【注釈】
■マタイ28章
今回のマタイの記述は、マタイ27章62節~66節と同28章2節~4節と同じ資料から出ています(Davies and Allison. Matthew 19--28. Hermeneia. 670.)。マタイの記述では、28章4節~5節で、見張りの番兵から女性たちのほうへ目を向け変えますが、この11節で、再び番兵に戻ります。どちらも、それぞれの相手に「報告する/言い伝える」のですが、両者が報告する行為の時間関係は、28章8節での「女性たちの行動」と、同11節での番兵たちの報告で語られます。しかし、同じ出来事でありながら、これに対する両者の「体験」は異なって対照的です。同一の出来事でありながら、これに対するこのような「見解の相違」は、マタイ9章1節~5節でのイエスと律法学者との対照的な違いと、今回の女性たちと見張りの番兵たちとの違いと共通します(Nolland. The Gospel of Mark. 1255.)。「律法学者のある者たちがこれを見て」(9章3節)とあるのと、今回の「番兵のある者たちがこれを見て」(28章11節)とを比較してください。
[11]番兵たちが市内へ入ったのは、「女性たちが、まだ(エルサレム市内へ)行く途上にあるとき」です。
【この出来事】単純に考えれば、「イエスの遺体が見失われた」ことですが、「この出来事」の関係者の立場からすれば、事はそれほど簡単でありません。先に、ユダヤ人のアリマタヤのヨセフは、わざわざ、ピラトのところへ出向いて、イエスの遺体を引き取るという異例の処置を願い出ています(マタイ27章58節)。その上、祭司長たちとファリサイ派の人たちは、ピラトに向かって、「イエスの弟子たちが遺体を盗み出すおそれがある」と進言して、これの予防のためと称して、ピラトから、見張りの番兵たちを「祭司長たちの管轄下に」配置してもらっています(マタイ27章65節)。ところが、「稲妻のように輝く天使たち」に接して、その見張りの兵士たちは「震えあがって死人のようになる」事態が発生したのです(28章4節)。その上、遺体が置かれた場所から遺体が消えたのです!番兵たちが、大急ぎでエルサレム市内にいる祭司長たちに「この出来事」を「正式に報告した」のは、ピラトの命令によって、祭司長たちが、自分たちの責任者だからです。「この出来事」で、最も困惑したのは、報告を受けた祭司長たちと長老たちです。
[12]先に、祭司長たちは、ピラトのところへ「集まって」、ピラトから見張りの兵士を任されています(マタイ27章62節)。ところが今度は、ピラトに「この出来事」をどう言い訳するかを相談するために「集まった」のです。
【多額の金】祭司長たちは、先に、「それに相当するだけの」金額をユダに与えて、「(ユダが)知っていることを語らせる」ことで、イエスを裏切らせています。ところが、今回は、祭司長たちは、見張りの番兵たちに金を渡して、「知っていることを言わない」よう命じるのです。これは、女性たちがわざわざ告げ知らせた「イエス復活の目撃証言」に対する裏切りです。(Nolland. The Gospel of Mark. 1256.)。ちなみに、外典の『ペトロ福音書』11章では、「イエスは神の子」だと言った見張りの百人隊長とそのまわりの人たちが、夜のうちに、墓の出来事をピラトに報告します。ピラトは、「神の子の血」で自分を汚したくないので、周囲の人の助言を受けて、「見たことを誰にも話すな」と見張りの番兵たちに命じています(日本聖書額研究所編『聖書外典偽典』(6)新約外典(I):154頁)。
[13]~[14]祭司長たちが「集まった」これまでの例を見ると、イエスの存在を通じて起こる「神の業」とイエスが語る言葉とを、無効にしようと計る意図を一貫して読み取ることができます(マタイ21章23節、22章34節、26章3節、27章7節、同62節)。一連の「相談」が意図するのは、「イエスを亡き者にして、その業を滅ぼす」ことです(Nolland. The Gospel of Mark. 1256.)。祭司長たちは、マタイ27章63節で「(起こるのではと)恐れていた/用心していた」ことを28節13節では「起こった」と言わせています。祭司長たちは、自ら考え出したこの策謀に自らはまって、「ほんとうに」そう信じこんでいるのでしょうか?(Nolland. The Gospel of Mark. 1256.)。そうではなく、祭司長たちは、「空の墓」を知りつつ、これに「戦術的に対抗しよう」とするのでしょう〔ウルリヒ・ルツ『マタイによる福音書』512頁〕。「夜の間に」とあるのは、自分たちには確かめようがないことを示唆します。「この出来事がピラトに報告されても、あなたたち(番兵たち)に迷惑がかからないよう配慮する」とあるのは、ピラトにもそれ相当の「賄賂を贈る」ことを示唆するのでしょう(Nolland. The Gospel of Mark. 1256--1257.)(Davies and Allison. Matthew 19--28. Hermeneia. 672.)。なお、ここで語られる一連の出来事は、マタイの発想とこれに基づく創出であるという見解がありますが〔ウルリヒ・ルツ『マタイによる福音書』510~511頁〕、そうではなく、マタイの資料によるものでしょう(Nolland. The Gospel of Mark. 1256--1257.)。
[15]金を受け取った兵士たちは、「(祭司長たちから)教えられたとおりに」します。マタイは、ここで、過越の食事の準備をする際に、イエスから「教えられたとおりに」実行した弟子たちと(マタイ26章19節)、この兵士たちとを対照させているのでしょうか(Nolland. The Gospel of Mark. 1257.)。
【ユダヤ人の間に】マタイは、通常「ユダヤ人(たち)」をユダヤ人以外の人たちの口から言わせています。しかし、ここでは、言わばマタイ自身の記述として「ユダヤ人たち」が出てきます。通常「ユダヤ人たち」には定冠詞がつくのですが、ここの「ユダヤ人たち」には冠詞がありません。マタイは、自分がイエス・キリストを信じる「ユダヤ人」として、キリストを信じない「ユダヤ人」と自分との間に、ここで一線を画しているのでしょうか。「今にいたるまで」とあるように、15節には、マタイによる福音書が書かれた80年代(の前半?)でのマタイの属するキリスト教会が、パレスティナ北部のシリアのアンティオキアにあって、その教会のキリスト教徒とユダヤ人との間に生じつつある「緊張関係」が、ここの「ユダヤ人たち」にも影響しているという見方があります。ただし、マタイもマタイの教会も、伝統的なユダヤ教(とその律法)に比較的忠実なグループでした。だから、今回の記事が、「神に見捨てられたユダヤ人たち」と「神の救済史に組み込まれたキリスト教会」とを対照させているという見方は、必ずしも適切でありません〔ウルリヒ・ルツ『マタイによる福音書』516頁〕。ただし、イエスが、当時の「ユダヤ人たち」に向けて語り預言した「神の裁き」(マタイ23章34節~36節)が、ユダヤの滅亡となって現実に生じた(70年頃)ことが、ここの「ユダヤ人たち」を語るマタイの念頭にあったと思われます(ノウランド前掲書)。
211章 番兵の報告へ