210章 女性たちへの顕現
マルコ16章9節〜11節/マタイ28章9節〜10節/ルカ24章10節〜11節
【聖句】
■マルコ16章
[9]イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。
[10]マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。
[11]しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。
■マタイ28章
[9]すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
[10]イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
■ルカ24章
[10]それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいたほかの女たちであった。女たちはこれらのことを使徒たちに話した。
[11]しかし、使徒たちには、この話がまるで馬鹿げたことに思われて、女たちの言うことを信じなかった。
【注釈】
【講話】
今回の箇所では、イエス様の御復活を「信じる」ことが、「幽霊」でも「妄想」でもなく、実感できる明確な「出来事体験」によることが、女性たちによって証しされています。しかも、その女性たちの行為そのものも、イエス様からの積極的な開示/啓示によって生じていることに注目してください。しかし、わたし自身の体験を踏まえて申し上げるなら、いわゆる「キリスト教国」の人ならいざ知らず、キリスト教のことをなんにも知らないごく普通の(日本の)人は、「イエス様が復活した」などと聞かされても、福音書の記者たちが言うように、「信じる気にもなれない戯言(たわごと)」だと受け取られます。まさにこれが、女性たちの証しを聞いた弟子たちの最初の反応です。
それでも、「ナザレのイエス様はいまも生きておられる」、これが私の信仰の核心です。私は、これが「キリスト教」の核心でもあると思っています。「イエス様!」と御名を呼ぶわたしの祈りは、イエス様の御復活の出来事から発している。こう実感するからです。おそらく、この実感は、クリスチャンなら誰でも共有する体験であろうと思います。
今回の女性たちが、復活を信じ体験することで、イエス様が今もなお生きておられると信じるだけでなく、その出来事を実体験するにいたるまでの過程を見ていると、彼女たちは、不思議な力のお働きによって、そのように「仕向けられている」という「受動的な能動行為」という印象を受けます。こういう事態こそ、「イエス様の御復活」が、私たちにもたらしてくださる最大最高の天与の賜(たまもの)であり、イエス様の出来事が、「福音」(喜ばしい出来事)として人々に「伝わる」その不思議な力の秘密なのです。
では、いったい、今も生きておられるイエス様のお働きは、何を目指し、私たちに何をもたらしてくださるのでしょうか? イエス様は、今回の箇所で、ご自分を裏切って逃亡した弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」と呼んでおられます。この呼びかけは、復活したイエス様ご自身と同じ意味で、弟子たちもまた、神による御復活に与る「御国の相続人」なることを予告するものです。この点は、ローマ8章13節〜17節を参照してください〔ウルリヒ・ルツ『EKK新約聖書註解』I(4)508頁を参照〕。
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