イエス様の霊風を讃美する

                                霊風和讃

                               (2023年10月4日)

 

  十字架の贖いを成し遂げたナザレのイエス様の御名による祈りは、しばしば、祈る者の無言(沈黙)で始まり、無言で終わります(実は、異言を語っている時でさえ、私たちの無言は守られています)。無言のうちに働く御霊の祈りの深まるところ、奥深い静寂の愛光へ導かれ、無心の「空」(くう)が生じます。イエス・キリストの十字架から降る御霊への霊操は、広大無辺の赦しの愛を生じ、その愛は、あらゆる宗教人の罪を赦し浄めて、三位一体の神のみもとに心を結ぶ絆(きずな)になります。イエス様の御霊の至高の権能(デュナミス)に宿る働き(エネルゲイア)に秘められた、この宗教的な普遍性からは、キリスト教徒はもとより、御霊の働きを通じて、あらゆる宗教の人たちと交わり、交わりを通じて、御霊にある者同士が通じ合う世界が啓(ひら)けます(マルコ9章1節)。御霊のこういう奥深さを体験するまでには、祈りに導かれる霊操が必要です。イエス様の十字架の赦しの愛を見出すことで、喜びと平安が与えられる段階から、より深い霊操を求めて修道する段階まで、キリスト教には、奥行きの深い行程があることを知っていただきたいのです。
 以下に掲げる祈祷文は、私の場合、もともと「ナザレのイエス様、御臨在ください」と唱えるところから発したものです。これは、「イエス様、お出でください」にもなって働きます。「マラナタ」(「主よ、来たりませ!」(ヨハネ黙示録22章20節参照)に近いですが、「マラナタ」は、終末の到来を想わせますから、むしろ、ヨハネ福音書の「エゴー・エイミ」(「私は臨在する」ヨハネ13章19節)に近いです。イザとなれば、常に、この祈りに戻ります。祈りを唱え続けるうちに、不思議な御霊の働きが生じます。こういう霊操の祈りを、あえて祈祷文にすると、私の場合、以下のような、
イエス様の霊風を讃美する霊風和讃の唱文(しょうもん)になります。これには、小池先生の「南無キリスト!」の影響もありますが、私が、小学生の時に、継母に命じられて、毎朝かかさず、仏壇の前で、親鸞の讃仏偈(さんぶつげ)を唱えさせられた影響もあるでしょう。しかし、このイエス様の霊風和讃の祈祷文を唱えるところ、 そこに啓(ひら)ける心は、紛(まぎ)れもなく、新約聖書が証しする御霊の働く、ナザレのイエス様の十字架の贖いが発する愛光無限の三位一体の御霊の世界ですから、ご安心ください。この唱文の祈りを通じて働く御霊は、そのまま、主の祈りに直結します。
天に居ます我らの父よ、
願わくはみ名を崇めさせたまへ。

み国を来たらせたまへ。
みこころの天に成る如く地にも成らせたまへ。
我らの日用の糧(かて)を今日も与えたまへ。
我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく
我らの罪をも赦したまへ。
我らを試みに遭(あ)わせず、
悪より救い出したまへ。
み国とみ力とみ栄(さかえ)は 限りなく汝のものなればなり。
         アーメン

 「渇(か)わいている者には、この私が、命の水の泉から、賜(たまもの)を与えよう」(ヨハネ黙示録21章6節)。 『東アジアにおける日本の使命』では、東アジアにおける救済史的な出来事が予言されていますが、日本人を初め、中国や朝鮮半島や台湾の人たちは、仏教や儒教や神道などに長年親しんでいますから、キリスト教が、クリスマスに楽しくはしゃぐお祭り宗教ではなく、奥深い御霊の働きを秘めていることを察知できます。こういう人たちにキリスト教の奥義を感得してもらうためにも、主の御霊の霊風を讃美する以下のような唱文(しょうもん)はいかがでしょう。 (唱文の原文の写真もご覧ください)。 

 

         霊風和讃(れいふうわさん)

      一度(ひとたび)主の御霊がそよぎ始めるところ

 

霊風無心 れいふうむしん

春風接人 しゅんぷうせつじん

霊知謙虚 れいちけんきょ

愛光無限 あいこうむげん

空即生命 くうそくしょうめい

命即生行 めいそくしょうぎょう

行即生伝 ぎょうそくしょうでん

伝即生和 でんそくしょうわ

 

御霊(みたま)の風、無心をもたらし

春風(はるかぜ)をもって人に接す

御霊の知恵、謙虚にして

愛光限りなし。

空(くう)はすなわち命(いのち)を生じ

(いのち)はすなわち行(ぎよう)を生じ

行(ぎょう)は人に伝わり

伝わるところに和あり。         
 
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