(2章)1639年:主教戦争と建鑑税
 
■なぜ一六四一年か?
 「一六四〇年のイギリス革命は、チャールズにとっては謎であったが、それは今日でも同じである」(R・G・アシャー)。クリストファ・ヒルは、その著作『ピューリタニズムと革命』(一九五八年)を、アシャーのこの言葉で始めている[Hill(1),13]。私は、もう少しで、「一六四〇年」を一六四〇年「代」と読み違えるところであった。アシャーが「一六四〇年」と言うのは、彼が、この年の四月一三日から始まった短期議会を念頭に置いているからであろう。ただ、私が「なぜ一六四〇年か?」という問いを立てたのは、必ずしもこの引用を意識したからではない。
 ミルトンは、四つの反主教制文書を、一六四一年から一六四二年の初めにかけて書いている。しかも、一六四一年には、『弁明批判』執筆のきっかけとなった、ホールの『謙虚なる抗議』とスメクティムニューアスの『謙虚なる抗議への答弁』、これに対するホールの『謙虚なる抗議の弁明』が書かれている。なぜ一六四一年なのか? 私にこの疑問を抱かせたのは、何よりも『弁明批判』に見られるその独特のスタイルである。これは、ミルトンのほかの文書、特にほかの三つの反主教制文書と比べてみても、その語調やスタイルにおいて著しく異なっている。ミルトンをして、このような文書を書かせた一六四一年(の七月)とは、いったいどのような時であったのか? さらに、これら一連の文書が、一六四〇年でも一六四二年でもなく、一六四一年に集中したのはなぜか? ヒルが引用した冒頭の一句が筆者の注意を引いたのは、恐らく筆者が、このような素朴な疑問を抱いていたからであろう。とにかくこれが、一六四一年を中心にその前後を自分なりに調べてみようと思い立った理由である。
 筆者は、主としてガーディナーの『英国史』(九巻と一〇巻)を、この年の英国の上院と下院の『議事録』(桃山学院図書館所蔵)と照らし合わせることで、自分の疑問に対する何らかの答えを探りたと思った。これが、限られた時間と史料を基にして、筆者にできる精一杯の努力であると思ったからである。筆者が、ガーディナーの『英国史』を選んだのは、それなりの理由がある。例えばヒルやマニングの著作を読めば、私たちは、革命の原因となった思想的、社会・経済的な背景を知ることができるし、また、革命の原因を、当時の英国の土地所有関係と、これによって生じた社会階層の変動、ジェントリーの台頭などに求めることで一応納得することができる。しかし、「原因」は、ある特定の「時」の説明にはならない。原因は、ピューリタン革命が、起こるべくして起こったことの説明を与えてはくれるが、それが「起こらなかったかもしれない」という視点を与えてはくれない。ところが、ガーディナーは、まさに「この視点」をも取り込んでいるのである。
 この一九世紀の歴史家は、神話学のフレイザーや歴史学者トインビーと同じように、事実を次々と積み上げていく。その堆積の中に埋もれて、私たちは、時には方向を見失ってしまいそうになることさえある。そこからは、物事のつながりや出来事の原因がなかなか見えてこない。しかし、私たちは、これらの出来事と出来事の堆積の隙間から、ふとした偶然や、起こったことと同時に起こらなかったこと、あるいは、ある出来事が、「起こらなかったかもしれない」可能性さえ垣間見ることができる。ヒルの指摘するとおり[Hill(1),14]、ガーディナーの史観は、今では過去のものなのかもしれない。しかし、ガーディナーは、登場する人物一人一人が、その時々において、どのように考え、どのように振る舞おうとしたのかを彼ら自身の視点から洞察しようとしている。彼の著述からは、起こったことの「原因」は見えてこないが、さまざまな事実が重なり合いながら、一つの大きなうねりの中に飲み込まれていく「動因」とその息づかいを感じ取ることができる。はずみ車のように、回りだしたら止まらないその動因(それは時には狂気に近いとさえ言える)の中に身を置いたときに、私たちは初めて、ミルトンの『弁明批判』の本質に触れることができるのかもしれない。したがって、以下の論考は、ピューリタン革命の分析ではない。また、ミルトンの反主教制トラクトから、彼の教会に関する神学的な考察を試みることでもない。一六四一年の段階で、ミルトンから、彼の教会観に対する神学的な結論を引き出すことは不可能である。そうではなく、これらのパンフレットが、どのような時点において書かれたのかという、それらの「トポス」を確認することを意図している。
 筆者は、下院の『議事録』を中心に、これと上院の『議事録』を付き合わせながら、『弁明批判』の年を主として下院の視点から見ていくことにしたい。だが、周知のとおり、『弁明批判』の年は、そのまま「長期議会」の年でもある。ところが、この「長期議会」は、「短期議会」から引き継がれ、しかも、「短期議会」は、これに先立つ第一次「主教戦争」の影を引きずっている。そこで私たちは、先ず一六三九年の「主教戦争」から始めて、「長期議会」に至るまでをごくおおざっぱながら、概観してみたいと思う。
■第一次主教戦争
 第一次主教戦争は、チャールズが、すでにスコットランドの教会において成立していた長老制を無視して、イングランド国教会の主教制と典礼(『普通祈祷書』)をスコットランドの教会制度に強制しようとしたことに端を発している(一六三七年)。ところが、スコットランドの「盟約者」たちは、これに対抗するために、いわゆる「国民盟約」を結び(一六三八年)、「スコットランド教会総会」を復活させることで、イングランドの政治的・宗教的な支配に対抗しようとした。
 一六三九年の三月には、すでにエディンバラは「盟約者」たちによって占拠され、イングランド国王派の武器・火薬倉庫の所在地であるダルキースも彼らの手中にあった。チャールズは、軍を率いてヨークへ入った(三月)が、ヨークでの王は、自分の軍隊を養う出費にも困る状態であった。その上、イングランド軍を率いる領主たちは、スコットランドとの戦いに気が進まなかった。領主たちは、この戦いを「主教のための戦い」ととらえていたから、チャールズが、士気の上がらない領主たちに「忠誠の誓い」を強いたときに、ピューリタンのセイ子爵とブルック男爵とが、戦列を離れて自分たちの領地に戻ったほどである。
 チャールズは、和平と交戦との間で揺れていた。彼は、スコットランド側が、エディンバラ城を王に明け渡し、過去の罪を謝罪してチャールズの政治的支配を受け入れるなら、スコットランド教会の長老制に関して幾分譲歩してもよいと宣言し、これに、スコットランド軍が境界を越えてイングランドに進攻しないという条件を付けた。彼は、訓練の行き届かない一万五千の兵と共に情勢を見守っていたようである。一方レズリ伯爵の率いる四万のスコットランド軍は、王の軍隊に比してはるかに訓練が行き届いていた。
 スコットランドの領主でありながら、ハミルトン侯爵は、政治的にはスコットランドが王政の下に留まり、宗教的には長老制をとることを望んでいた。彼は、密かに「盟約者」のリーダーたちと会い、王の宣言を受け入れるなら、合法的に選ばれたメンバーによって構成されるという条件付きで、スコットランド教会総会を王が正式に認めてもよいという仲介案を用意していた。その一方で彼は、チャールズに向かって、スコットランド教会総会を王が認知しないなら、彼らは決して和平に応じないだろうと告げた。スコットランド側は、王の宣言を受け入れて、王が境界から兵を引くなら、彼らも一〇マイル撤退してもよいと申し出た。もしも境界を越えて進攻した場合に、今度はイングランドの正規軍全体を敵に回すことになるのを知っていたからである。
 ところがチャールズは、ベリックに兵を進め、さらにダンスへも兵を派遣し、さらに、アイルランドに駐留するイングランドの兵千名を王の下へ回すよう指令したのである。当時のアイルランド情勢では、とてもそれだけの兵を割く余裕はなかったと思われるが、この指令は、少なくとも、アイルランド駐留の兵が来るかも知れないと敵に思わせるだけの効果はあった。そこで、六月に入ると、スコットランド軍はケルソーまで進撃した。この時、王の軍隊は、歩兵一万八千、騎兵三千になっていたから、チャールズは、これだけの軍隊を維持する軍費の調達に苦慮しなければならなかった。王は、ベリックからスコットランド軍の駐留するケルソーへ兵三千を差し向けた。ところが、これを指揮していたホーランド伯爵は、敵軍に出逢うと、戦わずして退却したのである。一方レズリも、兵をダンスへ向けた。宗教的な情熱を抱き訓練されたスコットランド軍を前にして、横柄な主教たちのために戦わされるイングランド軍の士気は上がらなかった。
 ついにベリックで、イングランドとスコットランドとの代表による和平会談が開かれ、王とスコットランドとの間に和平が成立した(六月一八日)。これによって、スコットランド側は、エディンバラ城を王に明け渡すことになったが、行政権についは、「法の下で」スコットランド議会がこれを行使することが宣言された。チャールズは、兵を引くことと、教会のことでは、スコットランド教会総会の決定に従うことを約束させられた。しかし、この協定では、スコットランドの議会は、いぜん王の支配下に置かれていたし、教会総会の構成が誰によってどのように決められるのかは、何も規定されていなかった。また、総会議の結果が、王の意志と衝突する場合には、どのように処理するのかという取り決めもなされなかった。
 ここで、チャールズが譲歩を強いられた真の理由が、偏に軍費の困窮にあったことを私たちは確認しておく必要がある。彼は、ロンドンの議会に対して、しきりに軍費の調達を指令していたが、ウエストミンスターの議会は一向に動こうとしなかったからである。これで、第一次「主教戦争」は終結を見ることになったが、「盟約者」たちによって占拠されていたエディンバラ城に入ったのは、チャールズではなく、ハミルトンであった。
 七月に入ると、スコットランド教会総会の開催が布告された。ところが、王は、スコットランドの主教制が廃止されたわけではないという理由で、この教会総会に主教たちの出席と発言を求めたのである。王のこの発言に対して、スコットランド側から抗議の声があがった。結局、主教ではなく、王の代理が教会総会に出席することで妥協を見たが、スコットランド側は、王が、いぜんとして主教制の再興をねらっているという疑いを強めた。
■チャールズ一世とストラフォード伯爵
 八月には、スコットランド教会総会で、主教制の下で行なわれていた礼拝の際のさまざまな細則が廃止された。しかし、主教制が「非合法」ではないことも、同時に強調されなければならなかった。もしもスコットランドで、主教制が非合法となれば、イングランドでも同様であると主張する根拠が与えられることになりかねないからである。
 イングランド国教会の典礼は、『普通祈祷書』によってその形式が統一されていた。しかし、イングランドでも、スコットランドと同じように、『祈祷書』を、ジュネーブやニュー・イングランドのものに近い形に改変しようと唱える人たちがいたし、それよりもっと多くの人たちは、『祈祷書』を単に「手直し」する程度で済ませたいと望んでいた。ある人たちは、『祈祷書』は変えずに、その赤文字の部分の解釈に幅を持たせることで十分だと考えていた。ただし、ジェントリー(地主階級)たちには、礼拝の形式よりも、むしろ聖職者の政治介入に対する反発のほうが強かったようである。
 八月三一日に、スコットランド議会が開かれた。しかし、一四名のイングランドの主教たちの出席が認められなかったために、法案の拒否権を持つはずの法令審議委員会が、成立しなくなったのである。そうなれば、拒否権は、王の手に委ねられることになる。この問題を避けるために、委員会のメンバーとして、先ず八名の領主たちが選出され、それから彼らが、「盟約者」の男爵たちと地方のジェントリーの中から八名を選び、さらに八名を市民代表から選ぶことで、二四名の委員会が構成された。
 九月に、ロンドンに戻ったチャールズは、アイルランド総督ウェントワース〔翌年ストラフォード伯爵となる〕を、アイルランドからロンドンへ呼び戻した。「主教戦争」の結果行き詰まった王が、彼に助言を求めようとしたからである。ヨークシャー出身の新興貴族である彼は、この当時台頭してきた新しいタイプの新興貴族で、現実に対処する能力を備えた有能な行政官であった。ただし、新興貴族の多くが親ピューリタンであったのに対して、彼は忠実な国王の僕となったのである。もっとも、一六二八年の下院議会では、ウェントワースが、王の政策を厳しく批判して、臣民の権利を主張し、「権利の請願」の通過に大いに貢献していることを忘れてはならない。彼は、イングランド北部一帯の行政官となったときにも、囲い込みを規制したり、貧民への救助対策を講じたり、ほとんど親ピューリタンとさえ思われる政策を実行している。頑固ではあるが決断力に富み、誠実で人情にも厚い人柄であったらしい。このような彼を王が枢密院のメンバーに抜擢したことは、彼の友人たちを驚かせたようである。
 ちなみに、チャールズは、ミルトンが『コウマス』を献上したブリッジウォーター伯爵に対してもきわめて好意的で、伯爵の親族にまつわるスキャンダルがあったにもかかわらず、チャールズは、突然彼をウェールズ総督に任命している。ブリッジウォーター伯爵も新興貴族に属し、しかも親ピューリタンとして知られていたにもかかわずである。中央集権体制を強化しようとしたチャールズは、旧貴族領主たちに対抗するためもあってか、意図的にこれら新興貴族を抜擢したようである。
 ウェントワースが、王冠の支持者となったのは、一六三三年に、彼がアイルランドの総督に着任したときからである。彼は、それまで意見を異にしていた当地のイングランド植民地経営者たちをまとめ、アイルランドのイングランド化を強力に押し進めた。彼のアイルランド政策の基本は、「プロテスタントのアイルランド」をして、イングランド王室の財政基盤の強化に貢献させることにあった。この政策が、彼自身の蓄財にもつながっていたのは言うまでもないが。臣民の権利を擁護して王室を厳しく批判した彼が、アイルランドでは、王冠とプロテスタント・イングランドのために植民地政策を断行する。このような人物が、ピューリタン革命の「のろし」と言われる「ストラフォードの処刑」の当事者となったのは、運命の皮肉という以上に、この革命の性格を示唆する重要な象徴的意味をもっている。
 ロンドンに戻ったウェントワースが意図したのは、彼がアイルランドで実行してきた政策をスコットランドに対しても行なうことであった。彼の目には、アイルランド民衆の狂気とも思われる反乱と、スコットランドの反逆とが重ねられて映っていたのであろう。このような危急の際には、イングランドの国民は、一致して王の僕となって戦うべきであるというのが、国民に宛てた彼のメッセージであった。
 一方スコットランドでは、法令審査委員会のメンバーから、主教たちが排除されることで、委員会も議会の代表で構成されることになり、権力機構は王からスコットランド議会へ移っていた。王は、せめて行政権だけでも取り戻そうとして、スコットランド議会に、翌年三月まで会期の延長を命じたが、結局一一月一四日までしか認められなかった。
 一一月になると、スコットランド議会は、その議会法を正式に承認させようと、ダンファームリン伯爵とラウデン伯爵を使節としてロンドンへ派遣した。ウェストミンスターの議会は、スコットランド問題を扱う委員会を設置し、ウェントワースはこれの指導的な役割を務めた。彼は、ラウデンが、先のスコットランドと王との間に交わされた和平協定に関して、「偽りの情報を流した」という理由で、ラウデンを投獄すべきであると主張した。委員会は、この処置を王に進言したが、チャールズはこれを承認しなかった。
 ラウデンに対するこの厳しい態度の裏には、ある事情があった。スコットランドは、メァリ女王以来、フランスとのつながりが深かった。実は、スコットランドの議会が、対イングランド政策について、フランスと通じているのではないかという疑いがイングランド側にあったのである。そして、フランスとの内密の交渉に、ラウデンが関与していたというのが、ウェストミンスターの委員会が抱いていた疑惑だった。結局イングランド側は、スコットランド議会を、王から独立した権限をもつ機関とは認めず、二人の使節は、得るものがないままにスコットランドへ戻らなければならなかった。ウェントワースは、「居丈高にためらうことなく、自分が、王のとるべき唯一の選択肢であると予見した方向に歩みを進めた」[Gardiner(1) 75]。彼は、そうすることで、スコットランドをイングランドの支配下に置こうとしたのである。
■建鑑税
 チャールズとストラフォードたちは、スコットランドへの出兵をあきらめてはいなかった。チャールズは、これの財源として、建鑑税に目を付けた。この税は、本来、外国からの脅威に直面した場合に、軍船の建造費として、王が、議会の承認なしで、臨時に沿岸の諸都市や州に課していたものである。しかし、この税については、一〇〇年戦争の間に、議会の承認なしには課税できないと言う協定が王と議会との間に成立していた。ところが、この建鑑税は、チャールズの時代に急増しているのである。その背景には、イングランドの植民地貿易の拡大と、これに伴って生じた植民地貿易をめぐる外国との衝突があった。
 メイフラワ号の乗員たちによるニュー・イングランド植民地建設(一六二〇年)、ピューリタンによるマサチューセッツ湾会社の設立(一六二八年)、これがロード・アイランドへ進出する。さらに、ニュー・ハンプシャー、コネティカット、ボルティモアの植民地建設が続く。メリーランドは、カトリック教徒のための避難場所として用意された州である。西インドからメキシコにかけて、バルバドス、セント・キッツ、モンツァラット、アンティグア、プロヴィデンスなどの諸島がこれに続いて植民地となった(一六二四年〜三六年)。「大陸の大戦争は、イングランドの手中に、富を投げ入れた。スペインとフランドル間の交通は、イギリス船によってのみ行なわれ、ポルトガル諸港と、アフリカ、インド、そして太平洋の諸植民地との間の交通路は、イギリスの旗でおおわれた」[グリーン 77]。
 一六四〇年までには、ほぼ六万人が、イングランドからこれらの植民地に渡り、イングランドの財政に寄与していた。下院議員たちの多くが、これらの植民地経営に直接間接に関与していたのは言うまでもない。イングランドが、本格的な植民地経営に乗り出し、かつアメリカ大陸への足がかりを築いた時期とチャールズの治世とがぴったり重なることに私たちは注目しなければならない。
 ジェイムズ一世が、建鑑税として、ロンドンから四万ポンドを徴収したとき(一六一九年)には、議会からも市民からもまだ反対がなかった。ところが、チャールズが、一七万三千ポンドという多額の建鑑税を、貿易の安全確保のために沿岸諸州に求めたときに(一六二八年)、初めて反対の声があがった。ところがチャールズは、翌年、議会の承認なしに、これの徴収を行なったのである(一六二九年)。しかもこれ以後、六回に亘り(一六三四年から三九年)、次々と建鑑税を課している。チャールズをして、このような無謀とも言える課税を行わせた背景には、植民地権益を守るための国家的要請があったのは言うまでもない。しかし、チャールズは、国が直面する危急の場合に許されるという建鑑税本来の性格を離れて、「将来において生じえる危機」に備えて課税したから、ロンドン市民は、直ぐにこれの免除を請願した。それでも、この時には八万ポンドが集まっている。
 一六三五年に、チャールズは、なんと二〇万ポンドの建鑑税を要求した。しかも、彼は、それまで沿岸諸州に限定されていた建鑑税を、全国規模に拡大したのである。この課税策には、エリザベス朝絶対王政の再現を夢見ていたチャールズ政権の性格がよく現われている。チャールズとその側近たちが、建鑑税を一般税と同じレベルで恒久化しようとしているのは、明らかであった。セイやハンプデンらの議員が、課税をめぐって王と対立したのはこの時である。このようなわけで、一六三八年には、王の要求した総額の二〇パーセントあまりが、未徴収のままであった。一六三九年の要求額は、二一万四〇〇ポンドであったが、一一月の段階では、五万ポンドしか集まっていなかった。チャールズは、これの残額を徴収して、スコットランド出兵の軍費に充てようとしたのである。
 一二月に入ると、スコットランド問題は、枢密院に移された。スコットランド枢密院のメンバーであるトレクエァが、チャールズの枢密院でスコットランドに関する報告を行った。トレクエァは、ある意味で、スコットランド領主の複雑な状況を体現する典型的な人物である。彼は、スコットランドのスチュアート家の五代目で、チャールズによって財務官に任じられ、一六三三年にトラクエァ伯爵に叙せられた。「彼は他にやむをえないときには、常に王の政策に屈従したが、同時に、王に対して〔スコットランドが〕公然と抵抗しなければならない状況に追い込まれるときには、王の政策と国民とを和解させて王に従わせるように全力を傾けた」[DNB(18) 1213]。「盟約者」たちが、エディンバラ城を占拠したときに、彼は王の側に立って、密かに城内に武器を運び込んで防戦しようとした。これが失敗すると、武器弾薬をダルキースに移して、そのために「盟約者」側の攻撃を招く結果になった。こういうわけで、彼は、後にスコットランド側から「裏切り者」の烙印を押されることになる。
 トラクエァは、イングランド枢密院で、スコットランドの「反逆」を強調し、これの「暗黒面」を伝えた。イングランドの枢密院が、翌年四月に、イングランド議会を招集することを決定したのは、おそらくトレクエァのこの報告を受けたからであろう。ウェントワースを始め枢密院や委員会のメンバーたちが、一万、二万と王に融資を申し出て、たちまち一五万ポンドが集まり、クリスマスにはさらに五万ポンドが集まった。しかし、王が兵を募るのは、はたしてスコットランドへの出兵のためだけなのかという疑念が、下院の議員たちの間から消えなかった。王の下にある軍隊は、スコットランドにとっても脅威であったが、それは、ウェストミンスターの議会にとっても脅威となりえたからである。だが、ウェントワースは、自分がアイルランド議会の反対を押し切ったようにして、イングランド議会の反対をも押し切ることができると読んでいたようである。ウェントワースが、イングランド議会を、アイルランド議会並みに見くびっていたことを、彼一人の「思い上がり」だと速断してはならない。この段階でのイングランド議会は、王の側からも、そして、議会自身の目からも、この程度の力としてしか評価されていなかったのである。
               ミルトンとその思想へ