【補遺】ペトロによる否認記事
 マルコ福音書では、イエスがペトロに向かって「鶏が二度鳴く前に三度私を否認する」(マルコ14章30節)と予言します。そして、マルコ14章66~72節では、召使いの女が、「あなたもあのナザレ人の仲間だ」と言うの聞いて、ペトロは「あなたが言うのは、何のことか分からない」と否認します(68節)。すると鶏が鳴きます。女が再び言い出すとペトロは再び打ち消します(70節)。今度は、その場に居合わせた人が「お前もあのガリラヤ人の仲間だ」と言うと、ペトロは「誓ってそんな人は知らない」と三度目に否認します(71節)。すると鶏が「再度」鳴きます(72節)。ペトロは、先のイエスの言葉を思い出して泣き崩れます。
この記事では、先にイエスが、ペトロに向かって「鶏が二度鳴く前に三度私を否認する」(マルコ14章30節)と予言した言葉がそのまま成就したことになります。ところが、マタイ福音書(マタイ26章69~75節)とルカ福音書(ルカ22章)では、イエスの予言の言葉は「鶏が鳴く前に三度の否認」とあって、「二度」は出てきません。これに対応して、マタイとルカでは、ペトロの否認は三度起こりますが、鶏は一度しか鳴きません(マルコの「再度」は省かれる)。マタイもルカも、「鶏が鳴く」は、「夜明けまで」の時刻を指す言い方であると理解して、鳴く回数にはこだわらないのです。ヨハネ福音書でも(ヨハネ18章15~27節)、ペトロの否認は場所を変えて、三度起こりますが、鶏が鳴くのは一度だけです(ヨハネ18章27節)。
マルコ福音書と他の福音書との違いを「率直かつ大胆に」推論すれば、「二度の鶏の鳴き声と三度の否認」というイエスの予言は、ペトロの心に深く残っていたために、ペトロが自分の口から否認の出来事を物語る際に、猛反省をこめて、あたかも、鶏が二度鳴いたかのように語るのを聞いたマルコが、ペトロの言葉をそのまま書き記した。しかし、他の福音書記者たちは、別個に伝えられた否認伝承をも参照していて、そこには「二度の鶏の鳴き声」がなかったので、「二度の鶏と三度の否認」といういささか特異な語呂合わせを「不要」だと判断してこれを省いた。このように考えるなら一応説明がつくことになりましょう。しかし、こういう説明では納得できないことが、古来、マルコの今回のこの記事に多くの異読が見られることで分かります。
 マルコ14章68節の「すると鶏が鳴いた」が抜けている有力な写本があります。4世紀頃のシナイ写本(大英博物館蔵)、4世紀頃のヴァティカン写本(ヴァティカン図書館蔵)、4世紀~5世紀のコデックスW写本(スミソニアン博物館所蔵)、8世紀頃のレギウス写本(パリ博物館蔵)、9世紀~10世紀のアトス・ローリー写本(ギリシアのアトスのローラ修道院所蔵)などでは、この箇所が抜けています。
 一方で、この部分が含まれる写本があります。3世紀~4世紀頃(?)のごく初期のいわゆる「アレクサンドリア学派」の写本、4世紀のシリアの教父である聖エフラエミの説教で引用されたものが、12世紀の十字軍の際に消され、これを20世紀に復興させたエフラエミ写本、5世紀のべザ写本(ケンブリッジ大学図書館蔵)、6世紀のもので上質の皮紙に銀文字で書かれたコデックス・パープレウス・ペトロポリタヌス(ペテルスブルク、ヴァティカン、大英博物館などで分散所蔵)、9世紀の四福音書の写本コデックス・シピウス、9世紀のギリシア語とラテン語の写本コデックス・サンガレンシス、カスピ海沿岸のコリデンティで発見された9世紀の写本コデックス・コリデンティ、9世紀~10世紀のコデックス・アトス・ローラ写本(ギリシアのアトスのローラ修道院所蔵)などでは、68節の「すると鶏が鳴いた」が保持されています。
 マルコ14章72節は、さらに複雑で、「直ちに<二度目に>鶏が鳴いた」の「二度目に」が抜けている写本があります。3~4世紀のアレクサンドリア学派の写本、5世紀にさかのぼるエフラエミ写本、コデックス・シピウス写本、コデックス・パープレウス・ペトロポリタヌス写本、コデックス・サンガレンシス写本、コデックス・アトス・ローラ写本などです。ところが、シナイ写本や、ヴァティカン写本、一部のエフラエミ写本、5世紀のべザ写本、8世紀のレギウス写本、4世紀末から5世紀にかけてのコデックスW写本、コデックス・コリデンティ写本などでは、「二度目に」が保持されています。
 シナイ写本(Codex Sinaiticus)(記号はヘブライ語アルファベットの「アレフ」)では、14章30節が「鶏が鳴く前に三度の否認」とあり、68節の「すると鶏が鳴いた」が抜けていて、同72節は「すると鶏が鳴いた」です。ペトロが思い出すイエスの言葉も「鶏が鳴く前に三度否認する」ですから、「二度」はどこにも出てきません。ヴァティカン写本と写本コデックスWでは、他の多くの版と同様に68節の「鶏が鳴いた」が省かれているのに、72節では「鶏が二度目に鳴いた」が保持されています。おそらく、「二度目」を入れることで、「一度目」のほうも言外に示唆しているのでしょう〔R.T. France. The Gospel of Mark. NIGTC. 618.〕。
 14章30節のイエスの予言の言葉と合わせるのか? それとも、「二度の鶏の鳴き声と三度の否認」という「いささか奇をてらう言葉遊び」〔France. The Gospel of Mark. 618.〕を避けて他の福音書と調和させるのか? この両方の間で、今回のマルコのテキストが揺れているのです。とりわけ、72節では、多くの版によってテキストの異同が激しくNovum Testamentum Graece. 168. Apparatus(72)〕、マルコ福音書と他の福音書との調和が、古来から、いかに切実な課題であったかを物語っています。Novum Testamentum Graece. Greek-English. Deutsche Bibelgesellschaft.168.Apparatus(68)(72)〕。
                       
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