補遺:十字架の道行き
イエスが十字架を背負って歩んだとされる「道行き」をたどる「巡礼の道」が、現在も続いています。「苦難/悲しみの道」(ラテン語「ヴィア・ドローローサ」"Via Dolorosa"」)(英語で"The Via Dolorosa")、あるいは、「十字架の道」(ラテン語「ヴィア・クルキス」"Via crucis")と称されます。
イエスの十字架の道行きをたどる巡礼は、ビザンチン時代(5世紀頃?)に始まります。はじめは、オリーブ山の山頂から、山の西側を降り、ゲツセマネを経由して、エルサレムの北のライオンの門をくぐり、そこからは、ほぼ現在の「道行き」と同じルートで、現在の聖墳墓教会に到るルートでした。14世紀に、ローマ法王クレメンス6世の時代に、フランシスコ修道僧たちによって、聖墳墓教会から始まり、ピラトによって十字架刑の判決が下され、イエスが鞭打ちされた場所までの巡礼が行われました(1350年)。この時の「ピラトの官邸」は、(現在考えられているヘロデの王宮ではなく)イエスの頃、ローマ兵が駐屯していたアントニア砦であると見なされました。この砦は神殿の北西角に位置し、そこが、イエスの鞭打ちの場だとされました。聖墳墓教会に始まるフランシスコ修道僧たちの巡礼道は、1517年頃まで守られたと見られています。
この時に、フランシスコ修道僧たちは、ピラトのいた官邸が、ローマ兵が駐屯していたアントニア砦だと考えて、今度は逆に、その「砦跡」から「ヴィア・ドローローサ」を始めます。巡礼の道程は、砦跡から始まり、ほぼ、エルサレムの第二城壁に沿ってその南側を西へ進み、そこから折れて、第二城壁の東側に沿って南へ降り、さらに西へ折れて、かつての第二城壁を越えて、ゴルゴタ(現在の聖墳墓教会の場所)へ通じています(ホームページの共観福音書補遺欄の「イエスの頃のエルサレム」を参照)。
これ以後にも様々な考証が行われて、現在の「ヴィア・ドローローサ」には、14箇所に「留」(りゅう)" station " と称される場が設けられていて、巡礼者は、それぞれの留で、イエスの受難を偲んで黙想することが勧められています。留は、以下の通りです。
(1)イエスに死刑の判決が降りる。鞭打ちの場。
(2)十字架を負わされる(エッケ・ホモ教会)。
(3)イエスが最初に倒れる。
(4)イエスがその母に会う(悲しみの聖母教会)。
(5)クレテ人シモンが十字架を担ぐ。
(6)ヴェロニカがイエスの顔を拭う。
(7)イエスが二度目に倒れる。
(8)エルサレムの女たちが嘆く。
(9)イエスが三度目に倒れる。
(10)イエスが衣を脱がされる。
(11)イエスが十字架に釘付けされる。
(12)イエスの十字架上の死。
(13)イエスが十字架から降ろされる。
(14)イエスが聖墳墓に葬られる。
なお、(10)〜(14)は、聖墳墓教会内にあります。
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