【注釈】
マルコ16章14節~18節
 今回のマルコ福音書で扱うのは、末尾の「長い結び」にある四つの項目の三番目にあたる「弟子たちを派遣する」の部分です。この部分には、異読や付加があります。それらについては、共観福音書補遺の「マルコ福音書の結び」を参照してください。マルコの「長い結び」には、マタイ福音書の「番兵の報告」と、ヨハネ福音書の「湖畔での顕現」を除くと、四福音書の復活物語のすべての要素が含まれていると言われています(R.T. France. The Gospel of Mark. NIGTC. 686.)。共通する節を以下にあげます。
(1)マルコ16章14節→ルカ24章36~49節/ヨハネ20章19~23節/同24~29節も?。
(2)マルコ16章15節→マタイ28章19節/ルカ24章47節。
(3)マルコ16章19節→ルカ24章50~51節。
  これの編集内容は、以下の四つの要点にまとめることができます。
(1)復活のイエスに対する不信仰を批判。
(2)福音の世界規模での宣教。
(3)洗礼の祭儀による救い。
(4)異言と病気癒やしと悪霊追放と毒(蛇)に対して無害との四つのしるし。
 これらの(2)については、「宣教する」のギリシア語の動詞が「ケーリュッセイン」であることから、イエスの復活を「福音」する原始教会以来の宣教内容の要点が「ケーリュグマ」と称されています。(3)について言えば、現在の日本でも世界でも、「正式のクリスチャンになる」方法は「洗礼を受ける」ことだという通念が行き渡っています。
マルコ16章
[14]マタイ28章では、イエスの復活顕現が、先ずマグダラのマリアと「もう一人のマリア」に与えられて、その後で、弟子たちにその事が伝えられます(マタイ28章1節~10節)。その後、イエスの復活顕現は、ガリラヤで十一弟子に与えられ、そこで、「父と子と聖霊の御名による」全世界への宣教命令が授与されます(マタイ28章16節~20節)。今回のマルコの記事では、14節に「その後」とありますが、これが何時のことなのか?よく分かりません。続く宣教命令(15節~16節)から判断すると、「その後」とは、ガリラヤでの顕現のことであろうという推定もあります。マルコもマタイも、「十一人」と明記しています(A.Y.Collins. Mark. Hermeneia. 808.)。
【不信仰とかたくなな心】復活のイエスは、「彼らの不信仰(原語「アピスティス」)をきつく叱責する(原語「オネイディゾー」)」と同時に、その「乾涸(ひか)らびてコチコチになった頑迷な心」(原語「スクレーロカルディア」)を厳しく咎めます。マルコはここで、度重なる神の驚くべき御業に接した弟子たちが、その度(たび)に露呈する彼らの「不信仰」(マルコ4章40節、同6章48~52節)をも重ねているのでしょう。「不信仰」では、さらに、四千人にパンを与える奇跡を行った後で、ファリサイ派の人たちが提起した「驚くべき不信仰の要請」に接して、イエスが「心底から嘆いて」います(マルコ8章12節)。しかも、その直後に、イエスがパンのことを口にすると、今度は弟子たちが、的外れの無知蒙昧な議論を始めたことにも「憤りを覚え」ています(マルコ8章17節~18節)(Collins. Mark. 809.)。今回も、復活のイエスが「目に見えている」のに、なおもその出来事を受け容れようとしない「弟子たち」を含む(私たち)人間の知的傲慢、神の御業を意図的に無視しようとする人間の邪(よこしま)な心情が、「厳しく露呈され警告されて」います。
[15]~[16]弟子たちの不信仰を咎める14節から、15節の全世界への宣教命令へ直結しているのは、その間に、弟子たちの不信仰が克服されることで、彼らは、イエスが復活したことを認証して信じるにいたったことを意味します(Collins. Mark. 809.)。
 マルコ福音書の幾つかの結び方の中には、16章1~14節+「弟子とキリストの言葉」+16章15節~20節という例があります。「弟子とキリストの言葉」は、以下の通りです。
「彼らは、以下のような口実を設けて言い逃れをしようとした。『無法と不信仰のこの時代は、サタンの下(もと)にあり、サタンは、真理である神の力が、諸霊の働く汚れた事態に打ち勝つことを許そうとしません。だから、今こそ、あなた(キリスト)の義を顕(あらわ)してください。』彼らは、キリストに、このように言った。するとキリストは、彼らに応えた。『サタンの力が働く年数は尽きた。しかし、別の恐ろしい事が近づきつつある。だから、罪を犯した者たちのために、わたしは死に渡された。彼らが真理に立ち返り、これ以上罪を犯さないためである。それは、彼らが、天にあって、御霊の朽ちることのない栄光の義を受け継ぐためである。』」
〔New Revised Standard Version: Mark. The Longer Ending of Mark.16: 14+t+15として、欄外に掲載の<t>の英訳から〕。
 ここには、「無法と不信仰のこの時代では、サタンが、真理である神の力が働くのを許さず、サタンが、(人の)諸霊の内に汚れた事態を働かせている」とあります。サタンのこの働きの具体的な例として、イエスは、種まきのたとえで、「神の言葉が、せっかく人の心に蒔かれても、サタンが来て、心に植えられた御言葉を奪い取ってしまう」(マルコ4章14~15節)と述べています。
 この難問を解決するためには、上に引用した文中の「キリストがその義を顕す」があります。この「キリストの義」とは、マルコ16章16節で、「キリストを信じて洗礼を受ける者は救われる。信じない者は罪に定められる」ことに通じます。だから、「キリストの義」は「(悪霊に)裁きをもたらす」のです。しかし、キリストが言うには、この「サタンへの裁き」は「今はまだ」行われません。イエスが告げているように、その「裁き」は、世の終わり(終末)に行われるからです(マルコ13章3節~13節)(Collins. Mark. 809.)。では、その間、私たちはどうなるのでしょうか?イエス・キリストは、十字架の贖いの業を通じて、「罪を犯した者たちのために、死に渡された」。その結果として、先の言葉にあるように、「イエスを信じる弟子たちが真理に立ち返り、これ以上罪を犯さない」ようになるのです。
 それは、どのように生じるのでしょうか? それは、弟子たちが、「天にあって、御霊の朽ちることのない栄光の義を受け継ぐ」ことから生じるのです。「御霊の栄光の義」とは、キリストの「義」が、キリストの「聖霊」の働きによって栄光を現すことを意味します。私たちが、世の終末にいたるまでの間、復活したイエスと共に居ることができるのは、復活したイエスの聖霊の力とその働きによることが、ここで証しされています。これが、マルコ16章15~16節の「全世界への宣教命令」の具体的な内容です(使徒言行録14章3節)。パウロが宣べているのはこの事です(ローマ15章18~19節)。
[17]~[18]17~18節で注目したいのは、ここは、最初期のキリスト教徒たちが、自分たちが実際に与(あずか)った救いの信仰体験を後代の教会に伝える意図のもとに、これらの体験の要点をまとめて、「福音信仰への伝承」としたことです。とりわけ、異言と病気癒やしと悪霊追放の三つは、20世紀から21世紀の現代でも、例えば、アメリカの著名な伝道師であるオーラル・ロバート(Oral Roberts)や、病気癒やしの「神癒伝道」で知られるT・L・オズボーン(Tommy L. Osborn)など、ペンテコステ系のカリスマ指導者たちによって、これら三つが、福音の聖霊が働く「しるし」として、ほとんどそのまま受け継がれています。ただし、あるファンダメンタリスト(原理主義者)のアメリカ人が、自分の信仰が本物であることを「証明する」ことを意図して、故意に「毒を飲んだ」と聞いたことがありますが、これなどは「やりすぎ」です。ちなみに、18節の「手で蛇をつかみ、毒を飲んでも害を受けない」は、使徒言行録8章3節~6節でのパウロの体験と証言に基づく伝承から出ているのでしょう(R. T. France. The Gospel of Mark. Hermeneia. 687.)。
ルカ24章36節~49節
 今回のルカの記述では、先ず、イエスの復活が現実の出来事であることが弟子たちに認証されて(ルカ24章36節~43節)、これを踏まえて、「罪の赦しへの悔い改め」が全世界に宣教されるようメッセージが弟子たちに授与されます(同44節~49節)。この後半部(44節~49節)には、聖書からの預言の解説も含まれていて、先の弟子たちへの女性たちからの伝言と(同33節~35節)、今回に続くイエスの昇天(同50節~53節)とを結ぶ働きをしています(Bovon. Luke 3. 385.)。
 なお、今回のルカの描写では、復活したイエスが、あたかも「肉体を具えた生前のイエス」そのままであるかのように見えます。このため、ここの描写は、パウロが告げる復活体の有り様(第一コリント15章42節~50節)と矛盾するようにも思われます。しかし、弟子たちが見ている前で天にあげられる復活体の有り様は(ルカ24章51節)、ルカもパウロも同様ですから、復活とは、「人の霊魂だけが身体から離れて生きる」ことではなく、人の「霊魂と身体の両方を具えた」状態で生じることを証ししています(I.H. Marshall. The Gospel of Luke. NIGTC. 901.)。
 ヨハネ20章では、「イエスのほうから現れ出て、弟子たちの真ん中に立つ」(19節)、「『平安あれ』と告げる」(同19節)、「(釘跡を残す)手と脇腹とを見せる」(20節)、「わたしをよく観て、あなたの指をわたしの脇腹に入れなさい(とトマスに言う)」(27節)など、今回のルカの記述と重なる内容が見受けられます(Bovon. Luke 3. 388.)。このために、後の編集者が、ヨハネの記事から、今回のルカの記述へと「採り込んだ」のではないか?という疑いがかけられましたが、そうではなく、両者の共通性は、ヨハネ福音書成立以前のほんらいの伝承によるもので、ルカが用いた資料にも、両者に「共通する」伝承があったと見なすことができます(Marshall. The Gospel of Luke. 901--902.)(F. Bovon. Luke 3. 391.)。ヨハネの記述には、「弟子たちは主を見て喜んだ」とあり(ヨハネ20章20節)、トマスも「わたしの主、私の神」(ヨハネ20章27節)と自分の信仰を告白しますが、ヨハネには、ルカの記述に見られる「弟子たちの動揺」は出てきません。
[36]ルカ24章では、女性たちへの顕現と、エマオへ向かう二人への顕現とに続いて、三番目に弟子たちへの顕現が来ます。弟子たちの驚く有り様には、ルカ24章12節のペトロの驚きも重ねられているという見方があります(Bovon. Luke 3. 385.)。35節から36節への移行の仕方は、イエスの復活の出来事が「いきなりその中核を(弟子たちに)出現させている」という印象を与えます(Bovon. Luke 3. 385.)。この36節は、「平安あれ」の重要なメッセージを含むだけでなく、先の二つの顕現と今回の顕現とを「つないで結ぶ」働きもしています。なお、この節のテキストの読みについて、以下の2点をあげます(Marshall. The Gospel of Luke. 901.)。
(1)「イエス御自身が」は、アレクサンドリア学派、Codex Cypius、Codex W、レギウス写本などの読みからです。Novum Testamentum Graece、Bodmer Papirus XIV、ヴァティカン、ベザ写本などでは、この部分(句)が抜けています。
(2)「(イエスが)『あなたがたに平和があるように』と言われた」は、べザ写本だけから?抜けています。ヨハネ20章19節には、「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」とあり、マルコのこの部分の読みと全く同じです。このために、「『あなたがたに平和があるように』と言われた」の部分は、後の編集者によってヨハネ福音書からマルコ福音書のほう「挿入された」と見なされて、ウエストコット・ホルトの版などは、ここを〔  〕で括っています(Marshall. The Gospel of Luke. 901.)。しかし、弟子たちへの顕現の部分は、ルカ版とヨハネ版とに共通する初期の(史的な)伝承から出ていると考えられますから、この部分を脱落させるのはベザ写本(2世紀)を重視しすぎています。
[37]【恐れおののき】動詞「怖がらせる/おびえさせる」の受動態分詞です。これはほとんど、「苦痛」に近い怯(おび)えです。弟子たちは、墓を訪れた女性たち以上に、「驚き恐れた」ことが分かります。
【亡霊を・・・・・】「(彼らは)霊(a spirit)[Marshall];幽霊 (a ghost)[NRSV][REB] を見ているという思い込みに陥った」と訳すことができます。ベザ写本では、「幽霊」を「(ほんものではない)化け物現象」と読み替えています。ベザ写本は、いわゆる「エルサレム系」の写本ですが、これの種類が多すぎてほんらいの原典を確認するのが困難です(I.H.Marshall. The Gospel of Luke. 902.)(Metzgerr and Ehrman. The Text of the New Testament. 187.)。ここでの出来事は、使徒言行録12章12節~17節のペトロの牢屋からの解放と比較されています(F. Bovon. Luke 3. 390. Note Under 27.)。ちなみに、この当時、「幽霊」は、その名前を使って「呼び出される」(invoked)と、ほんとうに出現して、場合によっては、人々に危害を及ぼすと信ぜられていました。弟子たちが怯えたのはこのためです。ただし、37節で、ルカ自身は、(読み替えの)「化け物現象」に近いという「思い込み/信じ込み」から、弟子たちが、本物かどうか確かめようと、観察したり触ろうとしたりしていると見ています。その上で、ルカは、彼らの「思い込み」が誤りであると指摘しようとしています(F. Bovon. Luke 3. 390.)。
[38]~[39]【うろたえる】これの原語は「タラッソー」(心をかき乱す/動揺する)の受動態完了形です。弟子たちは、現代の私たち同様に、イエスの「復活のからだ」という、「人が思い浮かべることさえ難しい」不思議な神の業を体験することで、心がかき乱されて、ほとんど、苦痛に近いほどの内心の動揺を覚えたのです。
【心に疑いを起こす】内心で不安を感じ、躊躇(ためら)いや疑念を起こして動揺することです。これへの解決法は、とにかく「よく観て、実際に触る」ことで、十字架の傷跡を確認し、今そこに現臨するのがイエスであることを確認し確信することです。
【肉も骨もない】39節でイエスは、「分かるだろう。わたし自身だよ」と弟子たちに語りかけます。「手」とあるのは正確には釘跡を残す手首のことです。「骨」を持ち出すのは、復活体がいわゆる「霊魂」だけではないことを明確にするためです。また、イエスはここで「肉」という言い方をしていますが、こういう「肉」の意味する内容は、後のキリスト教でいう「肉」が、人の「肉体/身体」の意味だけでなく、「人その者」とその人固有の「姿」を表す独特の意味を発達させることになります(F. Bovon. Luke 3. 391.)。なお、この点では、パウロが、「肉のからだ」に対して「霊のからだ」(第一コリント15章44節)という「独特の言い方」をしていることも注目されます。
[40]40節は、ベザ写本やシリア語訳など、抜けている版があります(Marshall. The Gospel of Luke. 902. )。36節での「平安あれ」と同様に、この節もヨハネ福音書から採り込まれた挿入だと見なされ、内容的にもこの節が不要だと見られて、筆写の際に省かれたのでしょうが、40節は、Bodmer Papirus XIV-XV(2世紀~3世紀初め)、シナイ写本、ヴァティカン写本などに含まれていますから、40節を省くのは、筆写者の「これ見よがしのやりすぎ」です(Bovon. Luke 3. 392.) 。
【見せる】これには、「提示する/表示する」とやや強い意味の異読があります。
[41]~[43]イエスの復活を間近に体験することが、弟子たちには「信じられないほどの嬉しい驚き」だったのです。復活のイエスは、彼らの「喜ばしい驚き」を確かなものにするために、彼らの目の前で「(出された食べ物を)食べてみせる」ことで、「幽霊ではない」ことを確認させます。「信じられないほどの驚き」とあるのは、弟子たち全員が、信仰と不信仰との間で揺れている状態を示唆しています。マタイ28章17節では、「全員が同じように喜び驚いた」とは言えない状態にあります。この辺の事情について、ルカは、幾つか異なる資料を併せているのでしょうか(F. Bovon. Luke3. 392)。ちなみに、ルカがここで言い表している「驚き」と「怖れ」、「信仰」と「不信仰」のような人間の「分裂した情感」は、ホメーロス以後のギリシアの弁論術で、また、イエスの頃のギリシア、ローマ、ユダヤの弁論術でも、「驚異/脅威」の表現法としてとマニュアル化されていました。ルカは、ここで、この弁論術の方法論を採り入れている、という指摘もあります(Bovon. Luke 3. 392.)。
【焼いた魚】原語は「(生のものではない)料理した魚」のことで、通常は塩漬けです。しかし、この「焼いた魚」には、「蜂蜜漬けにしたもの」という異読があります(Codex Cipius, Codex Purupureus Petropolitanus,Codex Tischendorfianus)。この異読は、ここでイエスが食べた「蜜の魚」が、聖餐のための祭儀的な意味を帯びていたことを意味します(蜂蜜は聖餐で用いられることがあった)。イエスが自ら「皆の見ている前で食べてみせる」行為からも(この行為は見ている人たちも一緒に食べることをも示唆する)、また、43節には、「残りを他の人たちに与えた」を追加する異読もありますから(9世紀のCodex Koritethiなど)、これらの行為や追加は、1世紀の教会では、(聖餐の)祭儀を象徴するものだと理解されました(Bovon. Luke 3. 392--393.)。
[44]ルカ24章44節~49節は、イエスの弟子たちへの「最後の教え」で、この部分は、マタイ28章16節~20節とヨハネ20章21節~23節と内容的に並行します。その内容は次の三つです。
(1)弟子たちが、これから、地上で何を伝え教えるのか。
(2)イエスについての聖書の預言は、必ず成就しなければならない。
(3)その聖書預言を理解する鍵は、イエスが「メシアである」こと。
 これらは、エマオの二人の弟子たちに伝えられたことと重なりますが、今回は、その弟子たちの宣教(ケーリュグマ)が、「エルサレムから始まって、全世界に広められる」ことが加わります。この目的が成就するために、弟子たちに求められることが以下の三つです。
(1)イエス復活の「目撃者」となること。
(2)天から彼らに「力が授与される」こと。
(3)約束が成就するために、「エルサレムに留まり続ける」こと。
 ルカの記述は、全世界への宣教命令においてマタイの記述と重なり、また、(イエスに父から約束された)聖霊と罪の赦しにおいてヨハネの記述と重なります。
(以上はMarshall. The Gospel of Luke. 903.)。
 ルカ24章44節~49節の記述は、ルカ流の用語で語られていますが、その内容の核心は、ルカ以前からのもので、マタイやヨハネの福音書と共通する伝承から出ていると見ることができます。今回のルカの記述が、実際の史的イエスの言葉を伝えるものかどうか?これについては、最初期の教会が、本格的な「世界宣教」に向けて乗り出すその時期が、やや遅かったことが指摘されています。しかし、それは、最初期の教会が、語られていたイエスの宣教命令(ケーリュグマ)が世界規模の広まりを目指していることへの認識が、まだ十分でなかったことに起因すると思われますから、ルカが記述する宣教命令の核心には、史的イエスの実際の用語にさかのぼる言葉も含まれていると見ることができます(Marshall. The Gospel of Luke. 904.)。なお、「モーセの律法と預言者の書と詩編」は、これらの三つで(旧約)聖書の全体を言い表しています。
[45]~[46]【心の目を開く】「心」の原語「ヌース」は、「人の理解力/知性/想い」のことです"opened their minds"[NRSV][REB]。「解き明かす」は、「聞き手(読み手)の知性/想いを開く」ことを指します。使徒言行録16章14では「主は(リディアの)<心>を開いて」とありますが、ここ45節では、「イエスは、解き明かすことで、(彼らの)<理解/知性/想い>をして聖書を総合的に理解させた」のです。とりわけ、ここでは、「メシアについて聖書で<このように>預言されていること」が、イエスを指していると「悟らせる」ことです。「このように」が「どのように」なのかは明らかでありませんが、原文では、聖書解釈がこの語に続きますから、「聖書に書かれているのは次のことである」の意味に理解されています。
[47]~[49]旧約聖書からのメシア預言への解説に続いて、47節からは「教会の使命(ミッション)」についてです。この辺の事情については、後にパウロが、アグリッパ王の前で適切に説明しています(使徒言行録26章19節~23節)。教会の使命は、「イエスの死と復活」を伝えるイエスの受難から出て、「キリスト教会への信仰」として授与されます(Bovon. Luke 3. 395.)。
【罪の赦しを得させる悔い改め】この使命は、罪の赦しと悔い改めに「洗礼」を加えた洗礼者ヨハネに始まります(ルカ3章3節/使徒言行録13章24節/同20章21節)。この使命とメッセージは、「彼(イエス)の名によって」行われ、語り伝えられなければなりません。なぜなら、「罪の赦し」は、旧約聖書に基づいてそれまで行われてきた「従来型の祭儀と教え」ではなく、そこから、新たに「イエス」の教えとその出来事によらなければ、「神の厳しい裁きを免れる罪の赦し」は成就しないからです(ルカ3章7節~9節)。ルカが、ここで、「生前のイエス」の事績を語っていないことが問題にされています。ルカは、パウロの「(イエスの)死と復活」をルカ神学の中心に置いているからでしょうか。あるいは、ルカは、使徒言行録へと内容を続ける意図からでしょうか(Bovon. Luke 3. 395.)。
【悔い改め】「悔い改め」は、「罪の赦しへ向かうため」と「すべての(異邦の)民へ向かうため」に伝えられます。こういう意味での「悔い改め」は、イザヤ預言にさかのぼります(イザヤ49章8節~13節/使徒言行録13章47節)。その内実はパウロに受け継がれ(ローマ9章22節~24節)、ルカにいたっています(使徒言行録13章47節)。
 なお、「エルサレムから始めて」は、後からの追加です。「始める」には幾つかの異なる動詞形の読みがありますが、この句全体は、アレクサンドリア学派、エフラエミ写本、Codex Cypius、 Codex Wなど、多数の写本にあります。教会の使命は、先ず「エルサレムから」、すなわち、「ユダヤ人の間から」開始されなければならないのです。ルカの念頭にあるのはペンテコステの出来事です(使徒言行録2章1節~13節)(Bovon. Luke 3. 397.)。
【高い所からの力】ルカの記述では、空の墓を見た女性たちも、エマオで復活のイエスに出会った弟子たちの証言も、弟子たちの目前の復活体でさえも、「聖書が証する預言を悟る」にいたりません。「あなたがたこそ、これらの出来事の目撃証人となる」という使命(ミッション)は、弟子たちの「心を入れ替える」ことで、救いを実現させる力を具えている「聖霊の働き」(49節)だからです。弟子たちをイエス復活への目撃証人として世に示す働きこそ、イエスの聖霊の働きなのです(Bovon.Luke3. 394.)(Marshall. The Gospel of Luke. 906.)。なお、「高い所からの力によって<派遣されるまで>都に留まる」と言う異読があります(シナイ写本/ヴァティカン写本/Codex Sangallensisなど)。しかし、ここは、ミッションの「始まり」を告げるものですから、この異読は適切とは言えません。
              213章 弟子たちへの顕現へ