【注釈】
■マルコ16章
[12]~[13] マルコ福音書のいわゆる「長い結び」(結びI)は、四つの部分で構成されていますが、「二人の弟子にあらわれる」は、その二つ目にあたります(209章「空の墓を訪れた女たち」の補遺「マルコ福音書の結び」を参照)。その内容は、直前の「マグダラのマリアへの顕現」と並行します。なお、「彼らの内の二人」とある「彼ら」とは、16章7節の「弟子たちとペトロ」、同10節の「イエスと一緒にいた人たち」を指しますから、「ペトロ以外の十一人の弟子」の中の二人になりましょう(A.D. Collins. Mark.808.)。先の十一弟子はマグダラのマリアを信用せず、今回の九人の弟子も二人を信用しません。弟子たちにとって、復活はそれほど「意外」な出来事だったのです。マルコ16章12節は、ルカ24章13節~35節の「エマオ途上の二人への顕現」をまとめている(後からの挿入?)という説もありますが(コリンズ前掲書と脚注64)、マルコ16章12節では「二人に」(原語「ドゥシン」)と与格ですが、ルカ24章13節は「二人が」(原語「ドゥオ」)と主格です。
■ルカ24章
 ルカ24章13節~35節では、エマオ村に向かう二人の弟子に、復活のイエス自身が近づいて現れますが、彼らにはイエスだと「見分ける/認知する」ことができません。イエスが彼らに「何を話し合っているのか?」と尋ねると、クレオパが、「最近エルサレムで起こった出来事を知らないのはあなただけだ」と言いつつ、「ナザレのイエスこそイスラエルを解放してくれる」と信じた預言者だったのに、祭司長たちと議員たちによって十字架刑に処せられるという「がっかり/落胆させる出来事」を告げ、さらに、イエスは、生前に、「死んで三日目によみがえる」と預言していたのに三日経っても現れず、しかも女たちが、「空の墓」を発見したので、彼らも驚いていると言います。そこで、イエスが、「預言者を信じない愚かで心の鈍い者」と二人を叱責しますと、二人は、イエスを誘って、宿を共にするよう申し出ます。二人は、イエスが食事の席でパンを裂く仕草を見て、「見慣れたその仕草」から「イエス」だと悟り、立ち上がるとイエスの姿が消えます。二人は、イエスが旧約聖書からの預言を語ったときに「胸が燃えた」のを体験して、この次第を「エルサレムの仲間たち」に伝えます。だが、仲間たちは、すでに、イエスの復活を知っています(H. Marshall. The Gospel of Luke. 889.)。
 このエマオの出来事は、使徒言行録8章26節~40節の「フィリポの出来事」と比較されます。エルサレムから旅をする、知らない人と出会う、共に居るよう要請する、旧約聖書について未熟である、旧約聖書の預言の解説、洗礼と食事(のサクラメント)、姿が突然に消える、体験を告げ知らせるなど、二つの物語には共通するところが多いからです(マーシャル前掲書890頁)。
 ルカの今回の記述の仕方は、「赴く(歩く)」(13節/28節)、「共に歩む」(15節)、「すると起こった」(15節/30節)など、ルカがよく用いる用語や、その対称的な構成、メシアについての聖書からの預言など、用語と神学の両面から見て、ルカ的な性格が強い記述だとされています(F. Bovon. Luke 3. 367. )。このことから、史実と関わりのないルカによる「創出」ではないかいう説もありますが、ルカが「資料を用いている」ことが分かりますから、たとえルカによる編集が加わっていても、物語それ自体がルカの「発案」だと見なすのは軽率です。先に指摘したように、エマオとピリポの二つの物語は、共に「人々による伝承」の特徴を具えていますから、なんらかの史的な事実に基づく伝承と資料から出たと見なすことができます(マーシャル前掲書891頁)(F. Bovon. Luke 3. 369. )。
 今回のエマオへの体験談は、その締めくくりの24章33節~35節で、「エルサレムへ戻った」二人によって、続く36節~43節での弟子たちへのイエスの顕現につながります。同時に、エマオへの体験談は、これに先立つ、ペトロによるイエスへの復活認証(24章12節)ともつながりますから、ペトロと、ほかの二人との二つの復活体験を通じて、弟子たちは、「誤解」と「絶望」と「イエスとの離別」から、イエス復活の「認知」と「希望」と「(イエスにある)弟子たちの交わりの回復」へと移行するのです(F. Bovon. Luke 3. 367. )。
【記述の対称性】
 エマオへの二人の記述の中心部は、イエスの問いかけに、二人が「ナザレのイエス」について語る部分です(19節~27節)。この部分を真ん中に、二人とイエスとの出会いと語りかけの部分(13節~18節)と、二人の相手がイエスだと「気がつく/認知する」部分(28節~35節)とが、中心部を挟む形で「対称形」を構成しています(F. Bovon. Luke 3. 367. )。さらに、各部分の語りを見ると、13節~18節では、「すでに復活している」イエスが、二人と共に歩み始め、イエスも一緒に「歩いて行く」という「歩み」を通じて描かれます。19節~27節では、すでに旧約聖書で預言されていることが、「今になって」解き明かされます。28節~35節では、一緒にいる人物が、イエスであると二人に認知されます。このように、「すでに起こっていること、あるいは存在していること」が、時の経過と人の歩みの中で、「今になって分かる/悟る」という構成が浮かび上がってきます。語りを通じて出来事を知り、知った出来事が「祭儀的な意義」を帯びることも大事な点です。ルカは、私たちが福音を悟る現実の事態を記述することで、「イエスの復活」を証しするのです(F. Bovon. Luke 3. 368. )。
[13]~[14]原文は、「すると、見よ。彼ら(弟子たち)の二人がその日に歩いていた」で始まります。クレオパともう一人は、十二使徒ではありませんが、先の72人の中の弟子です(ルカ10章1節)(F. Bovon. Luke 3. 370.)。なお、クレオパは男性ですが、もう一人は女性ではないか?と想定する説があります(Bovon. Luke3. 370.)。
【その日】は、ルカ24章1節の「週の初めの日」ですから、女性たちが「空の墓」を発見した日と同じで、ニサンの月の16日(日曜日)です。女性たちは、この日の朝早く「空の墓」を発見したのですが、この二人は、おそらく、同じこの日の午後に歩いていたのです。彼らは、15日の過越の祭の巡礼のためにエルサレムへ登り、その翌日、家に戻ろうとして、エマオに向かっていたのでしょう(I. H. Marshall. The Gospel of Luke. 892.)。
【六十スタディオン】「エマオ」の語源はヘブライ語の「ハマス」(泉/温泉)からです。「60スタディオン」は約11・5キロほどですから〔岩波訳『ルカ文書』147頁(脚注6)〕、エマオは、エルサレムから、北西へ直線距離で15~17キロのところになりましょう。エルサレムから北西へ道が通じていて、ペトロがアイネアを癒やしたリダ(現在のロド)(使徒言行録9章32節参照)から、さらに沿岸の(現在の)ヨッパとテルアビブへ通じる幹線道路がありました。現在、この道路には、エルサレムから西へ10キロほどのところで、二股に分かれる複雑なサークルがあり、北東方向に曲がる道があります(おそらくイエスの頃にも同じように)。そこを北東へ曲がるとキリアテ・ヤリム(現在も同名?)に出ます。その道は、キリアテ・ヤリムから、やや北東の方角にあるギベオン(現在のギヴォン)に通じていて、キリアテ・ヤリムとギベオンとの間の中程で、現在のアブ・ゴーシ(Ab Ghosh)の交差点の西方のあたりに(?)エマオがあったと考えられます〔『聖書大事典』付録地図「パレスティナ聖書歴史地図」〕〔Peter Connoly. Living in the Time of Jesus of Nazareth. 81.〕。従来、「エマオ」の場所は、エルサレムから北西へ向かう幹線道路(1号)のラトルム交差点の北東にある「エマウス・ニコポリス」(ギリシア語名)などが重視されてきました。しかし、ここは「市街」ですから、聖書の「エマオ村」には不適切です(F. Bovon. Luke 3. 371. )。
[15]~[16]【論じ合って】「論じ合う」とありますが、原語の「一緒に語り合う」は、「議論する」だけでなく「論争する」の意味もあります(F. Bovon. Luke 3. 372.)。彼らは、女性たちから「(イエスの)復活」という聞き慣れない出来事を告げられても、その真相を確かめることができず、「この出来事」が広げる「いろいろな問題」を道を歩きながら議論し合っていたのです。ちなみに、後にパウロが、「エウティコ」の出来事(使徒言行録19章9節~11節)の場面で、復活について「深く語り論じる」様子が出てきます。
【イエスご自身が】「イエス」に冠詞がある版(べザ写本/Codex W)と、ない版(本文)とがあります。パウロは、復活の体が、肉体から霊体へ変貌すると指摘しています(マルコ16章12節)(第一コリント15章42節~44節)。今回の記事で分かるとおり、復活した「人格的な霊体」は、生前の人間の姿と必ずしも矛盾するものではありませんが(H.Marshall. The Gospel of Luke. 893.)、その実態が、生前の存在とは異なることが、復活体の言葉や動作などで判明します(ルカ9章45節/同18章34節)。
【遮られて】原語は、「何かにとらわれて引き留められる」ことで、動詞の3人称複数未完了形受動態です。復活したイエスが一緒に居るのにそれが分からないのは、サタン(悪魔)の働きで「理解が遮られているからだ」という受け取め方もありますが(H.Marshall. The Gospel of Luke. 893.)、それよりも、むしろ、彼らは、今自分の身に起こっている「復活のイエス体験」の出来事が、自分に納得できる言葉も、自分が理解できる知的な解釈も与えてくれない(「目が遮られる」の意味)状態にあることを表します。「復活の出来事」は、「人間の知性と理解を超える」神の御業だからです(F. Bovon. Luke 3. 372.)。
[17]~[18]イエスの問いかけに悪げは感じられませんが、二人は、「立ち止まって」、「暗く悲しげ」で、やや「不機嫌な」表情で、その見知らぬ人のほうを向いたのです(29節で、二人の表情が好意に変わります)。クレオパは、「あんただけが知らないとは!」と言いつつ、「この人も」自分たち同様に、祭りでエルサレム登った巡礼の一人で、家に戻ろうとしていると思ったのでしょう。
【クレオパ】原語はギリシア語で「クレオパス」。男性形の固有名詞「クレオパトロス」の縮小形です。ちなみに、女性形は「クレオパトラ」です。ユダヤ名では「クローパース」でしょう。ルカは、もう一人の名前をあげていませんが、おそらく、この二人が誰かは、ルカの読者たちの間で知られていたと思われます(Marshall. The Gospel of Luke. 894.)。このクローパースをヨハネ19章25節の「クロパ」と同一視する説があります。そうだとすれば、クレオパは、イエスの十字架刑に立ち会っていた三人の「マリア」の一人(イエスの母マリアの姉妹?)の夫になりますから、クレオパと共に居る「もう一人」は、彼の息子、あるいは妻ではないかということになりますが、確かではありません(マーシャル前掲書)(Bovon. Luke 3. 373.)。
[19]~[20]19~20節を私訳すると、
 
そこで(イエスが)「どんなことか?」と言うと
二人は彼に言った。
「ナザレのイエスについてです。
彼は預言者として現れ出で、
神の御前と民全体の前で
業にも言葉にも力ある人でした。
彼をどのように引き渡したのか、その事情は
私たちの祭司長たちや議員たちが
死刑を宣告して彼を十字架刑にしたことです。」
 
 「どんなことか?」は「何が問題なのか?」の意味です。「ナザレ(人)」の原語は「ナザレーノス」(の属格)(シナイ写本/ヴァティカン写本/Bodmer Papyrus XIV.など)ですが、読み替えの異読では「ナゾーライオス」(アレクサンドリア学派/べザ写本/Codex Cypius/Codex Purpureus Petropolitanus など多数)があります。ここでは、やや異例の読み方ですが、ルカがその資料によっているからでしょう。イエスが「復活のキリスト」と称される以前のユダヤでは、「預言者」は、その人に対する最高の称号でした(使徒言行録3章22節/同7章37節)。「神の御前」とは「神によって認められている」ことです(ルカ1章6節)(Marshall. The Gospel of Luke. 894--895.)。「彼をどのように・・・・・」は、原文では間接話法になっていて、ルカ22~23章の受難物語の核心をまとめています(F. Bovon. Luke 3. 373.)。「引き渡す」は、ローマを意識していますが、この語は「裏切る」の意味も含みます。
[21]~[23]私訳をあげます。
 
私たちは、望みを抱いていました。
あの方こそ、きっと
イスラエルを解放してくださると。
ところがです。これらすべてにかかわらず
このことがあって、すでに三日も経っているのに
私たちの中の女性たちが
私たちを驚かせるのです。
朝早く墓に行きますと
あの方のお体が見当たらないので
戻ってきて言うのです
なんと、天使たちが現れて
あの方が生きていると告げたと。
 
【望みを抱く】弟子たちの「望み」とは、イスラエルがローマの支配から「解放される」ことでしょうか、それだけでなく、弟子たちが、その罪と肉体の死とからも解き放たれることも含むのでしょう(Bovon. Luke 3. 373.)。しかし、抱き続けてきた(原語は不定過去形)その望みも、危うくなってきます。生前のイエスが、「たとえ死んでも三日目に復活する」と繰り返し預言していた(ルカ9章22節/同18章31節~33節)にもかかわらず、三日経っても何も起こらないからです。
【このこと】イエスの十字架の出来事を指します。
【すでに三日】当時のユダヤの通念では、人が死んで4日経つと、その魂が肉体から離れると信じられていました。ヨハネ11章39節で、死んだラザロの姉妹のマルタが、彼の遺体のことでイエスに告げたのもこの通念からです。
【私たちを驚かせる】三日を経っても何も生じないことで、弟子たちの希望も失われかけているところへ、女性たちがイエスの遺体が見つからない「空の墓」のことを告げて、その上で、「イエスは生きている」という天使のお告げまで知らされたので、弟子たちは、イエスがすでに死んでしまったのか?それともまだ生きているのか? 女性たちの知らせが良いのか、悪いのか? 驚きと当惑の有様です(Bovon. Luke 3. 373.)。
[24]24節は、22節~23節と内容的に対(つい)をなしています。女性たちの「善いのか悪いのか」判別できない通知が、男性たちの同様の状態へつながります。違いは、女性たちには、「イエスは生きている」と天使が告げていることです(F. Bovon. Luke 3. 375.)。
[25]~[26]私訳をあげます。
 
そこでイエスは彼らに言った、
「なんと愚かで心が鈍いのか!
預言者たちが語ってくれたすべてについて
信じるにいたらないのか。
メシアは、必ずこれらの苦しみを受けて
栄光に入るはずではないか。
 
 「なんと愚かで心が鈍いのか」の「愚か」とは、ほんらい「出来事を理解する知力」の足りないことですが、ここでは、「(物事への)感覚が鈍い」ことです(Bovon. Luke 3.)。見知らぬその人は、預言者が告げたことは「必ず起こる」と言いますが、「メシアが苦しみを受ける」という預言が、旧約時代からの伝承で、イエスの頃のユダヤの人たちにも広く知られていたのか?この点は確かでありません(H. Marshall. The Gospel of Luke. 896.)。確かなのは、イエス自身の口から、「人の子」が受難する預言です(ルカ9章21節~22節)。メシアが「栄光に入る」ことについては、ルカ21章27節~28節でイエスが預言しています。メシアの復活は、他者からの伝言でも信じることができますが、必要とあれば、その人に個人的な体験としても与えられるのです(マーシャル前掲書896頁)。
[27]原文は「モーセを始め、すべての預言者から始めて」です。「すべて」は、こういう場合、ルカがよく用いる言い方です。「モーセ」は、旧約聖書の初めの「モーセ五書」(創世記から申命記まで)の「律法」に関する部分のことです。「預言者」は、イザヤ書を始めとする預言の文書全体を指すので、その人は、これら全部から、自分に関することを引き出して語ったことになります。その人は、モーセ五書から始めて、「聖書の全般にわたって」メシアについて預言されていることを引き出して解釈してくれたのです(マーシャル前掲書897頁)。一緒に歩きながら、ずいぶん長く語ったことになります。ルカは、二人が「復活」について十分納得できて、メシア預言を理解し得たというよりも、二人には、「なかなか分かってもらえない」理解のもどかしさのほうを伝えようとしているのでしょう(F. Bovon. Luke 3. 375.)。
[28]~[29]二人が目指す村が近づくにつれて、その人が「なおも先へと赴こうとする」(現在形)とあるのは、「一緒に居てほしい」と二人に言わせるためよりも、二人に、自分の存在を無理に押しつけようとしないための配慮です(マーシャル前掲書897頁)。ここは、「先へ進もうと<見せかける>」という異読があります(Codex Cipius/Codex W/Codex Tischendorfianus IVなど)。
[30]~[31]「一緒に(食事の)席に着く」とあるのは、食事部屋での正式の食事であることを意味します。「パンを取り、祝福して裂く」行為は、こういう食事の際にユダヤの家長が行う慣習ですが、ここでルカが言う「パンを裂く」は、キリスト教会で牧師が行なう「聖餐のサクラメント」の際の行為をも重ねています(使徒言行録2章42節を参照)(F. Bovon. Luke 3. 375.)。これは、二人の弟子に「イエスだと分からせる」ためです(ルカ22章19節)。聖餐が「食事の時に」行われたことも「最後の晩餐」を想起させます。ルカの記述では、復活のイエスの臨在は、「共に居る」ことで先ず弟子たちに体感され、次に言葉で語りかけられ、継いで聖書の解釈に及び、聖餐に与らせる。この一連の出来事によって、二人にも、読者にも、復活したイエスの臨在が、ごく自然に受け容れられます。しかし、イエスのこの臨在は、一時的で、臨在を人が意識すると消えますから、現在の神学では、「居ないとも思える臨在」“an absent presence”(F. Bovon. Luke 3. 375.)という見方もあります。人は、「目」と(ルカ24章31節)、「知力」と(同35節)、心と(同45節)、「聖書」と(同27節)、聖餐とを通じて(同30節)、復活のイエスを確認することができます。これによって、「歴史のイエス」と「復活のキリスト」とが結びつくのです。と同時に、復活の姿が消え去ることで、イエスの復活認識には断絶も伴います。この危機を克服するために、次の記事では、弟子たちへの顕現が起こります(F. Bovon. Luke 3. 375.)。
[32]【心が燃える】復活のイエスによる聖書からの語りには、人の心を「燃え立たせる」力を具えています。ただし、これには「心のうずき」も含まれてきますから(詩編39篇3節~4節/エレミヤ20章9節を参照)、やや異常な「燃え方」です。ちなみに、ここを「(船が波によって)覆われる/飲み込まれる」と読む異読があります(べザ写本)。
[33]~[34]二人は「立ち上がり」、大急ぎでエルサレムへ戻ると、すでに十一人と、その他の人たちも集まっていて、「主は、ほんとうに復活したのだ!」と騒ぎ、その上で「シモンにも主が見えた(見られた)」と言っていたのです。彼らが言う根拠は、「いささか頼りなく」聞こえます(Bovon. Luke 3. 376.)。それは、二人が大急ぎでエルサレムへ向かったのは、十一弟子たちやほかの人たちが、イエス復活の出来事をまだ確認できていないと思ったからです(ルカ24章1節~11節/同22節~24節/同37節)(H. Marshall. The Gospel of Luke. 899.)。ルカの記述の意図には、「主イエスの受難と復活」という救済史の重要な出来事は、場所としては、エルサレムを中心に生じたこと、時としては、週の最初の日(で最初の日曜)であること、弟子たち全員を代表するシモン・ペトロこそ、この出来事の証人としてふさわしいことなどがあります(Bovon. Luke 3. 376.)。
[35]私訳をあげます。
 
そこで二人は、道行きで生じた
出来事を説明し言い広めた
イエスが二人に知られた次第は
パンを裂いた時のことだと。
 
「道行きで生じたこと」は、イエスが二人に聖書の解説をしてくれたことですから、聖書解釈と聖餐の祭儀、この二つが、復活したイエスの臨在を二人に確認させたことが分かります(Marshall. The Gospel of Luke. 900.)。「イエスが二人に知られた」は、「イエスのほうから二人にそれと分からせた」ことです(Bovon. Luke 3. 376.)。
                   212章 二人の弟子への顕現へ