ピューリタン革命前夜とミルトンの時系列事項(後編)
     
1641年~1642年

■1641年
【1月】
・6日:オランダ使節が婚姻のことで王に謁見。チャールズは、スコットランドに対してオランダ軍の投入を考えていた。スコットランドに対して外国の軍隊を投入するのなら、イングランドに対しても同じことをする可能性があった。チャールズは次の3点で譲歩しないつもりであった。
(1)Bill for Annual Parliamentsを認めること。
(2)英国国教会制を廃止すること。
(3)彼の承認なしで、側近の大臣を死刑にしないこと。(257)
・8日:ロセッティを罷免する件で、王妃は、両院の代表者たちと交渉。
・12日:スコットランド軍からの軍費の要求が正式に両院で報告。リポン協定の1日850ポンドのほかに、51万4128ポンドの支払いを要請された。Bristolは、このような不名誉な事態は、ひとえに王の廷臣たちの責任であると主張。
・13日:Kent議員により根絶請願下院に提出。ロンドン市民請願は、英国国教会の「根絶」を要請。聖職位階を完全に廃止すること。このことは祈祷書の廃絶を意味する(266)。この頃ロンドン市内で、礼拝をめぐり騒動が続発。分離派は、教区の教会への出席を拒否。礼拝を阻止する。
・14日:Finchの正式弾劾が行なわれる。Lord Keeper=Lord Chauceller(国璽:最高裁判所長に当たる)の役が空席になる。
・16日:上院は、法律により、礼拝は教区教会でのみ行なうべきこと。これを妨げる形式や非公認の形式を導入してはならないと布告(266)。
・17日:上院議員(Saye,Brooke)たちが、分離派の礼拝に出席し献金を行なった。
・19日:オランダよりMary王女との結婚要請。これによる政治的同盟は、スペインに対抗すると同時に、議会に対抗するねらいもあった(262)。しかし、オランダ側は、王が議会と和解しない限り同盟は王の役に立たないと告げる。
・20日:Annual Parliament法案が、3年ごとに変えられて上院に送られる。この法案と共に北部のイングランド軍への追加予算案が提出。同日:Lord Keeperの役にLytteltonを任命。Strafford裁判の任に。
・21日:カトリックのJohn Goodmanの死刑決定。エリザベス朝での流血の罪に問われる。下院の弱点はカトリックに対する不信であるとされていたが、Pymたちを除けば、議会での反カトリック勢力はそれほど強くなかった(264)。
・22日:王はGoodmanの処刑の猶予を命令。宮廷でのカトリック系の廷臣たちが、反議会の陰謀の根源と思われていた。
・23日:スコットランドの要請がイングランド議会で取り上げられる。議会は何らかの「友好的な」処置を執ることにする。チャールズのねらいは、スコットランドの要請によって、両方の議会との間に対立が生じることであったが、スコットランドとの対立もオランダからの援助の約束も彼の思惑どおりに行かなかった。
同日:ロンドン市は、6万ポンドの援助を用意していたが、Goodmanの猶予で、この援助を停止。下院は、上院に向かって司教の死刑で共同歩調を要請。王は、その日の午後に、両院の代表を宮廷に喚問。北部のイングランド軍への援助を強く求める。「政府の変革と改革との区別がつかない者たちが、議会の中にいる。礼拝は妨げられ、請願は次々と出され、王への収入は遅延して紛糾している」(267) 。さらに彼は、教会での変革に応じる用意があること。裁判は法律どおりに行なわれること。宗教や行政は、エリザベス朝の形式に復帰すること。また、不法な収益は放棄することを約束する(267)。しかし、上院での主教たちの投票を奪うことは決してしないと告げる。また、3年毎の議会の開催には未決断。チャールズは、これらにおいて、決して不誠実ではなかった。しかし、チャールズは、この段階で、教会礼拝の改革案を議会に提出すべきであった(267)。代表は、王の主教支持に暗い予感を感じた(268)。
・この週にジョセフ・ホールの『謙虚なる抗議』(The Humble Remonstrance.)(275)。
・25日王はGoodmanの国外追放を命令。
・28日:Strafford弾劾が委員会でPymにより読まれる(269)。Straffordをこれを聞いて、何ら決定的なことが述べられていないので安心する。しかし、彼がアイルランド軍をイングランド鎮圧に用いようとしたかどが重視されていた。
・29日:Oliver St.JohnをSolicitor General(司法長官)に任命。この役は実権を持たないために、チャールズは、議会対策としてJohnを任命したと思われるが、Johnは、自分の意志をどこまでも遂行することになる。
同日:議会はカトリック司祭Goodmanの処刑を要求。王は、これに応じることは、Straffordの処刑にもつながることを知っていた。
・30日:Strafford弾劾が下院で投票に付される。可否について沈黙。ようやく、「可」の声が大きかった、と報告される。下院の分裂をうかがわせる(271)。
 この頃王妃はフランス行きを申し出る。フランス政府をして、イングランド情勢に干渉せしめる目的である。
【2月】
・3日:下院は、30万ポンドをスコットランドへの「兄弟的援助」として与えることを可決。スコットランド代表はこれを歓迎。両者の対立はこれで解消。 チャールズは、カトリックとの提携の必要がなくなったのを見て、Gooodmanの件をそのままにして、イングランドのカトリック司祭たちに国外退出を求める。これは、カトリック国でのプロテスタントに対するより厳しい処置を生じる危険があった。議会の側も、宮廷内でのカトリックの陰謀に神経をとがらせていた(272)。
・4日:王妃のフランス訪問は、好意的に受け取られず、認められなかった。一方彼女は、議会との障害を取り除こうと、BedfordとPymに、それぞれ財務長官と大蔵大臣の職を提供しようと密かに申し出ている。しかし、議会の反応は冷たかった。逆に、王室と議会との関係はいっそう遠ざかった。(273)。財政の実権を議会が握っていたことを例証する。
・5日:3年毎の議会開催案が3度目に朗読された。両院は、一致して宮廷内でのカトリックの陰謀を除くことと、国王が議会の要請に応じて政府を運営することを求めた。王は率直に臣民の意志に自分を委ねるべきであった(274)。
 教会問題では、法律家やジェントリたちは、主教が特権を放棄して議会の法に従うならば存続を認める方向にあった。しかし、神学者の中から(ミルトンもその一人)、英国国教会それ自体が反キリストであるという議論が起こりつつあった(GardinerIX,274)。少数の神学者は、英国国教会は神授権によると主張した(ホール)。一般の大衆にとっては、教会問題は便宜的な問題であった。宗教的な関心の高い人たちにとっては、高位聖職者がどう処遇されるかよりも、礼拝がどうなるかのほうが大問題であった(ミルトン)。礼拝形式(典礼)と聖職者との不可分な関係。Laudは、人々の古くからの反教会意識を逆に煽る結果をもたらした。これが反祈祷書問題へと発展した。「主」の名前を聞く度に礼をすることなどの詳細な規定が反感を誘ったのであって、大多数の人たちは、それ以上に、祈祷書の廃止までも求めていたのではなかった(ミルトンとの食い違い)。ホール主教が、『謙虚なる抗議』で人々に訴えたかったのは、まさにこのことであった(GadinerIX,274)。1641年の1月までは、教会問題は、典礼問題であって、英国国教会制度そのものではなかった。Laudが主張したのは、祈祷書に対する不満を訂正するだけで、典礼の全体的な構成は、そのままで存続できるというものであり、おそらくこれは、当時の大多数の民衆の意識に訴えるものであった。チャールズがこれを愛読したのは当然であり、長老制の導入を意図する者たちには、「くだらない作文」とされたのも当然であった(GadinerIX,274ー75)。
・5日:議会では、反長老制も反英国国教会に劣らないほど強かった。この日、議会開催中でも、最も重要な案件が論じられた。ロンドン請願が、主教の権限縮小案と共に下院に送られた(276)。Rudyerdは、主教が政治的な機能を控えて、教会行政にのみ携わるべきと主張。Digbyは、聖職者の権限縮小には大賛成だが、聖職者の廃止には反対。彼は、15000人の市民請願そのものを軽蔑していた。議会の外にいる者たちが、議会の律法に口を挟むのは僭越であるという論理であった。Falklandの演説、Fiennesの演説がこれに続いた。
・8日:根絶法案が初めて下院で審議され、それは午前8時から午後6時までかかった。ついに、請願を教会問題審議会に委託することに決定。新たに審議会には、主教側の2名を含む6名が加わることになった。そこで主教制の廃止が審議され、委員会は、上院からの主教の排除と、聖職者の一般行政からの排除を勧告。下院はこれを承認[Manning19-20] 。主教制は改正せよ。しかし主教制な存続させる。これが下院の大方の意見であった。Pym, Hampden, St. John, などの将来の議会派たちは、請願の議会での有効性を承認した。しかし、Pymは、「主教制と典礼を廃止するのは下院の意図ではなく、欠陥を是正することがその主旨である」と述べた。一方で、Culpepper,Selden,Hopton,Wallerなどの王党派は、Digby,Falklandの路線に近かった。両派の違いはそれほど大きくはなかったが、そこには重大な原理上の分岐点が潜んでいた(GardinerIX,281ー83)。この日は、下院が、些細な問題ではなく、基本原理について対立する最初の日となった(281)。
・9日:さらに議論が続いた。Penningtonは、この請願に署名した人たちが誠実で価値ある人たちであり、もしも彼らに圧力をかけるなら、15000人の15倍の人たちが署名するであろうと述べた。こうして、根絶請願が下院の体勢を占めた。もはや、主教に代わって、議会の分別ある人人が教会を支配するだけでは不十分となった(285)。 しかし、王に反対する人たちもLaudの教会政治を批判する者も、主教制に代わって、一般的な長老制が支配することを望んではいなかった。政府は少数者のためであり、愚かな群衆のためではないというのが、彼らの視点であった。「法廷へ出よう!」という彼らの叫びをPymとHollesが遮った。Cromellが最後の演説に指名された。彼にとって、主教とは、Falklandの描く理想の存在ではなかった。相手は目前のLaudでありWrenであった。彼らは迷信的な儀式を持ち込み、聖徒を迫害した。その権力を倒せ。Cromellは反対派の理由を全く無視した。その結果については、彼はなにも考慮してはいなかった(287)。これ以上の議論はなにも産み出さないのをみんなは悟った。結局、CulpepperとFalklandの提案によって、ロンドン市民の請願は、教役者たちのそれと共に、議会の委員会に参考資料として考慮される。しかし、主教制に関する申し出については、議会自体もその結論を保留する(287)。もしもこの時に、チャールズが、11ヶ月後で行なったように、議会の指導者たちと教会問題について、話し合っていたなら、議会の少数派が多数派になっていたかもしれない。
・11日:下院議会で、「信仰の自由」が問題になったが、これこそ、議員だれ一人として明確な認識を持たない問題であった。FalklandとSeldenは、主教制の維持を叫んだ。長老制よりも主教制のほうに信仰の自由の守護者としては、すぐれているのは明らかであった。しかし、さしあたりこの論は受け入れられなかった。現行の主教制は、あまりにも片意地であった。少なくとも過去のそれとは異なるものとならなければならなかった。FalklandとSeldenは、制度の問題ではなく、よりふさわしい人物をその任に充てることを主張したが、どのような人物かは明らかでなかった。一貫性を持たない指導者よりも、誰も指導者がいないほうがましである。要するに、議会が選んだ人物がその指導者なのである(284)。主教制を擁護する側は、要するに、王の指名した人物が指導者にふさわしいのである(284)。この問題は政治問題と結び、主教制を擁護する者は、王の独立した権限を主張した。Pymは、情勢が流動的なこと、その成り行きは、王がどのような対応をするかにかかっていることを知った(285)。
同日:アイルランド軍がイングランドに進駐する準備ができていると報告。Straffordは、いぜんこれの司令官であった。ウースターのカトリック公爵が、ウェールズで軍を整えて、アイルランド軍と合流するという知らせ。
・12日:オランダとチャールズの王女との結婚が告げられる。同盟関係によって、オランダ軍2万を率いてオレンジ公が訪れるとの知らせ。王が議会を解散して、Straffordを釈放するとの噂が流れる。議会はカトリックへの反感では一致していた。Berkeleyが、反逆罪で弾劾される。
・13日:下院と上院は、アイルランド軍の解散を王に申請。 しかし、王は、使うこともしない軍を保持する決意であった。
・15日:追加予算と3年の定期議会案の認可を王に申請。王は、これを認める決心。議会の認可なしには北部の軍隊を維持できない。
・16日:上院へ王が来て、両案の認可を伝える。午後に両院が王を訪れ、感謝の意を述べる。王は機嫌がよかった。
・17日:Straffordの裁判の延期が、反感を募らせていた。Straffordが、船でテムズ河にいて、上院へ向かっているとの噂。彼の裁判の延期を王が認める。
・19日:王の新しい枢密院のメンバーが決まる。「内閣院」という言葉が初めて用いられる(292)。しかし、実状は王が、上院を操作する戦略にすぎなかった。後にこれがStraffordの命取りになる。この段階では、上院はStraffordの反逆罪に関して、無罪の意向であった(294)。
・20日:スコットランド軍の駐留に対する反感が高まる。6万ポンドの支払いの内、21000ポンドしか払われなかった。Strafford裁判の延期に対する報復。しかし、議会は、スコットランド軍への支払いによって、軍を撤退させることを望んでいた。
・24日:Straffordが上院に出る。王も出席。しかし、王が退出の後で、もう一度訴状の読み直し。
同日:下院でLaudへの弾劾が投票。英国国教会に賛成する者さえもこれを認める。根絶派の議員たちが、スコットランド代表団が、支払いを受けるや帰国すると彼らを非難。
 アイルランドは、1607年以来、苛酷な失政続きであった。スペンサーの時代のTyronの反乱を引き継いでいる。Straffordの宗教的文化的な植民地政策。Wandesford→ Laud →Sir William Parson→ Sir John Borlasたちの苛酷な政策は、イングランド議会のアイルランド政策が、カトリック絶滅政策であることを感じさせた。
【3月】
・1日:Laudが塔に入れられる(297)。 Laudが聖餐テーブルを東に移したことは、許されないことであった(298)。
・2日:殉教したPrynne, Burton, Bastwick, Leightonたちへの償いが行なわれる。
・6日:下院は、ヨーク軍に充てるべき1万ポンドをスコットランド軍に回すことを決定。これはヨークの軍隊に大きな不満をもたらした(308)。下院が英国国教会の廃止を決定したり、アイルランド軍の解散を要請したりした場合に、軍隊は王を支え、代わりに王が軍隊に支給する、という取り決めがすでに行なわれていた(309)。一方で、王妃のほうは、もしも法王の援助によって勝利が得られたなら、英国内でのカトリック教会の活動を完全に自由化すると法王に約束していた(310)。
・8日:Strafford裁判が始まった。上院は彼に同情的であり、下院には彼に味方するものは少なかった(100名くらい)。ところが、ロンドン市民2万から3万の反Strafford請願が準備されつつあった[Manning21]。
・10日:下院は、主教の行政と司法への関与は、霊的な機能の上で大きな障害になっていると決定。上院が、典礼と儀式の問題にかかわっている一方で、下院は教会制度の問題にかかわっていた。
 同日:スコットランドの代表が、「両王国の宗教的一致」声明を出す。しかし、これは、翌日取り下げられた(300)。スコットランドは、スコットランド軍が駐留する限り支払いを要求した。これに対して、下院は、ある時は支払うといい、別の時には、別のことを言っていた。英国国教会側は、スコットランド軍を早く撤退させたがったが、教会制度反対者たちは、自分たちの同盟を失うのを恐れた。
・11日:下院で聖職者による司法機能の停止決定(299)。英国国教会制度には触れていない。根絶派はまだ少数であった。しかし、この頃から、根絶派は勢いづく。教会の屋根は取り払われた。今度は壁である(299)。
・20日:スコットランド側は、長期の駐留に耐えかねて、下院に厳しい支払い請求を行なった。ところが下院のほうは、Strafford裁判の延期にいらだっていた。王との駆け引き(300)。Straffordの件が解決されなければ、下院は支払うことができないと宣言。これは、Straffordの処罰が、公正のゆえではなく、政敵に対する必要手段となりつつあることを示す(301)。
同日:ヨークのイングランド軍から、下院に軍費の厳しい催促が到達する。
・22日:Strafford裁判が、ウェストミンスターホールで開かれることに決定(304)。議長はEarl of Arundelが上院により選出。英国史における最も重要な訴訟のスペクタクルが行なわれることになった(303)。
同日:ヨークのイングランド軍からの催促が上院に報告される。
・23日:Pymが、下院の代表として訴えを起こす。彼は未来の危険よりも過去の罰を求めていた。彼はStraffordを箴言の娼婦にたとえた。Straffordの功績は一切認めなかった(303)。Pymには、アイルランドに対するイギリス植民地政策の認識が完全に欠けていた(304)。これに対して、Straffordは堂々と反論した(305)。しかし、Straffordは、自分の行為が、議会の法的な統治に準じていることを示すことに失敗した。
・25日: Straffordの「反逆罪」について言えば、「反逆」とは主権者に対する裏切りを意味した。Straffordはこの意味で一切反逆を行なっていない。Pymは、反逆を、主権者とその統治組織全体に及ぼす影響ととらえ、Straffordが、いかに王の権威を失墜させたかと説いた。しかし、Straffordの反逆罪の立証は難しかった(307)。Straffordに対する聴衆の同情が集まった。上院は幾たびも閉会した。しかし、下院はこれを裁判の遅延策と見なし、敵意をますます募らせた。王と王妃は、Straffordを救うためには、軍隊に頼ることを止めることだとは気づいていなかった(308)。
・28日:チャールズは、ヨークの軍隊を動かして下院を制圧するというSucklingの計画について、Percyからその案を聞く。王はこれを不適切をして退ける(315)。しかし、下院の裁判の趨勢は、チャールズをして、軍隊の力でStraffordを救い出すことを思わせた。
・月末:Smectymnuus。An Answer to a Book Entitled  An Humble Remonstance.
      スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』

【4月】
Joseph Hall: A Defence of the Humble Remonstrance.
        謙虚なる抗議への弁明
・1日:Goringは、陰謀によって自分がlietenant-generalに任じられないことを 知って、王の敵にその陰謀を暴露。Newport→ Bedford→ Mandeville→ Pymへ。ただしこの段階では、陰謀の全貌を知ったわけではない(318)。
・3日:Straffordのアイルランド軍導入の件が、急いで論告される。スコットランドとの戦争で戦費調達のために短期議会が招集されたときに、彼は、議会が王の援助を拒む場合は、アイルランド軍を入れることを提案したかどである。王が危機の場合は、軍隊を用いることが正当であるというのが、Straffordの政治的見解の中心であった。Straffordは、その返答で、王の権限は、イングランドでもスコットランドでも同じであること、王が国家と公の益のため以外に軍を用いると考えるのは、王に対する犯罪であると述べた。彼の演説は共感を呼んだ(322)。軍隊の陰謀とStrafford裁判との間に、直接の関係はないが、Straffordが釈放される場合に、彼が王党派の将校と結び、かつアイルランド軍の指揮官でもあるから、両院には不安が広がった(318)。上院の憲法的な立場、アイルランド軍、ヨークの軍の下院に対する不満など、下院には危機感が強まった(393)。一方王妃は、Newcastleが、Nottinghamshairに1000人の騎兵隊を待機させていて、Prince of Walesまでもが、これに加わるという案があった(324)。今や、下院は北部の軍隊に関して、一刻も猶予できない状態となったのを知った。
・6日:議会の助言ある時のみ王の命令に従うべきと言う決議が成された。しかし、このような決議は前例のないものであった(325)。
・8日:再びStraffordが、アイルランド軍のかどで論告される。
・9日:Pymは、上院が引き延ばしを図っていること。下院も共感を失いつつあることに気がついた。
・10日:チャールズはロンドン市長に請願の中止を命じた。下院はしかし、大逆法案というより過激な手段に出た[Manning21] 。(根絶派?)は、Straffordが反逆罪にならなければ、イングランド議会が彼を反逆罪にするという考えであった。しかし、上院の「閉会」の叫びと下院の「引っ込め」の叫びで、この日の議会は混乱の内に見通しなく終わった。
・13日:Straffordの弁明。彼は上院だけを頼りに語った。Glynの答弁。Straffordは、特定の目的で特定の法を破った。「必要と危険」が、「自由と財産」を侵害する最大の理由である。Pymの答弁。王と国民とは一体である。国民から離れては、王は自分だけの行為をしてはならない。これはおそらく王が自分の権限について初めて聞いた演説であったろう(334)。
・14日:王はアイルランド軍の解散を断わる。
・15日:Pymの演説によって、Straffordがイングランドの基本法を犯したという見方が強まる。
・16日:Hampdenの演説。彼は上院の支持を語る。もしこの弾劾を放棄するなら、自らを不名誉なものとする。
・19日:Straffordの罪状が下院で評決。3対1で反逆罪(337)。
同日:ウィリアム・オレンジ公がイングランド到着。チャールズは北部の軍隊に資金を送り、議会との間の紛糾に際して、援助の約束を取り付けたと思われる(342)。
・21日:[Manning33]「悪名高い犯罪者たち」に対するロンドン市民の請願は、Straffordよりもむしろ反法王をその直接の内容としていた。このころから、「反法王」が次第に革命運動の合言葉になりつつあった。
・23日:王はStraffordに身の安全を約束する手紙を。王は、Bedford,Saye,Pymにそれぞれ要職を約束する(341)。しかしPymと王との話し合いはつかなかった。
・24日:Straffordの処刑を求めるロンドン市民の請願。
・27日:上院はStrafford処刑に消極的。 この時点で、王自らが、憲政の守護を約束するなら、上院は王を支持したかもしれない。
・28日:Straffordが塔より抜け出す陰謀が発覚。上院議会でのSt. Johnの演説よりも、宮廷の陰謀のほうが、議会の不安をかき立てた。彼は言った。「王はスコットランドと北部の軍を解散させて、アイルランド軍は解散させないと言う。」
・29日:チャールズはアイルランド軍の解散を拒否。
【5月】
Milton: Of Reformation touching Church Discipline in England.
  ミルトン:『イングランドの教会規律の改革について』
・1日:王が議会に姿を現わし、国家の危機を直接命令的に訴える。彼は、すでにStraffordを見限っていた様子。
・2日:王室の結婚式。
・3日:民衆の見守る中で、上院と下院の合同議会が開かれた。上院議員Bristolは、帰りに民衆からののしられたが、Pembrokeは、民衆に向かって語り、彼らの説得に成功した[Manning24-25] 。
 上院がウェストミンスターで開かれたとき、群衆が集まっていた。すでに先にSucklingが100名の兵をロンドン塔へ入れよと押しかけて、断わられていた。市内に不穏な噂が流れていた。群衆は、「Strafford派は、裏切り者」のプラカードを掲げる。下院は北部の軍隊に残りの支払いを行なうことを知らせるよう命じる。 Pymは、王の介入は、議会への干渉であると演説。彼は、アイルランド軍も、この王国を転覆させようとするカトリックの陰謀であると述べた。Marten, Peard, Holles, Hoptonなどが、Pymに続いた。Pymは議会の内部では有名であったが、外部ではただの群衆の一人であった。民衆は、王に導きを求めたのであって、議会はたまに召集されて再び解散するにすぎなかった(352)。  
  下院の議会宣言を作成する委員会が形成。しかし、下院は一致できない。「改革された真のプロテスタント的宗教」の草案に、Hoptonは「英国国教会によって現在定められたとおりの」を挿入するように提案。この変更に対して、根絶派が反対(353)。厳しい論争がこれに続いた。この宣言は、言われていることよりもその含みのほうに意味がある。下院はまだ王それ自体の正当性を信じている。しかし、契約派の一人は、「この宣言は、事実上スコットランド契約派のものと同じである。Straffordについて長時間費やしたのは無駄ではなかった」と述べた(354)。この宣言に付随して、「英国軍を議会と対立させようとする悪い側近がいる」(Strafford)という但し書きが添えられた。下院のみならず上院までも、チャールズを中心とする(軍についての)陰謀のショックを受けた(355)。上院は500人の兵を(王たちのStrafford脱出の陰謀に備えて)塔の警護のために差し向けることを決定。しかし、同時に院の周りの群衆について、下院にその妨害を伝える(355)。
・4日:上院は下院に、民衆のために審議ができないと告げる[Manning26]。議会の宣言が、両院一致で、外部に発表。群衆は歓喜する。巷にフランスが援軍を宮廷に送るとの噂が流れる。宮廷も宣言とこれの影響に驚愕する(357)。王の王妃も身の危険を感じてて、北部の軍隊と共に、ロンドンを離れることを考える。これはフランス軍の救援を要請することと受け取られた。
・5日:Pymが軍隊の陰謀(クーデーター)を暴露。北部のイングランド軍が議会を制圧すること。フランス軍がポーツマスを目指していること。王妃がこの陰謀に加担していることなど。上院は、王に、宮廷内の全員をその場に留置させるよう要請。下院は、王を信用せず、調査委員会を結成。下院議事堂の倒壊。Strafford裁判と軍隊陰謀と北部軍の議会制圧陰謀の三つは、それぞれ別の事件である。
・6日:事件の当事者たちはフランスへ逃亡したことが知れる。上院、港の封鎖を命令。王に王妃のポーツマス行きを停止するよう要請。王は返事せず。
・7日:両院はポーツマスに代表を派遣。逃亡者の逮捕を発令。上院のStrafford擁護派は力を失う。
・8日:the Bill of Attainderが3度審議にかけられ可決。反対議員の多くが投票に欠席。上院は、議会解散への保護規定を通過。Straffordは、自分の死を覚悟した(361)。フランス軍到着の噂でロンドン市内が騒然となる。王と王妃を塔へ幽閉せよと叫ぶ者もいた(362)。
 両委員は法案の承認を求めて宮廷へ。武装した群衆たちが従う。宮廷内のカトリック教徒たちは死を覚悟する(364)。下院が地方の軍隊に上京を求める。王と軍隊とカトリックに対する恐怖に対抗するためには、両院が一致してこれに対抗するしか道はないと考えられた。大逆法案を可決させた最大の力は、突然に蜂起した民衆の力以外の何者でもなかった。このような民衆の突発的な蜂起の陰に、これを指導あるいは扇動した下院議員たちがいなかったとは言えないであろう。しかし、民衆が、一部の指導的な市民や議員によって操作されたと速断するのは、事態を見誤ることであろう。なぜなら、このような一斉蜂起が、突発的に、幾つかの重要な段階で、より大規模に発生しているからである。それは、このピューリタン革命を実際に突き動かしていったほとんど唯一の決定的な動因であったと言ってもいいと思う[Manning29]。ただし著者はスコットランド問題が大きな影を落としていることを見落としている。
・9日:チャールズは枢密院を開く。Strafford問題で主教たちの意見。チャールズの不決断。外部で群衆が騒ぐ。宮廷内が危険にさらされる。夕方9時になり、チャールズはStraffordの処刑承認を決意(367)。
・10日:王が議会解散禁止法案を正式承認。
 チャールズの母もカトリック陰謀の拠点であった。彼女はこの日、下院に自分たちが身の危険を感じていると告げた[Manning33] 。著者はカトリックに対する恐怖を述べているが、民衆の心に潜むかトリックへの恐怖の真の原因につては、考察を控えている。そこには、宗教戦争による残酷な殺戮から来る恐怖もあったであろう。しかし、その恐怖の背後には、スペインやポルトガルによる、南北アメリカ、特に南米の凄惨な植民地支配とこれを支えるカトリック植民地主義があったことを見落としている。カトリック植民地主義に対するイギリス国民の恐怖は、さらに、イングランドのスコットランド支配というイギリス自体の植民地支配と裏表になって、北部のスコットランド問題と重なり、潜在的な恐怖がいっそうかき立てられた。特にアイルランドに対する残酷な植民地支配は、彼らのカトリック植民地支配への憎悪と恐怖を倍増した。
・11日:チャールズは議会にStrafford赦免の要請の手紙。議会は恐れと無慈悲で沈黙。危急の際には、軟弱な人間ほど恐ろしい者はいない。Straffordはアッシャー大主教と面会。Laudとも面会。
12日:Straffordの処刑(369)。議会と王との間は、この事件で修復できない溝ができた。 民衆は大歓喜をもってStraffordの処刑を喜んだ。それはこの革命の火の祭典を祝うようであった[Manning31]。
しかしこの事件は王党派の結成を促した。王党派は、英国国教会を守ると言うよりは、暴動を恐れて、秩序を維持するという動機のほうが強かった[Manning32] 。
・17日:下院でスコットとの宗教的合同について討議。英国国教会側は、Clupperを議長に立てる策を弄した。しかし、Falklandたちの抵抗にもかかわらず、下院は、「スコットの兄弟たちとの連帯を強め、教会改革を進めるために両国の合体に賛成する」との結論に達した(377)。王はスコットから援助を得たいと願っていた。それは、スコットランド軍に補充することに対する不満が高まり、スコットランドとイングランド議会との関係が必ずしもうまくいっていないことを王が察知したからである。特に北部の領主たちは、イングランドに長老制を導入するためにスコットを援助することに嫌気が差していた。スコットランドは、両国の宗教的な合同と自由貿易を提案していた(376)。
・18日:下院で大赦令を作成する委員会を設置する提案。スコットランド協定を王へ再提案。議会の承認なしに両国の間で戦争を行なわないこと。この法案は、従来の慣行に背くものとしてCulpepperたちの不満もあり、再考のため委員会に見送られた。
・21日:スコットランド戦争の戦費の調達が認められる。
 主教排除法案が上院の委員会にかけられる。しかし、これらの討議の過程で、英国国教会について意見が分かれていた。下院での二つの勢力の相互不信がたかまっていく(378)。Clupper,Falklandたちはスコットランド戦争に賛成であった。今や、Pymたちが、根絶派と彼らとの間で、どのような態度を示すかが帰趨を決めることになった。この問題は、特に王の主教排除法案に対する態度にかかっていた。この法案は上院にかけられることになっていた。
・26日:忘却法案が投票される。議会の認可を得ないで、税を徴収した者は、15万ポンドの支払いにより罪を免除する。これを聖職者に適用すると彼らにとって新しい税金となる(379)。
・27日:上院の委員会で主教排除について一致する。
 スコットランドでは、Argyleが王を廃止しようとしたとMontroseに訴えられた。Argyleは、the Committee of Estateにおいて、尋問を受ける(396)。
  イングランド議会での主教排除とは、聖職者を一般行政から排除することを可決するものであって、主教は例外として上院での席を保持することとなった(378)。 上院は、この件について、下院からのいかなる提案にも抵抗しようとの意図があった。これは、主教と王とが提携していて、王は主教たちをとおして上院を制御しようとしていたからである。王が国家の統治者であり支配者であると同じく、主教は教会の統治者であり支配者であった。しかし、王は国民の「代表」ではなく主教は決して教会の「代表」ではない(380)。 上院の決定は下院に対する挑戦であった。しかし、事態の推移は、根絶法案推進派に有利になっていた。戦費調達が40万ポンドにもなったからである。高位聖職者が、戦争を扇動するものとして戦費を増大させたと見なされ、彼らの教会に戦費を負担させろと言う声もあがった。主教の収入を戦費に充てるという意見があったが、この段階では、根絶法案の賛成者は、下院の中でもまた国民の中でも少数派であった(379)。したがってPymたちが目指したのは、主教たちが教区の教会行政にのみその権限を働かせて、一般行政や政治に関与しないことであった(380)。主教たちは「あまりに王にその存在を依存しすぎている」からである。国民を代表しない王が、上院で26票を意のままにする必要があろうかという意見である(381)。
同日:上院で主教の議会出席が承認されたその日に、SayeとCromwellは、下院に英国国教会廃絶を目的とする法案を持ち込んだ。これが根絶法案である(382)。法案は、Deringによって朗読されたが、彼自身は必ずしもこれの成立を期していたわけではない。鋭い論戦の後で、135対108で、再度朗読された。
 アイルランドでは、アイルランドの反乱の指導者は、Roger More, Sir Phelm O'Neill, Lord Maguire などであった。アイルランドのカトリック勢力は、イングランドからのカトリックと地元の農夫たちのカトリックとの二つに分かれていて、両者の食い違いが大きかった(Ⅱ48)。「神と王妃とモア」が彼らの合い言葉であった。イングランド王権が弱まっているこの時こそ彼らの好機であった(Ⅱ48)。 
【6月】
Milton: Of Prelatical Episcopacy. ?
ミルトン:『高位聖職者による主教制について』

ほとんどのトラクトが、教会史や聖書や教議論に基づいていたのに対して、ミルトンのトラクトは核心を突いた発言をした。彼は、腐敗した英国国教会よりももっと大きな危険が、国教会に取って代わるのではないかなどという不安を抱かなかった(393)。
・2日:王妃は法王庁のロセッティに、王の改宗が不可能と告げる。しかし、法王庁が15万ポンドを援助するなら、王は、アイルランドでのカトリックの自由を認めてもよいと提案する。再び政権を勝ち得たときには、カトリックと英国国教会以外のいかなる宗派も絶滅させるという。
・4日:上院は、主教から議席を奪うのは何か根拠があるかと質問。下院は市民行政と教会との機能の相容れない点にこだわる。
・8日:根絶法案が3度目に読まれた後、差し止めになる。
同日:午後に星室庁廃止案が、全員一致で提出される。 軍隊の陰謀について報告。王の関与が認められる(384)。この報告の結果、チャールズを教会の元首とする人たちは決定的な打撃を受けた。Digbyが下院を抜け出した後で、大混乱に陥る。
・10日:王はDigbyを上院議員に任命。これは、下院での不評が上院へ移行するパスポートとなることと、同時に上院を自分の手中に収めたいというチャールズのねらいでもあった。しかし下院は、教会を王の手中におくことの危険性を感じた(386)。
・11日:根絶法案が両院で提出される(387)。 しかし、英国国教会廃止以後にどのような形態が望まれるは不定であった。代案として長老制があった。Usherは、長老の中に主教たちも参与するという案を持っていた。しかし、主教と長老派の牧師が同席するとどうなるのか? 議長のHydeは、王から、王がスコットランドを訪問するまで審議を引き延ばすよう指示されていた。根絶法案に反対する者たちも、何の改革案をも示さないチャールズを支持する根拠を失いつつあった。原初主教制の提案も出された(388)。
・12日:軍隊陰謀のために、反根絶派は勢いをなくしていた。聖職位階の廃止が投票された。
・21日:各教区に委託委員会を設置するという具体案が提出(390)。ここに根絶案が具体化した。しかし、ピューリタンの求めていたのは、教会制度の改革ではなく、礼拝形式の変革であった。→教会制度・聖職者・礼拝形式、この三つは切り離せない。
・22日:Montroseによるスコットランドの陰謀が報告される(395)。イングランドの王権が弱まるにれて、スコットランドでは、裁判官と役人を選挙によって選ぶ案が出ていた。Montroseは、国家には至高者が必要と考えていた。彼は王をスコットランドに来訪させて、スコットランド議会で信仰の自由を認めさせるなら、臣民の支持を得ることができると考えた。
同日:チャールズがポンド法案を承認。王の財政的権限がなくなる。
・24日:Pymは、王と議会の不和が、スコットランドの介入を招くことを察知して、上院で、支払い後の北部の二つの軍隊の解散と、王のスコットランド訪問の延期などの10ヶ条を提案(401)。下院で受諾。上院でも些細な変更を加えて反対なし。
・28日:ロセッティは大陸へ向けて帰還。
・29日:王はスコットランド訪問を8月10日まで延期。
 【アイルランド】イングランド議会の反カトリック政策が、アイルランドにも影響を与えていた。アイルランド政府は自衛に立ち上がる必要を感じた。総督府は、新たな土地の収用と分割を目論んでいた(Ⅱ49)。カトリック宗教の絶滅政策をかぎ取った彼らは、ダブリン城を占拠し、アイルランド国内のイングランド人を殺戮する計画を立て(Ⅱ50)、その日を10月23日と定めた。
【7月】
・初め頃:Milton: An Animadversions upon the Remonstrants Defence against Smectymnuus.
        
ミルトン 『弁明批判』
・Henry Burton: Protestation Protested.
・Lord Brooke: A Discourse opening the nature of that Episcopacy which is exercised in England.彼の寛容と信仰の自由について(Ⅱ36ー37)。この著書は、まさに王政復古後から現代に至る寛容の書である。
・3日:王はPoll Tax 法案を受け入れる。星室庁の廃止はもう少し考慮する。
・5日:星室庁廃止を含める二つの法案を認めると発表。ウェールズ政庁も廃止。これで、国家改革の輪が完成した。チューダー王朝以来の君主制は消えて、王は、議会の承認なしには、権力を行使できなくなった。もし王がこれを破るなら、議会は王の税収を止めることができるからである(404)。
・12日:先のPymの提案にあった、議会が信頼できる廷臣を任命するようにとの要請に対する返答を議会が王に求める。下院は根絶法案の中身の固めを着々と行なっていた。Vaneの提案に反して、下院は、聖職者が委員会に参加することを認めなかった(407)。教区の法令は委員会が掌握し、そのメンバーは9名の平信徒委員で構成されることになった(407)。
・13日:王は怒って、信頼できない廷臣などいないと宣言する。王の助言者たちは、スコットランド訪問は暴挙であるからこれを見合わせるように助言する。王が官位を与える権限を議会に奪われたのであれば、王にはもはやスコットランドに何も与えることができないからである。
・14日:王妃が健康上の理由で、温泉治療に出かけると提案。これは、王がスコットランドに行っている間、王妃は「人質」になるのを避けるためである。彼女はまた、大量の宝石類を持ち出そうとしていた。王妃が軍隊を徴発するのではないかと疑われる。議会は、この提案に疑いを持ち、医者を遣わすが、彼は「王妃は内面的な悩み」によると報告する(406)。
・17日:各郡では5名のMinistersが、教役者の任命にあたる。下院は、英国国教会を廃止するが、長老制は採用しないと決めた。
・21日:王妃はついにロンドンに残る旨を発表。
・23日:議会再開の出発点となった件。王国と教会との改革が改めて問われた。この頃王が、官位任命について、議会と妥協しようとしていた。議会は、少なくとも何らかの具体案を作成しようとしていたが、王は何一つ行なわなかった(409)。彼は再び、スコットランド訪問の計画を立て始めた。ヨークを含めて、北部で譲歩すれば南部で自分の有利になると判断したからである。
・26日:カトリックへの弾圧が強まり、William Wardが処刑される。スペインとポルトガルの大使がこれに出席。マライアは、他所に滞在中で、これについて何も報告を受けなかった。下院はカトリックの反乱を恐れていたのである(412)。
・月末:June Loudounが、王の命を受けてスコットランドへ派遣される。使命のねらいの一つは、昨年の夏に、下院の指導者たちが、スコットランド軍にイングランドに侵入するよう要請した手紙を手に入れることであった。王はこれで、イングランド議会を弾圧できると考えた。スコットランドは、この時点で王に接近していたようである(411)。
・28日:王はスコットランド訪問を宣言。Essexがヨークの北部軍隊の司令官に任命された(413)。大幅な官位の移動がある。カトリック発見の踏み絵となる宣誓をおこなう法案が上院で提出される。
この宣誓を拒むものは、上院から追放すべきこと。これは上院で否決された。
30日:下院は、13人のカトリック司祭が、聖職叙任を行なったと非難。プロテスタントの宣誓を行なわない者は上院から追放すべきと宣言。
【8月】
・2日:下院が13名の司教の糾弾を命令する。
・3日:下院は、宣誓法案が「真のイスラエル人」を発見する方法であると主張。上院はそのような文書を回すのは、彼らの権利を侵害すると反発する。Loundounがスコットランドから帰る。王はスコットランドで軍隊を手に入れることができるのか?この王の行為のために、上院が王を正式に支持する根拠が失われた。Straffordの時と同じことがここでも起こった。王は自分の道を行かざるを得なくなった。
・4日:下院は王の留守中に、Lieutenant of the Kingdomをして、国政の責任に当たらせようとする。上院は根絶法案が彼らに押しつけられるのではと恐れて、Commissionersを任命することを希望する。
・7日:両院ともに、両軍が戦場にいる間は、王の出発を見合わせるほうがいいと一致する(414)。最後の請願が王に送られる。王は月曜に出発の予定。Folklandは、王の出発を1月まで延期するよう申し入れる。王は、Loundounから、延期は許されない事情があるとの情報を受けたと述べたが、その情報は何かを言わなかった。恐ろしい危機感が下院を遅い、彼らは夜10次まで議論を続けたが、その危機を避ける方法を見いだすことができなかった。王は王冠を失ったと言われる(415)。
・8日:日曜でも、再び議会が開かれ、王の訪問延期を認める要請がスコットランドの代表団に送られた。王も、この要請を認可しないよう代表団に要請を出す。王は出発を火曜まで延期する。下院の反対を押し切って、Bristol, Digby, Duke of Richmond などが要職に付く。上院は概ねこの人事を歓迎。
・10日:王自身が議会に「最後に」姿を見せる。スコットランドとの協定法案を通過させ、スコットランド軍に22万ポンドの将来の支払いを認める(417)。スコットランド代表は、できる限り王を支持すると表明(417)。王がスコットランドに来るなら、すべての政治的争いは決着すると宣言。下院には、イングランド軍の陰謀(Army Plot)が現実のものとなる恐怖が走る。ここで、イングランドを軍隊の支配下に置かないことで両院とも一致する。しかし、議会は危険を過大に見ていた。軍隊は、すでに2度も政治に関与することを避けてきたし、王自らが現われても軍は同意しなかったであろう(418)。王は、軍を本当に動かすかどうかを最後まで迷っていたからである。
・12日:今や根絶法案は棚上げになった。議会の関心は、北部の二つの軍隊に資金を調達して、これらを撤退させることに向けられていた。スコットランド軍は、8万ポンドを支給されて、25日にツイード河を渡って撤退する手はずであり、9月7日に和平協定が結ばれることになった。議会は王と共に代表を送って、監視に当たらせることにしたが、実際は、王を監視することであった。議会は王が北部の将校たちと手を握るのを恐れていたし、軍の陰謀に加担した者たちを王が赦免しないように警戒していた(Ⅱ2)。
同日:[Manning34]スコットランドでもAgyleと Hamiltonとが追放され、Leslieが殺されそうになったとの報告をPymが議会で報告。王、主教たち、上院、下院の一部が結託した陰謀が行なわれつつあるという疑いがいっそう強まった。スコットランドのCawfordのような存在が、ここイングランドにもいるのではないかという猜疑心がPymたちに芽生えたのである。このスコットランド問題と11月1日のアイルランド問題とが連動して、イングランドの下院を決定的に方向づけていったと見ることができる。彼らは、常に「まだ何かある」という猜疑にとりつかれていくことになった。[Manning35]。
・13日:陰謀の一員であるChudleighが審問され、聖職者たちによって、1000人の騎兵隊が確保されていたことが知られた。
同日王がNewcastleに到着し、スコットランド軍の歓待を受けた。Leslieに対しても、王は丁重であった。彼はスコットランド軍を直ちに味方に引き入れようとは考えず、まず彼らに満足を与えることを意図していた(Ⅱ5)。
・14日:イングランド防衛委員会が召集される。Falkland, Culpepper, Pym, Vane Jr.などが加わった。議会には「主教派」は存在したが、「王党派」はまだ存在していなかった(Ⅱ2)。
同日:チャールズはエディンバラに入城。これまでのスコットランドの要請をかなえた発令をした。スコットランドの要請が承認されたからには、今度は王が要請する番となった(Ⅱ6)。彼は長老制の教会に出席し、長老制の説教を聞いた。
・16日:王のロンドン不在の間、誰が政府と防衛の役割をするのかが問題になった。枢密院は王の信頼を得ていなかったし、国事秘書も権限がなく、要するに政府が存在しなかったのである(Ⅱ3)。エディンバラからの王の通達による。さらに大事なことは、スコットランド議会との交渉に当たるべき議会の代表が選出され、Lord Keeperがこれに任じられた。
・20日:これまで王の権限であった「発令」が、王の同意なしに議会の権限で行なわれる最初の議会「発令」(ordinance)がなされた(Ⅱ4)。
・23日チャールズが、スコットランドとアイルランドの両方を味方に付けることに成功したことをイングランドの議会は何一つ知らなかった。議会による代表のNicholasは、軍隊の解散の件ばかりを報じていた(Ⅱ8)。イングランド議会は、王が、直接の軍隊の援助を要請することなく、スコットランド軍と接していることを知るのみであった。議会の中が楽観的になり、王に対する敵対意識が一時和らいだ。だが、一つの議会で、六つもの税が承認された例は今までなかった。全部で80万ポンド。
・25日:スコットランド軍は、再び河を渡って撤退した。ヨークのイングランド軍も解散の準備を整えた。ようやく、平和が訪れようとしていた(Ⅱ6)。チャールズは、スコットランドで、5000の歩兵と1000の騎兵とを入手することでスコットランドと同意した(Ⅱ6)。チャールズはかつての敵を昇任によって報いた。この間にチャールズは、海を渡って使節を送り、アイルランド軍とも交渉していた。王はここに、スコットランド軍とアイルランド軍(Straffordの軍隊と弱いがアイルランド領主の軍隊)の両方の支持を得ることができた(Ⅱ7)。こうして、スコットランド軍とその議会、アイルランド軍とその議会とが王の支持者となり、ウェストミンスターの議会と対立することになった。
・28日:疫病がロンドンに蔓延した。議会の解散が求められた。長期議会は、王に対抗して両議会が一致して対抗することで、議会の権威と権限を強めることに成功した。Strafford流の王権主義はもはや消えた。これが、1660年以降の出発点となった(Ⅱ11)。
・30日:スコットランド軍が河を渡ったことが、イングランドに報じられた。チャールズは、スコットランド軍を用いて、イングランド議会を制圧しようなどとはしなかった。人々は、王が悪者にされていたのではないかと疑い始めた(Ⅱ9)。しかし、チャールズも遠く離れていたために、この機運に乗ずることができなかった。彼は内心で、どのようにして外国の軍隊を使用するかを計画していた。 これはイングランド国民にとっては、もっとも嫌悪すべき事態である(Ⅱ9)。チャールズの北部旅行の間に行なわれた、イングランド議会の成り行きは、歴史的に見ても謎に包まれている。いったいここで、後の亀裂の原因となる何が起こったのか?
 ここで潜在化していた宗教問題が、重要な意味を帯びてくる。ようやく平穏を取り戻したこの段階において、宗教問題はいっそう注意深く扱われるべきであった。民衆や一般の意識人たちは、議会や王や政治の動きに、それほど大きな関心を抱いているわけではなかった。彼らにとって、宗教は、日常のもっとも密接な関心事であった。したがって、時の文人たちに比べると、ミルトンのように政治に投身したのは例外であったと言える。この平穏で、しかも重要なときに、「宗教」が大きな論争の的となった。真の教会とは何かをめぐって、イングランドがまっぷたつに割れるという事態は、一つの大きな謎である。土地の再分与。階級闘争。信仰の自由。教会制度。さまざまな側面が考察できる。しかし、これらの側面を統合するときに、浮かび上がってくるのは、近代西欧国家の植民地主義とこれを支えた宗教イデオロギーである。
同日:イングランドの代表団がエディンバラに到着。町中で大祝賀会。
【9月】
下院は教会内のカトリック色を一掃するよう通達を出す[Manning]47。この一連の偶像破壊には下院の後ろ盾があった[Manning49]。
・3日チャールズは、Nicholasに、これですべての障害が取り除かれたと書いた(Ⅱ19)。
・7日:スコットランドの議会では、Argyleが、スコットランド議会以外のいかなる発令も成すべきでないと主張。彼は多数派であった。しかし、投獄されているMontoroseを初めとする領主たちは,彼に従うくらいなら奴隷状態のほうがましという意見。しかし、ArgyleもLeslieも王に対して丁重であった。
・9日:イングランドの下院は、各教区が、自薦による説教者を立ててよいと発令。これを上院との相談なしに行なう。この日に、上院は下院の決議を無効とする。 投票は20名の内、11対9であった。1月16日の発令で議会が定めたとおりに礼拝を行なうべきこと(Ⅱ16)。上院は、この発令を下院に知らせなかった。これに対して、下院はついに上院と別の決議を知らせることをにする。下院はこのような重要な問題を20名の少数出席で決めたといって、上院を非難(Ⅱ17)。この件は、両院の議会で決定することを提案。議会解散。
・16日:スコットランド議会は、任官は議会の助言に従って成すべきと決議。 チャールズは表向き従う。
・22日:Argyleは、王の発令した任官に抗議する(Ⅱ20)。 王が命令すべき軍隊が解散させられる。スコットランドの援助が当てにならないことを知る。スコットランド議会は、王の任官を拒否しただけでなく、スコットランド議会の任官の承認を王に求める。これらの背後には、民意を背景にしたArgyleの画策があった。王は、過去のことはもう存在しないかのように振る舞っていた(Ⅱ20)。
【10月】
・1日:Loundoun,Almondたちが任官。
・2日:Montroseがチャールズに書簡。
・9日:チャールズは、Montroseの意見を退け、スコットランド議会と和解することを考える。チャールズの不満が徐々に高まった。彼はスコットランドの議会から侮辱されたと感じる者がいた。
・10日:この頃から、ロンドンでは、さまざまな宗派の活動が活発になり、狂信的な宗団も現われ始めた(Ⅱ29)。Adamites, Family of Love, Brownists, Separatists など。平信徒が説教を始める。使徒が最初の主教を任じたときから、法王主義が始まった。さまざまな礼拝が試み始められた(Ⅱ30)。イングランドには、Pymの一味を除いては、もはや政府と呼べるものが存在しなかった。根絶法案は、イングランドに長老制を導入することができないことを示した。ロンドンの庶民たちが、スペンサーのblatant beastのように蜂起して、知識階級を襲った。さまざまなプラカードがヨークにも現われた(Ⅱ31)。
・11日:スコットランドでは、Montroseが、Hamiltonを裏切り者と告発。チャールズはこの手紙をArgyleやLoundounたちの領主に見せる。彼ら二人はエディンバラに5000の兵を所有したいた。Montoroseの告発が真実であれば、この二人は逮捕されなければならない。
・12日:チャールズの側近、The Earl of Cawfordはカトリックであった。彼は、二人の僭越を認めなかった。彼は二人を王との謁見に招いて、その場で逮捕する計画を立てた。王はこれに賛成しなかった。しかし計画が漏れて、スコットランド議会は、事実究明に乗り出した(Ⅱ23)。 午後にチャールズは、500の兵を連れてスコットランド議会に出かけた。ArgyleとHamiltonは危険を感じて避難する。
・15日:チャールズは累が自分に及ぶかもしれないが、スコットランド議会に公開の究明を迫ったが、議会はこの重大さを知って秘密の捜査を主張。
・20日:イングランド議会再開。エディンバラの状況が報告。カトリックの陰謀が第一の議題であるとD'Ewesが主張(Ⅱ32)。上院では、スコットランドの問題は、確かな証拠がない限り取り上げるべきでないと主張。100人の兵が、イングランド議会の庭を警護することに決定。HydeやFalklandたちの主教派が、王党派に転じつつあった。この段階で、政治問題に限定するなら、両院の一致が保たれ、内戦はなかったであろう。宗教問題については、Pymには、「寛容」という大きな宗教問題が意識に上るところまではいっていなかった(Ⅱ33)。彼には政治力があった。しかし、宗教に関する理念がなかった。Falklandは誠実な批評家であった。しかし彼は政治家ではなかった。これまでに行なわれたほとんどすべてが、王政復古後に復活して、制度化した。これ以後に行なわれるほとんどすべてが、王政復古後に廃止された(Ⅱ34)。
・21日:捜査委員会が設立。チャールズは譲歩した。ロンドンでは、この間、チャールズに対する警戒を強めつつあった。チャールズも、スコットランド議会からロンドンの議員の「裏切りの手紙」を入手して、Strafford以上の反逆罪で、イングランドの敵を倒そうとしていた。Pymは、王の真意を疑っていた。
同日:根絶法案がついに棚上げとなる。同時に、聖職者の行政権限を奪い、上院からの主教の排除案が提出(Ⅱ37)。
・22日:かねてのアイルランド反乱の日である。その夕方、Owen O'Conollyがこの計画を知らせ、総督府に伝わった。彼らの衝撃は大きかった。さっそくダブリン城の警備が強化されて、城はかろうじて占拠を免れた(Ⅱ51)。
・23日:Maguire, MacMahonらが逮捕される。アイルランドの反乱は挫折。
・25日:Pymに嫌がらせの「疫病の布」が送りつけられる。 Pymには、根絶法案の成立は不可能と思われ、主教排除案がせいぜいと考えられた。
同日:王は、議会の主教排除の機運を知り、英国国教会をどこまでも支持することこそ自分の使命との手紙をニコラスが届けた。これは事実上、下院に対する宣戦布告であり、内戦の発端とる危険があった(Ⅱ40)。内戦の結果、チャールズの望んだ立憲君主制となるのだが。
・28日:チャールズはWilliam, skiner, Hallを主教区に任命。しかし、その手続きには、議会の承認を十分考慮したとは言えない。
・29日:主教の任命に憤激したCromwellは、両院合同開催を提案。「抗議」が審議される(Ⅱ41)。
・30日:Pymが先の第2軍事クーデター陰謀の詳細を初めて暴露。最近のスコットランドの動静とイングランドでのさらなる軍事クーデターの可能性を示唆する。Pymのほうが、王よりも一枚上手の政治性。
同日:王妃がフランス大使に、現在王は1万人以上が召集可能と告げる。
【11月】
・1日:アイルランドで反乱が起こる。
 同日:「大抗議」の審議が行なわれる予定。
・2日:フィリップ神父が逮捕。ピューリタン議員が一致してアイルランド制圧を決定。
・4日:スコットランド軍よりアイルランド制圧への援助の申し入れ。議論の末これを受け入れる。
・5日:Pymはスコットランド軍とイングランド軍が、逆に議会制圧に利用される恐れを述べるが、賛同を得られず。
・8日:Pymは、アイルランド反乱に対して、修正案を議会に出す。彼の王に対する不信は、王室とカトリックとの陰謀を恐れるところにあった。彼は、アイルランド鎮圧に対する議会の国家的義務さえも、この際は除外し得るという主旨を述べる。これに対して、Culpepperは、アイルランドはイングランドの一部であるから、いかなる結果でも「防衛」しなければならないと論じる(これこそ植民地主義そのもの)。しかし、Pymは自説をとおして、多数をもって可決に持ち込む。アイルランド制圧の軍が、そのままチャールズによって、議会制圧軍に利用される恐れを感じたのである。この決定は、下院として最も明確な革命性を帯びた議決であった(Ⅱ57)。しかし、下院の議決は、それまでの主教派を「王党派」へ変質させるきっかけとなった(Ⅱ59)。
同日:夕方に、延期されていた「大抗議」が読まれた。その内容(Ⅱ61)。「大抗議」の意図とこれの意義。反法王・反分離・反寛容(Ⅱ62ー63)。
・9日:「大抗議」は反論なく一致。
・11日:アイルランドの反乱の報告。両院一致して鎮圧に軍隊の派遣。「大抗議」は一時棚上げ。Baggstarreという鍛冶屋が、Colonel FitzWilliamの指揮下にあって、40人のアイルランド兵が、密かにロンドン市内で活動しているという知らせをSir Walter Earleにもたらした [Manning36]。
・12日:軍隊派遣の際のスコットランド軍の人数に関して、両派の思惑が食い違い議論。スコットランド軍への依存は、下院でさえも乗り気でない。
・13日:Pymの指導による「大抗議」が「市民宣言」として提案される(Ⅱ71)。これは、下院に初めて大きな亀裂をもたらす結果になった。抗議の宣言後に、これに対する大きな反対が生じたのは、そのためである[Manning63]。
・15日:宮廷とフランスやカトリックとの関係が噂。108名のアイルランド人らしき人たちが、108人の下院議員を殺害するために任命されて潜入しているという知らせが、下院に入る。暗殺計画は、11月18日に行なわれる予定であるというものであった[Manning37]。さらに、バッキンガム、ウオリック、ウースター、ランカシャで法王主義者たちが蜂起するというものであった。上院のカトリック的な議員たちがリストに上り、彼らの邸宅が家宅捜査されると言う騒ぎになったが、「ジェズイット」は居なかった。
・16日:「大抗議」が再び討議。教会問題に集中する。これの修正。この頃から、アイルランドでのカトリックによる残虐行為の噂が、広まり始める。ロンドンでもさまざまな噂が流れる。
・17日:第二軍事クデター陰謀の詳細が報告。この頃ロンドン市長が、市議会を開き、アイルランド問題への資金調達を討議した。その際に、上院及び宮廷より、すべての法王的な者を排除すべきであるという条件を付けた。そうでなければ、ロンドン市民の資金の援助は受けられないであろう[Manning61]。ノリッチで法王主義者の蜂起があったという噂。この頃より「カトリック狩り」の様相を帯びてくる。「悪魔と死の化身」がロンドンを彷徨し始めた[Manning42] 。
・20日:「大抗議」の審議。王とカトリックとの弾劾へと傾く。下院で「大抗議」可決される(Ⅱ76ー77)。内戦の予感で人心は動揺し、改革の遅延は、次第により過激な手段へ訴える様相を呈し始めていた[Manning44]。
・24日:アイルランドでは、スコットランド人よりもイングランド人が被害を受けた。ただしアイルランド反乱の実態はまだ知られていない(Ⅱ64ー68)。
・25日:チャールズは、スコットランドからロンドンへ帰還。大勢の歓迎を受けた。その折りに王は、「現在の騒動は、卑しい身分の人たちによるもので、市の大部分の名誉ある人たちは、王に忠実である」と述べた。これは失言であった[Manning65]。
・スコットランドでは、Argyleが実権を握った。彼は、イングランドでPymがやろうとしていたことを、すでに成し遂げていた。Argyleの支持基盤は、地方の州、教区の代表たちであって、これは、イングランドの下院の構成と同じ構成であった。スコットランドの封建貴族たちは、この「スコットランドの下院」の彼への支持に対して為すすべがなかった。Argyleは、Montrose、Crawfordを釈放し、官職を広く与えた。Hamiltonは侯爵となり、Leslieは公爵になった(GardinerX,80) 。チャールズは、Pymの意図を知っていた。スコットランドで名目的な王になるよりは、イングランドの名目的な王になるほうが、チャールズにはずっと耐え難いことであった。ただし、スコットランドは、宗教的に一致していて、これが彼らの力であった。一方、イングランドでは、宗教的な勢力が分かれていた(GardinerX,81)。イングランドでは、下院は、法的に上院の同意なしに何一つできなかったが、上院の同意は得られそうになかった(GardinerX,81)。チャールズは、PymとHampdenがスコットランド軍を南部へ引き入れるように誘った文書を入手することはできなかったが、それでも、反逆の証拠は十分であった。Straffordが憲法違反で処刑されたのなら、Pymたちも同罪である。チャールズは、ロンドンへの旅の途中で、合法的に彼らを処刑する方法を思いめぐらせていたのは間違いない(GardinerX,82)。ロンドンでは、王党派が形成されつつあり、過激な民衆の暴動を快く思わない有産階級の市民が増えつつあった。彼は、ギルド・ホールで、盛大な帰還パーティーを11月25日に開いた。王党派の意図は、エリザベス朝のプロテスタント体制を復活させることであった(GardinerX,84)。「現在までの不穏な暴動は、すべて卑しい下層から生じたもので、上層の人たちは、王に愛着を抱いていると思う」とチャールズは言った。
・28日:下院の周囲に武装した市民たちが集合。「主教を倒せ。反キリストを倒せ」と叫ぶ。チャールズは、下院の警護をEssexからDorsetに変えた。戒厳令の予感が始まった[Manning66]。
・同日:アイルランドで、O'Neillが、王権とカトリックの回復を宣言したという知らせが入る。彼は、王の要請により、イングランドに侵攻して、プロテスタントを根絶やしにするとも宣言。しかしこの文書は、偽造の疑いがある(GardinerX,92)。
・29日:さらに多数の市民たちが押しかけて「主教は要らない!」を連呼する。これら市民たちは、「大抗議」や下院の支持以上のこと、英国国教会と祈祷書の廃止を求めていた[Manning67]。Essexが両院に配置した護衛を、王が中止したことも理由の一つであった。市民たちはカトリックからの議会に対する攻撃を恐れていたのである[Manning69ー70]。しかしここには、統治者となりつつあるGentlemen階級と被統治者である平民との開きがあった。統治する議会と、される庶民との間の違いを見極めるべきであろう。国家の基本法を破った者が処刑されるのなら、教会の基本法を破った者も同様に処刑されなければならない(GardinerX,87)。
・Dorsetの警護が解かれた。その隙に、下院はロンドンの地方警護を招き入れた。こうして、下院は、地方警察によって警護されることになった。
【12月】
・1日:大抗議がハンプトン・コートに居る王に渡された。それは、宗教と政府を変えるものであった。王は、これを読んで嘲り、後日改めて返答すると答えた。彼にこれを承認する意図はなかった(GardinerX,89)。
・2日:チャールズは、両院の前に現われて、現在までの両院の法令を承認すると同時に、「自由と真の宗教」の確立のためにできるだけのことをしようと述べた(GardinerX,89)。しかし、Straffordの場合と同じく、ここでも、王妃の浅はかな処置と分裂派の過激な行動とが、事態を破壊することになる。下院は、前日の王の大抗議に対する態度からも、上院での王の演説を信用しなかった。しかし、宗教と秩序を、相手の宗教と協調することによってではなく、「力」によって回復する意図しか下院にはなかった。彼らは、アイルランドの反逆に対しても、力による鎮圧以外に理解を示さなかった(GardinerX,91)。
・5日:LennoxをLord Stewardに任命する。この人事は、先にロンドン市長に男爵を授与するとの約束に続く、一連のチャールズの戦略であった。
・7日:教会に根絶法案を持ち込んだ同じグループが、今度は軍隊に根絶法案を持ち込もうとしている(GardinerX,95)。すべての人事の陰には、アイルランド問題があった。
・8日:下院は王に、アイルランドでカトリックに対する寛容令を発行しないよう発言。そのような処置は、アイルランド・カトリックの軍隊の忠誠を弱めるとの反論。しかし、この申し入れは可決された(GardinerX,97)。
・9日:王は市長及び周辺の州に、騒ぎを起こす徒弟人たちを処刑するよう指令。この時代は徒弟人は雇い主に支配されていた[Manning78]。
・10日:王は「法と秩序」に従う旨を宣言。宮廷では、王妃がカトリックのために策略をめぐらしていたが、上院はカトリックの軍隊を解体するほうに向いていた。王が「法に従う」と言っても、「法」は国民的合意から、ずれたままであった。
・11日:王の宣言を裏切るように、400人の裕福な商人や事業家たちが、下院にPymの政策を支持する請願を提出。それは議会から主教とカトリックを排除することを求めていた(GardinerX,98)。そこには、2万人の署名があった。だが、署名を集めることに対して、市長からの妨害があったと報告。12月9日が、請願提出の日と決められていた。当局は、暴動に備えて厳重な警戒をしいた。しかし、請願指導者たちは、請願を12日に変更すると告げておいて、実際には11日に提出するという戦術に出た。それは、1万5000から2万人の署名で、ロンドンの身分のある商人・議員たちからなっていた[Manning80]。Fowkeが指導者であった。これに続いて、3万人の署名によるもう一つの請願と、徒弟たちの請願が提出された。ロンドンでは、二重の階層のレベルが請願が行なわれたのである。下層のほうは、宗教的過激派と分離派であった(80)。彼らは、英国国教会と典礼を廃止すべきことを「根絶」という表現ではっきりと求めていた(82)。この請願は、先のものより冷たくあしらわれた。議会では、後者の扱いをめぐり、賛否が分かれた。民衆の要求に対する恐れと同時に、特に下院において、王側のクーデターを恐れる派とができつつあり、ここに両極の分裂が始まった(83)。当時のロンドンは、45万であった。それ以外の都市は、せいぜい2万5千くらいであった。また、ロンドンでは疫病が流行し、これも神の裁きと受け取られた。ロンドンでは、時、ヨークの軍隊からの退役軍人が多数の浮浪者となっていた。彼らは、Cavaliersと呼ばれた。
・12日:下院の欠席議員に1月12日までに戻るよう指令。これは彼らが王を支持すると読んでの上でのことであった。[Manning54]ハンティンドン州から、分離派や分裂主義者に関する苦情の請願が下院に出される。長期議会の間に、宗教的寛容は事実上容認されていたことになる。穏健なピューリタンも保守派の教会人も、「法王主義者」(papisit)と「シオン派の革命主義者たち」の間で、揺れ動いていた様子がうかがえる。
・14日:王は上院に出席。軍隊の徴兵問題で譲歩を提案。しかし、上院はカトリックを軍隊から排除する法案は、いまだ審議中だから、王の干渉は好ましくないと拒絶(GardinerX,99)。カトリックへの寛容に関しては、上院は過度に過敏であった。
・15日: 下院は激しい論争の後で、「大抗議」を印刷して配ることを決議[Manning86]。
・17日:下院は「大抗議」の印刷と配布に踏み切る。上院は下院と一致して、「寛容令」反対を宣言。Bristolがこの問題を委託される。彼は祈祷書には手を着けないことにする。
・18日: 下院は、これまで渋っていた兵役に対する支払いとして、将校たちからの要求額の半額に当たる13000ポンドを支払う決議をする[Manning86]。
・19日:Bareboneという徒弟人が説教。市長によって投獄される。また市中で、分離宗団の者が説教をして、大勢の人を集め、このために(市長側から)襲撃された。
・20日:王が教会法に基づく礼拝を支持したことについて、教役者たちから下院に請願。議会が一致を見るまでは、祈祷書の使用を強制しないこと。また、現在の教会会議ではなく、教会総会を開いて議会に答申するように求める(GardinerX,101)。
同日:上院はスコットランドから1万の兵がアイルランドへ進駐するのは、イングランドから同数の兵がアイルランドへ進駐するまで延期することを決定。長老制のスコットランドによってアイルランドが支配されるよりは、アイルランドが反乱状態のままのほうがいいというのが上院の意図であった(GardinerX,101)。
・21日:下院は、初めてMilitia Billを朗読。イングランド生まれのアイルランド・プロテスタントの請願を添えて、至急1万のスコットランド軍をアイルランドへ派遣するように上院へ要請があった。下院では、王がアイルランドで自分の軍を動かすことは、それがイングランドへも向かうのを恐れていた。討議は両院がすでに対立状態にあることを露呈していた。上院は、イングランドとスコットランドと両方が揃うように、下院に軍の召集を急ぐようにと返答。下院は、目下、上院から主教を排除することが、両院の一致をもたらす重要事項であると考えていた。しかし、市民からの請願は、主教とカトリック領主から選挙権を奪うように求めていた。一方ロンドン市長は、このような請願は「反乱に他ならない」と断じていた。法的には上院のほうが有利であった。Pymたちは抗議の段階に留まったままで、これを立法化することができなかった(GardinerX,104)。下院は、徐々に、法に対してよりも暴力に対する処置を求められ始めていた。
同日:ロンドンの市会議員選挙。ピューリタン派が概ね勝つ。この選挙で穏健派は後退し、急進派は勢力を増す。この段階で、Common Councilは、下院とほぼ同じ勢力分野をとることになり、ピューリタン側に立つことになった[Manning87]。一方で、the Aldermenのほうは、チャールズの側にたつことになった。これ以上のロンドン市民の反抗を押さえるために、チャールズ何らかの手を打つ必要を感じた。チャールズには、市民の反乱を放置することで、混乱と無秩序を恐れる一般の人たちを味方に付けるという知恵はなかった(GardinerX,108)。チャールズは、下院の5人の議員の逮捕と反逆罪という一連の構想をこの時に立てたと思われる。
・23日:ロンドン塔の所長が、王によって、BalfourからLunsfordに変わる。Balfourは、Strafford脱走計画の際に、Billingsleyの軍隊に抵抗して、塔の門を開かなかった[Manning88]。
同日、この人事に関して下院に抗議が持ち込まれる。
同日チャールズは、Remonstranceに対する回答を出す。彼は、王の意に反して、下院が抗議を印刷発表したことを厳しくとがめた。チャールズにとり、英国国教会は、ローマと分離派のどちらに対しても守り抜かなければならない制度であった。主教が上院に議席を保つことは、イングランドの基本法であった(GardinerX,109)。チャールズは、古代の基本法と古代の信仰を守ろうとした。ただし彼は、Synodについては、検討を約束。チャールズの回答に対して、上院は、下院の抗議に同調しなかった。特に、下院の「危険分子」に関する王の声明に抗議する下院の声に上院は耳を貸さなかった。
同日:午後に、3万人の署名と共に、主教制を根絶する請願が下院に提出(GardinerX,110)。
・24日:下院は、Lansfordがその任に適当でないと判断。しかし上院はこれに同意せず。下院は引き続き、Lunsfordの人間的な欠陥を追求。両院ともに、王がアイルランド軍をイングランドに導入することと、イングランド軍が塔を占拠するためのものではないかと恐れた(GardinerX,110)。下院は、危険を感じて、Lunsfordの上司に当たるNewportに、直接塔の指揮を執ってほしいと要請した。これを知ったチャールズは、即刻彼をConstableの地位から解任した。上院の立場は困難であった。上院では、この討議をクリスマス休暇の後に再開することが提案された。しかし、緊急を要するという理由で、否決。上院自体も分裂様相を見せ始めた。さらに下院は、主教やカトリック派の上院が、アイルランド反乱に乗じて「邪悪な党派」が形成されつつあると攻撃。下院は審議を延期。
・26日:市長は危険を感じて、チャールズにLunsfordの解任を要請。王はこれを受け入れる。
・27日:下院はアイルランドからの軍隊派遣の要請を受ける。アイルランドでは、イングランド軍は反乱に持ちこたえられなくなった。今や3000の兵が必要であった。しかも、反乱側は、王妃から、カトリックのために武装せよとの支持を取り付けていた。すでにカトリック領主たちが、反乱側と通じていた。アイルランド議会は、今や完全にカトリックの手中にあった。Dillonは、イングランド軍の司令官であったが、このようなアイルランドの状況を報告。チャールズに、信仰の自由とアイルランド議会の独立を承認するなら、王を支持するとの伝言を伝えた(GardinerX,112)。
 Pymは、この会談の内容を知らなかったと思われるが、Dillonの到着を知った。Dillonは逮捕され、委員会によって審問され、カトリック領主たちの計画の一部が知られた。Pymは、この情報を下院で報告したのである(GardinerX,113)。彼は、アイルランドで、カトリックへの寛容が承認される恐れがあると報告。アイルランドのカトリック領主たちが、2月から夏にかけて企てていた寛容の承認を、今王から引き出そうとしている。これが下院の結論であった。アイルランドの反乱は、地方的なものから、全アイルランド国民へと広がろうとしていた(GardinerX,114)。上院もアイルランドの件で下院との協議の必要を感じた。ところが、たまたま、 一群の市民が、Lunsford事件に抗議して議会に押しかけていた。彼らは上院議員たちを見ると、「主教は要らない!法王の議員は要らない!」を連呼する [Manning89]。たまたま、そこにLunsfordが居合わせたために、さらに騒ぎが起こり、恐れた彼は、剣を抜いて市民を追い払った。上院議員たちは、その夜、議会内に留まることを勧告された。上院は下院に、王に対して議会の警護を依頼するよう申し入れた。ただし、危険がそれほど大きかったかは疑問(GardinerX,118)。Hydeは、市民たちを"roundhead dogs!"と呼んだ[Manning107]。王妃がそう呼んだからである。Lilburnは武装した市民を率いて、ウェストミンスターに押しかける。Lunsfordの暴挙のうわさが広まり、徒弟人、職人たちが続々と集合し始める。上院は下院に、暴動を鎮圧するよう要請。王は、枢密院を通じて布告を出し、騒ぎに対して警告する。また、軍隊を動員して、王宮を警護する。また、市長に警察を動員して、銃殺によって鎮圧を命じる[Manning92]。
・28日:12月の三日間が始まる。登院した主教は2人だけであった。武装した大群衆が議会を囲む。ウェストミンスター寺院にまで乱入。主教たちは身の危険を感じて、出入りできず。20ー40人の警護が、民衆にピストルと剣でなぐり込みをかける。LilburnとWisemanが傷を負う[Manning94]。
 下院は、LansfordやDillonよりも、今や王自身こそが危険の源であるとの疑いを強めた。下院が、上院と結んで民衆の鎮圧に回ろうとしなかったのはこのためである。王は、市長とヨーク大主教とDigbyの3人を呼び、この事件を下院への攻撃の機会と見る。議会解散権の議会による制限を無効にすると告げる。これに対して、下院は何ら行動を起こさなかった。今や市民こそ下院の最大唯一の味方であった。Pymは言った「下院は人々を落胆させるようなことをすべきではない」(GardinerX,118)。下院は、もしEssexが指揮を執るのなら、警護を任せてもよいと上院に回答した。さらにCromwellが、北部の軍を王の味方へ引き入れるよう助言したBristolの解任を王に進言するよう提案。しかし、下院の指導者たちは、市民の暴動を歓迎する一方で、彼らを恐れて、その混乱に困惑するジレンマにあった[Manning95]。下院は、王のクーデターに対する恐れも警戒していたが、王に頼って警護を受けるなら、彼らが警護隊によって逮捕される危険があった。市長は完全に制御を失った。職人とその雇い主たちは、暴動に賛同していた。上院も動揺していた。議員はもはや外部の騒ぎのために、自由に論議できる状況にないことを知った。もしここで上院が解散すれば、下院だけでは何一つ決定できない。しかし、投票の結果4票差で、上院は「自由である」と決議。チャールズは、この騒動を議会のせいにすることを意図した。彼は、Dillonによるアイルランドからの報告に心を惹かれていた。王は、下院が軍費を出すなら、1万人の兵を率いてアイルランドへ渡ろうと上院に申し出た。
・29日:チャールズは、Lansfordによって選ばれたアイルランドへの軍の将校たちを夕食に招待した。
  "NO BISHOP!"の叫びが、さらに大勢の市民たちを巻き込んだ。上院は、軍隊をして警護に当たらせた。王は再度布告を出した。民衆は、時には「宗教」を時には「正義」を叫び求めた[Manning97]。王宮から将校たちが出てくると、ついに、CavalierとRoundheadとが衝突した。60人ほどの市民が怪我。両方にけが人が出て、双方が互いにその責任を相手にかぶせた。王はこの段階で、将校たちに事態の解決を依存する決心をした(GardinerX,122)。下院は市民の側に立ち、王の軍隊による攻撃を非難する声明を上院に送った。下院は王が、宮廷に軍隊を召集していること、ヨーク大主教が軍隊を動かそうとしていることを知り、民衆よりも王の軍隊を恐れた。下院は、Essexによる警護を上院と共に依頼しようとしたが、上院は拒否。下院が民衆を動かしたのではなかったが。Venn隊長の説得により、群衆の反乱は鎮静に向かった[Manning 99]。彼は、とらわれた市民の釈放を市長に要求すると民衆に約束したからである。
・30日:29日の夜、12人の主教が、27日以来に通過したあらゆる議会の行為と法案は無効にする請願を王に送った(GardinerX,122)。この計画の背後に、Bristolの息子Digbyがいたのではないか? 王は、主教の抗議を上院に送った。前日の投票で、上院の自由を可決した上院に、王が無効の抗議を送りつけたことは不運であった。上院は下院にこれを送った。下院は、主教の「無分別な行為」で大いに助けられた。上院の意を受けて、下院は直ちに12人を弾劾した。夜9時までに、10人の主教が塔に送られた。下院の立場からすれば、上院での決議が、民衆の圧力という理由で無効とされるのなら、スコットランド軍の圧力の理由で議会の決議も、ことごとく無効となる(GardinerX,124)。この事件を契機に、下院は初めて、国家権力に近づき、王は上院の支持を失う方向に向かった。内戦の危機が近づいているのを人々は感じ取った(GardinerX,124)。上院は、12人の主教を牢獄へ送った。民衆は満足して、歓呼の鐘が鳴り渡った[Manning101]。しかし、権力と秩序の力は、まだまだ強力であった。宮廷はさらなる攻撃を恐れて軍隊を増強した。市議会と裕福な市民たちは、王と民衆の衝突を恐れていた。彼らは、秩序と法を取り戻そうとした。市議会は王に、以後、いかなる暴動も鎮圧すると約束させあ。こうして、「ウェストミンスターでの12月の三日間」[Manning104]が終わった。
・31日:Common councilが、議会に警護を約束する。
 
■1642年
【1月】
・2日:下院が王妃をアイルランド問題、オレンジ公問題、カトリック問題で弾劾しようとしているとの情報が王妃にもたらされた。「弾劾する者たちを弾劾する」案が、12人主教問題で無分別な提案をしたDigbyによって王妃に提案された。これはStraffordがかつて提案したことであった。チャールズは、今この提案を受け入れた。Pym, Hampden, Holles, Hazlerigg, Strode が弾劾の対象とされた。確かに、当時のイングランドの法に照らすなら、彼らもStraffordと同罪であった(GardinerX,129)。DigbyとともにHerbertが相談役に選ばれた。上院で弾劾が密かに提案され秘密の委員会が証拠集めをする手はずであった。もしもその委員会に、Essex,Warwrick,Holland,Saye,Mandevilleが選ばれた場合には、王は彼らを証人にしたいという理由で、彼らを委員会からはずすよう指示された。
・3日:上院でHerbertが弾劾を提案した。その日、4人の主教と55人の議員が居た。内戦で反チャールズに回ったのは、その中の21人である。しかし上院は、たとえ法的であっても、この段階で力の行使に出ることはなかった。Digbyは、議員の顔色から計画の失敗をかぎ取って退出。下院では、王の警護に関する回答が来ていた。王の拒否に対抗して、下院は市議会に警護の派遣を要請。この頃には、上院での弾劾の知らせが来ていた。この間にチャールズは、上院に5名の議員の逮捕を命じた。上院の委員会がまだ審議中の時に王の逮捕命令は、上院に対する侮辱であった。上院は直ちに対抗処置を執り、この事件を公にし、両院を警護する依頼を受け入れた。1週間前には、上院の多数が味方であったが、今や少数派になった(GardinerX,133)。下院は、議会の入り口を封鎖した将校を逮捕した。チャールズは、その夜、5名の逮捕を正当化するために必要な法的措置を執る準備を整えた。しかし、彼は秘密警察流のやり方はとらなかったし、また、流血の惨事を引き起こす意図もなかった。だが、この秘密は(おそらくMurrayによって)すでに漏れていた(GardinerX,135)。
・4日:5名は議会で無罪を訴えた。下院は上院にこのスキャンダルを伝えた。間もなく、王宮に軍隊が集結していること、塔を占拠する手はずが整っていることなどが報告された。下院は昼食のため一時解散。チャールズは、この段階でも計画の執行をためらった。王妃に向かってこれの中止を求めた彼に、彼女は「臆病者」となじった。昼食が済む頃、5名はEssexから、王自身が議会に赴くという知らせを受けた。5名は、それでも逃亡をためらった。チャールズもいまだためらった。上院も、下院と共にthe Attorney-General's Articlesがスキャンダルにすぎないことを下院と一致して承認する意向を示した(GardinerX,137)。王は3、400人の兵と進んだ。さっそく伝令が下院に届いた。5名は、やむなく逃亡した。5名は共にthe Cityに避難した。チャールズは、議会を幾度も見回したが、「鳥は逃げていて見つからなかった」。もしチャールズの一言があったら、兵たちは下院議員に襲いかかったであろう。下院は殺戮を免れて解散した(GardinerX,141)。
・5日:チャールズはなおも市中を捜索した。王が5名をねらっているという噂が広まった。王は市議会へ来た時には「議会の特権!」という叫びが起こった。「国王万歳!」の叫びもあった。王は叫んだ「私は議会と反逆者とを区別している!」。王の帰路、通りは「議会の特権!」の叫びで溢れた(GardinerX,142)。王は、Newport,Hamilton,Holland,Essexたちを伴って、民衆の支持を得ようとしていた。しかし「イスラエルよ、それぞれの天幕へ帰れ!」であった。下院は議会の特権侵害の宣言を作成。11日まで解散。その間、有志がギルド・ホールで委員会を開くことにした。議会は、市議会の保護の下に入った。王がLunsfordたちを用いたなら、5名は逮捕されたであろう。しかし、王は、反逆者逮捕の宣言を出したにとどまった。市議会は反チャールズの宣言を行なった(GardinerX,143)。
・6日:ギルドホールに集まった下院議員たちは、弾劾無効の宣言を出した。反逆は議会の中か外かで起こった。中であれば、議会全体が証人となる。外であれば、その証拠を見つけるまでは逮捕できない。でなければ、議会の権利そのものが犯される。一人が逮捕されるなら、続いて40人、50人が反逆罪で逮捕される。これが議会の感じ取った危険であった(GardinerX,144)。もはやそこには、法も先例も存在しなかった。王の権威と議会の権威と、どちらに刃向かっても反逆罪となる。問題は<主権の存在>にあった(GardinerX,145)。さらにこの主権問題の背後には、「信仰」「教会制度」「政治制度」の問題が存在していた。これらの点で、チャールズと下院が対立した。互いの権利を主張するために、チャールズはアイルランド・カトリックの支持を求め、イングランド議会はスコットランドと民衆の支持を求めた(GardinerX,135)。今や王よりも王妃のほうに、危険が存在していた。彼女は、アイルランドの反乱軍をイングランドに招き入れようとしているという疑いが生じた。市中にパニックが生じた。4万人が武装して家々を守り、10万人が剣や棍棒で武装した。チャールズは、民衆をも上院をも敵に回した(GardinerX,147)。
・7日:王はなおも5名の逮捕を命じたが、市民に妨げられた。
・8日:王は市長の「反逆的な」行為に激しく怒り、ロンドンの市長と市議会に、部隊を組織した者を出すよう命じた。危険を感じた市議会は、地方の部隊を議会警護に用いることを合法的だと宣言した。さらに、この無法状態に鑑み、市長と市議員と市議会は、将校と兵隊を任命する権限を宣言
・9日:日曜日であった。どのような説教が行なわれたか容易に想像がつく。チャールズは、このままロンドンに留まるなら下院に対抗することが不可能であると悟った。特に王妃の身を案じて、ポーツマスに船を用意させた。
・10日:SkiptonがSergent-Major-Generalに任命された。彼は市の訓練された部隊を持つピューリタンであった。彼は攻撃と防御を一任された。この措置は、ついに、上院の委員会からも承認された。全制度がチャールズに刃向かった。
同日:Buckingham Petitionを携えて、Buckinghamshireからも数千人の兵士が参加して来るという知らせを受けた。チャールズと王妃は、ロンドンを去り、王は囚われとなって戻るまで、二度とロンドンを見ることはなかった(GardinerX,150)。
・11日:ロンドンは喜びに沸き立った。午後1時に、5名は船の上に姿を現わした。この日はPymの大勝利の日であった。一方、Humpton Courtに待避したチャールズが、先ずしたことは内戦の準備であった。
・12日:チャールズは、ヨーク州の港町Hullを押さえるために、the Earl of Newwcastleを派遣。同時にオランダとデンマークの援助を要請する手はずであった。しかし、イングランド議会はこれを知って、HothamにHullの占拠を命じた。両院はほぼ一致していたが、塔の執行権だけは、王のものとして下院の要求に応じなかった。
・13日:チャールズはウィンザーに移った。彼は議会解散権を議会に譲渡する件を拒否。5名の反逆が証明されたとした。上院は、下院と共にMilitia Bill(徴兵令)を全国に布告し、各州が防衛体制に入るように命じた(GardinerX,155)。その宣言には、事の原因はすべて「法王派」にあること、全国的なカトリックの陰謀があり、アイルランドはその現われであるとされた。王は外国の軍隊を導入しようとしている。どの州の武器にも城にも見張りを立て、一切の徴兵にも軍費の調達にも応じてはならない(GardinerX,156)。
・15日:下院の委員会(ギルドホール?)は、各州、各教区のメンバーに、Lord-Lieutenantを任命するよう指令。
・17日:Heenvlietが仲介としてウィンザーの王に謁見。しかし、王は、オランダの援助を当てに無駄話。王妃も楽観的。しかし、現実には、ロンドンのCavalierは地方部隊により解散され、北部もウェールズも動かなかった。Hullの占拠も失敗していた。Hull市長が入城を認めなかったからである。王の手元には200名しか居なかった。
・20日:6000人がEssexよりイングランド議会へ。王は、スコットランド戦争以来最も譲歩した手紙を議会に送り、議会の権限を認める旨を伝える。手紙は1ヶ月前なら功を奏したに違いない。
・24日:下院が、王の議員逮捕の権についての抗議への署名を全国に回した。上院は徴兵権を議会の信頼できる者に与える案を拒否。しかし、王への抗議そのものは、上院でも22から32に増加。
・25日:3、4000人がHertfordshireより。 Pymが上院で、各州から彼を支持する請願を発表。同時に上院と下院が一致して難局に当たるべきと強調(GardinerX,160)。
・26日:Lennoxが上院の6ヶ月の閉会を提案。しかし、下院だけの開会は、基本政体の回復不可能を意味していたから、彼は懲罰委員会へ。イングランドは、完全に無政府状態になった。王は、国民のため以外の目的で、外国軍を導入しようとしていた。上院の多くが、民主主義の潮流を恐れた(GardinerX,161)。
・31日:下院は単独で、各州に、戦争の準備を進める権限を持つ者を使命。議会の承認を与えて、王の「反逆的扇動」を鎮圧するように指令。
同日:ロンドン市民の貧困層が食糧難を議会に請願。
【2月】
Milton: The Reason of Church Government.
・1日:議会では、大勢の母親が子供を連れて飢えを訴える。上院はなすすべもない。こういう事態の時に本当にその力を発揮するべき教会制度が、全く無力であることに注意。教会が国家の政体と合体した結果である。
同日:両院一致して、王に、議会の信頼できる者に、砦と徴兵の権限を与えるよう請願。
・4日:法王制と偶像礼拝について女性たちから議会への請願。オランダより援助拒否の通知がチャールズへ。
・5日:上院が主教排除法案を可決(GardinerX,163)。主教たちは、王の僕であって、王権の保護なしには完全に無力であった(GardinerX,166)。
・6日:王は議会に譲歩の回答。徴兵権については、議会の指名に異議を唱える権利を保留することで議会の要請に同意。5名の議員については、訴えを取り下げる(GardinerX,164)。和解の土台が成立した。
・8日:Kent Petition(ケント州より議会へ誓願)。大勢の軍隊が集結。
・10日:Northamptonshire Petiton(ノーザンプトン州より議会へ誓願)。
・12日:両院は、地方のLords-Lieutenantsの名簿を発表。王に提出。
・13日:王と王妃はカンタベリを経由してポーツマスへ。
・14日:王がHullの占拠を命じたDigbyの手紙が議会で報告。
・15日:Leistershire Petition(レスタ州より議会へ誓願)。 1000人が到着。
・17日:Sussexより3000人が到着。
・22日:Digbyが弾劾される。
・23日:王妃たちが航海につく。
・27日:王はHydeを非公式の秘書として、議会での運営状況を王に報告させる。議会からの文書を王からのものとして布告することにする。ここに、英国議会制度への新たな一歩が始まった(GardinerX,169)。Hydeの功績は、王権を法の上位において、緊急の場合には、議会の同意いかんにかかわらず王権を行使できるというStrafford流を放棄したことにある。ただし、下院は上院にその意志を強要できないこと、また、王の良心に反する法案を王は承認できないことであった。このような「主権の曖昧さ」は、持続不可能である。Hydeの処置は問題解決にならないが、当面は功を奏した。1642年には、半分が、1660年には全員が、この案の変更を望まなかった(GardinerX,170)。だが、この妥協案は、内戦を呼ぶきっかけとなった。Hydeは、党派を形成できたが、国家の一致は形成できなかった。しかも、王は今や王子と共に北部で自分の劣勢を挽回しようと目論んでいた。
・28日:両院は、チャールズの徴兵権に関する回答が、事実上の拒否であると判断。
【3月】
・2日:両院は、王国が両院の権限の下に入ったことを布告。
・5日:地方のLord-lieutenantに、一切の反乱、扇動、侵攻に対処するよう指令。ここで、両院は完全に武装した。両院は、税・軍・教会を支配した。
・19日:チャールズは、イングランド植民者にアイルランドの250万エーカーを与える法案に署名した。
  アイルランドでは、2月になって、アイルランド全土を没収するという無謀な計画がダブリンで進行中であった。両院も英国国教会派もピューリタン派も、一致してこれに賛成した(GardinerX,173)。アイルランド政庁のLords of Justice はすべてを手中に収めようとしていた。イングランド人には剣が、アイルランド人には飢えがあった。3月になって、アイルランドの首都ダブリンは戦闘に巻き込まれていた。アイルランド側には武器がなかったために町を占拠することができなかった。激しい攻撃に曝されたLords Justiceは、アイルランドに対して一切容赦しなかった。【一切の人間らしい感情は、両者の間に消え失せた。(GardinerX,176)
・22日:下院はイングランド海軍の指揮権を宣言。オランダ、フランス、スペインなどから王の援軍が上陸するという噂が流れていた。
・25日:ケント請願(GardinerX,179ー80)。これは国教会の礼拝が、無法者たちに妨げられていることに対する抗議を含んでいた。また徴兵権は王にあること、議会は王の承認を得て法制化できることを含んでいた。これが後に王党派の路線となった。とくに、請願は、教会でのHookerの中道路線を提唱していた。「寛容」は宗派分裂を意味していた。 議会は教会問題を、Laudの影響下にある神学者たちではなく、議会の選んだ神学者たちによって解決しようとしていた。
・28日:ケント誓願は議会によって「犯罪的」だと決定。請願者が処罰される。これで宗教問題についても内戦が避けられなくなった。(GardinerX,182)
【4月】
・5日:王はヨークに手紙を出し、そこでの滞在を以来。ヨークは王と議会の和解を希望すると返答。
・8日:教会制度の見直しを早急に進めるように王へ提言がなされる。しかし、最小限度の変革に止めるためには、王が、過去の陰謀から信頼を取り戻すことであった。
同日チャールズは、アイルランドへ渡って反乱を鎮圧すると発表。
・14日:王から議会宛にHullの武器をロンドン塔へ移す件について回答。王妃は、オランダやデンマークに援軍を要請していたが、オランダの商業議員たちは、議会を敵に回すことを避けようとしていた。とにかく、援軍を得るためには、王が港を確保することが絶対に必要であった。王妃は、王にHullの占拠を強く進言していた。しかし、議会はこれを察知。Hullの武器を塔へ移そうとした。王はこれを拒否。王は、自身でHullへ行くことを決意する(GardinerX,190ー91)。
・22日:王はスコットランドへも使節を送り、エディンバラ滞在を求め、イングランド議会との闘いについて援軍を求めた。全く無謀である!スコットランド議会は王にイングランド議会との和解を進言。
・23日:王が派遣した使いは、Hullの態度を誤解したために、好意的な返答を送った。王はこの日Hullへ向けて出立。
・24日:王はHullの守備隊長Hothamに使者を派遣。隊長は跳ね橋を引き上げた。王が到着して開門を迫った。隊長は、自分を任命してくれた議会(市議会?)に忠実に、これを拒否した。王は隊長を裏切り者として、市内の部隊に処刑を命じた。しかし誰も動かない。ついに王は武器をあきらめて戻った。王が内戦の準備として武器を入手する計画は失敗した。以後は、王がどこから軍隊を得るかという問題が事態の推移を左右することになった(GardinerX,193)。Hull占拠問題は、事実上の内戦の始まりとなった(GardinerX,220)。
・30日:ケント請願が議会に提出。これを携えた二人は牢獄された。
【5月】
・5日:議会は王が徴兵権の譲渡を拒否したことを知り、議会の権限で、徴兵を実施する決意をする。
・10日:議会は王が軍隊を得られたら内戦に入ることを察知した。ロンドンで、8000の兵の謁見が行なわれた。
・14日王はヨーク州に徴兵を発令。
・17日:議会は王の徴兵令無効を通告。
・21日:約200の兵が王の下へ集まる。しかし、北へ逃れる領主たちも多かった。
【6月】
・2日:議会は王に19箇条を発送する(GardinerX,196ー17)。それは議会の主権を詳細に記していた。これは、現行の法とほとんど変わらない。ただ、この議会は現在のような選挙制度による代表制をもっていなかった。イングランドが議会に従うのであって、議会がイングランドから出たのではなかった(GardinerX,198)。議会が、王を廃位して別の王を立てるという考えは、まだ存在しなかった。したがって、党派の分裂の中で、多数の意見が一人の意見に置き換えられる場合もありえた。多くの者がヨークへ向かったのはこのためである。彼らは本能的にこの危険を感じ取った。人々の心は、ヨークとウェストミンスターとの間で揺れていた。
・3日:王の呼びかけに応じて、ヨークの原野では、4万から8万人が集まった。この群衆の真意がどこにあったかは、何一つ決定や声明が出されなかったので決定できない。ウェールズからも満足すべき返答が来た。
・6日:議会は、王が徴兵を募った場合に、議会は主権者としてこれに介入する権限があると布告。
・15日:王は内戦の回避宣言を上院に呼びかける。上院はこれを受け入れた。チャールズの周囲に集まった者たちは、Pymに従うのを潔く思わなかったが、外国の介入や軍隊の導入には反対であり、まして、内戦を望んではいなかった。チャールズは、陰謀や外国からの援助ではなく、イングランドの忠誠心に身を投じるべきであった。彼は、ついにこれを行なわざるを得なくなった(GardinerX,204)。
・16日:議会は戦線委員を執行。
・30日:HastingがLeicestershireに派遣され武器の引き渡しを要請。しかし、拒否される。
【7月】
・2日:John Penningtonがthe Downの艦隊に派遣される。しかし船の引き渡しをWarwickに拒否される。この二つの事件は、王の側からの宣戦布告と見なされた。
・6日:オランダから、王妃が調達した武器がHumberに到着するとの知らせ。 議会はロンドンから1万の兵を送る。
・8日:Herefordが反議会を宣言。Worcesterもカトリック領主として王に戦費を調達。ヨークでも王党派編成を委任。
・11日:議会は王が戦争を開始したと声明。Digbyは、身を捨ててHullを王に明け渡そうとした。これは成功したが、王がためらったために結局失敗した。
【8月】
・2日:議会は武器をとると正式宣言。ここに内戦が開始。ピューリタン側もLaud側も、不公正のそしりを免れない。とくに、ピューリタンは、長期議会が不公正であったと言うよりも、このような結末は、集団が配慮を欠く場合には常に生じる事態であった。
                            ミルトンとその思想へ