き 209章 墓を訪れた女たち
マルコ16章1節〜8節/マタイ28章1節〜8節/ルカ24章1節〜12節
【聖句】
■マルコ16章
1安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
2そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
3彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
4ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。
5墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
6若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
7さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
8婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
■マタイ28章
1さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
2すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
3その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
4番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
5天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
6あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
7それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』あなたがたにこれを伝えます。」
8婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
■ルカ24章
1そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。
2見ると、石が墓のわきに転がしてあり、
3中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。
4そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。
5婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
6あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
7人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
8そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。
9そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。
10それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
11使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。
12しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
【空の墓と復活証言】
「空の墓」と、これにまつわる「復活証言」については、以下に見るような解釈の伝統があります。
2世紀のテルトリアヌスは、キリストを埋葬したアリマタヤのヨセフも、キリストの遺体を求めて信心深い行いをした女性たちも、彼らのことは旧約聖書に預言されていると告げていました。テルトリアヌスは、また、マグダラのマリアやその他の女性たちについて、「復活を証言した」これらの女性たちの行為を説明していますが、その際に、七十人訳ギリシア語章15節〜6章2節を引用しています。
「わたしは行って、自分の場所に戻ろう。彼らが、むなしくわたしの顔を求めるまで。苦境の中で、わたしを求め、『さあ、行って、私たちの主なる神に戻ろう』と言うまで。」
「私たちは主のもとに帰ろう。主は私たちを引き裂いたが、私たちを癒やし、私たちを打たれたが、その私たちを包んでくださる。二日の後、私たちを癒やし、三日目に私たちは立ち上がる(生き返る)。」(七十人訳ギリシア語ホセア書5章15節〜6章2節)
なお、テルトリアヌスは、キリストの埋葬者が、「離れ去る」ことについては、「彼を埋葬した者は平穏で、その道/場から離れる」(七十人訳イザヤ書57章2節)を引用しています。テルトリアヌスは、また、ルカ24章11節にあるように、使徒たちが女性たちの証言を無にしたのは、結果として良かった。そのおかげで、続くエマオで、二人の弟子たちが復活について聖書から教えを受けることができたとも主張しています(F.Bovon.Luke3. Hermeneia. 355.)。
4世紀のミラノの主教アンブロシウスは、男の弟子たちが皆逃げ去って、女性たちだけが、空の墓を最初に見出し、復活を知り、そこを最後に離れたとして、この女性たちを賞賛しています。アンブロシウスはまた、復活の出来事の時間的な経緯(いきさつ)や、これに関わった人たちについて、福音書が語る混乱した伝承を調和させようと努めています。
アレクサンドリアの主教キュリロス(370年?〜444年)によれば、「神のお言葉」は、危険を冒してあえて受肉することで、「死を味わう」ものとなられたが、神の恩寵によって、「死を死なせる復活」へ到達したことになります。このおかげで、私たちクリスチャンにも、「不滅」へいたる道が開けたのです。
ヨーロッパの中世では、イエス様の復活の出来事を告げる礼拝のためのドラマでも、復活それ自体が生々しく「見せられる」ことがあまりなく、せいぜい、イエス様が立ち上がり、王冠を受け取ると、イースターのろうそくが灯(とも)される程度です。天使たちが墓の入り口の石を転がしたのは、「復活したイエス様」のためではなく、女性たちや番兵たちが、これを観て驚くためでした。復活の出来事は、寓意(ぐうい)的に解釈されることが多く、「女性たち」とあるのは、「救いを求める人の魂」を意味する表象です。その他、「地震」は「人の心を揺り動かすもの」、「石」は「信仰を妨げる不信仰の石」、若者の「白衣」は「教会の教えをまとう(輝く)白衣」などの表象的な解釈があります。東方の正教でも、イエス様の復活は、「キリストの陰府(よみ)降り」として表される場合が多いようです。イエス様の「体そのものが復活した」ことを強調するのは、16世紀以後のことで、カルヴァンなどの宗教改革時代からです。
「尊敬すべきヴェーダ」「ヴェーダ・ヴェネラビリス」(英語Bede the Venerable)(673頃?〜735年)は、中世初期のイングランドの神学者/歴史家です。彼は、女性たちの「香料」は、復活を悟るための「美徳と祈り」を指すと比喩的に解釈しました。彼によれば、「空の墓」を見た女性たちの前で、石が転がり落ちたのは、「恩寵の新約」に対して、それまでの「旧約の律法」という「大きな石」が転げ落ちたことを意味するのです。
ボナヴェントウラ(1221年〜1274年)(Bovaventura)〔本名「ジョバンニ・デ・フィデンツァ」〕は、イタリアのフランシスコ会の枢機卿です。彼は、ルカの記述が、「受肉」「宣教」「受難」「復活」の四部からなると見ています。復活の記事それ自体も、「(空の墓による)啓示」(ルカ24章1節〜12節)、「復活顕現」(同13節〜32節)、「復活への確認」(同33節〜47節)、「復活確認の伝播」(同48節〜53節)の四つに分けています。ボナヴェントウラによれば、イエス様の復活が、男性よりも先に女性に知らされたのは、エデンで、最初に「死を招く」罪を犯したのが女性のほうだからです。このため、「不滅の命」の再興/復活も、女性から始まることになります。
16世紀のルターは、女性たちによるイエス様への愛を認めつつも、女性たちが復活者に「出会う」ことができないのは、彼女たちの未熟のせいだと見ています。ルターは、儀礼や敬虔だけでは、復活のキリストには出会うのが難しいとも指摘しています(Bovon. Luke 3. 358.)。
ヘルマン・リーマルス(Hermann Samuel Reimarus)(1694年〜1768年)は、ドイツの哲学者で、人間の理性による理解に基づく「有神論」を啓蒙(けいもう)した人です。彼は、キリスト教の「超自然性」に疑問を抱き、「歴史のイエス」を探求する先駆けとなりました。リーマルスは、マタイ27章54節の百人隊長や見張りの人(兵士)たちの記事、同62節〜66節の見張りの番兵の記事の歴史性に疑いを抱きます。共観福音書が伝える空の墓と復活の記事にも相互に矛盾があり、イエスの遺体は「盗まれた」と結論しています。リーマルスは、福音書の記事を「批判する」ために口火を切った人です(Bovon. Luke 3. 358.)。
シュトラウス(David Friedrich Straus)は、1835年に『イエスの生涯』を著(あらわ)しました。彼は、「歴史のイエス」から「信仰のキリスト」へ転移するその過程を適切に説明できない「合理主義」を批判すると同時に、福音書が伝える「超自然の奇跡」をも批判しました。シュトラウスは、聖書解釈に「神話」という概念を導入した最初の人です。彼によれば、福音書が伝える復活の目撃者たちの証言は、「空の墓」も「復活顕現」も信憑性に欠けています。シュトラウスによれば、イエスは十字架上で死んだのであり、遺体が「盗まれた」こともありません。リーマルスもシュトラウスも、復活の史実を信じる批評家たちから批判を受けますが、現在では、もはや、この二人の説を無視することができません(Bovon. Luke 3. 360.)。
【復活とキリストの御霊】
ごく当たり前のことから始めます。「復活」とは、「人間」が、一度死んで、そこから「生き返る」ことです。だから、「復活」は、この世で生きている「人間」に起こることです。ところで、「復活した」と言われる「キリスト」は,
通常の生物学的な意味での「人間」でしょうか? 答えは「いいえ」です。キリストは、生物学で言う<人間>ではありません。なぜなら、その意味で言う「人間」は、紀元1世紀に、パレスティナで生きていた「ナザレのイエス」のことだからです。「十字架につけられたナザレのイエスが復活した」(マルコ16章6節)。神から遣わされた若者が、女性たちに告げたこの言葉こそ、イエス様の「復活」を言い尽くしています。これで初めて、イエスという人間が「救い主(キリスト)」になられた。この「救い主イエス」を「イエス・キリスト」と称します。ナザレのイエス様は、自分が死んで復活して、こうすることで、人々を、自分と同じように、「死んで復活させる」ことができる方になられました。「一度死んだと思われた人が、生き返った。」こういう例なら、世の中にしばしばあります。しかし、「生き返った」その人が、他人をも同じように「生き返らせる」力を発揮するとなれば、これは、もはや、人間の「生き返り/再生」"regeneration"ではない。これが「復活」"resurrection"です。だから、「復活した」イエス・キリストは、人格的には同じイエス様ですが、それまでの「人間イエス」と全く同じではありません。
では、人間「ナザレのイエス」は、どのようにして、復活したキリストになられたのでしょうか? 答えは、マルコ1章9節〜11節にあります。ガリラヤのナザレから出てこられたイエス様は、紀元30年頃の当時、神の国を伝えていた「洗礼者ヨハネ」(「バプティスマのヨハネ」と称される)から洗礼を受けます。すると、自然界にはその姿を顕(あらわ)さないはずの超自然の「天の神」から、突然に、まるで「天が裂けた」かのように、風を呼ぶ鳩の羽ばたきにも似た霊風が、イエス様に吹き降ったのです。その結果、「天からの神の聖霊が、ナザレのイエス様に宿る」という事態が起こったのです。ナザレのイエス様は、この瞬間、天の神の御力と御性質を具える「神の子」となられた。これが、マルコを始め、福音書が証(あか)しする事態です。
この人は、ナザレ村に、マリアと夫婦で暮らしているヨセフの息子ではないか? いったい、この息子に何が起こったのか? イエス様を知っていた当時の人たちは、こう言って不思議に想い、つぶやき合います。復活する「命(いのち)」を授与するのは、大自然をも超える神からの聖霊の働きであって、死ぬべき体を具えた人間には、とうてい理解不可能な「異常事態」です(ヨハネ6章41〜42節/同6章60節〜63節)。だから、今回、空の墓を訪れた女性たちが、イエス様の遺体が消えて、イエス様の復活が宣言される事態に、「驚愕(きょうがく)してものも言えない」状態に陥るのも無理がありません。
【十字架の死からの復活】
「空の墓」伝承は、古く、これだけが独立して伝えられたものです(F.Bovon.Luke3. Hermeneia. 347.)。パウロの証言によれば、イエス様の遺体は、「聖書にあるとおり私たちの罪のために死なれた」とあり、「葬られた」とあり、「三日目に復活した」とあります(第1コリント15章3〜4節)。だから、パウロが、第1コリント15章35節〜49節で証しするとおり、イエス様のご遺体が、空の墓から出てくるときには、その姿は変貌して「天上のものにふさわしい」ものになっています。共観福音書が伝える内容では、この辺の事情が漠然としています。
しかも、パウロは、その「最も大事なこと」として伝える十字架のイエス様の死と復活が、「私たちの罪のため」だと断じるのです!(第一コリント15章3節)。"Christ
died for our sins"(NRSV)(REB). 採りようによって、この言葉は、イエス様を十字架に掛けたのは、実は「私たち罪人だ」とも受け取れます。私たちもまた、「(イエスを)十字架につけよ!」と叫んだあのユダヤの民衆と同罪だという意味です。
しかし、パウロの言う本意は、そうではなく、イエス様の十字架と死と復活は、実は、私たちもまた、ナザレのイエス様同様に、イエス様の「死と御復活」体験に与ることができるのためにほかならない。イエス様の十字架の死と御復活は、私たちに「この道を切り開いて」くださった。これが、パウロが、ここで言う意味です。驚くべき発言です!これこそ、「空の墓」と「イエス様御復活」の告示が、女性たちに伝えられ、弟子たちに伝えられ、及び及んで、今の私たちにも伝えられている「福音の真理」です。イエス様を死から復活させた同じ聖霊が、今、私たちにも注がれて、私たちの死ぬべき存在もまた、イエス様同様の「復活の命」に与ることができる。これが、パウロが伝えている「最も大事なこと」です。感謝というより驚きであり、喜びというより驚愕です。女性たちが、何も言えず、ただ、驚きと畏(おそ)れにおののいたは、こういうわけです。
現在のエルサレムにある聖墳墓教会は、イエス様が埋葬された墓の場所に建てられています。しかし、そこは、かつてローマの皇帝ハドリアヌスが、1世紀末頃に、イエス様御復活の墓の跡を消し去ろうとして「ユピテル・カピトリアヌス」(ジュピターの神殿)を建てた場所であり、聖墳墓教会は、その同じ場所に、4世紀に建てられたものです。だから、「空の墓」も「遺体」の有り様も今は失われています(F.Bovon.Luke3. Hermeneia. 346--347.)。それにもかかわらず、イエス様の御名を呼び求めるときに、「人の想いを遙かに超える」イエス様の霊性が、不思議な力を発揮して授与されるという「出来事」が生じるのです。
イエス様御復活の出来事は、今もなおその力を失うことなく! イエス様の御名を呼び求めるすべての人たちに、かつてと同じ力とお働きをもって臨在して働き、その不思議な「出来事」を「わたしたちに体験させて」くださるのです。
リーマルスやシュトラウスが抱いいだた「宗教的妄想」への懐疑や危惧は、それなりに根拠があります。それでもなお、そのような懐疑や判断は、大自然において「現実に起こる出来事」と同様に、「そんなはずがない」などと唱えることで、「起こらない」ことには「できない」のです!コイノニア・ホームページ→聖書と講話→5分間説教集→「新次元のパワー」を参照。だから、
復活の出来事は、人の肉眼では見えない出来事です。
知的な現代人にとって理解することのできない出来事です。
主観と客観の両方を併せ持つ主客一如の霊的な事態です。
イエス様の御復活から降る「大きな喜びをもたらすこの神の御業」は、無宗教な現代人の概念世界が粉砕されることで初めて、その人にもたらされる人知を超える出来事なのです〔ウルリヒ・ルツ『マタイによる福音書』小河陽訳。EKK新約聖書註解(Iの4)。教文館495〜505頁〕。
共観福音書の講話へ