【注釈】
■マルコ16章
 ルードルフ・ブルトマンによれば、復活物語は、「空の墓」と「復活顕現」との二つの伝承によって成り立っていることになり、「空の墓」伝承は、「復活顕現」への理由/根拠づけとなっています(「空の墓」は「復活顕現」伝承の後に成立)。その上で、「空の墓」と「復活顕現」の伝承が結びついて、マルコ福音書への前資料としてマルコに受け継がれます。マルコ福音書は、ほんらい、マルコ16章1節~8節の「空の墓」で完結していたと見なされています〔ルードルフ・ブルトマン『ブルトマン著作集』共観福音書伝承史(II)加山宏路訳。新教出版社(1987年)140~146頁と下段の注を参照〕〔A. Y. Collins. Mark. Hermeneia. 781〕。なお、補遺「マルコ福音書の結び」を参照してください。
[1]3人の女性たちが「香料を買った」のは、「安息日が終わる(土曜の日没の時)」という時間が記述されています。ただし、ルカの記述だと、女性たちが「香料と香油を準備した」のは、「安息日が始まろうとする頃」(金曜の日没に近い頃)で、彼女たちは、イエスの遺体を納めた墓と(遺体の)場所とを見届けたその後で、「家に帰ってから」「香料と香油を準備した」とあります(ルカ23章54節/同56節)。
 マルコ16章1節の記述は、女性たちが香料を買ったのが、「安息日」のことではなく、安息日が終わった後のことであると判断したのでしょう。このマルコの記述に従うなら、女性たちが香料を「買った」のは、安息日の終わる日没が過ぎ、日曜が始まる夕方から夜にかけてのことになります。マルコ16章1節の記述をあえてルカ23章54~56節の記述を適合させるとすれば、女性たちは、安息日が始まる前の夕暮れに「買った」香料を安息日の始まる日没から安息日が終わる日没を通じて「保持していて/準備していて」、日曜の夜が明けるのを待ち構えて、朝早く、墓を訪れたことになりましょう。なお、マルコとルカとのこの食い違いについては、208章のルカ23章54~56節の注釈を参照してください。
【香料を買った】香料の原語は「アロエー」で、「アロエ/沈香(じんこう)」と称されるインド原産の芳香樹脂です〔織田昭『新約聖書ギリシア語小辞典』教文館。22頁〕。「香料を買った」は、「出かけ行って(香料を)準備した」(コリデンティ写本:カスピ海沿岸のコリデンティで発見された9世紀頃の写本)という異読、あるいは、「香料を<売ってもらって>買うために出かけた」(5世紀のベザ写本)という異読があります。これらの異読は、マルコ15章47節で、女性たちが「イエスの遺体が納められる場所を見届けた」とあり、同16章1節では、「イエスの遺体に塗る香料を買った」とあるこの二つの行為を具体的につなぐための挿入でしょう。
【油を塗る】古来の慣習で、頭髪などに油を塗ったり注いだりすること。
【マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ】この3人については、マルコ15章40節の注釈を参照してください。マルコの女性のリストのあげ方は、マルコ15章40節の3名と、同15章47節の2名と、同16章1節の3名のように、少しずつ違います(ただし15章40節=16章1節)。べザ写本では、「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」が抜けています。この脱落については、マタイ27章1節の注釈で説明します。
[2]【週の初めの日の朝ごく早く】「安息日が終わる」のは、土曜の日没時です。週の初めの日」とあるのは日曜日のことで、日曜は、土曜の日没の時から始まります。したがって、「週の初めの日曜日の朝、ごく早い時間」とあるのは、安息日が終わり(日没)、その後始まった日曜日の夜が更けて、日曜の夜の明け方近く、日曜日の昼間が始まる前の時刻になります。女性が夜間に出歩くのは危険を伴いますから、日曜が始まる夕方の少し前に、女性たちは、夕暮れの中を(大急ぎで)出かけて行き、売ってもらって「準備した」香料を手元に、日曜の夜が明けるのをずっと待ち構えて、ユダヤの女性にふさわしく、「日の出とともに」(べザ写本による異読)出かけたのです(R.T.France. The Gospel of Mark. NIGTC. 670.)。墓の入り口の石は、「非常に大きかった」とありますが、大きな墓部屋の入り口を塞ぐほどの石であれば、「大きい」のが当然で、特別にあしらった「大きな石」という意味ではありません。女性たちだけなので、墓石をどうすればいいのか?と思案にくれていたのですが、石が既に取りのけてあるという予期しない出来事に驚いたのです。マルコは、これらの状況が、人の配慮を超える不思議な出来事であると言うのです(France. The Gospel of Mark. 678.)。
[5]女性たちは、開(あ)いている墓の入り口から入り、その前室を通り抜けて、その奥の遺体収容の立派な部屋へと「入り込んだ」(「墓の中に入る」の意味)のです。すると、右側に、「白衣の若者」が座っているのを目にします。「白衣」は、祭儀の際などにまとう公式の衣ですから、この人も超自然的な存在を想わせます(マタイは、「天使」と同一視)。察するに、イエスの遺体が、部屋の右側の壁に沿って彫り込まれている「寝台」の上に安置されていたので、この若者は、空になったその寝台の上に腰を下ろしていたのでしょう。ただの来訪者ではないことが、一目で分かりますから、「幽霊を想わせる」その雰囲気から(France. The Gospel of Mark. 679.)、女性たちは、度肝を抜かれるほど「驚愕した」のです。この有様がそのまま16章8節につながります。
[6]「驚き怖れるな」は、天使がしばしば告げる言葉です(ダニエル書10章12節)。
【ナザレのイエス】マルコは「神の子イエス・キリスト」で、その福音書を始めています。続いて、「イエスはガリラヤのナザレから来て」(マルコ1章9節)とあります。新約聖書で「ナザレのイエス」は、マルコ1章24節、同10章47節、同14章67節、同16章6節(4回)、ルカ4章34節、同18章37節、同24章19節(3回)、ヨハネ18章5節、同18章7節、同19章19節(3回)、使徒言行録10章38節、同22章8節(2回)で、四福音書と使徒言行録を併せて12回です。
 「ナザレのイエス」は、ほんらい、「歴史に実在したパレスティナの一人の人間」を指します。しかし、新約聖書では、この「(人間)ナザレのイエス」こそが、「神の子イエス・キリスト」(マルコ1章1節)として権威と霊能を具えていることが重視されます。「人間イエス」と「神の子メシア(キリスト)」と、この二つを結ぶ接点となるのが、今回の「復活して墓には居られないナザレのイエス」です(使徒言行録4章10節を参照)。しかも、マルコは、ここで、この「ナザレのイエス」に「十字架につけられた」を加えることによって、神学的に極めて重要な意義を与えています。
[7]【あなたがたより先にガリラヤへ】神のみ遣いであるその若者は、「弟子たちとペトロ」に向けて、「弟子たちに先立って、復活のイエス自身がガリラヤへ赴く」と告げるよう女性たちに指示します。「かねて言われたとおり」とあるように、この箇所は、マルコ14章27~28節のイエスの言葉を受け継いでいます。イエスのメッセージを受け継ぐここ7節のお告げは、イエスを見失い「つまずいて散らされた」弟子たちが、再び、イエスに見(まみ)えることで、「(全員が)まとまって立ち直る」ことを予告しています。「ユダヤからガリラヤへ」というお告げは、弟子たちが、ユダヤ人から異邦人へ導かれることを意味するという解釈もありますが、お告げの真意は、ユダヤ人と異邦人との対比ではなく、お告げは、弟子たちが、ガリラヤでイエスに再会することで、「イエスを見捨てた罪を赦されて」、再び力を取り戻して、再度エルサレムへ戻ることを指しています。弟子の中で、「ペトロに」と彼だけが特別扱いされているのも、ペトロにも、先の否認の痛手から立ち直るために「赦しの確信」が与えられるからです。ペトロは、その否認行為のせいで、弟子たちの間で疎(うと)んじられていたと見られています(France. The Gospel of Mark. 681.)。
[8]以下に私訳をあげておきます。
 
それゆえ女性たちは
墓から出て逃げ去った。
彼女らは
震えのあまり気が動転
誰にも何も言わなかった。
怖かったのである。                            
 
この8節については、補遺「マルコの結び」を参照してください。「震えのあまり気が動転する」のは、聖書では、超自然の出来事に接したときの人々の反応を示します(ダニエル10章7節)(France. The Gospel of Mark. 682.)。彼女たちは、パニック状態で、「誰にも何も言わなかった」とありますが、天使がわざわざ「伝えるように」指示した大事な復活の出来事(7節)を「伝え損なった」とすれば、彼女たちの大きな過誤にもなります。マルコのこの「結び方」が、「異常だ/奇怪だ」と言われる所以(ゆえん)です。後述するように、マタイの記述は、この点を意識しているのでしょう。ちなみに、補遺にあるとおり、女性たちへの「短い結び」にも、このような記述がありません(フランス前掲書)。
■マタイ28章
 マタイ福音書にあって他の福音書にないのは、(1)「安息日が終わって」(28章1節)とあること、(2)地震(同2節)、(3)天使が石を転がしたこと(同2節)、(4)番兵たちに関する記事(28章11~15節)の四つです。マタイ福音書の記述は、他の福音書と同じく、女性たちが墓を訪れたのが「週の初めの明け方」とあって、「安息日が終わって」(土曜の夕方6時がすぎて)日曜の明け方が近くになってからでしょう。「地震」は、マタイ27章51節の地震と同じく、神の働きを表わしますが、ここでは、十字架の時の地震とは異なり、「主の天使」(マルコ福音書の「若者」と比較)が顕われて、石を転がします。何時のことか分かりませんが、察するに、復活は、日曜の明け方近く、女性たちが墓へ到達する前に起こったのでしょう。マタイの記事に、香料のことは出てきません。マタイ独自の伝承で言う「番兵たち」とは、神殿警護の(ユダヤの)役人たちのことで、ローマ兵ではないという説があります。祭司長たちが、彼らに賄賂を送って偽りの噂を流させたという言説があるのは、イエスの墓が空であった事実を逆に実証しています。
 マタイ28章9~10節の女性への顕現については、直前の天使の命令との続き方にやや不自然なところがあります。マタイ28章8節から直接11節へ続くと、内容的に自然ですから、9~10節は後からの挿入ではないかと考えられます。ただし、女性に関する顕現記事の内容が、後で創出された伝承だと見なすのは適切でないでしょう。たとえ後からの挿入だとしても、それが準拠する伝承それ自体は、原初にさかのぼると見なすことができるからです。
 なお、番兵たちに関する記事(11節~15節)を除くと、マタイ28章の復活物語は、マルコ16章8節にそのままつながると言えるほどで、マルコ16章8節での終わり方の<欠如している部分>を補っています。マタイ福音書では、マグダラのマリアを初め女性たちがイエスに出会い、マルコ福音書の「震え上がって正気を失う」ところから、彼女たちは、恐れながらも「大いに喜んだ」(マタイ28章8節)状態になり、弟子たちに復活の告知を伝えようとします。
 補遺にあるとおり、マルコ福音書の「長い結び」では、四福音書に共通して、最初に女性たちが復活の証人となり、これを弟子たちに伝えたとあります。マタイ福音書では、エルサレムでイエスが顕現するのは、女性たちに対してだけです。弟子たちは、「ガリラヤの山に登って」初めて、復活のイエスに出会うことになります。マタイ福音書では、このように、復活顕現と弟子たちとの出会いが、ガリラヤで生じることが大きな特徴です。マタイ28章19~20節は「大使命/大任務」"the Great Commission" と呼ばれていますが、エルサレムではなく、ガリラヤから全世界へ向けて宣教が開始されます。
 マルコ福音書も復活以後でのガリラヤでの出会いを伝えていますから(マルコ16章7節)、十字架の後で散り散りになった弟子たちは、ガリラヤへ戻り、そこで最初のイエスの顕現に出会ったのでしょう。彼らは、再びエルサレムへ戻り、ルカの伝える通り(使徒1章4節/同2章1~4節)、メシアであるイエスが殉教したエルサレムで、最初の聖霊の大傾注を受けたと考えられます〔Sanders. The Historical Figure of Jesus. 278.〕。
[1]原文は、「サバトーンが終わり、サバトーンの第一の明け方に」です。この言い方だと、安息日(土曜)の終わりと安息(週)の最初(日曜)の「明け方」とがつながっている印象を受けますが、マタイは、現代のように、真夜中から1日が始まると考えているのではありません(マルコ16章2節の注釈を参照)。
【女性の名前】マルコ16章1節では、「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」とあり、3人の女性の名前があげられています。マルコのこの部分は、べザ写本では抜けています。マタイ27章1節の今回の箇所では、「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリア」とありますから、女性は2名だけです。マタイは、「マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母」(マタイ27章56節)の3人と、「マグダラのマリアともう一人のマリア」の2人と(同27章61節/同28章1節)、女性の名前を3度も繰り返しています。彼は、27章61節をそのまま28章1節にも挿入しているのでしょう。
 マタイとルカの復活物語には、「サロメ」が登場しません。「サロメ」は、マルコ15章40節と同16章1節に出ていますが、これらの両節に挟まれたマルコ15章17節では「マグダラのマリアとヨセの母マリア」の2名だけです。マタイでは、女性の名前が3回繰り返されていますから、マルコでも名前を3度あげなければならない。後代のマルコの編集者が、このような思い込みから、マタイ27章1節の「マグダラのマリアとヨセの母マリア」を採り込んで、わざわざ、マルコ15章17節にこの2名を挿入した。こういう見方があります〔A. Y. Collins. Mark. Hermeneia. Textual Note(a). 779.〕。マタイは、マルコに準拠しているのに、「サロメ」の名前をあげていないことが注目されます。マタイは、「サロメ」が、ゼベダイの兄弟(ヨハネとヤコブ)の母と同一人だと「思い違い」をしているのでしょうか? こういう錯綜した構成を考慮するなら、マルコ16章1節の「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメが」が削除されたとしても、単なる筆写のミスでなく、後の編集者によって意図的になされたその理由も納得できましょう〔A. Y. Collins. Mark. Hermeneia. Textual Note(a). 779--780. 〕。
[2]【大きな地震】「大きな地震」は、終末の到来を想わせます(マタイ27章51節=ゼカリヤ14章4節~5節)。マタイもこの地震に終末到来への予告を読み取っているのでしょう。「主の天使が石を転がす」様子を女性たちも実際に目にしたのでしょうか? 女性たちもその有り様を目撃したという説も含めて(Davies & Allison. Matthew 19--28. ICC. 664. )、可能と不可能の両説があります。
【主の天使】マタイ福音書では、「主の天使」は、1章20節と今回だけです。どちらの場合も「恐れるな」と告げていますが、聖霊によるマリアの身ごもりと、今回の復活とが同等の不思議な超自然の出来事として描かれているのです。
【石を転がす】ヨセフがその石で墓の入り口を塞いだのですが(マタイ27章60節)、天使がこれを転がしたのは、来訪者が中へ入るためでしょう。天使がその「石の上に座った」とあるのは、塞がれていた入り口を開くことで「勝ち誇る」様子を表します(Davies & Allison. Matthew 19--28. 665. )。
[3]天使の「白く輝く衣」は、イエスの山上での変貌の姿を想わせます(マタイ17章2節)。イエスが「人の子」であるとは、とりわけ、ダニエル書7章9~10節/同13~14節を踏まえていますが(France. The Gospel of Mark. 679.)、今回の天使の衣もダニエル書7章9節と同10章6節を反映しています。
[4]ここは、終始無言の名もなき番兵たちの最後の登場です(Davies & Allison. Matthew 19--28. 666. )。マタイ27章54節では、番兵が、十字架のイエスの落ち着いた態度に感銘を受けて、「神の子」という信仰の言葉を口にします。ところが、ここ4節では、物怖じしないその番兵たちでさえも「恐怖に震え」たのです。「死人のように」なったのは、墓の中のイエスではなく、この番兵たちのほうです(前掲書)。彼らは、言葉では言い表せない出来事、何か奇怪で理解しがたい恐るべき神の御業を体験したのでしょう。
[5]~[6]5~6節は、起こった出来事に言葉も体も見失いそうな人たちに告げられる天使からの「空の墓」についての「正しい解釈」(マタイ27章63~64を参照)と「励ましの言葉」です(Davies & Allison. Matthew 19--28. 667.)。「さあ、(遺体のあった)この場所をよく見なさい」でしめくくられるその言葉は、番兵たちよりも女性たちに向けられます。「十字架につけられたイエスを捜し求めても、ここには居られない」はマルコ16章6節のまとめです。「かねて言われていたとおり、復活なさった」は、聖書で預言されている「メシアの復活」を告げるものです。
[7]7節はマルコ16章7節からですが、この7節の内容は、マタイ26章32節で予告されていて、同28章16~17節で成就します。「(イエスが)死者の中から復活した」は、最初期のキリスト教会へさかのぼる宣教の言葉(ギリシア語で「ケーリュグマ」と称される)の核心です(マタイ22章29~30節/第一コリント15章3~4節)。復活したイエスが、エルサレムではなく、ガリラヤで待っていて、弟子たちと出会うのは、 弟子たちがガリラヤ出身者が多いことだけでなく、エルサレムには腐敗と危難が潜むからでしょう。イエスは、この段階で、すでにガリラヤへ向かっているという解釈もありますが、確かなことは分かりません(Davies & Allison. Matthew 19--28. 668.)。7節の天使の言葉には、「ペトロ」の名前が出てこないことが問題視されていますが、マタイ28章18~20節の成就の言葉にも「ペトロ」がありません。彼も「弟子たち」に含まれるからでしょう(Davies & Allison. Matthew 19--28. 667.)。「見よ。(わたしが)あなた方に告げる」という結びは、お告げが厳かな重みを帯びていることを意味します。
[8]「(ただ、ただ)怖(こわ)かったから」で終わるマルコ16章8節と異なり、マタイでは、「女性たちは、空の墓から急いで立ち去った」が、彼女たちは「恐れと同時に大きな喜びを覚えて」います。だから、イエスの弟子たちに、一刻も早く「告げ知らせたい」のです。マタイの女性たちは、「神秘な喜び」に包まれたので、「何も言わず黙っていた」(マルコ16章8節)のではなく、イエスを信じる弟子たちに「告げ知らせ」ようとします。クリスチャンの抱くイエスの復活信仰と、これを告げ知らせる宣教の原点が、ここに描き出されています。
■ルカ24章
 ルカ福音書の復活物語には、後からの挿入がなされていると疑われてきました(ルカ24章3節/同6節/同12節/同36節/同40節/同51~52節)。これらの節が、有力な二つの写本では抜けているからです。しかし、ほとんどの写本にこれらが含まれていますから、現在では、これらの諸節もルカ自身によるものであると認められています。仮に後からの挿入だとしても、挿入はルカ自身によると考えるか、上記二つの写本のほうが、これらを「挿入」だと見なしたために、意図的に「省いた」と見なされています〔ブラウン『ヨハネ福音書』(2)967~68頁〕。
 ルカ福音書の復活物語は、次の四つの項目で構成されています。
(1)女性たちへの告知。この部分はマルコ16章1~8節の枠が基本になっています。ただし、天使が二人になっていますから、マルコ=マタイ福音書の「一人」だけとは異なります。ルカ=ヨハネ福音書では、「二人」で、特にヨハネ福音書では、「二人の天使」が遺体のあった頭と足下に座っていたとあります(ヨハネ19章12節)。なお、女性たちの知らせを受けたペトロが、急いで墓まで「走った」とあるのもルカ福音書とヨハネ福音書で共通します。
(2)エマオの途上で二人の弟子に顕現します。エマオ途上の顕現物語はルカ福音書だけで、次のように交差法(カイアズマ "chiasma")によって構成されています。
 エルサレムから出る/へ戻る(24章13節と33節)、二人の語り合い/イエスの語り(14節と32節)、イエスが近づく/立ち去る(15節と31節後半)、イエスが見えない/目が啓ける(16節と31節前半)。中心に来るのが遺体の喪失/復活告知(ルカ24章22節と23節)です。なお、マルコ福音書の「長い結び」の16章12~13節は、ルカ福音書のエマオ途上での顕現物語を短くまとめたものです。
(3)弟子たちへの顕現。他の三福音書では、復活後にイエスと弟子たちとの再会がガリラヤで行なわれることを告げていて、マタイ福音書とヨハネ福音書では、これが実現します。しかし、ルカ福音書だけは、かつてイエスが弟子たちに「ガリラヤで告げたこと」を想い出すよう告げていますが、イエスと弟子たちとの再会はエルサレムで行なわれます(ルカ24章36節以下を)。
 ルカ福音書24章36~49節は、マタイ28章16~20節と共通/対応するところがあります。どちらにも、弟子たちの中に「疑いを抱く」者たちがいます(ルカ24章38節=マタイ28章17節)。世界宣教への預言/任務が与えられます(ルカ24章47節=マタイ28章19節)。どちらにも、弟子たちがイエスの証人となることが告げられます(ルカ同48節=マタイ同20節後半)。
 一方で、ルカ福音書24章36~49節では、その前半(36~43節)が、ヨハネ福音書20章19~23節と共通する部分が多いことが注目されます。特に「イエスが真ん中に立って『平和があるように』と語られた」は、両方の語句がほとんど一致しています。その上、「手と脇腹を見せた」(ヨハネ福音書)=「手と足を見せた」(ルカ福音書)とあり、これを見て弟子たちが「喜び」ます。さらに、「罪の赦し」の告知が委託されることも共通します(ルカ24章47節=ヨハネ20章23節)。
(4)昇天。ルカ24章49~52節は、そのまま使徒言行録1章6~11節と対応しています。ただし、ルカ24章50節では「ベタニアの辺り」とあるのに対して、使徒言行録1章11節には「ガリラヤの人たちよ」とあり、昇天の場所がガリラヤであってもおかしくない印象を受けます。また、使徒言行録のほうでは、イエスの「再臨」が約束されています(使徒1章11節)。
 以上のことから見ると、ルカは、マルコ福音書の復活告知の記事に基づきながらも、ルカ自身の手元にある資料を加えて全体を編集し直しています。しかし、ルカの復活伝承は、マルコ=マタイ福音書の伝承と共通するだけでなく、ヨハネ福音書の復活伝承とも共通しており、おそらく50年頃までに形成された口頭伝承が大きく二つに分かれる以前に、すなわち、一方はマルコ=マタイ福音書の系統へ、もう一方はヨハネ福音書と『トマス福音書』の系統へと分かれるそれ以前からの口頭伝承が、ルカ福音書に受け継がれていると推定することができましょう。
[1]【初めの日の明け方早く】マルコ16章1節「週の最初の日の朝とても早く」。マタイ28章1節「週の最初の日に入る燭光が指し染める頃」。ルカ24章1節「週の最初の日の明け方深く(夜明けに近く)」。ルカの言い方を「夜明けの最初の光が差し染める頃」と理解して、マタイ28章1節とも併せて、「まだ暗いうちに」(ヨハネ20章1節を参照)という解釈もありますが、マルコ16章1節には、「日の出とともに」とあるので、ルカの場合も「太陽が昇って夜が明けたそのすぐ後」の意味でしょう(Howard Marshall. The Gospel of Luke. NIGTC. 883.)。
なお、「香料を持って(ほかの幾人かと)墓に行った」と読む異読があります(アレクサンドリア学派の写本/エフライミ写本/Codex Cipiusなど)(本文:シナイ写本/Bodmer Papyrus XIV/ヴァティカン写本など)(Novum Testamentum Graece. 286.)。この挿入は、ルカ24章10節の「そして、一緒に居たほかの女たち」から出ているのでしょう(Marshall. The Gospel of Luke.884.)。
[2]「石が墓のわきに転がしてあるのを発見した」は、復活の最初の予兆を想わせます。マルコ16章3節の「石を取り除く相談」はルカには出てきません。読者は、ユダヤの埋葬を熟知していることが前提されていますから、ごく早い時期からの伝承がルカに伝わっていたと想われます。
[3]「女性たち」とあるのは、何人なのか明示されていませんが、複数の女性でも墓に入ることができたと思われます。ルカのこの記述からは、誰が、何時、墓に入ったのかは見えてきません。「主イエスの」(遺体)が抜けている異読があります(べザ写本/アレクサンドリア学派の写本など)。あるいは、「イエスの(遺体)」という異読もあります(13世紀頃の小文字のギリシア語の写本)。このため、「主イエスの」を削除する版も出ました(19世紀末の『ウエストコットとホルトの新約原典』など)。しかし、現在は、アレクサンドリア学派のごく初期の写本にも「主イエスの」が認められるとして、この句を採用するようになりました。「主イエス」はルカの用語ですが(使徒言行録1章21節/同4章33節などを参照)、この句が省かれたのは、ルカ24章23節の影響だろうと思われます(Marshall. The Gospel of Luke. 884.)。
[4]女性たちは、大事な遺体が見あたらないために、誰に向かって尋ねるべきかを含めて、なにをどうすればいいの全く分からなくなったのです。すると、彼女たちの傍らに、(天下るかのように)忽然(こつぜん)と、電光のようなきらめき発する衣(衣服)姿で、二人が現れたのです。この二人は、あきらかに神から遣わされた天使であることが分かります(使徒言行録1章10節を)。この二人の天使は、ヨハネ20章12節の記述と一致しますから、伝承に基づくもので、ルカの編集ではありません(Marshall. The Gospel of Luke. 885.)。
 ルカは、この二人に、イエスの山上での変貌の姿を思い浮かべているという説があります(France. The Gospel of Mark. 678.)。また、「二人」とあるのは、第二マカバイ記3章26節に出てくる「二人の若者」を反映するという見方があります。
 第二マカバイ記2章19節~3章40節によれば、ユダヤと、ギリシア系の専制君主アンティオコス4世との間で、神殿の偶像礼拝を巡りユダ・マカバイ戦争が始まる以前の時代には、ユダヤには王権が存在しませんでした。その代わり、大祭司がユダヤ支配の実権を握り、大祭司オニア3世(在位前198年~前170年)は敬虔で優れた人物でした。ところが、シモンという人が、都の市場の管理を巡って大祭司オニアと衝突します。シモンは、当時フェニキア地域の将軍であったアポロニオスのもとへ行き、エルサレムの宝物庫には、言い尽くせぬほどの財宝があると密告します。アポロニオスは、そのことをコイレ・シリアとフェニキアの「王」に告げます。「王」は、高官ヘリオドロスを選び、財宝を運び出させるためにエルサレムへ派遣しました。エルサレムに到着したヘリオドロスは、大祭司オニアから、そこにある資金は、孤児とやもめのためのものであり、神聖な神殿の財宝を犯すことがあってはならないと告げられます。しかし、ヘリオドロスが、エルサレムの市民と大祭司の大きな苦悩をも顧みず、護衛の兵と共に神殿の宝物庫へ足を踏み入れると、神の不思議な御力が現れて、二人の若者が壮麗な身なりで現れ、ヘリオドロスを鞭で打ち倒し、さらに、一頭の馬が顕現して、その前足でヘリオドロス打ち倒します。大祭司がヘリオドロスを死なせないよう祈ると、若者たちも彼を赦して助けてやったとあります。この二人の若者は、神のみ遣いだと見なされていましたから、ルカの今回の記述に反映しているのです。生き返ったヘリオドロスは、事実をシリア王セレウコス4世に報告したので、しばらくはユダヤ人を苦しめるような事件も起こらなかったとあります。しかし、アンティオコス4世が即位すると事態は変わり、オニアはすぐに追放され、その後、大祭司メネラオスに暗殺されました。(http://flamboyant.jp/bible/bib313/bib313.htmlを参照 2025年10月2日)。
[5]女性たちが地面に向けて顔を伏せたのは、天使を見た「畏れと驚き」だけでなく(ルカ24章37節)、その衣の輝きがまぶしかったからでしょう。ルカは、マルコにある「驚くな」という天使たちの常套句を省いて、すぐ本筋に入ります。「生きている方」は、ここでは、特別な意味で、「死んだと思われた者が生き返る」という復活の出来事を示唆します(ルカ15章32節/使徒言行録1章3節)。この出来事への「驚愕(きょうがく)」が、女性たちの姿勢に現れています。
[6]天使が告げる内容は、最初期の教会が、イエス・キリストの復活を伝えた「宣教の言葉」(ギリシア語「ケーリュグマ」)を伝えています。「あの方は、ここにはおられない」「復活なさった」がべザ写本では抜けています。“Why do you look for the living among the dead?< He is not here, but has risen. >"(NRSV).< ..... >is omitted.(REB). これらは、マタイ28章6節に従って後から挿入された。このように見なされたために省かれたのでしょうか。「ガリラヤでのイエスのお言葉を思い出しなさい」とあるのは、ルカ18章31~34節を指しているのでしょう(マルコ9章30~31節をも参照)(Marshall. The Gospel of Luke. 885--886.)。
[7]「人の子の受難」と「罪人らの手に渡される」はマルコ14章41節にあり、「三日目に復活する」はマルコ9章31節にあり、「十字架につけられる」はマルコ16章6節にあります。しかし、ルカ24章7節の記述は、マルコのこれらの記述に依存するよりも、むしろ、マルコのこれらの記述の基(もと)になっている伝承がルカに伝わったと見るほうが適切です。ただし、「(人の手に)渡されなければならない(必ず渡される)」とあることから、ルカの念頭には、マルコ9章31節があったのは確かでしょう。ルカのこの記述は、出来事を体験して復活したイエスの言葉から出ていることを明らかにするためです(Marshall. The Gospel of Luke. 886.)。
[8]~[9]天使の言葉を女性たちはどのように受け止めたのかは、ほとんど語られません。彼女たちの役割は弟子たちへ復活の出来事を知らせるためです。マルコ16章8節には、「女性たちは怖くて何も言わなかった」とありますが、マルコ福音書の結び(I)と(II)では、彼女たちが、弟子たちに復活を告げたことが出ています。なお、ルカは、後に、ペトロが、復活のイエスの聖霊が異邦人たちにも注がれる事態が天使によって示された次第を語っています(使徒言行録11章5節~16節)(マーシャル前掲書)。
[10]ルカの記述では、墓を訪れた女性たちは、「マグダラのマリア」「ヨハナ」「ヤコブの母マリア」「一緒にいたほかの女性たち」です。ルカ8章3節には、ガリラヤでイエスの一行と共に居た女性たちとして、「七つの悪霊を追い出してもらったマグダラのマリア」「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」「スサンナ」「そのほかの女性たち」がでています。だから、10節で言う女性たちは、「マグダラのマリア」と、「ヘロデの家に仕えるクザの妻であるヨハナ」と、「ヤコブの父であるゼベダイの妻マリア」の3人と、「その他の女性たち」になりましょう。ちなみに、マルコ16章1節のサロメは、でてきません(Bovon. Luke 3. 352.)。
[11]ルカは、当時としては異例なほど、女性の言動について詳しく述べています。しかし、使徒たちが、女性たちの証言を「たわ言」だと見なしたのは、起こった出来事がにわかに「信じがたい」だけでなく、当時のユダヤでは、「男尊女卑」の風習から、婦人たちの証言を正式な目撃証言として扱うことに難色を示したことにも起因すると思われます(Bovon. Luke 3. 352--353.)。
[12]12節が脱落している版があります(ベザ写本/"REB"など)。本文(シナイ写本/ヴァティカン写本など多数)。脱落の理由はよく分かりません。ヨハネ20章3節~10節のペトロの記事に従って、ペトロの記事がここに12節として挿入された。このように想定されたのが、12節の脱落の理由ではないかとも考えられています。あるいは、12節が、ルカ24章34節と内容的に合わないから省かれたとも考えられます。しかし、ルカは、ここにも、史実としての初期の伝承を取り込んでいると見なすことができます(マーシャル前掲書888.)(Bovon. Luke 3. 353.Note.91)。ルカによれば、男ばかりの十一人の中で、ペトロだけは女性の証言を真に受けたのです。
                     209章 墓を訪れた女たちへ