【註】 
 
                 序文
 
(1)英国国教会の聖職制は、いわゆる三聖職位と呼ばれる主教(Bishop)・司教
(Presbyter)・執事(Deacon)から成っているが、ミルトンの時代には、高位聖職者(Prelates)とは、主として主教(Bishop)と大主教(Archbishop)とを指す。主教は、その主教管区の最高責任者として、裁治権・管轄権をもち、かつ堅信礼と聖職按手式とを執り行なうことができた。主教制は、中世カトリック教会をさらにさかのぼり原始教会にいたると考えられ、これによって教会は、その歴史的継続性を保持しているとされていた。当時のイングランドは、二六の主教管区に分かれ、そのうち、大主教の管区はカンタベリとヨークの二つであった。
(2)典礼(Liturgy)とは、教会暦にしたがって教会で行なわれる公的礼拝の儀式とこれに用いられる器具、式服などの一切を含む規定のことである。典礼の中でも特に重要なのは聖餐式であり、宗教改革時代の英国国教会でもこれが一つの大きな論争の的になった。たとえば、聖餐のパンとぶどう酒を受けるときにひざまづくのは、カトリック教会の教義にしたがって、これらがキリストの化体として礼拝さるべき秘跡を意味するかどうかという点などである。典礼は、典礼書によって制定されていて、ミルトンが「典礼」と言うときには、具体的には典礼書を指す場合が多いようである。
 英国国教会の典礼書、いわゆる祈祷書は、最初にトマス・クランマ~が編集して、一五四四年、ヘンリー八世によって認可された。これは、ラテン語のミサであったが、後の英語の祈祷書の基となった。やがて、一五四九年の国教統一令によって第一祈祷書が制定され、それまでいくつかに分かれていたイングランドの典礼が一つに統一された。これは、完全に英語で行なわれるものであったが、内容は、多分に伝統的な礼拝形式を受け継いでいて「ミサ」もラテン語のミサにならっていた。一五五二年に第二統一令が出されて、典礼の内容は大幅に改革された。聖餐式は、ミサ形式を排除し、「ミサ」という言葉も用いられず、聖餐のときにひざまづくのは、これを礼拝するためではないと明言された。メァリ女王の即位により、一時中断されたが、一五五九年にエリザベス一世によって第三統一令が出された。この祈祷書には、一五五二年版の序文の前に、一五四九年の版の制
定令が加えてあった。重要なのは、聖餐式にも、再び秘跡的な解釈が加えられていて、その上、司祭の服装までが規定してあったことである。これは、ピューリタンの反発を招く結果となり、一六四五年に議会によって廃止された。しかし、一六六〇年の王政復古によって再び用いられた。一五五九年の祈祷書は、始めに、これ以外の礼拝形式を厳しく禁じる序文がついていて、司祭が礼拝を行なうときの指示が赤文字で記されている。
(3)「愚かな者にその愚かさにしたがって答えをせよ、彼が自分の目に自らを知恵ある者と見ないためだ。」
(箴言〔伝統的にソロモン王の作とされている〕二六・五)  
(4)ホールが、ロード大主教の指示によって書いた『主教制を神授権により擁護する論』(一六四〇)での彼の立場から、『謙虚なる抗議への弁明』ではかなり後退しているとミルトンは見てこのように言う。
(5)マタイによる福音書一二・四三~四五。
(6)「古き慣習」とは、具体的には、ノルマンの征服(一〇六六)以前のサクソン時代のイングランドの教会のあり方を伝える文献類を指す。したがって、この言葉は、一般には「古文献」あるいは「古文書」と訳される。英国国教会は、その伝統の拠り所を直接的にはこの時代に求めたからである。古文献の累集で代表的な人物は、マーシュー・パーカー(一五〇四~一五七五)である。彼は、一五五九年にエリザベス女王によってカンタベリの大主教に任ぜられると、イングランドの修道院に残っていたサクソン時代の文献を累纂し始めた。それは「現在の英国国教会の宗教がなんら新しい改革ではなく、むしろ、この古い制度に教会を立ち帰らせる」ためであった。しかしながら、古文献によってイングランドの教会統一を確立しようとしたパーカーの穏健な路線は、より徹底した改革を求めるピューリタンとの亀裂を深めることになった。
           第一部
(7)当時の国教会で、複数の聖職を兼任して利益を得ている者がいたことをあてこすったもの。
(8)「また彼に『なんという名か』と尋ねられると、『レギオンと言います。大勢なのですから』と答えた。」(マルコによる福音書五・九)
「レギオン」とは、ローマ軍団のことで、転じて、(悪霊の)数の多いことを意味する。
(9)聖ダンスタン(九二四~九八八)は、うわさによれば
悪魔の鼻を引っぱった
真っ赤に焼けた鈎ではさまれ
悪魔は一〇マイルも響くほど吠えた。
         (イギリス伝承童謡)
聖ダンスタンはビール造りのために悪魔と取り引きしたと言われている。
(10)「たとえ軍勢が陣営を張って、わたしを攻めてきても、わたしの心は恐れない。たとえ戦が起こって、わたしを攻めても、なおわたしは自ら頼むところがある。」(詩篇二七・三)
(11)一六四〇年十一月に、チャールズ一世は、スコットランドとの戦争の戦費を調達するために、いわゆる長期議会を召集した。以後一六四一年の夏までに、チャールズは、ストラットフォード伯の処刑(五月)、ロード大主教の投獄、星室庁の廃止(七月)など次々に譲歩を強いられた。しかし、それまで比較的一致を保ってきた議会も、ちょうどミルトンの『弁明批判』が書かれるこの頃から、国王方と、君主制および教会制度への議会の介入を求める改革派とに分裂し始める。やがてアイルランド戦争が始まり(十月)、翌年八月には王党派と議会派との内戦が始まった。
(12)「[スメクティムニューアス]は、彼らの根拠をはるばると賞賛すべき正義の子ら、「アレオパギ」から持ってきている。「アレオパギ」だと?確かに先生がたよ、これは人の名前ではなく場所の名前だったと思うが。」
                 (ホール『謙虚なる抗議への弁明』二頁)
 アレオパグスとは、古代アテナイ市の郊外にある丘の名であったが、ここでアテナイの議会が開かれたため転じて「議会」を意味するようになった。ミルトンは、言論の自由を論じた文書を『アレオパギティカ』(一六四四)と題している。エディンバラ大学図書館蔵のスメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』には、第一頁が欠落しているので、この「アレオパギ」(the Areopagi)という言葉がどのような意味に用いられているのかを正確に知ることができないが、「アレオパグスの(人たち)」の意味で用いられたのであろう。ホールは、この「アレオパギ」という語自体が人を表わすと解釈してこのように言ったのであろう。
(13)ジェフリー・チョーサー(一三四〇?~一四〇〇)。中世イギリスの最大の詩人で『カンタベリ物語』の著者。
(14)セミラミスは、バビロンを深い溝のある城壁で囲んだという伝説の女王。チョーサーの『カンタベリ物語』の「バースの女房の話」その他にでている。
 アンフィアラウスは、妻の密告のためテーベで不幸な最後をとげた夫の例として「バースの女房の話」にでている。
 セイクス(ケユクス)は妻アルキュオネから離れて航海で死んだ夫として『公爵夫人』や『カンタベリ物語』の「法律家の序の話」にでている。出典は、いずれも『カンタベリ物語』から。
(15)ホール『謙虚なる抗議への弁明』の言葉ではなく、彼の『謙虚なる抗議』の冒頭からの引用。
(16)ホール『謙虚なる抗議』は章に区切られていない。
(17)ジョン・コーベット(一六〇三?~四一)の用いた偽名。国教会の聖職者であったが、スコットランドの長老派を非難する文書『イエズス会のリシマックス・ニカイノアよりスコットランドの契約者たちに敬意を表する書簡』(一六四〇)を書いた。この中で彼は、「イエズス会は法王のピューリタンであり、ピューリタンはプロテスタントのイエズス会である」として、長老派とカトリックの類似性を示そうとした。
(18)フランシス・ベイコン(一五六一~一六二六)。イギリスの政治家であり経験論に立つ哲学者。引用は『教会の問題に関する賢明にして穏健なる論説』から。(19)使徒行伝二六・二五~二六。
(20)ミルトンのこのような思想は『言論の自由』で論じられている。
(21)ホールの書いた風刺的な著作『鞭打ちの収穫』は、第一巻が「歯の抜けた風刺」、第二巻が「咬みつく風刺」と題してある。
(22)ピューリタンは、ローマ・カトリック教会をヨハネ黙示録にでてくる着飾った淫婦にたとえていたが、ここでは、そのイメージが国教会に向けられている。
(23)ジェロニモ・カルダーノ(一五〇一~七六)。イタリアの著名な医者であり数学者。。スコットランドに渡り大主教の治療をしたこともある。数学者としてもすぐれた業績をあげていた。
(24)オウィディウスの『転身物語』(一・二〇)には、原初の混沌の中では「重量が無重量と争っていた」[中村善也訳]とある。
(25)イギリスの諺に”bishop has put (or set)his foot in it"(主教がその中に足を入れた)というのがある。主教はよく人を火あぶりの刑に処したので、オートミール(porrige)が焦げついたり肉が焼けすぎたりした場合「主教がポットの中に足を入れた」とか「主教がコックの役をした」という(一六世紀前期)。ホール『謙虚なる抗議』に答えたスメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』の「後書き」の最終部には次のように書かれてある(この「後書き」はミルトンの筆になるものとも言われている)。
「ついには、諺にまで言われるようになり、何事かがだめになると『主教が足を突っ込んだ』と言うようになった。これらすべてにおいて(まだまだ多くあるが)ボナー主教の予言が成就することになろう。彼はエドワード王の改革に当たり、典礼式と聖職位階制の保持されているのを知り、次のように言ったものだ。『彼らがわれわれのスープの味を知ったからには、ほどなくわれわれの牛肉をも食べるだろう』。」
 なお、ホールは『謙虚なる抗議への弁明』の最終部近くで、再び三たびこの諺に関することを反論として持ち出し、ミルトンはそれに答えて批判している。 註(229)(230)参照。
(26)「これらのパンフレットの著者たちが、断罪に値するのは容易に分かるであろう。彼らは、その言動によって、確立された教会の制度を変えようとするのだから。なぜなら、古き慣習を規範とするならば、国(世俗)の制度は時により変化したが、教会(聖)のそれはけっして変わらなかった。そして、創立者の権威によれば、一方は、恣意的な権力者により、他方は、霊感された人たちによるのであって、この人たちからわたしたちへと伝えられたことは、疑問の余地なく明らかだからである。」
            ( ホール『謙虚なる抗議』八~九頁) 
「第一に(見過ごしにできないのは)、二つの制度に対する彼の区別である。すなわち、わたしたちの(現在の)君主制である政治制度と、彼の主教制である教会制度との二つである。前者について彼は言う『古き慣習を規範とするならば(いかにも主教制を弁護するようだ)、あるいは聖書(自分で解釈した通りの)に従うならば、それは変化しうるし恣意的である。これに対して後者は、神聖であり変わることがないものである』と。だから、彼の判断によれば、人々が君主制の変革を求めるならば、聖書と古き慣習に照らしてみて、聖職位階制の変革を求めるよりも罪が軽いわけだ。もしもこんな言葉を彼の言う『ふらちな中傷者ども』(いつも彼らのことをこのように穏やかに呼んでくださるので)が書いたとしたら、彼の言葉を借りるなら『この問題に関係する三つの王国、然り、近隣のすべての諸教会、さらには、こう言ってよければ、キリスト教国全体、さらには、これ以上の少なからぬ国々』に向かって、『反逆だ。反逆にほかならない』とのわめきが、耳をつぶさんばかりに鳴り響いたことだろう。」
        (スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』四頁)
「教会と国の制度とを比較して、わたしはこう言った、『古き慣習を規範とするならば、(一般概念としての)国の行政制度は、時により変化したが(ちょうどローマの国家が、七つの別々の形態をとったように)、教会のはけっして変わらなかった』と。国の制度は恣意的な権力者たちによるが、教会のは霊感された人たちによると。ところが、これらご丁寧な註釈者のかたがたは、無理やりわたしの言葉を現在の、しかもわが国の君主政体という特定の制度に当てはめようとするのだ。まるでわたしが、これは変革しうる恣意的なものだと言っているかのように。さらに、あつかましくも『反逆』などという恐ろしい名を口にするのである。故意に目をつむったりしない方ならだれでも、わたしが制度の一般的な形体を言っているのが分かると思う。世界には、それぞれの国や領土があり、あるものは貴族制、あるものは民主制、あるものは君主制というように。」
               (ホール『謙虚なる抗議への弁明』四~五頁)
(27)ジョージ・ダウナム(?~一六三四)。ケンブリッジをでてデリーの主教となる。英国でラムスの論理学を教えた初期の人。ここでは、ミルトンは、ダウナムの『ラムスの論理学註解』二〇章を指しているのか。
(28) 「確かに、彼の『古き慣習』によって、彼の言うこの『絶えることなき聖なる制度』は、この国でも深くその政治制度に入り込み君主政体を侵害したので、マルズベリの伝えるとろによると、ウィリアム・ルーファス[イングランド王ウィリアム二世(在位一〇八七~一一〇〇)]は、主教たちの圧迫に耐えかねて、ユダヤ人たちに彼らを論駁するように説得し、主教たちから自由になれるのなら、イングランドを彼らの宗教に変えてもいいとまで約束したほどである。『不変の主教制』の当然の結果はこうだ。スペイン大使がピウス四世に、トリエント総会議において主教たちに神授権を認めることを宣言してほしいと頼んだところ、法王はこう答えた『貴王国は、自分の要請の意味が分かっていない。もしも主教たちにそのような宣言をしたら、彼らは国王の権力からも除外されて法王自身のように自立するだろう』と。」
       (スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』四頁)
「主教制に反対することならなんであれかまわない。(これらの人たちが尊敬おくあたわざる)ある法王、ピウス四世の証言までも、主教の神授権に反対するなら誤りないとして持ちだすのだ。そして反キリスト[法王]はなんと言っているか。彼はスペイン大使に答えて、彼の国王が総会議に当たりこの真理[主教の神授権]を宣言するように要請するのは、自分の要求の意味が分かっていないからだと言う。なぜなら、主教たちにそのような宣言をしたら、彼らは国王の法的権力からも離れて法王自身のように自立するだろうからと。兄弟たちよ、お答え願いたい。法王が言ったからその主張があなたがたのお気に召しこれを信じるのか。主教制の全裁治権を自分一身に集めておきたい法王が、主教たちの権利が法王自らのものと自認するその同じ根拠に立つのを嫌がるのは当然ではないか。聖職者が世俗の権力からの除外を要求するこれらの国々にこのような危険があるからといって、どうしてわが国の主教たちにもその危険があるなどと悪意の告発をするのか。彼らは進んでこう誓っているのに。使徒的な権威ーーすなわち召命による神授権にもかかわらず、自分たち主教が、その地位を保ちその裁治権を行使するのは、ひとえに国王陛下のおかげであると。」
              (ホール『謙虚なる抗議への弁明』六~七頁)
(29)前註参照。
(30)チャールズ一世が、北部でスコットランド軍と対している軍隊の戦費やストラッフォードの釈放、上院からの主教追放の阻止などで苦慮している間、王妃は、しばしばフランスや法王と連絡をとり助力を求めていた。一時は、チャールズが秘かにカトリックに改宗したら援助金をだそうとの話まであった。一方、議会からは、軍隊の将校の中にカトリック側の者が多数まぎれ込んでいるとの苦情が王にだされていた。このような情勢の中で、王妃の側近の将校らが、北部の軍隊を動員してストラッフォードの身柄と王の安全を確保し、議会に圧力をかける陰謀が進められていた(一六四一年三月)。しかし、チャールズの不決断のため事は成らず、この事件が発覚した。八月十三日になって、ようやくこの事件の裁判が始まり、その時、首謀の一人チャドリーの口から、この計画のために主教側から千人の騎兵隊を調達しようとの話があったことを証言した。ホールはこれを否定しているが。なお、もしもミルトンがこの「千人の騎兵隊」のことをこの時に知った(としか思えない)とすれば、ミルトンの『弁明批判』が書かれたのは、通説(七月)に反して、八月十三日以降だったことになる。
(31)註(28)参照。
(32)聖職議会( Convocation)とは、英国国教会の最高の聖職者の会議で、国王の名によって召集され、上院(主教)と下院(大聖堂と各教区大学の聖職者など)から成っていた。議会の方が停滞している一方で、聖職議会は続けられていて、スコットランドとの戦争終結のための戦費の追加や提起されている教会改革に関する教会法について、また、教会内の過激なピューリタン対策などをめぐって審議が続けられていた。教会側は、過激派に対して厳しい方針をだしたいようであったが、国王はむしろ戦費調達のために聖職議会を続けて過激派との妥協をはかりたいと望んでいたようである。
(33)註(28)参照。
(34)註(28)参照。
(35) 「これまで神の教会において保持されてきた主教制の形体について言えば、わたしは告白する、弱い人たちかあるいは党派的な人たちによって、どのように不当な野次で外部から非難されているかを聞いて困惑していると。彼らのどちらに対しても、あるいは両方一緒に、われらの救い主の言葉をわたしは口にするのがよかろうと思う。『父よ、彼らを赦してください。彼らはその行なっていることを知らないからです。』確かに、もしも彼らが、わたしの目でこれを見ることができれば、きっと自らの有害な誤謬を悟って恥じいるだろう。」
             (ホール『謙虚なる抗議』一七~一八頁)
「では議員がたのご好意により、この『謙虚なる抗議』の第二の論点、主教制それ自体に入ることにしよう。博学な神学者であれ立派に改革された諸教会であれ(というのは主教制に反対して書いた人たちにはこの両方がいるのを、良心によってご存じだから)だれが言っても書いても、それらは『弱い人たちか党派的な人々の不当な野次』にすぎないときめつるのだ。確かに、この男は、自分が学問を独占していて、あらゆる知識が、知識ばかりか敬虔も平和心までもが、自分一人の胸中にしまってあるとでも思っているようだ。だから、彼と同意見でない者は、ご判定によれば弱い者か党派的な者にされてしまう。(中略)だが、議員がたよ、どうかその思慮深い敬虔なご配慮を賜りたい。主教制の不当な抑圧を正当にも非難した者には、だれでも『党派的』という忌むべき名を押しつけるのが彼らの変わらぬやり方であったことを。」
    (スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』一四~一五頁)
「さて次に注目すべきは、彼の行なっている比較、すなわち、わが国の隣の教会[スコットランド]に主教制の党派によって企てられた最近の『変革』と、権利の請願者たちによって名誉ある議会に正当に申請された変革との比較である。一方は、見知らぬ人たちが、確立された教会と国家の上に『新制度』を乱暴にも押しつけようと企てたことであり、他方は、『新制度』好きの党派[英国国教会]によってほとんど滅びかけている大衆が、わが国の王侯に穏やかに請願したものである。」
     (スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』四~五頁)
(36)前註参照。
(37)タスキウス・カエキリウス・キプリアヌス(二〇〇?~五八)。著名な修辞学者。キリスト教徒となりカルタゴの主教になった。彼は、教会制度の管理や牧会の問題などの実践面ですぐれた能力を発揮した。教会制度の基礎を主教職に置き、すべての主教は、公同の一つの主教職に属することを主張した。
(38)一五八三年に設立された教会高等裁判所のことで、ロンドンの中心に近いラムベス地区にあった。ロード大主教の頃には、ピューリタン弾圧の根拠地と見なされていた。
(39)「職権により」尋問された場合は答えなければならないことを誓約させられた。
(40) 「隣国の教会[スコットランドの長老派教会]に新しい規範の制度と神を礼拝する形体とを持ち込もうと企てたかどで『扇動罪』の烙印を押されるのであれば、われわれ自身の国での制度に対してこのような仕業を行なおうと唱える扇動者ども[ピューリタン]をどうして許しておけるだろうか。」
                  (ホール『謙虚なる抗議』九頁)
「ところが抗議者は恥知らずにも言う『もしも彼らが扇動罪の烙印を押されるのであれば』(名誉ある議会の正当な判決を彼はこう呼んでいる)『どうしてこれら扇動者どもを許しておけるだろう云々』と。こうして後者の行動によって前者を巧みに正当化しようとする。と言うよりは、前者よりも後者の方をより憎むべきものに仕立てあげようとするのだ。」
         (スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』五頁)
「非難されて然るべき行為、すなわち誹謗する分裂主義者どもの結託行為の咎を穏やかにして平和な請願者たちにかぶせるのも、これに劣らず間違っている。一方は確立された聖なる制度に罵倒を浴びせるし(わたしは当然彼らを非難した)、他方は、制度の欠陥を改革するよう穏やかに申請しているのだから。確かに、軟弱な応答者たち[スメクティムニューアス]によって最悪の者どもがこんな風に甘やかされるのであれば、はたして誹謗者ども自身に対してか、これを狂信的に支持する者たちに対してか、そのどちらに扇動罪の烙印を押すのがより正当であるか判断に迷う。」
                (ホール『謙虚なる抗議への弁明』七~八頁)
(41)一六四〇年十二月十一日に、一万五千人の署名による「ロンドン市民の請願」が下院に持ち込まれた。これは、主教制廃止を訴えるもので、後に「根絶請願」と呼ばれるものであった。この請願は、すぐには議会で取り上げられなかった。議会は、高位聖職者たちによる政治的介入には反対であったが、主教制自体を否定する者は、まだこの時点では少数であった。この段階での議会は、カンタベリ大主教(ウィリアム・ロード)の弾劾と主教たちを上院から排除することを意図していた。
 一六四一年一月に、ケント議員によって根絶請願が下院に提出され、主教制の廃止が論じられることになるが、これと同時に、主教たちを議会から排除することにとどめようとする別の請願も提出された。一月の最後の週に、ホールの『謙虚なる抗議』が出た。二月八日は、下院において根絶請願と主教排除請願が委員会にかけられた。この日から十一日にかけて、重要な論議が行なわれ、ジョン・ピムを始めとする議員が次々と演説を行なった。議会は、君主の権限の縮小すること、教会制度を議会(とこれの定める法律)の支配のもとに置くこと、主教に政治的権限を与えないことで概ね一致していた。九日には、アイザック・ペニントンによって根絶請願を養護する演説が行なわれ、クロムウエルの発言もあった。だが、主教の側は、市民のこのような請願に対して強行に異論を唱え、妥協する様子を見せなかった。十一日に、請願は審議未了ということで妥協した。根絶派はまだ少数だったのである。四月には、ホールの『謙虚なる抗議への弁明』が出た。
 この頃、ストラッフォード伯爵の処刑をめぐって議会は紛糾し、上院での法案の審議は進まなかった。その間にロンドン市民は、「ストラッフォードにも、主教制にも反対」を叫んで議会に押しかける者が多く、やがて議員の中にも、主教制それ自体の廃止に賛成する者が出てきた。五月十二日にストラッフォードは処刑された。そして、同じ日に、上院で、主教制廃止をめぐる投票が行なわれたが、廃止論はやはり少数であった。ミルトンの『弁明批判』が書かれた頃、すなわち、六月九日の段階でも、上院からの主教たちの排除案は延期された。十二日に、再び根絶法案が審議された。  
(42)ミルトンが主教たちに浴びせた悪口として有名である。この悪口に対して翌年ロバート・ホールの『中傷的で野卑な誹謗に対する穏当なる論破』がでて、ミルトンの個人生活が攻撃され、これに答えるために、ミルトンは『ミルトンの弁明』を書くことになる。
 
                第二部
(43)「英国国教会の典礼は、今にいたるまで聖なるものとして聖なる殉教者たちによって敬われ、信心深いプロテスタントより、かかるものとして用いられてきている。それは、一度ならず、敬虔な王侯の勅令とあなたがた議会の法令とによって認められ確認されてきた。」
             (ホール『謙虚なる抗議』九~一〇頁)
(44)序文註(2)参照。ジョン・ヘイワード(一五六四?~一六二七)。イングランドの法律家、歴史的伝記作家。『エドワード六世伝』(一六三〇)を書いた。
「陛下が新しいとお考えの英語の礼拝の式文と形式は、古いものにすぎず、二、三の愚かしい点を除いて、ラテン語で書かれたものをそのまま英語にしただけですから、英語で聞いたとしても恥ずかしいだけだったでしょう。」
                     (『エドワード六世伝』)
(45)ルカによる福音書一一・一一~一二。
(46)オウィディウス『転身物語』二巻にでてくる「白かった烏が黒くなった」をもじったもの。
(47)ジョン・フォックス(一五一七~八七)。ロンドンの主教。『この後の危険な時代における殉教者伝』(ラテン版一五五四年、英語版一五六三年)は、プロテスタントの迫害史で、ウィクリフの時代から始めて女王メァリ一世までの主にイングランドの殉教者を扱っている。
(48) 「わたしが、聖なる殉教者たちがなにをしたかを述べれば、あなたがたは、わたしたち主教の一人はなんと言ったかと述べる。まるで、わたしが、主教一人一人の口から出る言葉を一々実行しなければならないかのように。」
               (ホール『謙虚なる抗議への弁明』一〇頁)
(49)古代ローマの神で、一つの頭に髭の生えた二つの顔が背中合わせについていてそれぞれ反対の方角を向いている。
(50) 「(英国国教会の典礼は)近ごろ他の言語にも訳され外国の神学者や諸教会の大きな賞賛を拍し国外で受け入れられている。」
                 (ホール『謙虚なる抗議』一〇頁)
「あなたがたの主教の一人が、少し前に多数の人の前で言ったことをわたしたちは聞いている。それは、あなたも覚えているはずだ。『英国国教会の礼拝は、たとえ法王が来てこれを見たとしても、英語でさえなければ自分のものだと認めるほどうまくできている』と。これでは、『典礼が外国の言語に訳されている』と言っても、お手前の名分はあまり成り立たないし、英国国教会にも同じくあまり役立たない。なぜなら、お手前たち英国国教会は、わが国の祈祷をまたもやラテン語[ローマ・カトリック流]で唱えるよう教えるのだから。法王の認可を妨げているのが典礼の言語[英語]なら、それを取り除くがよかろう。そうすれば法王が、これぞわがものと言うのになんの妨げがあろう。
 この抗議者が自慢する『他の国語への翻訳と外国の神学者たちから得た大きな賞賛』とやらについて言えば、近ごろはどんなことが言われているのか知らないが、先の時代の偉大な光に照らしてみるとき、とても賞賛とはほど遠いものであった。確かカルヴァン氏はこう言っている。『典礼には許容し難いほどにさまざまな愚かしい点がある』と。これはどうも賞賛とは言いかねる。
 抗議者のお仕事は『この典礼に対する国内の軽蔑(とこう呼んでいる)をはらすこと』であり、あるいは『議員方のご助力により国民にこれを課すこと』なのだ。これの目的のために、彼は、典礼の古き慣習に関する類いまれなる論法に落ち入っておられる。と言うのは、未だかって典礼を彼ほど高く引き上げた者は見たことがないからである。」
       (スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』五~六頁)
「典礼の古き慣習に関してのわたしの『類いまれなる論法』については、わたしほど典礼を高く引き上げた者は見たことがないとおっしゃるが、この世には、あなたがたの全知ならぬ目の届かぬこともあろう、これもその中の一つであると言わねばなるまい。驚かれてもやむをえないが、わたしのこの主張は正当であると申し上げておく。」
          (ホール『謙虚なる抗議への弁明』一一頁)
(51)古代ユダ王国に隣接するペリシテ人の都市の名。
(52)註(50)参照。
(53)註(50)参照。
(54)註(50)参照。
(55)キリストが十字架にかかる前夜を過ごしたゲッセマネの園。
(56)マタイによる福音書六・六~八。
(57)キリスト在世当時のユダヤの律法主義的な教派。
(58)ギロラモ・サヴォナローラ(一四五八~九八)。イタリアの教会改革者。主にフィレンツェを中心に宗教運動を行い、当時のカトリック教会を鋭く批判した。彼は、教皇の無謬と教会会議の権威を否定した点で宗教改革者の先駆者であった。
(59)マタイによる福音書六・九~一三。
(60)殉教者ユスティノス(一〇〇?~六五)。キリスト教弁証家であり哲学者。各地を巡回してキリスト教哲学を講じローマで学校を開いた。彼の著作には『第一弁証論』と『第二弁証論』『トリュフォンとの対話』がある。ヨーハン・ラング(一五〇三~六七)は、彼の作品集のラテン語訳(バーゼル、一五六五年)をだしている。ラングの版では、『第一弁証論』が『第二弁証論』になっている。
(61)「福音的な教会は、それ以来、教会の平和と幸福を進めるためには、祈祷と感謝の信仰的な型をつくる方がよいと考えてきた。それらはわたしたちに伝えられている。だから、あなたがたは、忍耐してこう考えられないのか。立派なキリスト教徒なら、彼の心で祈るとおりに祈祷書にも書いてあるからといって、よい祈祷を非難するほど血気にはやるだろうかと。善良なキリスト教徒が、個人で礼拝する場合、時によっては公の場合でさえ、自分の思う祈りを用いるのをわたしが妨げるなどトンでもないことである。み霊に水をかけるようなやましいことをわたしはしたくない。むしろ喜んで油を注ごう。然り、魂のありったけを自由に注ぎ出してその聖なる思いに麗しい表現を与え全能者の胸に注ぎ込むがよい。」
                (ホール『謙虚なる抗議』一一~一二頁)
「このことに関して、もし抗議者の言う典礼が、教会の集会で守られる式順、すなわち聖書朗読、聖書講釈、聖餐の授与などであれば、このような典礼は、わたしたちも知っており、ユダヤ教徒もキリスト教徒も用いてきたのを認めよう。しかし、もし彼の理解する典礼が、規定された型にはまった内容として、教会の特定の人々によってつくられ、ほかのすべての人に課せられる(と彼は理解しているに違いない。さもなければ彼の言うことは無意味である)のであれば、わたしたちは、むしろ、抗議者が、『今なお現存しており、いつでも取り出せる』[ホール『謙虚なる抗議』一一頁。]と言っている形式が再び現われてくる方を希望する。
 前者のような典礼ならば、殉教者ユスティノスとテルトゥリアヌス[一五〇?~二二〇?。三位一体を説いた神学者]にも見いだされる。しかし、それらが抗議者が論じ立てるような型にはまった典礼ではなかったのは、テルトゥリアヌスの『弁証論』三〇章にでている。彼は言う。当時のキリスト教徒は、公の集会において自分たちの心以外にいかなる指示者もいなかったと。[中略]主の祈りで求めるのと同じことを祈る場合も自由であり、時にはある仕方で、また時には別の仕方であった。しかも、それ以前でも、あの有名な殉教者ユスティノスの『第二弁証論』では、『人々を導いた者も、彼の能力に応じて祈った』[原文ラテン語英訳つき]とある。アリウス派とペラギウス派が教会に侵入するときまでは、この祈りの自由は取り去られることなく決まった型を課す方法が取り入れられることもなかった。」
(スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』六~七頁)                                                              
「もしも殉教者ユスティノスが、集会の指導者は(彼らがいささかやましげに訳すように)『彼の能力に応じて祈った』[原文ギリシャ語]と言うのなら、それはそのとおりである。わたしたちもそうする。しかも、神に感謝すべきかな、わたしたちは典礼によるのだ。彼らもそれによったのだから。また祈祷において、自分の心のままに祈る自由が、公の形によってそれだけ妨げられるものでもない。なぜなら、これらは、どちらも共存しえるしまたしているから。」
               (ホール『謙虚なる抗議への弁明』一四頁)
(62)註(60)参照。なお引用原文はギリシャ語。
(63)「交唱」(アンティフォーナ)とは、会衆が二組(男女などに)に分かれて
詩篇やカンティクルを交代で歌うこと。「応唱」(レスポンス)とは、会衆(あるいは聖歌隊)が、交互に一連の祈祷を唱えること。
(64)註(61)参照。
(65)註(61)参照。
(66) 「教会総会の言葉『よしとされることを祈る』、これで十分であり断定的である。公会議その他で認められた祈りあるいは祈祷の唱え方は、すべての人に用いられるべきであり、ほかのものは一切教会では用いないのである。」
               (ホール『謙虚なる抗議への弁明』一六頁)
四一六年のミレヴィタン総会のこと。ここでの決定をスメクティムニューアスが、やや消極的に紹介しているのをホールが「いや、もっと断定的である」と言ったのである。
(67)ミルトンが、この『弁明批判』を書いたのが七月であろうと推定する根拠の一つ。なお註(30)参照。
(68)アリウス派は、アリウス(二五〇?~三三六?)によって唱えられたキリスト教で、三位一体とキリストの神性を否定する説をとった。一時は皇帝の保護の下に隆盛を極めたが、最後にはコンスタンティノポリス総会議(三八一)において異端とされた。
 ペラギウス派は、ペラギウス(三六〇?~四二〇?)の説によって、人間の原罪を否定し自由意志を説いたために、アウグスティヌスと対立した。彼の説も大きな影響を及ぼしたが、彼は最終的には教皇によって破門され、その説はカルタゴ会議(四一八)において異端とされた。
(69)テモテへの手紙二三・一〇~一七。
(70)ユダヤ人の三大祭りの一つとして春に行なわれる過越(すぎこし)の祭りのこと。キリストの受難はこの祭りの間に起こった。
(71)ユダヤ教での一日三回の時祷の一つ。
(72)ヨハネ黙示録三・一八。
(73)ホール『謙虚なる抗議への弁明』によれば、これは著名なスケイリジャの蔵書よりアイルランドの大主教アッシャーが入手したもので、それには「それぞれの犠牲の儀式のためにそれぞれに歌があった」とある。
(74)ヨハネによる福音書四・二二。イエスの時代にサマリアは、ユダヤ地方と隣接していたが、ユダヤ人からは異端視されていた。
(75)「イエス・キリストの兄弟」と呼ばれるヤコブ。イエスの生前には無理解であったが、使徒時代にはエルサレム教会の有力な指導者となった。このヤコブに由来するとされる「ヤコブ典礼」が東方教会に古くから伝えられている。
(76)ホールは「英国のセネカ」と呼ばれるほどの名文家であったのを意識したミルトンのあてこすりか。
(77)サタンが荒野においてキリストを試みるために引用した聖書の言葉。
(78) 「しかし、ここのところは、聖なる教会典礼の公の形式を然るべく敬うことにしよう。この形式を議員方の権威により課することにしよう。これは(ローマからではなくキリスト教の)古代の模範から選択されたもので、聖なる殉教者たちと幸いなる宗教改革の告白者たちとにより考えだされたものであって、四人のいとも敬虔な王侯の熱心なご推薦と議員方の最も確かな最終的制定の両方によって豊かな力を受けているのだから。」
               (ホール『謙虚なる抗議』一三~一四頁)
「第一に彼は、議員方にこう言う、『これは(ローマではなくキリスト教の)古代の模範から選択されたもので、聖なる殉教者たちと幸いなる宗教改革の告白者たちとにより考えだされたものである』と。議員方よ、わたしたちがどこまでこの種の人たちを信用できるかお考えいただきたい。彼らは、ローマ教会について言ったり書いたりする際に、時によってはこれは真の教会だと言うし、それでいてここでは、ローマとキリスト教徒を対立させるのだ。彼らは、時によって、典礼は多少の変更を加えたが全くローマのミサから採り入れたと言うし、しかもここでは、ローマ的なものはなにもないと議員方を説得しようとする。」
      (スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』一〇一一頁)
「わたしたちがローマ教会をどのような意味で真実の教会だとしているかは、権威を誇る神学者たちの一致した意見によってすでに明確にされている。この鉄は、熱くて彼らは指も触れられぬほどである。かかる資格を得ている以上、わが国の典礼はその起源を少しも恥じることはないし(エドワード王の宣言により発行されたのだから)あるいは非難にたじろぐこともない。」
               (ホール『謙虚なる抗議への弁明』二一頁)
(79)使徒行伝一五・二九を指すのか。
(80)マルコによる福音書五・七。
(81)「われらの父よ」のラテン語。ここでは、ローマ教会の主の祈りの形式を指す。
(82)「それは、法王主義者たちをわが国の教会へ招き入れようとのもくろみで、こういう形に編纂したものである。だがそれはほとんど成功せず、彼らがわたしたちの方へ来るよりも、わたしたちの多くが彼らの方へ行き、わたしたちの多くが失われてしまった。」
      (スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』一二頁)
「あなたがたは言う、『それは法王主義者たちをわが国の教会へ招き入れようとのもくろみで編纂したものである』。もしそうだったら、その目指すところは慈悲と恩寵のゆえだったことになる。誤れる魂を取り戻すほど感謝すべきことがあろうか。『だがその結果は失敗だった。』失礼ながら兄弟たちよ、成功したとしても、その内容やつくった人たちの咎にはならない。だがしなかったのだ。」                  
              (ホール『謙虚なる抗議への弁明』二四頁)
(83)前註参照。
(84)創世記三八。
(85)司祭が聖餐授与の際に着るように義務づけられた白衣。
(86)「(典礼)があまりに偶像化されていて、英国では礼拝される唯一の神と見なされており、今や説教なしでお勤めを行なわせているほどである。また、あまりに高く祭り上げられているので『人も天使も手を出せず、祈祷書を読むだけで十分に教役者のお勤めを果たしたことになる』と言って恥じない者さえいる。」
    (スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』一二頁)
「英国では、典礼が偶像化されていると彼らは言う。だが、そえはアムステルダムでのことだ。分裂主義者たちの中には、そういうことをした者もいる。だが、正しいプロテスタントにはけっしていない。また、ほかには、不当にも説教を偶像化している者も多い、と言う者もいる。だからと言って、わたしたちは説教を捨てようなどと考えるだろうか。」
            (ホール『謙虚なる抗議への弁明』二五頁)
(87)分離派ピューリタンの指導者ジョン・ロビンソン(一五七五~一六二五)らは、イギリスでの迫害のためにオランダのアムステルダムに集まった。その後ロビンソンはライデンに居住したが、この中から、アメリカへニューイングランド建設のための一団が大西洋を渡った。この派の人たちには、聖書に字義通りにしたがう意味で、滴礼の幼児洗礼を無効として浸礼で洗礼を授ける人たちがいた。
(88)マタイによる福音書一二・二四。
(89)ヨハネ黙示録三・一四~一六。
(90) 「質問第二。最初の宗教改革者たちは、典礼書の使用を教役者が必要な場合の助けとして以上の意図を持ってしたのか、それとも彼ら教役者の弱さのためか。
ほかの改革された諸教会では、どこでも典礼書は用いても、その使用を教役者に義務づけてはいない。」
       (スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』一三頁)             
「ご質問の第二点は、少し弱いようで賢明なかたがたの筆先からでたものとはとても思えない。『最初の宗教改革者たちは典礼書を教役者が必要な場合の助けとして以上の意図をもってしたのか。そして[原文のまま]彼ら教役者の弱さのためか。』兄弟たちよ、わが国の改革者たちが、典礼を創始した他のすべての人たち、全キリスト教会と、さらには、ユダヤ教会とを通じても、この人たちとなにか違った意図でもあったと思うのか。教役者たちの弱さを補おうなどというおもんぱかりは少しもなかったのだ。」
              (ホール『謙虚なる抗議への弁明』二七頁)
(91)河神アケロウスは、ヘラクレスと争ったときに、蛇に変身し、次に牡牛に変じたが、ヘラクレスによってその角を押さえられ土の中に突き刺されて動きがとれず、片方の角をもぎ取られた。オウィディウス『変身物語』九巻参照。
(92)「そして説教者たちの欠陥のために説教集が教会で公に用いられるように指示された。」(『エドワード六世伝』)
 
                第三部
(93)ここの引用部分の前には「だれが言っても書いても、それらは『弱い人たちか党派的な人々の不当な野次』にすぎないときめつける」[註(35)参照]というスメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』からの引用が置かれている。
(94)註(27)参照。
(95)註(35)のホール『謙虚なる抗議』よりの引用参照。
(96)サムエル記下二〇・九~一〇。
(97)ヘロデ大王(前七四?~前四?)。ユダヤの王となりローマと結ぶ政策により専制政治を行なった。彼は、自分の王妃を始め、王妃の兄弟や自分の子供までも処刑している。
(98) 「さてこれら兄弟顔をした誹謗者たち(確かにこれ以外に呼びようがない)が来て、わたしの言葉をフランス、ドイツ、ジュネーヴにまでも引き伸ばし、わたしがあらゆる神学者や諸教会を非難していると叫び立てる。そんなことが、わたしの考える範囲のおよばなかったのは、天の神もご存じである。(中略)兄弟たちよ、あなたがたに謙虚さと誠実がいくらかでも残っているのなら、『神よ憐れみを』と叫びたまえ。」
              (ホール『謙虚なる抗議への弁明』三四頁)
(99)前註参照。
(100)註(35)ホール『謙虚なる抗議』の引用参照。
「彼は、主教制擁護の論説において『自分自身も混乱している』と心ならずも告白している。議員方よ、この点では彼を信用していい。この『謙虚なる抗議』を読む者は、多数の偽りや矛盾が目につく(自信ありげな大胆な顔で公の前に提出されているのに)。まさしくこれは『自己混乱の男』のペンにほかならない。」
       (スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』一五頁)
(101)「(激しく怒る悪霊が)快く思わぬ者たちの口を通してこの聖なる制度を傷つけようとやっきになっている。この制度は(改革的な神学者全員の一致した告白によれば)祝福された使徒時代より生じたもので、途絶えることなく(キリスト教世界において会衆による一つの反対もなしに)現在にいたるまで続いている。」
                    (ホール『謙虚なる抗議』七頁)
「第一に、主教制は、(『ある者たちが傷つけようとしている』と言うその主教制とは教区主教制度のことにほかならない)『使徒時代から生じた』と言う。
(中略)しかし、これをわたしたちは、彼の悪名の一つに数えざるをえない。なぜなら、使徒時代から生じた主教による教区制度など、どうしてありえようか。使徒時代には後で示すように、長老と区別された主教などいなかったのだ。仮にいたとしても、主教管区などなかったのだ。
            (中略)
第二に、彼は言う『この聖なる主教制は使徒時代から生じたとは、改革的神学者全員の一致した告白により』同意されたと。どんな改革的神学者全員か。カルヴァン、ベザ、ユニウスたちも同意したのか。フランスやスコットランドやネーデルランドの改革派教会もその中にはいるのか。
            (中略)
第三に、彼は言う『この制度は途絶えることなく続いてきた』と。どういうことか。ローマでのことか。世界のある所では、この制度は多年の間知られなかった。例えばスコットランドでは、わたしたちの読むところでは、古代にはスコットランド人は司祭や修道士たちにキリスト教の信仰を教えられたので、二九〇年もの間主教などいなかった。
            (中略)
第四に、彼は言う『キリスト教世界において、いかなる会衆もこれに反対することなく続いてきた』と。(中略)しかもフランスやスコットランドやベルギーの諸教会は、キリスト教の会衆に数えられないのか。彼らの間では、この制度は言葉の反対だけでなく、現実に反対を受けたのを知らぬ者がいるだろうか。」
    (スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』一五~一七頁)
(102)註(38)参照。
(103)註(35)参照。
(104)ジョン・リー著『安息日としての日曜。安息日に関する疑義を論ずるための基調論説』。この文書でリーは「バラムのろば並みの知恵」としてそれとなくホールに言及している。
(105)民数記二二章。
(106)アブラハム・オーティリアス(一五二七~九八)。アントワープ生まれの著名な地理学者、地図制作者。
(107)マーキュリアス・ブリタニカスの仮名でホールが書いた著作(一六〇五?)。仮想の共和国を風刺的に描いている。
 
              第四部
(108) 「第一に(彼は言う)聖職位階制は一五〇〇年間続いてきた。それゆえ変えるべきではないと。これはヒエロニムスが別のことで言う『兜をかぶった論証』[太刀打ちできない]と言ってもよいほどだ。主教制の子午線[絶頂]を計る論証を、世界中の宗教に当てはめようとする。そういう論法なら、ユダヤ人たちだって、なん百年以上も続いた古き慣習だとキリストに反論できたろう。」
       (スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』一九頁)
「(彼らは)まるで天文暦を論証しているように『主教制の子午線を計って、それをすべての宗教に当てはめようとする』と告げてくださる。確かに、兄弟たちよ、あなたがたは、実に天頂の高さを十分に計ってはいないようだ。正しく天頂を観測していない。」
               (ホール『謙虚なる抗議への弁明』四五頁)
(109)前註参照。
(110)ヨハネによる福音書一四・六。後半の「古い道こそよい道」はエレミヤ書六・十一からか。
(111)註(6)参照。
(112)元はロドス島のコロッソスにあったと伝えられるヘリオス神の立像。転じて巨人。英国のおとぎ話などに子供を恐がらせる巨人がよくでてくる。
(113)ホメーロス『オデュッセイア』九巻にでてくる一つ目の人食い巨人。
(114)「調和」と「均整」は、ルネサンスの宇宙観とこれに基づく学問、芸術の基本概念である。
(115)テモテへの手紙(二)三・一六~一七。
(116)ダニエル書二・三一~四五。
(117)前註にでてくるダニエルが夢に見た立像(金、銀、鉄、銅、粘土でできている)を教会と世界の歴史に当てはめている。ローマ皇帝コンスタンティヌス(一世)は、ミラノの勅令(三一三)でキリスト教を公認した。
(118)イタリアとシシリー島の間の海峡にある二つの岩には、同じ名前の二匹の怪物が住んでいて、日に三度海水を飲み干しては吐き出して船を難破させたという。
『オデュッセイア』十二巻参照。
(119) 「白髪の前では起立せよと自然それ自体が教えてくれている。老年に備わる重々しい外貌こそわたしたちに秘かな尊敬を起こさせる。そして、これら物事の変更にはたやすく応じてはならないというのが正しい方策の教えることである。長い慣習と数多くの法律により必要あるいは有益なものとして確立されているのだから。」
                 (ホール『謙虚なる抗議』一八~一九頁)
「彼がこれの論証のために請うている『自然の光』というあの補助的な力、すなわち、(彼の言う)『長い慣習と数多くの法律により、必要かつ有益なものとして確立されている物事の変更に、たやすく応じないように教える正しい方策の規範』について言えば、先の時代には『必要かつ有益』と思えた事柄も、続く時代にとっては、必要ではなく有害となり、有益ではなく無用になるのは明かである。そして、最初にこれらの確立を要請したまさにその『自然の光と正しい方策』が、これの廃止を促進させることがよくあるものだ。」
     (スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』二〇~二一頁)
「わたしが請うてもいないあの『補助的な力』について言えば、『長い慣習と数多くの法律により必要かつ有益なものとして確立された物事』を続けるために自然の光と正しい方策の規範に照らして提起し推奨したものである。それは、彼らの紙鉄砲による一斉射撃などに、いつまでも耐えられるだろう。」
                (ホール『謙虚なる抗議への弁明』四五頁)
(120)出エジプト記一六・三。
(121)ルキアヌス(一二五?~一九〇?)。シリヤのサモサタ生まれ。機知と風刺に富むギリシャ語で風刺的な作品を書いた。ミルトンがここで述べているのは彼の『真の歴史』から。
(122)ペリクレース(前四九五?~前四二九)。アテナイの政治家で巧みな演説で有名。
(123)註(119)参照。
(124)ヨハネによる福音書六・二七。
(125)マタイによる福音書五・一三。
(126)テモテへの手紙(一)六・六~一一。
(127)註(119)のホール『謙虚なる抗議への弁明』引用参照。
(128)註(101)ホール『謙虚なる抗議』引用参照。
(129)ローマの歴史家リウィウス(前五九?~前一七)の『ローマ史』第三八巻にでている話。スキピオ大アフリカヌス(前二三六~一八四)がカルタゴの軍隊を破って凱旋したとき、ペティリウスが、スキピオはかってシリアのアンティオクス三世からの戦利品をくすねたことがあるとして彼を訴えた。尋問に呼び出されたスキピオは、「今日、市民よ、わたしはカルタゴを征服した」と言い、それ以上の尋問には答えずに、カンパニアのリテルヌムに退いたという。
(130)ジョン・ウィクリフ(一三二〇?~八四)。英国の神学者で宗教改革の先駆者と呼ばれる。彼は教皇庁の堕落を批判し、教会の教義については聖餐の化体説を公然と否定した。英訳聖書の最初の完成者。
(131)ルカによる福音書一二・一。
(132)ヨハネ黙示録一・一二~一五。
(133)ヨハネ黙示録二・一三~一四。
(134)ヨハネ黙示録一・一六。
(135)ヨハネ黙示録一九・六。
(136)出エジプト記一五。
(137)詩篇九三・一。
(138)ヨハネ黙示録二二・一七。
 
             第五部
(139) 「この権威[聖職按手権]が、初期の時代に長老たちにあったのはテモテへの手紙一の四章一四節にでている。『預言により、また、長老の按手により与えられた賜をあなたは軽んじてはならない。』ここで語られている『賜』とは、教役者としての賜のことである。使徒[パウロ]はテモテに、これを行使することを軽んじるなと説いているのである。それは、と彼は言う、使徒であれ主教であれただ一人の人の按手によるのではなく、『プレスピュテリオン』、長老会、すなわち長老会全員の按手によるのだからと。ルカによる福音書二二章六六節、使徒行伝二二章五節にあるように、聖書ではこの意味でのみ『プレスピュテリオン』を用いている。これを、キリスト教会では教会元老会[仮訳]と呼んでいる。ヒエロニムスがイザヤ書三章[の註解]で『わたしたちには教会元老会、すなわち長老会がある』と述べており、イグナティオスも『マグネシア人への手紙』で『使徒会議』と呼んでおり、アンキュラ教会会議[四世紀]の教会法三でも、時には『プレスピュテリオン』と呼ばれている。
 使徒[パウロ]はテモテへの手紙二で彼の手を置いたと述べているが、聖書の一致を保つのであれば、彼自身だけでなく長老会の按手もあったのは否定できない。それゆえ、それは共同の行為であった。だから、この場合も先の場合と変わらない。養育し按手する上で長老の間に違いがないのであれば、統治するという第三の職能にも違いがないか見てみよう。われらの主教たちは、これを全く彼らだけのものとしているが、これも長老の手に委ねられ行使されていたことが明かになるであろう。」
    (スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』二四~二五頁)
「あなたがたの言う意味に見せかけようとして『プレスピュテリオン』は聖書ではそのように理解されていると言い、ルカによる福音書二二章六六節と使徒行伝二二章五節を引用する。この点で、あなたがたは読者をたぶらかしているにすぎない。なるほど人々の長老たちはそう呼ばれている。だが、教会ではけっしてそうではないのがお分かりだろう。あなたがた流の構文を納得させるためには『聖職按手では平信徒が手を置いたし、置かねばならない』ことを示さなければならない。これは、カルヴァン氏自身でさえひどく嫌悪するほどのものである。
 この点を納得するのに、聖パウロ自身の言葉をもってすれば、もう多言は要しないであろう。テモテ三章六節[テモテへの手紙(二)一章六節の誤り]に、『わたしの按手によって内にいただいた神の賜を、再び燃えたたせなさい』とある。『わたしの』であって、『ほかの人たちの』ではない。そこでお尋ねする。テモテは一度ならず按手されたのか。確かに聖パウロは一度手を置いている。それならば長老たちはいつなのか。あなたがたは『否、それは共同の行為であった。でなければ聖書の一致は保たれない』と言う。兄弟たちよ、失礼ながら、わたしたちより聖書の一致には秀でておられるカルヴァン氏でも、その『プレスピュテリオン』とは、テモテがパウロによって任命された職能を意味しているので、彼を任命した一団の人々のことではないとする方が、氏の耳に通りがよかったのである。」          
         (ホール『謙虚なる抗議への弁明』五一~五二頁)
(140)この点では現在の新約聖書原典も、ミルトンの解釈と一致しているようである。
(141)サリー州は、ロンドン南西にあたり粘土質と砂地の多い地帯。ここを流れるモ~ル河は、地下に沈み二、三マイル離れて再び現われると、ミルトンの頃の『歴史・故事』に記されている。このことから不自然なことを意味する諺として用いられた。
(142)ミルトンの時代によく知られた民謡に次のような題のがあった。『虚栄と邪悪に対してイングランドに警告する一篇。イングランド王エドワード一世の妻エレノア王妃の没落。彼女は神の審きによりチャリングクロスで沈んでクィーンハイスで浮かんだ。』言うまでもなくミルトンは、ここでは、愚かな俗説としてこれに言及している。
(143)註(139)ホール『謙虚なる抗議への弁明』引用参照。
(144)ここはホール『謙虚なる抗議への弁明』七六頁からの引用。
(145)ルカによる福音書五・一~一一。
(146)使徒行伝八・五~二四。このシモンは聖職売買の元祖とされている。
 
              第一三部
 (147)ミルトンの『弁明批判』は、ホールの『謙虚なる抗議への弁明』に対応して区切ってあるが、ここで第五部から一三部へととんでいることについて、彼は後の『ミルトンの弁護』の中で、「子供だましで大人げない見かけ倒しの古き慣習という主部」を省いたのはミルトンの戦術のためであったと述べている。
(148) 「(わたしたちの主教制は)序列にせよ位階にせよ(使徒時代とは)異なっていて、上位の優越性を誇るものであり、初代(教会)の時代には知られなかった聖職按手と裁治権を持つ(と彼らは言う)。おお、善良な人々が、誤った知識によりいかに毒されることであろう。どうか真実で確かな言葉を聞いていただきたい。もしもわたしたちの主教が、テモテやテトス、アジアの七つの教会のみ使いたちに(その中のいく人かの名は知られている)使徒的な権威によって委任されかつ要請された以上のなんらかの霊的な権限を主張しているのなら、彼らは、簒奪者として弾劾されるべきである。」
                 (ホール『謙虚なる抗議』二三頁)
「だが、どうやら抗議者殿は、これらの時代を超えて使徒時代の高さにまで昇ろうとしているようだ。彼は言う『もしもわたしたちの主教が、テモテやテトス、そしてアジアの七つの教会のみ使いたちに使徒的な権威により委任され要請された以上のなんらかの霊的権限を主張しているのなら、彼らは簒奪者として弾劾されるべきである』と。だが真実はこうだ。もしも彼らが、使徒がテモテやテトスに委任したのと同じ権限を主張するなら、彼らは弾劾に値する。なぜなら、テモテやテトスは、福音を伝える者であった。だから主教や長老以上の権限で動いたのだ。テモテについてはテモテへの手紙(二)の四章五節に『伝道者の業をせよ』とあることから明かである。もしもテモテが長老か主教であったのなら、パウロは彼を権限範囲を越えた活動に任じたことになる。
 福音を伝える職能がどのようなものかを理解し、長老や主教の職能とどこが違うかを考えさえすれば、だれでもテモテやテトスが、福音を伝える者であって、主教ではなかったことが明かになるであろう。」
       (スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』四八頁)
「抗議者がこれらの時代を超えて使徒時代の高さにまでも昇ろうとしているのはそのとおりである。まるで今まで気づかなかったかのようだ。それでいて、あなたがたは、今の今まで、使徒たちの主教職とわたしたちのとは違うとやっきになって示してきたのである。わたしは再度明言する。もしも、わたしたちの主教たちが、テモテやテトスに委任されかつ要請された以上の、なにかほかの権限を主張しているのなら、わたしは彼らの簒奪を認めると。あなたがたはご親切にもおっしゃる。もしも同じ権限を主張するなら(弾劾に)値すると。兄弟たちよ、なぜそうなのか聞かせてほしい。テモテとテトスが(おっしゃるように)福音を伝える者で、より高い権限範囲を行使したからか。勝手で大胆な言い分である。その根拠はどこにあるのか。」
              (ホール『謙虚なる抗議への弁明』九二頁)
(149)テモテへの手紙(一)一・三。
(150)上辺だけきれいに見えること。
(151)モドナは舞踏会の仮面の産地として知られていたようである。これはミルトンのイタリア旅行中の見聞からか。ここでは「仮面をかぶる」という意味にかけている。
(152)テトスへの手紙一・五。
(153)ヨハネ黙示録二章参照。
「第三につけ加えると、『み使い』という名それ自体が十分な論証である。これは、一人の人だけではない。なぜなら、み使いという言葉は、なんら特定の裁治権も優越権も含まないもので、全教役者に共通しているからである。」
      (スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』五三頁)
「あなたがたは、さらに降って、アジアの七つの教会のみ使いにまで言及する。(中略)『み使い』は、ここでは集合的に解されていて、個人ではないとするのがあなたがたのやり口である。あなたがた自身ならいざ知らず、確かに賢明な者なら一人も信じないほどの思いつきである。なぜなら、もしもこの意味することが、全員に共通して平等にかかわるものであったとすれば、なぜ一人だけ他の中から選び出されているのか。このような人が、ほかの人よりもすべてのことを司る権限を持っていたとお認めになるのなら、それこそわたしたちの求めるところである。なるほど、彼に語られたことは、すべてになんらかの関係はあった。彼は、すべてのことの責任者であったのだから。しかし、それは彼個人に向かって語られているのである。」
         (ホール『謙虚なる抗議への弁明』一〇三~一〇四頁)
(154)ヨハネ黙示録二・五。
(155)大英博物館に現存するアレクサンドリア写本は、貴重なテキストである。これは、エジプトの貴夫人テクラの手によると言い伝えられていた。
(156)ヨハネ黙示録二・一九~二〇。
(157) 「二〇節についてあなたがたはなんと言うのか。ここではテアテラのみ使いが譴責されている。『あなたは、自分の妻イゼベルをそのなすがままにして、教え惑わせている』(たいそうよい写本にこうある)。然り、これはあの記念すべきテクラ写本なのだ。(中略)彼女は、全体の妻であったのか。それとも一人の主教のものだったのか。」
             (ホール『謙虚なる抗議への弁明』四~五頁)
(158)士師記二〇・四~五。
(159)原語(ギリシャ語)では「妻」と「女」とは同一語である。
(160)註(148)参照。
「わたしたちの答えはこうである。この問題[『み使い』の解釈]は、少し穿ちすぎの向きもあろうかと思うが、思い切って三点ほどこういう表現について推論を試みてみよう。
 第一は、ここでのこのように(単数で)用いられているのは、予型(タイプ)や幻を述べる場合に不特定数を特定数で、複数を単数で表わすのは、聖書のほかの箇所でも一般的な語法である。」
    (スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』五六~五七頁)
「(あなたがたがしたように)レイノルズ博士やベザ先生、ファルク博士、パレウスその他のかたがたの賛同を得るためには認めざるをえないこと、すなわち、『み使い』は個人的に解されるべきことを認めるよう意を用いるがよい。しかもなお、これを認めても、わたしたちの主張は少しも正当化されず、あなたがたのほうは崩れもしないとご賢明にも思い込んでいるがよい。彼が(一人の)み使いであったとしよう。これは教区主教にとってどういう意味を持つのか。あらゆる点で大きな意味を持つ。というのは、例えば、エペソの教会には多くの教役者、長老たちがいて、それぞれの役割によって人々を指導していた(明らかにそうである)。けれども、それでもなお一人の監督者が神のみ霊によって選ばれ、『教会のみ使い』という優越した呼び名を与えられていた。」
             ホール『謙虚なる抗議への弁明』一一四~一一頁。
(161)ヨハネによる福音書一・六。
(162)列王紀下六・五。
(163)註(24)参照。
(164)註(148)参照。
「彼は、わたしたちが言っているのを聞くと言うが、聖書の真理をわたしたちは示しているのだ。(中略)『わが国の主教が主張する聖職按手と裁治権の優越した権力』は、今や神の助けにより、初代には知られていなかったことが証明された。」
     (スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』三二頁)
「兄弟たちよ、(使徒パウロがテモテに手を置いたことを忘れたのか)使徒の徳の力により彼がどのように戒め、命令し、支配し非難しているのかを忘れたのか。もしもこれが、聖職按手と裁治権でないのなら一体なんなのか。しかし(とあなたがたは言う)、その通りだとしても、それは同じ種類の役割の間の優劣にすぎないと。」
          (ホール『謙虚なる抗議への弁明』一二三~二四頁)
(165)レビ記八・一~九。
(166)ミルトンの儀式に対する批判として有名な一句である。
(167)使徒行伝一八・二四~二八。
(168)エピメニデス(前六世紀頃)。クレテ島の出身で、予言者、詩人。彼の伝記は半ば伝説的であり、ギリシャの七賢人の一人に数えられた。
(169)ルカによる福音書一二・一四頁。
(170)一六四〇年十一月三日から開かれてきたいわゆる長期議会。ミルトンは、主教制の廃止が可決されるのを期待していたのかも知れない。
(171) 「人々が木造りの聖杯を持っていた頃は黄金の司祭を持った。しかし、聖杯が黄金造りになると司祭は木造りになった。」
      (スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』六四頁)
「それからあなたがたは木造りの祭司と黄金の聖杯のことをおっしゃる。兄弟たちよ、その危険は心配ご無用。この最後の時代では、悪を粛正するに足る制度をとり始めたから。やがて、聖杯も木造り司祭も木造りになったら、それはあなたがたの自業自得である。」
          (ホール『謙虚なる抗議への弁明』一二六~二七頁)
(172)ヨハネ黙示録八・一〇~一一。
(173)イザヤ書九・一五。
(174)聖堂の中でも重要な教区にあるものを特に主教座聖堂と呼び、そこには参事会があった。この参事会の代表者が主教座聖堂参事会主席(Dean)である。
(175)マタイによる福音書四・八~一一。
(176)クセノポーン『ソクラテスの思い出』一の二・六~八。
(177)ユダはキリストを銀三〇枚で裏切った。
(178)ヨハネによる福音書六・一六~二七。
(179)ギリシャ神話のプルートスは富の神であるが、冥府の神プルトンと混同されることがある。ここでも、両方の意味で用いられている。
(180)マンモンは、新約聖書の「富み」を意味するギリシャ語(マタイによる福音書六・二四)。転じて金銭を崇拝する者の偶像神となった。ミルトンは、ここでスペンサーの『妖精の女王』二巻七篇にでてくる「マンモンの洞窟」を考えているのであろう。
(181)古代エジプトでは、ナイル河の氾濫によってその泥と太陽の熱からさまざまな下等動物が生まれると考えられた。
(182)箴言三〇・一五。
(183)民数記六・二。ナジル人とは、神に誓いを立てて聖職者となった人。
(184)「根絶法案」では、主教たちが行政や司法に口をだすのに抗議している。また、主教を上院から締め出すことが三月十一日の議会で可決されていた。
(185)ルカによる福音書一二・一四。註(169)参照。
(186)エドモンド・スペンサー(一五五二~九九)。シェイクスピアと共にエリザベス朝を代表する詩人。彼の処女詩集『羊飼いの暦』の五月の歌では、カトリック教会の牧者を現わすパリノードとプロテスタントの牧者を現わすピアズとが論争する。引用(一〇三~三一行)は、ピアズのものから。
(187)プロテスタントの宗教改革運動は、大別すればルター派と改革派、それに英国国教会とに分けられる。改革派は、主としてカルヴァン主義に基づく徹底した改革を目指すもので、ジュネーヴ市においてカルヴァンの指導の下に行われた。この運動は、カルヴァンの弟子であるベザに受け継がれ、スイス全土、さらにベルギーに広がり、第二スイス信条、ベルギー信条として定着した。ジュネーヴの改革は、ジョン・ノックスらによってスコットランドにも波及して長老派教会を成立させた。イギリスのピューリタン運動は、これら諸外国の影響を受けながらも独自の複雑多岐な様相を呈していた。
 
         第一四部~一八部
(188) 「先の件[国王の主権を侵害するという非難]については、もしも思慮深く考察していただけたなら、反論するまでもないことであった。この件、すなわち神の承認と国王の承認との件についてはなんら矛盾などないのである。どちらにも固有の目的と権限とがある。職能は神から、これを行使する地区と所在地と権力とは国王からである。主教管区を与えるのは国王であり、主教を立てるのは神である。」
               (ホール『謙虚なる抗議』二六~二七頁)
「先ず王権の侵害について、神の承認と国王のそれに関しては両立すると彼は答える。主教を立てるのは神であり、彼に管区を与えるのは国王であると。しかしながら、わたしたちがすでに論証したとおり、神は主教をほかのすべての長老たちに優越するものとして立てたことなどない。主教は、神の認可を受けたことなどけっしてない。しかも主教職の制定について、王権の及ぶところではない、王が主教を立てることなどないと言うのなら、主教は全く存在しないということになる。間違いなく国の法律は、主教管区のみならず、主教も、また彼らの管轄権も、国王からでていると明言している。抗議者は、地区と(権限の)行使のみを国王の授与としてはいるけれども、これは国の法律がわが国の王候に賦与した主権の明らかな侵害なくしては認められない。」
    (スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』六六~六七頁)
「それゆえこんなことは言わせない、主教制の制定は国王の主権の及ぶところではなく、国王がわたしたちを主教にするのではないと言うのなら、わたしたちには存在する理由がないなどと。なぜなら、読者もお分りのとおり、あなたがたは、自分で自分の口を封じているのだ。どうかお答えいただきたい。いつどこで国王が主教を立てたりしたのか。その名と名分とをあげてみられよ。陛下の嘉みせられることは、教区の「主教選挙許可書」を与えられて、これにより国王の承認を表されることである。その上で主教は、府主教やほかの兄弟たちの按手を受けて厳かに任命される。これらによって、神によるのと同じく、主教に聖なる召命が賦与され、主教は、その召命を国王の意図により与えられる地区において行使する。この真理ほど明白なことがありえようか。」
             (ホール『謙虚なる抗議への弁明』一三〇頁)
 (ミルトンの時代の)主教叙任については、次のような手続きがとられることとなる。主教職が空位となった旨の主教座聖堂参事会の報告を受けた国王は、「主教選挙許可書」と「主教指名書」を参事会に送付する。参事会は、厳かに参事会会議室に参集して、聖霊の働きを求める祈祷の後に、国王の指名書にしたがって選挙を行ない、選挙結果を国王に報告する。国王は選挙結果を大主教に通告し、主教指名者の確認と聖別を命じる。形式的には、参事会による主教選挙と大主教による確認が保証されてはいるが、実際は国王の指名は絶対であった。
(189)グナエウス・ポンペウス(前一〇六~前四八)。ローマの三頭政治の一人で、シリア、パレスチナ地方に遠征して多くの財宝を手に入れた。プルタークの『英雄伝』によると、彼はあまりに盛大な催しを行なったのでねたみを買ったとある。(190)詩篇一三七・一と七。
(191)ヨハネ黙示録一八.二。
(192) 「しかし現在にいたるまで『平信徒長老』が存在しなかったというのなら、オリゲネスの言っているのはだれのことか聞かせてほしいものである。彼は、キリスト教の教師たちは、彼らの話を聞きたいと願うものを審査するのが習わしであったと告げている。その位階には二つあって、一つは予備審査をする者であり、もう一つは、より完全な形の審査者であって、この中には、教会に入会したいと思う者の生活態度を調査するように任ぜられた者があった。それは、破廉恥な行為を犯すものを集会から締め出すためであったと。」
       (スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』七二頁)
「あなたがたのオリゲネスからの証言は、お手前がたの恥さらしである。あなたがたでもまだ赤面することがあるのなら。」
             (ホール『謙虚なる抗議への弁明』一四一頁)
(193)創世記二五・二九~三四。
(194)祈祷書には赤文字で指示書きがある。
(195)
「さて、この悲しむべき問題に向かうに当たり、各地から議員がたに提示されている下位の教役者たちにまつわるさまざまな醜聞を、胸から血を流す思いで告白させていただきたい。(中略)わたしは彼らの無罪を訴えたりはしない。(その職能範囲内で)それぞれに罪を負わせるがよい。しかし、ああ、これをガテでは言うな。アシケロンの通りで公にするな。賢明な議員がたはご存じのとおり、わたしたちは、敵たち、敵対するこれらの監視者どもが、わたしたちの罪と恥にすかさずつけ込んで嘲笑するのを思うと、それがいかに死の毒となることか。」
               (ホール『謙虚なる抗議』三七~三八頁)
「『しかし、ああ、ガテではこれを言うな。』なんだと。罪をか?ああ、それはすでに行なわれた。イングランドの教役者の大酒、涜神、迷信、法王臭さはローマにまでも響いているのは周知のことではないか。然り、疑いもなく国民と教役と議会と王権と宗教と神の名誉を立証するためには、罪が鳴り響いているのと同じほど遠くまで罰を鳴り響かせるよりほかに道はない。」
       (スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』七八頁)
「下位の教役者たちにまつわる醜聞を見ると血を流す思いである。あまり公にしたくなかったというのがわたしの願いであった。お手前がたの慈愛によれば、わたしが彼らを容赦したといって訴え、コンスタンティヌス帝の模範にしたがおうとのわたしの謙虚な気持ちを責めて、世界中に彼らの罪を鳴らせと主張する。この両者のどちら側が、平和の神に向かって自分の愛につきよりよく申し開きができるか訴えたい。」
            (ホール『謙虚なる抗議への弁明』一四八~四九頁)
(196)サムエル記下一・二〇。ガテもアシケロンもダビデ王に敵対していたペリシテ人の町の名。
(197)コンスタンティヌス一世(二七四?~三三七)。キリスト教を公認した最初のローマ皇帝。
(198)註(195)『謙虚なる抗議』引用参照。
(199)註(195)『謙虚なる抗議への弁明』引用参照。
(200)エゼキエル書三四・二~四。
(201)ペテロ第一の手紙五・二~三。
(202)エゼキエル書一三・一〇~一六。
(203)註(195)ホール『謙虚なる抗議への弁明』引用参照。
(204)ガラテヤ人への手紙四・二六。
(205)ギリシャ神話のディオニュソスに当たるローマの酒神。ゼウスの子とされるがその母は、セメレともデメテールともイオともいわれる。
(206)ギリシャ神話の一族で上半身が人間で下半身が馬である。酒乱と淫蕩のゆえにディオニュソスの車を引くといわれる。
(207)箴言三〇・一七。
「次の章では、育ちの悪い息子たちみたいに、あなたがたは、母なる英国国教会の顔に唾をはきかけるのだ。(中略)彼女に対するあなたがたの親不孝な態度に報いられぬように谷の烏に用心するがいい。」
              (ホール『謙虚なる抗議への弁明』一四九頁)
(208)
「『抗議者は純真にもイングランドの教会は一つしか聞いたこともなければ考えたこともない』と彼ら[スメクティムニューアス]は読者に告げる。嘲りの人たちよ。兄弟たちよ、いい気で嘲っているがいい。だが、あなたがたのさまざまな気晴らしの後でも、なおわたしの純真さは、イングランドのただ一つの教会のみを告げるてくれる。」
             (ホール『謙虚なる抗議への弁明』一五〇頁)
(209) 「(わたしは尋ねたい)援助が加えられなかったら、彼ら(主教たち)は身を隠したりしただろうか。魂に重荷を抱いて屈従するよりは、むしろ耳を切り取られる危険をもおかさなかったかどうかと。(中略)(主教制ではなく)無数の分派や(あまりに多くの人々における)神へのご奉仕を公然となおおざりにすることが、わたしたちの間に涜神を助長せしめなかったかどうかと。」
           (ホール『謙虚なる抗議への弁明』一六〇~六一頁)
(210)アロンはモーセによって任ぜられた最初の司祭で、亜麻布をまとって神の聖所に入った。レビ記一六・四。
(211)アポロニオス(前四~一〇〇?)は、カパドキアのティアナの出身の哲学者、預言者、医者である。彼のことはフィロストラトス(一七〇?~二四五)の伝記によって伝えられているが、半ば伝説的な人物で、アスクレピオスに医学を学びインドからスペインにいたるまで旅をしたと伝えられる。
(212)エジプトの女神で最高神。
(213)エジプトのナイル河の上流には、広い範囲に渡って浮草がびっしりとはびこり、船の進行ができない所があるといわれていた。
(214)創世記一〇・七~九。イスラエルに敵対するペリシテ人の先祖として獰猛な人種とされている。
(215)ここはホール『謙虚なる抗議への弁明』本文の結びの言葉。
(216)エレミヤ書七・一六。
(217)ヨハネ第二の手紙一一。
 
                 後書き
(218)ミルトンのこの「後書き」は、スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』の「後書き」に答えたホール『謙虚なる抗議への弁明』の「後書き」に合わせている。
(219)アレグザンダー・ライトン(一五六八~一六四九)著『議会に訴える書、あるいは主教制に反対するサイオンの嘆願』(一六二八)。ライトンはスコットランド人の医者であり神学者で、主教制を激しく攻撃した初期のピューリタン。
(220)ウィリアム・プリン(一六〇〇~六九)著『国王の有する王権の自由と臣民の自由の両方に対する高位聖職者らの赦し難い簒奪ぶりの要覧』(第三版一六三四)。熱烈なピューリタンとして主教制に反対し、しばしば投獄された。
(221)
「その当時、彼らは、悪魔の化身であったにせよ、それがわたしたちになんの関係があるのか。彼らは主教たちであったとあなたがたは言う。確かに。だが、それは法王の主教たちのことだ。その体の手足のことだ。その頭をわたしたちは捨てると誓ったのだ。彼らの邪悪は法王制のせいであった、主教制にあるのではない。」
              (ホール『謙虚なる抗議への弁明』一六四頁)
(222)宗教改革以前のイングランドでは、教会の典礼や形式には、カンタベリ式、ソールズベリ式、ヨーク式などの型があった。
(223) 「なんだと。主教たちの手でなされる著しい業の中でこんなことしかあなたがたの目に入らないのか。神学校や救貧院が建てられているのが、教会が再建されているのが、博学な著作が書かれているのが、(中略)慈善施設が用意されているのが、大罪を犯した者が罰せられるのが、無秩序が是正されるのが、公のために職務が立派に果たされているのが、国教会の平和のための配慮がなされているのが、熱意ある説教がなされているのが、聖なる生活態度が目に入らないのか。まことに兄弟たちよ、これ以上なにをか言おう。あなたがたの見ているものが悪いのでなく、ただあなたがたの目が悪いのだ。目をぬぐって、もっとよく見えるようにせよ。然り、あなたたちの目を開いて、悪だけでなく、善をも見ることができるように神に祈る。」
          (ホール『謙虚なる抗議への弁明』一六六頁)
(224)マルコ・アントニア(一五六六~一六二四)。ローマ・カトリックから英国国教会に改宗し、再びローマ・カトリックへもどった。
(225)カエサル・バロニウス(一五三八~一六〇七)。ローマ・カトリックの著名な教会史学者。彼の『教会年代記』は一一九八年までたどったもので「教会史の父」と呼ばれたが、プロテスタントからは、ギリシャ語、ヘブライ語の知識がないと批判された。
(226)聖ロベルト・ベラルミーネ(一五四二~一六二一)。イタリアの枢機卿、神学者。カトリックの弁証家として知られ『この時代の異端に対してキリスト教論争を論じる書』などをだした。
(227)典礼問題に端を発したスコットランドとの戦争は、この頃形勢不利のままニューカッスルで両軍対峙していた。国王は、スコットランド側に渡す和解金として八万ポンドを議会に要請し、協約によれば八月二五日にはスコットランド軍は引きあげることになっていた。
(228)「抗議者」(Remonstrant) は、ラテン語の'remonstrare' (示す・代表する)からでているから。
(229)「ついには諺にまで言われるようになり、何事かがだめになると、『主教が足を突っ込んだ』と言うようになった。これらすべてにおいて(まだまだ多くあるが)、ボナー主教の予言が成就することになろう。彼はエドワード王の改革に当たり、典礼式と聖職位階制の保持されているのを知り次のように言ったのだ。『彼らが、われわれのスープの味を知ったからには、ほどなくわれわれの牛肉をも食べるだろう』。」註(25)参照。
   (スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』結び。一〇四頁)
(230)エドモンド・ボナー(一五〇〇?~六九)。ロンドンの主教で、カトリック教徒であったメァリ女王の下でプロテスタントを迫害し、『殉教者伝』の著者フォックスに「血のボナー主教」と呼ばれた。国教会、ピューリタン共通の敵としてエリザベス女王により投獄されたが、「ボナー汁」とは殉教者の血を意味している。言うまでもなく、スメクティムニューアスは、これをホールに当てはめている。
(231)ピェールド・ムーリン(一五六八~一六五八)。フランスのプロテスタント神学者。四才の時に聖バーソロミューの虐殺を免れる。父は彼をイングランドに行かせるが、オランダのライデンで哲学教授となりグロティウスを教える。フランスで聖職につくが、ジェームズ一世は、彼のプロテスタントの合同についての提案を受けてイングランドへ招き、ソールズベリの主席に任じた。フランスで法王批判を明確にした最初の神学者。なお、エール版の註では、このムーリンを息子のピーター・ムーリン(一六〇一~八四)のこととしているが、これは父ピェールの間違いではないかと思われる。
(232) 「さてここですべてを封じるに当たり、彼らの『ボナー汁の肉と汁』が、いかほど煮立って信じやすい客を喜ばせようとも、博学にして権威あるムーリン博士にこう告げていただくとする。イングランドの教会回復と、神とわが国王の次に位する法王制の転覆とは、学識と熱意あるわが国の主教たちのおかげに帰せらるべきである。このためにある者は殉教者の冠を受け、血をもって福音に署名した。」
          (ホール『謙虚なる抗議への弁明』一六七~六八頁)
(233)カイザリアのエウセビオス(二六〇/五~三三九)。初めて教会史を書き「教会史の父」と呼ばれる。彼の『教会史』一〇巻には、さまざまな貴重な文献や記録からの抜粋が含まれている。
(234)クラウディウス・アポリナリオス(二世紀)。ヒェラポリスの主教で、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスにあてて、キリスト教を弁護する書を送った。
(235)マルキオン(二世紀)。黒海沿岸ポントのでで、新約と旧約とを区別し、旧約の神は報復の神であり、新約の神は愛の神であるとした。また、キリストは天の霊体のまま地上に仮現したと説いた。
(236)二世紀半ば頃に、フルギアのモンタノス(?~一七〇?)によって興った運動。彼は、女予言者たちとともに、天のエルサレムがフルギアに降り世界の終末が到来するとの啓示を受けたと説いた。この運動は広くアフリカにまで広がったが、アポリナリオスらの正統派により異端とされた。
(237)ホール『謙虚なる抗議への弁明』の結びの文。
               ミルトンとその思想へ