【注釈】
■マルコ15章
マルコの十字架の記事は「短く力強い」です(R・T・フランスの注釈)。イエスの身体的な苦痛は読者の想像に任せて、今回に続く27~32節で、居合わせた人たちの様々な悪口と嘲笑を強く印象づけます。マルコの念頭には七十人訳詩編21篇6~8節(=現行訳詩編22篇7~9節)があったのでしょう。今回も、「ユダヤ人の王」に向けられる最大・最深の「皮肉」がこめられています。ただし、イエス様の十字架にこめられている真義は、最後の「主の晩餐」で語られたイエス様のお言葉が成就することです(マルコ14章23節)(R.T. France. The Gospel of Mark. NIGTC. 639)。
[22]【ゴルゴタという所】「ところ」であって「丘」ではありません。「カルバリ山」「ゴルゴタの丘」は、4世紀頃の巡礼に始まる呼び方です。「ゴルゴタ」は、アラム語「グルガルター」からで、これはヘブライ語「グルゴーレット」(髪の毛が生えている頭蓋骨)からで、とりわけ、ユダヤの男性が頭の上に帽子を被る場所(されこうべ)です。この用語それ自体にほんらい悪い意味合いはありませんが、マルコは、「ゴルゴタ」に、「ドクロ」が示唆する不気味な意味合いを読み取っています。
【連れて行った】原語の「フェロー」は「担ぐ」「運ぶ」の意味です。“they brought Jesus”[NRBV]. ちなみに、20節の「(イエスを十字架するために)引き出す」の原語は「エクサゴー」(導き出す/連れ出す)です。"They led him“[NRSV]. この二つの動詞の違いから、兵士たちは、十字架刑への途上で、体が弱まって歩けなくなったイエスを「かかえるようにして運んだ」のではないか、という説があります〔ウルリヒ・ルツ『マタイによる福音書』I(4)]382頁〕。ただし、動詞「フェロー」にもいろいろな意味がありますから、用語の違いだけで深読みするのは避けるべきでしょう(France. The Gospel of Mark. 641.)。
【エルサレムの城壁】エルサレムの城壁は、幾つかの段階を経て建設されました。
(1)捕囚以後に、ネヘミヤがペルシアよりエルサレムへ帰還し(前445年頃)、崩壊した城壁の建設にとりかかります。ネヘミヤが再建した城壁は、神殿の丘を囲み、その南へ細長く伸びて、シロアムの池にいたる瓢箪(ひょうたん)のような形の城壁です(ネヘミヤ記3章)(The Illustrated Atlas of Jerusalem 36.)。
(2)その後、ギリシア系の王朝と戦い、マカバイ戦争に勝利したハスモン家によって、エルサレムを囲む城壁が建設されました。前2世紀の半ば頃で、これは「(エルサレムの)第一城壁」と称されます。この城壁は、神殿の境内全体を四角で囲む城壁の西側の中程にある入り口から、真っ直ぐ西に伸びて、「上の街」の北西の角に達し、そこを南に折れて、下の街全体をも包み込む形で神殿境内の城壁の南東角に達していました。
しかし、箴言31章6節に「ぶどう酒は苦い思いをかみしめる者に与えなさい」とあります(
(3)それ以後、ヘロデ王家の時代に(前4年頃~後70年)、とりわけ、後41年~44年を中心に、第二城壁が、第一城壁の北側に建てられます。第二城壁は、神殿の境内を囲む城壁の北西の角(アントニアの砦)から、300メートルほど西へ真っ直ぐ延びて、そこから南に折れて250メートルほど下がります。この城壁部分の西側(外側)に「ゴルゴタ」の場所がありました。そこから100メートルほど西へ折れて、さらに100メートルほど南に下がると(神殿の西側の入り口から真っ直ぐ西へ延びている)第一城壁と出逢います。したがって、イエスの十字架刑の頃(後30年頃)には、ゴルゴタを外にして、その東側を真っ直ぐ南に下る第二城壁は、まだ出来ていなかった?と思われます(A.Y.Collins. Mark. 739頁のエルサレムの地図を参照)。ピラトの居たヘロデの宮殿は、えの第一城壁が南へ折れたところにあって、城壁に接していました。ピラトが居住していたヘロデの宮殿からは、その北にある第一城壁の出口を通れば、城壁の北のゴルゴタまで、300メートルを超えることがないでしょう(Collins. Mark. 642.)。
[23]【没薬を混ぜた】「没薬(もつやく)を混ぜてある(ぶどう酒)」の原語は、ギリシア語「スミュルナ」からでた動詞「スミュルニゾー」(没薬を混ぜる)の完了分詞(単数対格)です。マタイによる福音書のイエスの誕生物語には、東方から訪れた博士たちが、生まれた幼子を拝する貴重な献げ物とした「黄金と乳香と没薬」が出てきます(マタイ2章11節)。乳香(にゅうこう)は、乳香の樹の肌から出る白い樹脂を乾燥させて固めたもので、焼くと強い芳香を放ち、不安や緊張を和らげる作用があります。没薬(もつやく)は、「ミルラ」と呼ばれる樹の肌から出る褐色の樹脂で、香水や塗り薬などに用いられ、その香りが心を鎮めるので、お香として神聖な礼拝にも用いられました。「乳香」"frankincense"も「没薬」"myrrha"も、日本ではなじみがないものですが、アラビア半島やエチオピアで産出され、オリエント(中近東)では、貴重な芳香剤や薬として古来から用いられ、ミイラの防腐剤などにも使用されています。没薬の香りには、苦痛を和らげる麻酔の効果があります。
マルコ15章23節に「与えた」とありますが、マルコは、「没薬を混ぜたぶどう酒」を誰がイエスに「与えた」のかを記していません。マタイは、ここで、ローマ兵が、イエスに「胆汁(たんじゅう)を混ぜたぶどう酒」を飲ませようとしたと記しています。マタイの「胆汁」(原語「コレー」)は、「苦い汁/にがよもぎ/毒」のことですから、マタイは、ここで、七十人訳詩編68篇21節(現行訳詩編69篇22節)の「彼らは私の食べ物として毒(原語「コレー」)を与え、私の渇きのために酢を飲ませようとした」を念頭においています(France.
The Gospel of Mark.
642.)。マルコ=マタイは共に、イエスの死の直前に、ローマ兵が「海綿に酢を含ませて」飲ませようとしたと記していますから、「胆汁」も「酢」もイエスの苦痛をいっそう強める悪意からでしょう。この23節でも、兵士たちは、刑場に向かうイエスの苦痛をいっそう強める悪意から、没薬をぶどう酒に混ぜて飲ませようとしたという説があります(A.D.
Collins. Mark.742を参照)。
しかし、箴言31章6節に「ぶどう酒は苦い思いをかみしめる者に与えなさい」とあります(七十人訳では「悲しむ者には強い飲み物、苦痛の者にはぶどう酒を」です)。箴言のこの箇所は、ミシュナの規定をも含む後のタルムードにも引用されていますから、イエスの頃にも、処刑される者の気を鎮めるために、乳香あるいは没薬の粒が(とりわけ貴婦人たちから)授与されたと見られています。ただし、タルムードは、紀元5世紀頃に大成されますから、これをそのままイエスの時代に当てはめるのは時期的にやや無理があります(Collins.
Mark.742を参照)。
古代から、「貴人の死」に際しては、麻酔の効果を及ぼす飲み物を与える慣習がありました。だから、歴史的に観て、麻酔の目的で「没薬」がイエスにも供されたのでしょう(Collins. Mark.743を参照)。今回の箇所は、前マルコ資料からで、この資料にも、イエスの苦痛を和らげるために、麻酔の効果を発揮する没薬がイエスに与えられたという伝承が引き継がれていたと考えられます。与えたのは、ローマ兵ではなく、十字架を担ぐイエスのために嘆く女性たちからではないかと想定されます(France. The Gospel of Mark. 643.)。イエスが、これを飲もうとしなかったのは、ゲツセマネで誓ったとおり、神から与えられる苦難を自ら避けようとしなかったからです(France. The Gospel of Mark. 643.)(Collins. Mark.743)。
[24]【十字架につけた】十字架刑にもいろいろな仕方がありましたが、マルコは、具体的に何も記していません。イエスがかけられたものには、T字方と十字型とが想定されます。イエスの十字架刑の有り様は、罪状書きがイエスの「頭の上のほう」だとあること、これとヨハネ20章25節/ルカ24章39~40節から推定されています。それによると、十字型の柱の上に、両手(「手首」という説も)に釘、両足にも釘、さらに脇腹にも釘が打たれたことになりましょう。なお、イエスとほぼ同じ頃に、エルサレムで十字架刑にされたイエホハナンと称する人の骨壺からは、両方の踵(かかと)を貫く太い釘が発見されています(France. The Gospel of Mark. 643. Note16.)。
【服を分け合った】「クジで服を分け合う」は、七十人訳詩編21篇18節(現行訳22篇19節)と用語も全く同じです。マルコは(その読者とともに)、イエスの十字架刑が、詩編に記されている「義人の死」に基づくだけでなく、そこにイエスの「メシア像」をも読み取っているのでしょう(Collins. Mark. 746.)。なお、処刑される者の衣服などの持ち物は、処刑人たちが自分の物とするのが、当時の習わしでした(Collins. Mark. 745.)。ローマの十字架刑では、処刑される者は、通常裸でしたが、イエスのように、処刑場まで衣をまとっていた場合、十字架上でも、腰回りに着物をまとうことが許されたと思われます。処刑される者に、腰回りの着物をまとうのが許されるかどうかをめぐって、ユダヤのラビたちの間でも議論されていました(John Nolland. NIGTC. The Gospel of Matthew.1193.)。なお、クジを引いているローマ兵たちは、マタイにあるとおり、処刑される者を「救助しようとする」のを見張るためですが、マルコは、このローマ兵たちが、十字架上のイエスへの「直接の目撃者」だと見なしています(マルコ15章39節)。
[25]直訳すると、「時は第三の刻、彼らは彼を十字架に付けた」です。「第三の刻」は、1日が午前6時から始まる当時のユダヤ歴では、午前9時になります。夜明け(早朝)に、最高法院はイエスをピラトに引き渡し(15章1節)、ピラトの裁判と判決があり(15節)、兵士たちによる侮辱が行われ(18~20節)、ゴルゴタまでの「十字架の道のり」があり(21~22節)、ここから、マルコ独特の「十字架時刻」の三時間ごとの区切りが始まります。正午に「全地が暗くなり」(33節)、午後3時に「イエスの叫びと死」が訪れ(34節)、午後6時までにイエスの遺体の埋葬が行われます(46節)。マタイ(27章45節)もルカ(23章44節)も、イエスの十字架刑が正午前であったと記しています。マルコの記述では、イエスは十字架上にほぼ6時間かけられて死にいたったことになります。通常の十字架刑では考えられない短い時間なので、ピラトが「不思議に思った」(マルコ15章44節)のです。
問題は、これらの時刻とヨハネ福音書19章13~14節との調和です。ヨハネ福音書では、ピラトの裁判が始まるのが「正午頃」になるからです。この調和のためでしょうか、マルコ15章25節を「時は第六の刻(正午)」と読む異読があります(7世紀頃のシリア語訳と9世紀のコリデンティ写本)(Novum Testamentum Graece. 171.)。共観福音書とヨハネ福音書とは、受難の出来事について、その日も、その他の出来事の時刻も、ほぼ調和が可能ですが、この十字架にかけられる時刻だけは、どうしても調和できません。
ユダヤの祈りの時刻が三時間ごとに行われましたから、マルコもこれに倣(なら)って、受難の出来事を祭儀の時刻区切りに従った結果(の誤り)であろうという説や、ヨハネは、イエスの十字架刑を意図的に過越の小羊が犠牲に供される時刻(過越祭前日の午後)に合わせたという「ヨハネ作為説」もありますが、どちらの説も確かでありません。十字架刑は、死にいたる時間が長いことを考えあわせると、ヨハネよりもマルコの記述のほうが史的に適合します(France. The Gospel of Mark. 645.)。
[26]【罪状書き】原語のギリシア語「アイティア」(告訴理由/罪状)は、ラテン語「ティトゥルス」(表題/題名/掲示/プラカード)の訳語です。ローマ帝国では、盗みを働いた奴隷の両手を切り落としてその首の周りにかけるという残酷な仕打ちが行われたり、処刑される人の罪状を記した「札(ふだ)」をその人の首にかけて、部屋の客たちや、通りの観衆たちの前を引き回すことが行われました(Collins. Mark. 747.)。イエスの場合も、おそらく、「ユダヤ人の王」と記した札をイエスの首にかけるか、あるいは処刑場へ向かうイエスの前をその札を掲げる兵士が歩む姿が見られたと思われます。罪状書きは、十字架のどこにかけられたのか、マルコは何も記していません。ヨハネ19章19節には、「十字架の上にかけた(打ち付けられた)」とありますから、おそらく、イエスの頭上にあたる所に札が打ち付けられていたのでしょう(France. The Gospel of Mark. 645.)。「ユダヤ人の王」とあるのは、イエスが、実際に帝国に反逆を画策したり扇動したりした行為を指すのではなく、「ユダヤ人の王」を「僭称(せんしょう)した」咎(とが)であることを示すものです(France. The Gospel of Mark. 646.)。
■マタイ27章
今回のマタイの記述では、述語動詞だけに注目すると、「着いた」「与えた」「飲まなかった」「分けた」「座った」です。「飲まなかった」を除けば、他は、ローマ兵たちの行動です。マタイは、この行動する動詞の連続をマルコの記述から読み取っています。ところが、マルコが二度も繰り返している述語の動詞「十字架につけた」をマタイは分詞に変えています(マルコの「十字架につけた」の初めのほうも分詞に読む異読がありますが)。
[33]【ゴルゴタという所】マルコでは「ゴルゴタという所、訳せば『されこうべの場』」です。この言い方だと、その場所が「されこうべ」と呼ばれているという印象を与えます。マタイは「『ゴルゴタ』と称される場所の中へ、すなわち『頭蓋の場』と称される場の中へ」です。マタイでは、その場所が「されこうべの場」と呼ばれていたことになります。アラム語「グルガルター」(頭蓋)が、ギリシア語で「頭蓋の場」と訳されていたのでしょう。ここは、ほんらい「採石場」でしたが、この命名だと、「処刑された人の首が曝されている(処刑場近くの)場所」を連想しますから、その不気味さはマタイも意識していると思われます。だから、マルコの記述から想定される「その場が頭蓋に似ている」のではなく、その場所が処刑場を連想させるという説が有力です(John Nolland. The Gospel of Matthew. 1189--1190.Note.417.)(Davies and Allison. Matthew 19--28.ICC.611.)。なみに、英語の「カルバリ」"Calvary"は、ラテン語「カルヴァーリア」"calvaria"(頭蓋)からです。
[34]マルコは「飲ませようとした」ですが、マタイでは「与えた」です。マタイは、供された飲み物をイエスが「なめて」確かめたと記しています。「十字架につけた」は、動詞の分詞形です。「ついでに」記したようにも見えるマタイの「かくも短く、そっけない」書き方が話題になっています(Davies and Allison. Matthew 19--28.613.)〔ウルリヒ・ルツ『マタイによる福音書』I(4)]381頁〕。マタイの頃の著名な作者たちは、十字架刑のような残酷な仕打ちを扱うことを避ける傾向がありましたから、マタイもこれに倣(なら)ったのでしょうか。
[35]マタイは、マルコの「それぞれの取り分」の記述を省いています。
[36]「監視」は、処刑される者を「救助しようとする」のを見張るためです。マタイは、マルコの「第三の刻」を省筆しています。
[37]マルコの「ユダヤ人の王」に対して、マタイでは「この者はイエス。ユダヤ人の王」です。処刑される人物と処刑の根拠の両方を併せたこの書き方のほうが、実際の罪状書きに近いと思われます。なお、マタイも罪状書きが「イエスの頭の上」にあったと記していますが(ヨハネ19章19節を参照)、こういう「些細な」記述は、おそらく、口頭伝承によるものでしょう(Nolland. The Gospel of Matthew. 1193.)(Davies and Allison. Matthew 19--28.615.)。なお、マタイは、「そこには書いてあった」を加えることで、イエスの頭上の「札」を「罪状書き」から「掲示」に変えようとしています。マルコでは「~と記載してあった」ですが、マタイでは「~と(書かれて)ある」です。マタイは、「エピグラポー」「記す/刻記する」の受動態完了分詞を用いて、イエスに「授与された王権」が、この時以来、今もなお続いていることを言い表そうとするので(マタイ20章21~23節を参照)(Nolland. The Gospel of Matthew. 1195.)。
■ルカ23章
マルコ=マタイでは、二人の犯罪人は、ローマ兵たちがイエスの衣を分け合う後に出てきます(マルコ15章27節とマタイ27章38節)。ところが、ルカでは、二人の犯罪人は、ルカ23章32節に出てきて、イエスの衣を分け合うローマ兵の記述(同34節)の前に来ています。ルカの順序は、ヨハネ福音書と同じです(ヨハネ19章18節と同23節)。
[33] マルコ=マタイでは、「左右」は同一語で、通常使われる用語です。ところが、ルカでは、「右」は、マルコ=マタイの原語「デキシオス」と一致しますが、「左」の原語が、マルコ=マタイの「ユーオーニュモス」から、ルカの「アリステロン」へ変えられています。ただし、ルカのこの変更に、特別の意図を見出すことが出来ません(I.H. Marshall. The Gospel of Luke. NIGTC. 867.)。
[34]ここでイエスは、ローマ兵を始め、自分を十字架につけた者たち全員のために、彼らの「無知」への赦しを父なる神に祈り求めます。このように大事な内容ですが、この節が抜けている有力な写本があります(4~5世紀のシナイ写本/ヴァティカン写本/べザ写本/Codex Wなど)。34節が採用されているのは、アレクサンドリア学派の写本、Codex Purpureus Petropolitanus(6世紀に銀文字で書かれた写本)、コリデンティ写本、Codex Athous Laurae(ギリシアのアトス山のローラ修道院所蔵)などです〔Novum Testamentum Graece 283. Apparatus. 〕。聖書協会共同訳と英語訳のNRSVでは[ ]で、フランシスコ会聖書研究所訳と英訳REBでは本文として入っています。こういう重要な内容の節を誤って見落とす、あるいは、うっかり削除したとは考えられません。おそらく、ルカ23章28~31節から見て、ユダヤ人への赦しとも受け取れる祈りに反対する「反ユダヤ主義者」による削除であろうと思われます(Marshall. The Gospel of Luke. 867--868.)(F. Bovon. Luke 3. 307.)。ただし、「罪の赦し」を含む用語とその内容は、とりわけルカに即していることが指摘されています(使徒言行録7章60節を参照)。なお、ルカの「衣分け」の記述も、マルコと同様に、旧約聖書の預言を意識しています(F. Bovon. Luke 3. 307.)。
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