【注釈】
■マルコ16章
[19]先に指摘したとおり、マルコ16章17節〜18節は、四福音書のどこにも表れない「聖霊の働きのしるし」を伝えています。この16章17節〜18節は、その内容から見れば、そのまま同20節へとつながります。だから、19節は、聖霊の働き(17〜18節)と使徒たちの宣教活動(20節)とを結ぶ鍵になります。その鍵は、ここで初めて「主イエス」という呼び方が現れることで明示されます。地上のイエスが天下の「主」になるからです。原文では、「主イエスの<ほうは>(19節)〜<これに対して>弟子たちのほうは(20節)」と二つの接続辞で、18節から20節へのつながりに含まれる対応と対照が示されています。しかも、19節のこの出来事は、マルコ福音書の「長い結び」で語られるイエスの三度の復活顕現の最後を飾る大事な出来事です(A.Y. Collins. Mark. 815. )。
【弟子たちに話した後で】この句が、17〜18節と20節とを「なめらかに結んで」いて、「地上のイエス」から「天上の主イエス」へ移行します。この移行の鍵となるのが「聖霊」"the Holy Spirit"の働きです(A.Y. Collins. Mark. 816. )。
【天にあげられる】イエスが「天にあげられる」とある用語は、七十人訳列王記下(IV Kings)2章11節で、預言者エリヤが「天にあげられる」のと全く同じです。どちらの「あげられる」も原語のギリシア語「アナランバノー」(引き上げる/取り上げる)の三人称単数受動態アオリスト(過去)形です。イエスの昇天は、しばしば、列王記下2章11節のエリヤの昇天と比較されます。山上でのイエスの「変容」では、「エリヤとモーセ」が顕れますが(マルコ9章4節)、この時のイエスの変容の姿が、復活のイエスの姿と重ねられて理解されるからです。ただし、エリヤは、死ぬことがなく、「生きたまま」天に登ったとあります(列王記下2章11節/同16節を参照)。
【神の右の座に】「神の右に座る」は、マルコ12章36節のイエスの言葉からも理解されていますが、そこのイエスの言葉は、さらに、詩編110篇1節(七十人訳詩編109篇1節)から出ています。イエスは、さらに、「人の子」として、受難の際に、自分が「力ある方の右に座る」と預言していますから(マルコ14章62節)、19節は、この預言が成就したことをも告げています。なお、使徒言行録7章56節で、殉教するステファノに顕れたヴィジョンをも参照してください。
[20]20節は、19節とつながりながら、使徒言行録1章9節とも内容的に重なります。その内容から判断すれば、20節は、使徒言行録で語られる出来事の全体が「一つにまとめられている」果実です(R.T.France. The Gospel of Mark. 687.)。この20節には、イエス復活以後の教会の敬虔な霊的体験が伝承されていて、マルコ自身もその伝承を受け継いでいます(フランス前掲書)。
【彼らは出て行って至る所で宣教した】これが原文の直訳です。「彼ら」とは十一人の弟子のことで、「至る所で宣教した」は、その彼らがイエスの十字架と復活以後に行(おこな)った業を言い表しています(Collins. Mark. 817. )。「彼らの語る言葉」とは、「復活したイエス」を「宣教する」ことで、原語のギリシア語は「ケーリュッソー」です。原初の教会に始まるこの宣教内容のことを「ケーリュグマ」と言います。ここでの弟子たちの宣教内容については、ヘブライ人への手紙1章5節〜10節で、さらに詳しく語られています(コリンズ前掲書)。
 イエスの復活を告げられた弟子たちの当初の「驚きと不信仰」が、この20節で、正反対の「確信」に変わります。それは、弟子たちが「復活したイエスの姿を見た」ことによりますが、同時に、「主が彼らと共に居て」くださることによって、彼らの宣教が真実であることが「堅く保証される」からです。「至る所で」とあるのは、ガリラヤで「宣教を始めた」時のイエスとも重なります(マルコ1章28節)(Collins. Mark. 817. )。
■マタイ28章
 復活のイエスは、十一弟子を先ず「ガリラヤの山」へ導きます。しかし、それは、弟子たちがすでに始めていた活動を「新たな段階において」継続させるためです。弟子たちのその活動は、マルコ10章1節〜31節で語られています(John Nolland. The Gospel of Matthew. NIGTC. 1261.)。ただし、ノーランドは、ここでマルコ10章1節だけに(限定して)弟子たちの活動の根拠をあげているようですが、この10章1節は、筆写(私市)が指摘したように、個人的な問題から、倫理・道徳的な課題へ、さらに広範囲な社会的・政治的な支配分野へとその働きを及ぼすものです(後出のルカ24章52節の注釈を参照)。「新たな段階において」を具体的に言えば、イエスが、ガリラヤの山で「上に立つ者への心得」などを説いたの「山上の教え」を指します(マタイ5章〜7章)(Nolland. The Gospel of Mtthew. 1261.)。ただし、女性たちに顕現したイエスの教えとその働きは、民(たみ)の生活に喜びをもたらすと同時に、政治的指導層には、ある種の「危機感」をもたらします(マタイ28章11節〜15節 )。
[16] 【ガリラヤに行き】弟子たちが「(エルサレムから)ガリラヤへ向かった」のは、天使と、復活顕現したイエスとの二度にわたる指示があったからです(マタイ28章7節と同10節)。マタイは、マタイ28章7節、10節、16節と三度「ガリラヤ」を提示していますが、マタイは、マルコ16章7節に準拠しているのでしょう(Davies and Allison. Mtthew 19--28. 681.)。これらの「ガリラヤ」記事から、イエスの復活顕現は、受難後に、弟子たちが、(意気消沈して?)ガリラヤへ戻った時に初めて、ガリラヤで生じたのではないか? という見方もされました。
【イエスの復活顕現の場所】
 四福音書のイエスの復活顕現の記述は、以下の通りです。
 マタイ28章では、エルサレムで、墓を訪れたマグダラのマリアともう一人のマリアへの顕現と、これに続いて、エルサレムに居る十一弟子たち(マタイ27章3節〜5節を参照)へのガリラヤへ向かう命令があり、続いて、弟子たちの目の前で生じる顕現と昇天が描かれています。
 マルコ福音書の「長い結び」には、(1)エルサレムでのマグダラのマリアへの顕現と、(2)(エマオに向かう)二人の弟子への顕現と、(3)ペトロを始め、エルサレムに居る弟子たちへの顕現とガリラヤへ向かう命令が記されていて、その後で、(4)弟子たちの見ている前で、主イエスが昇天する場面が記されています。
  ルカ24章には、エルサレムで、空の墓を訪れたマグダラのマリアとヨハナとヤコブの母マリアとその他の女性たちへの顕現があり、エマオへ向かう二人への顕現が語られ、エルサレムに居る弟子たちへの顕現が語られ、エルサレムに近いベタニアで、弟子たちの目前で昇天します。
 ヨハネ20章〜21章では、エルサレムで墓を訪れたマグダラのマリアへの顕現と、エルサレムに居る弟子たちへの顕現と、ペトロとトマスとゼベダイの息子ヨハネとヤコブとほかの二人とがガリラヤ湖で漁をしている所で、復活したイエスが三度目に「岸に立って」顕現し、彼らに「船の右側に」網を降ろせと命じます。そこから、復活のイエスとペトロとの親しい交わりが記され、これに「イエスの愛しておられた弟子」も加わります。
  四福音書の以上の記述を見ると、復活のイエスは、エルサレムで、最初に、空の墓を訪れた女性たちに顕れ、続いて、エルサレムに留まっていた弟子たちに顕れ、その後、ガリラヤへ戻った弟子たちに顕れてから、ガリラヤにおいて、復活のイエスの昇天が生じたという見方ができます。ただし、実際の復活顕現は、福音書の記述よりも多種多様な有り様で生じたと思われます。復活のイエスは、女性たちを始め「他の弟子たち」にも顕れています。その場所も、エルサレムとガリラヤの両方にまたがっていたと思われます。これらが「復活顕現」として、幾つかの伝承にまとめられて、四福音書の記者たちに伝えられたのです。
 マルコは、復活したイエスの昇天の場所を特定していません。マタイとヨハネの記述では、昇天がガリラヤで起こったことになりますが、ルカでは、エルサレムに近いベタニアです。ルカの記述については、次のような理由が考えられます。ルカは、その福音書と使徒言行録とを著していますが、使徒言行録1章1〜2節の献辞と同3節との不自然なつながり方が注目されています。使徒言行録1章では、イエスの昇天が1章9節〜11節で語られています。しかし、ルカは、出来事を正確に時間的な順番に従って記述しているとは言い難く、しかも、昇天をこのように詳しく告げている箇所は、新約聖書のほかの部分には見られません。ほんらい、福音書と言行録とは、「一つの文書」だったと考えられます。その文書では、ルカ24章49節の「父からの力」を約束するイエスの言葉が、そのまま、使徒言行録1章6節の弟子たちの問いかけと、これに対するイエスの「聖霊降臨」の約束へつながっていたと想定されています。しかし、教会においてこの文書が「正典化」される場合に、文書があまりに長いために、使用する際の便・不便が問題になり、これを二つに分割したと考えられます。その上で、分割を埋める目的で、ルカ24章50節〜53節が書き加えられたと想定されます。ルカの記述では、ルカ福音書と使徒言行録とが結びつけられていながら、イエスの復活顕現と昇天の場所が、同じエルサレムとその近郊になっています。ルカは、エルサレムから、弟子たちの宣教が始まったという視野から、昇天の場所も同じエルサレム近郊とすることで、エルサレム中心の「神学的な教義」に基づいて記述を構成しているのです(F. Bovon. Luke 3.405--406.)。
 ちなみに、現在のカファルナウムには、イエスが「山上の教え」を語ったことを記念する山上の祝福の教会堂と、パンの奇跡を記念する教会堂と、ペトロの首位権の教会堂とがあり、ペトロの家の遺跡もあります。ペトロの首位権の教会堂の裏には、復活した(とも思われる)イエスから、教会の主導権を象徴する杖を受け取るペテロの彫像が置かれています。
[17]【彼を見て】これは、28章7節と同10節でのイエスの言葉を受けています。
【ひれ伏した】この行為は、絶対服従の意をこめて「礼拝する」ことです。イエスを「ひれ伏して拝む」行為は、マタイ2章11節で、幼子を「ひれ伏して拝む」東方の博士たちの例があり、ヨハネ9章38節にも盲目を癒やされた人の例があります。今回の17節では、「彼を見た際にひれ伏した」とありますが、「彼」が、はっきりと特定されていないことから、「彼」とはイエスのことではなく「神」を指すのではないか、という解釈もあるようです(マタイ4章8節〜10節を参照)(Nolland. The Gospel of Mtthew. 1262.)。
【疑う者も】原語の「ディスタトー」は「疑う」「ためらう」こと。「(ところが)疑念を持つ者もいた」"but some doubted"[NRSV]."though some were doubtful."[REB].とあるのは、(1)十一弟子全員を指すのか?(2)十一弟子たちの中の「ある者たち」のことか?(3)十一弟子以外の人たちのことか? この点で解釈が分かれます。先の28章7節から判断すれば(2)が適切です。ただし、この見方をとれば、十一弟子たちの中には、「ひれ伏しながら疑う」人もいたという「困難な解釈に向き合う」(Nolland. The Gospel of Matthew.)ことになります。なお、17節には、「女性たち」が出ていませんが、彼女たちもまた、イエスの昇天を目撃する人たちの中にいたと考えられます。これらの諸例は、復活顕現とこれを伝える伝承が、多種多様であったことを示唆します。
[18]主なる神の御心を啓示されて命令を発する行為は、モーセの「聞け、イスラエルよ!」で始まる命令にまでさかのぼります(申命記6章4節〜5節)。しかし、今回、ここマタイ28章16節〜20節でイエスが発している言葉の場合は、むしろ、イスラエルのバビロン捕囚の時期に、エレミヤが語った言葉(列王記下36章23節)に近いのではないかと言われています。そこでは、主なる神が、ペルシア王キュロスに働きかけて、イスラエルの民を解放しエルサレムへ帰還させるよう命じています。今回の16節〜20節には、
(1)場所がガリラヤの状況設定。
(2)弟子たちへイエスの顕現。
(3)イエスが授与された啓示。
(4)弟子たちへの命令。
 などが含まれていて、その内容と命令は、キリスト教会への原初の「宣託命令」の伝承にまでさかのぼるものです。マタイは、伝えられた「前マタイ資料」に、マタイ流の用語(「近寄る」「ひれ伏す」など)による編集を加えています。その結果、ここでイエスは、
(1)自分への啓示(天地の権能を授かった)、
(2)弟子たちへの命令(父と子と聖霊の御名ですべての民を弟子にすること)、
(3)弟子たちへの約束(世の終わりまであたたがたと共に居る)、
と告げています(Davies and Allison. Mtthew 19--28. 676.)。
【近寄って来て言う】ここで、イエスが、選ばれた弟子たちのほうへ「近寄ってきて言う」のは、先に女性たちを「出迎えるかのように出会って言う」(マタイ28章9節)のと比較対応されています。どちらも、イエスが厳かで大事な内容を告げるためです。
【一切の権能】ここで言う「権能」とは、イエスが、とりわけ受難を通じて、「新たに授与された」権能のことを意味するのか? それとも、以前から授与されていた権能を改めて確認するためなのか? これが問われています(Nolland. The Gospel of Mtthew. 1263.)。イエスは、先に、自分が飲むことになる「受難の杯」について語り(マタイ20章22節)、さらに、「多くの人を贖うための自分の命」について語っています(同20章28節)、これらの言葉が、受難と復活を通じて今回「成就した」ことは確かです。しかし、それだけでなく、今回の「天地を支配する権能」には、ダニエル書7章13節〜14節で預言されている「人の子」に授与される諸民族、諸国家を支配する「王権」が含まています(Nolland. The Gospel of Mtthew. 1264.)。全世界を支配する「御国の王権」こそ、受難と復活を通じてイエスが達成したことです。今回新たに加えられたのは、この「権能綬与」です(Nolland. The Gospel of Mtthew. 1264.)(Davies and Allison. Mtthew 19--28. 683.)
[19]〜[20]【出かけていって】出かけていって、学びなさい/教えなさい/調べなさい」は、ヘロデ王が東方の博士たちに命じた時に(マタイ2章8節)、あるいは、イエスが徴税人や罪人と共に食事をすると批判したファリサイ派の指導者に向かって、イエスが、「神の慈しみ」とは何かを「出て行って学びなさい」と諭しています(マタイ9章13節)。
【すべての民をわたしの弟子に】「弟子にする」(原語は「マセーテゥオー」)という他動詞は、聖書独自の用法で、「古いものと新しいものとを(蔵から)取り出す」律法学者が、「(天の王国の)弟子にされる」「(天の王国を)習得させられる」「(天の王国へと)鍛えられる」(どれも受動態)の例があります(マタイ13章52節)。ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの四人が、イエスの「呼びかけ」に応じて、網を捨ててイエスの「弟子になる/される」(マタイ4章19節)例がありますが、マタイは、ひとたびイエスの「声がかかれば」、誰でも「弟子になれる」と言いたいのです(Davies and Allison. Mtthew 19--28. 684)。
 「すべての民」は、「すべての異邦の民」と読めば、イスラエル以外の民を指しますが(マタイ4章15節の「諸民族のガリラヤ」)、ここでは、とりわけ、イスラエル(ユダヤ人)を含む「全世界の民」という普遍性を帯びた意味で用いられています。
【父と子と聖霊の名による洗礼】
 マタイ28章19節は、マルコ16章16節の「信じて洗礼を受ける者は救われる」とルカ24章47節「罪の赦しを授ける悔い改め」と共に、洗礼に関する重要な箇所です。ここで語られている動詞の「洗礼する」(原語「バプティゾー」)は、洗礼者ヨハネが授けていた洗礼(マタイ3章11節)と直接的につながるとは言えませんが、マタイのここ19節の「洗礼する」は、マタイ3章13節〜17節で語られているイエスが受ける洗礼に照らして理解する必要があります。マタイは、旧約のユダヤの律法を尊重していますから、ユダヤ人キリスト教徒の男性の子が「割礼を受ける」ことを期待しています。それでも、マタイは、キリスト教の洗礼をユダヤ人への割礼と結びつけて理解してはいません(Davies and Allison. Mtthew 19--28. 684--685.)。今回の19節は、後の「父と子と聖霊」の三位一体の教義とも深い関わりがありますが、この19節の「御名」(原語は冠詞付きの「ト・オノマ」)が中性名詞の単数形であることがとりわけ注目されています。「神の御名」がひとつであることは、出エジプト3章13節〜15節の「ヤハウェ」に始まり、マタイ以後では、ヨハネ17章11節やフィリピ2章9節(「キリスト」の御名はすべてに勝る)にも見ることができます。なお、「御名の内へと」“into the name of...”とあるのは、キリスト教徒の具体的な共同体に「所属する」ことを意識した言い方でしょう。ただし、「聖霊」については、これらに相当するテキストを見ることができません。
 マタイは、この段階で、後にニカイア公会議(325年)で正式に成立する三位一体の教義内容を意識してはいませんが、この19節は、三位一体の教義が形成される過程で、重要な根拠とされました。(以上はDavies and Allison. Mtthew 19--28. 684--685.を参照)
【あなたがたに命じたすべてのこと】20節で、イエスは、最後に「教師」として、「啓示された新しい内容の言葉」を語りますが、七十人訳出エジプト3章13節「わたしがあなたに命じるすべて」、七十人訳申命記1章3節「モーセがあなたがたに命じたすべて」などの前例があります。「見よ、わたしは命じる」は、とりわけ厳かな言い方で、その内容は、「山上の教え」に始まる様々な「教え」だけでなく、イエスの一切の言動を通じて語られていることも、言い換えると、イエスの「生き方そのもの」の全体が、その内容として含まれています(Davies and Allison. Mtthew 19--28. 686.)。だから、ここで語られている教えは、洗礼を受ける前の「教え」、あるいは、「弟子となる」準備としての教えだけでなく、イエスに従う者が心得るべき「全般的な」教えです。
【共に居る】は、イエスが、受難と復活以後にも、弟子たちと共に「臨在する」ことを告げていますが、むしろ、その臨在が、弟子たちを「援助して護る」ためであることを意味します(Davies and Allison. Mtthew 19--28. 687.)。だから、「共に居る」という最後の句は、マタイ1章23節に対応していて、福音書全体の枠を形成しています。
【洗礼の御名の諸様式】
「キリスト(の内)へ洗礼された」(ガラテヤ3章27節)
「キリスト・イエス(の内)へ洗礼された」(ローマ5章3節)
「イエス・キリストの御名の上/故(ゆえ)に洗礼される」(使徒言行録2章38節)
「主イエスの御名の中へ洗礼される」(使徒言行録8章16節)
「イエス・キリストの御名にあって洗礼される」(使徒言行録10章48節)
「主イエスの御名の中へ洗礼される」(使徒言行録19章5節)
「父と御子と聖霊の御名の中へ洗礼する」(『ディダケー』7章1節と3節)
「主の御名の中へ洗礼される」(『ディダケー』9章5節)
               (Davies and Allison. Mtthew 19--28. 685)
*『ディダケー』は、1世紀末から2世紀初頭にかけて書かれた文書で、『十二使徒の教訓』と訳されます。
■ルカ24章
[50]ここでの「ベタニア」については、マタイ28章16節の注釈の【イエスの復活顕現の場所】を参照してください。
[51]【天に上げられた】シナイ写本とベザ写本と一部のシリア語訳では、この句が抜けています。(NOVUM TESTAMENTUM GRAECE. 291. Note under 51.)
[52]【大喜びでエルサレムに帰り】ここでルカは、マルコやマタイが見落としている極めて大事なことを指摘しています。それは、昇天のイエスを「伏し拝んだ」弟子たちが、その事によって、別れの悲しみではなく「大喜びで」、先ず「エルサレムへ戻った」ことです。これは、キリスト論的な見地からも、教会社会学の見地からも、重要かつ不思議な「喜び」です(Bovon. Luke 3. 407)。この52節が証(あか)しするとおり、彼らは、復活のイエスの聖霊の働きとその力を伝える宣教活動を当時のユダヤの政治と宗教の中心である「エルサレムから始めた」のです。だから、その宣教が伝えるイエスの御霊の働きは、ユダヤの「宗教」だけでなく、ユダヤの政治の分野にも及び、「そのユダヤ」(エルサレム!)から、全世界に広まったのです。これが「(イエスの)復活と昇天の栄光」の意味です(Bovon. Luke 3. 407)。復活の出来事が、こういう広い範囲にその力を及ぼす働きを有することは、現在では、どういうわけか(「政教分離」の原則に影響されてか?)、あまり重視されていないようです。「祝福」と「昇天」と「礼拝の喜び」、ルカのこの結びこそ、マルコ16章19〜20節の真意です(Bovon. Luke 3. 408)。
                    214章 派遣と昇天へ