ピューリタン革命前夜とミルトンの時系列事項(前篇)
1639年〜1640年
以下の年譜は、次の著作に基づくものである。Samuel R. Gardiner: History of England: From the Accession James I to the Outbreak of the Civil War;1603-1642. Vol.9(1639-1641).
 
■1639年
【3月】
・24日:CovenantersがエディンバラとDumbartonをすでに占拠していた。そして、この日に王党派の武器や火薬の倉庫であったDalkeithがEdinburghから来たCovenantersたちによって占拠された。王チャールズ一世はヨークへ向かっていたが、スコットランドでは、もはや王に対する忠誠を当てにすることはできなくなっていた。
・30日:王はヨークへ入ったが、スコットランドの王党派は頼ることができず、スコットランドを支配するのなら、イングランドの軍隊に頼らざるを得ない状態になっていた。
4月】
・4日:ヨークのチャールズ王は、自分の軍隊を養う戦費に困る状態であった。この日Aberdeenが陥落した。
・15日:スコットランド軍10000が、国境を越えてヨークへ進軍してくるという知らせ。しかし、イングランド軍の領主たちは、闘いに気が進まなかった。王が勝てば、イングランドでも絶対王権が確立するからである。しかし、王がスコットランドに譲歩するなら、それはイングランドにおいても譲歩を強いられることを意味していた。
・21日:イングランドでは、王に忠誠を誓うときが来た。SayeとBrookeの二人のピューリタン領主は、これを断わり自分の領地へ帰った。王にとっても国民にとっても、この闘いはbellum episcopale(主教のための闘い)であった。スコットランドでは、王に対する闘いはスコットランド国民のためであると鼓舞された。
【5月】
・8日:イングランド王の軍隊は食料、装備、戦意において欠けるところがあった。一方スコットランドの国民は高い戦意に支えられていた。王は、和平交渉と戦争との狭間で揺れていた(16)。
・14日:王は、スコットランドが「行政面で」王に従うのなら、侵入を中止すること、ただし、スコットランド軍も国境を越えてイングランドへ侵入しないこと、という宣言を出した。スコットランドの領主の一人Hamiltonは、この日、もしスコットランドが王のエディンバラ城を明け渡し、過去の罪を謝罪し、王の政治的支配を受けるなら、英国国教会制に対する不満をスコットランド議会で述べることが許されるという旨の指令を発した。彼は、1638年には「絶対的英国国教会制」を取り下げ、今1639年には「穏やかな英国国教会制」さえも取り下げることになった(17)。
・22日:王は、Hamiltonに彼の軍隊をつれてBorderへ来るよう命令した。 王は、訓練の行き届かない軍隊と共に、Berwickに踏みとどまる覚悟であった。しかし、Leslieの率いる4万のスコットランド軍に対して、王の軍はわずか1万5千であった。ところが、Hamiltonのほうは、その前にCovenanterのリーダーたちと会談をして、もしも、王の先日の宣言に従うなら、スコットランドの教会会議に対する王の否定的な態度を改め、合法的に選ばれたメンバーで構成されるなら、王は彼らに同意し、スコットランド議会を正式に認めてもよいとまで話していた(19)。 一方でHamiltonは、王に向かってスコットランド側の要求を受け入れるようにと説得し、スコットランドは、General Assemblyでの決定を認めなければ、和平に応じないと王に告げた。Hamiltonは、スコットランドが共和国になることも征服された王国になることも望んでいなかった。彼は、さしあたり、スコットランドの領主として、国家では君主制を、教会では長老制を望んでいた。
・25日:スコットランド側は、先の王の宣言に応じて、王が境界から兵を引くなら、彼らも10マイル撤退すると申し出た。
・28日:しかし王はBerwickへ進んだ。彼はそこから、Dunseへ兵を派遣した。
・30日:王はアイルランドの英軍に、1000名をスコットランドへ回すよう命じた。イングランド領主のWentworthは、アイルランドには軍隊が必要であり、仮に移動しても、10万のスコットランド人と戦うのかと反論した。だが、アイルランドから軍隊が来るかもしれないと敵に思わせることはできた。
【6月】
・3日:スコットランド軍はKelsoへ入った。王の軍隊1万8千の歩兵と3千の騎兵の戦費は莫大であった。その費用は、年額75万ポンドで、この費用を満たすだけの資金の調達は難しかった(25)。その資金の中には、王妃がカトリックから受けた1万ポンドもあった。王は軍隊をKelsoへ派遣した。Hollandは3000の兵を率いて向かった。しかし、スコットランドと対峙したときに、敵の軍勢を見て退却してきた。
・4日:王は、ロンドンへ1万ポンドの資金の調達を命じた。
・5日:スコットランド軍を指揮するLeslieはDunseへ進んだ。スコットランドの軍隊はよく訓練されていた。王の軍隊は、イングランドの横柄な主教たちのために戦うことに気が進まなかった。Wentworthは、王が兵力を増強できなければ、和平の素振りを見せることを提案した。これは王の方策にかなった。このまま兵を維持することが不可能なの明らかであったから。訓練され宗教的情熱を持つスコットランド軍と王が戦うのは無理であった(35)。しかし、スコットランド側も事態を察知していた。もしもスコットランドが境界を越えてイングランドへ侵入すれば、イングランドの正規軍と戦うことになるからである。
・7日:10万ポンドをイングランドから調達せよという王の命令は、ロンドンでは不評であった。彼らはそれは不可能であると答えた。枢密院の内部でさえ意見が分かれていた(39)。
・11日:Berwickで、イングランドとスコットランドとの6名ずつで会談が開かれたが、その場に王が乗り込んで、横柄な態度で弁舌をふるった。彼は、どちらの側も自分にその判断をゆだねるのが最善であると言った。問題の焦点は、the Assemblyの構成に関することであり、平信徒長老の投票についてであり、選挙の際のTableの圧力だと述べた。スコットランド側は、所詮教会会議にはスコットランドの国民がついていると知っていたが、これは言わなかった(38)。しかし、Dunseにスコットランド軍がいることは、スコットランド側から大きな圧力を与えることになった。今や、スコットランドは、王の意向にかかわらず、問題を決定することができる状況であった(39)。王の軍隊は戦費のために日々悪化していた。
・12日:Winebankは王に、当座の費用として2万ポンドをかき集めたが、ロンドン市からは返事がなかった。
・15日:王は事態を察知して、スコットランドの要求を呑むことで合意した。
・18日:王とスコットランドとの協定が成立した。これによって、スコットランドは、エディンバラ城を王の役人に明け渡し兵を引くこと、王は兵を引き、たとえ正式に認められていなくとも、グラスゴウ会議の結果を尊重して、教会のことはAssemblyによって決定され、行政のことはスコットランド議会とその法的な機関によって行なわれることを公に宣言することであった(41)。しかし、この協定では、スコットランド総会議の構成については何も決められていなかったし、総会の決定が王の意向と衝突するときはどのような処置によるのかも決められていなかった(43)。やがて、この協定の実行は、王の無思慮な行為によって、困難なことが暴露する(44)。イングランドでは、この和平協定が、イングランドの領主たちの働きかけによるものと受け止められ、王の戦費調達がその原因であることを知る者は少なかった(42)。
【7月】
・1日:エディンバラ城にHamiltonが入った。スコットランド総会議の布告が発布された。しかし王は、主教制が廃止されたわけではないという立場から、イングランドの主教たちの出席と発言を求めたために、スコットランド側から抗議の声が挙がった。王は、協定を実施することが彼の役割であり、スコットランド議会や会議を取り仕切ることではないことを理解していなかった(45)。
・6日:Hamiltonは王にスコットランドには主教は要らないとはっきり告げた。しかし、王は、自分の語った言葉を忘れたのか、自分のしたことが誤って伝えられていると信じ込んだ(45)。
・25日:王は自らエディンバラに姿を現わすことをあきらめた。しかし、Covenanterたちは、王が主教制の復活をねらっていると受け止めた(47)。この推定は必ずしも的外れではなかった。
・27日:王はイングランドの主教たちに、スコットランド教会会議に出席しないように命じ、スコットランドの教会会議は非合法であると明言されてはいないものの、それは「スコットランド教会」の約定に違反している。けれども、あえてスコットランドの主教制廃止に同意したと告げた(48)。
【8月】
・3日:イングランドのWilliam Loadは、その手紙の中で、この協定は君主制と相容れないことを指摘した(48)。
・4日:王の言動についてスコットランド側の文書がイングランドに出回っていることを知り、これを焼き捨てるよう命じた。王は隙があれば、また力を得られれば、自分が譲歩したものを再び回復しようと目論んでいた。スコットランドの指導者たちは、イングランドの主教の出席の代わりに王の代理人がスコットランドの議会 に出席することに危惧を感じていた(49)。
・17日:スコットランドでは、主教制についてのあらゆる儀式が一掃された(49)。しかし、主教制が「非合法」ではないことを強調する必要があった。スコットランドで非合法であれば、イングランドでも同様であろうから(50)。
・31日スコットランド議会が開かれ、憲法上の重大なことが問題となった。イングランドの主教の欠席により、14の王への票が失われた。Lords of the Articlesが存在し続ければ、それは王の手に委ねられ、法案の拒否権を持つからである。8名の領主が選ばれ、彼らが8名のCovenanterのbarons and country gentlemanを選び、8名をburgessから選んだ(51)。
【9月】
・22日:WentworthがIrelandから帰国して、王の重要な廷臣となった。王は個人的な感情や些末なことに執着しすぎる傾向があった。しかし、Wentworthのやり方にも欠陥が多かった。彼は、スコットランド教会の民主主義制度を批判することはできたが、それに代わり得る代案を何一つ示さなかった。彼は(アイルランドと同様に)スコットランドにあまり関心がなく、これを鎮圧することだけを考えていた。これは彼のアイルランド植民地でのやり方でもある(73)。彼の視点からは、スコットランドの狂気と思える反逆を見れば、イングランドの国民はだれでも王の鞭となって戦うべきだということであった。
【10月】
・1日:王は、スコットランドでの主教制の廃止を認めるが、主教制の憲法上の規定を廃棄することは認めないと通告した。スコットランドではMontoroseのライバルはArgyleであった。Argyleは、長老派の勝利が、中産階級の力によるという政治的な意味を見抜いていた(53)。彼の方策によって、Lords of the Articlesのメンバーは、24人とも王のではなくスコットランド議会の代表となった(54)。主教制はスコットランド教会(Kirk)内では非合法となり、主教たちのスコットランド議会での投票権も奪われた(54)。スコットランドの権力機構は、イングランド王からスコットランド議会へ移った。
・31日:王はスコットランド教会だけでなく、スコットランドの行政権もスコットランド議会に移ることに対抗しようとした。彼はスコットランド議会を3月まで引き延ばすようTraquairに命じた。しかし、11月14日までの延期しか認められなかった。スコットランドからDunfermlineとLoundounが王の下へ派遣された。
【11月】
・7日:スコットランド議会法を王に認めさせるために、スコットランド議会はDunfermlineとLoudounとをロンドンへ派遣(73、73)。スコットランド問題を扱う委員会において、Wentworthが指導的な役割を務めた(74)。委員会は、Loudounが協定に関して偽りの情報を流したかどで刑務所へ送るべきであると進言した。王はこれに従わなかったが、王は、スコットランド議会を独立した団体とは認めず、代表は追い返されることになった。
・8日:委員会は、さらにスコットランド議会を6月まで延長するよう指示した。スコットランド議会はこれを認めたが、これらのことがスコットランド人の反感をかう(74)。 Wentworthは、断固とした処置で、スコットランドをイングランドの支配下におこうとした(75)。
・10日:イングランドのShip Moneyが、減額されたものではなく、本来の額で徴収されることが決定されたが、船舶税だけでは、スコットランドの征服には不十分であった。
・27日:スコットランドから戻ったTraquairが、スコットランドの不服従を長々と報告した。8名委員会は、商品税の導入を考慮した。Wentworthは、(愚かにも)イングランド議会のみがこれの対処に当たるべきであると主張した(76)。
【12月】
・5日:スコットランド問題が、イングランド枢密院に移された。Traquairは、スコットランドの反逆についてその暗黒面をのべた。Wentworthは、スコットランドの議会を心に留めるのなら、ウェストミンスターの議会を(さらに)心に留めるべきであると主張した。財政問題では、4月にイングランド議会を招集することが決まった。Wentworthを始め、各委員のメンバーが2万、1万と王に融資を行ない、15万ポンドとさらにクリスマスまでにさらに5万ポンドが集まった。これは単なる財政問題ではなかったからである(77)。イングランドではスコットランド出兵の議論がたかまった(75)。しかし、兵を募るのはスコットランド向けではなく、イングランド議会への圧力でないかと疑われる。この段階では、王も議会自身もイングランド議会の持つ力を過小評価していた(78)。王やLaudたちは、アイルランド議会の反対を押し切ったようにして、ウェストミンスターの議会の反対も押し切ることができると読んでいたのである(83)。
 17世紀のイングランドでは、議会が開かれていないときには、郡毎に別れた民であった。政治面で中央に反抗する連帯が難しかっただけでなく、教会面でも教会制度に反抗するのは難しかった(79)。当時の典礼に対しては、祈祷書をニューイングランドやジュネーブの様式に変えようとする人たちが大勢いた。それよりも多くの人が、祈祷書を「手直し」することを望んでいた。他の者たちは、祈祷書は変えずに赤文字の解釈に幅を持たせて、聖餐のテーブルが中央にあった時代の解釈に戻ることを望んでいた。これらすべての背景として、特にジェントリの間では、聖職者の政治介入に対する反発があった。しかし、王もLaudもこのような実態に気づいていなかった。(79)。教会の形式には、細かな規則があり、それがジェントリの反感を誘った(81)。特にこの年の8月頃から、分離派やアナバプティストたちなどの少数派グループが活躍を始めた(80-82)。
  王がスコットランドへの出兵のために議会の承認を得ようとしている一方で、王妃は、そのことによって、イングランド議会がカトリックへの迫害を強めるのではないかと恐れていた(87)。実際の宮廷の雰囲気では、宗教的にはカトリックに対してそれほど敵対的ではなかった。カトリックの大使は、彼らが熱心なカトリックのような話し方をすると驚いたほどであった(87)。しかし、カトリックの領主たちは、the Act of Allegianceによって、上院の議席から締め出されていた(88)。
 
■1640年
【1月】
・10日:スコットランドへ軍隊を派遣するために、イングランド戦争委員会は2万3千の兵を募る計画を立てた。
【2月】
・チャールズは、スコットランド側がフランスと連絡を取っている手紙を入手し、これによって、彼は、スコットランド側の宗教問題は、政治的反逆の隠れ蓑にすぎないと判断した(92)。
・7日:チャールズの長男と長女が、スペイン王の娘と息子と結婚するという話があった。Hoptonはしかし、失敗の場合は戦争になりかねないとチャールズに助言した。それよりも、相互に危険が生じた場合には、助け合うという協定の方がよいというのがHoptonの意見であった。
・24日:3万の歩兵が徴集される手はずができた。
3月】
・チャールズとスコットランドの使節との会談が行なわれたが、チャールズは、会議を開催したり解散させたりするのは、主権者の権限であると述べて、彼らの意向に否定的な態度を示した。これによってスコットランド側は、チャールズが主教制を復活させようと意図していると受け止めた。
・16日:Strafford伯爵 (YorkのWentworth)が、アイルランドからロンドンへ来た。
・18日彼はアイルランドへ戻り、スコットランドが優勢になる前に、チャールズを援助するようアイルランド議会へ要請した。27万ポンドの援助を取り付けた(95)。
・24日:9000のアイルランド軍がチャールズの援助として約束された(96)。
【4月】
・13日:ロンドンで短期議会が開かれた。上院でも下院同様に主教の出席が拒否された。Pymは、イングランド議会の権力は、人間の人体における魂の理性的な能力にあたると演説(107)。ここに、ピューリタン革命の理念が徐々に明確になる。しかし、この段階では議会の反応は鈍かった(101)。宗教に関しては、29年当時に比べると、カトリックからの脅威論は後退していた(103)。チャールズのほうは、すでに長期議会を予測していた。彼の廷臣たちには、場合によっては軍隊を動かすことも考えられていた(96)。すでにカトリック系の将校が任用され、一方ピューリタンは巧みに排除されていた。チャールズは、スコットランドがフランスと手を結んでいるからには、イングランド下院の支持も可能であると読んでいた(97)。彼は、フランスへの手紙の署名者の一人であり、ロンドンへ使節としてきていたLoudounを拘束して、ロンドン塔に監禁した(97)。チャールズは、ロンドン市民から8%の利子で10万ポンドを借り受けようとしたが、市民はこれに応じなかった。
・14日:Loudounの尋問が行なわれたが、彼は自分はフランス語を知らないと言い張った。
・16日:密書が議会で読み上げられたが、あまり反応はなかった。イングランド議会は、チャールズの船舶税の件を重視していた。下院では、Grimstonが、スコットランドの侵入は危ないが、国王からロンドン市民への危険はもっと身近なところにあると主張した(99ー100)。これに続く発言にも、チャールズの政府への積極的な支持は出なかった。一方上院では思いがけない事態が生じていた。上院の会議の終わりに、Laudが、明日はイングランド国教会の教会総会の日であるから、主教たちが出席できないため、上院の議会を閉会にすることを提案した。すると、Sayeが異議を唱えて、上院の議事進行のために主教の出席は必要でないと言い出した。Laudは、閉会するのは主教の権利からではなく、礼儀からであると謙虚に申し出た。Finchが大主教を支持して、大主教の健康上の理由で、出席できないという理由で閉会することに決定した。下院で上院が不評であるのと同様に、上院では主教が不評であることが明白となった(101)。
・17日:Pymが、下院では異例な長さで、2時間に亘り演説した。Pymの激しい徹底した演説は、かえって反感を呼ぶのではないかと恐れる向きもあったが、結果は反対で、「いい演説だ!」の声が高かった。スコットランドや下院の要求を認めることは、チャールズの力を弱めるどころか強めると主張するのはまだしも容易であった。しかし、事態が王の考えと完全に反対の方向に向かっていることを、暴力や狂信を警戒している人たちに説得力を持って語るのは容易でなかった。「イングランド議会と政体との関係は、魂の理性的機能と人間との関係に等しい」というのが、Pymの基本的な考え方であった。政治であれ教会であれ、問題は王とスコットランドとの間の争いである。エディンバラの議会に要求するための増税をウェストミンスターの議会に譲歩させて得たとして、それが王にとって何の役に立つのか。だから、Pymの演説は、チャールズではなく国民に宛てたものであった(102)。彼は、自分の主張は、王の権限を縮小することではなく、ただ、議会の権利を確定することだと主張した(104)。税と軍役への要請が増大していると。枢密院も星室庁も、王の独占を保護するのみであった。聖職者たちも、Pymが法の規定を越えた行為を弁護していると批判した。
 イングランドの教会に関するPymの論拠は、政治のそれに比べるとやや薄弱である。宗教の自由という教会制度の問題が解決するまでは、教会の基本法を恒久的に解決することはできない。しかし、Pymにもそのほかの議員にも、この問題の解決は不可能なことであった(ミルトンはまさにこの点を考えた)。ただ、Laudとその一味のやり方が、あまりにまずかったために、議員たちは、彼らが教会と国家の敵であるという認識へ傾いたのである。1629年には、ほとんどカルヴィニズムをそのまま教会制度に採り入れることも考慮された。1640年では、Pymは、カトリックと自分たちの主な相違については軽く触れるにとどまった。彼は、法王の主張するようなさまざまな儀式的な考案を批判した。祭壇、像、十字架、礼、その他の儀礼にこだわる些細なことが、分裂を産み出す原因となっていたのである(103)。こうした不必要な規定が宗教的良心を束縛しているというのがPymの主張であった。Pymの主張は、その後の長期議会の成り行きを決定づけるものであった。彼は、王を議会に喚問するなどという手段に訴えなかった。より穏やかな路線で議会全体の賛同を得たのである。両院ともに、Pymの主張を受け入れた。
・18日:上院での聖職者と平信徒領主、下院のこの三つの階層の分裂が見られたのは初めてであった。
・21日:上院の姿勢はより強固になった。Hallは、Laudの示唆によって出版した『神授権に基づく主教制』において、Sayeのことを「スコットランド契約派の臭いがする」と呼んだのである。Hallは上院に喚問されて、「もし私が悪かったのなら」と言った。「もしではない」という叫びが起こり、彼は謝罪を余儀なくされた(107)。船舶税に関しては、すでに上院でも、1629年の特権に背くという申請が王に出されることが検討されていた。ところが、Finchは、王を支持して、もし上院が何か別の方策を考えるのであれば、王はこれを受け入れる意向があると述べた。彼はアイルランド議会の例を引いて、王は、たとえ下院がその義務に背くときでも、上院は王と共にあるだろうと思っていると述べた。
・22日:Laudの要請により、イングランド教会会議で、聖職者からの6種類の臨時増税を決定した。通常この決定は、議会の確認を経て徴収されるのであるが、下院は教会会議のこの迅速な処置を快く思わなかった。
・23日:上院は、Laudのメッセージを受けたが、好意的な反応を示さなかった。王はこれに怒り、枢密院を開いた。Straffordがアイルランドから帰還していた。彼は、下院が不満を上院に伝える以前に、王が上院に行って、王の案件を下院の案件より先に検討すべきだと進言した。
・24日:王は、Straffordの意見を入れて、上院で、いかに必要が差し迫っているかを訴えた。上院は、主教のことでは気乗りしなかったが、王に対しては伝統的に寛大で、86の内で61が王の補助を下院の不服より先に検討することになった。下院よりも上院を重視するStraffordのこのやり方は、王にも上院にも結果として益にならなかった。彼は、人数の多数よりも、いざとなったら軍隊を動かすことを考えたいたからである。(109)。もし下院が主張すれば、軍隊による弾圧と上院の優越性を主張するだけであると考えていた。国事においては、法に準じるよりも、自己の全力を投入すべき時があるのだと(110)。こういうStraffordの所信は、王と王妃の彼への信頼を絶大なものにした。
・27日:下院では、スコットランド問題と切り離して王の増税を認めることさえ検討された(110)。しかし、これは不可能であった。
・29日:下院の影響を受けたのか、上院でも、王の側に着く者の数が減少した。枢密院と主教たちのある者たちは、心ならずも王に味方した(111)。
【5月】
・1日:下院で分裂が始まった。王は議会の助けなしに立法権を持つと主張する者もいた(111)。内戦での最初の流血がエディンバラで起こった(112)。このことが意味することは大きい。終始スコットランドとの関係がイングランド内戦の引き金になっているからである。
・2日:Straffordは上院で、王の要請を断われば議会は解散になると言った。しかし、王が恣意的に税を徴収することに対する反発は強かった(112)。
・3日:Straffordはチャールズに譲歩するよう勧告。王もいったんはこれに従うかに見えた。しかし、Vaneが王に強硬な処置を勧告したらしい。
・4日:王は議会で、海軍の船舶税の代わりに12項目の増税を強行に要請。議会は、Straffordが見通したとおり、6項目までしか認めようとしなかった。さらに陸軍の軍事税そのものさえ反対が出るようになった(115)。チャールズにとって、これのほうが、船舶よりもはるかに重大であった。ついに下院は、スコットランドの使節と連絡を取り、下院で彼らの宣言を読んでほしいと要請した。この要求は7日に行なうことになった。こうして、チャールズにスコットランドとの和解勧告案が出される可能性が出てきた(116)。 王は直ちに枢密院を開き、この和解案への干渉を図った。
・5日:枢密院の勧告に従って、王は上院の解散を命じた(117)。この議会は、王に対する不満が爆発した議会として、長期議会に劣らない重要な意味をもっていた。王は、議会が戦争に同意するのでなければ、解散は避けられないと見ていた。ここに、王と国民との基本的な関係の変化が生じた(118)。一方枢密院で王は、議会の解散後、9名のスコットランド委員会を開いた。
◎Straffordは、王が譲歩するならば、イングランドの制度そのものが崩壊するという危機を感じた。彼はイギリスの議会がスコットランドの議会と同じ権利を主張しているのを見抜いた。彼には、議会制度そのものが見えず、その欠点ばかりが目に付いていた。したがって、18世紀の内閣政治ではなく、16世紀の王権へと戻り、自分たちの先祖のやり方を踏襲することに固執した。彼は、王に、スコットランドに対して強硬姿勢で臨むべきこと、断固とした作戦で打撃を与えるなら、スコットランドは5ヶ月は持たないだろうと考えた。
◎Vaneは、スコットランドの侵入を防止することのみを考えていた。
◎Northamberlandは、物事を鋭く見抜くほうではなかったが、下院の支持なしに戦争に入ることが危険であることを察知していた。
◎LaudとCottingtonは、Straffordの激しい意見に合流した。
 ここで、アイルランド軍をイングランドに雇い入れるという案が、具体的に検討されたかどうか、あるいは、この事が、後に追求されたように、Straffordの口から出たかどうかについては証拠がない。しかし、これは、アメリカ独立戦争で、インディアンの軍隊を(アメリカ軍として)入れると同じほど、イギリス国民の気持ちを逆なでするものであった。ただ、委員会でそういう意見が出たとしてもおかしくない雰囲気であった(123ー26)。短期議会解散以後、Straffordは、弾圧の手先として憎まれるようになり、StraffordとPymの二人が、専制と議会の代表と見なされるようになっていった(129)。当局によって、上院を初めとして、王の要求に応じなかった議員たちへの追求が始まった。
・7日: 王は、ロンドン市長に、2万ポンドを要求した。さらに市民から3万ポンドの借り入れのリストを要請。Straffordは、スペイン大使と連絡を取る。
・9日:議会が解散された後でも、教会会議は続いていた。これは違法の疑いがあったが、教会側からの献金として増税が認められた(143)。これと同時に、教会はエリザベス女王体制にならって、宗教体制を強化しようとするものでもあった(イングランド教会は国民ではなく、王と一体となっているのだ)。問題は、なぜこれほどまでして、スコットランドと戦争を始めようとしているのかである。議会の解散は、教会会議の解散をも意味していた。Laudは、教会会議の解散を王に進言した。しかし王は、教会法の審議を続けるように指示。これは、その合法性において、下院から疑いを持たれる恐れがあった。事実下院は、後に、英国国教会制度の廃止とこれに代わる教会制度を検討することを止めて、議会の承認なしに教会法を作成したかどで、13人の主教たちを弾劾することになった[Manning61]。これは上院から主教を下院から聖職者を排除する意図からでもあった。
 「国家教会」を尊重するという意識では、ほとんどのイギリス人は一致していた。しかし、聖餐を前で受けるか席で受けるか、教会の出入りに礼をすべきかどうかなどにこだわるのは、あまりに国民の気持ちとかけ離れていた。スコットランドのCovenanterたちは、英国国教会よりも厳格で「自由」がなかったが、礼拝形式においては英国国教会よりもはるかに人々の賛同を得ていた。英国国教会は、王の神授権に固執して、国民の声を反映せず、スコットランドの「契約者」たちは人々の声を反映していた(144)。王の「神授権」は、国民の神授権と相呼応していなければならなかった。英国国教会が国民に課していた「誓約」はこの点をよく映している(146)。この誓約は一律に課せられたが、「契約の誓い」は、初期の頃には、これの賛同者のみに課せられていた。
・11日:Straffordは、スペイン大使に30万ポンドの借り入れを要請。Laudに反対するプラカードが掲げられ、これに続いて不穏な騒ぎが起こる(133)
・17日:カトリックの書物の焚書。
・20日:王の変節により、Straffordは次第に孤立。船舶税も増税も思うようはかどらなかった。それでもStraffordは、病気を押して、スコットランドとの戦争へと努力した。
・23日:「反乱」のかどで、市民が処刑された(141)。
・29日:議会の解散以後も教会会議が行なわれていることも国民の反感をかった。教会会議が王のものであって国民のものでないのは、エリザベス体制から来ていた。教会会議が解散した(148)。
【6月】
・1日:アイルランドの議会は、いったんは王への徴税を決めたものの、それ以後の進展はなく、Strafford不在のまま、立ち消えになっていた。もはや王に勝ち目はないという読みがその背後にあった。アイルランドでは、カトリックも独立派も「多数派」とならないよう均衡していた。結局どちらの側も、多額の税を払うことを嫌ったのである(155)。
・2日:スコットランドの議会は、4月以来、非公式の形で開かれていた。スコットランド議会そのものは、チャールズによって、6月2日まで延期させられていた。しかし、ロンドンでは王とイングランド議会が反目していることが報告されていた。スコットランド議会が開かれたときから、直ぐに2万の軍隊を境界を越えて送り、ロンドンのスコットランド使節を援護せよという意見さえあった。スコットランド議会の延期は、王の軍備のためであるとしか受け取られていなかった。契約者たちは王も使節もなしで開催すべきと唱えていた(149)。
 スコットランドの領主Montroseは、もしも王がスコットランドの要請に歩み寄るのであれば、王権を支持する意図であった。しかし、チャールズは、英国国教会を廃止する法案に同意する気配がなかった。Montroseの考え方は、Straffordのそれと王権については共通するところがあった。しかし、Montroseの視野は、スコットランドに限定されていて、三つの王国全体のことは眼中になかった。このような情勢の時に、ロンドンからスコットランドへの、王への忠誠を要請する通達などは滑稽でさえあった。
・10日:スコットランドでは、Montroseがイングランド北部へ向かうスコットランド軍の司令官となった。彼はドイツ仕込みの荒々しい人物で、Aberdeenでは、150人の若者が強制的に契約者に参加させられた。これを拒否する物は投獄された。家々からは、家具や家畜が奪われた。取り戻したければ、料金を支払わなければならなかった。彼らは、先ず王に対する抵抗を扇動し、その後に王からこれの鎮圧の権力を勝ち得て、反乱を鎮圧するという方法であった。このやり方で、王から契約者へと実権が移っていった。ここにいたり、スコットランドの民衆は、王も契約者もどうでもよい状態に陥ることになった(165ー66)。さらにHighlanderたちを率いたArgyleの軍隊が、スコットランドの中央を荒らし回った。しかし、スコットランドは、戦争に備える点では一致していた。MontroseはArgyleのライバルであった。しかし、Montroseの弱点は、チャールズが優柔不断であることであった。 スコットランドの情勢を見て、王は、ロンドン市長に船舶税の徴収を迫った。しかし、結局これは失敗に終わった。
・11日:この日スコットランドで、「新しい憲法」と呼ぶべきものがCommittee of Estatesによって承認された。契約者たちは、過去600年における、偉大なる変革であり、王国に枷をはめるものであるとした(152)。この日にチャールズと枢密院は、ロンドン市民に4000人の陸軍とcoat-and-conduct moneyの徴収を迫った。しかし、市側は、返答を出さずに会議を解散。この処置は、チャールズにとって、スコットランド議会に対するのと同じほどの怒りをかった。しかし、王室をおびえさせたのは、ピューリタンが、上流だけでなく、地方の農民にも浸透しつつあるという知らせであった。それまで、労働者や職人たちは、国事・宗教制度には無関心であった。もしも彼らが、郷士たちと結託して武装蜂起したなら、王室にとって危険なことになる(158)。農民たちの間では、16世紀の影響で、カトリックに対する嫌悪が強かった。チャールズは、カトリックの援助に頼る必要に迫られていた(158)。王の軍隊の将校には、カトリックが少なくなかった。
・17日:Dorsetで将校が軍隊に殺される事件が起こった。これの背景には、王の徴兵に対する各州での民衆の不満があった。さらに、カトリックの将校と民衆との乖離もあった(160)。チャールズの軍隊の軍紀は乱れていた。
・24日:徴兵制(Commissions of Array)発令が、王によって提案。すでに税による軍費は、スコットランドとの戦争を不可能にしていた。このため王は将兵制を提案。Straffordは、疑いもなく賛成した(162)。
・27日:Loudounが、釈放されてスコットランドに戻った。彼が携えたのは、チャールズがBerwickで結んだ約束の線で同意するという曖昧なものであった。
・30日:Northumberlandが戦費調達の延期を提案する。
【7月】
 スコットランドでは、Loudounは自分たちが持ち帰った条件が、あまり役立たないことを悟った。Leslieは、軍隊の中核を集め、イングランドへ侵入する準備を進めていた(168)。スコットランド軍は、徴発した物資で、当座の費用はかなえられていた。一方、ロンドンでは、税の徴収は遅々として進まなかった。それでも、4万4千ポンドが集まり、さらに6万ポンドが集まった。
・8日:一方スコットランド側は、王とのいかなる交渉も彼の恣意的な解釈で反古にされることを知った。平和は、イングランドへの侵入によってしか確保できないと言う気運が高まった。Loudounがロンドンを去る前に、StraffordのライバルであるLord Savilleと密かに連絡を取っていた形跡がある。そこでは、スコットランドの国民契約を何らかの形でイングランドにまで拡大して、敵と味方とを見分けることができないかという相談があった(178)。ロンドンの上院からは、これは反逆罪に当たるからとの理由で断わりの手紙がLoundounの下へ届いた。
・12日:カトリックの将校が殺される。しかし、市民はだれも殺害者を捕らえようとはしない。法王のために戦うのはごめんだという気持ちからである。ある部隊では、将校の半分がカトリックであった。このような指揮の下で戦うことを拒否する兵たちが続出した。この頃チャールズは、銅貨をdebaseすることを提案。
・19日:スコットランド軍がNewcastleを占拠しようとしているとの知らせがチャールズに届く。
・23日:王はロンドンへの石炭の支給が途絶えるとの脅しによって、20万ポンドの徴収を市議会に要請。また、織物業者に銀貨ではなく銅貨で支払うとの通達。業者は、銀貨でしか支払いを受けないと申し入れる。王は怒り、銅貨の改鋳を命じる(174)。Straffordの頑なな姿勢は、ますます不評をかっていた。彼は、スペイン大使にせめて10万ポンドの援助をと懇願していた(175)。大使はできるだけ意に添うよう努力すると約束。王妃も、チャールズがカトリックになるのでなければ、ローマは何もできないと、ローマから援助を断わられる(175)。
・28日:ヨーク請願(177)。軍隊の横暴に対して、権利請願への違反であるとの申請が王の下へ届く。オランダ軍を雇い入れて、治安に当たらせる案が出る。ヨークのあちこちの教会が、軍隊の侵入を受けたり司祭が追い出されたりする(176)。
【8月】
・スコットランド軍のLeslieのほうも軍資金に困り始めていた。Committee of Estateが今や政府の役割を果たさざるを得なくなっていた。Argyleを総統として全スコットランドを一体化する案が出た。これにたいしてMontroseは反対した。彼は、いまだに、憲法と長老制とが王を首長として実現できると考えて、契約派を王に従属させようとしていた(181)。彼は18名の同士と密約を交わした。 今やスコットランド軍の南部への侵入と共に、どのような憲法が作られるべきかが真剣に考えられた(182)。
・最初の週:Straffordは、王の不決断や軍隊の乱れなどで、ますます危機意識を募らせていた。彼は、再び、アイルランドへ渡った。イングランドとアイルランドとウェールズとが結集して、スコットランドへ侵入するといのが彼の計画であった(184)。彼はイングランドの実状を誤解していたので、その結果を予測できなかった。
・10日:Conwayは、スコットランドによるNewcastle侵入が間近なのを知った。しかし、援助は与えられず、Northumberlandに、Newcastleは防戦できないと告げる(185)。支払いのないイングランド軍よりもスコットランド軍のほうが歓迎される傾向さえ生じた(186)。
・12日:スコットランド側の二つの宣言がロンドンへ(187)。(1)彼らは交渉を王ではなく議会に求める。(2)LaudとStraffordの処分を求める。王は自身でヨークへ乗り込む決心をする。
・17日:ヨーク請願への厳しい返答(187)。
・20日:王の軍隊がヨークに向けて出発。ただし、Sraffordは司令官であるが、なおロンドンに軍費のために留まる。スコットランド軍の進撃は、軍紀正しく、人々の好感を得る。ただし、ダラムの聖堂や司教たちに対しては容赦しなかった(188)。
・27日:Straffordがヨーク到着。「イングランドの慣習法と自然法と理性の法によって」王を支持すべきと訴える(191)。イングランド軍はヨークの王とNewcastleのConwayとAstleyとの二つに分散していた。
・28日:Straffordの命令により、Conwayは全軍の3分の2をNewcastleに遺し、歩兵3千と騎兵1500でNewburnへ向かった。タイ川の引き潮は午後3時から4時の間であったが、27日の夕方になってもスコットランド軍は川辺に着いていなかった。Conwayは、低地の川縁に柵を築き、自分は騎兵隊と共に離れたところにいた。司令部はStellにあった。スコットランド軍は、到着すると高台に大砲をおいた。イングランドの低地からの発砲は功を奏しなかった。川水が下がると、スコットランドは川縁の軍隊に激しい銃火を浴びせ、イングランド軍は敗走した。その間にスコットランド軍は川を渡った。彼らはイングランドの騎兵隊を襲い、背走するのを追って本体に向かいイングランドは敗走した(194)。Straffordは、完全に敗北を味わった。チャールズの下にいるイングランド軍の志気は上がらなかった。「侵入される側の大義とする側の大義とが一致していた」(197)。
・同日:ロンドンで貴族からからの請願があった(198)。軍費の増大。兵士の無秩序。新規な宗教活動。法王主義の将校。アイルランド軍援助の危険性。船舶税。独占資本。議会の中止など。
【9月】
・2日:チャールズはヨークで、王に奉仕する教義を説く。ついにヨーク州の訓練部隊が動き出す。
・4日:スコットランド軍より懇願。イングランド議会の助言を得て、スコットランド側の不満を正すこと。12人貴族より王への請願が到着(201)。王は24日にヨークで貴族院会議を開催する旨を宣言(時間稼ぎの方便)。12貴族の請願は、おそらくPymにより印刷されて市議会に回覧される。イングランド議会での決議記録は王の手で裂かれ、委員会の文書は焼かれる危険があったからである。短期議会で指導的役割を果たしたPymは、今度は一般人を扇動する役目を担うことになった。
・10日:王はヨーク軍を謁見。DerbyとNottinghamからも軍隊の援助を得る。チャールズはNewburnの囚人の解放をスコットランドに回答。しかし彼は戦費に困る。
・11日:ヨークへ到達した貴族たちによる会議が開かれ、スコットランドからの懇願への回答が検討される。
・12日:ヨーク請願。Straffordの計らいで貴族請願が拒否された。逆にヨーク請願を王に提出。Straffordは、ここまでは成功。彼はガーダー勲章を授与される。彼はスコットランドの侵入が逆に王を支持したエリザベス朝の復活を夢見たのかもしれない(205)。しかし彼は、時の宗教的潮流を見誤っていた。南部(ロンドン)での危機感は北部ほどではなかった。むしろスコットランドの進軍はイングランド議会の勝利であり、よい知らせだった。この段階ですでに事実上の内戦が始まっていたと考えられる。枢密院は、貴族請願がロンドン市民の間に回覧され多くの署名を得ていることに驚愕し、市長と市議会議員に中止を求める。ロンドン請願へ。チャールズは、このような情勢からイングランド議会の開催を促される。
・15日:エディンバラ城がスコットランド軍に降伏。
・22日ロンドン請願が王に提出。市議会議員と1万人の署名(207)。
・24日ヨーク聖堂で、大枢密院が開催。チャールズは、反逆者の懲罰を宣言したかと思うと、請願を尊重し懲罰を行なわない旨を小声で付け加える。 Bristolは、スコットランドとの交渉を求め、貴族会議は王の戦費20万ポンドについて考慮する。貴族院の保証の下、20万ポンドの借り入れを決定(209)。
・26日:王はBerwick協定を基礎に和平交渉すること。
【10月】
・2日:Riponでリポン会談(210)。Loindounは、自分たちの立場の有利を意識していた。彼らが処刑を訴えていたTraquairが出席していることに不満。また、先に協力を密約していたMandevilleたちが、裏切ったことを知る(210)。ロンドン市長にたいして、貴族院の保証で20万ポンドを貸すように要請される。
・5日:和平会談で、スコットランド軍の軍費4万ポンドを協定成立まで支払うよう要請される。
・7日:和平交渉をヨークへ移すよう王の提案。しかしスコットランドはこれを拒否。彼らはStraffordを扇動者の頭と見ていた。Straffordは、アイルランド北部には4万のスコットランド軍がいること。スコットランドのArgyleは、これを利用することを考えているのを知っていた(213)。Straffordは、今やスコットランド打倒以外には考えなかった。
・22日:イングランド北部の2州は、和平成立までスコットランド軍の支配下にあること。一日850ポンドを軍の維持費として北部が支払うことで、停戦合意。 以後は、ロンドン議会の開催と共に、ロンドンで両国の和平協定会談を行なうことにする。
同日: ロンドン市民が、最高裁判所に乱入。分離派の判決に反対する。 Laudは星室庁への乱入者の処罰を要請。しかし、星室庁は動かない。
・28日:和平会談の結果を受け入れることに王が同意(215)。
【11月】
・3日長期議会開始。ここで、国家の「主権」をめぐる問題が初めて公然と争点となった(218)。それは、チャールズとその政府が、民の理解を得られなくなったところに起因していた。彼は民の意志を無視して統治しようとしたからである。法と自由に替えて、専制を持って臨んだからである。これほど臣民の支持を得て開催された議会はなかったと言える。さらに、議会として初めて、背後にこれを支持する軍隊を持ったことである。
 チャールズは、スコットランド軍とイングランド軍との両方に向かうことになった。1日850ポンドを支払わなければ、スコットランド軍はさらに南下することも予想された。ヨークとWhitehallとの間に、もはや軍隊は存在しなかった。この状況の下で、彼は議会の力を離れては、戦費を調達することが不可能であった(219)。
・5日:王は議長に王党派のGardinerを推薦したが、議会によって拒否された。Lemthallが議長に選出。
・6日:Straffordは、ヨークからロンドンの議会に向かった。議会は彼にアイルランド問題で嫌疑をかけていた。Straffordは危険を察知した。彼は、スコットランドからも議会からも、恣意的な専制の張本人とされていたからである(220)。彼に唯一の望みは、スコットランドがその要求をあからさまにすることで、イングランド国民の反感をかき立てることであった(221)。Pymは、議会の開始時には指導的な人物ではなかった。彼は、なによりも保守派であり、Load,Straffordのような「新規な」やり方に対立していた。しかし、やがて、議会の紛糾と共に、彼は指導的な役割を果たすことになった。
・7日:Rudyerdの演説は、いったい我が国は隠喩としての「祭壇をどこに設置するべきなのか」という発言であった。典礼の強制が説教者の口を封じているからである。
彼の発言は、聖書的な比喩で、当時の議会の考え方をよく現わしている(225)。議員たちは、失政の数々を数えたてたが、彼らの議論の背後には、いつ攻めてくるかもしれないスコットランド軍と不気味なアイルランド軍とがあった。恐らくもっとも適当は方法は、王の退位であったろう(226)。議会はStrafford,  Laud, Hamilton, Cottington, some judges and bishopsを議会に喚問する決定をする。同時に、王たちが、宗教的にカトリックと通じているという「誤解・理解」は根強かった(227)。
・当日の午後:Pymの演説。アイルランド軍の問題がPymによって暴露される。
・9日:Straffordがロンドン着。王に、議会の指導者たちを反逆罪で逮捕するように進言。Pymがアイルランド軍のかどでStraffordを弾劾すれば、Straffordはスコットランド軍を招き入れたかどでPymを弾劾しようとした。この密案は、直ぐに議会に漏れた。
・10日:アイルランド問題とStraffordの審査委員会が設置の案。
・11日:1200人から1500人の「名誉ある市民たち」が、二人の議員を伴って秩序ある態度で下院を訪れ、ペニントンが「請願」を下院に提出した。このような請願は、議会による教会行政を歪める恐れがあるということで、受け取りがためらわれた。しかし、長い議論の末に、これの受け取りを決定。しかし、それは1641年2月8日まで、審議されることはなかった。これが後の根絶法案である。[Mnanning17]
 Straffordは上院の議席にあった。しかし、彼の案は提出されなかった。恐らく王が最後の時にためらったのであろう。下院では、王妃がカトリックに断食を命じていると報告。これは、Straffordの案と共に、議会に対する陰謀と受け取られた(233)。疑心暗鬼を生む状態。午後に下院で、Straffordのアイルランド軍の要請について報告。アイルランド問題とStraffordの審査委員会が設置が決定(234)。Straffordの拘束。
・13日:下院で予算にについて議論。
・16日:ロンドン市が25000ポンドの貸し出しを承認。
・17日:断食の日に、下院でDr.Burgessが、英国国教会と祈祷書を廃止して、契約に入るよう説教。
・19日:リポン協定についてスコットランドとイングランドと会談。事実上は、議会とスコットランドとの会談となった。
・23日:和平協定委員の一人が、カトリックに刺される。これが、カトリックの陰謀と疑われ、下院を300の市民で護衛する案が出た。議会とスコットランドとの王抜きの会談。チャールズは、側近を扇動罪のかどでスコットランド議会へ出頭させるよう要請。
・24日:Pymを中心に下院がStraffordへの証拠集めに入る。Straffordに対する訴状(240)。
・25日:Straffordに対する訴状が下院で認められ、上院で承認され、Straffordは塔へ移される。しかし、彼が自己の野心のために行なった行為ではない(241)。
・30日:軍隊からカトリックの将校を追放するよう命令。winebankがこれの責任者と見なされる(243)。
【12月】
・7日:Falklandの議会演説。
・10日:議会はスコットランド軍を援助することで合意。14万ポンドの追加税を認める。ロンドンでは、長老派の勢いが高まる(243)。主教と典礼がなくなれば、空地に家を建てるのは容易であると思われた(243)。
・同日:Winebankがフランスへ逃亡。これは王妃を激怒させた。
 同日チャールズは息子ウィリアムオレンジをオランダ王女と結婚させると発表。
・王は自分の側近を懲罰にかけないと宣言。その数日後に、Finchはオランダに逃亡。Laudは弾劾に付された。
・11日:ロンドン請願。教会改革と英国国教会廃止を求めて、15000人のロンドン市民による請願が下院に提出。これに同意する1500人ほどの人々がウェストミンスター・ホールへ同伴。ここで、宗教問題で、初めて、下院の分裂の兆しが出てきた(247)。
・15日:最近の教会法によって、聖職者も平信徒も束縛されないと可決。Laudを反逆罪で訴えるという発言。大主教は我が国の不幸の根本原因である。彼は、教会を通じて王への奉仕を呼びかける点で、ある意味で、Straffordよりも危険な存在であった。
・21日:Laudが弾劾された。Finchは議会での証言を求め認められた。彼が反逆罪に問われることは、僅差で否決。
・23日:今や財政的に困窮している王に追加予算を承認。
・24日:議会の例年開催法案が提出される。
・30日:議会例年開催法案をクロムウェルが強く提案。 この頃からクロムウェルが注目を集め始める。彼は、目前の問題を鋭く見抜く人であった(254)。
                      ミルトンとその思想