(3章)1640年:短期議会から長期議会へ

■短期議会
 一六四〇年一月に入ると、王の任命を受けた枢密院軍事会議が、二万三千の兵を募る計画を立てた。総司令官としてノーザンバランド公爵が選ばれ、月末には三万の歩兵が徴募される手はずが整った。二月に入ると、トレクエァが、スコットランドの使節を伴ってロンドンへ来た。しかし、彼はこの時、スコットランドの「盟約者」たちがフランスと通じている証拠となる手紙を入手していたのである。チャールズは、これによって、スコットランド側の宗教的要求が政治的反逆の隠れ蓑にすぎないと判断したようである。このためチャールズは、スコットランド使節との会談で、議会を開いたり解散したりするのは、「主権」の保持者である王の権限に属するとして、スコットランド議会の独立に否定的な態度を示した。チャールズのこの態度は、スコットランド側に、チャールズが主教制を復興させようと意図していると受け止められる結果となった。
 三月に、アイルランドに渡っていたストラフォードが戻ってきた。彼は、アイルランド議会に、スコットランドが優勢になる前に、チャールズを援助するように要請し、一八万ポンドの援助の約束を取り付けてきたのである。アイルランド側は、さらに、軍資金が与えられるならば、九千の兵をチャールズの援軍として提供しようと約束した。このようなアイルランド側の協力の背後には、もしもスコットランドの「盟約者」たちが、イングランドの議会を征することになれば、アイルランドへの宗教的・政治的圧力がいっそう強まるに違いないというカトリック側の恐れがあった。さらに、チャールズを援護することによって、カトリックを容認する寛容令を王から引き出すことができるかもしれないという読みもあった。
 アイルランド側のこのような読みは、チャールズの王妃ヘンリエッタ・マライアに対する期待と重なっていた。事実、王妃は、カトリックのために力を惜しまなかった。「主教戦争」の時に、チャールズの滞りがちな戦費の足しにと、王妃はローマから一万ポンドの援助を得ていた。また、スコットランド出兵への募兵に当たっては、かなりの数のカトリックの将校が任用されていたらしい。チャールズの宮廷は、私たちが現在考えているよりもはるかに親カトリック的であったと見てよい。ロセッティ伯爵がローマからチャールズの宮廷へ派遣されてきたとき、「カトリック教徒が呆れるほどに自由だというのが彼のイングランドでの第一印象であった」[Gardiner(1),87]。ともあれストラフォードは、アイルランド議会での成功に励まされて、イングランドの議会でも同様の姿勢で臨む決意を固めた。
  私たちは、ここで、「短期議会」の初日に入ることになる。当時のイングランドの暦(したがって『議事録』)では、四月からが一六四〇年である。
「一六四〇年四月一三日。王は、一二時頃、大いに威儀を正して、側近の貴族と主だった高官たちすべてを従え、ホワイト・ホールからウェストミンスターへ乗り込んでこられた。そこでイーリー主教の説教を聞き、それから上院へ来られ、そこで、陛下は短く、次いで国璽尚書がより長く、議会招集の大義について述べられた」(引用は『下院議事録』Journals of the House of Commons. [J.C.3])。王の威風堂々ぶりを示すこの記述のすぐ後に、「下院議員たちは上院から戻った。財務官が沈黙を破り、王からの議長選出指名書を持ち出して、王の指名でなく、われわれの間で自由に選出するよう提案した」[J.C.3]とある。
 イングランドでは、伝統的に「議会」とは、王が、時に応じて各州や教区の代表を「召集」するものであって、その機能は、国家の行政と司法の主権者たる王の命の下に、これを補佐する諮問機関としての役割を越えるものではなかった。政治は、これの主権者である王が司り、議会は、一時的に開催されては、用件が済めば解散されて、議員たちはそれぞれ地方へ帰っていった。したがって、当時の議会は、地方の民衆はもとより、ロンドン市民からさえ、恒常的な意味での権限を公認されていたわけではなかった。
 しかし王と議会との間には、議会が「イングランドの基本法」と呼んでいた契約、議会と王との力の均衡関係を保証する約定が存在していた。議会の言う「イングランドの基本法」とは、遠くは、ジョン王からヘンリー三世の時代にかけて制定された「マグナ・カルタ」(一二二五年)にさかのぼり、近くは、チャールズによる恣意的な課税や拘禁・投獄に対抗するための「権利の請願」(一六二八年)に及んでいる。しかしながら、チャールズと議会との間には、これらの約定が意味を失うほどに、両者の共通認識にズレが生じていたのである。これに加えて、チャールズが、議会の承認を得ずに、商船の積み荷(主としてワイン)に課したトン税や輸入商品全般にわたるポンド税は、王と下院との関係をいっそう緊張させていた。
 王に続いて国璽尚書フィンチが、議会の冒頭で語った内容は、アイルランドがすでに平定された今となっては、スコットランドが、唯一イングランドの脅威であること、このための軍費が早急に徴収されなければならないこと、これについての法案が可決された後に、初めて、議会からの請願が考慮されることになろうというものであった。
 国璽尚書が「議会からの請願」と言うのは、一七日の『下院議事録』に、「王に対する苦情申し立て三箇条」とあるのに関連している。それは、「(一)議会の自由に対して。(二)宗教の保持に対して。(三)王国におけるの一般的自由の維持に対して」[J.C.5]となっている。「宗教の保持」というのは、チャールズの親カトリック政策に対してイングランド国教会の路線を堅持することを意味する。「一般的自由の維持」というのは、星室庁などが行なっている文書の検閲や規制を指すのであろう。
 『下院議事録』によると、スコットランドとアイルランドの問題に続いて、今度はフランスとスコットランドとに関する問題が取り上げられている。「一六四〇年四月一五日。ワインドバンク秘書官が、陛下のメッセージを伝え、スコットランドの『盟約者』たちからフランス王へ宛てた手紙について下院で説明するよう命じられたと述べた。秘書官は、手紙の現物を取り出して、さらに付け加えて、『コッティントン卿と司法長官とがラウデン氏を取り調べるために塔へ遣わされ、ラウデン氏は、渋々この手紙を認め、さらに、自分はフランス語が理解できないからその内容を誤解していたと弁解した』と述べた。秘書官は、まずフランス語でその手紙を読み、その宛名が『王へ』(Au Roy)とあることに言及。これは、自己の所属する王侯に対して、その臣下が用いてしかるべき用法にほかならないと述べ、それから英語で手紙を読み上げた」[J.C.3]。
 チャールズが、わざわざ、宛名が「王へ」とあることを公表させている意図は、フランス王に対するスコットランド側からの宛名書きが、イングランド王に対する反逆にほかならないことを下院に知らせて、下院の反スコットランド感情を煽ろうとするためである。ラウデンは、すでにこのとき、この手紙の件で、ロンドン塔に監禁されていた。しかし、チャールズが期待していたようなスコットランドに対する非難の声は、下院では聞かれず、その反応は冷たかった。下院は、それよりも、チャールズが、例の建鑑税問題についてどう発言するかを重視していたが、これに関する発言が一切なかったからである。グリムストン議員は、スコットランド軍のイングランドへの侵入の危険よりも、市民の自由に対する危険は、もっと身近なところにあると主張したし、これに続く発言からも、チャールズ政権への積極的な支持は出なかった。
 なお、一七日の『下院議事録』の終わりのほうで、下院は、「議会の特権に関する委員会」など種々の委員会を設置している。これらの委員会は、「それが委ねられたあらゆる問題を調査し考慮して、議会に提案する任に当たる」とある。委員会には、「記録を取り寄せ、証人を呼び、助言を受ける」[J.C.3]権限が与えられている。
 議会における法案成立の手順については、『下院議事録』に次のようにある。「最初にこの院のメンバーによる投票が行われる。投票で認められた件について、討論が行われる。討論が終了すると、古来からの議会の慣習に従い、上院に法案を提出する。上院が承認すると、両院からの請願の形で陛下に提出される」[J.C.5]。これで見ると、下院は、上院の承認を得なければ、独自に何一つ決定できないことになっているのが分かる。
 スコットランド問題については、『下院議事録』に、王からの伝言をほとんどそのまま伝える形で、次のようにある。「一六四〇年四月一七日。スコットランド人のある者たち、ベリアルの子ら、シェバの子らが、扇動のトランペットを吹き鳴らして、不遜にも反逆によって、陛下と王冠を全く捨て去ろうとして、群衆を不忠に引きずり込み、類のない反逆的な裏切りを行っている」とあり、これに続いて、「陛下は、スコットランドのこれら反逆の臣下どもを強力な軍隊によって鎮圧する決意である。王はこの処置を好まないが、統治の原理によってやむなく強行する」とある。終わりに、出兵とそのための戦費に関して、「このような軍隊を徴募する費用は大きく、陛下の国庫では不可能である。もっとも、国庫が、壮大な式典や立派な建物のために費やされたからではないが。これは我々自身の安全を目的とすることに他ならないゆえに、王は、下院がこの大事業に協力することを望む」[J.C.5]と結んでいる。
    議会が、このように「アイルランド」と「スコットランド」という二つの問題を軸にして始まったこと、さらにフランス問題がこれに加えられたことは、王が、この議会を召集した意図を端的に物語るだけではない。これらの問題が、一一月の「長期議会」へとつながり、さらに、これに続く内戦の意味を理解するためのキー・ワードであることをそれは示している。王は、開会に当たって、議会の機先を制しようと図ったのである。チャールズの廷臣たちの中には、場合によっては、イングランドの議会に対して軍隊を動かそうと考える者もいた。先に述べたように、相当数のカトリックの将校が任用され、一方ピューリタン的傾向を持つ者は、巧みに排除されていたのも、このための下準備と受け取られていた。
 ピム議員は、この時下院で二時間にも亘る演説を行なっている。彼は、一五八三年生まれで、サマセット州の出身である。オックスフォードを出で、暫くしてから、ベドフォード公爵の下で、ハンプシャー、ウィルトシャー、グロスター諸州の王室収税官を勤めた。議会に最初に出たのは、一六二一年である。ジェイムズ一世が、下院の言論を制限しようとしたときに、これに対する抗議演説を行ない、「議会の特権とは、イングランド臣民が受け継いだ古来の疑問の余地なき生得の権利である」と述べている。この理念は、彼の「反法王主義」と共に生涯を通じて変わらなかった。
 彼が議員として頭角を現わしたのは、「権利の請願」(一六二八年)の時である。しかし、彼の経歴で特に注意したいのは、ピムが、一六二九年から四〇年までの間、西インド諸島のプロヴィデンス島とヘンリエッタ島へのプランテーション投資会社のメンバーであったことである。この会社は、一六三〇年に設立されたが、二〇年後には失敗している。しかしながら、この間に、会社の経営に関与したグループのほとんどがピューリタンで、ピムが議員として頭角を現わし、チャールズとの対決を強めつつあったちょうどその頃には、会社の経営を通じて、ピムを中心とする「貿易仲間たち」が彼を支えていた。ピムが、ニューイングランドに移住しようと考えていたときに、チャールズに引き留められたという「もっともらしい話」[DNB(16)520]があるが、彼がアメリカに興味を抱いていたことは確かなようである。
 ピムは、ウェントワースとは知己の間柄であったが、二人の中はあまりしっくりいかなかったらしい。ピムがウェントワースと分かれる際に、「君の首が肩についている間は、君のことを忘れない」と言ったと伝えられているが、これは当てにならない(Dictionary of National Biography[DNB(16)520])。二人は、「短期議会」の頃から、互いに対立し始めているが、やがて二人とも、ピューリタン革命前半期を代表する人物たちになる。しかし、少なくとも始めの頃は、ピムは穏健派に属していて、その意味で、彼を「ピューリタン」と呼ぶのは適切ではないであろう。また、彼の宗教的な立場も、決して真性のピューリニズムとは言えない。むしろ、ロードの「新規な変革」以前のエリザベス朝イングランド国教会に近いと言えるかもしれない。
 なお、これは後のことになるが、チャールズは、ストラフォード裁判の最中に、ピムに大蔵大臣の地位を提供しようと申し出ている。これが、見え透いた懐柔策であることは、提供するチャールズにもされるピムにも、誰の目にも明らかであったろう。しかし、ストラフォードの場合を考えると、チャールズのこのような方策は、決してピムの場合に限ったことではない。だから、ここでピムが王の申し出を受けたとしても、それはそれで、一つの選択であったであろう。だが、ピムはこの申し出を断わっている。チャールズは、同じ申し出を、今度はピムたちを議会で逮捕しようとする直前にも行なっている。ピムはこれをも拒否して、王との対立の道を歩んだ。とは言え、内戦が本格的に始まってからも、彼は王との和解を試みている。
 一方で、ストラフォードは、王の申し出を受け入れて、王の忠実な僕としての道に殉じた。この違いによって、一方は「議会と民衆の敵」となり、他方は「議会と民主主義のチャンピオン」になった。だが、この対照的な二人の人物の距離を正確に見定めるのは必ずしも容易でない。私たちは、こういうところにピューリタン革命を判断するときの「危うさ」に出合う。ピムは、後に、イングランド議会軍とスコットランドとの軍事同盟に力を尽くし、これが彼の議会への最後の貢献となった(一六四三年)。
 ピムの「短期議会」での演説は、必ずしも雄弁ではなかったが、好評だったようである。「王が、多額の追加税を徴して軍隊を召集し、スコットランドに王の権威を押しつけたところで、エイディンバラで得たものをウェストミンスターで譲歩したら、王にとって何の得になるのか?」というのがピムの主張である[Gardiner(1),102]。「議会の力は、政体にとって、人間における魂の理性的能力に等しい」というのが、ピムの思想の根幹であった。いずれにせよ、ピムの演説は、王とスコットランドとの間の争いこそが、「短期議会」が直面しているあらゆる問題の根底にあることをはっきりと示している。
 下院でフランスへの密書が読み上げられた同じ四月一六日に、上院では思いがけない事態が生じていた。会議の終わりに、ロード大主教が、明日は教会総会の日であるから、主教たちが出席できないため、議会を休会にすることを提案した。すると、セイ議員が異議を唱えて、上院の議事進行のために主教の出席は必要でないと言い出したのである。ロードは、閉会するのは主教の議会への権利からではなく、主教たちに対する礼儀からであると謙虚に申し出た。フィンチ議員がこの大主教を支持して、結局大主教が健康上の理由で出席できないということで、上院の休会が決定された。「明らかに主教たちは、下院においてと同様に、上院においても不評であった」[Gardiner(1),101]。
 主教たちの不評の証左となるもう一つの出来事が上院で生じた。ホールは、『神授権に基づく主教制』を著わして、この頃注目を浴びていた。ところが彼は、上院で、セイ議員のことを「スコットランドの盟約派の臭いがする」とつい口を滑らせたのである(二一日)。彼は問い質されて、「もしも私が過ちをおかしのなら・・・」と述べたところ、一斉に「『もしも』は要らない!」という野次がとんで、仕方なく、はっきりと謝罪の言葉を口にせざるを得なくなった。イングランドの権力を構成してきた王と上院の主教たちと上院の領主たちと下院という四つの層の間に、この頃から分裂の兆しが現われ始めたことをこれらの事例は物語っている。
 この議会は、スコットランド出兵に絡んで王への戦費の捻出のための議会であったといってよい。しかし、上院でさえも、チャールズの建鑑税徴収は、「権利の請願」の特権に背くとして、この件で、上院からの請願が王に出されることが検討されていた。フィンチ上院議員は王の建鑑税を支持した。フィンチは、アイルランド議会が王の要請に応じた例を引き合いに出して、王は、たとえ下院がその義務に背くときでも、上院は王と共にあることを期待していると演説した。
 ところが、大主教ロードが、王のこの意向を受けて、教会会議の席で、高位聖職者に、六種類の補助金を要請して、これらを決定したのである。通常このような税の決定は、議会の承認を経て行われるべきであったから、下院は、教会会議のこの迅速な処置を快く思わなかった。もっとも、ロードの側には、補助金は「税」ではないという口実が用意されていたかもしれないが。
 四月二三日に、ロードは、上院でも同じメッセージを語ったが、上院は好意的な反応を示さなかった。王はこれに怒って、枢密院を開いた。ストラフォードは、下院が上院と手を組んで苦情を申し立てる前に、王が先に上院へ行って、王の案件を下院の案件より先に検討するよう指示するべきであると進言した。チャールズは、ストラフォードの意見を入れて、上院で、いかに必要が差し迫っているかを訴えた(二四日)。上院は、主教の言うことにはあまり気乗りしなかったが、王に対しては伝統的に寛大で、八六対六一で、王の補助金を下院の申し立てより先に検討すること決定した。
 下院よりも上院を重視するストラフォードのこのやり方は、王にも上院にも結果として益とはならなかった。ストラフォードは、人数の多数よりも、いざとなったら軍隊を動かすことを考えていたようである。もし下院がどこまでも反対を主張すれば、軍隊による弾圧と上院の優越性を主張することで乗り切ることができると彼は読んでいたのかもしれない。彼の上院優先策は賢明ではなかったが、彼のやり方は、王と王妃の彼に対する信頼を絶大なものにした。
 四月二七日に、下院において、上院と下院との合同委員会メンバーであるハーバートが、以下のような報告を行なっている。
「陛下ご自身が、上院にご臨席の栄誉を賜わり、種々の恵み深いお言葉を賜うことを善しとされた。・・・・・陛下は、陛下のみ名において、あなたがたに語られた事に関して、一寸たりとも違えることなく、これを真に遂行される旨、王としてのお言葉と保証とを与えられた。・・・・・
 しかし陛下は、われわれに理解を求めて仰せられた。陛下に関わる事態は、必要に迫られて一刻も猶予が許されず、遅延は、事態それ自体のみならず、これに伴う危険においても、〔陛下の要請に対する〕拒否に等しいと。それは、国外情勢に関して陛下の名誉に関わる事態であり、これを維持することの重要性を、ご自分の生命に関わると思し召されるほどである。・・・・・(あなたがたから出るにせよ、陛下から出るにせよ)相互関係に信頼がなければならず、陛下に対する全幅の信頼がなければならない。・・・・・上院は、私に命じて、最近の情報に鑑みて、緊急の必要と差し迫る危険とについてあなたがた〔下院〕に伝えるよう指示した。戦いは始まっている。スコットランド軍は、ダンスに陣営を張り、ノーザンバランドへ侵入する気配を見せている。・・・・・
 陛下は仰せられた。いかなる王も、かくも豊かで自由な民の王であったことはないが、陛下があなたがたの自由と土地・財産を保全しなければ、あなたがたを豊かで自由な民とすることはできず、その結果王の栄光も薄れることになる。それゆえ陛下は仰せられる。宗教と土地・財産と議会の特権の三つに関しては、陛下の心は、その良心から、イングランド国教会の宗教に立つものである。・・・・・
 建鑑税に関して陛下は、それからは、いささかの利益をもご自分のものにする思いはないと仰せられた。陛下は決してそのような特権を利用されず、それどころか、幾千ポンドをご自分の金庫から、防衛の意図で支出されているのは、上院の証するところである。陛下の権限もその意図も、すべてあなたがたの安全と平和と豊かさと、国外における陛下の名誉のためである。・・・・・それゆえに、海上の防衛にひたすらあなたがたの意を用いるべきで、国外における海軍力の重要性に鑑み、陛下の思いは、海軍の維持とこれによる諸海峡の支配を保持することにある」 [J.C.13]。
 ここには、当時チャールズが置かれていた「陛下に関わる事態」が、いかに切迫していたかが示されていて、しかもその「事態」とは、先ずスコットランドからの脅威であり、これとともに、海外貿易を維持するための海軍力であったことが、はっきりと読み取れる。このメッセージには、さらに、「以上を考慮して、陛下の約束に信頼することこそ陛下に対する上院の最大の義務であり、あなたがた〔下院〕の最大の安全であると思い、宗教と土地・財産と議会の特権に関してあなたがたと共になることを望む」という上院からの伝言が付け加えられている。もっともこのような上院の意図も、必ずしもすんなりと決まったものではなかったようであるが。
 しかし、これを受けた下院の対応は、「陛下に対する全幅の信頼」とはほど遠いものであった。これらのメッセージに続いて、『下院議事録』には、「上院との合同会議において、下院の特権が犯された」という決議事項があり、さらに「この報告にもられている種類の補助金について、下院の提案なしに提出されたのは、下院の特権の侵害である」とある。だが、下院も決して一枚岩ではなかった。五月に入り、議論が長引くとともに、今度は下院で分裂の兆しが現われ始めた。王は議会の助けなしに立法権を持つと主張する者も出てきたからである。
 この頃、エディンバラ城にこもるイングランド軍とスコットランドの市民との間に、城門の前で小競り合いが生じ、数名の犠牲者が出た。「内戦での最初の流血がエディンバラで起こった」[Gardiner(1) 112]とガーディナーは伝えているが、彼が、この一見些細な事件を「内戦での最初の流血」と位置づけているのは興味深い。しかもそれが、イングランド内ではなく、スコットランドで起きたことの意味は大きい。スコットランド問題が、終始イングランドの内戦の引き金とになっていることを象徴する出来事だからである。
 ストラフォードは、上院で、王への税の拒否は議会の解散につながると警告した。ヴェインも下院で同じような発言をした。しかし下院は、恣意的な課税や補助金が、決して王の特権ではないことをチャールズに確認させるよう望んでいた。ストラフォードは、議会の反発をおそれて、チャールズに譲歩を進言し、チャールズもいったんはその心づもりをしたようである。しかし、ヴェインの強硬な意見が、再びチャールズの心を変えた。結局チャールズは、建鑑税をあきらめる代わりに一二項目に及ぶ補助金を議会に要請することにしたのである。
 議会では論争が続いた。チャールズの恣意的な建鑑税の合法性に疑問を持つ議員たちも、補助金への抵抗感はいくらか薄かったようである。下院は、六項目の補助金を認める意向を固め始めた。ところが、討議が、建鑑税から、陸軍の軍事税へと広がっていったのである。ヨークシャー代表のハザム議員などは、建鑑税なら一万二千ポンドで済むが、軍事税は四万ポンドに上ると言い出す始末であった。たまりかねて、ヴェインは、王は一二項目以下では決して同意しないと言い切った。軍事税への苦情のほうが、建鑑税よりもはるかに深刻な事態を招くからである。だが、建鑑税を拒否できないのなら、軍事税の拒否はさらに難しくなるという読みが、下院にはあった。議事は延々と続いたが決まらなかった。下院がスコットランドとの戦争に気が進まないことを枢密院は察知した。
 ついに下院は、スコットランド使節と連絡を取り、下院でスコットランド側からの苦情申し立て宣言を朗読してもらう要請さえ出したのである。チャールズは、下院のこの態度から、スコットランドとの和解勧告案が議会から提出される可能性を察知した。王は直ちに枢密院を開き、この和解案への干渉を図った。五月五日、枢密院の勧告に従って、王は議会の解散を命じた。王は、議会が戦争に同意するのでなければ、解散は避けられないと見ていたからである。この「短期議会」は、王に対する不満が爆発した議会として、「長期議会」に劣らない重要な意味をもつ。税と軍隊と宗教、この三つを支配する「主権」をめぐって、王と国民との基本的な関係に変化が生じた始めていたのである。
 議会解散の後に、チャールズは、枢密院で、スコットランド問題について会議を開いた。ストラフォードは、スコットランド問題で王が譲歩するならば、イングランドの制度までが危うくなるという危機感を抱いていた。彼は、イングランドの議会が、スコットランド議会と同じ権利を主張しようとしていることを見抜いたのである。彼には、一八世紀に成立した「内閣政治」はまだ見えていない。彼はむしろ、一五世紀の「先祖のやり方」を踏襲する方向に向かった。王が断固とした作戦でスコットランドに打撃を与えるなら、スコットランドは五ヶ月とは保たないだろう、こう彼はチャールズに進言した。ロードもストラフォードに同調した。しかし、ヴェインは、スコットランドを攻撃するよりも、その侵入を阻止することだけを考えていたし、ノーザンバランドは、下院の支持なしに戦争に入ることは、危険であると判断した。
 この会議の席で、アイルランドの軍隊をイングランドに進駐させて、対スコットランド戦のために利用するという案が、具体的に検討されたかどうか、あるいは、このような事が、後に下院から追求されるように、ストラフォードの口から実際に出たかどうかは証拠がない。ただ、会議でそういう意見が出たとしてもおかしくない雰囲気があったのは確かなようである。この点が、後に、ストラフォードの処刑を招く疑惑を生むことになる。このようにして、「短期議会」解散以後、ストラフォードは、次第に弾圧の手先として憎まれるようになり、ピムは、議会の代表と見なされるようになっていった。
■一六四〇年の教会会議
 イングランド議会が解散された後でも、イングランド国教会の教会会議のほうは、まだ続いていた。議会の解散は、教会会議の解散をも意味していたから、ロードは、教会会議の解散を王に進言した。ところが、王は、教会法の審議を続けるよう指示したのである。これには、国璽尚書フィンチの進言があったらしい。ロードは、教会会議の件で、王と国璽尚書から指示を受けるのを快く思わなかった。第一、その合法性において、下院から疑いを持たれる恐れがあった。事実、後になって、このことが主教側への大きな打撃となった。と言うのは、一六四一年に、「下院は、主教制の廃止案を推し進めることに熱心で、これに代わりえる教会制度を検討していた。しかし、この時、この問題を棚上げにして、その代わり、一六四〇年五月に、議会の同意なしに教会法の作成に加わったかどで、一三人の主教を弾劾したのである」[Manning 61]。これは、上院から主教を、下院から聖職者を排除しようとするための下院の作戦でもあった。教会会議は、年間二万ポンドを六年間、「補助金」としてではなく「献金」として王に提供する決議をし、同時に一七箇条の新しい「教会の制度と法令」を発表した。
 一六四〇年のこの教会会議で、ロード派の聖職者たちは、王への忠誠を明らかにすると共に、「弱い者たちの根拠のない疑念や我が国の宗教に公然と敵対する悪意に満ちた歪曲を防ぐ目的のために、信仰の一致は、実践の統一を伴わなければならない」〔Complete Prose Works of John Milton: Yale  University Press. [Yale CP (1) 991]〕と明言している。この法令は、この時期に、イングランド国教会が直面している問題が、どのようなものであったかを浮き彫りにしている。全部で一七箇条からなっているが、実際に国民に当てた条例は、最初からの一三項目である。
 第一条「王権」に関する条例は、前書きに続いて次のような言葉で始まる。「王のいと高くして聖なる位階は、神ご自身の定めにより、神授権から出るものであって、それは、第一に自然法に基づくものであり、また旧新約聖書の明らかな文面によって明確に定められたものである」。それゆえ「教会行政は主として王に属する」[Yale CP (1) 987]ことになる。王には「全国及び地方の教会会議を招集し解散する権力」がある。
 さらに、王と臣下との間の税に関しては次のようにある。「献金や関税や援助金や補助金や種々の必要な支持と供給は、神と自然と国民の法により、彼らの防御と配慮と保護のために出す臣下から王に対する義務であるが、にもかかわらず、臣民は、自分の財産と地位とを単に所有するばかりでなく、これらに関する真実の正しい権利、称号と資格を有し、かつ有するべきである」[Yale CP (1) 987]とあり、これに続いて、「これらの二つは、互いに衝突するどころか、相互に相まつものである」とある。しかし、ここには、「臣民の防衛と保護のために」はたして税が必要かどうかをいったい誰が決めるのか、というもっとも肝心な点がぼかされている。その「必要」が、王の恣意的な判断で決まる限り、税を出す臣民と徴収する王とが「互いに衝突する」のは避けられないというのが現実であることをこの「教会法」は洞察していないか、故意に避けているのである。
 教会の典礼に関しては、聖餐のテーブルとその位置とが一つの焦点となっていた。カトリックでは、中世以来、聖餐を供える台は「祭壇」とされていた。それは、聖餐(パンとぶどう酒)と祭壇の中央に置かれた聖十字架(キリストの十字架像)と左右六本の燭台がその主な構成要素になっている。宗教改革で、ルター派は、聖餐の神秘性を否定したが、聖餐を置く式台はやはり「祭壇」とされていた。ジュネーヴの改革派では、聖餐の台は、「聖餐用のテーブル」として、もはや「祭壇」とは見なされなかった。そこでは、聖十字架も六本の燭台も除かれ、簡素な十字架と左右二本の燭台が置かれていたにすぎない。
 イングランド国教会の典礼は『祈祷書』によって定められていた。一五五二年に、カンタベリ大主教クランマーによって『第二祈祷書』が制定され、これはその後、一五五九年、一六〇四年、一六六二年に改訂されて現在に至っている。初期のイングランド国教会の改革は、かなり思いきったもので、「クランマー時代には、彩色硝子が窓から叩き落とされ、エリザベス時代には、聖餐台が、礼拝堂の中央に移された」[グリーン 70]。信者は、立って聖餐のテーブルに出てくか、あるいは席に座ったままで聖餐を受けたようである。ところが、ロードは、聖餐のテーブルを再び「祭壇」として会堂の東側に移し、信者はそこで跪いて聖餐を授与される形式へと戻したのである。彼はまたキリストの聖十字架像を復活させた。
 この問題に関して、法令は次のように述べている。「聖餐のテーブルの位置は、それが、すべての内陣〔聖堂の奥の祭壇の手前にある聖歌隊席の間〕あるいは礼拝堂の東窓の下にあっても、文面からも直接的な解釈からも神の言葉によって命令も断罪もされておらず、無関係な〔教会の自由裁量に委ねられた〕事柄である。それゆえに、いかなる宗教〔キリスト教の信仰〕もこれを定めることはできず、またこれに関して咎められることもない」とある。ただしこれには、カトリック的であるという疑惑を防ぐために、「聖餐のテーブルの位置は、それが、真実の正当な祭壇として、キリストが再び現実に犠牲とされることを意味せず、またそうあるべきでもない」とわざわざ断わりを入れている。ちなみに、現在では、同じ聖公会系の教会でも、比較的自由な所では、聖餐台を「聖餐のテーブル」と呼び、ロード系のいわゆる高教会では「祭壇」と呼んでいる。テーブルの場所は、ほとんどの場合、会堂の奥に置かれているようである。
 ミルトンとホールとが争っている分派の問題については、第五「セクトに対して」の条項で、「法王主義者に劣らず、イングランド国教会の教義と規律を覆そうと努める他のセクト」とあり、教区の教会へ参列することを拒否する「再洗礼派、ブラウン主義者、ファミリスト、その他のセクトや諸セクト、あるいは人物たちに向かって」と名指しで非難している。
 当時のイングランドでは、国教会を尊重するという意識では、ほとんどの人が一致していた。しかし、聖餐を前で受けるか席で受けるか、教会の出入りに礼をすべきかどうかなどの細則が、あまりにも国民の気持ちとかけ離れていたのである。
 誓約の厳しさにおいては、スコットランドの「盟約者」たちのほうが、イングランド国教会よりもはるかに厳格で自由がなかった。しかし、「盟約者」たちは、礼拝形式において、イングランド国教会よりもはるかに多くの人々の賛同を得ていた。国教会は、王の神授権に固執するあまり、国民の声を反映してはいなかったが、スコットランドの「盟約者」たちのやり方は、少なくとも一般の人々の声を反映していた。イングランド国教会が、国民に課していたイングランド国教会の教義に対する「信仰の誓い」は、法王主義排除を目的とするものであったが、これは、ヘンリー二世(一一七六年)以来、イングランド国民に課せられていた王に対する「忠誠の誓い」と対を成していたと言えるかもしれない。この誓約は、イングランド国民に一律に課せられていたが、「盟約の誓い」は、少なくともその原則においては、これの賛同者のみに課せられていたのである。五月二九日、教会会議が解散した。
■第二次「主教戦争」
 六月に入って、イングランドにおいて、王と議会との間の確執が表面化し始めた頃、アイルランドでは議会が開かれていた。アイルランドの下院では、「ローマ・カトリックの議員も独立プロテスタントの議員も、どちらも多数派にならないよう配慮されていた」[Gardiner(1)156]。しかし、「配慮した」のは、アイルランド側ではなく、ロンドンの代表であるアイルランド総督府ではなかったかと思う。なぜなら、議会をこのように構成することで、総督府は、どちらの側へも働きかけて、比較的容易に「多数派」工作を行なうことができたからである。
 ワンディズフォドは、時のアイルランド副総督であって、アイルランド総督ストラフォードの下にあった。彼は、チャールズからの最初の補助金の要請には、なんとか応えることができた。これに次ぐ補助金の要請をも、承諾せざるをえなかったが、今度は、アイルランド議会に諮るやり方をとった。だが、議会は、プロテスタント、カトリックを問わず、王への補助金を渋っていた。最初の四万六〇〇〇ポンドは徴収できたが、二度目三度目のは半額に満たなかったし、四度目の補助金は集まらなかった。財政の貧しいアイルランドでは、イングランド国民の負担を被り、しかも、その結果、隣国スコットランドのいっそうの恨みをかうのは、割に合わないことであったろう。同時に、アイルランドでは、すでにイングランドへ派遣するための軍隊が準備を整えていて、ストラフォードが、戻ってきて指揮を執るのを待つばかりになっていた。しかし、イングランドの情勢は、彼らが期待していたとおりにはいかず、チャールズに勝ち目がないことが徐々に見えてくるにつれて、王援助の熱意も次第に冷めてきていた。
 一方で、スコットランド議会は、四月以降、チャールズによって、六月二日まで延期されていたが、その間に、非公式ではあるが、聖職者、領主、平民の三階級からの代表による「諸身分代表者会議」が持たれていた。「短期議会」の解散とチャールズとウェストミンスターの議会との衝突の報が伝わるにつれて、スコットランドでは、次第に強硬論が台頭してきた。チャールズがスコットランド議会を延期したのは、軍隊の召集と軍費調達のための時間稼ぎとしてしか受け取られていなかったし、「盟約者」たちは、王の承諾も、ロンドンからの使節の帰還をも待つことなく、独自の議会を開催するよう迫っていた。
 スコットランドの沿岸では、イングランドの軍艦が、出入りの商船に発砲を続けていたし、エディンバラ城に立てこもるイングランド軍からの発砲も断続的に続いていた。だがスコットランドは、さしあたり、アイルランドからの軍隊の侵入に備える必要があった。このための西部地方の守備は、アーガイルの指揮に委ねられた。
 アーガイルは、父の後を受けて、アーガイル侯爵となり、やがて八代目の伯爵となった。一六二八年に枢密院顧問官に任ぜられたが、チャールズが、スコットランドにイングランドの典礼を強要しようとしたときに、これに抵抗したため王の不興をかい、このため自分の領地が侵略を受けることになった。この事があってから、彼は、長老制を支持して「盟約者」に加わった。一六三九年には、主教制廃止を求めるスコットランド宗教会議の要求を支持する文書をロード宛てに送っている。このような彼の反国王的な姿勢は、この頃から、モントロウズとの間に確執を招くことになった。その後一六四四年の内戦では、スコットランド軍を率いてイングランドへ侵入したり、モントロウズの指揮下でアイルランド軍と戦ったりしている。その後、モントロウズに追われて、一時自分の領地を占領されたが、チャールズが囚われて、スコットランドに宗教の自由が訪れると、アーガイルの成功は絶頂に達した。彼は、「盟約者」たちと秘密契約を結び、クロムウェルを歓迎した。しかし、このために、一六六一年、エディンバラで処刑されている。
 モントロウズはハイランド地方の出身で、一六二六年に、五代目のモントロウズ伯爵に任ぜられた。彼は王制の支持者で、王がいる限り、その同意なしに事を行なうことができないというのが、彼の考え方であった。もっとも、モントロウズも、一六三七年のスコットランドの宗教問題では、チャールズに逆らい、「盟約者」に加わっている。第一次「主教戦争」の際に、彼は「盟約者」を代表してチャールズとの交渉の席に着いている。スコットランドの政治においては王制を、その宗教においては長老制を、というのが彼の信条であったようである。
 彼は、反国王派に対して、特にアーガイルの「野心」に不信と敵意を抱くようになり、アーガイルたちとは別個に、仲間と密約を結んだりしている。このようなわけで、一六四〇年の第二次「主教戦争」の折りに、スコットランド軍のイングランドへの侵入の際に、アーガイルの失脚を企てたとして、エディンバラで投獄されている。彼は、スコットランドとイングランド議会軍との「大同盟」に反対していたから、一六四四年にスコットランド軍がイングランドへ侵入した時には、彼は、チャールズによって、ハイランド地方での国王軍の総指揮官に任ぜられている。その後も彼の王に対する忠誠は変わらず、王の処刑後には、自分の領地ハイランドで、軍隊を結成したが、レズリの率いるスコットランド軍に破れて、一時国外に逃れた。しかし、再びスコットランドへ戻り、一六五〇年に、エディンバラで処刑されている。国王派であり「盟約者」でもあるという彼の信念は、最後まで変わらなかったという。
 アーガイルと言いモントロウズと言い、またハミルトンと言い、スコットランドの領主たちは、王制の下に身を置こうとしながらも、スコットランド民衆の力に押し出されて、両者の狭間で最後には処刑されるという悲劇的な運命をたどっている。ガーディナーは、モントロウズを「中途半端な盟約者」[Gardiner(1)151]と評しているが、イングランドの植民地でありながら、同時にイングランドと共に植民地の支配者ともなりえたスコットランド貴族の悲劇的な状況をガーディナーは正しく洞察していないと思う。
 六月一一日になると、スコットランド法令審議会は、国王の同意なしに、スコットランドの新憲法ともいうべき法案を可決した[Gardiner(1) 152]。その後、この「議会」は、多くの「諸身分委員会」に分かれて、スコットランド国家の行政を整備する仕事に取り組みはじめた。
 「アイルランドは後込みし、スコットランドは脅威となってくる一方で、イングランド政府の財政は逼迫していた」[Gardiner(1) 156]。六月に、チャールズは、ロンドン市長を呼び、建鑑税の取り立てを厳しく迫った。チャールズの息のかかった市当局ではあったが、彼らが手を尽くしても税は徴収できなかった。チャールズは、市参事会に、さらに兵士四〇〇〇人分の軍服税を課してきたが、市当局は、これの回答を延期することに決定した。「この決議は、事実上の拒否に等しかった」[Gardiner(1) 154]。
 チャールズは、やむなく機会を待つことにしたが、戦いの準備を進めようとするチャールズの宮廷は、国民の抵抗が予想以上に強いことを思い知らされることになった。それまで、宗教に関しても、また王と議会との摩擦にも無関心であった農民層にまで、ピューリタン信仰が広まりつつあったからである。地方の手職人や職人兼業農夫たちが、予備役として軍服を着せられた場合に、彼らを指揮する地方のジェントリー階級が、はたして国王のために戦う意志があるのかどうかが疑われた。最悪の場合には、その軍服が、王に対する抵抗のしるしにならないという保証はなかった。その上に、軍を率いる将校たちの間に相当数のカトリック教徒がいて、この事が兵士たちの反感をかっていることをチャールズの宮廷は見落としていた。王妃は、この間も、スコットランド征服の軍資金と援軍をローマ法王に依頼していが、チャールズがカトリックに改宗するのでなければ、資金も援軍も与えられないというのがローマからの返答であった。
 七月に入ると、使節としてロンドンへ派遣されていたラウデンが、釈放されてスコットランドへ戻ってきた。彼が持ち帰ったのは、先にチャールズとスコットランドと結んだベリック協定の約束に同意するというチャールズからの返答だけであった。しかし、スコットランドでは、すでにレズリが、軍の中枢部と共に、イングランドへ侵入する準備を進めていたのである。スコットランド側は、王とのいかなる交渉も、彼の恣意的な解釈で反古にされることを知るにつれて、スコットランドの平和が、イングランドへの侵入によってしか確保できないという気運が高まってきていた。先の第一次「主教戦争」のときのような国民的な一致がもはやイングランドには存在しないという読みが、スコットランド側にあったのは確かなようである。ついにスコットランドは、「国民盟約」をイングランドにまで広げようとして、イングランドの議員たちに、密かにこの件で連絡を取り始めた。しかもその回状には、すでにエセックス、ブルック、ウォリック、セイ、などの署名が並んでいたのである[Gardiner(1)179]。ついにレズリは、ダンスへ兵を進めた。しかし、彼も軍資金が十分ではなかったので、それ以上は進まなかった。
 八月になると、スコットランドの行政は、事実上「諸身分代表者会議」によって行なわれていた。チャールズとの和解が遠のくにつれて、「盟約者」たちが次第に勢いを増してきた。この時、全国民を統一する執行部を設けて、アーガイルにこれの総指揮権を与えるという案が浮上してきたが、長老制と王制の両立を夢見ていたモントロウズはこれに激しく反対した。スコットランドは、この機会に、イングランドへ進攻すると同時に、将来に向けて、国の組織と法的な整備を整えようと望んでいたのである。
 一方で、ストラフォードは、王の不決断と軍紀の乱れ、それに軍費の困窮などで、事態が容易ならぬところへ来ていると判断した。彼は再びアイルランドへ渡った。「アイルランドの軍隊はイングランドの百姓のように反抗的でもなく無秩序でもない」[Gardiner(1) 183]と判断したからである。アイルランドとイングランドとウェールズとが結集して、スコットランドへ侵入するというのが彼の計画であった。だが、ストラフォードは、「パピストの国」の、しかも自分たちによる被植民地の軍隊の援助を借りることが、イングランド国民の心を逆なでする行為であることに気づいてはいなかったようである。
■スコットランド軍の侵入
 スコットランド軍がニューカッスルへ進攻するのはもはや時間の問題であった。この時に当たり、スコットランド側は、ロンドンへ向けて二つの声明文を出して、これを配布した。一つは簡単なもので、もう一つはかなり詳しい内容のもので、それは、チャールズに対する礼を尽くしてはいたが、交渉の相手はもはや国王ではなくロンドンの議会であった。その文書はまた、「邪悪の張本人」として、ロードとストラフォードの処分をも求めていた。
 八月二〇日、ついに、王は、軍隊を率いてヨークへ向かった。軍の司令官はストラフォードであった。彼はなおロンドンに留まり、戦費の調達を行なわなければならなかったが、二七日には、ストラフォードもヨークへ到着した。
 ヨークは伝統的に国王に忠実な地方であり、しかもストラフォードの出身地でもあった。彼は、ヨークシャーから集まったジェントリーたちに向かって、「イングランドの慣習法と自然法と理性の法によって、われわれは王を支持すべきである」と訴えた。事実、ヨークは内戦が始まっても終始王に忠実であり続けた。一六四三年に、イングランド議会軍とスコットランド軍との「大同盟」が成立して、翌一六四四年に、スコットランドの大軍がヨークへ押し寄せるまで、ヨークシャーは、北部における国王派の拠点となっていた。しかし、スコットランド軍の進入は形勢を逆転させた。それまで、ヨークシャーを支配していたニューカッスル伯爵は、スコットランド軍をくい止めるために北部へ向かったが、その隙をついてフェアファックス(息子のトマス)の軍が、ヨークへ進撃してきた。ニューカッスルは、やむを得ずヨークへ立てこもらなければならなくなった。ヨークは、スコットランド軍とフェアファックスの軍とに挟まれ、内戦の歴史上で名高い「ヨーク包囲戦」がこうして始まった。その年の六月、ミルトンが『教育論』を出した頃、マンチェスターの率いる軍隊が、東からヨーク包囲網に加わった。ヨークは完全に孤立した。ニューカッスル伯爵の軍隊は、一ヶ月持ちこたえた。その時、ルパート王子の率いる一万の国王軍が、ヨークシャーへ入り、かろうじて敵を出し抜いて、市内に入り、ヨークは救われた。その後で、内戦の雌雄を決したと言われるマーストン・ムアの戦いがヨークの近郊で行なわれることになる。ヨークの博物館には、「ヨーク包囲戦」の模様が、今でも展示されている。
 八月二七日、ストラフォードは、全軍の三分の二をニューカッスルへと派遣し、残りの兵から、歩兵三千と騎兵一五〇〇を、スコットランド軍を迎え撃つためにニューバンへ向かわせた。二八日のタイン川の引き潮は午後三時から四時の間であったが、二七日の夕方になってもスコットランド軍はまだ川辺に到着していなかった。指揮官コヌウィは、低地の川縁に沿って柵を築き、自分は騎兵隊と共に離れたところで待ち受けていた。スコットランド軍は、到着すると、イングランド側の対岸の高台に大砲を置いた。このためイングランド軍の低地からの発砲は功を奏しなかった。川水が下がると、スコットランド軍は、川縁のイングランド軍に激しい銃火を浴びせた。イングランド軍がやむなく退却すると、すかさずスコットランド軍は川を渡った。彼らは、イングランドの騎兵隊を襲い、タイン川に沿って背走するイングランド軍を追撃して、ニューカッスルに迫った。ストラフォードは完敗を味わった。八月三〇日、ニューカッスルはスコットランド軍に占領され、レズリは、さらに追撃の構えを見せていた。
 ニューバンでの戦いが行なわれた同じ日に、ロンドンでは、王の不在の間に、エセックス、ウォリック、セイ、ブルック、ピム、ハンプデンなどの上院と下院の主だった議員たちが、王に対する請願を作成しつつあったが、それは、「請願」というよりは「苦情申し立て」であった。そこには、軍費の増大、兵士の無秩序、新規な宗教セクトの活動、法王主義的な将校たち、アイルランド軍導入の危険性、建鑑税、商品買い占めの横行、議会の中断などが書き連ねられていて、イングランドとスコットランドの二つの王国が、一致して「改革された宗教の共通の敵」と戦うようにと結んであった。この直後に北部での敗北の知らせが届いたと思われるが、これが、チャールズに対する議員たちの態度をいっそう硬化させたのは想像に難くない。
 九月に入ると、ヨークシャー全体からの訓練された部隊の編成が、ようやく整ってきた。しかし、スコットランド側は、穏やかな調子で王への嘆願書を提出し、彼らの苦情もイングランド議会の助言と一致している旨を伝えた。同じ時に、先に議員たちの作成した「苦情申し立て」が、「一二名の上院議員の請願」として、ロンドンから王の下へ届いた。王は、これを時間稼ぎの絶好の機会と考えたようである。チャールズは、一二名の上院議員たちをヨークへ呼び寄せるよう通達した。彼は、いぜんとして軍費の調達にこだわっていた。一一日に、王の下で、スコットランドに対する回答について会議が開かれた。チャールズは、スコットランド側の今までの議会の決定をすべて承認するように譲歩を強いられた。
 ところが、ニューカッスルに入ったスコットランド軍のほうも、王の引き延ばし作戦にかかって、戦費に苦しんでいた。彼らは、侵入してきたスコットランド軍への戦費調達を、その占領地に要求したのである。ストラフォードは、この機を逃さなかった。彼は、スコットランドへの回答を、上院議員たちとの会議が予定される月末まで延ばすように図った。ストラフォードは、さらにヨークシャー編成部隊の戦費を地元のジェントりーたちが負担することを承諾させることに成功した。ヨーク以外の州からも、王への援軍が期待できる態勢が整ってきた。スコットランド軍の侵入と地元での戦費調達は、イングランド国民の反感を招くに違いない。こうストラフォードは読んだのである。しかし、スコットランド側も注意を怠らなかった。スコットランド正規軍の規律はよく保たれていた。彼らは、市民に害を及ぼすことは決してないことを保証し、また占領下にもかかわらず、ニューカッスルとロンドン間での石炭の正常な取引を保証した。
 その頃ロンドンでは、先の一二名の議員たちによる請願と類似の請願書が市民の間で回覧されていた。これの配布に、ピムたち下院議員が関わっていたかどうかは確かでない。しかし、この回覧は、九月二二日に、四名の市議会議員と一万人の署名を連ねた請願となって、王に提出されたのである。もはや、議会開催の声をチャールズは無視することができなくなった。チャールズは、ヨークの聖堂参事会室で、大枢密院会議を開いた。席上で、当面必要な軍費借り入れと引き替えに、スコットランドとの和平交渉に入ることが求められ、彼は、ベリックでの協定を基にして、和平会談に入ることを承諾した。
 一〇月二日、リポンで、スコットランドとの和平会談が持たれた。スコットランド代表として出席したラウデンは、明らかに自分たちの勝利を意識していた。スコットランド側は、協定が成立するまでの間、スコットランド軍の滞在費として、四万ポンドを支払うように要請してきた。チャールズは、停戦会談をヨークへ移すよう提案したが、スコットランド側はこれを拒否した。彼らは、今度の戦の張本人がストラフォードであると見ていたが、ストラフォードのほうも、もしもこのまま戦いを継続するならば、アーガイルが、アイルランドにいる四万のスコットランド軍を、この戦いに投入するつもりでいるのを知っていた。二二日に、停戦の条件が成立し、北部の二州は、和平の成立までスコットランド軍の支配下にあること、このための費用として、一日八五〇ポンドをイングランド側が支払うこと、以後は、ロンドンでの議会開催以後に、ロンドンで両国の和平会談を行なうことなどが合意された。二八日、チャールズは、この停戦合意を呑んだ。
■長期議会の開始
 一六四〇年一一月三日、結局終わることのなかった「長期議会」が始まった。例によって国王が開会宣言を出した後に、「下院の議員たちは上院から戻って席に着いた。財務官が沈黙を破り、議長を選ぶ慣習について述べてから、レントール氏を指名した。一斉に議長への呼び声がかかった。彼は立ち上がり、事態の重要性に鑑みて、自分の体が弱いからという個人的な理由からも全員のためからも勘弁してほしいと願った。言い訳を聞いて、議長へといういっそう大きな声がかかった。とうとう、財務官とウィンデバンク秘書官の手で、彼は議長席に着かされた。席に着く前に、彼はもう一度下院に勘弁してほしいと願った」[JC.20]。
 これから始まろうとする議会の「事態の重要性」をレントールはどこまで予期していたかは分からない。しかし、この議会の成り行きを予測できた者は、議員の中には誰一人としていなかったであろう。「国家の主権」とは何か? それは誰のものか? この問題が公然と争点になったという意味で、「長期議会」は、イングランドの歴史上最も重要な議会となった。「この議会の新しい意味は、議長選出にもはっきりと現われていた」[Gardiner(1)220]。チャールズは、最初、ロンドンの市裁判所裁判官で国王派のガーディナーを推薦した。しかし、市当局はこれを拒否、代わりに四名のピューリタンを推薦してきた。チャールズは、やむをえず王と議会の両方に受け入れられるレントールを指名したのである。
さっそく議会にはさまざまな「請願」が持ち込まれた。これに伴って、宗教委員会、苦情処理委員会、司法委員会などが設けられた。特に重要な意味を持つのは、アイルランド問題委員会であった。そもそもこの件について委員会を設置すべきなのか、それともこの件は下院全体で扱うべきなのか、この点から意見が分かれた。投票の結果、一六五対一五二で、委員会の設置が決定した(一一月六日)。
■耕作地と囲い込み
 ところで、この日の下院で、「耕作地を放牧地に転向する」という法案が、全体の場で読まれている。この法案との関連で注意を引くのが、「自由土地保有者の請願」である。この請願は、議会が開かれた直後の七日と九日の二日間だけでも、四件にのぼっている。私たちは、ここで、革命の社会的背景の一つとなっている土地問題に目を転じる必要があろう。マニングは、「一六四〇年の『長期議会』の召集から一六四二年の内戦の勃発までの間に、地方で、抗議と暴動の波が潮のように高まってきた。それは、共有地や荒れ地や沼沢地などの囲い込みと国王や皇族や宮廷人、主教や大貴族たちによる共有地権利の侵害に向けられたものであった」[Manning 140]と指摘している。
 土地問題の背景は複雑である。先ず第一に、人口の急激な増加があげられなければならない。一五世紀の半ばから一七世紀の半ばまでの二〇〇年間に、イングランドの人口は七五パーセントから一〇〇パーセントの増加率を見せて、人口がほぼ二倍に増大している[Manning 133]。中世以来、イングランドでは、比較的適正な人口によって土地の耕作が行なわれていた。ところが、人口増大の結果、余剰人口は、これに見合う借土の供給がないままに、都市の産業労働者(徒弟人たち)として吸収されるか、あるいは、貧民として、それまで放置されていた共有地や沼沢地、荒れ野などに住み着いて、放牧や乏しい耕作に頼ることになった。人口増加は、必然的に穀物の需要の増大を伴うから、それは穀物の値段の高騰をもたらす結果となった。同時に、穀物栽培のための土地の生産性もまた向上してきたから、大土地所有者は、それまで放置されてきた領地内の共有地を耕作地に転じたり、沼沢地の灌漑工事を進めることで、より多くの収穫を上げようとするようになったのである。
 このようにして、人口の増加に伴って生じた貧民層の共有地への「入り会い権」は、土地の生産性向上に伴う領主・地主階級の耕作地増大によって侵害されることになった。「樹木を伐採し、沼地を灌漑し、不毛の土地を肥沃化し、向上した土地を囲い込み、これらを分割して農地として、それの土地代を競わせて〔小作人に〕貸与することによって、荘園の領主たちは新たに多大の利益をあげることができた」[Manning 135]のである。これが、いわゆる「囲い込み」と呼ばれる問題である。穀物の需要が高まるにつれて、それまでの共有地は耕作地へ転用され、その結果、放牧は、より狭い土地により多くの家畜を入れて行なわなければならなくなった。
 しかも、海外貿易の拡大の結果、国内の市場は、景気の急激な変動に見舞われて、特に一六二〇年代と三〇年代に、イングランドの市場は、インフレとデフレの波を交互に被ることになった。海外貿易の拡大に伴う景気の急激な変動は、長期的な土地賃貸契約関係にも深刻な影響を及ぼしていた。中世以来、農民は、領主から土地を貸与されていたが、彼らの借土権は、世襲によって比較的安定していた。特に、荘園裁判所に記録された土地の謄本を所有する農民は、「土地謄本保有者」と呼ばれて、彼らの小作権は、一定の借土権相続料を支払うことによって、これの相続が保証されていたから、比較的安定した農地の経営が可能であった。しかしながら、穀物需要に伴う農産物の高騰と囲い込みの結果として、土地賃貸関係は、それまで慣習として認められてきた土地謄本保有者たちの借土権保有にも変化をもたらすことになった。急激な景気変動は、長期の借土権保有とこれの相続権、また、長期間にわたる一定の小作料を不可能にしたのである。
 領主たちは、土地経営の効率をあげ借土料を値上げするために、土地謄本保有権を一定期間に限定した土地賃貸権、すなわち「定期借土権」に切り替え始めたのである。このような「定期借土権保有者」の借土期間は、その生涯にわたることもあり、一定年数に限られることもあった。さらにひどい場合には、借土期間を定めずに、時に応じて借土料を更新(値上げ)し、これに応じなければ別の小作人に貸すということも行なわれた。この結果生じたのが、「不定期借土人」である。また、土地謄本保有者の相続料や定期借土権保有者の借土権更新料を「自由裁量」と定めることによって、これを大幅に値上げすることができた。特に、チャールズの王室に対しては、狩猟のための広大な王室用森林の囲い込みに対する森林共有地の住民の敵意が、内戦前には極度に高まっていた[Manning 140]。
 『下院議事録』に出てくる「自由土地保有者の請願」というのは、大土地所有階級のこのような土地政策に対する抗議なのである。また、「耕作地を放牧地に転換する法案」は、領主によるこのような囲い込みを制限しようとするものであった。七日と九日に出ている四件の申請は、それぞれ、レスター、ヘレフォッドシャー、サマセットシャー、ウォリックからのもので[JC.21ー23]、下院は、レスターからのものには、当事者を喚問して「義務不履行」の処罰を下し、ヘレフォッドシャーのものは不問に付し、サマセットシャーとウォリックからのものは、権利委員会に回している。下院の土地問題に対する対処の仕方は、概して下層の者に好意的だったようで、上院との合同委員会で、申請者に対する「権利の侵害」を認め、場合によっては当事者を法律違反で投獄している。
 囲い込みは、地方によって問題の性格が異なっていて、東部のリンカーンシャーの場合は、沼地の灌漑が大きな問題になっている。ここでは、国王チャールズが王妃に与えた土地を、王妃がマンチェスター伯爵に封土として貸与していた。伯爵が貸与された沼地に大規模な灌漑工事を行なったために、一六四一年に、地もとの住民たちが、小作人の同意なしにこれを行なったとして、あるいは入り会い権が侵害されたとして、下院に申請を出したのである。この年の四月、上院が、住民の行為は、王妃の権利の侵害に当たるとの判定を下したために、ついに暴動が起こり、リーダーたちが逮捕されるという事件に発展している。領主は、こういう場合に、しばしば、「土地請負人」を雇って、住民たちを強制的に立ち退かせたり、特定の小作人に耕作権を与えたりしていた。しかし、請負人が土地を離れると、住民たちは再び共有地に入り込むという鼬ごっこが続く場合も多かったらしい。『下院議事録』には、このような土地、沼地、森に関する請願が、歴史的な事件の間を縫うように頻出していて、まるで、革命のBGMのように響いてくる。
 ■ピューリタン活動家の釈放
 一一月九日の『下院議事録』[J.C.24]は異常に長い。その終わりのほうに、リルバーンの請願が、ライトンの請願とともに受理されて、委員会で審議の結果、両名とも釈放されたとある。また、この委員会に「クロムウェル議員も参加を認められた」と記録されている。リルバーンは、チャールズの圧政を訴えるパンフレットを配布したかどで、星室庁裁判所からさらし台と投獄の判決を受けた(一六三八年)。この判決の不当を訴える請願が下院の委員会で受理されて釈放されたのである。彼の釈放には、クロムウェルの尽力があったようで、彼は、後からこの委員会に加わることを認められたようである。ただし、この段階では、クロムウェルはまだあまり注目されていない。また、後年、リルバーンが水平派に加わって、長老制だけでなく独立系各派をも批判することになるとは両者とも予期していなかったであろう。
■ストラフォードの弾劾
 一一月一一日の『下院議事録』[J.C.26]に、一つの重大な出来事が記されている。イングランド議会は、停戦中の北部のスコットランド軍がいつ南下してくるかもしれないという懸念と、同時に、これもいつイングランドに進駐してくるかもしれないアイルランド軍の不気味な存在に挟まれていた。チャールズの宮廷が、カトリックと通じているという疑いは、議員だけでなく民衆にも広まっていた。下院は、ストラフォードが、議会の承認なしに、アイルランド軍をイングランドへ進駐させようと企てたかどで、彼を弾劾しようとしていた。ストラフォードは、素早くこれを察知し、逆に、下院の指導者たち(その中にピムも含まれていたのは間違いない)を国王に対する大逆罪で上院において弾劾し、彼らを逮捕するようチャールズに進言したのである。しかし、チャールズは、上院での提案をためらったために、結局この案は提出されなかった。この情報が下院にもれると、下院は素早く行動した。
 チャールズとストラフォードの計画は、チャールズのためらいの故にかろうじて未遂に終わったが、これがどのように「深刻かつ重大な問題」として下院に動揺を与えたかが、一一月一一日の『下院議事録』に生々しく記録されている。そこには、スコットランドとのリポン交渉に関する記録に続いてこうある。「本院は、上院からのメッセージを考慮中である。今この時、本院は、きわめて深刻かつ重大な問題で、動揺している。それゆえに、上院の要請に応じて、午後から合同会議を開く余裕などないと思われる。よって、準備が整い次第、こちらの使者を遣わして返答する。」下院は直ちに、ピムを始め、ストロウド、セント・ジョンなどの議員やディグビィ卿から成る委員会を設けて、委員会室にこもり、「上院と合同の祈りと会談によって、ストラフォード伯爵告発の準備に入った」[J.C.26]。
 委員会がどれくらいの時間をかけたかは分からない。また、下院が、いったいこの日の何時まで開かれていたのかもはっきりしない。とにかく、同じ日の午後か夕方(と思われる)に、下院は、「アイルランド総督ウェントワース議員、ストラフォード伯爵、を大逆罪で訴える」案を下院に提出した。これについては、フォークランド議員などから、もう少し真相を究明してから告訴に踏み切るべきであるという意見が出た。しかしピムは、もはやストラフォードに時間を与える余裕がないと主張して譲らなかった。王権を背後にして軍隊を掌握しているストラフォードに対して、法的な手順によっては太刀打ちできない、こういう読みがピムにはあった。下院は、ついにピムの案を受け入れ、ストラフォードを大逆罪で告訴する旨を上院に伝えることに決定した。この決定に続いて議事録には、「彼〔ストラフォード〕は、議会から隔離され、拘禁されることが望ましい旨を伝え、都合がつき次第、本院は上院に、彼の訴状とその条項の詳部を報告すること」[J.C.26]とある。本来何週間もかけて作成するはずの告訴状が、わずかの時間で書き上げられた。それは、比較的短く、論旨も不徹底で筋が通っていない。それだけにいっそう、緊迫した下院の本音がそこに読みとれる。
 ピムと彼に同調する議員たちは、告訴状を持って上院を訪れた。弾劾の知らせを受けると、ストラフォードは、「私が下院へ出ていって、告訴人たちと正面から対決してやる」と言い放った。いつもの彼の強引なやり方が、上院の反発を招いて、「引っ込め」の声が四方から起こり、彼は退席した。上院は下院の議決を承認し、ストラフォードの身柄をアッシャー宅に預けることで同意した。チャールズとストラフォードの計画が、下院だけではなく、議会全体の存在を根底から脅かすものだと受け止められたのである。議会は直ちにこれを実行した。
 一一月一九日の『上院議事録』[J.L.93]には、ストラフォードからの請願が上院に届けられ、読まれたとある。その請願で彼は、「今月の一一日に、上院の法廷に喚問され、驚いたことに、イングランド下院から大逆罪で起訴され、上院によって、アッシャー氏の下で身柄を拘束されている」と述べて、しかも、彼は、自分が何のかどで訴えられたのか全く聞かされておらず、議会(上院)に出席することさえ許されていないと訴えている。
 私たちは、議会が開かれた直後の一一月九日から一九日までの一〇日間に、イングランドの議会に、スコットランド問題と共にアイルランド問題が影を落とし始めているのに気がつく。一一月一二日の『下院議事録』[J.C.27]では、午後、アイルランド問題で「パピスト狩り」の委員会が開かれ、「どのようなアイルランド人が、ウェストミンスターとロンドンに出入りしているかを調査せよ」という命令が出されていて、議会が、イングランドでの「パピスト」の暗躍に神経をとがらせている様子をうかがわせている。下院が感じ始めているこの恐れは、同時に、チャールズの宮廷と影でこれの糸を引いていると思われているカトリック諸勢力への脅威と結びついていた。イングランドにいるカトリック教徒が、現実にイングランドでどの程度の力を持っていたのか、あるいは、実際にどこまで、ローマやフランスがイングランドの脅威であったのかを詮索するのは、ここではあまり意味を持たないであろう。「パピスト」は、この頃から、イングランドを脅かすあらゆる勢力に対する記号としての意味を帯び始めるからである。マニングは、「〔カトリック系の〕軍隊の陰謀とスコットランドの出来事とアイルランドの反乱とによって生じた恐怖」(Manning 59)が、イングランドの人々を革命へ駆り立てたと分析しているが、これらの兆候が、すでに、この一〇日間に揃って現われているのは興味深い。しかもそれらは、それぞれ別個の要因としてではなく、同時に連動し合いながら、イングランドの政治・軍事・税・宗教を、その総体において突き動かしていく動因となっていくのを見るのである。
 ここから、翌年の五月一二日のストラフォードの処刑までは、政治的にはストラフォード問題が、宗教的には「根絶請願」が軸となって展開していくことになる。事態は複雑に絡み合っていて、その複雑さは、一一月後半の上院と下院の議事録にそのまま反映している。一一月二〇日の『上院議事録』[J.L.94]には、上院議会の始めに、恐らく緊張した面もちの下院議員たちが入ってきて、「それから下院議員たちは、上院議員たちの前に出て、多くの礼を尽くした後に、ピム氏が次の主旨のメッセージを述べた」とある。ピムは先ず次のように語っている。
「上院議員の方々の前で、ストラフォード伯爵を大逆罪で告発するという重大な件については、下院議員に種々の証人がおります。・・・・・この件に関する幾人かの証人は、陛下の名誉ある枢密院顧問であります。どうか上院の方々が、必要とあれば、彼らを呼びだして、宣誓の上尋問するための手続きをとられるようご配慮くださいますようにお願いいたします。・・・・・上院議員の方々、反逆とは、その準備と企てにおいて、ほとんどの場合暗闇の中を歩むものです。・・・・・どうか、その党派の名前、尋問とそれへの返答の内容に関しては、それらを〔あからさまに〕用いるしかるべき機会が訪れるまで、内密にお願いいたします。」
 ピムは、この段階まで、下院においてさえそれほど注目されてはいなかった。まして、ロンドン市民にとっては、彼は全く無名の人物であったと言ってよい。しかし、この頃から、彼の活躍が注目を浴びるようになってきた。「枢密院顧問の中に証人がいる」というピムの発言は、上院に大きなショックを与えたようである。それは、かつてストラフォードが、対スコットランド戦のためにアイルランドの軍隊をイングランドに進駐させようと国王に提案したという疑惑に関係している。ピムはここで、「しかるべき機会が訪れるまで内密にする」ように求めているが、恐らく彼自身も、前から抱いていたこの疑惑を、ストラフォード告発の理由として持ち出す「しかるべき機会」が来るまで保留しておこう考えていたのであろう。機を見るに敏で、かつ大胆に行動するピムのこういう政治的手腕は、今後の成り行きに多大の影響を与えることになる。
 上院では、ピムの演説の後で、国王から、スコットランドとの和平交渉の委員会を設置するよう要請されている件を論じている。イングランドは、北部の軍隊だけではなく、和平の合意を見るまでは、ニューカッスルに駐留するスコットランド軍の滞在費をも負担しなければならない状況に追い込まれていた。議会は、「陛下の軍隊に軍費を給与するために」も、緊急にスコットランドとの交渉を進めなければならなかった。
 ■ストラフォードに対する告発状
 一一月二四日の『上院議事録』[J.L.96]では、ハンティントン、クリフォード、ドーヴァー、ウィンチェスター、クリーヴランドの諸議員が、会議から抜けて、ストラフォードを訪問する許可を、それぞれ別個に願い出て認められている。おそらくストラフォードを見舞い、同時に今後の裁判の打ち合わせを行なうためであろう。また、国王の枢密院顧問を、宣誓させた上で尋問することが、はたして上院にできるのかどうかが問題となっている。上院は明らかに動揺し、かつストラフォードに同情的であり、また内部で意見が分かれている様子である。 一一月二五日の『上院議事録』[J.L.97]には、下院から上院に宛てて提出された、ストラフォードを大逆罪で告発する条項の全文が記載されている。それによると、告発は七項目に分かれていて、以下はこれの抜粋である。
「(一)ストラフォード伯爵は、イングランドとアイルランド両王国の基本法と政体を覆し、その代わりに、法に反して、恣意的かつ暴君的政体を導入しようとする裏切り行為に走った。彼は、その裏切りの言葉と進言と行為とによってこの事実を明言し、かつ、陛下への助言と軍隊の力により、陛下の臣民をこれに屈従させようとした。
(二)彼は、イングランドとアイルランドの陛下の臣民の生命、身柄の自由、土地、財産に対する王権をば、裏切りによって自らのものとし、その権力を、多くの議員並びに陛下の忠実な臣民を倒し破滅させるために行使した。
(三)彼は、裏切りの意図をもって、陛下の収入の多大の分を法的な根拠なしに〔自らのために〕蓄え、大蔵省から多額の金を受け取り、これを自らのために使用した。
(四)彼は、自らの統治権力と権威とを悪用して、パピストを増加させ、のさばらせ、勇気づけて、自分と件の党派との間に、相互依存と信頼関係を築こうとした。
(五)彼は、悪意に基づいて、陛下のイングランド臣民とスコットランド臣民との間に敵対関係と敵意を引き起こそうと図った。
(六)陛下の軍隊の司令官でありながら、陛下の臣民を意図的な裏切りによって死なせ、ニューバンにおいて、〔陛下の軍隊を〕スコットランド軍による不名誉な敗北へと導き、ニューカッスル市を敵の手に渡した。
(七)これらの行為並びに裏切りの方策について追求されるのを防ぐために、議会の権利と、古来からの議会の運営方法を覆そうとした。」
 以上の七箇条を上げた後で、「彼は、その言葉と進言と行為とによって裏切り、誓約に反して国王の忠誠な民の心を陛下から離反させようと努め、その結果陛下の王国を破滅させようと努めた。この故に、下院は、主権の主である国王と王冠とその威厳に対する大逆罪で彼を弾劾する」とある。
 これが、「アイルランド総督、アイルランド軍総司令官、枢密院顧問官、北部軍司令官」であるストラフォードに向けられた「大逆罪」の告発状である。下院の告発状を受理した上院は、討議の結果、「宗務及び民事上院委員会は、議会高等法廷を開き、下院によるストラフォード伯爵大逆罪の告発に基づき、ストラフォード伯爵を直ちに塔に拘禁するよう命じる」と決議している。これに続けて、ストラフォードには、この告発状のコピーを手渡し、これへの回答を速やかに準備することと、このために必要な書類及び助言が彼の願いどおりに与えられ、そのための人員のリストを上院は承認するとある。この『上院議事録』から、「イングランドの基本法と政体」とが犯されることで、議会それ自体の存続が危うくなるという危機感が、下院だけでなく上院をも支配している印象を受ける。
 しかし、そもそも「大逆罪」とは、告発文にもあるとおり、「主権の主である国王」に対する反逆のことである。だとすれば、国王に忠誠を誓い、アイルランド総督、アイルランド軍総司令官、枢密院顧問官、北部軍司令官として、病弱を押して政務に殉じたストラフォードを「大逆罪」で告発するというのは、いったいどういうことであろうか? まして、国王自身が、彼を免罪にしようとあらゆる努力を重ねているにおいておやである。この点に関して改めて根本的な疑問を抱かざるをえない。しかも問題は、弾劾の理由だけではなく、これの審議の過程それ自体にもある。アッシャーの言う「一六四〇年のいまだ解かれない謎」とは、恐らくこの疑問とも深く関わっているのではあるまいか。問われているのは、主権者に対する反逆か否かということよりも、そもそも国家の「主権」とは何か?それが「侵害される」とはどういうことを意味するのか? これが問われているのである。そして、これこそが、ストラフォード問題の核心であり、同時に、ピューリタン革命の最も重要な争点の一つである。
 ピムたちの告発文は、この疑問を探る意味で示唆深い。告発は、先ず、「イングランドとアイルランドの基本法」として、「国王の権力」をあげ、これに「陛下の臣下の生命や身柄の自由」をリンクさせている。その上で、この「王権」をば、ストラフォードが、「法に反して、恣意的暴君的に悪用」したことが、「大逆罪」成立の根拠とされているのである。このような「主権」の解釈について、上院が、下院に、ここで言う「王権」とは何か? と問い返しているのは興味深い。私の解釈に誤りがなければ、下院は、国王の権力と同時に「議会の権力」をもこれにリンクさせて「主権」を解釈していると見ることができる。ところで、告発文にある「陛下の収入を着服したこと」(たとえそれが事実であったとしても)は、大逆罪と直接関係がないであろう。まして、「スコットランドとイングランドとが敵対関係に陥ったこと」や「イングランドのカトリック勢力が増大したこと」は、ストラフォードの責任でないばかりか、これらのことは、主権に対する大逆には結びつかない。そもそも、これら二つは、互いに無関係な出来事である。全体において、告発文は、チャールズのこれらの失政の責任を巧みに側近のストラフォードへと移し替えてから、これに「パピスト」の脅威を添えることで、「大逆罪」を成立させようとねらっていると思われる。
 ただし、チャールズの側近としてのストラフォードの政策が、議会の存立それ自体を危うくしたという危機感だけは、議会の本音だとはっきり読み取ることができる。チャールズが、議会に対して、いくらそうでないと繰り返したとしてもである。だが、議会の「主権」に対するこのような解釈は、見方を変えれば、ピムたちこそ「大逆罪」に値するとストラフォードが考えても故無しとしない危うさを含んでいる。恐らく上院だけでなく下院でも、始めからこの告発文に疑問を抱く者たちがいたのであろう。当初は、ストラフォードの反逆罪が成立すると本気で考えた者は、少なかったらしい。ストラフォード自身も、この段階では、まだ余裕を持って対処しているのが分かるし、チャールズは、ストラフォード処刑の直前になっても、彼に宛てた手紙で、「貴方を死なせることは決してない」と約束できたほどである。マニングが指摘したピューリタン革命の三つの要因がある。それらは、スコットランド問題とアイルランド問題とカトリックへの恐怖である。これらが、いずれもストラフォードと結びついていること、いわば彼が、ピューリタン革命の要因それ自体を文字どおり体現しているという不気味さは、まだこの段階では、誰からも洞察されていないのである。
■「法王主義」を処罰
 同じ頃に、下院で行なわれていることを見てみよう。一一月二四日の『下院議事録』[J.C.35]では、法王主義に関する二つの件が取りあげられている。
 先ず、ホーランド議員の妻が、かつてカトリックであったことがあり、現在もこれを続けているという疑いがあるため、議員自身にも同じ嫌疑がかけられた。このために、議員は、身の潔白を証しするために、自分が、プロテスタント信仰〔イングランド国教会〕に親しみを感じているという告白を進んで行なった。これを聞いて、下院の全員が多いに安心したとある。
 次に、ノートンという「神学者」が、下院議長の質問に答えて、ケンブリッジ大学にいる彼の息子が、ピーター・ハウス礼拝堂付きの教授によって、法王主義を吹き込まれたと陳述している。ノートンは、これの証拠として、息子と件の教授との間で行なわれた議論のコピーを提出している。この陳述によって、その礼拝堂付きの教授は、「ローマ的である」と判定され、尋問にかけられることになった。
 同じ日の議事録に、これに続いて、ストラフォード告発状の内容について上院から質問があり、そこで用いられている「王権」という言葉について、上院が、これの解釈を求めてきていると記されている。さらに、その後で、ピムが、上院でのストラフォードへの大逆罪に関する審議について報告している。
 翌二五日の『下院議事録』では、ホワイト議員が、宗務大委員会での「ラフィールド博士に対する申請」に関して報告している。それによると、博士は、聖餐のテーブルを祭壇式に置いて、手すりを設け、手すりの上に一〇個の異なる像を祭壇として置いた。彼はこれに向かって三度礼をした。(一)手すりに向かうとき。(二)手すりの中で。(三)テーブルの前で。また、戻るときにも同様に行なったが、教区信者が、苦情を申し立て、像を取り去ったために、〔戻るときには〕二度しか行なわなかった。すなわち、手すりの中でとテーブルの前で。ここで、像の前で礼を行なったことに問題がある。彼はIHS〔ラテン語で「この十字架に救いあり」〕と金文字で書いたものを聖餐のテーブルにかけ、しかもその側面には、四〇カ所もその文字が書いてあった。彼は参列者に、「これまでは信仰によって見ていたが、今は肉の目で、聖餐のうちにキリストを見る」と言った。〔教会員が〕像を取り払うと、彼は、その行為が冒涜であると言い、祭壇へ来なければ、聖餐授与を拒否すると述べ、キリストの体なる教会として、うやうやしく跪いて聖餐を捧げるべきであると説いている。彼は、ボルトン氏が、聖餐を受けるために手すりに来なかったとして、彼を破門し、彼の贖罪宣言を拒否した。彼は、たとえ一〇〇ポンドを受け取っても、手すりの外で聖餐を行なわないと宣言し、教会の儀式に反対を唱える者たちは、黒いひき蛙、いぼ蛙、毒蛙であると言い、地獄に定められていると述べた。彼は教会員に罪を告白せよと迫り、自分は彼らの牧者であるからこのような忠告すると述べたとある。さらに、この記録の末尾に、「委員会は、彼が『聖職評議会』〔ここでは地方の聖職評議会を指すか〕のメンバーであるが、『義務不履行』として喚問することに決定」とある。
■ピューリタン活動家の釈放
 一一月三〇日の『下院議事録』[J.C.40]には、重要な二項目が短く記録されている。プリンとバートンの二人が、下院に呼び出されている。以前に彼らが、召使いと妻とをそれぞれの代理人として提出していた請願が受理されたのである。プリンは、有名な『ヒストリオマスティクス』(一六三二年)を著わして、ロード体制と劇場芝居を糾弾した。ミルトンたちが、『コウマス』の制作に取りかかろうとしていた少し前のことである。一六三七年六月に、彼は、星室庁裁判所において、バートンたちとともにロードの判決によって、ウェストミンスターにおいてさらし台にかけられ、耳を切り落とされて頬にSL〔扇動的誹謗者〕の焼き印を押された。もっとも彼は、それを「ロードの印〔スティグマ〕」と呼んだが。その後、彼は、カーナヴォン城に幽閉され、さらにオーゲル山の城に移されていた。下院は、その間に出されていた彼らの請願をここで受理し、この時に彼らを解放したのである。翌年四月二〇日に、下院は彼らの判決の不当性を認め、正式にこれを取り消している。ロンドンの市民たちは、この二人を歓呼の声で迎えた。先のリルバーンの釈放に加えて、ピューリタンの活動家たちが続々と復帰してきているのである。
 一二月に入ると、一〇日に、チャールズは、枢密院で、彼の次女とオランダのウィリアム・オレンジ王子との結婚を発表している。オランダとの提携によって、政情の不安を乗り切ろうとするチャールズとヘンリエッタの思惑が背後にあるのは間違いない。
■「ロンドン請願」の提出
 一二月一一日の『下院議事録』[J.C.49]には、「ロンドン市及び周辺からの大勢の市民によって提出された請願が受理され、これについて討議する日を決めるよう決議した」とある。討議の日は、次の木曜日となり(これは結局延期された)、署名の長い巻紙は、下院議長の手に委託され、議員以外にはこれのコピーを渡さないように命令されている。下院は、この請願を(これの署名者名簿とともに)慎重に扱おうとしているのが分かる。これが「ロンドン請願」と呼ばれるものである。約一万五〇〇〇人とも二万とも言われるロンドンとその周辺の市民たちの署名を集めた上で、約一五〇〇人ほどの人たちが、二人の市会議員に率いられて粛々とウエスト・ミンスターを訪れ、その中の正装した三〇〇か四〇〇人が、市会議員ペニントンと共に議事堂内へ入り、下院に請願を提出したのである。多人数にも関わらず、市民の態度は穏やかであった。しかし、その内容は、現在の主教制の根幹を揺るがすものであった。ヴェイン議員は、このように大勢が議会を訪れて請願を提出するのは不当であるという理由で、議会がこのようなものを受け取るべきではないと主張した。彼に同調する議員たちもいたために、議員たちの間で議論の末、とにかくこれを受け取るが、これの審議は先送りにすることが決まった。事実、この請願は、翌年の二月八日まで審議されることがなかった。
■経済不況と世情不安
 一一月二〇日から二四日にかけての『下院議事録』[J.C.31-35]には、塩貿易業者、羊皮業経営の議員、針製造業者からの請願が矢継ぎ早に出ている。マニングによれば[Manning 116]、相次ぐ政情不安とスコットランド戦の影響で、ロンドンを中心とするイングランドの貿易が、きわめて不安定になり、これの影響でイングランドの経済が危機的なほどに混乱してきていた。イングランド経済に対する諸外国からの信用の失墜がその主な原因であったと思われる。業者たちは、一刻も早い政情の安定を何よりも願っていたのである。彼らは、チャールズが、ロンドンから離れたハンプトン・コートに滞在するのを止めて、せめてホワイト・ホールにいてほしいとさえ願い出ている。しかし、経済の不況は、貿易業者よりも、むしろ商店や都市の手職人階級に直接打撃を与えていたようである。政治・宗教問題に関わる人たちよりも、小さな商店やその日暮らしの労働者や職人たちのように、政治・宗教よりも生活に関心のある階層のほうが、逆に世情に敏感になってきていたのである。「ロンドン(シティ)と王国の商業は、過去何十年間になかったほどの衰退状態にあり、商売を気持ちよく行なうものは誰も居ない」と請願は述べている。この請願は、漠然とした恐怖と将来に対する怯えが、下層階級を襲い始めていたことを物語っている。経済的な混乱は、国全体に及んではいたが、これが富裕階級と下層階級との格差を広げていた。
 下院の議事録に、雑然と並ぶこれらの項目を見ていると、一見無関係と思われるこれらの出来事の背後から、人々が、漠然とした不安と怯えを抱き始めている様子がうかがわれる。しかも、その不安が、請願の言葉を借りるなら、「残酷で非人間的なパピスト、及びアイルランドの場合と同様に〔イングランドでも〕これに追従する者たち」がいるせいであるととらえられている。民衆の間に、「パピスト」に対する敵意が強まりつつあった。このような反「パピスト」感情は、エリザベス朝から続いてきたアイルランドに対する苛酷な植民地収奪とこれに復讐しようとするアイルランド人の無謀で激しい敵意に満ちた抵抗によって、イングランドの人たちの心に焼き付けられていると解釈してよいであろう。民衆の間に醸成されてきている「パピスト憎し」のこの感情は、翌年の下半期になって、動乱への決定的なモメントの一つとして作用することになる。
 「ロンドン請願」は、この意味で、一切の「法王主義」を容赦しないピューリタン革命の宗教的側面を象徴していて、後の「根絶法案」のたたき台となった。ただし、この段階では、主教制の廃止は、議員をも含めて、ごく一部の意見に留まっている。すべては、まだ「兆候」の段階にすぎない。だが、ピューリタンと分離派は、すでに人々の心をとらえ始めていた。ロンドンは次第に長老制に好意を抱きだした。この時に、もしもチャールズが、主教制に関して、また議会対策において、混乱した人心をある程度鎮めるような思い切った改革を打ち出していたならば、あるいはイングランド国教会制度の廃止をくい止めることができたかもしれない。しかし、チャールズもその側近も、また議員たちも、誰一人として、一八世紀に成立した「内閣政治」を知らない。宗教問題に関して言えば、礼拝形式についての細々した不満や典礼の文言に文句を付けることはできても、教会制度それ自体について、まして現在の私たちが考える「信仰の自由」の真の意味について考えをいたす者は、たとえいたとしてもごく少数であった。人々は、「主教制を取り除き、儀式を廃止すれば、古い屋敷の廃墟に代わって新しい家を建てるのは簡単に同意できる」[Gardiner(1) 243]と思い始めたのである。
                 ミルトンとその思想へ