川口愛子先生と真理子さん
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  6月4日(日曜)に小諸の川口真理子(1928年〜2000年)さんの葬儀に行って来ました。72歳の生涯でした(川口母娘略譜参照)。葬儀はかつて「ひまわり荘」と呼ばれていた故川口愛子先生(1910年〜1972年)の家でおこなわれ、家は参列者でいっぱいでした。私が家に着きますと、司式役の山田さんから突然追悼のお祈りをしてほしいと言われて、少しとまどいましたが、京都を代表してということで引き受けました。喪服に着替えて小林さんの追悼の言葉を聞きながら祈っていますと「わが家は祈りの家と呼ばれる」(マタイ 21:13)が与えられ、立って導かれるままに祈りました。
 小諸へ行く車中でも帰りの車中でも、真理子さんの生涯とはなんだったのだろうという思いが頭から離れませんでした。そのことを考えていると、愛子さんと真理子さんの二代に渡る石垣会が、今の私たちに残してくださったものはなんだろうということにゆきつくのです。そこでどうしても真理子さんから愛子先生へ、つまりママさんのことへと話がさかのぼらなければなりません。今日はまず川口愛子先生のことから始めたいと思います。
 愛子先生のお父様は控えめで大変思いやりのある優しいお医者さんであったと先生の記録にあります。愛子さんは8歳の時に中国の旅順にあった教会で「天の神様」を信じました。その後お母さんもご兄弟もクリスチャンになりましたが、お父様は信仰の告白まではいかなかったようです。愛子さんも信仰を押しつけることは間違っていると思い、最後まで父のための祈りを止めませんでしたが、強く勧めることはしなかったようです。
 先生は1923年に青山女学院に入学しました。その年に、賀川豊彦の講演を聴いて非常に感動し、貧しい人やこの世のどん底にいる人たちの友になりたいという思いを強く抱いたと記しています。その翌年小諸女学校へ転校して、そこを1927年に卒業しました。ところが女学校卒業の年に脊椎カリエスが発病して、4年間病床にありました。その頃先生は、ある人から贈られて、弟さんと内村鑑三の雑誌『聖書の研究』を読んでいます。内村鑑三が逝ってからは、先生は塚本虎二の雑誌『聖書知識』を読み、塚本先生を信仰の師と仰ぐようになりました。また、ルター派の教会の佐藤繁彦先生の『ルター研究』を読み、佐藤先生の夏期集会に参加したりしています。このルターによって、無教会への揺るぎない信仰の土台が固められたと先生は記しています。
 しかし、1934年に、塚本先生の教会攻撃とこれに対する教会側からの無教会への攻撃を目の当たりにして、どちらの側にも心から賛成できない自分を見出して悩んでいます。その上、賀川豊彦の説く社会的愛の実践の福音か、それとも無教会の説くこの世と対立する神の国の福音かという狭間に立たされて、「内心の苦闘極みに達し、ついに教会を脱し、無教会信仰に入る」と記しています。教会と無教会との間の論争がいかに激しかったかは、先生の記した「教会の人は無教会の人をゲヘナ(地獄)の子と呼ぶ」という言葉にもその一端がうかがわれます。先生はそれでも「無教会が万一異端であっても内村、藤井、塚本先生とご一緒に地獄へ落ちよう」と決心したと記しています。
  1941年にも、「おそるべき心霊の苦悩を与えられしが、人間的敗北の極みにただキリストの勝利として立ち上がらせられた」とありますが、これがなにを指しているのか私にはわかりません。また先生は1948年には、再び賀川豊彦の講演を聞きに行っています。後に療養所の人たちや苦しんでいる婦人たちを自分の家に招くというやりかたを先生がとったのは、おそらくこの賀川先生の影響があったのではないかと思われます。先生はまた、小諸には二つの教会があるのに、なぜ自分は無教会の人として彼らに批判されなければならないのだろうと書いています(『落穂:川口愛子姉遺稿集』石垣会(1974年)95頁)。
 1950年に、先生は、手島郁郎先生の雑誌『生命の光』を読み、神の癒しがあることを知ります。そのことがきっかけで、手島先生と交わりのあった小池先生を知り、その年の12月17日に、手島先生と小池先生のふたりの祈りを按手で受けます。今から思えば、3人のすごいメンバーがそろっていたことになります。その時愛子先生のカリエスの病が癒されました。その上先生が一人で祈っていると口からハレルヤコーラスが出て、異言が与えられました。この癒しと異言のことは先生の手記に詳しく書かれています(『落穂』100〜107頁)。
 ところが、今度はこの癒しと異言のことで、長年の恩師塚本先生の厳しいお叱りを受けることになりました。愛子先生は「腸も胸もヅタヅタにさかれる痛みの一日一夜」をすごして、お詫びとお赦しを求める手紙を塚本先生に書きますが、ついに癒しと異言は「邪教」として受け入れられませんでした(『落穂』118〜133頁)。この時にも、「キリスト教迫害時代の踏み絵にもひとしき一つの信仰告白であったのでございました。心臓がズキズキ痛みました」と書いておられます。しかしこの苦しみの中で先生が書き残した手紙から、先生が異言について実に深い貴重な洞察に至ったことがわかります(『落穂』109/113/115/116/133/211〜12頁)。
 そこには、異言が「弱い人たちのための賜物」であること、また異言は「しるし」であってそれ以上のものではないこと、さらに聖霊は「母性的な性質を有する」ことが語られています。私は、今回改めてママの異言体験の記録を読んで、非常な驚きを覚えました。今私がホームページでネット講話として連載中の「異言を語る人も語らない人も」は、実は先生が指摘されているまさにこれらの点と軌を一にしているからです。愛子先生が無教会の塚本先生と異言を伴うみ霊のバプテスマとの板挟みにあって苦しんだこの体験こそ、私がネット講話で採りあげたいことなのです。この問題は現在でも解決されていません。
 この後の1953年に、小諸の結核療養所で真理子さんと出会うことになり、真理子さんは先生の導きで信仰に入りました。その後に、先生が、ひまわりの家で病人や苦しむ人にどのように献身的な奉仕をなさったか、そしてそこに、如何に愛に満ちたすばらしい交わりが生まれたか、そのことは、私を含めてここにいる方々も体験したことです。これについての証言は、『落穂』にも多く載せられていますので、ここで語ることはしません。
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 さて、川口真理子さんは、小諸の小学校を出てから青年学校に入り、今で言う大検で当時の長野師範学校に入学しました。ところが激しい受験勉強のせいでしょうか肺結核にかかり、小諸の療養所で療養中でした。「ママが3度目のカリエスから癒されて聖霊の満たしの中に歓喜していたちょうどその時、私は小諸市内の病院で結核のため療養しており、そこでママを通して救いに導かれ、暗黒より光の世界へと移しかえられて、その喜びはたとえようもありませんでした」と真理子さんは「ひろわれて」(『落穂』537頁以下)の中で書いています。真理子さんが退院を許されても、なお遠くから通院しなければならなかったときに、「よろしかったら、家へいらっしゃいませんか」というママの誘いを受けました。真理子さんは、そのまま川口先生の家に同居し、やがて先生の養女になりました。これを皮切りに大勢の人が病院から先生のもとへ導かれるようになり、やがて、先生はみんなから「ママ」と呼ばれるようになりました。「川口の家は義の太陽なるキリストを見つめて咲く<ひまわりの荘>と名付けられた」と真理子さんが書いています。
 私が小池先生の夏期集会で、初めてお二人に出会ったのはこの頃、1954年頃だったと思います。集会が終わって帰ろうとしていますと、上品なふたりの婦人が私のところへ来て、「すみませんがカメラのシャッターを押していただけませんか」と頼まれました。私は、そのふたりの婦人を見て誰だろうと思いながらシャッターを押したのを覚えています。やがてこのおふたりが、小諸のひまわり荘の人であることがわかり、それから集会の人たちとそこへ行って交わりを持ったり、久子とふたりで車でドライブして、一泊して集会をしたりしました。
 ママがお亡くなりになった折りの葬儀では、聖書朗読をしたり、その後で追悼集『落穂』が出たときには、想い出として2篇の文を載せていただきました。真理子さんと小林さんとの手紙による交わりは、その後も続いて現在に至ったのです。幾年か前に、真理子さんの容態が悪くなったときに、小諸の病院をお尋ねしました。真理子さんは、やや苦しそうにしながらもいつもの笑顔でお話をして、お別れしたのがお会いする最後となりました。小林さんは、追悼の辞で、最後の真理子さんの顔があまりにもきれいなので、そのまま化粧をいっさいしないで入棺したと話していました。
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 私は、ママと真理子さん母娘の生涯を思うときに、二つのことを教えられたように思います。ひとつはママの体験にある「異言」の問題であり、もうひとつは石垣会の集会としての有り様それ自体についてです。
  異言については今ここでお話ししません。私が「異言を語る人も語らない人も」と題してホームページで講義を始めたのはママが体験したまさにこういう問題を追求したかったからだということは先にお話ししました。私が『聖霊に導かれて聖書を読む』を著したのは、み霊の福音と現代の聖書解釈(無教会は聖書解釈を大事にします)との関係を論じたかったからです。今異言についても同じことをしようとしているのです。
 もうひとつは、集会のあり方それ自体についてです。私たちのコイノニア会は、み霊の働きを信じる集会です。それはこの集会の内面的な信仰だけでなく、外面の形にもよく現れています。私たちの集会には牧師はいません。会堂もありません。組織もありません。神学者や牧師などの専門家はひとりもいません。全員が職業を持ちながら信仰生活を送っている人たちです。ですから、み霊がその働きを止めるなら、明日にでも集会は消えてなくなります。私はそれでいいと思っています。イエス様のみ霊の働きを信じて歩むということは、その裏に当然「消えてなくなる」可能性をも秘めていると思っています。無教会の先生方の聖書集会は、通常、先生が亡くなると集会は「解散する」そうですが、それはこういう信仰から来ているのでしょうか。
 私たちのようなミニ集会では、聖書を学ぶことと祈ること、これによって与えられるイエス様のみ霊の働き、これだけが集いの霊的な生命です。それ以外のことはどうでもいいのです。イエス様のみ霊の働くところに集会あり、み霊の働きのないところに集会なしです。「今日は生えていて、明日は炉に投げ入れられる野の花でさえ、神様は美しく装ってくださるのなら、あなたがたに対してはなおさらではないか。」こうイエス様は言われました。ですから、消えそうで消えない。なくなりそうでなくならない。一回一回の集会は、言葉通りに「神様から与えられた」ものなんです。誰が何人来るかも集まってみなければわからない。こんな集会をもう長い間やっています。
 聖書の知識も教会の組織も聖霊の奇跡も、異言や預言もやがて消えてなくなる時が来ます。けれども、信仰と希望と愛、この三つは永遠になくならないとパウロが言っています。ママは決して聖書の知識を軽んじる人ではありませんでした。でも、そういう知識は外から先生を招いて教えていただけばそれでいいのです。大事なのはみ霊の愛に満ちた信仰が現実に生活されているかどうかなのです。それも職業的な信仰者たちではなく、弱い病人や、こう言っては失礼かもしれませんが、それほど知識を持たない人たち、そういう人たちが集まって、祈りと賛美のうちにイエス様にある愛を心から喜んで生活し、み霊の愛を実現すること、これがママの目指したことだったのです。もしも信仰と希望と愛だけが永続するものなら、これはママと真理子さんを始め石垣会の人たちにぴったりです。そこには、この三つ以外のものはなにもなかった。しかし、この三つだけは確かに存在していたからです。
 真理子さんが逝かれた後に、石垣会がどうなるのか、それはわかりません。しかし、そこで蒔かれた種は、決して失われることがありません。天地が滅びても滅びないものは私の言葉であるとイエス様は言われました。天地が滅びるのなら、地上の教会も組織も、姿形のあるものはことごとく滅びるでしょう。形のあるものはなくなるが、形のないものは残ります。
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 今回小諸へ行ったときに、だれかが、ママは日本のマザー・テレサだと言っていました。確かにママの生き方とマザー・テレサの生き方とは共通するところがあります。キリスト教の歴史で「貧しい者の友となること」それ自体を信仰の目標としたのが、聖フランチェスコです。日本でこれに近い人と言えば、越後の良寛さんでしょうか。『良寛と聖フランチェスコ:菩薩道と十字架の道』(石上・イアルゴルニッツアー・美智子著/考古堂)と題する本が出ていて、今読んでいます。貧しく聖く生きながら、恵まれない人苦しむ人たちの友になろうとするこういう人たちは、例外なく組織や教義に煩わされずに行動します。  
 良寛にせよ、聖フランチェスコにせよ、マザー・テレサにせよ、ママにせよ、蟻の町のマリアにせよ、そこには共通したスタイルがあります。組織や教義にこだわらないで一人で信仰を貫くところです。この人たちは大きな教団を組織したり神学を創ったり、大々的な伝道活動をしたりはしませんでした。その代わり、一つの「型」、つまりタイプです、これを創ったのです。クリスチャンとしての理想の生き方とはどういうものかを誰の目にもわかるようにその生活のスタイルで表現したのです。これが「型・タイプ」を創ることの意味です。
 「型」と言うのは、だれでもがその気になりさえすれば、それぞれの状況で、それなりに実行できる基本となる原型のことです。これを「タイプ」と言います。型はいわば生活のスタイルです。この型を徹底的に歩もうとすればものすごく奥が深くて厳しい。それでいて、だれでもが、どうやればよいのかがわかるから、その真似事くらいはできるのです。いいかげんでも真剣でも、浅くても深くても、不完全でも完全でも、とにかくやろうと思えばできる。これが型なのです。これに対して、知識や教義や組織作りや奇跡は、だれでもというわけにはいきません。それなりの知的、経営的、霊能的な能力が与えられていないとできません。
  ママとマザー・テレサは共通するところがあると言いましたが、違っているところもあります。ママは自分のしていることを組織化しませんでした。この点が、マザーと違います。聖フランチェスコもマザー・テレサも、特にフランチェスコはそうでしたが、自分のしていることを組織化することを望みませんでした。しかし、このふたりのおこなったことは、結果として大きな組織へと発展しました。これはおそらく、フランチェスコにもマザーにも、自分のやっていることを「理論化する」能力があったからでしょう。これに対して、ママも良寛も、自分のやっている型を理論化しませんでした。意図的にか無意識的にかはわかりませんが、日本人はこういう場合に、理論化をあまりやらないようです。
 さらに、フランチェスコとマザーには、カトリック教会という大きな組織のバックがあったことが、あのような組織へと発展する力になったと思います。ふたりの働きは、教会全体にも大きな影響を与えて、教会の改革にまでつながっています。ところが日本では、そうはならない。最初から最後まで一人で終わっています。したがって、既成の教会を変える力にはなりにくいのです。その人の生き方に賛同してその人を支援しその運動を広げようとする人たちが現れてこないのです。周囲の人たちは、「ああそうですか。結構ですね」で終わってしまう。だから、日本でこれをやろうとすれば、徹頭徹尾自分だけでやり抜く覚悟が要ります。誰も自分をサポートしてくれないまま、後には何一つ残らない。そういう覚悟でやる必要があります。ただし、このほうが、ほんとうはより純粋で、信仰と希望と愛の三つだけが永遠に残ることを信じる信仰につながるのかもしれません。だから、欧米と比べてどちらがいいか簡単に判断できないです。
  私はキリスト教の教義も教団も教派も、教会堂も儀式も行事も、どんなに大きな教会組織もどんなに驚くほどの奇跡も大規模なリバイバル運動も、およそキリスト教的と名の付くいっさいの活動は、その究極の目的をママのやったことに求めるべきだと思っています。それ以外のことは、この目的のための手段に過ぎません。御霊の導きに従って主を愛し主に従う。これに徹することだけです。「マリアはそのよいほうを選んだ」(ルカ10:42)のです。でも、これはキリスト教に限りません。あらゆる宗教の原点です。言葉のほんとうの意味で「神様を信じる」というのはそういうことですから。
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