211章 番兵の報告
              マタイ28章 11節〜15節
                     【聖句】
■マタイ28章
11婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。
12そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、
13言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。
14もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」
15兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。
                     【注釈】

                                                 【講話】
 今回のマタイの記述は、先の「番兵が墓を見張る」記事と(マタイ27章62節〜66節)、「大きな地震が起こり、主の天使が墓石を転がした」記事と(同28章2節〜4節)同じ資料から出ています。今回、マタイは、マタイとマタイの教会が直面している「ユダヤ教」の側からの反論に答えようとしています。しかし、「モーセと預言者にも耳を傾けようとしない」者たちは(ルカ16章31節)、イエス様の復活を信じることができません。だから、「死体が盗まれた」という偽情報を流すのです。見張りの兵士たちまでも、「金で操られて」、祭司長たちの策謀に味方することになります。
  祭司長たちは、終始一貫して、イエス様御復活の出来事を「なかった」ことにしようと企んでいます。なぜでしょうか? 彼らにとって、イエス様の御復活は、「あってはならない」出来事だからです。彼らのこういう姿勢は、イエス様を十字架刑に処するよう民衆を仕向けた理由と重なります。それは、生前のイエス様の言動が、彼らにとって「あってはならない」からです。なぜそれほどまで、イエス様を憎むのでしょうか? 答えの一つが、今回の記事に「端無くも」記されています。それは「お金」です。伝統的な教会の解釈でも、見張りの番兵たちが、祭司長たちによって「金で操られた」出来事を重視して、宗教的な霊性と信仰にかかわる大事な出来事が、「金に操られる」現実に警鐘を鳴らしています〔ウルリヒ・ルツ『マタイによる福音書』517頁〕。
 そもそもイエス様が、最も厳しく批判したのが、エルサレムの神殿制度です。イエス様の目から見れば、神殿制度が、民衆から「金を巻き上げる」ための最も有効は手段となり、この意味で、神殿は「強盗の巣」(マルコ10章17節)と化しているからです。マタイが一貫して、「祭司長たち」を批判するのも、彼らこそ、エルサレムの神殿制度を支えていた張本人だからです。
 イエス様が神殿批判で目指したのは、神殿制度を改革して、ほんらいの在るべき姿を取り戻すためでした。神殿に象徴される宗教的な理念が、神の御心に沿う「正しい」霊性に根ざしていなければならないからです。ところが、現実には、神殿とその制度がもたらす「経済的な効果」のほうが優先されて、神殿は、いわば、これを支える指導層を始め、その制度の全体を支える末端の人たちの生活の手段と化していたのです。そのことが、何事も「金で解決しよう」とする彼らの姿勢にも表れています。このために、神殿制度を「変革しよう」とすれば、神殿制度に関わる一部の人たちの利益、あるいは損失にかかわることになります。それだけでなく、神殿制度につながる多数の人たちの利益と生活にもかかわることになります。だから、神殿の制度を改革するのは容易でありません。
 身近な例で言えば、現在の日本の政治でも、ほんらいの有るべき姿を取り戻すためには、「政治と金」の問題を避けて通れません。選挙制度さえも、金がからんできます。選挙や外交などの分野だけでなく、教育や医療などの分野でも、一部の大手の利益を損なう改革は容易でありません。ことほどさように、宗教も含めて、ありとあらゆる分野で、「お金がものを言う」のです。だから、祭司長たちは、番兵たちの報告を聞いても、先ず自分たちの利益を考えて、問題を「遺体の盗み」へとすり替えて、 巧みに変革をそらそうとするのです。事は、復活についても同様です。イエス様は、「復活」について、サドカイ派の指導者たちの「思い違い」を指摘しています(マタイ22章29節〜32節)。しかし、サドカイ派は、自分たちの復活信仰の有りようを変えようとはしません。自分たちの復活信仰が、自分たちの利益にかなうように留意しているからです。
 イエス様は、神殿に関して、「何が一番大事なのか」を明示しています。それは、「公正」と「慈悲」と「誠実」です(マタイ23章23節)。言い換えると、「公正と神への愛」(ルカ11章42節)、これこそ、神を信じるイエス様ご自身の「信仰」の核心だからです。あらゆる立場の人たちを顧みて偏らない心は、誠実に「神を愛する」人だけに宿る特徴です。だから、私たちに、「こういう霊性」に沿って生きるよう求めておられるのです。この世で行われる政治も経済も教育も医療も、こういう「宗教的な霊性」に根ざしていなければなりません。しかし、これは、「金で動いていては」実現できません。これが、今回のイエス様のお言葉が私たちに告げている警告です。
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