198章 ペトロの否認
マルコ14章66節〜72節/マタイ26章69節〜75節/ルカ22章56節〜62節
【聖句】
■マルコ14章
66ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、
67ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」
68しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。
69女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。
70ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」
71すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。
72するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。
■マタイ26章
69ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。
70ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。
71ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。
72そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。
73しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」
74そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。
75ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。
■ルカ22章
56するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。
57しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。
58少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。
59一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。
60だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。
61主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。
62そして外に出て、激しく泣いた。
【講話】
聖書は、モーセでも、ダビデ王でも、過度に「聖人化する」ことで崇めることをしません。聖書は、神の御前にあって、彼らをどこまでも「一介の人間」として扱うからです。今回のペトロによる否認の記事でも同じです。特に、最高法院でのイエス様の「告白」と、中庭でのペトロによる否認とが、見事に対照されています。「信仰否認」の反対は「信仰告白」だからです〔ボヴォン『ルカ3』231頁〕。ただし、この時には、ペトロに、まだ、イエス様の十字架の贖いから降る聖霊が注がれていなかったのが不運であるというペトロへの同情論もあります。
十字架をいとわないイエス様とは対照的に、身の危険から命を守ろうとするペトロの「人間の弱さ」を読み取ることができますが、マルコ福音書の結びを見れば、イエス様の赦しと贖いを期待することができます〔ボヴォン『ルカ福音書』(3)237頁〕。復活して弟子たちに顕現したイエス様は、弟子たちを身の危険から護ると証ししています(マルコ16章15〜18節)〔コリンズ『マルコ』710頁〕。ペトロの否認の恥は、イエス様の復活によって濯(そそ)がれたのです。聖金曜日には人の悪意と罪深さを思いだし、復活日には神の慈悲と赦しを実感するためです〔ボヴォン『ルカ3』228頁〕。
わたしが特に注目したいのは、イエス様のペトロへの警告の言葉です。イエス様のペトロへの「鶏が二度鳴く間に三度の否認」予言は、単なるペトロへの警告を意図する予言ではありません。そうではなく、イエス様は、ペトロに代表されるクリスチャン一般への、さらに言えば、人間ペトロが代表する人間一般へ向けて、人の本性とはいかなるものかを喝破(かっぱ)したのです。「まさか自分が」と思ったペトロにとって、この思いがけない警告は、ペトロ自身が全く気づいていない「人に具わるうぬぼれ」への警告だったのです。残念ならが、ペトロは、「そのこと」に全く気づいていなかった。これこそ、彼が、いざという時にパニックに陥って、思わぬ失策を仕出かす根源に潜む理由です。
ペトロの否認から、ペトロの人間的な弱さを読み取り、そのことに気づかされたペトロは、涙に暮れて悔い改めの道を歩み始めた。今回の否認記事は、一般にこのように理解されています。けれども、私たちは、ペトロの出来事が、ただ一時のペトロの気の迷いから生じた出来事ではなく、人間としてのペトロが常時抱えている人の弱さが、中庭でたまたま露わにされた。だからその出来事は、いつでも誰にでも起こりえるありふれた出来事であることを見逃してはなりません。クリスチャンを含む人間の隠されていた本性が、「この出来事」で露わにされた。これが、ペトロの否認記事が私たちに突きつけるほんとうの意味です。
泣き崩れるペトロに、悔い改めの涙を読み取り、そこからペトロの再起と神とイエス様からの赦しと憐れみに支えられたペトロの歩みを読み取るのが、今回のペトロの出来事の解釈としてふさわしいとされています。ただし、否認を通じて啓示されたペトロへの神の恵み(しばしばユダのそれと対比される)をただ受け取るだけでなく、もしもペトロが、自分の弱さの「常態」を覚(さと)り、その上で、自分がいかに大きな神と主による愛と赦しに与り支えられているかを常時自分の胸に刻んでいれば、大祭司邸の中庭での危機に陥っても、「違った」態度に出ることがありえたのではないか? このように考えることができます。ルカが描くペトロの否認の出来事には、まさにこのようなルカの視野を読み取ることができましょう。主の十字架から降る愛と憐れみの深さを覚えて、己の罪深さを深く覚ること、ルカ5章8節、ルカ5章22〜24節、ルカ6章35〜36節、ルカ7章43〜48節、 ルカ9章30〜34節などは、私たちに「このこと」を証ししています。「私たちが誘惑に陥らないようお守りください」とある主の祈りが教えているのは「この事」です。
共観福音書講話へ