197章 最高法院でのイエス
マルコ14章53〜65節/マタイ26章57〜68節/ルカ22章66〜71節
【聖句】
■マルコ14章
53人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。
54ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。
55祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。
56多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。
57すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。
58「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」
59しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。
60そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」
61しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。
62イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」
63大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。
64諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。
65それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。
■マタイ26章
57人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。
58ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。
59さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。
60偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、
61「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。
62そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」
63イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」
64イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。
65そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。
66どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。
67そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、
68「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。
■ルカ22章
66夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、
67「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。
68わたしが尋ねても、決して答えないだろう。
69しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」
70そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」
71人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。
【注釈】
【補遺】
【講話】
【史実としてのイエス様の裁判】
イエス様への裁判の福音書の記述は、史的な信憑性を具えているのでしょうか? ユダヤ教が、その全体において、イエス様を「(神への)冒涜者」として断罪した例は、歴史的に見あたりません。それでも、イエス様はピラトによって処刑された、イエス様はユダヤ人によって石打ち刑に処せられた、イエス様の逮捕と処刑は、終始ローマの権力による、このような説が唱えられたことがあります(ルツ『マタイによる福音書』EKK新約聖書註解Iの4。240頁)。現在では、このような説は認められていません。共観福音書が証しする最高法院でのイエス様への裁判記事は、イエス様の受難以後に、比較的早期に語られた「受難物語」(40年頃からか?)が、事の次第を正しく伝えていると思われますが、「受難物語」以外にも、イエス様の裁判を語る伝承が語り伝えられていました。
しかし、それらの伝承には、イエス様復活以後に誕生したキリスト教会の見解が加えられています。とりわけ、共観福音書が書かれるまでの期間に(30年頃〜90年頃)、キリスト教徒がユダヤ教徒から受けた迫害の出来事も、イエス様の裁判の記述に反映していると指摘されています(ルツ『マタイによる福音書』237頁)。文献批評の手法を通じて、福音書の記述を懐疑的、批判的に見たドイツの聖書学者ブルトマン(1884年〜1976年)は、マルコ15章1節〜20節の最高法院の場面は、マルコが、15章1節の伝承に基づいて、これをマルコ流の解釈で敷衍(ふえん)したものにすぎないと判断しました(R・ブルトマン『共観福音書伝承史』(II)加山宏路訳。新教出版社:1987年、122頁)。
福音書の記述に対してこのように「批判的な」解釈があるにもかかわらず、最高法院の記述においては、例えば、ルカが用いた資料は、マルコの資料よりも古いもので、史的信憑性を疑う理由がないと指摘されています(Marshall. The Gospel of Luke. 845.)。
とりわけ、ヨハネ18章の記述が、実際の史的な出来事に最も近いという見方が提示されています(ルツ『マタイによる福音書』242頁)。筆者(私市)もこの見方に賛同します。受難のイエス様へどこまでもついて行こうとした「けなげな」ペトロを待ち受けていたのは、三度にわたるイエス様への否認の出来事でした。クリスチャンにとって最も怖いこの「カイアファの庭」が、いったいどこにあったのか?この謎は、今でも解けていません。しかし、最高法院でのイエス様の裁判とペトロの否認をめぐる一連の出来事は、四福音書で証しされていて、その大筋(おおすじ)は、四福音書の調和から読み取ることができます。イエス様への裁判とペトロの否認をめぐる出来事の推移は、四福音書を調和させたヨハネ福音書18章の「古シリア語版」に分かりやすくでていますから、これを読めば、事の詳細はともかく、この一連の出来事の大筋が見えてきます。筆写(私市)は、これが、四福音書が証ししている出来事の「実際の史的な経過」に最も近いと考えています。章末の補遺「イエスへの裁判とペトロによる否認」をお読みください。
【イエスと最高法院への解釈】
イエスは世界(の善悪の価値観)をあべこべにする嘘つきだ。よい習わしを破壊する者だ。(女性を連れて歩いたことから)金持ちの女性をたぶらかす者だ。何よりも、ユダヤ教の権威者たちの許可なくして宣教活動を行った。イエス様の受難以後から2世紀にいたる間、イエス様へのこのような批判が聞かれました。これに対して、イエス様を弁護する者からは、福音書が記述するアリマタヤのヨセフやニコデモなどが、イエス様を弁護する例としてあげられました。イエス様を弁護する一方で、大祭司カイアファは「悪者で、悪意のある男」にされ、最高法院のユダヤ人は、「その男(イエス様)を死刑にせよ」と大声で叫んだとして批判されることになります。近代の宗教改革時代には、大祭司と最高法院が、キリスト教会の教皇や枢機卿を頂点とする聖職者階級と同類視されて、教会の指導者たちが批判を受けました。現代では、人間に宿る神ご自身(イエス様のこと)を裁く者自身(最高法院)のほうが、罪を宿す人間にほかならないというわけで、今度は、裁く側が逆に裁かれる事態をイエス様の裁判に読み取る傾向があります。神を冒涜するのは、イエス様ではなく、裁く大祭司たちのほうなのです。
【対立が示唆する事】
イエス様への断罪裁判について、これを歴史的に見て、ユダヤ人は無実だとする説と、逆に福音書の記述のほうを支持する説とが、対立したまま、見解の相違は現在でも続いています(ルツ『マタイによる福音書』231〜254頁を参照)。この問題について、次のような視点が提示されていますので、紹介します(Bovon. Luke 3. 246--247.から)。
旧約聖書の神と新約聖書の神とは、似て非なる神だと考えたマルキオン(1世紀末〜2世紀半ばの異端的神学者)の説では、イエス様は、最高法院に対して、ご自分に宿る神性の真の有り様を明らかにはしなかったことになります。それは、イエス様が、「受難を甘受する」ためだからです。ご自分の受難は、神のご計画に沿うものであるから、どうしても成就されなければならない。こうイエス様は考えていたとマルキオンは言うのです。だから、この世の支配者たち(最高法院のメンバー)は、受難するイエス様の本当の有り様を知らないままに事を運んだわけで、こういう受難の出来事は、ただ「神の知恵」からしか生じないことになります。この解釈は、第一コリント2章7〜8節で、パウロが語る解釈にも通じます。これだと、イエス様への最高法院の「(不当な)断罪責任」も軽くなろうというものです。
これに対しテルトゥリアヌス(160年頃〜220年頃の北アフリカの教父)は、マルキオンに反論して、神は、意図的に、ユダヤの指導者たちが、まことの救済者からの証しを悟り得ないままに放置して、わざと彼らを無知の状態に閉じ込めるほど冷酷だろうか?こういう疑義を提示しました。イエス様が自己の真の有り様を「人の子」として証ししているにもかかわらず、最高法院は、それを信じようとはせず、逆にイエス様を断罪したからです。テルトゥリアヌスに言わせれば、そもそもマルキオンの説では、イエス様が啓示する神と、最高法院が思い込む神とは、異なる神になります。そうではなく、イエス様がご自身に宿ると主張する神が、最高法院の信じる真の神に具わる神性と同じだと察知したまさにそのゆえに、彼らはイエス様を断罪し、殉教へ追い込んだのです。
【対立から学ぶ】
「自分は昇天して神の右に座る」、最高法院でのイエス様のこの発言こそ、最高法院がイエス様を断罪する重要な根拠とされました。上記のマルキオンとテルトリアヌスとの論じ合いから察するに、「十字架にかかり昇天して神の右に座る」イエス・キリストこそが、「宗教する人間」にもまとわりつく罪業を贖い赦して、その信仰を正しく導くお方である、このことを最高法院が悟らなかったことが分かります。逆に、神を信じていると確信する彼らが、ほかならぬその神によって「裁かれる」、こういう事態をイエス様が予告したことが許せなかったのです。
イエス様と最高法院との宗教的・神学的なこの分裂の事態が教えることは、救い主の神の右への高挙を信じる神学も、神からの「愛と恩寵」に根ざさなければ危険であり、高挙のキリストを信じるキリスト教会もまた、「自分自身も神の審判の下にある」ことを自覚しなければ危険を伴うことです(ルツ『マタイによる福音書』237頁)。
2024年9月下旬の現在、イスラエルとハマスとが、血で血を洗う激しい闘争を繰り広げて、世界の平和を脅かしています。ユダヤ教の右派と、イスラム教の過激派とが、和解を拒否して相互の民間人を殺傷しているのです。もとはと言えば国土をめぐるこの争いも、譲ることができない宗教的な価値観の対立が、その背後にあることを示唆しています。両者が、一緒に同じ国土で、平和に暮らすことができないのは、人種的な違いだけでなく、その背景に宗教的、文化的な違いが潜在しているからです。こういう事態をとりあげて、神を拝まない「無宗教」こそ、民に平和をもたらすと唱える人たちがいます。ところが、現在の日本は、「神を拝まない無宗教」を国是とする北朝鮮や中国共産党と対立しているのです。「神を拝まない無宗教の国」が、その民にどんなに恐ろし災いをもたらすか、その実態を見知っているからです。
ヨハネ福音書4章で、サマリアの女に向かって、「水を飲ませてください」と先に頼んだのはイエス様のほうです。女は驚いて、エルサレム神殿を礼拝するユダヤ人のあなたが、ゲリジム山の神殿の神を礼拝するサマリアの女と「同じ水を飲む」のは、どうしてか? と問いかけます。するとイエス様は、「エルサレムでもゲリジムでもないところ」におられる神を礼拝する時が来ると告げて、「今がその時だよ」と教えます。神殿の違いに左右されない「神」、これこそが、「霊とまことを尽くして」拝むべきほんとうの神であることをイエス様はサマリアの女に啓示したのです。神殿の違いにとらわれない「まことの神」が私たちに啓示する霊性、これこそ、今の私たちが、「生きるために」最も必要な「命の水」です。イエス様が、今の私たちに飲ませてくださる「霊の水」とは、こういう水です。
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