213章 弟子たちへの顕現
     マルコ16章14節〜18節/ルカ24章36節〜49節
                      【聖句】
■マルコ16章
14その後、十一人が食事の席に着いているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
15それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
16信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は罪に定められる。
17信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
18手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも、決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」  
■ルカ24章
36こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
37彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
38そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
40こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
41彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
42そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
43イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
48あなたがたはこれらのことの証人となる。
49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
                                【注釈】
                              
【補遺】  
                 【講話】
 イエス・キリストの福音とは、十字架におかかりになったイエス様が復活されて、今も生きて、働いておられることです。この出来事を生じさせる神から降る御力こそが、イエス様の福音を全世界に広める「宣教命令」の真の力です。今回は、イエス様の弟子たちが、主イエス様の御復活を啓示されることで、その力に与る場面です。
 Bovon. Luke3.398--401. によれば、テルトリアヌスは、キリストの身体的な復活を喜ぶ一方で、「異端者たち」が、39節の身体的な描写にもかかわらず、なおも、その姿は「霊」に過ぎないと見ていると批判しています。オリゲネスは、イエス様の復活を否定しようとする張本人として「ユダヤ人」をあげ、「ユダヤ人」への反論こそ、「キリスト教信仰の核心にかかわる」と述べています。彼は、キリストの弟子たちが、命をかけてキリストの復活を証ししていることをあげて、ユダヤ人への反論の重要な根拠としています。彼はまた、ケルソスが、イエス様の御復活を人の想像が生む幻影だと見なそうとしていると批判し、その上で、復活顕現こそ「神による奇跡」の現象であることを強調しています。
 ミラノの主教アンブロシウスは、四福音書が揃ってイエス様の御復活を証ししていることに注目し、御復活のイエス様が、人の手で触れるほどの身体を持ちながら、戸締まりをも通り抜ける「妙(たえ)なる」身体を具えておられるとして、「霊」と「肉」を併せ持つ復活体の不思議を説いています。アウグスティヌスは、イエス様の御復活を「霊」の出来事に限定することで、その身体性を否定しようとするマニ教徒の理解に対抗して、そのような理解の仕方は、「受肉と贖いの秘義を拒否しようとするもの」と反論しています。アウグスティヌスは、十一人は、人間として、始めは身体の復活に疑いを抱いたが、主イエスは、その身体を「提示する」ことで、弟子たちの「心の傷」を癒やしてくださったと見ています。
 イエス様が「復活したからだ」を有していたことは、後代の2世紀から3世紀にかけて、イエス様の御復活を「霊(魂)によるもの」として理解しようとする説に対する強力な反論を提起する基になりました。すでにルカの時代でも、旧約聖書のエゼキエル37章1節〜10節に出てくる「枯れた骨」と、それらの集まりが「肉体を具える」という記事が、字義通りではなく、比喩的に解釈される傾向がありました。古代でも、疑り深い人たちは、復活体が実際に「食べる」ことはありえないから、イエス様は、「食べるふりをした」だけだと主張しました。また、紀元以後も、近世のルネサンス時代でも、今回のイエス様の言う「骨」も「肉」も、これらを「比喩的な」意味に理解しようとする傾向がありました。しかしながら、御復活のイエス様の「肉と骨」は、歴史のイエス様を確認するだけでなく、それ以後も、未来に向けて、人の想定や理念を超える「死に勝利した復活のイエス様」を伝える基礎となるものです(F. Bovon. Luke 3. 391--392.)。なお、この問題については、第一コリント15章35節〜55節で、パウロが、「霊の体」について縷々(るる)説明しているのも併せてお読みください。
 福音の真理が発与するのは、主イエス・キリストから降る御霊の御臨在(しばしば、異言を伴う)の出来事です。御復活のイエス様は、「この出来事」を通じて、私たちに「平安あれ」と宣(のたま)うのです。主イエス様が、「平安あれ」(大丈夫だよ)と宣(のたま)う「平安」(ギリシア語で「エイレーネー」)とは、「人の想いをはるかに超える」神の御霊のお働きにほかなりません。どのように祈るのか? どのように語るのか? どのように聞くのか? そのような人業(ひとわざ)は問題でなく、人業(ひとわざ)を超えて働いてくださる絶対恩寵の御霊(みたま)の賜(たまもの)です。
 それにしても、イエス様の御復活は、イエス様を十字架につけた言わば「敵対者」の視点から見れば、弟子たちの「喜びの驚異」ならぬ敵対者側への「驚きの脅威」と映ったことでしょう。今回の出来事へのヨハネ福音書の平行箇所では、弟子たちは「ユダヤ人を怖れて、戸締まりをしていた」(ヨハネ20章19節)とありますから、御復活のイエス様を真ん中にした弟子たちには、目の前のイエス様への「信仰と不信仰」という二分した心情だけでなく、このイエス様の御臨在による「励ましと勇気つけ」は、イエス様に敵対する側への「警戒と反感」をも伴っていたと想定されます。このような場合に、人に具わる自然な思惑と心情の裏で、人に潜む罪性と敵対心も顔を出します。そうだとすれば、「人の想いをはるかに超える」神の出来事とこれへの御心とは、いったいどのようなものなのか? 今回語られている「神の御業」とそのお働きへの秘義がいっそう深まります。私たちは、ここで初めて、「罪の赦しを与える悔い改め」(47節)というお言葉の意味がその謎を解く鍵であることに気づかされます。次回の124章では、この問題をさらに敷衍して扱いたいと思います。
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