を得る目的」にする異読があります。マタイによる書き換えの意図は、「イエスを処刑する目的のいかなる証言も偽の証言に過ぎない」という前提にあります。しかし、この記述では、法院は、イエスを処刑する目的で、始めから意図的に「偽の証言」を求めた(でっちあげた)という意味に受け取れますから、少し「やり過ぎ」でしょう。ここの記述がやや変なのは、マルコにある「証言が相互に一致しなかった」を省いたからです(Nolland. The Gospel of Matthew. 1125.)。
始めから処刑目的のこの裁判への証人尋問の件は、これが過越祭とも関連する日の夜明け前の裁判であることを考えなけばなりません。しかも、処刑の判決を下す権限を持たないユダヤ人のメンバーたちは、イエスを「ローマの権限によって」死刑に処す判決へいたる道筋を考え出さなければならなかったのです。だから、「目的ありき」の裁判でも、裁判員たちは、彼らなりの「宗教的な信念と良心」に従っているわけで、「卑劣なブラック裁判員ども」だと決めつけることはできません(Nolland. The Gospel of Matthew. 1126.)。
[61]マタイは、前節(60節)の記述が混乱を招くと意識したのでしょう。ここで、マルコにはない「真正の証人二人」が、進み出て言います。「この男は、神の神殿を打ち壊した上で、三日あれば、神殿を建て直すことができると言った。」マタイでは、マルコの「〜と言うのを聞いた」という間接話法でなく、直接話法で「〜と言った」です。マルコの「私は(神殿を)打ち壊す」は、ここでは「私は打ち壊すことができる」です。「その気になれば(できる)」の意味も入りますから、神殿批判への語気がマルコのほうよりも薄れます。
【神殿を打ち壊す】マタイによれば、証言は、マルコの言う「偽証」ではなく、真実です。「二人」とあるのは、申命記19章15節に従うものです。証言の内容も「神の神殿を壊すこともできるし、三日で建てる(こともできる)」と簡潔です。「マルコの言う最高法院は、まことの証言を求めたが、得られず。マタイの最高法院は、偽証を求めたが、得られなかった」(Davies & Allison. Matthew 19--28. 525.)のでしょうか。マタイ23章38節と同24章2節のイエスの言葉から察するに、エルサレム神殿の崩壊を告げる預言に接して、マタイ自身にも胸に迫る想いがあったようです。
[62]〜[63]ここでもマタイは、概(おおむ)ねマルコに準じていますが、63節でマタイは、マルコの記述に縮小と拡大の両方を行なっています。マルコの「(イエスの)沈黙」への二重表現(マルコ14章61節)を縮小し、その上で、大祭司の尋問に「生ける神に誓って」を加えることで、大祭司は、被告に対して、神への厳かな誓約のもとでの返答を要求するのです(Nolland. The Gospel of Matthew.1128--1130.)。大祭司の尋問は、「イエスの権威」の根拠を問うものですが、マルコの「誉(ほ)むべき方」に替えて、マタイでは、読者に分かりやすい冠詞つきの「神の子」です。
[64]マタイでは、「イエスは、彼(大祭司)に言う。『(それは)あなたが言ったこと』」です。これに、「しかし、私はあなたに言う。今から後は・・・・・」と続きます。マルコの「そこで、イエスは言った。『わたしがそれである』」と比較すると、マルコの記述の明瞭な答え方に対して、マタイのほうは「意図的に曖昧」です。イエスのこの答えは、先のユダからの問いへの答えと同じで(マタイ26章25節)、婉曲(えんきょく)な肯定を意味します。「(それは)あなたが言ったこと」に対照する形で続く厳かな言い方、「しかし、私はあなたに言う」は、逆に、イエスの答えを聞く「質問者側」のほうに「裁きをもたらす」結果を招くことを示唆します(マタイ11章22節と同24節を参照)(Nolland. The Gospel of Matthew.1131.)。また、マルコの「雲に囲まれ」は、マタイでは「雲(の上)に乗って」です。
ここでの大祭司の尋問は、要するに、イエスの「権威」についてです。イエスの「権威」への尋問は、マタイ21章23〜27節にでてきます。そこでは、イエスは答えを与えませんが、ここに来て、「今から後は」で始めて、迫る受難とこれに続くヴィンディケイションが、イエスの「新たな来臨」によってもたらされると告げるのです。こういうイエスの「権威」は、イエスの当時のユダヤ教のメシア観とも関連しますが、むしろ、以後のキリスト教会のキリスト観に近く、マタイ自身の抱くメシア観が(マタイ26章61節を参照)、ここに反映しているのではないかと見られています(Davies & Allison. Matthew 19--28. 531.)。
[65]〜[66]【大祭司は衣を引き裂いた】マタイは、マルコの「(下着をも含む)衣服」(複数)とあるのを「(主として外側を覆う)衣装」(複数)に変えています。裁判当日の大祭司は、大祭司だけの正式の「聖衣」をまとっていたのかが問われますが、イエスの頃は、大祭司用の「聖衣」一式は、ローマの管轄のもとに、神殿のアントニア砦に保管されていましたから、ユダヤの大祭司は、祭りの前日からだけしか、これを身にまとうことが許されませんでした〔フラウィウス・ヨセフス著、秦剛平訳『ユダヤ古代誌』(5)15巻9章403〜408。ちくま学芸文庫:2000年。125〜127頁〕。したがって、イエスの裁判では、大祭司の「衣装」も聖衣ではなかったと見るべきです。聖衣であったとすれば、これを「引き裂く」行為は、律法に触れることにもなります(レビ記10章6節)。それでも、大祭司の行為は、よほどの「深い困惑」を表すことに変わりありません。マタイもおそらく、この事情を勘案した上で、マルコの「衣服」を「衣装」に替えたのかもしれません。
【冒涜した】イエスの応答を聞いた大祭司のここの言葉は、「(彼は神を)冒涜した」で始まり、「見よ、今、(あなたたちは)冒涜を聞いた」で「冒涜」を強めています。イエスの頃の「冒涜罪」は、後代(2世紀)の「ミシュナ」の規定にあるような厳密な意味ではなかったから、イエスが「力ある方(神)の右に座る」(大天使に相当する)権威を具える「メシア」だ主張していることを「(神への)冒涜」だと断罪したのです(マタイ9章3〜6節を参照)。ちなみに、第2次ユダヤ戦争(132年〜135年)で、ローマ軍団と戦ったユダヤの指導者バル・コクバ(星の子)は、自分を「メシア」と偽証した罪で殺されたと(ユダヤ人の間では)言い伝えられていました(実際はローマ軍による戦死)(Nolland. The Gospel of Matthew.1133.)。
【どう思うか】マタイはこの言い方をしばしば用いています(マタイ17章25節/21章28節など)。マルコでは、大祭司は、他のメンバーの意見/判断を訊(たず)ねていますが、マタイでは、(冒涜を聞いた)彼らの判定/裁定を求めています。
【答えて言った】マルコでは、間接話法で、「全員が(イエスを死刑に)断罪した」ですが、マタイでは、直接話法で、「そこで彼らは答えて言った『(彼は)死刑に値(あたい)する』」です。マルコの記述は死刑の権限がない法院に適切でないとマタイは思ったのでしょう(Davies & Allison. Matthew 19--28. 535.)。
[67]〜[68]マルコの記述では、「そして」とつないで、議員たちの幾人かが、イエスに唾を吐きかけ、目隠しをして拳(こぶし)で殴(なぐ)ってから、誰がやったか「言いあててみろ」と嘲(あざけ)ったとあります。マタイのほうでは、マタイ特有の「それから」で始まり、「目隠しをした」が省かれて、「彼らは、イエスを拳(こぶし)で殴(なぐ)った。幾人かは、平手打ちにして、『さぁ、メシアよ。お前が預言者なら、誰が打ったのかを俺たちに言え』と言った」です[NRSV][REB]。比較すると、マルコのイエスは、「忍従」を思わせますが、マタイのほうは、目隠しなしで危害を加える「悪行と不正」が目立ちます(Nolland. The Gospel of Matthew.1134.)。「メシア」と称されるイエスへのこの当てつけは、大祭司の意向を汲んだ行為です。「やりすぎ」だと思うかもしれませんが、古代のユダヤ教の伝統では、これだけの仕打ちを加えるのが、こういう「罪人」に対する正当な行為ですから、参加者が、わざわざイエスに、「誰が打ったのか」を言わせようとするのはこのためで(レビ記24章14節と16節/民数記15章35節/申命記13章9〜11節)、マタイは、ここでイザヤ書50章6節をも念頭においているのでしょう(マタイ5章39節も参照)(Davies & Allison. Matthew 19--28. 535.)。なお、マタイは、1世紀のクリスチャンたちが、「神の右に座わる主イエス・キリスト」を告白したがゆえに、ユダヤ教徒たちから受けた仕打ちをここに反映させているという説もあります(ルツ『マタイによる福音書』EKK新約聖書註解Iの4:229〜230頁)。
■ルカ22章
ルカの記述は、次に見るように、マルコ=マタイのものとかなり異なります(Joseph A. Fitzmyer. The Gospel According to Luke X--XXIV. The Anchor Bible. Doubleday:1983. 1453--1463.)。
(1)イエスは、逮捕されるとすぐに、大祭司の邸宅へ連行されます(ルカ22章54節)。マルコ=マタイででは、この場面で、「最高法院全員」という言葉が出てきますが、ルカの記述には、この用語が、この場面にはありません。
(2)マルコ=マタイでは、逮捕後に、すぐ、大祭司たちの具体的な尋問が始まりますが(マルコ14章55節)、ルカでは、ここでの尋問の具体的な記述が見あたりません(ルカ22章54節)。
(3)マルコ=マタイでは、大祭司の邸宅の場で、「判定/判決」とも言える決議が、イエスに下されますが(マルコ14章64節)、ルカの記述では、イエスの応答に対して「これ以上の証言が必要か」とありますが、ユダヤ人の間では、判定らしき行為は一切行なわれません。
(4)マルコ=マタイでは、処刑の判定の後で、イエスに侮辱的な行為が行なわれますが(マルコ14章65節とマタイ26章67節)、ルカでは、この場での侮辱行為もありません。ルカの記述では、(マルコ=マタイにはでてこない)ヘロデとの会見の後に、侮辱行為が行なわれます。
(5)ルカの記述では、逮捕後の大祭司(カイアファ)宅への連行に続いてペトロの否認が起こり、夜が明けてから、改めて、イエスが最高法院へ連れ出されたとあります(ルカ22章66節)。ルカでは、この場面で初めて、尋問の内容がでてきます。だから、ルカによれば、イエスへのユダヤ人からの審問・尋問が、逮捕直後の「大祭司宅」と、夜が明けてからの最高法院での審議と、二度にわたる印象を受けますが、後述するように、ここでの「大祭司宅」とは、ヨハネが言うアンナスの屋敷のことであれば、史的に見て問題ありません。
【史実としてのイエスの裁判】
共観福音書同士のこのような違いから、いったい、イエスの逮捕後の審議の実際の史実はどうだったのか?が問われることになります。「何が(実際に)起こったのかを正確に知るのは、極めて難しい」(Marshall. The Gospel of Luke. 846.)のですが、ここで、私たちは、ヨハネ福音書の記述のほうに目を向ける必要があります。
ヨハネ福音書も共観福音書とはかなり違っています(ヨハネ18章を参照)。
(1)(ローマ軍の)兵士の一隊と、祭司長たちが遣わした下役たちが、イエスを逮捕します。
(2)イエスは、先ず、アンナスの屋敷へ連行されます。アンナスは、紀元6年〜15年頃のエルサレムでの大祭司で、イエス受難の時の大祭司カイアファの舅(しゅうと/義理に父)です。その屋敷で、アンナスの質問に対するイエスの答え方が悪いと、下役がイエスに平手打ちを加えます。
(3)アンナスは、イエスを縛ったまま、カイアファの屋敷へ送ります(ヨハネ18章24節を同14節の後に移行して読む)。ここで、ペトロの否認が起こります。
(4)イエスは、カイアファの屋敷からピラトの官邸へ連行されて尋問を受け、兵士たちから侮辱され、ピラトは、ユダヤ人の強い要請を受けて、イエスを十字架につけるよう命じます。
ヨハネの記述がマルコの記述と異なる点は以下の通りです。
(A)ローマの兵隊が逮捕に加わっています。
(B)大祭司カイアファの前に、その義父アンナスによる事情聴取が行なわれます。
(C)ヨハネ福音書には「最高法院」という言葉はでてきませんが、マルコ14章53〜65節と同15章1節の「最高法院」に相当する場面が、ヨハネ福音書では、上記(3)のカイアファの家にあたります。
(A)の場合については、大祭司の神殿警護の役人たちにローマ兵も参与することもありましたが、イエスの逮捕の場合は、ローマ兵の参与がなかったと見るほうが適切です(Craig S. Keener. The Gospel of John. A Commentary. Vol.2. Hendrickson:2003. 1078--1079.)。
(B)の場合、ヨハネ18章13〜14節にあるように、カイアファはアンナスの義理の息子でした。ローマ長官グラトゥスはカイアファを大祭司としました(18年)から、イエスの頃の正式の大祭司はカイアファです。しかし、アンナスは、「大祭司一族」と称される家柄の最年長ですから、かつて大祭司を勤めたアンナスもまた「大祭司」と称されていました。ヨハネ福音書では、イエスの逮捕直後、先ず、アンナスの予備尋問が行なわれ、その後で、大祭司カイアファによる(最高法院での)尋問が行なわれます(ヨハネ18章24節)。イエスの頃には、最高法院での尋問と裁判に先立って、大祭司が、重要な犯罪人を呼び出して予備尋問をすることが、しばしば行なわれていました。だから、イエスが夜間に逮捕され、そのまま、以前の大祭司アンナスの邸宅に連行されて、そこで(予備の)尋問を受けても不自然ではありません(Keener.
The Gospel of John. Vol.2. 1078--1079.)。ヨハネ18章19節の「大祭司」が、「イエスの弟子たちやイエスの教えについて尋ねた」(ヨハネ18章19節)とあるのも、それが(アンナスによる)予備尋問であったことを思わせます。マルコ14章53節にあるような「最高法院」が、夜間に、現役の大祭司(カイアファ)の邸宅で開かれたとは思えません(Keener.
The Gospel of John. Vol.2. 1078--1079.)。歴史的に見て、最高法院が、夜間に開かれとは考えられないからです。
(C)の場合では、マルコによる最高法院での(二重の)記述からは、「出来事の順序と時間がはっきりしません」(Marshall. The Gospel of Luke. 847.)。だから、イエス逮捕の直後、まず予備尋問が、夜間にアンナスによって彼の屋敷で行なわれ、この夜間の尋問の後で、夜が明けてから、カイアファが開いた最高法院へ、尋問と審議が引き継がれたと見るほうが史実に近いでしょう(Raymond E. Brown.
The Gospel According to John. Vol.2. The Anchor Bible. Doubleday: 1970. 820--821.)(Keener.
The Gospel of John. Vol.2. 1086--1087.)。
「最高法院」は、場合によって、構成、内容、場所も、必ずしも一定でなかったと思われます。マルコ15章1節とルカ22章66節では、最高法院が「夜が明けてから」とありますから、大祭司カイアファは、おそらく自分の屋敷で、正規な形から見れば、やや変則的な仕方で、「最高法院」を開いたのでしょう。
マルコの記述では、イエスの逮捕後の裁判と、イエスへの侮辱行為と、ペトロの否認とが続いていて、これらが真夜中から明け方近くまでの夜間の出来事になり、マルコ5章1節で、夜が明けると、(再び?)最高法院がでてきます。しかし、ルカ22章54節〜65節では、54節の「大祭司の家」でのことは夜明け前の出来事ですが、そこでは、イエスへの尋問あるいは裁判らしいことは何も語られず、ペトロの否認と、イエスへの侮辱行為が記されています(ルカ22章55節〜65節)。イエスへの裁判は、ルカ22章66節で、夜が明けてから、最高法院で行なわれます。だから、ルカ22章54節の(夜明け前での)「大祭司の屋敷」とは、カイアファの屋敷のことではなく、アンナス邸を指すと指摘されています(Marshall.
The Gospel of Luke. 841.)。これだと、ルカ22章66節での夜が明けてからの裁判が、時の大祭司カイアファたちによる最高法院であったことがはっきりします(Marshall. The Gospel of Luke.
847.)。マルコは、アンナスによる予備尋問と最高法院での尋問を融合(混同?)しています。イエスを裁いた最高法院が、カイアファの邸宅ではなく、神殿に近い最高法院(サンヒドリン)の会議場で行なわれた可能性も指摘されていますが(前掲書)、その場合、議場でのペトロの否認は不可能です。
なお、付け加えますと、ヨハネ18章12〜27節の構成については異読があります。異読では、ヨハネ18章24節の「アンナスは・・・・・」を18章13節前半に続けて挿入して、「まずアンナスのところへ連れて行った。アンナスは、イエスを縛ったままカイアファのもとへ送った。彼(アンナス)が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである」になっています。この読みだと、ヨハネ18章19節の「大祭司」とはカイアファを指すことがはっきりしますから、続く尋問は、アンナスではなくカイアファによって行なわれたことになります(Nestle-Aland.Novum Testamentum Graece. Deutsche Bibelgesellschaft: 363. Apparatus 13--24.)。この件については、ヨハネ18章を読み替えて、イエスの裁判とペトロの否認に関する四福音書の記事の調和を図った古シリア語写本がありますので、章末の補遺でお読みください。これが、福音書が語る「実際の史実に即した出来事」に最も近いでしょう。
ヨハネ福音書についてもう少し補足します。共観福音書の「神殿を倒して、三日で建てる」は、ヨハネ福音書では2章19節にでてきて、そこでは、イエスが語った言葉の意味が解釈されています。大祭司カイアファがイエスに「お前はメシアなのか?」と訊く言葉は、ヨハネ10章24節でユダヤ人がイエスに訊いています。イエスが「人の子は全能の神の右に座して、天の雲に乗って降る」と語るのも(マルコ14章62節)、ヨハネの「神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのをあなたがたは見る」(ヨハネ1章51節)に対応します。大祭司とその一同がイエスの処刑を決議する場面は、ヨハネ11章49〜53節にでています。このように、マルコ福音書では<ひとまとめ>にして語られている一連の出来事が、ヨハネ福音書では、イエスの受難にいたるまでの<その経過を>語る途中で分散してでてくるのです。ヨハネ福音書は、起こった出来事を語るだけでなく、それらの出来事に含まれている「霊的、神学的な意義」をも語ろうとします。ヨハネの著者は、この意図に基づいて、共観福音書の出来事を「再構成」しているのが分かります。
【イエスの裁判へのルカの資料】
ルカの記述には、マルコ=マタイの記述に対しても、さまざまな違いが指摘されています。例えば、「(神殿についての)偽りの証言者」がでていない。大祭司がその衣を裂いた記事がない。「神への冒涜」も言及されていない。最高法院の判決も行われない。ルカは、マルコの記述を自分なりの神学で編集し直したのか? あるいは、ルカには、マルコの資料とは別個に、なんらかの口頭の伝承が伝わっていたのか? それとも、ルカは、マルコの記述以外にも、(ヨハネとも共通する)別の記述資料を知っていたのか?。このような仮説が提示されています(I. Howard Marshall.
The Gospel of Luke. The Paternoster:1978. 839.)(F.Bovon. Luke 3.
Hermeneia. Fortress Press:2012. 240--241.)。おそらく、ルカは、マルコの記述に依(よ)ると同時に、ほんらいはヨハネとも共通する別個の伝承からも加えたのでしょう(Bovon.
Luke 3. 241.)。
■ルカ22章
[66]【民の長老会】「民の長老会」の原語は、定冠詞つき中性名詞単数「ト・プレスビュテリオン」(長老会/長老議会)です。これは、「祭司長たちと律法学者たちから成り立つ(民の)長老会」です(訳文はF.Bovon.Luke 3. 241--242.による)。「民の」が付いているのはマタイ27章1節と同じで、単なる「長老たち」のことではないからでしょう。「長老会」は、最高法院とほぼ同じ意味で用いられています。「長老たち」だけでなく「祭司長たち」もまた、最高法院全体を指す場合があったようです〔TDNT(7)864〜865頁〕。
【彼らの最高法院へ】「最高法院」の原語は、定冠詞つきの中性名詞単数「ト・シュネドリオン(議会/衆議所)」です。マルコ15章1節では、「長老会全体、(すなわち)祭司長たちと長老たちと律法学者たちが談合した」"the whole Council, chief priests ,elders, and scribes"[REB]ですが、ルカ22章66節では、「民の長老会は、祭司長たちと律法学者たち(をも併せて)集まり」"the assembly of the elders of the people,both chief priests and scribes gathered together"[NRSV]です。
長老会としての「最高法院」は、正規の議会のように、定期的に開かれていたのでしょうか?それとも、必要に応じて集まる臨機応変な性格のものだったのでしょうか?この長老(議)会は、なんらかの政治的、法的な権限を有していたと思われますが、その権限範囲は(残念ながら)曖昧であり、今回の長老会の具体的な場所も、イエスの頃のカイアファの家がどこにあったのか、確かなことは分かりません。通常、最高法院は、柱廊に支えられた大屋根の広間で行われました(Bovon. Luke 3. 242. Note 18.)。正規の最高法院の議場であったとすれば、神殿と上の町を結ぶ橋の下になります。一つだけ確かなのは、この団体が、イエスをピラトに引き渡して訴える権限を有していたことです(Bovon.
Luke 3. 242.を参照)。
ルカ22章66節の「祭司長たちと律法学者たちから成り立つ民の長老会」は、マルコの記述では、14章55節の記述にある最高法院に継いで、「二度目」の最高法院の会合(マルコ15章1節を参照)とも受け取れます。だが、史実としては、この二つは「同一の会議」だと見なすべきです。正規の最高法院の時刻は、「夜明け後」のほうが、歴史的に正しいでしょうから、法院の記述に関しては、マルコ=マタイの記述よりもルカのそれのほうが史実に即しています。マルコの記述では、マルコ14章53〜55節の「夜明け前の」最高法院と、同15章1節の「夜が明けてからの」最高法院と、二つの最高法院が開かれたという意味にもとれますが、マルコの「最高法院」の記述には、実際の歴史的な時間への配慮と言及が欠けています(失われています)(Fitzmyer.
The Gospel According to Luke X--XXIV. 1466.)(Marshall. The Gospel of Luke.847.)。だから、ルカは、ここでの「最高法院」の場所も、イエスが逮捕直後に連行されたと考えられる「大祭司のところ」(これは「アンナスの屋敷」のこと)(ルカ22章54節)ではなく、別の場所を指していると見ています(Bovon.Luke 3. 242.)。
[67]〜[69]ルカは、マルコ14章56〜59節の「偽りの証言」を省いています。マルコの記述では、「お前は(ほんとうに)メシアか?」というイエスへの質問が、「偽りの証言を許すまい」とする目的で発せられたことにもなります。ルカは、あえて偽の証言を省筆した上で、「お前がメシアならそう言え」と、イエスのアイデンティティーを率直に問いただす言い方に変えたのです(Bovon. Luke 3. 242.Note23.)。
【もしお前がメシアなら】マルコでは、「メシアか?」という質問が大祭司から発せられますが、ルカでは、最高法院全体の意向による発言になっています。これは、マルコの資料とは別の資料からでしょう。当時の「メシア」には、ローマの支配に抵抗する者の意味も含まれますから(ルカ23章1節〜5節)、最高法院の問いかけは、ピラトに訴える口実を得るためです。これに対するイエスの答えは、大祭司の仕掛けた罠を見抜いた上での意図的な「曖昧答弁」です(Bovon. Luke 3. 243.)。ルカはこの点を意識しています。
【わたしが言っても】「メシア質問」へのイエスの意図的な曖昧な答え方、「たとえわたしがあなたたちに言うとしても〜」は、仮定というよりも、「あなたたちは信じるだろうか?」と相手の質問に逆に問いかける意図をも含んでいます。問われる側からのこういう逆の問いかけは、マタイ26章64節と共通しています(Bovon.
Luke 3. 244.)。
【あなたたちは信じない】「私が話してもあなたたちは信じないだろう」というイエスの発言は、最高法院のメンバーたちとイエスとの以前のやりとりがその背景にあるとルカは見ているのでしょう(ルカ20章1節〜8節。ヨハネ3章12節/ヨハネ10章24〜26節をも参照)(Fitzmyer. The Gospel According to Luke X--XXIV. 1467.)。なお、ルカによるここでのイエスの発言の背後には、エレミヤ38章14節〜15節があると指摘されています。
【人の子は力ある者の右に】ルカは、マルコの記述に「今から後は」を加えています。マルコにある「キリストの再臨」をも示唆する「不透明な言い方」に替えて、ルカの記述から見えるキリスト論では、「十字架後の復活による神の右への高挙」が提示されています。その結果、キリスト論の「時」が、イエス復活直後の「今の時」と「終末の再臨」と二重になっています(Marshall.
The Gospel of Luke. 847.)。
[70]〜[71]【皆の者】最高法院の全員を指します。この70節は、ルカの独自資料(L)からでしょうが(Marshall. The Gospel of Luke. 850--51.)、「全員」は、その独自資料にルカが加えたと想われます(Fitzmyer. The Gospel According to Luke X--XXIV. 1467.)
【神の子】ルカは、マルコの記述にあるユダヤほんらいの「メシア」(原文はギリシア語「キリスト」)も「誉むべき方」も、ギリシア・ローマ人には、その内容が分かり難(にく)いことを察知して、「神の子」と簡単にしています。ユダヤ民族の政治的な野望を表すダビデの子「メシア」は、ローマへの敵対心を含みます。だから、ルカは、そのような「メシア」のニュアンスを避けるために、「神の子」に、ユダヤ的な「メシア」よりも、さらに普遍的な意義を含ませています(Fitzmyer. The Gospel According to Luke X--XXIV. 1468.)。それだけでなく、ルカは、ここの「神の子」に神学的に特別な内容をこめています。ルカの「神の子」には、「死の向こう側」で生じる復活が視野に入っています。それは、天において「神の右に座る」ことです。ここでのルカのキリスト論は、ルカ1章29節〜32節と同35節に通じるものですが、ルカは、24章51節の昇天をも視野に入れています(Bovon. Luke 3. 246.)。
【あなたたちの言ったこと】この答え方は、相手がその気になれば肯定とも受け取れますが、そこには、回答を拒否する意図も含まれています(Fitzmyer.
The Gospel According to Luke X--XXIV. 1468.)。ルカは、この答えに先立つ67〜68節でのイエスの回答拒否の姿勢を思慮に入れています。それゆえ、イエスのこの回答は、「私自身は何も言ってはいない」とも受け取れます。ところが、最高法院のほうでは、67〜68節とは「逆の意味に」受け取るのです。ルカが言いたいのは、イエスの曖昧な返答の真意に関わりなく、最高法院が「そうだ」と言えば「そうである」ことにする法院のやり方です。だから、イエスの最終の答え「わたしはある」の意味を(勝手に)判断するのです。イエスの「わたしは〜である」には、「わたしはわたしである」の意味も含まれています。これは、ヨハネ8章58節の「わたしはある」にも通じます(Bovon. Luke 3. 246. Note55.)。
【これ以上の証言が必要か】ルカはマルコに従いながらも、イエスへの「冒涜」の断罪決議を語ることなく、これを隠しています(Bovon. Luke 3. 246.)。
【彼の口から】最高法院は、イエスが口にした答えをピラトへ訴える「根拠(証拠)」にしようと意図したのです(ルカ23章2節を参照)(Marshall. The Gospel of Luke. 850.)。
最高法院でのイエスへ