ミルトン 『弁明批判』 
ジョセフ・ホールの『弁明』を論駁する
      私市元宏/黒田健二郎 共訳               
 
            凡 例  
一、翻訳に当たっては、Douglas Bush et al.eds., Complete Prose Works of John Milton, vol.1,1624-1642.
    (Yale University Press,1953.)所収のAnimadversions.を底本とした。
二、註釈に当たっては、前記イェール大学出版本にRudolf Kirk がつけた脚註に負うところが多かった。なお註の中のスメクティニューアン・シリーズからの引用とそれらの頁数は以下のものを底本としている。 
 
 Joseph Hall, An Humble Remonstrance to the High Court of Parliament,
  1641?.エディンバラ大学図書館蔵。
 Smectymnuus, An Answer to a Book Entitled An Humble Remonstarance,
  1641. エディンバラ大学図書館蔵。
 Joseph Hall, A Defence of the Humble Remonstrance against the frivolous and false exeptions of   
              Smectymnuus,
1641.ロンドン大学図書館蔵。
             A Modest Confutation of A  Slanderous and Scurrilous Libell Entitled Animadversions upon the  
             Remonstrants Defense Against Smectymnuus
,
1642.ロンドン大学図書館蔵。
 
三、本文と註における固有名詞と著書名の訳は、主として教文館の『キリスト教大事典』を参考にしたが、その他の訳にもよったり、訳者が直接訳したものもある。
 
 
                         はじめに
                『弁明批判』のあとさき
 
              (一)
 
 『イングランド宗教改革論』(Of Reformation in England) および『高位聖職主教制』(Of Prelatical Episcopacy) によって、主教制に反対する論陣を張っていたジョン・ミルトンは、「この熱い季節」(this hot season) に『弁明批判』(Animadversions) を世に出す。一六四一年七月と特定することができる。狼星が太陽とともに出没する狂気の時季であるうえに、この年この月はペスト、天然痘 が猖蹶(しょうけつ)を極めている最中であった。『弁明批判』は前の二つのパンフレットと同じく、匿名で書かれたミルトンの第三番目の論文であり、続く『教会政治の根拠』(The Reason of Church Government) および『ミルトンの弁護』(An Apology for Smectymnuus) とともに、ミルトンによる反主教制パンフレット群を構成するものである。
 しかし『弁明批判』は先行の二論文とは異なる位置づけを持っている。その正式のタイトル『スメクティムニューアスに対する抗議者の弁明を批判する』(Animadversions upon the Remonstrants Defence against Smectymnuus) からうかがえるように、このパンフレットは、いわゆるスメクティムニューアン・シリーズの一つである。すなわち、ホール主教(Joseph Hall)とスメクティムニューアスとの主教論争の中へ、ミルトンが『弁明批判』を引っ提げて参加したのである。スメクティムニューアスとは長老派教会のスティーヴン・マーシャル(Stephen Marshall)、エドマンド・カラミー(Edmund Calamy)、トマス・ヤング(Thomas Young)、マシュー・ニューコウメン(Matthew Newcomen)、ウィリアム・スパーストウ(William Spurstow)のイニシャルを並べた代表名である。なお、ミルトンの五番目のパンフレット『ミルトンの弁護』もこのシリーズに含まれる。その正式のタイトルは、 Apology against a Pamphlet call'd A Modest Confutation of the Animadversions upon the Remonstrant against Smectymnuus で、このシリーズをしめくくる役割を果たす。
 スメクティムニューアン・シリーズのパンフレットを順を追って列挙すると次のようになる。
1 一六四一年一月 ホール『謙虚なる抗議』
  (An Humble Remonstrance)
2 一六四一年三月 スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』
  (An Answer to a Book Entitled An Humble Remonstrance)
3 一六四一年四月 ホール『謙虚なる抗議への弁明』
  (A Defence of the Humble Remonstrance)
4 一六四一年六月 スメクティムニューアス『答弁の立証』
  (A Vindication of the Answer to the Humble Remonstrance)
5 一六四一年七月 ミルトン『弁明批判』
  (An Animadversions upon the Remonstrants Defence against Smectymnuus)
6 一六四一年七月あるいは八月 ホール『長たらしい立証への短い答弁』
  (A Short Answer to the Tedious Vindication)
7 一六四二年二月 ロバート・ホール『穏当なる論破』
  (A Modest Confutation)
8 一六四二年三月あるいは四月 『ミルトンの弁護』
  (Apology against a Pamphlet call'd A Modest Confutation)
 
              (二)
 『謙虚なる抗議』でのホール主教の言葉を借りて言うならば、主教制に対する「中傷的な侮辱、痛烈な風刺、毒づくパンフレット」によって「一つならずの印刷所が悲鳴をあげていた」のである。ホールの『謙虚なる抗議』は、かかる「激しく怒る悪霊たち」のしわざに「抗議」するために長期議会の直後に出されたのであるが、このことが主教制をめぐるスメクティムニューアスとの論争の幕開けとなったのである。ホールがこの『謙虚なる抗議』で取りあげ、弁護しようとした問題は「典礼と主教制」(Liturgy and Episcopacy)である。四折版四三頁のこのパンフレットのうち、ホールは典礼のことに八頁、主教制のことに二五頁を費やしている。この二つのこと、およびそれにかかわる問題が、その後続く論争において答弁され、弁明され、立証され、批判されていくことは言うまでもない。例えば、主教制と国家組織・教会組織との関係を論じたホールの主張  
 「 これらパンフレットの著者たちが断罪に値するのは容易に分かるであろう。彼らは、その言動によって、確立された教会の制度を変えようとするのだから。なぜなら、古来の伝承を規範とするなら、国(世俗)の制度は時により変化したが、教会(聖)のそれは決して変わらなかった。そして、創立者の権威によれば、一方は恣意的な権力者により、他方は、霊感された人たちによるのであって、この人たちからわたしたちへと伝えられたことは、疑問の余地なく明らかだからである。」 
などは、以後のこのシリーズのほとんど全部のパンフレットにおいて論争の材料となり、最終の『ミルトンの弁護』にまで続けられているほどである。
 
                (三)
 「敵陣営の雄弁にほとんど拮抗しえない聖職者たちに、時宜にかなった援助を与えるようわたしは期待されていたのであるが、その時以来、わたしは現われるいかなる答弁をも積極的に論破した」ーー後にミルトンは、『英国民のための第二弁護論』(Defensio Secunda Pro Populo Anglicano,1654)において、この時期の自らのうち続くパンフレットにふれてこのように書いている。しかし、当時のミルトンの心意気を、より生々しく表現しているのは、このスメクティムニューアン・シリーズの掉尾を飾る『ミルトンの弁護』での次の一節であろう。夏目漱石の『英文学形式論』(明治三六年講)での訳文にそれを見てみよう。 
 「私はスメクチムヌウスの著者達は、反駁論者の見せつけるあらゆる強硬な態度に対し、熟練と決心とを以て満足なる答弁を与へるに抜かりなく、彼及び その連中が術策上より起こしたてる塵芥や泥水を、時代遅れの仕方と暴露してやることが出来るとばかり思って居た。だが、論者の薄弱な論議は鋭い 嘲笑を振り翳(かざ)して居り、してその企図(もくろ)む所は若し著者達を説破することが出来ないならば、少なくも皮肉と刺々(とげとげ)しい俚言などで彼らを威怖し去ろうとするにあるのだ。それを著者達は我が事に専心なるの余り、兎角見遁さうとして、己等の蒙るべき損害を考へて居ないと見た時に、私は自白する、私の尊敬する友人等が不必要な忍耐から、斯くの如く侮蔑的な文章から、巫山戯(ふざけ)た文章の為に弄ばれ、文は法令で三吋以上のものは没収すべきだ、と云った風の文章を書く輩(やから)の為に、罵詈(ばり)と単語的誹謗に呵責(さいなま)れることを、もはや左程までに我慢せぬことが私の本文だと心得ることを。」
 漱石は、この文章が『弁明批判』の一節であると誤解しているのであるが、先に述べたように、これは『ミルトンの弁護』からの引用である。そのことはともかくとして、この一節に見られる心意気というか、問題意識というかが、ミルトンをして『弁明批判』を極めて激しい言葉づかい、激しい書きぶりで書かせたのであろう。『弁明批判』は、毒舌、悪口、雑言、皮肉、嘲笑にあふれていて、後のサルマシウス(Claudius Salmasius)との論戦での鋭い筆鋒が早くも現われている。マッソン(David Masson)をして、「ミルトンの『批判』の中には、ほんとうに近代の良趣味の限界を越えているので、それを引用するのは難しい箇所が幾つかある」と言わしめているほどである。いや、ミルトン自身『弁明批判』の「序文」の中で、「悪名高い敵の正体を暴露し、これを説得して、真理と国家の平和に向くように仕向けるためには」「このような奴は少しく声を荒げて遇し、奴の所にある聖水ならぬ汚水をその高慢な面にぶっかけて、ぶちのめしても、キリスト教的な柔和心にもとるところは少しもないのだ」と言っている。
 
                  (四)
 『弁明批判』は、その正式のタイトルからも明らかなように、三か月前のホール主教の『謙虚なる抗議への弁明』への批判である。「序文」の後『弁明』でのホールの記述をそのまま、あるいは要約してRemon.(抗議者)として計一四六項目を掲げ、それぞれのRemon.について順次ミルトン自身の「批判」をAns.(答え)または、Answ.として述べていくという、一問一答式になっている。ただしRemon.の中には一部重複しているのが若干あるうえに、『弁明』からでなく、ホールの前著『謙虚なる抗議』からのものが六項目含まれている。また、その問答部分の構成はホールの『弁明』での部わけに対応しているのであるが、ミルトンの『弁明批判』では第五部の次が大きくスキップして第一三部に続いている。『弁明』の第六ー一二部が無視されていることになるが、子細に見てみると、ミルトンの第五部の最終のRemon.「さし当たっては、兄弟がたよ、夜中シモンとともに漁をしてもなに一つ捕れなかったことでも考えてみるがいい」は、『弁明』の第九部にある文章で、ミルトンはこれを第五部くっつけたことになる。
 このように、ミルトンが、『弁明批判』において、一問一答式の形式を構成し、しかも「問い」の部分に当たるRemon.の多くを、ホールの『弁明』での原文とは異なった形に要約したり、時には『弁明』によらず、その前著の『抗議』の文章を取ってきたり、『弁明』の中心部を手粗く無視したりしたことが際立っている。ミルトンの論争上手、喧嘩上手と言えばいいのであろうか。ミルトンは『ミルトンの弁護』において、『弁明批判』での自分の攻撃法にふれて、わたしはある種の軍事的優勢を保つことを心がけ、敵が馬に糧抹を与えたり水を飲ませたりしている時をーー自分はとても安全だと信じきって、もっと真剣な相手を馬鹿にしていい気分に浸っている時をーー待ちかまえるようにしたのである」と述べている。先に漱石の訳文を掲げておいた『ミルトンの弁護』の箇所、および『弁明批判』の序文に見ることができた言葉づかい、書きぶりについての強烈な意識をミルトンの戦術とするならば、戦いの枠組みを自在に構成し、相手を自分の土俵に引きずり込んで論争するやり方は、まさにミルトンの戦略であったと言うべきであろう。
 
                  (五)
 『弁明批判』が出た一六四一年七月、国王に従わない者の上に暴威をふるっていた星室庁裁判所(the Court of Star Chamber)は廃止され、八月には下院がホールを含む一三人の主教に弾劾状を送り、十二月にはやはりホールを含む十人がロンドン塔に投獄されている。新たに登場した『弁明批判』への反応がしばらく現われなかったのは、このようなホール側の状況によるものであったかも知れない。いずれにしても、年があけた一六四二年二月になって『穏当なる論破』という、『弁明批判』を直接攻撃する文書が世に出る。著者はホール主教の息子ロバート・ホール(Robert Hall)であるとされているが、父親の筆になる箇所もかなりあると言われている。その完全なタイトルは A Modest Confutation of a Slanderous and Scurrilous Libel Entitled Animadversions upon the Remonstrants Defence against Smectymnuus である。『弁明批判』を「口の悪い、下卑た中傷文」ときめつけているその文章からも、この論破書の性格がうかがわれる。四折版四〇頁のこのパンフレットは、一二の節に分けられ、ミルトンの『弁明批判』の主要な箇所が引用され、逐一「論破」されている。
 しかし、『穏当なる論破』を際立たせているものは、そうした個々の論破よりも、主として「読者へ」(To the Reader)の中に見られる『弁明批判』の著者(ミルトンの名はあげられていないが)の私行を暴きたて、人格を傷つけようとする個人的な攻撃である。
「わたしは、著者がその下品で無礼な中傷文で自分のことを語っている以上のことは、この男について知らない。.....自分の仲間たちがそういうことをしたと言っているのだが、どうやらこの男自身も青年時代は放浪と酒池肉林に明け暮れたらしい。かくして大学の胸中に巣くう膿 ・・・・瘍になってしまい、とうとうロンドンの場末のはきだめに吐き出されたのだ。この辺りは、彼が現われてからというもの、二つの病菌に侵されて呻いている。一つはこの男、一つはペスト。彼の朝の行き場所は知らないが、昼食後この男を見つけようとする者は芝居小屋か遊女屋を探さねばならない。わたしは、そこまではこの男をあとづけたのだから。」
 
そしてこの論破者は、ミルトンをそこまであとづけた証拠とばかりに、括弧に包んで『弁明批判』からの言葉を数多く並べている。その中には「かつら」(Periwigs)、「古びた外套」(old Cloaks)、「偽のあご髭」(false Beards)、「夜警」(night-walking Cudgeller)、「塩気まじりの水」(salt lotion)などが含まれている(本書**頁参照)。
 
                  (六)
 この『穏当なる論破』に直接答えたのが『ミルトンの弁護』である。その正式のタイトルを再録すると An Apology against a Pamphlet call'd A Modest Confutation of the Animadversions upon the Remonstrant against Smectym-
nuus である。邦訳しきれないそのタイトルが主教制論争の経過を説明している。本パンフレットは『穏当なる論破』の言葉を逐一引用して、執ようと言ってよいほどの弁護を行ない、ミルトンがなぜ中立的な立場を捨て、沈黙と忍耐を破って高位聖職制(prelaty)に反対して、長老主義擁護に立ちあがったかを説明する(漱石が『英文学形式論』で引用していた文章もその一つである)。『弁明批判』で自分が攻撃的な言葉を使用したことを正当化しようともする。ことに論破者が浴びせかけた私行に関する非難についての「弁護」は、間然する所がない。
「芝居小屋にそして遊女屋にと、この男は言う。密告者なのか、うそっぱちのカナンの偵察者なのか。そこまでわたしをあとづけたとこの男は証言する。読者よ、この男の言葉に用心しよう。他人をつけまわすつもりでいるうちに、われとわが快楽を求めて自分自身が入り込まなかったという証拠を取るまでは、この男を手放してはならない。この男は自分の ことをたっぷりと暴露してしまっている。他人のしかけたわなには引っかからないが自らしかけたわなに落ち込んでしまうかけ出し者なのだ。『弁明批判』でわたしが古びた外套、偽の顎ひげ、夜警、および塩気まじりの水のことを言っているとこの男は指摘し、だから批判者は芝居小屋、遊女屋に出入りしていると言うのである。出入りしていなくて、どうしてこのような品物のことが言えるのか、というわけだ。子供であるくせに刃物をもてあそぶのがどんなことかを分からせるため、わたしはこの男の揚げ足とりをそのままお返ししてやろう。論破者はこれらの品物が、芝居小屋、遊女屋に備え付けのものであると知っている。ゆえに 同じ理由で論破者自身がこの種の場所まであとづけられるのだ。」  
かくして、主教制論争をしめくくる『ミルトンの弁護』は、自己を語り、自己を守る強烈な自己主張の書でもあった。そして自らを弁護する数々の記述のあちこちに挿入されている、主教、高位聖職者、エピスコパシーへの鋭い批判が読む人の目をうばう。『ミルトンの弁護』を世に問うてほどなく、ミルトンはメアリー・パウエル(Mary Powell)と結婚、ついでその妻との別居という事態をむかえる。イギリスの内乱もこの頃始まり、ミルトン個人と国家の重要な月日が続く。そのなかでミルトンは『英国民のための第二弁護論』で説明している。
「おびただしい攻撃者の大群に、主教たちがもはや敵対しえなくなったとき、わたしは他の問題、ーーほんとうの、本質的な自由という問題ーーにその思いを傾けうる余裕ができた。この自由こそ、外部からではなく内部から求められるべきもので、その存在は威圧的な剣よりも、行為の真面目さと生活の誠実さに依存しているのである。」  
それは『離婚の教理と規律』(The Doctrine and Disciplin of Divorce,1643)、『教育論』(Of Education,1644)、『アレオパギティカ』(Areopagitica,1644) となって現われ、ミルトンの「散文の時代」はその幅を増していく。 
 本論文の訳出は、去る一九七七年(昭和五二年)初夏の頃から、訳者二名が、週一回の割合で会合し、原文の解読、訳文の推敲を約三年続けたのがその基本となっている。しかし、なにぶん本邦初訳であるため、先達に教えられることが少なく、訳者らの思い違いによる誤解、誤訳もあるかも知れない。同学の方々のご指摘、ご叱正に接して今後改めていきたい。
 最後に本書の刊行について、いろいろお世話になった荒井明氏、および未来社の方々に奉謝の微意を申し述べたい。
 
一九八九年一月        訳者
               ミルトンとその思想へ