スメクティムニューアスに対する抗議者の弁明を批判する
序文
宗教にかかわる問題を手がける人たちが、人の気に入るよう気をくばる必要などはないというのは、ある程度真実であろう。けれども、穏やかで感じやすい良心的な人たちに納得してもらうことは、いわゆる人に気に入られようとすることとは全く別であって、こういう人たちに納得してもらおうと、わたしは、この本の内容について前もってお断りしておくために、いささか述べてみたい。内容がおそらくある人たちに気に入らないと思われるので、述べてあることについて理にかなった釈明をしておけば、後になって弁明したり言いわけしたりする手間が省けはしないかと考えるからである。だれでも知っていることだが、個人にかかわる私的な危害の際には、否、たとえキリストのために受ける公の苦しみの際にも、すぐさま悪口を言ったりするのはもってのほかで、どんなに挑発されても、ののしる相手の言葉でののしり返すことさえしてはいけないとうのが、主の道であり規範である。しかしどこぞの悪名高い敵の正体を暴露し、これを説得して、真理と国家の平和に向くように仕向けるためにはーーとりわけ、その敵が、よく回る鋭くなめらかな舌先を誇っていて、これに空しい自信を抱くばかりか、それ以上に、世俗の栄誉にへばりついて離れまいとして高位聖職者(1)たちの久しい強奪と断罪済みの偽主教制を、その礼拝形式や典礼(2)や圧制ともどもに(神も人も、そんなものは侮蔑をこめた野次で、この国から今にも追い払おうとしているのに)、事もあろうにみんなの代弁者顔で立ちあがり、これらを正当化しようとするような時にはーーわたしは確信をもってこう思う、このような奴は少しく声を荒げて遇し、奴の所にある聖水ならぬ汚水をその高慢な面にぶっかけて、ぶちのめしても、キリスト教的な柔和心にもとるところは少しもないのだと。わたしたちがかくするのも根拠のないことではない。ソロモンの道徳的な戒めにも、愚かのゆえに高ぶる者にはこれにふさわしく答えてやれとあるし、(3)キリストをはじめ彼にならうあらゆる時代の人たちも、健全な教えに逆らい巧妙な欺瞞によって人々の心を堕落させる者たちを論破するに当たっては、熱意に動かされるあまり、これほど手厳しく語ることはできまいと思われるほどに激しく攻撃を加えたのである。実際、彼ほどの人類の大敵がいるだろうか。彼ほどの危険な詐欺師がいるだろうか。永年の積弊を擁護しようと並々ならぬ策を用いて巧妙な戦略を弄し、時の勢いに自分の主張の大部分を譲って、(4)この件については人間の考えから出たものはすべて放棄したかに見せかけておき、聖書を頼んで築いた自分の砦からも追い出されながら、なおも、神の御命令でもない使徒の定めや権威などというより糸で、これをどっちつかずのままぶらさげておいて、まるで、幾重にも掘りめぐらした塹壕に安全に身を隠す格好をして、一度は撤退した神の権威の砦へと、このような手段で再びはいあがるのである。しかも、公然と姿を見せるわけにもいかず、さりとて心にもない所にいる気もせず、なおも境界線上をうろついては、心の定まらないキリスト教徒をば、最悪の誤謬が伏兵のようにひしめく中へと、気づかれぬうちに連れ込むのだ。そして、ふらふら変わるでたらめな原理とやらですり替えて、ついには彼らの心にあるよいものはみな抜き取り、いささか掃除と飾りつけをしたかに見せかけて、彼らを七重の絶望的な愚昧の虜(5)にしてしまう。それゆえにいとも私心なき愛、いとも気高い熱愛である人間の魂への愛を抱く人たちがこのようなイカサマに出会うときに、真理に対する熱意に燃えるあまり、真っ赤に激怒したとしても責められることはない。とりわけ兄弟たちの魂に対してこのように罪を犯す者どもが、多大の利得と安逸と俗世の栄達を手に入れて喜々としているのに、その欺瞞的な闇取り引きを暴いてこれとの対決を迫ろうとする人たちの側には、心ならずも抱く悲しい怒り、さまざまな損失や危害もなくはなく、しかもいかなる個人的で私的な悪意も抱かず、世俗の報酬をおもんぱかることもない有様を見ると、なおさらそう言える。自ら訴える手段のゆえに、かえって、この人生ではとるに足りない低い身分から抜けでる望みが断たれるのだから。それに、一大ペテンをつかみだす重要な仕事に際して(というのは読者のかたがたよ、率直に言うと高位聖職制度はペテン以外のなにものでもない)、たとえ、そこここに皮肉な笑いーー厳しい表情と同時に浮かぶような笑いーーが入りまじっていたとしても、はしゃぎすぎだとか、無礼だとかとお叱りを受けることはあるまい。と言うのは、こういう調子の笑いだって(謹厳な作家たちのものからお見せすることもできるが)、教えたり論破したりするに当たって強くたくましい力を持つことがよくあるからである。それに最大最悪で最も危険な詐欺、魂への詐欺行為にはまりこんだ偽予言者ほど、憤りと嘲りとを同時に誘う、うってつけの代物はないだろう。このような代物が怒ってくれ笑ってくれと呼んでいるのに、これを暴きたてるに当たって、立腹するのは有害だとか、蔑みの笑いを浴びせるのは有害だと言うのなら、人間の知性のうちで最も理知的な怒りと笑いというこの能力が、なぜ最初に人の心に宿ったのか、そのわけの説明もなかなかつきかねることになろう。(読者のかたがた)、心優しいキリスト教徒のためにはこれぐらいにしよう。反対する他の連中には一顧も与えない。ただ一言仇なす敵とやり合うのに、なぜこのように厳しく簡潔な仕方を選んだのかと聞かれるならば、そのわけは、賢明な読者ならこれ以上議論かしましい古き慣習(6)などという迷路にお付き合いしなくても、真理が立証され詭弁がその偽りを最初の一本で見破られるのがすぐに分かろうというのが主な理由で、次には、抗議者自身に、いくらはしゃいで他人を脅しても金儲けにならないことを悟らせるため、さらには、これ以上邪悪な主張を得意然と語らないようにさせるためでもある。が、ここらで彼に始めてもらおう。
第一部
【抗議者】わたしの一つの抗議に敵は複数で向かってきている。
【答え】あなたの<ひとつ>の抗議が、複数の(7)宗教的原理を兼ねようともくろむ<ひとかたならぬ>執着をぷんぷん匂わせていなければ、あなたの<ひとえな>誠実さが、よきキリスト教徒全部から疑いをかけられることもないわけである。
【抗議者】彼らの名前も品性も数も、わたしは知りたいとは思わない。
【答え】彼らの名前は、天において全知なるお方に知れている。だから、なにもこの場であなたやあなたの呼び出し奴隷に名前など呼びあげていただかなくても、一向にかまわない。
【抗議者】しかし、たとえ彼らが「わたしの名はレギオンだ、多数だからだ」 (8)と言ったとしても・・・・・
【答え】なんのために悪魔の名前を持ちだして、相手方の数をあれこれ言うのか。レギオンなどとあてこすりの言い方はなんのためか。相手方をどんな風に尊敬しているのか人々に知らせたいからなのか。なにしろあなたは、文書の中で終始「わたしの兄弟たち」と麗しくも呼んでくださるのだから。レギオンが抗議者にそんなに多数の兄弟を与えていたとは思いもよらぬことだった。
【抗議者】わたしの大義が、否、神の大義が、たじろぐことなく彼らに立ち向かえと命じられるだろう。・・・・・
【答え】早速あなたの勇気を自慢する最初のくだりを聞かされるわけか。地獄のか人間のか知らないが、レギオンどもに立ち向かうとはまさしく聖ダンスタン並みだ。(9)
【抗議者】わたしの大義が、否、神の大義が。
【答え】どんな神か。あなたの腹か、それともこの俗世の神だろう。あなたの例の抗議の中で、おごりや高ぶり安逸や便腹のことよりも、神の真理と栄光そして魂の救いにかかわる箇所が一かけらでもあれば見せてほしい。
【抗議者】わたしの大義が、否、神の大義がたじろくことなく彼らに立ち向かへと、そして聖なるダビデとともに「たとえ、軍勢が・・・・・」(10)と歌えと命じられるだろう。
【答え】聖なるダビデの言葉を勝手に自分に当てはめて、さも不屈の勇気があるように思わせようとしてもだめだ。自分の党派が横領しているあり余る富と栄誉を失うのではないかとあなたが心配して、目下苦しんでいるのはよく分かっている。貪欲にも地上のものを背負いきれないほどためこんで、これの保全にうんうんうなっているような者は、だれでも骨までがたがたに震えあがらずにはおれないのだ。霊的な勇気をもってキリスト教徒の戦いをするには、抗議者よ、あなたといい、あなたの部隊といい、装備ができていない。体もできていない。腰も据わっていない。陣営が引きずっていく荷物が多すぎて、それに気をとられて進軍もはかどらない。そんなにも肉的な欲望にとりつかれているのを見ると、肉的な心配がないとはとても思えない。
【抗議者】わたしは、喜んで議会に出る。
【答え】では、悪魔とぐるになってでてくるがいい。喜んでと言うのか。あなたも仲間の党派もこぞってこの議会が開かれるのをさぞや待ち望んでいたことだろう。(11)聖職の録を食む司祭たちも、あなた同様にさぞ喜んで全教会区の訴えや叫びに耳を傾けようとでてきたのだろう。
【答え】「アレオパギ」だと?(12)確かに先生がたよ、これは人の名前ではなく場所の名前だったと思うが。
【答え】まだ翼の生えそろわない鷲が、一挙に舞い降りてはこないところをみる
と、これはさぞかしだれか大先生が側に控えていて、この剣呑至極な批判であなたをくすぐり、賢明で厳格なアテナイの審査官よろしくあなたを唆したらしい。そこであなたは、思いつきと知ったかぶりですぐ頭にくる文法先生たちの面前で、その箇所をあげつらって、これこそ語尾の誤りだとばかりに持ちだしてくる。ご丁寧な抗議者殿よ、問題を誤ってもらっては困る。彼らはラテン語の作文をしているのではない。外国語の名前を取り扱うのに、耳ざわりな外国語の語尾を発音しようとわざわざ英国人の口を曲げなくてもいいように語の中心部だけを取りだしたとしても、それは、こういう屈辱を潔しとしないギリシアやローマのすぐれた作家たちのーー今日ではイタリアの作家たちもーーやり方に従ったまでにすぎない。わが英国の名前が海外でどんなに細切れにされているかを忘れないでもらいたい。わたしたちもお返しに、彼らの名前を同じように粗末にしてもなんの咎めがあろう。わが博学なチョーサーでも、(13)あえてこの点には固執せず、セミラミスをセミラマスと書き、アンフィアラウスをアンファイオラクスに、アルシオンの夫K.セイクスをK.セジェスとしている。(14)このように、忠実な正字法を思い切って変形した名前をこのほかに多く用いたのは、この類いの語では、こうしてもさしつかえないと思ったからなのだ。
【抗議者】出版界は近ごろ中傷的な言葉ばかりを語っていると世間に思われないためにも、この真実の書が産声をあげた。(15)
【答え】自分勝手に問題を矮少化するがいい。あつかましくも手前勝手な冒頭陳述で、思慮深い議員がたの耳を奪おうとしても、そんなのは賢明な修辞法に照らしてみれば青二才のやり方にすぎない。一人よがりの料理は自分に向かって給仕すればいいのだ。
【抗議者】あなたがたが勝手に「序文」と呼ぶ部分は、(16)うんざりするほど数多くの誹謗(ひぼう)に対するきわめて正当な抗議である。
【答え】あなたがた高位聖職陣営は、いつの間にそんなに誹謗が嫌いになったのか。お仲間のリシマックス・ニカイノア(17)に尋ねてみるがいい。近ごろどんな 侮辱的な罵詈雑言(ばりぞうごん)がスコットランド問題に、さらに哀れにも追放されたニューイングランドの兄弟たちにまで浴びせられたかを。高位聖職者たちは、これに嫌悪を示すどころか、むしろ拍手を送ったのだ。以来ずっとこういう有様で、ついにフランシス・ベイコン卿は、(18)その論述の一つにおいて、これらの文書に対する主教たちの不公平な手口に抗議して、「主教たちに敵対する文書は闇にほうむり、ピューリタンに敵対するものには許可を与えて公然と出させている」と述べているほどだ。もっとも、これがために、さまざまの説教者たちの行う宗教活動が侮りを受けたり、さらには、気高い問題が卑しい人によっておとしめられる害悪の方がはるかに重大ではあるが。
【抗議者】提起した抗議(本文)に劣らず肝要な点である。
【答え】お手前の痛いところは分かっている。あなたはいらだち、泣きどころを突かれて苦しんでいる。こんな風に兜の面をはがされて晒し者にされては、禿頭を隠しているかつらを引きはがされ中の地肌が公衆の前にさらけだされては、これはもう高位聖職者たちには致命的だ。ローマ人は、年に一度奴隷たちに心の内を自由に語らせる機会を与えていた。それなのに、生まれながら自由の英国民でありながらーーあなたがた坊主たちの発刊禁止、削除箇所のリスト、審議打ち切りのさるぐつわ、尊大な出版許可(それは、金銭ずくで偏狭などこかの無学な牧師が、浅からぬ利益をつかもうと浅く目を通さなければ、なかなか手に入らない)などのおかげでーー真理の声が、格言(19)とは裏腹に、片隅に追いやられて長年にわたり聞かれないとあれば、これは我慢がならない。人間にとりこの上なく喜ばしい言論の自由が、縛りあげられ肺結症の病人よろしくぜいぜい呻いていた矢先、折りもよし、わたしたちの議会が開かれて国の歓喜と蘇生のまたとないこの時に、押しこめられ踏みにじられ長らく迫害されてきた真理が、今なお語るのを許されないとあればーーこれは我慢がならない。その上、せっかく真理が効果のある発言をしているのに、なにしろ有害な沈黙を強いられてきた後だけに、なかなか許されず、しかも、中傷だとのそしりを免れえないとあればーーこれは我慢がならないこと、自由な精神の王国にとりゆゆしい事態であろう。幾人かの王侯、偉大な政治家たちは、変装に身をやつして一般民衆の中に身を投じ、夜をこめて家々の軒下や窓辺に立ち、一人一人の胸の内にある自由な発言をもれ聞いて、これらの発言の中から、浜辺の数知れぬ小石の間から宝石を探すように真理を見つけだすのを重要な方策の最たるものと考えてきた。こうすることで、身辺に絶えずつきまとい道を誤らせるあの追従という欺瞞に満ち密かにうかがう邪悪を見破り、これを遠ざけるのが容易になるからであり、また、取り巻き連中や茶坊主どもの不誠実な意見に頼らずとも、国の病弊それぞれに応じた治療を施す術を一層巧みに身につけるためでもあった。ところが、今や自由な著作をこのように認めることで、他の利益はさておき、このように許可される時が来るだけでも、怖じ気づいて表には出せない類いの真理をも明るみに出し吟味できるので、国民全体がさまざまな点でより賢明になり得るのだ。(20)そればかりか、王侯をはじめ俗世間との接触から隔絶した人たちも、一般庶民の間に潜むあらゆる悪や抑圧されている善に目が開かれ、人々の心に訴えることができるので、今後は、古びた外套や偽のあごひげのご厄介になり夜警のお目こぼしにあずかってまで軒下で立聞きをしたり、時には塩気まじりの水を頭から浴びせられて、これも香水のうちだとおとなしく耐えなくてもよくなろうというものである。自国の眼であり王侯の眼鏡とも言うべきこれら直言直情の誠実な人たちに腹を立てたりする者こそ、やましいものにほかならないのである。しかるに、このように率直な人たちはトゲトゲしい人たちだとされる。あなたの仲間のやることを暴露する本は(その半分もやらないのに)無分別な本だとされる。お手前は歯の抜けた風刺が(21)お好きなようだ。だからお教えしよう。歯の抜けた風刺などは、歯の生えた砥石同様、役に立たぬ間抜けた代物だ。
【抗議者】どうか兄弟たちよ、あなたがたの論理はあなたがたの著作に適用されたい。
【答え】お手前のいわゆる最終的断定は、あまりにあつかましくて、せっかくの粋で隙の無い弁論衣装がまたもやほどけ、レースの服も巻毛もボビン編みもぐしゃぐしゃになって、弁論嬢は、当惑と腹立ちのあまり逃げ出さんばかりだ。(22)
【抗議者】このような言葉のあげ足とりは軽いあぶくにすぎない。ひとりでに没してしまう。
【答え】これはまた、まれに見る鋭さ。カーダンさえ(23)夢想だにしなかったほど。お聞きするが、いつ軽いものが沈むのか。いつ、軽いあぶくがひとりでに沈むのか。あなたの言い方だと、同じ日に重いおもりも浮かびかねない。読者よ、この男の言うことを聞くがいい。この男の神学は、英国をローマと和解させようとするもの、その学問は自然と混沌ーー「重さなくして重さを持つ」(24) 混沌ーーとを混同するものだ。
【抗議者】これに続く浮きかすは取り除くのが適当であろう。
【答え】ひしゃくを持つ手をお控えなさるがいい。主教が足を突っ込むとスープがだめになる。(25)浮きかすは、あなたの抗議書の方にこそ浮かんでいるのだ。
【抗議者】第三者の皆さんの目で、この人たちが理不尽にもわたしに悪意をかぶせようと企んでいないか判断してほしい。
【答え】同感である。
【抗議者】わたしが述べたのは、一般概念としての国の行政制度が、時代によって変化してきたこと、国の行政制度が、恣意的に権力者たちによりつくられたことであった。ところが、これらご丁寧な註釈者のかたがたは、無理やりわたしの言葉を現在の、しかもわが国の君主政体という特定の制度に当てはめようとするのだ。(26)
【答え】彼らがそうするのは当然だ。お手前の論理を見てみるがいい。国の行政制度は時代によって変化してきた、それは恣意的に権力者たちによってつくられたとあなたは言う。これはどういう命題なのか。ダウナム司教の(27)『論理学』を見れば、たとえ共通する項目が述べられていなくても、それが一般原理であることが分かるはずだ。あなた自身も、『弁明』の中で「一般概念」という言葉で説明している。このことから当然帰結されるのは、国の行政は恣意的だと言う者は、英国の行政は恣意的だと言っていることである。この帰結は動かし難い。大前提から小前提へ、一般から個別へ、論理学上の明白な立論だ。
【抗議者】兄弟たちよ、神を敬う人たちだと思われたいのなら、もっと悪意を和らげるようにしなさい。
【答え】抗議者よ、自分の論理学の原理をもっとよく学ぶまでは、他人に向かって博士ぶるのはやめなさい。
【抗議者】神よ、どうかこのようなおためごかしから、すべての善良なる人々を守り給わんことを。
【答え】論理的原理が、おためごかしだったことは一度だってなかったと思うが、しかし論理学者の委員会が判定を下したら、お手前が祈祷書に頼っても到底助からないだろう。
【抗議者】そして、わが聖なる君主国を、かくのごとき友だちから守り給わんことを。
【答え】「高位聖職者たちのごとき」友だちーーと言うべし。
【抗議者】主教制が君主政体を侵害したことがあったとしても、それはふらちな個人のせいであって、召命自体の咎ではない。(28)
【答え】それは個人の咎でもあったし、召命がなかったせいでもある。わたしたちは、高位聖職制度を召命だとは思っていない。
【抗議者】(これらの人たちが尊敬おくあたわざる)ある法王の証言。(29)
【答え】その中傷的な挿入は、さぞかしあなたの信じ難き慈愛の傷みなのだろう。慈愛に欠けるとしばしば彼らを非難しておいでだから。括弧に包まれたご好意あるねんごろなおしるし、混迷の主教制を維持せんための聖職者面をしたご厚情だ。千人の騎兵隊があったのかなかったのかは、時がくればはっきりするだろう。(30)そのような計画が実行されていたら、ある高位聖職者の手になる法王を奉るかかるお墨つきは、その代金を支払った者たちには、さぞかし有効な保証となったことだろう。
【抗議者】そして反キリストはなんと言っているか。(31)
【答え】ご兄弟の高位聖職者たちに尋ねるがいい。彼らの方が反キリストにはよく通じている。わたしたちには聞くな。それにしても、今もなお法王が反キリストとは恐れ入る。この件で赤恥をかかれぬようご注意を。最近の聖職会議(32)の様子では、たとえ法王が反キリストだと訴えられたとしても、多数決で彼は罪無しとされたであろうことは請け合う。
【抗議者】主教制に反対することならなんであれ。(33)
【答え】この男の図太さはどうだ。主教国の継承と神授権は世々を通じて疑問の余地がないと言って聞かせるつもりなのだ。そのくせ、彼に向かって王を持ちだせば王は不信心だという。法王を持ちだせば彼は反キリストだときめつける。どのような時代の数え方で、どんな妖精の国を通って、矛盾のない主教制などという数珠玉をいつまでも数えあげるつもりなのか。自分に反論するものはみな不信心者か異端者だと信じ込む連中に比べると、法王が自分のあらがい難い権威を誇る方がまだしもましだろう。
【抗議者】もしも主教が神授権からくるものだと宣言されるなら、彼らは司法の適用を免除されることになる、と法王は言う。たとえこうした危険がそれらの国々にあるからといって、どうしてわが国の主教たちにもその危険があるなどと悪意の告発をするのか。彼らは進んでこう誓っているのに云々。(34)
【答え】お手前がたの細切れの原理が、切りさいなまれた蛇みたいに今ちぢこまっていたかと思うと、またもや法王みたいに大きくなるからだ。今は恐怖のあまり進んで誓っていても、自分の身が安全だと思うと、どんな風向きになるか分かったものではない。
【抗議者】小数の人たちのせいにすぎない事柄のために主教制を党派だなどと呼んで、その名を恥ずかしめるのは汚い中傷である。(35)
【答え】もっと汚いのは、罪もない名前に汚名をかぶせるあなたの党派だ。その事柄がお手前がたみんなのせいにされるのは当然である。防止すべきであったのに防止しなかったのだから。
【抗議者】なんと兄弟たちよ。あなたがたは、英国国教会の長老でありながら、あえて主教制を党派だと攻撃するのか。(36)
【答え】然り。主教制があえて党派的である限りは。
【抗議者】聖キプリアヌス(37)の時代に、あなたがたがそのようなことを言ったとすれば、どうなっただろう。
【答え】ラムベスの地獄院に(38)引きずりこまれることもなく、また、教区裁判所の悪党どもに「職権により」(39)吊しあげられることもなかったろう。キプリアヌスの時代には、事態は今とは似ても似つかなかった。なるほど彼は、当時職制化し始めた主教制を継承はしたが、彼個人のすぐれた資質が、解毒剤のように、腐敗の病弊ーーうわべは豊かで健康そうな体格の内部に、すでに一定期間潜伏中の病気となって蔓延しつつあった腐敗の病弊ーーを抑えたのである。それは、ちょうど水腫からくる湿り気のように、初めは美しいみずみずしい肉体と見分けがつかない。あるいは、普段青白い頬に見慣れない赤みがさすと麗しく見えるが、実は内部の閉息とか炎症の悪い原因から生じているもので、最初は医者の目を欺くが、ついにはその病状を見るにいたるようなもので、キプリアヌスの時代には、まだその病状が現れていなかったのである。主教制の高位聖職根性は、当時すでに芽生え広がり始めていたが、特に著名な人たちの場合は、いまだ、偽りではあるが美しい繁栄のまねごとだったのだ。
【抗議者】非難されてしかるべきこと、すなわち、誹謗する分裂主義者ども(わたしは当然彼らを非難した)の結託行為の咎を彼らにかぶせるのもこれに劣らず悪い。(40)
【答え】この第一部を締めくくると、以前から例の文書に関して言われていたことーーすなわち例の文書は「謙虚」でもなければ「抗議」でもないことーーを抗議者が自ら証しようとしているにすぎないのが分かる。また、今回の弁明も似たりよったりだと言える。スコットランドの教会に対して企てられた彼ら司教たちの悪名高い暴虐にやむをえず言及する時には、小数の人のせいにすぎぬことだなどと不用意な言い方をする。そのくせ、議会がいみじくも「市民の請願」(41)と呼んでいるものについて述べる時には(まるで国家が彼を公式の審査官に任命したみたいに)「わたしは、当然彼らを非難した」などと言う。しかも、どんなやり方でか? 先に密かな手口でそそくさと署名を手に入れたやり方に比べると、この度の行為はもっとひどい。なにしろ、「誹謗する分裂主義者どもの結託行為、およびこれを狂信的に支持する者どもは、扇動罪の烙印を押されるのが正しい」のだから。請願のゆえにこのような汚名を着せられて述べたてられるのは、わが市民の代表たちにはかえって名誉ではないかどうか、それはともかく、この請願は、行政官の数名をも含め、大勢の誠実で思慮深い人たちによって、正規の手続きを経て穏やかに提出されたものである。もっとも、わが偉大なる聖職者どもは、これらの人たちが(キリストご自身も聖パウロもそうであったように)世俗の職業にあるがゆえに、知識の程度にも行動の原理にもいささか欠けると考えておいでのようだ。青年時代は放浪と酒池肉林に明け暮れ、その学問は無益な課題と野蛮な詭弁、中年は野心と怠惰に、老年は貪欲と病弱に過ごす連中と同様だというわけだ。(42)「誹謗する分裂主義者どもの結託、およびこれを支持する者どもは扇動罪の烙印を押すべきだ」などと言うのは、この請願を採択に値するとしたばかりか、名誉と学識ある議員諸氏により提唱され提出されたおかげで、これを委員会に委任するに値すると投票で決めた議会そのものを冒涜する行為とはならないのか。この議会の判断と承認とを中傷することにはならないのか、公正な裁決をまつものである。
第二部
【抗議者】あなたがたは、胆汁過多を爆発させた後で、典礼と主教制に向いて排泄する。
【答え】その胆汁過多はもう済んだのだから、手前勝手な判断で、これ以上あのかたがたの論議に苦痛を加えるのはおやめなさい。
【抗議者】おそらくは尊敬から、わたしのことを「ホール博士」とあえて呼ぶのだろうが。
【答え】おめでたい先生よ、よくもあえて言うものだ。
【抗議者】なぜ、わたしが殉教者たちのことを、この典礼の創始者であり、実践者であると言うのがいけないのか。(43)
【答え】創始者たちだと。翻訳者たちとでも言った方がまだしもだ。と言うのは、ヘイワードがその『
エドワード六世伝』に書いていることだが、(44)王の言葉として述べているのを聞けば分かる。彼は、礼拝の式文も、これに英語を用いたやり方も旧来の礼拝となんら変わるところがなく、ラテン語をそのまま英語に移しただけで、いくつかの言葉を除けば、英語で聞くのも恥ずかしく思うほどばからしいものだったと言っている。だから、だれが創始者かは不確かで、確かなのは、その部分が翻訳者たちにさえ愚劣だと思われて、英語で耳にするのも恥じるほどだったことである。ああ、殉教者たちがこれをきよめてくれていたら。この点だけはお手前も言い残している。もっとも、彼らがいくらきよめようとしても、蠍を魚に変えることは、(45)これを捕まえてどんなにきれいな調理場で磨いてもできるはずもなかろう。この点では、殉教者たちの間に、典礼やこれに伴う礼拝形式の採用をめぐり、かなりの意見の衝突があろうというものだ。
【抗議者】あなたがたは、好き勝手に殉教者たちを軽んじるがいい。わたしたちは、わたしたちの大義を守ってくれるこれらの人たちを神に感謝している。
【答え】よくぞ言ったものだ。黒かったものを白く変えるために。(46)彼らこそ、あなたがた主教仲間の一人が、文書の中で「フォックス流の信奉者」と軽蔑して呼んでいる人たちではないのか。彼らの『行伝と記録』(47)は、高位聖職者たちにとり卑しむべきのみならず、嫌悪すべきもので、彼らの伝記は、あわや禁書になるところではなかったのか。そのうちの二、三版が、密かに、時を得て出回り、主教たちの公然たる遺憾の表明や当惑もなくはなかったが、この本を広めるのに力を尽くした多くの真面目な人たちは、これをよしとしたのであった。それが今や、典礼が泥沼の窮地に追いこまれると、これらの人たちのことを神に感謝するなどと、そんな偽善はやめてもらいたい。
【抗議者】まるでわたしたちが、主教一人一人の口から出る言葉を、いちいち実行しなければならないかのように。(48)
【答え】お手前の党派は、どうやら狡猾なヤヌス(49)のように二つの顔をお持ちのようだ。不敵な顔をして、教会の中に思いつきや躓きを押し進めようとする一方で、結果がうまくいかないと、そろりそろりと用心深い顔でこれらを否認する。その咎が組織にふりかかり、取り返しのつかない深手を負って、企て全体が崩れるのを恐れるからだ。そうでないのなら、なぜもっと早く、立派な主教なら当然したであろうように、彼らに非難と抗議とを向けなかったのか。なぜ手をこまねいて、なすこともなく目をつむっていたのか。とうとう国中から非難を浴び、あなたは、この文書のここかしこで、高位聖職者どものいくつかの不始末について、惨めにもそっけなく気のない告白をさせられるはめに陥ったのだ。それどころか、今なお彼らを弁護するとは一体どういうことか。
【抗議者】わが国の典礼は実に賢明で慈愛に富むつくられ方をしているから、これに従えば、たとえ法王の耳に聞こえても咎められることがないと、ある主教が言ったとしても。
【答え】おお、わが国の典礼における賢明と慈愛の前代未聞の過分な高さよ。一体、神の知恵と慈愛の言葉は、法王がこれをわけの分からぬ代物につくり変えななかったら、自分の耳に快く響くものだろうか?拷問用の滑車でもって、賢明で慈悲深いお手前のつくり(・・・・・)をもう三インチばかり引き伸ばしたらいかがだろう。その典礼を信奉しているのが、たとえ悪魔の耳に聞こえても、一向に咎められることがなくなるだろうし、賢明と慈愛は、それこそ、最高位の高さまで達するだろう。確かに、反キリストは悪魔に仕える牧師にほかならないから、あなたの典礼で法王を喜ばせるがいい。さぞ彼の主人[悪魔]にも喜んでもらえるだろう。
【抗議者】平和の神に向かって祈る身であるのに、どうしていがみあったり、けんかしたりする必要があると思うのか。
【答え】そんな必要はありません、先生。せいぜい、サタンとその一味が、いささかの文句もつけないように、用心しておつくりになることだ。それで悪魔といがみあったり、けんかしたりすることもなくなるだろう。
【抗議者】わが国の典礼が規範として行なわれるように、いろいろな言語で語るようになっているのは、わたしたちの大義と敬神にとって少なからぬ益である。
(50)
【答え】アシドドの言語も(51)それらの一つである。そこで、多数の英国人が、ペリシテ人の母親とちょっぴり知り合うことになる。実際、わが国の典礼は、英国のもぐりの尼さん並みに世界中をかけめぐって肉体を提供している。もっとも彼女のために金を払った人はまだ聞いていないが。
【抗議者】学識あるカルヴァン氏のあの鋭い論難(52)については、「他の共和国」においてなら、氏はきっとさし控えたことだろう。
【答え】神学に疎いこの抗議者は、こうやって分離不可能な普遍の教会をばらばらの共和国に分裂させるつもりなのだ。それゆえに、キリスト教会のすぐれた牧師はだれでも、全世界の教会に向かって警告する普遍の権利を持つと心得るがいい。また、国が違い、距離が遠いからといって、教会に関する関心がないはずはない。すべての国民、すべての言語は、キリストにおいて一つ家族のようなものだから。
【抗議者】だれであれ、わが国の偉大なる神学者たちに、カルヴァン氏の非難を関係させるのは適切でないとあなたたちも思うだろう。
【答え】確かに適切でなかった、わが国の神学者たちの悪意に満ちた関係の仕方は。もっとも、忍耐強いキリスト教徒のロンドン市民は、これまで、神を嘲る彼らの仕業を黙って耐えてきたのだが。
【抗議者】わが国の典礼は、カルヴァン氏に劣らぬ尊いかたがたの判断に合格したのだ。(53)
【答え】世俗的な取り引きで、彼らの判断を買収したから、合格したのだ。
【抗議者】典礼の古き慣習に関するあの類いまれなる論法について言えば、あなたがたは驚きを禁じえないだろうが、わたし自身の主張は正当であると申しあげておく。(54)
【答え】お手前の正当化とは、あなたへの反証となる古代教父たちの証言をば、どこかの教会議の教会法でーーそんなものは、わたしたちにとって、なんの根拠にもならないーーすり替えただけの惨めなものにすぎない。わたしたちは、自分たちの論議を聖書にのみ基づいて決定せよと主張している。しかし、お手前の虚勢を抑えるために、聖書以後の古代教父からさえはずれているその珍奇な思いつきを、あえて断罪するとしよう。
【抗議者】あなたがたは、自分たちの矛盾をどう避けるつもりか。お尋ねしよう。祈りの式順(式文)と礼拝形式はセットになっているのか、いないのか。セットになっていないのなら、どうして式順(式文)と言えるのか。また内容と形の両方を一つにする式順(式文)であれば・・・・・・・
【答え】その矛盾とやらを人のせいにしようとあわてた拍子に、その形式とやらに躓いて転ばぬよう、そんなものは取り除いてしまうがよい。
【抗議者】形式がそれほど自由でかまわないのなら、礼拝順序を定める規定は一体なんのためか。
【答え】なにか効きめのある献立療法でもなければ、この男の理解力は治療できないようだ。失礼ながら、ここは思い切って、この療法を実施するとしよう。お手前の料理人をここへ呼びなさい。答えてもらいたい。朝食、昼食、それに夕食、この順序はセットになっているのか、いないのか。セットになっている。だからと言って、朝はゆで卵とビネガー(酢)、昼は豚肉か牛肉、夜は新鮮な鮭と中味のないフランス料理というふうに縛られなくては、食事は順序にしたがってやれないのか。腕の確かな料理人なら、間違いなく「やれる」と答えて、これ以上のごたごたした大論争を省いてくれるだろう。わたしたちの祈りが、いつも同じ文句の繰り返しでないと、教会の集会での祈祷、聖書朗読、講釈、聖餐などの式順を理解できないのか。
【抗議者】典礼書が特定の人たちによってつくられたことなど、なんら非難に値しないではないか。
【答え】神がすべての教役者にあまねくお与えになったものを、いかなる特定の人物であれ、これを自分に独占するのは僭越もはなはだしい。おうむ返しの授業なみに型どおりの決まり文句を一字一句口移しされ、細かく指示してもらわなけ
れば、自分の言葉で祈るのもおぼつかない牧師は、同じ事をくだらぬ戯言(たわごと)で繰り返し祈るばかりで、説教の方もあやしいものである。と言うのは、(キリストも園においてされたように)(55) 時ならぬ感動に動かされ、心底からの燃える力からほとばしりでた情熱の叫びの繰り返しと、わたしたちが、日常だらだらと繰り返す祈りとでは、大変な違いがある。ある人が、朝にひざまずいて唱え、すぐその後で、部屋の別の所でまたひざまずいて、別の言葉でやはり同じ事を、まるで同じ商品目録からでた品物みたいに唱えても、そんなものは、祈りをお受けになるキリストご自身が、天では受け入れられないと教えられた異教徒のくどくどしい祈りと(56) なんら変わらない。すぐれた資質のかたがたが祈祷についてさまざまな形式、助言を出すのも結構だが、法にかなって召され、当然のことながら正式に認められるまで充分に訓練されている教役者たちにまでこれを課するのは、神のみ霊を自分たちだけの独占とみる独断専行である。
【抗議者】公の形を決めることが、自由を拘束することだろうか。
【答え】あなたがた主教連中は、昔ながらのパリサイ的な恐れ(57)ーーすなわち人々に対する恐れーーにとりつかれているようだ。そうではないと言うくせに、いつも最悪の側には組みしないように見せておき、それでいて、最善の側からはいつも離れている。一緒になるのか、離れるのか、はっきりしてもらいたい。まさしくサヴォナローラ(58)のこぼしているとおり、教会を改革しようとする時、最大の敵はいつもこれら生温い連中である。
【抗議者】主の祈りも式文として決められた形をとっているのに、(59)どうしてほかの祈りがそうであってはいけないのか。
【答え】主と同じ権威をもって制定できる主教たちが、一人もいないからだ。
【抗議者】もし殉教者ユスティノス(60)が、集会の指導者は、(彼らが偽って翻訳するように)「それぞれの能力に応じて」祈ったと言ったのなら。(61)
【答え】抗議者からギリシア語を学んでいない者には、この「それぞれの能力に応じて」は、どうみてもこう解釈できる。ラングス(62)もそう訳しているのは、その気で読めばはっきりと分かる。この古代教父は、ここでは集会の交唱とか応唱(63)とかのことを述べているのではなく、「アーメン」という単純な応答のことを言っているのだ。
【抗議者】集会の指導者が、それぞれの能力に応じて祈ったのはその通りだ。わたしたちもそうする。しかもなお、典礼書によるのだ。彼らもそれによったのだから。(64)
【答え】いきなり結論をぶっぱなすのか。古代の人は矛と盾を用いたはずだ。それを今流に鉄砲と大砲でやろうとする。
【抗議者】また、祈祷において、自分の心のままに祈る自由が、公の形によってそれだけ妨げられるものでもない。(65)
【答え】否、妨げられる。うんざりするほどいろいろな似たり寄ったりで、なくもがなの典礼文に時間が取られてしまうからだ。
【抗議者】教会総会(66)の言葉は充分で断定的である。
【答え】そのいかめしい教会総会などは、もう一度棚あげにして、固く縛りあげて、さまざまな意見ががやがやと葉っぱをばたつかせないようにせよ。わたしは、この暑い季節に、(67)教会総会などというだだっ広くて埃っぽい広場で、あなたに鬼ごっこをしかけるつもりなどない。むしろ、教会総会が採るべきであった理性の忠告をこそ採りたい。言い古された非難が舌先まででてきているのは分かっている。しかし、あえて言うなら、理性は多数の人にと同じく、一人の人にも与えられる神の賜である。教会総会という泉の水を今まで味わってみたところによると、理性こそ唯一のもので、典礼の形式を制定せよとの神の命令などではない。それは、第一に、無知や不注意のために、なにか信仰に反することを公の祈りで言い違えたりしないためであったし、第二には、アリウス派、特にペラギウス派が、(68)賛美や祈りの文句を通じて人々に影響を与えないようにするためであった。だが、古代の教父たちには申しわけないが、会衆の中で祈る崇高な能力を、神の教役者たちが用いるのを禁じても、異端の波及を防止する決定的なてだてにはならない。それなら、説教用に手元に与えられた既成のものだけにして、説教も訓戒も禁じるべきであった。異端的な傾向のある者は、祈りや賛美と同様に、説話の中においても影響を及ぼす絶好の機会を持つことになろう。教役者たちの無知や不注意から誤った祈祷がなされないようにと、教父たちが諸典礼を考案して与えたのは、不十分であるとともに、真実を言うと無思慮でもあった。もしも教役者たちが祈りにおいて不注意で無知であるのならば、説教においては、確かにもっと不注意であろうし、彼らの羊の監督においては、さらにもっと不注意であろう。それに、どんな処方によって、これら二つのことで彼らを規制しうるというのか。神のみ言葉に照らされた理性の方が、教会総会が教役者の異端、無知、不注意を防ぐために残したものよりも、より優る防御になるとすればどうだろうか。聖パウロがテモテに宛てて詳述しているように、(69)知恵と熱意とが、教役者たらんとする者の教育に注がれ、彼らが承認されるまでに厳格で慎重な試験がなされるならば、神のみ言葉の説教者にあらぬ疑いをかけて、典礼書の初歩によってその不健全さを指導したり、無知と不注意を直そうと、朝の祈りの食べ加減、夕べの祈りの飲み加減を規定しなくてもよくなろうというものである。なにも手間暇かけて教会総会などで吟味しなくても、これで十分だろう。
【抗議者】わたしたちの救い主は、天国に入るための最後の晩餐を祝われた時、ユダヤ人の祭り(70)の習わしに従う形式と言葉を用いるのをよしとされた。
【答え】主がよしとされたからといって、あなたがたが強制するのは正しくない。
【抗議者】ミンカの祈祷の(71)決まった形式は。
【答え】わたしたちは、そんなラビのたく香を買う気はない。火で練り清めた純金を主から買うように(72)求められているのだから。
【抗議者】『サマリアの年代記』に(73)よれば。
【答え】そんなサマリア人の迷信などどうでもいい。彼らのことは、キリストご自身も「あなたたちは知らないものを拝んでいる」(74)と証ししておられる。
【抗議者】彼らには、それぞれの場合に歌があった。
【答え】あなたの典礼のお世話にならなくても、わたしたちにだって、それぞれの折りに歌う詩篇がそれぞれにある。
【抗議者】聖ヤコブ(75)たちの名のもとにわたしたちに伝えられているこれらの形式は、明らかに後世の加筆が混入している部分もあるが、その実体は古来からの神聖なものにほかならないと、評価せざるをえない。
【答え】「その実体は古来からの神聖なものにほかならないと、評価せざるをえない」などというへんてこな言い回しの鋳造ぶりは、どんな言語の造幣局長も本物とは認めないほどのものだが、(76)それはさておき、かりにその実体が古来の神聖な香りを匂わせていても、それは内容のことにすぎない。その形式と意図するところは迷信的、無意味、不敬虔であって、拒否されてしかるべきである。よくあることだが、娼婦の衣装は、貞節な夫人を包んでいるものと同じ生地であっても、その女性が身につければ醜い。救い主に対する誘惑者の言葉も、(77)その実体は神聖だったが、その意図するところが邪悪であったのだ。
【抗議者】わたしたちがローマ教会をどの様な意味で真実の教会だとしているかはすでに明確にされている。(78)この鉄は熱くて彼らは指も触れられぬほどである。
【答え】その鉄で、お手前の良心が火傷して麻痺しないように気をつけるがいい。【抗議者】典礼書の改訂は、あなたがたよりも賢い頭の人たちによって考慮されることは疑いない。
【答え】わたしたちも疑わない。彼らもあなたの頭と同じ程度だろうと。
【抗議者】わたしたちの典礼は「法王のミサ」の性格を持つものではない。「ミサ」という点でも、「法王の」という点でも。
【答え】ミサをミサでないと言い、法王的を法王的でないと言うとは、危なっかしい言い逃れだ。だが、そのきめ細かい詭弁的なふるい分けはともかく、彼女が姿形において法王のミサと一致し、しかも法王のミサ衣装をまとっている限り、神のねたみを引き起こす心配があるのは当然である。娼婦然とした人妻の身なりが、慧眼の夫の目に嫉妬の炎をかきたてるのと同様だ。
【抗議者】もしも海峡の底に金があるとしたら、場違いの所にあるからといって、それを投げ捨てておくだろうか。
【答え】その金は偶像崇拝に用いられたために呪われているのを忘れたのか。たとえ神に造られたよい生物でも、一旦偶像に捧げられたものを食べるのは、聖パウロの言うとおり(79)悪魔と交わりを持つことであり、悪魔の食卓にあずかることになるのだ。お手前は、どうやら、自分の比喩で自分の口を閉ざしているようだ。
【抗議者】悪魔がキリストを神の子だと告白したからといって(80)わたしはその真理を否定するだろうか。
【答え】先ほどのふるい分けもきれいでなかったが、今度のすり替えもきたならしい。まるでキリストを告白することと典礼書を用いることとの間に、同じ必然性があるかのように聞こえる。わたしたちは、典礼書がキリストの証言によると信じてこなかったからといって、キリストが神の子であるという真実は否定しない。しかし、堕落の極の時代からの得体の知れない典礼などは、当然拒否するのだ。だから、悪魔がどのように祈りざんまいにふけったからといって、そのためにわたしは祈りの義務をなおざりにすべきではない。悪魔から祈りを学んだわけではないのだらから。だが、もしも悪魔が、新型の「パテル・ノステル」(81)を持ちだしてくるなら、これをどの様に神聖に見せかけても、それが悪魔のものである以上、そのような形式は御免こうむる。ただし、それの内容は悪魔のものではないのだから、彼がわたしに与えることなどできもしないし、わたしが彼からこれを受けたと言えるはずもない。事の本質は形式であり、これがばかげて迷信的で、その目的が邪悪で、これの強制が暴力的である時、典礼を支えるのは内容の優秀さではない、また、その優秀さは典礼からくるのでもない。
【抗議者】もしも法王主義者たちをわが国の教会へ招き入れようとのもくろみで、こういう形式に編纂したとすれば。(82)
【答え】彼らをわが国の教会に招き入れるためだと?一体どういうことか。彼らが、まず、悔い改めと正しい教えによってふさわしくされていなかったら。〔彼らを〕改心させるみ言葉が語られた、とこう言いたいのだろう。それなら、語られたみ言葉だけを尊重して、典礼などという餌で釣るような、もぐりのやり方をせずに神のみ業にお任せすべきだった。
【抗議者】その目指すところは慈愛と恩寵のゆえだったことになる。(83)
【答え】それは、パリサイ的であり、虚栄のゆえだった。不法に追従して改宗者を得ようとするさもしい欲望、タマル(84)並みの欲望だった。タマルは夫のために種を得ようと遊女の身なりで公道に座ったために、彼女のところへ来たユダは近親相姦を犯すことになったのだが、これこそ、本来のキリスト教徒を異教的にすることであった。そのくせ、彼らの恥ずべき卑しい異教への追従によって、せいぜいのところ、若干の異教徒をキリスト教化するぐらいが関の山であった。と言うのも、自らが真正のキリスト教徒でないのに、そんなやり方では、人をキリスト教徒にすることなどできないからだ。
【抗議者】もしも典礼に、どこか躓きを生じる恐れがあるのなら、それを取り除こうと注意深く手を加えている。
【答え】すでに加えられた程度の注意深い手つきなら、人が躓きを取り除くどころか、躓きの方が人を取り除いて追い出しかねない。ほんの一言か白衣一枚(85)を失うより前に、一人の魂が失われるだろう。
【抗議者】英国では典礼が偶像視されていると彼らは言う(86)。だが、それはアムステルダムでのことだ。(87)
【答え】だから、それがどこで偶像化されていようと、英国ではまさしく偶像礼拝化している。
【抗議者】多くの人がこれを毛嫌いしていると彼らは言う。そんな風に誤って教えた人にこそ恥辱あれ。
【答え】自分たちが本質的なことでないと告白しながら、まさにそのことで神の教会を悩ませて省みない連中にこそ、もっと恥辱あれ。真の愛は、小さなものが一人躓いても、悩み怒るものだ。誤って教えられたとお手前が言う多くのキリスト教徒について言えば、いくらあなたがそうでないと、くどくど弁じ立てても、神が彼らに教えて典礼と高位聖職制とを毛嫌いさせておられるのは、実に明白だ。神は、ご自分のすべての子供たちを教え給い、さらに、彼らの魂を痛め悩ませるあなたたちの手から救い出されると約束されている。一ダースの聖堂つき高位聖職者たちよりも、一人の平信徒の方に、より香り高い知識が見られることがよくある。わたしたちの読むところでは、われらの救い主の時代にも、一般の人々は彼を尊敬して偉大な預言者としたのに対し、長衣のラビたちや無敵無類の博士連中は、彼がベルゼバブの味方だ(88)という意見であった。
【抗議者】大衆が健全な教義を嫌うからといって、彼らに迎合してこれを捨てさせるのか。
【答え】またも同じことを言う。救いを与える教えと、非合法ではないまでも、一方的で話にならない典礼との間に必然的な類似があるかのように。こんなにいろいろとでたらめな類似をごちゃ混ぜにするのは、雑多で首尾一貫しない継ぎはぎだらけのミサ典書を弁護するつもりとしか考えられない。
【抗議者】なぜ他の諸教会もわたしたちと一致しないのか。あえて言うが、わが国の教会の方が、より気高い教会であったし今でもそうである。
【答え】おお、ラオデキアの人たちよ。(89)気高いだの優越しているだのと、いかにも肉的な空威張りである。お手前たちは、わが国の教会を、よりお高くはしたが気高くはしなかった。
【抗議者】ご質問の第二点は、(90)少し弱いようで、賢明なかたがたの筆先からでたものとはとても思えない。
【答え】実に剣術の下手な人だ。相手の弱さを突くそぶりも見せないのか。だが、ご自分の脇は空いたままだから、結果がどうなるかご用心。
【抗議者】兄弟たちよ、わが国の改革者たちが、典礼を創始した他のすべての人たちとなにか違った意図でもあったと思うのか。教役者たちの弱さを補おうなどというおもんぱかりなど少しもなかったのだ。
【答え】人の弱さをあげつらうのに急で、自分で巻きつけた首の縄には気がつかないのか。あなた自身が教会総会から引用したのをきれいに忘れたのか。これら典礼創始者たちの主な目的は、教役者たちの悪意、あるいは弱さ、すなわち、祈祷文に異端を交えようとする悪意か、無知や不注意で信仰に反することをつくったりしないように彼らの弱さを防ぐことにあると言っているのをお忘れか。かく も賢明な抗議者殿の筆先から、かくも弱さがもれようとは、こちらが驚くほどである。
【抗議者】彼らの主なねらいは、人々の信心を助けるためである。すなわち、前もって祈るべき事柄を知っておくことで・・・・・。
【答え】大きなお世話だ。まるで人々が祈るべき事柄を知らないかのように。公祈祷の項目を見れば、いつも変わりばえしないか、たいてい同じ様なものばかりである。
【抗議者】しかもその内容を包む言葉も、より周到で、それだけに要点を突いていて散漫でないように・・・・・。
【答え】言葉について言うなら、同じ題目についていろいろな表現があると、かえって散漫になると言うが、それ以上に、いつも同じ言葉でやるのは人々の注意をそらし眠気を誘うのではないか、その方が心配である。多様性が聴衆を刺激し目覚めさせるのは、音楽も修辞学も教えるところで、さまざまな和音や変奏曲を力強く弾くのがそのよい例である。定旋律をだらだらと弾いているだけではどんなに目覚めた注意力も鈍く麻痺してしまうものだ。
【抗議者】はっきり言って、この典礼はよいのか悪いのか。
【答え】悪い。アケロイアの角(91)みたいなあなたのジレンマをどんなにいじくってもどうにもならない。
【抗議者】もしも悪いのなら、使用するのは不当である。
【答え】おっしゃる通りだ。しかも、お見うけすると、あなたには、これを直す薬も無いようだ。
【抗議者】強制するのは誤っているとしても、それが人々にとって大したことだろうか。
【答え】かなり大したことである。人々はいろいろな所で司祭と同じ役割を担い、司祭と同じく自分たちの交読文の出だしや末尾を用いるのだから。
【抗議者】人々は定まった典礼を耳でも聞きたいし、心でも求めている。
【答え】人の耳や心のことで自分を欺いているのだ。人々はそんなものは求めていない。
【抗議者】同じ様な答えは『説教集』にも当てはまる。もしそれが全員に指定されていたならば、確かに・・・・・。
【答え】その答えは無学な者たちには通用するが、わたしたちには分かっている。ヘイワードが、彼自身もその一人だが、未熟な説教者のためだとして、『説教集』を朗読するよう指示されたと記している。(92)
【抗議者】こんな時には、こんな文書は捨ててしまうがいい。ばかさ加減ももう少しましなものがあるだろうから。
【答え】と言うより、この文書のここかしこに見られる通り、ばかさ加減もこれほどなのはちょっと無いから捨ててしまうがいい。
第三部
【抗議者】こうして典礼に関する彼らのいわれのない非難は消え失せたことになる。
【答え】スターブリッジ市場の魔訶不思議な男みたいに、エイツと一声かけてすり替えたつもりだろうが、しかし、どんなに巧みな手を使っても、典礼に向けられたわたしたちの正当な批判は消えたりしない。依然としてお手前を面と向かってにらみつけている。
【抗議者】確かに、もしもわたしが、そんなふうに決めつけたとしたら、(93)わたしとて、あつかましい不遜のゆえに唾をかけられても仕方あるまい。彼らの不遜な虚偽がまさしくこれに値するように。
【答え】どうやら、お手前は、胆汁の溜りすぎが爆発したようだ。だから、いくらか治まるまで、冷静な読者の方に向かうとしよう。見ていただきたい。抗議者殿は、兄弟たちに唾を吐きかける気で、必要とあれば街中の分秘液をみな一身にため込むつもりなのだ。彼は兄弟たちを不遜な虚偽のかどで訴えている。ところが彼らの犯罪はただ一つ、彼を、それほど論理的とは言えないまでも、意図だけは正直な人だとお人好しにも信じたことなのである。ところが、今分かったが、この男、論理学の原理の心得にひどく欠けているか、さもなければ、あいまいな詭弁で議会を故意に欺こうとの意図のもとに、文章中にぼかした言葉をはめ込んでおいて、後になってから勝手気ままにその解釈を割り振りしようとしているか、そのどちらかなのだ。わたしたちの前に一般命題を出しておきながら、これに勝手な限定をつけて骨抜きにしてしまう。なぜなら、抗議者殿はこう言うーー
【抗議者】主教制度は、弱い人たちか、党派的な人たちによって外部から非難を浴びている。
【答え】この命題、ばかげているか詭弁的か、どちらでもお好きなように証明して見せよう。このどちらかなのは間違いない。抗議者殿の後盾なるダウナム主教(94)にまたもやお伺いを立てて、ひとつ論理学の基本に基づいて先生と落ち着いて問答してみるがいい。この原理、「主教制度は、弱い人たちか党派的な人たちのどちらかによって非難を浴びている」という原理は、主教制度を不当だと外部(国外)で非難する人は、弱い人か党派的な人かのどちらかであると言うに等しいことを教えていただけるだろう。そして、この原理は、あらゆる個々の場合を含むこと、しかも、かような原理はすべて一般命題であること、最後に、どこか一部でも欠けるかはみだしている場合があれば、それは、不完全で偽りであるとお告げくださるだろう。それゆえ、もし主教制を難ずる人々に党派的と弱さの性質を付与するに当たり、お手前のやり方が不完全であったのが明白になれば、あなたは、文書を書き送った名誉ある議会をたぶらかそうとしたかどで罪に問われざるをえなくなる。もしも、自らの方法論のいたらなさを認めて、自分の誠実の方を立証したいのなら、不遜な虚偽だなどとかの人たちを非難することはできなくなる。彼らは、当然のこととして、あなたが、個々の場合を一般にかつ十全に含みえたのだと判断して、お手前の実際の技量以上にあなたを評価してくれたのだから。もっとも、あのようなたいそうな言葉、「外部で」(95)などとつけてあるから、だれでもなおさらそう受け取るだろうし、そこでまたもや、お手前の明白な偽りか、それとも明白な無知ということになる。
【抗議者】兄弟顔をしたこれら誹謗者たちよ、さあ、来い。
【答え】やるがよい、欺きのヨアブよ。(95)いつものやり方で兄弟と呼びかけて突き刺すがいい。兄弟と呼びながら突き刺して、あのヘロデ(97)と同じように、お手前もこう言われるがいい。お前の兄弟になるぐらいならお前の豚になる方がましだと。
【抗議者】それはわたしの考える「範囲」(98)の全く及ばなかったことである。
【答え】陰喩、それも二重の陰喩としてなら分かる。すなわち、お手前の「権限範囲」とか、お手前の考えにある「教区範囲」にはなかったと言うのなら。
【抗議者】兄弟たちよ、あなたがたに謙虚さと誠実がいくらかでも残っているのなら、「神よ憐れみを」と叫び給え。(99)
【答え】抗議者殿、あなたに論理学の基本か率直さが欠けているのなら、できるだけすみやかに両方とも学ばれよ。
【抗議者】「わたしの混乱」(100)についての彼らの声高でさかしらな批判も同様 の質(たち)のものだ。
【答え】それ以上その言葉は言わぬがいい。あなたが主教制の弁護を始めた時にそれを混乱させようと神がお手前の口に入れ給うて命とりになった言葉だから。
【抗議者】わたしは、依然として、またこれからも常に苦衷のうちにも確固として言うつもりだ。典礼と主教制をよく思わない者は、平和で正しい心根の英国国教会の子ではないと。
【答え】それこそが、先の頁で矛先をかわそうと自ら身にまとったあつかましい不遜というものでないのなら、その判断は議会に任せよ。典礼と主教制が望ましいかそうでないかは、議会自らが、目下検討中なのだ。
【抗議者】この点が、「主教制は使徒時代から生じた」が、わたしの悪名の一つに数えざるをえないと彼らは言う。(101)諸君、大いに弁じ立ててそれを吐き出してしまうがいい。わたしは、そんな言葉を、あなたがたの喉や歯にいつまでもひっかからせておきたくないのだから。
【答え】眼鏡をかけてご覧いただきたい。その言葉は、紙の上にひっかかって消えないのだ。それは、わたしたちが差しあげる胸の処方箋だったのだから、胸の奥までぐっと<飲み込んで>いただこう。
【抗議者】卑猥な機知というものは尻の動くままにふざけ回るものである。
【答え】まさしく、ランベスで(102)大主教のあばずれ猫の一人から得たお手前の思いつきに違いない。
【抗議者】主教制の形態については、もしも彼らがわたしの目でこれを見ることができれば、きっと自らの有害な誤謬を悟って恥じ入るだろう。(103)
【答え】この賢明なご宣託は、外科医に見ていただこう。リー氏とかいう方が、この間、安息日に関する論文を書いたが、その序文で、自分のやることに目がくらんだ一人の主教にバラムのろば(104)並みの知恵を付与したが、ここは、わが抗議者に今少し敬意を表して、彼をろばの主人になぞらえることにしよう。もっとも、話の方では、主人はその獣ほどにも目が利かなかったのだが。さて、議会に向かって、「もしも彼らが、わたしの目で見ることができたらさぞかし」などと言ったのは、このボエルの息子、目明きのバラムではないだろうか。自分の目を誇るのはおやめなさい。どうやら、あなたもバラムの病気に、金銭欲に目がかすむそこひ病というのにかかっておいでのようだ。
【抗議者】ああ、中国、日本、ペルー、ブラジル、ニューイングランド、ヴァージニアなど、今日にいたるまで、一人の主教さえ居ない所をいくらでもあげることができよう。
【答え】おお、どうかそのようにご自分の大義をおとしめたり、オーティリアス氏を(106)わずらわしたりなさらぬよう。少なくともコンスタンティヌス帝時代からこの方、主教たちがどこにおられたのか力をお貸ししてお教えしよう。『もう一方の同じ世界』(107)と呼ばれる所、広々として豊かな国々、クラピュリア、パンファゴニア、ユーロニアなどに、さらには、オージリアやバリアナの公爵領とか、ユーカレゴニアムの彼らの大都市などにいたのだ。お手前がたの第一級の伝承趣味連中が、これらの古来の由緒ある記念物から、主教制度を引き出そうとだれ一人思いつかなかったのは、ついうっかりしてのことであろう。マーキュリアス・ブリタニカス氏が、それらを思いのままに提出してくださるのはご存知だろうが。
第四部
【抗議者】今までは剣をやたらに振り回すだけだったから、今度はまともに打ってくるがいい。
【答え】さっきは市場で手品師に早変わりしたかと思うと今度は大名行列の奴さんだ。
【抗議者】まるで天文暦を論証しているように。(108)
【答え】それがほかならぬお手前の命運を予知して、あなたの長い夏至の後には秋分が訪れて、昔ながらの公正な天秤座へと連れていくと告げているのがお分かりだろう。
【抗議者】兄弟たちよ、あなたがたは、実に天頂の高さを十分に計ってはいないようだ。(109)
【答え】あなたが天頂高くいるのを快く思わず、その高みから落ちる方がいいと思う者が大勢いるのも驚くに当たらない。
【抗議者】「わたしは道である」と言われた方が、「古い道こそ善い道である」(110)と言われた。
【答え】古い路を尋ね、古いやり方を求めて、善い路がどこにあるのか、どれなのかを尋ねよと命じられたのだ。だから、古い路がすべて善いとは限らないわけで、善い路は、古い路の中から熱心に捜し求めなければならない。これこそ、わたしたちが、与えられている最も古い記録である福音書によって行なっていることである。さらに、これ以後の古文書を、(111)あなたがたと同様に時間をかけて吟味している者たちがいるとしても、それは、これら古代の文書に自らの根拠を置くためではない。これらの文書の間の脱落や不確かさや食い違いを明らかにし、かくも広大無辺な探求にありがちな誤謬や見落としを示すことによって、こういうものに強い確信を抱く者を納得させるのが難しいまでも、自由で気高い人たちをば、信頼に足るというよりは、ただ古いがために過大な畏敬を集めている教父たちから解き放とうと努めているのである。しきたりや俗論、薄弱な原理、それに健全ですぐれた知識をなおざりにしたために、世間は、これらの教父たちをあまりに高く祭りあげ、彼らに盲目的な尊敬を得させてきた。彼らの書いたものは、量においても数においてもきりがなく、手に負えないほどあり、なにか重大で確固とした教義を決定するに当たり、その規範なりよりどころを要すべき場合には、神であれ自然であれ、神の知恵なり人の知恵なりが、その目的のためにこんなものを意図されたとはとても思えない。なぜなら、確かに 、神が与えられた必要な知識を決める一切の規準とその手段は、人間の務めから離れて閉じこもることなく、生活の中で律し実践するように釣り合ったものであるべきで、このような決め手となる規準こそまさしく聖書なのである。だが、伝承を規準とする制度のもとでは、人は、その一部を読んだだけでもう選択に迷うばかりか、それは規準そのものとしても不十分で要求に答えてくれない。自分が読んだこともなく考えの違う著作家もほかにいるだろうし、かりにこれらの全部を手掛けようとしても、古代に書かれたものすべてにわたって、必要かつ充分な知識を得られるほどに人の寿命を延ばすことはできない。だから、格好だけはひどく恐そうに棒を振りあげていても降ろすこともしない、子供だましの弱虫泣かせで雀の糞にまみれた巨人の立像同様に、動きもせず命も通わぬこのコロサスを(112)崇めたり賞賛したりする必要がどこにあろう。台座の上にじっと立たせておけば、その見あげるばかりの巨大な丈と太い手足のみごとなつくりで人の目を楽しませることもあろうが、これをバラバラにして吟味などしようものなら台無しになろう。しかも、巨人の肩車に乗った小人よろしく、巨体を向け変えたり回そうなどとすれば、骨折り損のくたびれもうけならまだしも、お手前の頭上に倒れてきかねない。だから、さあ、お手前のありたけの巧みを生かして、大槌を振るい梃を動かし掛け具を用いて、その偉大なる「古き慣習」という名のポリフェムを(113)押したり引いたりやってみせては、初心者や未熟なキリスト教徒を欺くがいい。わたしたちは、真理を知るのに正しく充分な規準として、神が与え給うた聖書を固く守る。これは、あらゆる信仰深い人が、熱心に学び覚えて実践するのにふさわしくできていて、それぞれの部分が呼応しながら調和と均整の取れた完全な(114)教義を形成し、命じられたあらゆる善い業を行なうに足る十分な備えのできた完全な神の人(115)なり「主教」なりを示すことができるのである。しかも、この武器を用いれば、居ながらにして、わたしたちは、必ずネブカデネザルの偶像を(116)打ち倒して、夏の脱穀場の籾殻のように粉粉にできる。使徒の継承者たちによるというご自慢の黄金時代であろうと、コンスタンティヌス帝の銀の時代とやらも、鉄の時代も銅の時代も、これらに続く泥とわらでできた粘土の時代も(117)みな同様になろう。
【抗議者】彼らの中の厚顔無恥な連中に、主教制がかくも長くこの国で存続してきたことも、現代にいたるまでだれもこれを非難したことが無いのも否定させるがいい。
【答え】その臆面もない鉄面をすましてかぶっているのはお手前の方だ。「現代にいたるまでだれもこれを非難しなかった」とあなたは言う。わたしたちは、どんな面を下げてもそこまでは言えない。不遜か、さもなければ戯れ言、このスキュラとカリブデス(118)の間に自分の船をはまりこませた上は、どこなりと勝手に流されるがいい。
【抗議者】わたしが請うてもいないあの「補助的な力」については。(119)
【答え】あなたの抗議文は全部が請うてばかりである。それに、お仲間の高位聖職者たちも泣きべそをかかんばかりに議会に請うてエジプトの肉鍋を(120)ほしがっては、まるでルキアヌスの著作(121)にでてくるあっぱれな千卒長アフラニウスみたいに、いとしい高位聖職制の弔いに悲しげな哀悼を送っている。彼は、戦の後、倒れたセウエリアヌスを嘆こうと壇に登り、気高いペリクレース(122)よろしく弔辞を述べるうちに、もはや死者が二度と味あうことがないであろう珍味な夕食と酒宴を思う悲嘆の涙にくれて、弔辞が済むまでに、これの懐かしい思い出やら、痛ましくも食べ損なった雄鳥と白い肉汁のことをたっぷり嘆いたのである。
【抗議者】(わたしは)、自然の光と正道の規範に照らし、長い慣習と数多くの法律により必要かつ有益とされて確立していることを存続させるよう提唱したのだ。(123)
【答え】自然に優る導き手、恩寵の光に目を開くがいい。キリストとその使徒たちの飾らぬ姿に目をとめるがいい。彼には、お手前が、やっきになって借りようとしている自然の光だとか政策などの余計な力はなにも無い。「滅びゆくもののためにあくせくするな」(124)という神のご忠告を聞くがいい。あなたは地の塩だから、その味が抜けたのなら、外に投げ捨てられて足で踏まれる時がきても文句は言えないはずだ。(125)聖パウロが、テモテに宛てた手紙で、真の主教をどんなふうに描いているかを聞くがいい。「主教は」と彼は言う、「汚れた利得をむさぼってはならない。衣食があればそれで足れりとせよ。富もうとする者は(ここのところは特に主教たちを指して言っている)、人を破滅させ地獄に陥れる誘惑や罠やさまざまの愚劣で有害な欲望に陥る。金銭を愛することは、あらゆる悪の根で、これをむさぼるうちに信仰の道を誤った者たちがいる。」(126)だから、聖パウロが、あらゆる主教に、「神の人よ、これらのものに近寄るな」と勧めているのに、「これらのもの」をかくもしつこくねだる貪欲で名誉心の強い主教から、どうして健全な教義を期待し、われわれとの論争の解決を図ることができようか。正道とやらについては、長らく行なわれてきた慣習であり、あなたがたに利益をもたらした法律であるとおっしゃるが、それらは、分別のつかぬ王侯貴族たちの迷妄な信心以外のなにものでもないか、あるいは、卑劣な乞食坊主どもが、世を去るに当たり天国に入りたいと願うお先真っ暗な状態の者たちの死際につけこんで、会堂や修道院や尼僧院を建てるためにかすめ取る手段にほかならない。お手前がたの自慢する所有物も、罪深く浪費している財物も皆等しく、「浄罪」の黒い収益、虐待され殺された魂の値段、ミサ代わりのお布施、呪わしい聖職売買、赦されざる罪のための免罪などの代価にほかならないではないか。だから、お手前がたは、このような伝来の財物にまつわりつく呪いをも受け継がざるをえない。誤った導きを受けたわたしたちの先祖たちの魂にとり、いくらかでも救いとなり宥(なだ)めとなり赦免となる道があるとすれば、彼らが騙されて心ならずも与えた富を、わが国の高位聖職者たちから取りあげるほどよい方法はないであろう。この連中こそ、財物により功徳が得られると思いこませて、先祖たちをあの世へひょいひょいと放り込んで破滅にいたらせた輩の真の後継者なのだ。それだから、その有益な贈物を、キリスト教徒の教育の場所と施設に当てたり、神の収穫に携わる忠実な働き人たちに与えて、金持ちの子孫たちに、哀れな先祖たちが、貪欲でこの世的な高位聖職者たちのまやかしに乗せられて来てしまった所へは来ないようにと絶えず警告してもらうことである。
【抗議者】彼らの紙鉄砲による一斉攻撃などいつまでも耐えられるだろう。(127【答え】その点は教会総会で、角冒抜きで試していただくことにする。鉄砲がだめなら、ご自分の<砲典>がお手前に向けられることになろう。
【抗議者】彼らは、現代にいたるまで、わが国民の間で、主教制に非を唱えた者の名前を一人としてあげることができない。(128)
【答え】これはまた、なんという陳腐で薄弱な論法だ。昔ながらの欺瞞の最後の逃れ場だ。もうお手前の城が長持ちしない兆候歴然たるものとお見受けする。これこそ、ユダヤ教と偶像崇拝が、キリストとその弟子たちに対した時の言い逃れであり、法王主義が、宗教改革に対する時のものでもある。これが、より大きな光を受けるにいたっていない人の血肉からでた弱さなら、しばし容赦もできよう。肉的なものの見方が存続するためには、継承や慣習という外見に頼らざるをえない。これらは、人間の弱さと盲目のゆえに、手放すことができないまま続いているだけで、無理からぬところもある。しかしながら、古びた初心の教えなどとっくに脱ぎ捨てたはずのプロテスタントの国で、神のみ霊のさまざまな働きかけと、それに宗教改革以後八十年にわたり、わが国の荒野で神を怒らせてきたその後で、なおもこのような陳腐な原理を持ちだして、わたしたちをこの時代もろともに非難するなどは、それも、神がわたしたちの間に顕現して降り給い、著しい善きみ業をわが国の教会と国家に為してくださっているこのようなよき時代なのに、これはまるで、刷新と再生の神のみ霊に反逆し、さらに珍奇な思いつき、なにやら新しい代物で神を悩ませることである。まことに、お手前のご大層な伝承などにおかまいなく天より降る新しいエルサレムでも、この類いの非難を免れるのは難しかろう。これ以上の返答を要するというのなら、キリスト教徒として、ここはスキピオ(129)よりも寛大になり敬虔に語っても恥になるまい。護民官ペテリウスのくだらぬ非難には答えず彼は語った。「ローマ人たちよ」と、「今日この日に、わたしはハンニバルと首尾よく戦った。このような大勝利を与えられた神々に感謝しに出かけよう」。同様な態度で、わたしたちも、こんな非プロテスタント的な反論などに今更気をとられたり相手になったりせずに、こう言おうではないか。ブリテンの人たちよ、数百年にわたる法王の陳腐の後のこの時代に、神はご自分の教会を改革し給うた。この時代に、神は、高位聖職者どもの耐え難い軛(くびき)、その法王的な規範からわたしたちを自由にし給うた。この時代に、今なお残るこれら迷信のあらゆる残り滓に向けたわたしたちの抗議を息吹かせ給うた。三つの王国にまたがりこの抗議に加わる真実なブリテン人よ、出かけて行って天の恵みの源、光の父なる神と、そのみ子、主なるキリストに感謝を捧げようではないか。この文句言いとその追従者どもは彼らの企みに任せて、一刻の猶予もせず、数々のわたしたちの盲目と頑迷に向けられた神の忍耐と久しい寛容を今こそ想起しようではないか。お造りになった全人類に等しく近くいます神は、そのご恩恵と父のご加護を、どの地域のどの王国にも思いのままに向け給う身でありながら、ご自身の摂理によってこの島をば特に寛大な眼差しでご覧になられた。そして他のあらゆる国民に先立ちわたしたちを憐れみ給い、偶像礼拝の汚濁に転ぶご自分の教会をきよめ再生すると仰せられた。神は、先ず、癒しのために使者をわたしたちに遣わされ、わたしたちの腫れ物にそっとみ手を触れ、わたしたちの傷口を穏やかに包まれた。神は、わたしたちの父祖の時代に一度ならず二度三度と扉をたたき 、ウイクリフ(130)とその弟子たちが導き入れ広げた光により、わたしたちの重い瞼を開いて、つぶれかけた視力にこびりつく鱗を少しずつはがし、聞こえぬ耳をきよめて、第二の警告のラッパの音に耳を傾ける備えをさせ給うた。でなければ、やれ伝承だ慣習だ法典だ教会総会だ法律だとわめきたて、あまつさえ、真理をば、珍奇だ分裂だ邪宗だ冒涜だとやじり倒す人間の肉的な主義に戦いを挑み奇襲をかけ給う神のみ霊を、どうして父祖らが受け入れることができたろうか。それなのに、豊かな光を久しく浴びてきたこのわたしたちは、近隣の諸教会からも余光を受けているのに、これら旧来の考えを今だ心に吹きこまれ、肉的な議論に妨げられ麻痺させられているのだ。そんなものは、われらの父祖の時代には宗教改革の曙光でたちまち消散したのだ。神が今にいたるも血肉に立ち向かうそのみ業全体を終えておられないのに、もしもわたしたちがかっての父祖と同じく無知頑迷にとらわれて、かかる霊的な備えやきよめの後で、今もこの世の柵に足をとられ古いパン種に(131)ふくれていたとしたら、どうして天の呼びかけに応じたと言えるだろうか。朝早く、父祖の時代に溶けた霜が、正午になってわたしたちの時代にまたもや固く凍るなら、太陽ご自身も永久に姿を隠して恩知らずなこの国境からその輝く足取りを返して、この国を永遠の闇に定められたとしても当然ではないか。おお、永遠に生まれ給うたみ光よ、父の全きみ姿よ、執り成し給え。どうか、かかる恐るべき裁きがわれらに臨むことのないようあなたのご加護を確信させてください。あなたは、この悲しく苦しい時代を突き破り久しい圧制の後に思いがけぬ息吹きを与え給うた。あたたは、わたしたちに暴政を強いた者どもを正しく裁かれた。あなたが、善のみを敬い神の定めに基づく賞賛すべきもののみを思うよう教えられたにもかかわらず、ある人たちは、言葉巧みな欺きの舌先に乗せられて知恵の陰に過ぎぬものを賞賛するのです。あなたは、この国においてあらゆるよこしまな者たちの企みを露にし、その野望を砕き、あなたの教会の迫害者どもを恥じいらせ給うた。あなたは、すべての人々の目の前で偽預言者の偽りを暴露し、今あなたの幕屋を覆う目もくらむ降臨の雲の突然の輝きで、彼らを混乱させあわてふためかせられた。聖所の中で、黄金の燭台の間を縫ってまばゆく歩まれる方が(132)目に入らないとはなんたる者か。これらの燭台を手にしながら、そのまばゆい輝きよりもその金の方に気をとられていた圧制者どもにより、この明りは、わたしたちの間で久しく覆われてきた。彼らは、バラムの教義を教えて(133)あなたの僕の前に躓きを置き、偶像に捧げたものを食べるよう命じて姦淫を行わせている。それゆえ、七つの燭台を右手に持つ方よ、(134)いざ来たりて、古に定められた職務とそのやり方に準じて選ばれた祭司を任命してみ前に仕えせしめ、聖別された油を神聖なる永遠の燭台の灯に絶えず備え注がしめてください。あなたは、この意図によって国中の僕たちに祈りの霊を送り、み座の回りに大滝の響きのように(135)彼らの誓いの声をとどろかせ給うた。今やだれもが、確かに、口をそろえて言うことができる、あなたはこの国を訪れ給うた、この地の果ての片隅をもお見捨てにならなかったと。時あたかも人々は、あなたがわたしたちを離れて遠く天の果てへと昇られ、この終わりの時代の子らには、驚くべきみ業もなさらずに去られたと思っていましたのに。あなたの栄光あるみ働きを完全に成就してください。人はその仕事を未完に残すとも、あなたは神でいましその本性は完全であられる。エジプトよりかかる遠くまでわたしたちを連れ出しながら、己れの仕業とは言いながら荒野で滅ぼされるなら、あなたの大いなるみ名は、敵の喜びと、あなたの僕たちすべての果たされぬ望みのゆえにおとしめられるでしょう。あなたが、教会に平和を置き、王国に正義の裁きを行なわれるならば、その時、あなたの聖徒は、敵がわたしたちを、すんでのことで追いこもうとした紅海の岸辺に立ち、あなたに向かい一斉に喜びと勝利の凱歌をあげるでしょう。
(136)そして、今は急ぎのあまり素朴で飾らぬ感謝を捧げる者も、(次々とわたしたちのためになされている数多くの救いに鑑みて、これは一刻も早く捧げなければならない)その時は竪琴を手に取り、後の世までも歌い継がれる労作を捧げることができましょう。その日には、歳月も季節もあなたの足下を通り、命じられるがままに去来するのをよりよくわきまえて、あなたが、受肉以来のあらゆる時代に勝るさまざまな啓示の栄えをば、父祖の時代と同じく、受けるに足りないわたしたちにも、み霊の大いなる分け前としてみ心のままに授け給うのだと分かり、この時にいたるもしかじかのことが分からなかったのかと軽蔑されることもなくなりましょう。すべてを支配されるご意志にだれが逆らいえましょう。あなたの恵みは、不信の徒が愚かにも思い込むように、原始教会の時代とともに過ぎ去ったのではない。み国は今や間近く、あなたは戸口に立ち給う。おお、地のもろもろの王の王よ、その王室より出で来たり、さやかに見ゆる至高の王衣をまとい、
(137)全能の父より受け継いだ極みなき王権の笏を取り給わんことを。今やあなたを呼ぶ花嫁(138)の声は高く、万物は再生を求めて呻いています。
第五部
【抗議者】預言により、また、長老の按手により与えられた賜をあなたは軽んじてはならない。(139)
【答え】英語の訳では、ちゃんと冠詞がついていて、「特定の長老会」(140)と訳してあるのに、あなたはこれを抜かして歪めている。
【抗議者】カルヴァン氏自身も、ここを、人たちではなく職制を意味すると解しているのに、どうして、あなたがたは、そこまで強引に主張できるのか。
【答え】カルヴァン氏が、あなたのために解釈してくれたら、この論点はうまく片づいたと思うのか。まるで、カルヴァン氏の理由に納得がいかなくても、カルヴァン氏の名前さえだせば、わたしたちをうまく追い払うことができるみたいだ。「プレスピュテリオン」という語は、英語の「枢密院」という語のように、一つの職制にある複数の人たちを意味している。カルヴァン氏とともに生活して、彼の心を間違いなく知っているベザもそう解釈している。わたしたちの中のだれかが、「枢密院はこう決めた」と言いながら、それは一人の人の権威によるものと理解せよなどと押しつけたら、みんなは、彼を笑わないだろうか。だから、お手前が、ありったけの圧縮機をこの聖句にかけて、「長老」を一人の人の皮膚の中に四苦八苦して押し込んでみても、そんなものはお粗末なナンセンスにすぎない。もしもあなたの意図が、不適にも乱暴な語順転倒をやって聖句を置き換え、まるで「長老の賜を軽んじるな」とでも並んでいるように見せるつもりなら、それは、十重二十重の言葉の隊列の後から、身を屈めよと命じもしないで、頭越しに火縄銃をぶっぱなすような無茶な配列だ。あるいは「賜」という語を、ちょうどサリーにあるモール河(141)みたいに、長い行の下をくぐり再び現われ、構文上直接に「長老」にかけるのなら、これはもう、婆さんたちの話にでてくるなんとか言うイングランドの女王が、チャリングクロスで沈んでクィーンハイスで頭を出した(142)と言うのと同じくらい当てになる珍案だ。だがこれも驚くに当たるまい。どっちを向いても万事をがたがたに混乱させ、自分たちの支配を維持するためとあれば、思慮深く整然と並ぶパウロ自身の語順を撹乱することも辞さず、聖句の一部を変えて、乱暴にも「長老」という語の「手」を切り落とすか、さもなくば、聖職売買よろしく互いの間で「賜物」という語をくっつけるのだ。その上、もしもこの節をこのように置き換えて、「あなたがたの中にある長老の賜を軽んじるな」と読まねばならないのなら、聖職按手を「賜」と呼ぶのは不当であろう。法王方のやるようにこれを秘跡とするのならいざ知らず、ここはむしろ「按手式」のことで、外見的な証しによって認知するにすぎない。だが、高位聖職者たちは、聖パウロの言葉を一つずつ積みあげては、例によって自分たちの生業(なりわい)の場である主教区に忍びこもうとしているのは間違いない。
【抗議者】この点を納得するのに、聖パウロ自身の言葉をもってすれば、もう多言は要しないであろう。テモテ第二の手紙一章六節に、「わたしの手を置くことによりあなたに与えられた神の賜を燃えたたせなさい」とある。「わたしの」であって「ほかの人たちの」ではない。(143)
【答え】あなたは性急すぎる。この最後の所は、先の部分によって理解されなくてはならない。教授法で大切な働きをする方法論に従うなら、もっとも明確で率直な表現が最初に置かれて、後にくる曖昧な部分を照らすようにするのである。だから、聖書の教授でも、正しい方法が適用されない場合、そこにはなんの論拠もでてきようがない。論理学の法則を破った上(抗議者は、今まで見るところではこれを軽んじているようだ)、この方法論に背くならば、わたしたちは、既知の言葉に対して明らかに乱暴な誤解をやって、通例の意味合いに反して、集合体を単数の人に縛りつけてしまうことになる。だが、論理学(これぞまさしく理性)に導かれるなら、わたしたちは、後の所を先に述べられた所によって解し、「わたしの手を置く」を理解する。ある行為を主な人物によって表現し、これにほかの人たちを含める語法は、きわめて普通で自然な表現である。だから、この箇所が、聖パウロの手を置くとあってそれ以上の表現がでていないからと言って、先の聖句で確言されている長老たちとの共同の行為を除外することはできない。
【抗議者】(144)さし当たっては、兄弟がたよ、夜を徹してシモンとともに漁をしても
(145)なに一つ捕れなかったことでも考えてみるがいい。
【答え】わたしたちが使徒のシモンと漁をしてもなにも捕れないのなら、あなたがたが、シモン・マグスと(146)やったらなにが捕れるのか。彼の釣り針も漁具も、一式あなたがたに引き継がれているのだから。
第十三部 (147)
【抗議者】わたしは再度明言する。もしも主教たちが、テモテやテトスに委任されかつ要請された以上の、なにかほかの権限を主張しているのなら、わたしは彼らの簒奪(さんだつ)を認めると。(148)
【答え】一介の主教をテモテと比べることなどできない。テモテは、多くの預言によって教会に預言され約束されていた特別の人である。彼の名前は、聖パウロのほとんどの使徒書簡で、例えばピリピやその他の教会の主教たちに宛てた手紙の中でも、自分の名前と同等に並べられている。また、テモテが、特定の場所の主教であったことも、これを聖書によって証明することはできない。第一書簡の三節にある「なおエフェソに留まるようあなたに頼んだように」(149)という所も、これを主教区任命の論拠とするのは曲解もはなはだしく、ボルドー産の艶だし (150)ほどの値打もないばかりか、モドナ製の仮面(151)に塗るにも足りない。テモテについて聖書から読み取れるほどのことと言えば彼は使徒であったか、どの特定地の人にも拘束されない使徒の代理であったことである。(五節の言葉の意味するように)(152)テトスについても同様のことが言える。彼がクレテに残されたわけは、聖パウロが使徒職によって始めたことを補い整理するためであり、彼は、このために特別に委任されたのである。「わたしがあなたを任命した」とある通りである。だから、テトスがクレテで行なったのは、通常の職務を執行するというよりも、むしろ霊感された口を通じて指示を与えるためであった。コリントの信徒への手紙二八章二三節から読みとれることもこれに劣らない。
【抗議者】あなたがたは、さらに降って、アジアの七つの教会のみ使いにまで言及する。「み使い」は、ここでは集合的に解されていて、個人ではないとするのがあなたがたのやり口である。(153)
【答え】その言葉が集合的であるのは、黙示録の二章に明らかである。
第一に、テキスト自体がそう解している。み使いについていろいろと述べた後で、第七節では、「これら諸教会に語られた」と結んでいる。だから、み霊が集合的に結び、かつ一貫して同じ主旨を通すのなら(と言うのは、み霊が個々に分けている所は見当らない)、それなら、集合的に始めなければならない。でなければ、構文上も文法上も論理的でない。
第二に、「み使い」という語が個人を指すのなら、その場合、非難は、そのみ使い個人に帰せられる。ところが、その非難たるや、神が、その場所から燭台を取り除くと脅されるほどのものであり、(154)これは、真理の光を教会から取りあげるに等しい。だが、一人に主教の咎で神がそうなさるとは考えられない。それゆえ、これらの咎は、集合的に理解されねばならず、結果として、咎の主語も集合的である。
第三に、個人はこれをさらに細分することなどありえない。しかるに、「み使い」という語は、十節で分けられている。「あなたがたにふりかかることを恐れるな。見よ、悪魔は、あなたがたのいく人かを牢に投げ入れるだろう」と。これに類する箇所は、この章にも次の章にも認められる。それゆえ、これは、個人を指す語ではなく集合的である。
第四に、二四節で、「み使い」という語は複数の代名詞をとる。集合体でなければこの様なことはありえない。この接続辞を除去してあるテクラ写本(155)と言われるもの、および他の二、三の写本については、より広く受け入れられた読み方以上にこちらをとるわけにはいかない。主だった高位聖職者たちの改訂を経ている、お手前の母教会、英国国教会の訳に異論はなかろうと思う。それだけではなく、賞賛すべきテアテラの主教をも誹謗して、彼をイエゼベルの教えを奉ずる者たちに加えてしまうことになろう。(156)「彼のみが彼女を許している」とあるのだから。これに反して、あなたの慈愛に富むつながりを入れてもらい(よく口にされるご慈愛のゆえに、よもやこれを拒否なさるまいと思うので)「彼」を「み使い」の名の中に含めてもらえば、はっきりと主教の罪も晴れようというものである。さもないと、彼に嫌疑がかかることになる。
【抗議者】「あなたは、妻のイゼベルをそのなすがままにしている」ー彼女は、全体の妻であったのか、それとも一人の主教のものだったのか。(157)
【答え】疑いなく全体の妻ではない。もしもそうであったら、ギベアにいたレビの妻よりもひどかったことになる。(158)だが、違った読み方をすることもできる。お手前が踏みつけにした人たちに、よりによって英国のよき母殿も加わっておられて、ご一緒に「あのイゼベルとう女」(159)と読んでいる。たとえそこが「妻」であったとしても、その言葉を比喩的に解釈できるだろう。「イゼベル」というのが借り名なのは、だれも疑いえない。
【抗議者】だが、これが教区主教にとってどういう意味を持つのか。あらゆる点で大きな意味を持つ。(160)
【答え】よほど特別の承認がなければ、陪審員長をこんなにものぼせあがらせることはできまい。もしもわたしたちが、あなたに、ある団体での先輩格以上には権限を認めなかったら、その権限も、一年以上は認めなかったらどうなるのか、できればこの点から反論してみるがいい。「み使い」という肩書からそれができるとお思いとは、哀れ、お手前の翼が短すぎる。み使いの役目は、聖職按手でも裁治権でもなく、天よりのメッセージなる福音であって、これは、等しく奉仕者全体の務めなのである。バプテスマのヨハネも、この意味で「み使い」であった。(161)この言葉が人間を指す場合、ギリシア語では、「遣わされた者」の意味で、ここでそう訳しても天使の位階に背くことにはならない。ただ、この書全体が、予徴や寓喩によって預言的な高さにまで飛翔しているのである。この借り名の意図するところは、福音宣教を意味するにすぎず、しかも、この宣教は、ご奉仕全体に等しくかかわることが分かれば、ここから第五の証明が導きだされよう。すなわち、この「み使い」という借り名の意図するところが、集合的であり、同時に、その場所の宣教のご奉仕全体に適用されるのなら、それならば、その名前は、等しく集合的で共有的なものと受け取られねばならないことである。ところで、その借り名の意図するところ、すなわち、宣教および群れを監督する務めとは、等しく集合的であり共有的である。それゆえ、借り名自体も、等しく集合的でその場所の宣教のご奉仕全体に共有されると理解されるべきである。だから、もしお手前が、一人の人の優越をなおも主張するのなら、斧の頭が水中に落ちたのを嘆いて、(162)「ああ、ご主人様、あれは借り物でした」などという例えよりも、もう少しましな根拠づけをやらねばなるまい。もっとも、軽いあぶくを沈ませたように(163)鉄を泳がせる能力がおありなら話は別だが。
【抗議者】もしもこれが、聖職按手と裁治権でないのなら一体なになのか。(164)
【答え】なるほど、教会の形成と創立に当たっては、神の霊感を受けたいく人かの人たちが、任命し命令し運営する必要もなければなるまい。それだから、モーセも、自分は祭司でなくても、アロンとその子らを聖別し任命したのである。 (165)だが、使徒たちの書き記したものによって、必要な事柄がことごとく据えられ制定されているこの時に、単に聖職按手と裁治権だけのために、高位聖職者階級を教会が支持するのは実にばかげたことでないかどうか、この辺は少しばかり論じ合っても害にはなるまい。使徒たちは創立者である。いわば、キリスト教の教会の建築家であった、それでは、並みの牧者たちの上に立つ彼らの優越性はどこにあったのか。高位聖職者ならこう言うだろう。「それは、命令したり、規制したり、任命したり、主教や大主教たちを彼らの下に呼び寄せたり、自分たちの代行権を与えていろいろな国へ派遣したりすることにあったのだと。愚かな高位聖職者たちよ、断じてそうではない。それは、新しい建物の足場のようなもので、一時の間、高くそびえる胸壁に接近して、これを見おろすために置かれたにすぎない。もしも、建物が完成しているのに、だれかが通りがかりに、その足場を見て、これにほれこみ、独特の優美を添えかつ建物の補強になるから、いつまでもそこに置くようにとお祈りなどしようものなら、そんな男はさっそく捕まえて、友人か親族のもとへ送り届けるべきだとだれしも思うだろう。使徒たちの優越性とは、その力あふれる宣教と、み言葉に仕えるたゆまざる労苦と、もろもろの世俗的な尊敬など顧みず力強い炎となり、魂を救わんとの神の愛にもっとも近いと思われるまでに高く噴出するきよらかな願いと慈愛にあったのだ。これを行なうに当たって彼らは甘んじてこの世の塵芥(ちりあくた)とされ、自ら進んであらゆる困苦に身をさらし、堪え忍んで彼らの希望を全うし言い難い悦びに達したのである。聖職按手について言うなら、それは、単なる按手、承認の単なる外的なしるしであり、その象徴以外のなんであろう。それ自体なに一つつくりだしもしなければ授けもしない。(166)人を牧者たらしめるのは、彼の内面に働く神の召命であり、牧会の賜を培い向上せしめるのは、牧者自身のたゆまぬ勤勉努力なのである。初期の時代には、例えばアポロやその他の人のように、使徒たちの按手を受ける前から、教会で気高い奉仕をしていた人々が多数いた。(167)按手は、すでに備わった人を受け入れる形式的な手段にすぎず、特定の責務を委任するだけであって、宣教の仕事こそなによりも神聖で、はるかに優越している。魂を得るために払う心労と判断力も、立派な牧者たるものにことごとく備わる十分な資質と考えられ、これらは、聖職按手に当たって要求されることなどを超える能力である。こう言うのも、自分自身は牧者に向いていないと思う人でも、これに向いている人を見分ける者は結構いるかも知れないからである。ちょうど、自分は描くことができなくても、美しい絵や優雅な詩を見分ける資格を備えた人がいるのは否定し難いと同じである。それだから、なにゆえ、教会内に上位階級を設け、牧者ならだれでもするような仕事ばかりか牧者に認められた権限を行使するまでもないくだらぬ仕事までもこの連中にやらせなければならないのか、なにゆえ、このような優位をほしいままにさせておくのか、ここは一つ、どこかのエピメニデス殿に(168)お教え願いたい。さて、親愛なる高位聖職者たちの聖者殿よ、裁治権については、先ずこれがいかなるものかをお考えいただくのがよろしかろう。至高なる主ご自身、父なる神からみ霊の聖なる注ぎを受けて、わたしたちの魂の最高位の主教となられたのに、その権威を行使するに当たっては、謙遜にもこう言われた、だれがわたしをあなたたちの裁判人あるいは分配人に立てたのか」(169)。これは、教会人の裁治権とは、折りを得るも得ざるも自分の群れに注意を向け、優しく効果ある教訓をもってこれに接すべきことだと教えられたのである。穏やかな忠告や時には遠回しな非難の方法もあろう。怠慢や頑迷に対しては、牧会的な配慮から脅しの発破をかける必要もあろう。あくまで頑なな者や感覚的に堕落しきっていると思われる恐れのある場合は、礼拝差しやめを宣告して一時群れから彼らをば隔離し、彼らが野放図に咎められもせず接触を続けて、ほかの羊に害疫を吹き込むことのないようにしなければなるまい。これを要するに、彼の裁治権とは自らの植えたものを茂らせ繁栄させるよう見守ることである。高位聖職者たちが、教会の大法官や副主教、信徒代議員や役員、はては、どあつかましい法廷の呼び出し係とか法丁のならず者たちのためにこしらえたよけいな仕事などは、世俗の司法行政権に対する侵害にすぎず、反キリストのしるしと旗をも恥じない連中の勝手な仕業にすぎない。けれども、真に福音的な裁治や訓則とは、前にも述べたように、牧者が、自分の植えたものを茂らせ繁栄させるように見守ることにほかならない。では、この二つのうちどちらがより尊い仕事なのか。主教ともどもすべての牧者たちの等しく務めるべき仕事、すなわち植えることなのか。それとも、目先の利かぬ蒙昧な高位聖職者たちが裁治権と呼び、より高く威厳ある仕事だとして自分たちに当てはめたがる方、すなわち植えたものを世話する仕事なのか。こういうわけで少しくご辛抱願って、ある訴訟事件を聞いていただきたい。ある大地主が、立派な園を有していて、そこに正直で勤勉な僕を置き、その僕の技能と仕事ぶりとによってあらゆる有益な青物や喜ばしい花花が、季節に順じて植えられ蒔かれており、その他手入れのゆきとどいた草木や果実の栽培に必要なことがなされていた。さて、生け垣の枝を切り木を刈りこみ、柔らかい細枝を手入れし生育を妨げる雑草を抜く時節がくると、彼は、夜明けまでには起きて、園に要する仕事にたずさわるのを大事と心がけた。一日の仕事がいかになされるべきかを彼ほど心得た者がほかにあったろうか。にもかかわらずである、もう一人の見ず知らずの庭師がやってきて、土壌も知らず、溝切り機やスコップも手にしたことがないので、そこに育つ菜っぱ一つ満足に作つけできず、まして一時の汗にも寒さにも耐えられないくせに、花を一つ一つ包んだりほどいたり、潅木をすべて刈りこんだり、その園や辺りの園の床に除草や虫取りを自分の権限だと主張するのだ。日の出とともよに起き、今や日差しがやや強まるまで、畝や苗床で汗水たらして働いてきたその正直な庭師は、高飛車な声にいささか驚いて振り向く。彼は、その見ず知らずの者の申しでた手助けに感謝してしかるべきとは重々承知しながらも、やはり、自分の手ずからの仕事を愛するがゆえに、穏やかにお断りした上で、さらに加えて言うには、もしも今までの労苦を考えてくださるのなら、もう少しの間、同労者の一人であるわたしに仕事を委ねてくださってよいではありませんか。というのは、園の植えつけ作つけの方が、これをきれいに保つよりはるかに技能と労力を要するのは、だれでも知っていて、しかも、自分一人でこれらをすでにやったのだからと。いや、と見ず知らずの者が言う。ここはお前もお前の仲間も立ち入る場ではない。この仕事には、お前よりもずっと権威あるわたし一人がやるのだ。ここの地主が、わたしの仕事に払う給料は、当然ながらお前の十倍だ。先の庭師は、笑みを浮かべて頭を振った。だがこの判定がどうつけられたかは、この議会が(170)終わるまで申しあげられない。
【抗議者】やがて、聖杯も木造り司祭も木造りになった時には、あなたがたの自業自得である。(171)
【答え】お手前の司祭たちが、ただの木造りだったのなら、この国はまだ幸せであったろうに。英国中が知っている。彼らは、この島にとって、<木>ではなく苦がよも<木>であって、黙示録の反逆の星のように海の三分の一を汚染してしまったのを。(172)その苦みで多くの魂が死んだのを。「木造り」というのが、無学とか侮蔑を意味するのなら、この類いはお手前方に事欠くことはあるまい。怠慢や居酒屋通い、健全な文学をなおざりにする修道院的間抜けどもが、日増しにはびこるにつれて、そういう連中も日々増えているのだから。学問と知識の源と見なさるべき大学が、あなたがたの統制の下で毒され窒息させられたことを今さら述べる必要があろうか。「木造り」というのが下劣を意味するのなら、すべての改革された教会の中で、否、ローマ教会自体の内にさえ、これほど下劣な連中を、おべっかつかいの臨時雇いの司祭どもを見いだすことができようか。まことにイザヤによって神が宣告された通り、偽りを教える預言者は、その尾なのである。(173)若い神学生たちについて言えば、主教職と主教座聖堂参事会主席職の(174)申請権が、彼らの勉学の励ましになっていて、これなしには、地位のある人たちの多くは、息子に学問をやらせようとはしない。かかる金目当ての若造どもと聖職売買根性の父親どもは追い出すべし。神は、かくのごとき者たちを必要とはされない。ご自分のぶどう園に立ち入らせもしない。父親たちは、尼僧院に依頼して、お荷物になっている、しなびた娘の置き場所を都合してもらうがいい。どうせ、生まれ育った家柄の誇りと虚栄に見合うだけの持参金を持たせてやれないのだろうから。これが、わが国のあらゆる害悪の根である。勉学の奨励と称するこのことこそ、誇りと野心の餌なのだからただちに断つべきである。これこそ、国 中のあらゆる肉食鳥や禿鷹を誘いよせて教会をむさぼり食わせる<もつ>である。英国の教会が、我らの救い主を誘惑して悪魔に仕えさせようとしたのと同じ手口で、(175)すなわち栄誉と昇進を目の前に置くやり方で、神へのきよいご奉仕へと人を誘おうと考えるなどは、不幸としか言いようがないではないか。人には満ち足りた心でする敬神こそ最大の利得と教えながら、教える自分の敬神は世俗の利得のためにすぎなかったとは、さぞあっぱれな教授たちとお見受けする。異教の哲学者たちは、美徳はそれ自体で貴重であるから、師たる者の最大の得とは、魂を有徳たらしめることにあると考えた。クセノポーンは、ソクラテースについて、彼は人を教えるのに、決してその人たちと取引をしなかったと書いている。(176)ソクラテースは、かくも大きな益を自分から受けた者たちが、進んで自分にできるだけの謝礼をするのを怠るのではないかなどと心配しなかった。道徳的美徳とは、かくも愛すべく人を引きつけるもので、異教徒たちは、これを教えかつ学び、これに魅せられるあまり、世俗の利得や出世など一顧だにしないほどこれを蔑んでいたのである。しかるに、キリスト教的敬虔はかくもつまらなく不快で、キリスト信者は、これに飽き飽きしていて、役得と昇進のためのほかは、だれもこれを学んだり教えたりしないのだ。ああ、腐った敬虔よ!ああ、福音は、その主と同じほど安く見積られ、三十ペンス(177)でこれを売りものにする者から買わなくては学ぶに値しないとは。ああ、神の教えに無感覚になり、パンと腹ごしらえよりほかに能のないカペナウム族よ!(178)おそらく彼らは、敬虔は栄えても学問は廃れることがあるという意見なのだろう。そういう人たちにお尋ねしたい。一体い彼らは、だれの手からより低いもの、富や名誉、結構な食物、そうそうたる家を求めるのか。疑いなくただちにこう答えるだろう、それらはすべて神のみ手から求めると。では、これらの卑しい余計なものは神からきて、学問という神の賜はプルートの(179)穴からか、それともマモン(180)の洞窟からでもくると思うのか。広い学芸と高い知識の次元にまで広がる心を抱き、透明な感化を受けて育ったいかなる澄んだ精神も、そこえ達するまでには、金銭欲と野望を学業の報酬とするのを拒み、これらを唾棄すべきことと考えていたのである。こういうものを軽んじるこそ学問を学ぶ最大の名誉、最大の実りある修得であるのだから、金のことばかり瞑想していては、登る途も<広淵>な学識にあらずして<狭遠>なものに違いあるまい。どんなに博学でも、雇われ根性の聖職者ではわたしたちになんの益があろう。かかる者には真の知恵も恵みもない。それだから、人が彼の学問に頼ろうにも、頼りようがない。より低い、ほとんど技能的な芸術の場合でさえ、その道の著者によれば、賃金や請負料目当ての百姓根性を超える気高い心の者でなければ、完全な建築家、すぐれた画家、およえその類の名に値する人とは見なされない。まして、汚い金儲けを潔しとしない気持ちからほど遠い者などは、もっとも不完全な欠陥神学者であり、その神学全体も、主教座聖堂参事会職や主教座聖堂参事会主席職を望む野卑な乞食根性によって形成されていると思うべきである。その哀れにも程度の低い願望は、人を勉学に引きつける天的な意図と混じているとはいえ、そのような神学の劣情から生み出されるものは、太陽と泥という、二つの全く異なる生産体から生み出される爬虫類のように、(181)でき損ないの生き物に似たものとなるのは想像に難くない。しかも、宗教問題でもっとも我慢ならないのは、博士馬鹿と学識偽善者である。前者は、とりとめのない妄想の殻に閉じこもってばかりいるので、人の役に立ちようもないたわけた間抜けか、さもなければ、事細かなくだらぬ問題を世間にまき散らし、なんとか聴衆に近づこうと苦心惨憺、足の甲も濡らさぬ浅瀬に、眉までどっぷり浸かった気で、あっぷあっぷしている。自分に与えられた光によってよい生活を送る無学な市井の人の方が、ずっと善良かつ賢明であって、神を敬う幸いな生活へと人を導くことができる。後者の方は、絶えず詭弁術を弄して学を曲げ、その飽くことのない貪欲と野心の上に敬虔をよそおい、正統に見せかけるあやしげなまやかしの原理という上薬をつやつやとかけて、これを教義と称して糊塗するやり方で己の邪な目的を達しようとする。それゆえ、高位聖職者どもを廃するに当たっては、かかる連中が危惧している大害悪どころか、報酬という餌がなくなり、巧妙で危険きわまりない金儲け主義が羊の檻に近づくのが止むのなら、わたしたちにとってなんという安堵と幸いになるだろう。そうでもしなければ、信者の祈り全部を集めても、彼らが群れをむさぼるのをなかなか防ぎきれまい。これに対して、キリストの遣わされる真の牧者は、次のような特徴を帯びている。すなわち、生活さえできれば、教会で為す最大の労苦や働きに対してもなに一つ要求せず、するとしても、人間として必要なごく通常で当然なものしか供給を受けない。だから、今わたしたちがしているそのための心遣いは、神に任せるのが一番よい。神はすぐにも、刈入れ場に働き人を送ってくださる。彼らは、「与えよ、与えよ」(182)などと叫ばず、つつましい相応の分で満足する。また、神は、真の学問に欠けることも許し給わず、それによってわたしたちを真の恵みに溢れしめかつ従順ならしめてくださる。と言うのは、神がわたしたちに神を正しく知る道を与え、かつわたしたちの知識を、正しく定められた訓則により実践させてくださるのなら、なおさら、わたしたちの舌や学芸にも、あらゆる能力を与えてご栄光を現わし善へと導いてくださらないだろうか。神は、裕福な父親たちを動かしてその子供たちに高度な教育を授け、彼らを福音のご奉仕のために捧げしめるであろう。神は、貴族の子もご奉仕にあずからせ、王子さえもナジル人と(183)されるのである。神が人に与えられる天来の真理を伝える伝令となり使者となること、そして、聖なる教義を誠実に教えることで多数の誠実な人々を生み出して神にも似た創造の業をなし、自分にしてくださったように人々にも神のみ霊とみ姿を賦与して、救いにいたらしめること、これほど尊く、高揚せる偉大な精神をもって行なうに足る仕事があろうか。これほど、生まれもよく育ちも気高い人を要する仕事があろうか。こういう人は、どのような地域に赴いても、自分を遣わされたあの義の太陽のごとくに、癒しの翼をもって高く登り、聞く者の冷えた暗い心に新しい光をもたらし、暗がりの不毛の地に、救いを得させる知識と善き業という美味でかぐわしい泉を生ぜしめるのである。いったい、このような仕事にあずかる人が、開廷中の裁判や未決囚の審理で、おせっかいな発言をするために入廷許可が得られないからといって、これを不服に思い不名誉だと感じるだろうか。あるいは、喧声かまびすしい法廷に判事として座し、自白も改悛もしない罪人の魂ならぬ財布を軽くしてやることができないとか、「閣下」と呼んでもらえないからといって気落ちするだろうか。
(184)自分の務めを正しく果たすなら、王侯貴族からも、求めずして「神父」と呼ばれるではないか。あるいは、議会にでて投票するために上院議員の地位をやっきになって求めたりするだろうか。たとえ議員ではなくても、議会の師となり説得者となり、自由な立場で、知恵に富み健全な教えを与える賜は、だれにも奪われないのは分かるはずだ。あらゆる賢明な見地からして、人を善へ導く説得力の方が、法による脅しで人を抑えて悪から離すよりもさらに偉大で神聖なのである。それゆえ、キリストは、モーセをば律法の授与者となし、ご自身は、師としてわたしたちの間に来られたのである。その天来の知恵は、そのお務めにまことにふさわしく、彼の手に世俗の裁判権を置こうとした者らに対し、そのようなことのために上からの委託を受けたのではないと怒られ、これを拒否されたほどであった。(185) それゆえに、一口の餌ほしさに行き来する運搬役の獣みたいに、世俗の昇進という餌に釣られてひゅーひゅーと口笛で呼んでもらわねばならない不純な精神などは、このように気高い召命には無用であり、お断りする。召命は、それゆえ、その規範に従おうと志す者たちを見いだすことができる。召命は昇進を軽蔑するよう教えるのだから。そして、くだらぬ神父どもに、自らの貪欲の盛りの中で生んだ汚らしい落し種を、ひそかに自分たちのビール醸造の仕事に振り向けても、このために教会が意欲ある有能な人材を失うなどと思わせてはならない。むしろ、自分たちがこしらえたその肉塊に、どんな教訓を吹き込むかに注意するがいい。でないと、彼を、神に捧げると思いながら悪魔に料理して出すかも知れない。初心者には、先ずこの世を捨て、神に自分を明け渡すことを学ばせるがよい。明け渡すとは、あの『牧歌』の「五月の歌」にでてくる偽の羊飼いパリノード(186) みたいに、この世にもっと近づくためではない。詩人は、この羊飼いの姿を通して、わが国の高位聖職者たちを生き生きと描いている。その全生活は、牧者の誓約を取り消すことにある。世を捨てるというその職業が、彼らの手にかかると、だんだん世に深くはまり込むことになる。わたしたちの敬愛するスペンサーが、このような者たちを非難するのは、この改革の時代をいく分予知していたと言えなくもない。
その昔は、そして時がめぐれば再び
(先に生じたことはこれからもよくある)
しき゛ょう
羊飼いらになに一つ嗣業とてなく
土地も持たず給与も公認されず
(多少につけ)自分たちの飼う羊からの
あがりだけが頼みの時代があった。
その頃の羊飼いは確かにそうだった。
なにも持たずなに一つ失うことを恐れず
しき゛ょう
牧神自身が彼らの嗣業であった。
身を保つのに要るものもわずかで
羊飼いの神は巧みに彼らを導き
足りぬものとてなに一つなく
ニュウショウ
バターも十分、蜜もミルクも乳漿もあり
群れが紡いでくれるもので身を装った。
ところが、時の経過と長引く繁栄に
(片や悪徳の育て役、片や不遜の子守役)
安逸にまどろむ羊飼いらは
衷心からの服従に飽き足らず
あるものは圧制を求めて貪欲な口を開き
力ある権力者とぐるになり
身分を誇り国政を乱す者となった。
その時若い羊飼いらは高い位に目を奪われ
厳しい生活を捨てて安楽に身を横たえた。
するとやがて、羊飼いを装う狼どもが
欺瞞と悪巧みにふくれて忍びこみ
しばしば自分らの羊をむさぼり食い
群れを飼う羊飼いらも、しばしば食い物にされた。
これこそ羊飼いらの悲しみのそもそもの始まり
保釈金でも身代金でも、これから釈放されはしない。
以上のあらゆる点から推量できるのは、わが国の高位聖職者を覆う金銭をはぎ取っても、それは、司祭たちの「木製」ぶりを試すことで、心配無用だということである。さしあたりは、自分勝手な狭いひが目で、ベルギーやスイスの教会、それに、あのうらやむべきジュネーブ市の教会を(187)見損なう者が、一人としてあってはならない。キリスト教界で、これらの場所ほど、学問が栄えている所がどこにあるか。お手前のお気に入りのジェズイット派にも存在しない。あなたがた高位聖職者全部を含めても、お望みのどんな学問の分野を例にとってもそこにはない。キリスト教の教義に関するすべての尊い学問的分野が、英国においていかに今まで以上に栄えることであろう、学芸のあらゆる分野の有能な教授たちが、いかに正当な方法で豊かな給与を受けられることだろう、最後に、この教授たちに聞く者がいかに益されるような配慮がなされることだろう、もしも高位聖職者がことごとく居なくなるならば。そのやり方はいろいろあるし、かつ容易でもあるからここでは省略しよう。
第一四部〜一八部(1)
【抗議者】主教を立てるのは神であり、彼に管区を与えるのは国王である。このことについてなにが言いたいのか。(188)
【答え】さっそく言いたいことはこうだ。主教を任命するのは神であるが、彼に高位聖職者の教区を取らせるのは悪魔であると。国王が主教に授与する教区の世俗権承認は容認できるとしても、これをむさぼる主教の貪欲は断罪すべきである。【抗議者】ほか国の諸教会では、多くの高名な神学者たちが、わが国の制度を自分たちにもと熱望している。
【答え】当然だろう。彼らは、高名どころか超高名な神学者たちで、胃袋にかけては他の追従を許さぬ大ポンペイウス(189)そっくりなのだから。
【抗議者】あなたがたの耳には、あのバビロンでの歌が響いている。「倒せ。根こそぎ倒せ」(190)と。
【答え】取り違えておいでのようだ。それは、エドム人の歌である。だが、こう変えて、あなたも遣わされた身なら、み使いと一緒に叫ぶがいい。「倒れた。倒れた」と。(191)
【抗議者】だが、天にいます神こそ、その教会にかくも久しく伝わるご自身の聖職按手制の正しさを立証してくださると思う。
【答え】むしろ、お手前の「この世の神」のもとへ行って、彼が、お手前の教区権や世俗の霊的横暴ぶり、さらには、もろもろの利得の正しさを立証できるかご覧になることである。天にいます神の方は、すでに降り給うて、あなたがたのかくも久しい簒奪(さんだつ)に対して、神ご自身の聖職制の正しさを立証しておられる。
第一五部
【抗議者】あなたがたでも、まだ赤面することがあるのなら。(192)
【答え】この方が、先ほどのよりいっそうエドムらしい思いつきだから、同じ国から得た当意即妙な反撃で、これを黙らせるより仕方あるまい。あまりにしばしば陳腐な繰り返しをやると、読者も、やめろやめろ、もうたくさんだと叫びたくもなろう。人は、あなたが、エサウの赤い煮物をたらふく食べて、(193)それでいつも赤くなる夢を見ていると思うほどだ。それとも、書きながら空想をたくましくしようと、お手前がた博士の緋色のガウンを着て座ってばかりいると、目から赤さが染み通り、想像力にも感染し、赤くふくれて、絶えず「赤面」するような思いを生み出すのだろうか。「赤面」などと、一つ覚えの赤文字の(194)思いつきを用いて、本一冊全部を、すぐれた人たちを迫害するのに当てるとは!たとえ、このかたがたを容認はしないまでも、自分のためにお控えなさるがいい。でないと、ご自分の頭の回り具合いを乗せたせっかくの駿馬(しゅんめ)もへとへとになって、肝心の思いつきまで拍車のすり傷で赤くなってしまう。
第一六部
【抗議者】下位の者たちにまつわる醜聞は、あまり公にしたくなかったというのがわたしの願いであった。(195)
【答え】では、上位の大主教や主教たちはどうなのか。おお、ガテにてそれを言い触らすな、(196)そう言いたいのだろう。なんたるへぼな糊塗なのだ。それだから、イスラエルから不敬虔を取り除くことができないのだ。コンスタンティヌス帝なら、(197)もっと公正に、これら聖職者の隠せぬ咎を罰して、それを隠れたまま不問に付すことはなかっただろう。彼にとっては、異教徒の間で、自分の気まぐれな黙認や不公平が取りざたされるよりは、自分の公正が評判になる方が大切だったろう。こうすれば、神のみ名とその真理が、敵の間で汚されることも少なく、聖職制も改まる。それなのに、そうして見逃すから、日増しに悪くなるばかりである。だが、これをアシケロンの表通りで公にするなんて!(198)なるほど、近ごろ、さるピューリタンの植民都市が、トルコ人からアシケロンを取ったので、抗議者殿は、アシケロンが恐いらしい。法王側なら、きっと同情してくれるだろうし、コンスタンティノポリスも、お隣のモロッコも気にならないのに。次は、どこのアシケロンを口にするおつもりか。
【抗議者】われらをうかがうこれらの敵たち、敵対するこれらの監視者どもが、わたしたちの罪と恥にすかさずつけこんで嘲笑するのを思うと、それがいかに死の毒となることか。(199)
【答え】お手前は今こそ絡みつきだした神の逃れられぬ網の中で、ばたばたもがいているだけである。
【抗議者】英国国教会から今日でているかくも多くの卓越した学者、学識ある説教者、重々しく聖い非の打ちどころがない神学者を生み出す聖職制度は、キリスト教世界全体のどこにもない。
【答え】ワッハッハ!
【抗議者】それが、いく久しくこのように栄んことを。
【答え】おお、呪わしい呪文。それが、今日、高位聖職者らの間で盛んだからなのか。
【抗議者】だが、おお、ガテにはそのことを知らせるな。
【答え】むしろ、神聖なる議会よ、この者をして聖句の意味を曲げさせるな。異教徒の敵のもとにある教会の苦難について言われた言葉を歪め、高位聖職者のこれら明白な罪状を糊塗せしめるな。これらの罪から、冒涜が全土に広まったのだから。彼らは主の安息日に目を背けた。自分を養い群れを養わず、荒々しくむごく神の民を支配した。(200)彼らが羊を飼うのは、(聖ペテロの書に反して)
(201)、心から進んでやるのではなく、金目当てであり、群れの模範となるのではなく、神の嗣業を支配するためである。そのくせ、この糊塗師は、いつも安っぽい水しっくいでごまかそうとする。だが、神が預言者エゼキエルによって言われたことを聞くがいい。「水しっくいを塀に塗る者たちに言え。その塀は倒れると。大雨が注ぎ、大粒の雹が降り、大風がこれをずたずたにすると。そして、わたしは言う。塀ももはやなく、それを塗った者もいなくなると」(202)
【抗議者】わたしたち両者の、どちら側が、平和の神に向かって、自分の愛についてよりよく申し開きができるか訴えたい。(203)
【答え】お手前の愛は、仲間同士の違反者らに向けられていて、彼らの偽りの飼育で失われた無数の魂などそっちのけである。だから、愛の名を、馬鹿みたいに四六時中口にするな。また、神の平和な属性を逆用するな。
【抗議者】次の章では、育ちの悪い息子みたいに、あなたがたは、母なる英国国教会の顔に唾を吐きかけるのだ。
【答え】このような抗議者をどのような言葉であしらうべきだろう。たわけた浅薄な論法で主教の地位保全に汲々とするまやかしの神聖さのほかはなにも持ち合わせていないのだ。改革された普通の教会ならわたしたちは認めもし信じている。もしもだれかが、比喩や例えを用いて、聖パウロがかって呼んだように、教会をわたしたち全員の共通の母だと呼びたいのなら、(204)自分でも納得のいく修辞でやってもらいたい。それゆえ、もしも、わたしたちにどうしても母が必要であり、普遍の教会のみがそれであり、またそうあらねばならないとすれば、英国国教会をなんと呼べというのか。それでは、英国のプロテスタントには、一人の残らず二人の母がいるから、伝説に言うバッカスみたいにならないのか。(205)ここは一つ、ありたけの系図を出して教えてもらえないものか。だが、読者たちよ、これら高位聖職者らの巧みなねらいに用心なさるがいい。彼らは、迷信深く思いこみやすい未熟な者の心に、母への畏敬の念を深く刻みつけようとやっきになっている。そうやって、人々をたぶらかし、自分たちの命じるとおり思うとおりの盲目的な絶対服従へもっていくのだ。しかも、わたしたちが、その親愛なる母のもとへ、なにかのわけを尋ねようと来てみれば、彼女の霊的な姦通者ども、高位聖職者たちにがっちりと囲われていて姿も見せない。彼らは、このみごとに仕組まれたまやかし無言劇の代表であり代弁にすぎないとばかり、自分たちの言うことならなんでも信じなければ、死にいたる罪になると母が仰せになる、というわけである。それだから、わたしたちは、神の特別のみ恵みによって、男の大暴君なる 法王という偽親父(にせおやじ)の隷従を振り切ったのに、こういう悪賢い教師どもに用心おさおさ怠りなくしないと、今度は、女の側から、半島出の母の闇雲な概念に隷従させられ、自分たちが、従順な子だと思っている間に、彼らの霊的淫行から生まれた私生児かケンタウルスへと(206)落ちかねない。
【抗議者】谷の烏に用心するがいい。(207)
【答え】用心しなければならない烏とは、分別あるキリスト者たちみんなの目をつつき出そうとするお手前がたの方である。
【抗議者】兄弟たちよ、いい気で嘲っているがいい。(208)
【答え】ではいい気でいるとしよう。高位聖職者たちは、良心の炎に責められて、とてもいい気でおれないだろうから。
第一八部
【抗議者】むしろ、彼らは、耳を切りとられる危険をも犯さなかったかどうか云々。(209)
【答え】自由に生まれた多数のキリスト教徒の体を切り取ったり、これに烙印を押したりするのに手を貸すような大胆な共犯行為に報いる刑罰である。
【抗議者】神へのご奉仕を公然となおざりにしなかったかどうか云々。
【答え】アロンが、亜麻布の肩着を着けていたことは聞いているが、(210)そういう時代は過ぎ去った。福音の時代にいるお手前がたの司祭が、洗いたての法衣を着て、それで勤めが、きよまるかきれいになると思いこんでも、わたしたちは、彼を、白い上衣のティアナのアポロニオスか、(211)主教の身なりのイシスの
(212) 司祭ほどにも神聖だとは思わない。いずれも似たりよったりで、動きのとれない沼地の浮草(213)ほどのきよさである。
【抗議者】あなたがたの思いあがりと不従順を罰することこそ、なによりも法にかなう正しいことではないかどうか・・・・・。
【答え】お手前の言う、わたしたちの思いあがりと不従順を罰するかどうかは、あなたの牙の届くところではない。憐れみ深い上なる神と正当な議会とが、お手前がたの獣や残忍なニムロデ(214)どもから、わたしたちを助けてくださる。わたしたちは、それらと、いつでも恐れず立ち向かうつもりである。
【抗議者】神が、あなたがたに知恵を与えて真理を見させ、み恵によってこれに従わせてくださるように。(215)
【答え】聖霊に逆らわない者たちになら、同じことをわたしも願おう。と言うのは、逆らう者どもについては、神は、エレミヤに命じて言われた、「彼らのために祈ってはならない。彼らのために嘆き、祈ってはならない。また、わたしに、執り成しをしてはならない。わたしは、あなたの求めを聞かない」。(216)聖ヨハネも、彼らについて言っている、「彼らに神のご加護を祈る者は、彼らの悪事にあずかることになる」。(217)
後書き(218)
【抗議者】その大部分が、『サイオンの嘆願』(219)やら、史話を寄せ集めた『要覧』(220)などから借りてきた利いたふうな風刺。
【答え】同様な場合に、お手前がよくやる手口をちゃんと教えてくれたわけだ。言っておくが、その選集は、主教の蔵書などよりずっと信頼しうる筋の著作から得たものである。その上、著者の言うには、再び同様な事態が生じたら、『要覧』や史話の寄せ集めの助けを借りずとも、ちゃんと実例があるわけで、主教殿のように、お説教をだらだらと延ばすために、註釈やら通俗詩撰集に頼る必要はないとのことである。
【抗議者】彼らは主教たちであったとあなたがたは言う。確かに。だが、それは法王の主教たちのことなのだ。(221)
【答え】あなたがたが、彼らの教会法を借りて自分たちの裁治権となし、わたしたちを縛りつける以上、ソールズベリ式(222)とか、その他の修道院的遺物の古くさいがらくたを押しつけてくる以上、彼らの不当な買収物に頼って生活し、彼らの継承を誇り、彼らの歩みと不遜と肩書と貪欲と神の民への迫害の道を歩む以上、彼らの一切の咎が、あなたがたに帰せられ、彼らの不義が、あなたがたにかぶせられるのは全く正当である。
【抗議者】神学校や救貧院が建てられているのが目に入らないのか。(223)
【答え】そういう類の敬神ぶったトランプ賭博なら、法王と枢機卿たちの方が上手の賭博師だ。お手前を出し抜くいかさまで、まんまと天国へ先に入り込むだろう。
【抗議者】教会が再建されているのが目に入らないのか。
【答え】その通り、建てられるのは魂の徳より建物の方である。
【抗議者】博学な著作が書かれているのが目に入らないのか。
【答え】スパラットの極悪異端の主教も、(224)法王に対抗して博学な著書を書き、それが済むとローマへ走ったのだ。さあ、個室にこもって著作をやり、宗務法廷でそれらを取り消すがいい。著作には心を燃やす冷えた心の主教殿よ、法王に向かえば空威張りするくせに悪魔に向かえばリスみたいに縮み上がる。お手前の主教区には毒麦が蒔かれているのに、この敵に逆らう者はだれも居ないで、かえって裏口から彼を手引きする者ばかりである。まさに、ローマに向いてはあっばれな御意見番、国内ではくだらぬ謎文書だ。偽善者よ、貧しい者に福音を誠実に説き、荒れた教区を訪れて忠実にこれを養育し、ならず者をほうり出し、狼を羊の囲いから追い出す方が、百巻の論争文よりも、槍をかまえてまっしぐら、バロニウス(225)やベラルミーネ(226)の鋼の兜と火花を散らすよりも、法王とミサへのはるかにましな論駁(ろんばく)とはなったであろう。
【抗議者】迷いでた者たちが連れ戻されるのが。
【答え】連れ戻された者たちが迷い出る方が多い。
【抗議者】慈善施設が用意されているのが目に入らないのか。
【答え】どの主教の家でも、用意されるのは、酒盛り騒ぎ用の結構な蓄えと、それに愚弄、悪態も結構ある。
【抗議者】大罪を犯した者たちが罰せられるのが。
【答え】お手前がたの宗教裁判は、戦果赫々(せんかかくかく)たるものあり。
【抗議者】公のために職務が立派に果たされているのが。
【答え】然り。君主政治を暴政に帰せしめ、協定を破り、人々を国王に讒訴(ざんそ)する職務が立派に果たされている。
【抗議者】国教会の平和のための配慮が。
【答え】否。国の平和さえない。今や混乱状態に陥り、典礼問題で潰れそうな北部における二つの軍隊を見よ。(227)
【抗議者】熱意ある説教が。
【答え】説教などないに等しい。
【抗議者】聖なる生活態度が目に入らないのか。
【答え】入らない。
【抗議者】まことに兄弟たちよ、これ以上なにをか言おう。ただ、あなたがたの眼が悪いのだ。
【答え】これ以上なにも言うことがないのなら、お手前は、ご同族の姿を代表する(228)うってつけの見本である。
【抗議者】目をぬぐって、もっとよく見えるようにせよ。
【答え】わたしたちの明りを邪魔するその太った図体をぬぐい去るがいい。
【抗議者】然り、彼らの目を開いて、わたしたちの善をも見ることができるよう神に願う。
【答え】立派な高位聖職者でありたいのなら、祈りを控えるがいい。できないことを求めるな。
【抗議者】「主教が足をつっ込むと皆ダメになる」というあの諺は、くだらぬ見栄張りか、居酒屋にいるどこかのならず者に当てはめるがよかろう。
【答え】それなら諺が名指す者たちは、それ以上に当てはまるわけだ。
【抗議者】人々はきっと、「あなたがたの文書に主教が足をつっこんだ」と言うだろう。わたしの正しい論駁によってダメになったのだから。あなたがたの諺で言えば、「鍋の臭いがする」(229)のだ。
【答え】ダメになったとおっしゃるのか。まことにその通り、よい歌もへぼな歌い手でダメになる。あるいは、世に言う「神様が肉をくださっても、料理人の腕次第」というわけだ。その意味でなら、お手前の主教の足がその本をダメにして、
広間の臭いとまではいかなくても鍋の臭いはする。鍋と広間は、古ラテン語では同じであり、おそらく、庶民の英語でもそうであろう。お手前のこの文書に対する論駁など、なんの足しにもならないのは確かで、かすり傷も負わせていない。ただ、お手前の脚つき鍋のいやな味と、それよりも、就寝帽ならぬ靴下の臭気がぷんぷん鼻につくだけだ。主教殿は、どうやって足で文書を論駁なさるのか。どうやら頭がその太い足指まで落ちこんだ人でなければわたしを得心させることはできなかろう。ただし、そんな論駁は、さぞかし通風病みだろうと言われるだけである。主教の足はこれぐらいにしておく。
【抗議者】あなたがたは、わたしたちに向かって、「ボナー汁」(230)の話を持ちだすが、宴の終わりに樽ごと酒を振舞うのが、ある国々の習わしである。どうやら、これが、わがスメクティムニュアン流のやり口らしい。
【答え】聖壇のお勤めでのお手前がた流の終わり方を言っているらしい。だが、あわてぬように願いたい。宴は、始まったばかりだったし、お汁もお手前のものだった。この八〇年間、国中があなたのお汁のお招きにあずかってきて、わたしたちは、久しい間、心ならずも、お手前の奴隷にされてこれを給仕させられてきたのだ。一緒に出す牛肉もお手前の料理室に用意されているのは分かっている。さぞかし、今の議会が開かれないうちに古くなったことだろう。しかるべき時が来るまで食物倉に寝かせておくため、お手前の料理人になんと命じてあるのかは知らないが、そのため、せっかくのお椰揄(からかい)も味が抜けてしまった。お汁を出したのはほんの始まり、さあ、なぜお客をたぶらかすのか。それらりっぱな両翼と胸の肉が、お手前の突撃命令一下、お盆に乗って堂々と進軍してこないのはなぜか。察するに、お手前のおかげで事態を穏便に済ませた真の教会だとされる法王が、必要とあらば、イタリア産の肥えた雄牛をどっさり供給してくれるらしい。
【抗議者】博学にして高潔なムーリン博士が、(231)彼らに告げてくださる。(232)
【答え】ムーリンが、牧者たちの召命に関する巻で述べているのは、主教たちが、英国の教会の改革者であったればこそ彼らが存続しえた、ということである。この論法からすれば、お手前がたが、ご自分の聖堂に居座るのは根拠に乏しい。第一に、主教たちが、わが国の最初の改革者であるというのは誤りであろう。ウィクリフが、彼らより先にいたからで、その卓越した業績は忘れてはならない。その上に、この仕事に関しては、わが国の主教たちは、たかだか、司祭たちの跡からついて行ったにすぎないので、司教たちが主教になる前に改革を始めたのである。だが、ルターやその他の修道士たちが、それぞれの所で改革者であったからといって、それがどうなのか。それゆえ、修道士を存続させるべきだとでも言うのか。たとえ、ルターがそう教えたとしても否である。そして、最後に、ムーリンの論法は、あなたに真っ向から刃向かうものである。なぜなら、そこで言われているのは、主教たちが居残ったのは、彼らが教会の改革者であったというまさにそのことにほかならないのだから。それゆえ、同様の根拠によって、彼らは今や排除されるべきである。なぜなら、彼らこそ間違いなく教会の<改悪>者であり破壊者なのだから。こういうわけで、先には、お手前がたが、全面的に等閑視し軽蔑の振舞いを示してきたこれらの教会への態度を、今さら裏を返して美辞麗句でその皺をのばし、これらの教会を聖域にしてその中へ逃げこもうとしても、そうはおいそれといかないのがお分かりだろう。
【抗議者】わが国の主教のいく人かは、殉教の冠を受け、血をもって福音に署名した。
【答え】ご自分の主教制を支持するために、誇らしげに殉教者を持ちだすが、エウセビオスが、その著作五の一(233)で、ヒエラポリスのアポリナリオス(234)の言葉を引用してなんと述べているかを思いだしてもらいたい。殉教が尊ばれるのは、殉教者がそれを信じていたというだけで、ある立場を真理だと証明しようとする昔ながらの異端的な論証からでているにすぎないのを知るだろう。このやり方で、マルキオン派(235)やカタフィルギア派(236)が、自分たちの教派に多くの殉教者を数えることができるからといって、大胆にも、不敬虔な異端を敬虔な教えだと論じ立てたのである。ほかの点では論破されながら、この点が、いつも彼らの最後の強固な拠り所となった。
【抗議者】さしあたっては、あなたがたを謙虚ならしめるよう天の神に請うことにする。(237)
【答え】わたしたちも、同じ神が、これまでになく効き目のあるふさわしい仕方でお手前を低くし給い、その誤れる慈善ぶりと、これまでの歪曲せる有害な平穏主義とを減じてくださるよう乞い願うことにしよう。