212章 二人の弟子への顕現
     マルコ16章12節〜13節/ルカ24章13節〜35節
            【聖句】
■マルコ16章
12 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿でご自身を現された。
13この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。
■ルカ24
13この日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
14この一切の出来事について話し合っていた。
15話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩いて行かれた。
16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。それで二人は暗い顔をして立ち止まった。
18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
22ところが、仲間の女たちがわたしたちを驚かせました。女たちが朝早く墓へ行きますと、
23遺体が見あたらないので戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
24それで、仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、女たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
25そこで、イエスは言われた。「ああ、愚かで心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、
26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた。
28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった。
31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
32二人は互いに言った。「道々、聖書を解き明かしながら、お話しくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」
33すぐさま二人は立ってそして、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、
34主はほんとうに復活して、シモンに現れたと言っていた。
35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
 
                【注釈】
                【講話】
 エマオ途上の二人へのイエス様の顕現について、過去の教会の解釈では、弟子たちの復活理解が「遅くて鈍い」おかげで、イエス様は、ご自分の復活を「解説する」機会を得た、聖霊が胸に燃え立たせる炎こそ、閉じられた聖書のお言葉の錠前を開いてくれる、などという解釈があります。初期のギリシアとラテンの教父たちは、今回の記事の「パンを裂く」行為についても聖餐の祭儀には触れていません。イエス様の生前には、教会で行われる聖餐は、まだ存在しなかったからでしょう。主イエスを見分ける鍵は、「パンを裂く」聖餐にあることを強調したのは、アウグスティヌスです(フランソワ・ボヴォン『ルカ福音書(3)』376〜377頁)。ヨーロッパの中世では、御復活のイエス様は「教会の聖餐を通じて啓示される」と説かれ、そう信じられました。教会と御復活とを近づけ過ぎるようにも思いますが(ボヴォン『ルカ福音書(3)』381頁)、私たちの知性の営みが、「イエス様御復活の啓示」と「御復活のイエス様への信仰」へと向かうのは、パンを裂きぶどう酒をいただく「聖餐」の祭儀においてです。現代では、ミカエル・プレト(Michael Prétot)が、パリのカトリックの研究所に論文を送り(1988年)、エマオ途上の二人がイエス様を認知したのは、「パンを裂く」行為からであるという「サクラメント神学」によってエマオの記事を説いています(ボヴォン『ルカ福音書(3)』378頁)。
 復活の教義は、欧米では、18世紀の啓蒙思想と19世紀の歴史主義の時代に疑問視されました。 イエス様に関する山ほどの情報も、人間の知力の限界のために、せっかく「よみがえりの主」が、彼らと直面していても、それを「認知することができない」のです(F. Bovon. Luke 3. 380.)。現代では、やれ「キリスト教」だ、やれ「イエス・キリスト」だと、過剰な知識に埋もれながら、私たちの知性と想いが「歴史の出来事」ほうばかりへ向かうからです。過剰な知識への知的な営みが、「啓示と信仰」を与える代わりに「歴史の出来事」へ 向けられるのです。
 エマオに向かう二人は、イエス様と一緒に歩みながら、イエス様だとは分かりません。復活したイエス様は、「見えるのに隠れている」のです。弟子たちは、見ていながら、それと分からないのです。十字架のイエス様が「見失われた」後で、信仰なく、希望なく歩む二人が、実は、イエス様と共に歩んでいる。こういう、いかにも不思議な状態です。神は、たとえその場に臨在しなくても存在するのです。この有り様は、実は、私たちの「罪深い」状態にもあてはまります。知性だけでなく、その心までも、悪しき霊性に蝕まれていても、イエス様は、私たちの傍らを一緒に歩んでいてくださる。エマオの二人は、それと分からぬ「復活の主」に向かいながら、とにかく「一緒に居てくれるよう」働きかけます。このように、主を求める心があれば、わたしたちは、「復活の出来事」にも気づくことができます。
 ただし、二人の場合は、イエス様だと気がついたその時、イエス様のお姿が消えました。しかし、私たちが、罪深い自分と一緒にイエス様が居てくださることに気がつくときには、見えなかったイエス様が、私たちの心に働きかけて、罪性を取り除く不思議な業を発揮してくださいます。十字架のイエス様へ向ける私たちの失意が、十字架のイエス様への希望になるという「逆現象」です。「信仰なく、希望なく、死を歩む」者が、信仰を抱くことで「主が共に居てくださることを悟る」のです。神は、たとえその場に「臨在」しなくても「存在しない」のではありません。イエス様が死んでから三日経って、たとえ望むべくもない状態の中でも、希望の光が差してくる。これが、イエス様を信じる者に起こる不思議です。何時までもなくならないもの、それが「イエス様に託す希望」です。ちなみに、この事情は、「結婚愛」を司(つかさど)るお方(主イエス)の最大の特徴です。
 エマオ途上のイエス様が行なわれたように、私たちの「見る眼」と「知る知性」と「燃える心」は、復活のイエス様を証しする「聖書から」産まれます。人は、「目」と(ルカ24章31節)、「知力」と(同35節)、心と(同45節)「聖書」と(同27節)、「聖餐」とで(同30節)、復活のイエス様を確認することができます。それは、歴史のイエス様と復活のキリストとを結ぶことです。
 ただし、旧約聖書のお言葉を始め、仏教、イスラム教、その他のいかなる聖典の言葉が、たとえそれらが、どんなに明白で力強いものであっても、それらよりさらに明白で、さらに力強く働きかけるのが、御復活のイエス様の御臨在が発する聖霊のお働きです。なぜなら、その御臨在の御霊は、「文字に書かれた」言葉ではなく、文字をはるかに超える実在の人格態として、私たちを「パーソナル」(全人格的で個人的)に覆い包み込んでくださるからです。そこに働くのは、「力」ではなく「愛」です。私たちの目で見る文字や思い描く理念ではなく、目には見えず、思い描くことさえできない「御人格」の御臨在から発する奥深いその愛の霊性によって、心の奥へと働きかける「罪の赦しと贖いの交わり」が授与する人格体験です。
 イエス様の御復活による御臨在を通じて授与され、自分の心を燃え立たせる聖書からのお言葉、これを心に「唱え続ける」ことで、御臨在に「従い続ける」。これが、聖書が言う「信じる」という受動的で能動的な「行為」です。御臨在が、このように働きかけることで、私たちは、そのお働きを「受容する」ことができるからです。受容されたお働きは、あなたを新たに「造り変え」ます。復活のイエス様は、このお働きを通じて、あなた自身のうちに「宿り」、そうすることで、今度は、「あなたが消えて」、イエス様の御臨在が継続する。こうなれば、もはや、「生きているのは私でない。キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ2章20節)というパウロの告白が、あなたに成就することになります。エマオの二人に生じたことが、続く弟子たちへの顕現では、弟子たちにも起こります(ルカ24章48節〜49節)。体感し、納得し、心に響く。このために、聖書があり、聖餐がある。この五要素が、御復活のイエス・キリストが伝わる基本です。聖餐の祭儀とお言葉と祈りと賛美、この四つを通じて、イエス様の御臨在を体感し、納得し、心に感じる、これが、人が集まり、長続きする集会の基本です。
               共観福音書の講話へ        今月の更新へ