(4章)1641年前半:弾劾と処刑
■ウィリアム・ロードの弾劾
 一月一八日の『下院議事録』[J.C.54] には、「本院とイングランドのすべての庶民の名において、カンタベリ大主教ウィリアム・ロードを大逆罪で告訴する書状を本院から上院へ送ることに決定」とある。これとともに、彼の身柄を議会から隔離して拘束すること、罪状の詳細は後ほど報告する旨が簡潔に記されている。わずか七行のこの短い記録が意味することは大きい。彼の身柄は上院によって直ちに拘束され幽閉された。「幽閉された」というのは、二四日の『上院議事録』[J.L.116]に、ロードから上院に宛てた請願が記載されていて、そこには「私に降りかかった予期しない重大な事柄について、請願者〔ロード〕が、激情のあまりに発した不当な言葉をどうか見過ごしていただきたい。また、請願者は、健康のために、上院の警護の下にある間、もう少し自由な空気を吸うことができるようご配慮くださることを」とあるからである。これに対して上院は、「カンタベリ大主教は、健康のために自由な空気を吸うことを認める。また、アシャー家のマックスウェル氏と常に同伴の上で、スプリング・ガーデン以外の王室所属の家の中のいかなる所へも行くことができる。ただし、マックスウェル氏の立ち会いの下でなければ、誰とも話をしてはならない」と命じている。
 ピューリタン革命のこの段階で、ロードの存在が大きな意味を持つことは言うまでもない。「イングランド国教会の普遍性」を固く信じて、これをスコットランドへ広げようとしたのは彼である。これが、「主教戦争」の直接の引き金となった。ストラフォードのアイルランド政策を支えたのも彼であり、ホールに『神授権』を書かせたのも彼である。しかし、彼が、議会の非難するように、「カトリック的」であったと考えるのは誤りであろう。なぜなら、「イングランド国教会の普遍性」を主張する彼の宗教政策は、なによりも「カトリック」と正面から衝突するはずだからである。事実彼は、法王の「無謬性」を厳しく批判した。この意味で、彼の宗教政策は、ローマ・カトリックの教会制度とこれの宗教政策の「イングランド版」である。教会は、不可視的な存在としてではなく、見える形で、しかも明確に国家的制度として世俗の領域において存在しなければならないという彼の教会観は、中世以来のローマ・カトリック教会の伝統をそのまま受け継いでいる。この意味で、彼の神学と教会制度は、言葉の本来の意味でローマに取って代わるものであり、「アンティ」法王的である。ピューリタンが彼を「パピスト」と呼ぶのは、彼の宗教イデオロギーが、他のいかなるプロテスタントの教派よりも、カトリック的伝統を強く意識させるからである。しかし、まさにそれゆえに、彼の宗教政策が、イングランドをしてカトリックから完全に独立した「もう一つの普遍の教会」政策を可能にしたという事実を見落としてはならない。国教会を堅持しようとしたことが「パピスト」であると言うのであれば、ロードに敵対したピューリタンのプリンが、最後まで彼なりの「国教会制度」に固執しているのはなぜなのか? 弱気なチャールズを支え、ストラフォードの忠誠心に訴え、ホールを信服させたロードは、政治性と宗教性の両面を兼ね備えていて、実質的に「イングランドのほんとうの王」であったと言えるかもしれない。この意味で彼は、ピューリタンにとって、「ストラフォードがそうである以上に危険な存在であった」[Gardiner 249]。
 一六四〇年の一二月二一日の『下院議事録』[J.C.55]には、国璽尚書フィンチの姿が見当たらないと短く記してある。フィンチは、建鑑税が、国王の自由裁量の権限内にあるから、議会の同意を要しないとチャールズに進言した人物である。議会は、彼をも「悪質な側近」の一人と見なしていたから、身の危険を感じて、すでにオランダへ亡命していた。ところが、下院の決議を聞いて、この日思いがけなく、下院に姿を現わしたのである。下院は礼を尽くして彼を迎えた。その演説は激しく猛々しかったが、堂々としていて、「彼の弁明ぶりは、最悪の敵からさえも賞賛を勝ち得た」[Gardiner(1) 246]ほどであった。その直後に、フィンチは海軍の船で国外に脱出している。チャールズの取り計らいによるのは言うまでもない。下院はこの日に、フィンチを「本院とすべてのイングランドの庶民の名において大逆罪で告発する」ことを決議し、その旨を上院に伝えている。ところが「フィンチの姿が見当たらない」のである。これが、この短い記載が意味しているドラマの一幕である。
■フィンチとラドクリフの弾劾
 フィンチに続いて、二九日の『下院議事録』[J.C.59]では、ラドクリフが大逆罪で起訴されている。彼はアイルランド枢密院の顧問官で、ストラフォードと親しい間柄にあった。下院は、ストラフォードの罪状糾明のために、彼をアイルランドから喚問した。もっとも、ストラフォード側からは、彼がストラフォードに有利は証言をするのを防ぐ目的で、下院が手を回したいう苦情が出されたが。結局彼も、大逆罪で告訴されることが決議された。下院は攻勢の手をゆるめることなく、チャールズから、彼の持ち駒を次々と奪っていっているのが分かる。
 三〇日に(議事録では一六四〇年は、翌年の三月まで続く)、下院は、ピムを始めとする四七名の委員会を設けて、年毎の定例議会法案の準備に取りかかっている。『下院議事録』[J.C.60]では、これに続けて、多額のトン税とポンド税が、本院の許可なしに徴収されたかどで、税関にこれの無効を宣告したとある。
 一二月三一日の『上院議事録』[J.L.121]には、ピムが上院で読み上げたラドクリフの告訴が記載されている。告訴理由は六項目に分かれているが、その一つ一つに、「ストラフォードともに」とある以外は、ストラフォードに対する告訴と全く同じと言ってよい。これには、次のようなピムの演説が追加されている。
「上院議員の方々、罪状をお聞きになって、訴えの理由が、いかにストラフォードのものと似通っていることかとお思いになるでしょう。中身はほとんど同じものです。〔ストラフォード〕伯爵の咎は、より高い惑星の軌道から、より広範囲に及んでいて、イングランドとアイルランドにまたがるものです。こちらのほうは、アイルランド一国に限られています。伯爵はこの咎の創始者であり、ジョージ・ラドクリフ卿は、その道具であり彼(ストラフォード)の命令に従う行為者です。よりすぐれた惑星の発する悪影響は、これより劣った惑星の悪影響によって、逆に増大し強まることはあっても、弱まることはないのです。その作用は、良性のものではなく、悪性のものです。伯爵によって犯された犯罪は、彼自身の原理〔信念〕から出た故に、より高慢で激しいものです。第一原因に近いほど、その運動は強くなるからです。しかし、ジョージ・ラドクリフ卿の場合は、己とは別個の堕落した意志に己を委ね支配されているが故に、より卑劣で卑屈であります。ストラフォード伯爵は、その生まれにおいて、法律の研究にもこれの適用にも親しむことはありませんでした。・・・・・ジョージ・ラドクリフ卿は、生まれつきの気質においても性格においても、より穏やかで、彼の教育もその職業も、法の根拠とその指示に親しんでいます。それゆえに、彼は、自分の理性と判断を抑圧され閉じこめられて、〔悪い〕意志の直接の誘いに乗って、この咎へと運ばれたのであります。」
■スコットランド軍と軍費の徴収
 一月に入ると、ストラフォードが、ロンドン塔から上院に宛てて、アイルランド問題における自分に対する嫌疑について多くの誤りがあるから、ラドクリフとの面会を許してほしい旨を丁重な文面で書き送っている。上院はチャールズに伺いを立て、チャールズは、ことが重大であるから、告訴の内容に関する件に限って両者の面談を認める旨を上院に通知している。
 この頃チャールズの王室にも一つの出来事があった。一月一九日に、オランダのウィリアム王子とチャールズのメアリー王女との間に結婚の約束が成立したことが発表されたのである。この時期においての婚姻関係は、明らかに政略的な意図を持っていると見てよい。第一に、これによって、オランダとイングランドとの絆が強まることが予想されたし、第二に、イングランドの対スペイン対策がいっそう強化されるだろうという予想を生んだ。しかし、議会は、チャールズのねらいが、対スペイン対策だけではないという疑いを捨てなかった。外国の軍隊を国内問題の解決に用いようとするチャールズの魂胆を議会は見抜いていたからである。  
 下院は一月二〇日に、「年毎の定期議会」法案を「三年毎の定期議会」に変更して、上院に送った。この案は、北部の軍隊への軍費に関する案とともに上院に回された。ところが、『上院議事録』[J.L.136]には、スコットランドとの協定に関する案の見出しとともに、小さく定期議会案のことが欄外に出ているだけである。議会の件はほんど話題に上らなかったらしい。実は、一月に入ると、問題は、アイルランドから、再びスコットランドとの協定問題に移り、とりわけ北部のイングランド軍とスコットランド軍との滞在費が緊急の課題となっていたから、議会はそれどころではなかったのである。
 一月一二日の『下院議事録』[J.C.67]には、上院からの伝達事項として、「両王国の協定に関する重要事項について直ちに両院の合同会議を開きたい」とある。「重要事項」とあるのは、軍費徴収の件であるのは間違いない。さらに一三日の『下院議事録』には、税関が、議会の命を受けて、「王の軍隊」のためにとりあえず六万ポンドを納め、さらに一週間後には二万ポンドを、二週間後には二万ポンドを、さらに二週間後には二万ポンドを納めるとあって、国庫の窮乏はそうとうにひどかったことをうかがわせている。王室の経費もままならない状態で、皇太后は、自分の宝石や馬などを売って、召使いの給与に充てていたという[Gardiner(1) 259]。一月一三日の 『下院議事録』には、ケント州からも「ロンドン請願」が出ている。宗教も、軍費の件とともに一月に入ってからの重要な問題となっているが、これは後述することにしたい。
 一月二〇日の上院は、下院から回されてきた三つの案件で始めている。それらは、「陛下の軍隊への軍費と王国の北部に関する件」と「議会の中断に関する件」(三年毎の定期議会のこと)、さらにこれらの案件に、国璽尚書フィンチに対する正式な弾劾手続きが付加されている。議事録から見ると、すでに、下院は、これに先立って、補助金の件でも上院に案件を出していたらしい。その上に建鑑税の件もあがってきていたようで、一つの案件もまとまらないうちに、次々と出されては困るという苦情が上院議員から出ている。上院の議事録は、ヨークに滞在するイングランド軍の兵士に対する給与支払いの遅延が、軍紀に深刻な影響を及ぼしていて、もはや猶予できないところまで来ていると訴えている。しかし、この財政窮乏にも関わらず、建鑑税については、下院からのコメントとして、「王国の法と規定に背くこと、臣民の正当な権利に背くこと、議会による先の判断に背くこと、『権利の請願』に背くことの四項について違法である」とクレームがつけられている。上院もこれを受けて、「大蔵省の〔建鑑税〕徴収はすべて違法であり、王国の法と規定に背く」と決議している。
 一月二七日の『上院議事録』[J.L.145]では、上院からの和平協定委員のメンバーであるブリストル伯爵が、スコットランドとの和平協定について報告を行なっている。その際に彼は、下院が、「スコットランドに与える友好的な援助と供給」を承認したと報告している。下院の「友好的な援助」という表現は、下院が、スコットランドに対して「友好的な」態度を示し始めていると解釈してよいであろう。ただし、この時期に、下院が、スコットランドに「友好的な」態度を示し始めたのは、チャールズが期待していたようなスコットランド戦に対するイングランド民衆の奮起とこれに伴う軍費の調達が、期待はずれであることを示そうというねらいもあったのかもしれない。
 『上院議事録』には、この記述に続いて、スコットランド側からの回答(二六日付)が掲載されていて、それには「我々の第一の要求に関して議会の友好的かつ親切な決議に感謝する」とある。さらに「スコットランド王国は、あらゆる機会をとらえて貴国に尊敬と友好を示すであろう」とあり、「〔スコットランド側の〕便宜がいつ満たされるのか、その分担金について配慮くださるよう我々が切望する旨を議員の方は議会に伝えていただきたい」とあり、さらに「我々の友人からの親切かつ友好的な援助の証し」を期待するとあって、その上で、「我々に害を及ぼすのは、他の何よりも我々への害悪となる敵、主教階級とパピストであることを議会が明白にするならば、スコットランド王国はさらに満足するのみならず、陛下と〔イングランド〕議会の大きな名誉となるであろう」と結んでいる。
 この報告の終わった後で、ブリストル議員が、この件についてコメントしていて、彼は、スコットランド側が、項目毎に完全な合意に達しようとするために、時間がかかりすぎるので、いったい総額いくらなら満足するのかと尋ねると、スコットランド側は、当面は分担の割合のみを決定するだけで、徴収の方法については後で考えればよいと返答したと述べている。実際には、スコットランド側は、今度の戦争の戦費の総額を七八万五六二八ポンドと見積もっていた[Gardiner(1) 260]。そこから、二七万一五〇〇ポンドを差し引いて、残りの五一万四一二八ポンドを「〔イングランド〕議会が負担する妥当な額」と考えていた。ただし、これには、ニューカッスルにいるスコットランド軍の滞在費として、先に約束した一日当たり八五〇ポンドの分は含まれていない。
 しかし、これはスコットランドとの和平協定に関わる金額であって、もっと重大なのは、イングランド軍の滞在費のほうであった。一月七日の『上院議事録』[J.L.126]には、北部軍司令部ノーザンバランド伯爵からの手紙が記載されていて、それには「議員方に軍と兵士たちの状態をご報告いたします。国〔ヨークシャーのことか?〕は、兵士たちに、これ以上の賃金支払いを拒んでいますが、我々は、兵を救助し、国に納得してもらおうと努力の限りを尽くしています。しかし、とても納得させる状態ではなく、議員方が、なんとかして緊急の命を発し、現金の供給か国に対する信用払いの約束状を送付しないと、軍の解体と国家の破滅を招きかねない状態にあります」とあり、兵士に対する払いが、一四日も遅れているために、不満が日々増大してきていると訴えている。
 軍資金の問題は、もはや猶予できないところまで来ていたようで、二月三日の『下院議事録』[J.C.78]には、「スコットランド問題委員会からの報告に基づき、本院は、わがスコットランドの同胞たちの損失と必要に相当する金額として、総額三〇万ポンドを友好的援助並びに救助の負担金として供給することを決議した。この資金の調達方法と時期については別途考慮する」とある。これで「わがスコットランドの同胞たち」は一応満足し、「二王国間の亀裂の恐れはなくなった」[Gardiner(1)272]ことになる。翌四日の下院の議事録には、下院財務官が、上院に「スコットランドへの友好的援助」について報告を行なっているが、上院は報告を聞くのみで、これに対するなんの発言もなく、したがって、下院に報告することはない旨が記してある。財政面では、下院が完全に指導権を握っていたことを示す一齣であった。なお、北部の「陛下の軍隊」をさしおいて、下院が、スコットランド軍に、このような「気前のいい」回答を行なったことは、ヨークの司令部をひどく憤慨させたようである。
■会衆派と分離派の活動
 ところで、一六四一年一月に生じているもう一つの重要な事態として、宗教問題がある。一三日の『下院議事録』[J.C.67]には、ケント州から請願が出されたとあり、これに続いて、「すでに提出されているロンドン請願やその他の請願やこれから提出されるであろう請願など、これら教会行政に関する請願は、一七日の月曜に審議することにする」とある。下院は、「教会行政に関する請願」が増加していること、さらに多くの請願が、これからも提出されることを予測しているのである。ケントからの請願は、高位聖職制度とこれに伴う権限を廃止すべきであるというものであった。ただし、ケントからは、ほぼ一年後に、これとは全く異なる主旨の請願が出されることになり、これが、ピューリタン革命の宗教的側面を決定づける重要な意味を持つ事件となる。だがこの段階では、ケント請願も、同じ頃のエセックス請願もサフォーク請願も、「その他の請願」同様に、程度の差こそあれ同じ主旨のものであった。一月二三日には、一〇〇〇人の聖職者の署名による請願が、「主教支配の抜本的な改革」[Gardiner(1)266]を訴えている。このように、宗教、とりわけ主教制問題が取りあげられるようになった背景には、長期議会の開始に伴って、リルバーン、プリン、バートン、バストウィックなどの活動家が釈放され、それまで陰で活動していた分離派や独立派の会衆集会が、ここに来て公然と宗教活動を始めたからでもあった。
 これらの議事録を読んでいると、国家権力を構成すると考えられる三つの要素、税と軍隊と思想(宗教)とが、相互に連動し合いながら、イングランドの議会を「襲っている」という感じさえ受ける。この傾向は、前年の短期議会後の夏頃からすでに現われていた。「長期議会開会寸前の一六四〇年一〇月二二日、二千名の『ブラウン派』からなる暴徒は、シティの聖パウロ教会での高等宗務裁判所法廷の開廷に乗じて、『口汚い叫び声』をあげ、このため裁判はすぐに停止された」[トルミー100]という事件が起こっている。このような分離派の活動が、長期議会の開始と、下院の宗教政策の影響でいっそう顕著になってきたのである。「一六四一年には、分離派の数と影響力とが劇的に増大した。一六四〇年にブリストルにおいて、農夫、肉屋、蹄鉄工らのピューリタンのグループがイングランド国教会から分離する決心をした。その数は、すぐに一六〇人に増えて、一六四一年の八月には、ロンドンのシティにおいて幾つかの分離派会衆教会が存在していた」[Manning 51]。「一六二一年以来、サザーク地区に密かに存在していた分離派会衆教会が・・・・一六四一年の一月に表に出てきた」[Manning 51]。「ロンドンにおけるジェネラル・バプティスト派福音伝道運動幕開けの出来事は、一六四一年一月一〇日に、ホワイトチャペルのある家で行なわれたその信奉者全員による公開集会であろう」[トルミー 147]という具合である。ジェネラル・バプティストというのは、分離派の中から生まれた教派であって、その点で、非分離派から生まれたパティキュラ・バプティストと区別される。
 言うまでもなく、ピューリタン運動がここに至るまでには、リンカーンシャーのロバート・ブラウンに始まるいわゆる「ブラウン主義者(ブラウニスト)」の出現、オランダから渡ってきたファミリストたち、一六〇八年のピューリタン迫害、ヨークシャー出身の分離派ピューリタン、ジョン・スミスとジョン・ロビンソンとが、それぞれオランダのアムステルダムとライデンに逃れたこと、一六一六年のロンドンにおいて、ヘンリー・ジェイコブによる最初期の分離派会衆教会が密かに誕生したことなど、ピューリタン会衆派や分離派の数々の足取りがある。ただし、一六四一年の段階でも、分離派の諸教会は、それほど大きくはなかったから、私たちは、ピューリタン過激派と分離派のこの時点での影響力を過大に見過ぎないよう注意しなければならない。トルミーは、それらの諸教会で、最大のものでも一〇〇名そこそこの会員数であり、全人口二五万人のロンドンで、分離派の総信徒数は、おそらく一〇〇〇人位ではなかったかと推定している[トルミー 82]。
 この頃のピューリタン諸派の教会は、幾つかのタイプに分類することができる。と言っても、その分類は一筋縄では行かない。なにしろ、独立派系のジョーゼフ・サイモンが、一六四一年の五月にオランダから帰国し、下院でも説教したが、彼は、「イングランドの状況があまりに複雑なことに気づいたので、むしろロッテルダムに戻るほうを選択した」[トルミー 179]ほどである。
 先ず、国教会から完全に分離独立している分離派の会衆教会、いわゆる「セパレイティスト」の諸教会があった。これらは、国教会を正当なキリストの教会とは認めなかったから、彼らは、当局によって、その存在自体が非合法化されていて、公の活動をこの時まで妨げられてきた。このため、家庭集会のかたちをとる場合が多かったようである。そのうちのある教会は、選出された専任の牧師に指導されていたが、その牧師は、国教会牧師の資格を有する者ではなく、また正規の神学校を出た者でもない平信徒出身の牧師であった。もっとも、正規の国教会の牧師の資格を剥奪された者もこれに加わってはいたが。ジェネラル・バプティスト派の教会などがこの分類に属する。しかし、小さなグループでは、牧師の生活を支える負担に耐えることができない場合や、何らかの事情で専任の牧師を持つことができない場合には、職業人がそのままで牧会の仕事に携わる教会もあった。この問題は、牧師が、自分の生活を維持するために職業を持って働く権利と義務に関連してくる。ジョン・デュッパの指導する教会が、この種類に属する。先に述べたように完全分離派の会員はあまり多くはなく、一六四六年においてさえ、大小の分離教会は、ロンドンで三六くらいであった[トルミー 25]。
 完全な分離派教会の対極にあるのが、国教会の教区の会員たちによる、家庭での祈祷会形式の集会であった。これは礼拝統一令に違反するから、当局から「秘密集会」と呼ばれて警戒されていた。ただし、このような家庭礼拝は、貴族の館の礼拝堂などでは、正式の礼拝を補う意味で、以前から家長の指導の下に行なわれていたことである。一七世紀の貴族階級では、一族に対する家父長の権限が弱まってきていて、財産相続や結婚その他の件で家族単位の傾向が強くなっていた。したがって、貴族階級においては、このような家庭礼拝それ自体は必ずしも違法とはされていない。こういう家庭礼拝は、家長の権限を強化するためであるという説もあるが、実状はむしろ逆で、教会の外でこのような礼拝を持つことによって、家庭の構成員一人一人の信仰が意識される傾向が強まる結果となった。ピューリタン革命で、貴族の家族内で、国王派と議会派とが対立するということがしばしば起こったのも、このような背景と無関係ではないであろう。
 しかし、庶民の場合には、家庭において、特に教区のメンバーたちが集まって開く集会は、国教会の承認しがたいことであった。当局から「秘密集会」と呼ばれた所以である。しかし、この場合にも、貴族の家庭礼拝と同じ効果、すなわち、それが信仰の個人化を促すきっかけになっている点は見逃せない。こういう「秘密集会」には、しばしば、国教会の「ピューリタン的」な牧師が指導に当たったり、聖書講義を行なったりすることがあり、また、こういう聖書講義には、しばしば、教区外からも人々が参加することが多かったから、「秘密集会」は、イングランド国教会制度の柱である「教区教会」制度を脅かすことになった。このようなピューリタンの会衆をも(実はこれが大部分であった)「独立派系会衆」と呼ぶのであれば、彼らは、もっとも保守的な独立派ということになろう。
 こうして、完全な分離派教会と国教会内での「秘密集会」との間には、幾つものバリエーションが存在することになる。トルミーによれば、非国教徒の教会の元祖とされるジェイコブの教会は、その当初において、まさにこのような幅広い信徒層を集めた独立派系の会衆教会であった[トルミー 24]。そこから、国教会の枠内に留まるピューリタン、独立した教会でありながら、国教会と連携を保つ教会、国教会を「堕落した」教会と見なして『普通祈祷書』を拒否する完全分離派の会衆教会などが枝分かれして行くことになる。
 一六四一年一月の段階では、これらのさまざまなピューリタン各派は、イングランド国教会以外に、三つの宗教勢力を意識せざるをえない状態にあった。一つは、北部のスコットランド軍という具体的な姿で迫ってきているスコットランドの長老制とこれを基礎づける「盟約」であった。これとは対照的に、これもイングランドに進駐してくるかもしれないアイルランド軍とアイルランドのカトリック勢力があった。さらに、チャールズの宮廷内や軍隊の将校の間に隠然たる勢力を保っている(少なくとも民衆はこのように見ていた)「パピスト」たちがいた。
 分離派の教会は、自分たちの信仰を、現実の生活において生きた模範となるべき「見える聖徒」と規定していた。地上を歩む「見える聖徒」たちの集まりは、教会の主であり神の国の王であるキリストによって、直接統治されているから、彼らは、自分たちをこの「王なるキリスト」の支配下にある戦士と見なしていた。直接聖徒を統治するこのような「王なるキリスト」と、国家と教会の神秘的統合体の頂点に立つイングランド国王とは、互いに拮抗する二つの宗教的権威としてこれらの人々に意識されるのは避けがたいことであった。
 先に指摘したように、分離派の勢力はまだ小さかった。しかし重要なのは、今まで非公式に、いわば陰の存在として活動を進めていたこれらの諸教会が、長期議会の進行に伴って、公然と顕在化してきたことである。国教会の枠に留まるピューリタンや国教会と連携を保つピューリタンの教会は、その理念において、すでに制度化された社会に比較的安住しやすいゆえに、積極的な伝道活動に励む必要に迫られなかった。しかし、国教会をキリストの敵と見なし、この地上にキリストの王国を「見える聖徒」の会衆として証ししようと志す教会は、己の存在を、外に向かって伝道する使命を帯びた「戦う教会」として規定するのである。これが、一六四一年の一月段階のイングランドで起こった新しい宗教的側面である。結果として、この年、「一六四一年までに、独立派は、教区会衆制ではなく、ヘンリー・ジェイコブ的な意味での会衆教会〔独立しつつ国教会ともある程度連帯を保つ〕に傾いたというさまざまな兆候がある」[トルミー 174]ということになった。
 では、このようなな事態に対処する国教会側の政策はどうだったのだろう。一月一六日の、『上院議事録』には、「この時期に当たり、本院は、以下の通達をロンドン、ウエストミンスター、サザーク、及びその郊外のすべての教区教会において公に朗読することを、適当と判断しかつこれを命じた。『礼拝は、この国の議会の法令の定めるとおりに行なわれるべきこと。これの健全な式順を乱す者たちは、法によって厳しく罰せられるべきこと。各教区の教区牧師、教区代理司祭、牧師補は、国の法により制定された以外の儀礼、儀式を執り行なう違反行為を犯さざること』」[J.L.134]とある。
 このような通り一遍の通達で、ことが済むような問題でないことは、当局もよく知っていたはずであろう。先に述べたように、宗務当局が、特にこの時期に神経をとがらせたのは、礼拝の「違法行為」それ自体であるよりは、それが、公然と顕在化してきている事態を憂慮したからである。しかし、この通達は、ただ、罰則を強化して、違反者は厳罰に処する旨を強調しているだけで、当局の具体的な対策は何一つ見えてこない。ロンドンの諸教会において現在何が進行中なのか、それが国教会にとってどれほど深刻な事態を招く恐れがあるかという認識は、この通達からあまり感じとれない。上院の主教たちのこの認識不足は、いったいなぜだろうか。
 四〇年の五月に、宗教会議が公布した「教会法」の第五項目には、国教会の礼拝形式を乱す「再洗礼派、ブラウン主義者、ファミリスト、その他のセクトや諸セクト、あるいは人物たちに向かって」厳しい処置が執られる旨が述べられていた。今回の通達もこれとほぼ同じ主旨に沿っている。再洗礼派とは、特に、ジェネラル・バプティストたちのことを指すのであろう。「再洗礼派、ブラウン主義者、ファミリスト」などは、イングランド国教会制度を根底から揺るがす教派として、もっとも厳しい処罰の対象になっていたと思われる。しかし問題は、これらの急進的な教派に続いて、「その他のセクトや諸セクト」とあって、全体が一つに括られてしまっていることにある。「その他のセクトと諸セクト」とは、いったい何を指しているのか? 当局が、もしも、ロンドンの教区教会の実状を少しでも把握しているのであれば、「その他のセクトや諸セクト」などという漠然とした言い方が何の意味も持たないことを理解できたはずである。少しでも実状を立ち入って調べるならば、これら「諸セクト」を再洗礼派やブラウン主義者などと同列に並べることなどとてもできないことに気づいたはずである。
 宗務当局が、現状をいかに把握していなかったかは、教区教会内で開かれている最も穏健な信者の集まりでさえ、ピューリタンの「秘密集会」と呼んで、「礼拝を乱す不埒な扇動者ども」とほとんど同列に置いていることがこれを示している。当局の目には、教区教会の「秘密集会」のメンバーたちと、再洗礼派やブラウン主義者あるいは最も戦闘的な分離派会衆教会との区別さえも付いていないかのようである。現実に進行している事態とこれに対する国教会側の現状認識のこのようなギャップの大きさ、これこそが、一月以後の事態の推移を国教会にとって致命的なものにしてしまった原因である。それは、ちょうど、議会対策における認識が甘く、このために対策が常に後ろ手に回ったために、事態を改善できず、有効な手だての無いままに、ずるずると内戦に引き込まれていったチャールズの欠陥と軌を一にしている。
 もしも、この時期において、宗務当局が、分離派の諸教会を、正式に承認はしないまでも黙認し、国教会とつながりを保とうとする独立系会衆教会を許容し、各教区内での信徒の会合を合法化していたならば、さらに、『普通祈祷書』をもう少し簡略にし、さらに、これは大事なことであるが、教区信者にとって負担となっていた教会税、すなち一〇分の一税をいくらかでも軽減したり、主教たちが、さまざまな名目で、折に触れて信徒に要求していた「手数料」を国庫負担にして、一般信者の負担を軽くするくらいの「思い切った」改革を行なっていたならば、一六四一年から一六六〇年に至る過程で、国教会は中断されずに済んだのではないか。少なくともその間の移行は、かなり違ったものになっていたのではないか。私はそう思うのである。なぜなら、事態はきわめて流動的であった。「大多数の理論家たちは、・・・・・主教制は反キリストであると論じていた。より少数の理論家たちは、主教制は神から出た制度であると論じた。大衆のほとんどにとっては、それは〔どちらでもよい〕便宜的な問題にすぎなかった。信仰深い人たちの大部分と、それほどではないが宗教に影響されやすい人たちにとっては、聖職者がどのように扱われるかよりも、教会の礼拝がどのように行なわれるかのほうが大事だった」[Gardiner(1) 274]のである。
■反パピスト
 一月二七日の『上院議事録』[J.L. 146]においては、カトリック司祭グッドマンについての上院と下院との合同会議で、王国内のカトリック司祭とジェズイットを、反逆者と見なし、大逆罪の場合に類する処分を行なうとあり、これに続いて、以下のようなカトリック司祭とジェズイットの処刑の理由が記されている。
(一)法王主義と迷信は、法律によって処罰されるべきことが諸請願により求められている。
(二)ロンドンの内外に、司祭やジェズイットが増加しつつある。
(三)最近になって、八〇名の司祭が牢獄から釈放された。
(四)法王の密使が、この王国内で活動している。
(五)法王主義者が、〔ロードの〕「改革」によって、大胆になりつつある。
(六)法律どおりに処刑しないことが、法王主義の増加を招いている。
(七)カトリック司祭に対する法の猶予が、北部の軍隊への軍資金徴収への妨げとなっている。
 これらの項目のうちで、第七番目は、軍隊と税と宗教問題とが、分かち難く結びついていることのよい例として注目する必要があろう。
■「根絶請願」が議会に
 二月に入ると、領地や礼拝の「義務不履行」など、個人に関するさまざまな請願が下院に殺到している。歴史的な事件があり、これらと一緒に、個人的な請願やら補助金問題が並んで出てくる。その中で、二月五日の『下院議事録』[J.C. 79]には、「聖職者からの苦情申し立てと請願が明日の午前に再度採り上げられ、ロンドン市民からの請願も同様に扱われる」とある。ところが、翌日六日の『下院議事録』では、「ロンドン請願」は、建鑑税や補助金やその他の案件に押されて、結局八日(月曜)まで延期されている。昨年提出された「ロンドン請願」が、下院の議題で採り上げられたのは、このようにして二月八日のことで、「この数ヶ月の間で、最も重要な審議が下院で開かれることになった」[Gardiner(1)276]。ところが、その日の『下院議事録』は、この案件について一行も触れていない。恐らく、この日を皮切りに、下院において、「ロンドン請願」をめぐる論議が延々と続いたのであろう。
 この請願の序文は、「大主教、上院の主教たち、主教座聖堂参事会主席たち、大聖堂参事会員たち・・・・・が、教会と英連邦にとり、偏見に満ちきわめて危険〔な存在である〕のに鑑み」で始まり、「それゆえに我々は、この名誉ある会合〔下院〕が、次の問題提起についてご配慮くださるよう謹んで祈りかつ訴える。すなわち、件の〔教会行政の〕体制は、これに伴う諸制度共々に、根こそぎ廃止し、このための一切の法律は無効とし、神の言葉に従う行政が我々の間に正しく行なわれんことを」と結んでいる。これが、いわゆる「根絶請願」であり、それが、この段階で「根絶法案」への一歩を踏み出すことになった。
 序文に続いて、二八項目にわたり、主教制廃止の理由が述べられている。それらは、先ず、聖職者を世俗の権力から排除すること。予定説、自由な恩恵、〔神の〕忍耐、洗礼以後も原罪が残ること、安息日、万人救済の恩寵、信仰への選び、自由意志、反キリスト、聖職者不在、神への礼拝における人間的考案、などに関する教説に対する高位聖職者からの干渉。〔教会が〕世俗の行政官、貴族、ジェントリたちを軽視し、かつ臣民を虐待すること。敬虔かつ有能な教役者たちを抑圧し、会衆から追放すること。多くの〔霊的な〕賜を有するセクトに踏み込み、敬虔な願いを踏みにじること。怠惰でふしだらで、だらしなく、無知で誤謬に満ちた聖職者たちを大いにのさばらせていること。子供の教育と学習が妨げられ、教会において分裂、誤謬、奇異な意見が存在し、また、多くの教会には聖職者が不在であること。みだらでくだらぬ、無益な本やパンフレットなどが出回っていること。敬虔な書物や法王批判の書物の出版が妨げられていること。パピスト、カトリック司祭、ジェズイットの勢力が増大していること。市場において独占が行なわれていること。大主教以下の者たちの職務や裁治権が、法王主義と大差ないこと。礼拝の振舞い方、姿勢、細々した儀式用具、ジェズイット的なしるしのことなど。祭壇礼拝、イエスのみ名による跪き、お辞儀に関することなど。聖餐のテーブルの位置と信徒が祭壇に跪いて授受することに関して。祭壇、テーブル、聖餐杯、教会の聖別儀礼に関して。ローマ方式に近い『祈祷書』。上記の事柄への批判に対する破門処置。複数教区の兼任。聖人の祝祭日の厳守とこれに伴う収入減、等々である[YaleCP 977-83]。
 このように、「根絶請願」は、主教制の廃止を求めるものであったが、これに対して、聖職者からの請願は、主教たちの権限を制限することを求めていた。二月八日の「根絶請願」の審議は、午前八時から午後六時までかかった。この日から五月一二日まで、事態は「根絶法案」とストラフォードの処刑を軸に動いていくことになる。ガーディナーに従って、討論の内容を以下に要約してみよう[Gardiner(1)276-81]。
 ラジャッドは、より制限された形の国教会を主張した。ディグビーは、高位聖職者の権限縮小を唱えたが、国教会制度を消滅させることには反対した。彼は、一万五〇〇〇人ものロンドン市民の署名を集めた請願を提出すること自体が、望ましくないとその不快感をあらわにした。フォークランドは、いまだ国教会に残っているローマ的な要素を指摘した上でこう述べた。主教たちは、ローマほどではないにしても、イングランドに「法王主義」を成立させようと努力してきた。これもローマに劣らず絶対主義的であり、人々を盲目的に聖職者に依存させようとするものであると。しかし、彼は、議会が三年毎の定期議会となり、規則を改定するならば、国教会を廃止する必要はないし、また主教たちが横暴になることもないだろうと付け加えた。フィーネズは、一部の夢想的な教会は、儀式を持たないが故に、民衆を引きつけることはないであろうし、現実の力となるとは思われないと言い、さらに、諸教会はそれほど君主制に敵対しているわけではないと指摘した。彼は、長老制の導入には反対であり、〔教会の指導者は〕国王による任命によって委託されなければならないと主張した。主教は、民衆を無視してきただけでなく、議会をもないがしろしてきた。従って、この際英連邦にふさわしい形に変容しなければならないというのが彼の結論であった。その上で、彼は、「ロンドン請願」を、委員会に付すべきと提案した。続いて、ピム、ハンプデン、セイント・ジョンなどの議員が次々に発言した。
「彼らが、〔二手に〕別れたことは、それ以後の、イギリスの政治の在り方を特徴づけることになった。この日に、初めて、下院において、異なる二手に別れて、互いに向かい合い、偶発的な案件だけでなく、基本的な行動原理に立って、互いにどちらか一方の立場を永続的に維持しようとすることが行なわれたのである」[Gardiner(1)281]。結局この時の議会の体勢は、君主制を制限し、国教会を議会の支配の下におこうとすることで一致した。「国教会は残せ、しかし国教会は改革せよ」が、この段階での下院の意見であった。
 討議は、九日まで、続いたようである。不思議なことに、『下院議事録』には、両日ともに、この重要な討論については一言も記されていない。まるで、これが議会の正式の議題ではないかのようにである。結果として結論は何一つ出なかったからであろうか。ピムの立場は、根絶派に近かったようであるが、教会と国家とが何らかの変革を迫られていることは確かであった。だが、「それが成就する正確な道筋は、ことの成り行きに委ねるしかなかった。それは、とりわけ、王の出方にかかっていた」[Gardiner(1)284]のである。一つだけ注意しておくべきなのは、この段階では、ロードの教会政策に反対する者たちでも、直ちにピューリタンに賛成とは限らないこと、まして、長老制を導入しようという意見は、議員たちの間から全く聞かれなかったことである。この点に関して、二月二五日に、チェシャ州の教会から「チェシャ請願」が議会に提出されている。そこには、教会の改革には賛成するものの、長老制を導入することへの危惧が述べられていた。外国からの「新規な思いつき」を入れるくらいなら、イングランド独自のやり方のほうがましであるとこの請願は訴えているのである。実はこれが、翌年提出されることになるケント請願にもつながることになる。ただし、ここで、一万五〇〇〇名という大勢の人たちの署名による、異例な形での請願が、下院で正式に認められ、正式な討議にかけらたことの意味は大きいと言わなければならない。ちなみにミルトンは、この請願について、『弁明批判』で次のように述べている。ただし、ここでの議会の討論と『弁明批判』との間には、ストラフォードの処刑を挟んで、ほぼ「五ヶ月もの!」時が経過していることを忘れてはならないが。
 「そのくせ、議会がいみじくも『市民の請願』と呼んでいるものについて〔ホールが〕述べる時には(まるで国家が彼を公式の審査官に任命したみたいに)『わたしは、当然彼らを非難した』などと言う。しかも、どんなやり方でか? 先に密かな手口でそそくさと署名を手に入れたやり方に比べると、この度の行為はもっとひどい。なにしろ、『誹謗する分裂主義者どもの結託行為、およびこれを狂信的に支持する者どもは、扇動罪の烙印を押されるのが正しい』のだから。請願のゆえにこのような汚名を着せられて述べたてられるのは、わが市民の代表たちにはかえって名誉ではないかどうか、それはともかく、この請願は、行政官の数名をも含め、大勢の誠実で思慮深い人たちによって、正規の手続きを経て穏やかに提出されたものである。もっとも、わが偉大なる聖職者どもは、これらの人たちが(キリストご自身も聖パウロもそうであったように)世俗の職業にあるがゆえに、知識の程度にも行動の原理にもいささか欠けると考えておいでのようだ。青年時代は放浪と酒池肉林に明け暮れ、その学問は無益な課題と野蛮な詭弁、中年は野心と怠惰に、老年は貪欲と病弱に過ごす連中と同様だというわけだ。『誹謗する分裂主義者どもの結託、およびこれを支持する者どもは扇動罪の烙印を押すべきだ』などと言うのは、この請願を採択に値するとしたばかりか、名誉と学識ある議員諸氏により提唱され提出されたおかげで、これを委員会に委任するに値すると投票で決めた議会そのものを冒涜する行為とはならないのか。この議会の判断と承認とを中傷することにはならないのか、公正な裁決をまつものである。」
■ストラフォードの大逆罪
 「根絶請願」の審議と並行して、ストラフォード問題が進行していた。すでに、一月三〇日の下院で、ストラフォードの大逆罪問題を議会として正式に採択すべきかどうかが投票に付された。しかし、どのような証拠があるのかという質問に対して、それは、後日ストラフォードの喚問によって明らかにされるという説明しか与えられなかった。下院はその後で採決に入った。ところが、議員の約三分の一が、沈黙したまま挙手しなかったのである。暫く沈黙が続いた。議長は、全員が意志表示をしなければならないと再度告げた。ややあって、「賛成」の声が大きくなった[Gardiner(1)270]。採決の結果は直ちに上院に回された。二月三日の『上院議事録』[J.L. 150]には、この日から半月後に、ストラフォードの喚問を行ない、下院からの告訴に対する彼の返答を聴くことが決定したとある。
 二月四日の『上院議事録』[J.L.151]には、チャールズが上院に宛てたメッセージがあって、彼は、王国内では法王主義も迷信も認めないこと、カトリック祭司とジェズイットの国外追放を遂行すること、王妃付きのロセッティ相談役については、その立場は「彼女の信仰に関わる個人的な問題で法王との間に仲介役を務めているにすぎない」こと、エリザベス朝時代に、イングランド国教会を弾圧したとして訴えられていたグッドマン司祭の処刑を承認することなどを書き送っている。チャールズは、ストラフォードの件で、上院を抱き込もうと懸命に働きかけているのである。チャールズはさらに、先に議会から提案のあった、三年毎の定例議会案を承認している。
 二月一〇日の『上院議事録』[J.L. 157]では、チャールズが突然上院に姿を現わして、メアリー王女とオレンジ王子との結婚により、オランダと三王国との間に同盟と連合が成立した旨を告げた。彼はさらに、この件は今まで報告しなかったのは、その必要がないと思っていたからであると述べ、この件に関して議会の理解と援助を得たいと述べている。チャールズは、この婚姻は宗教政策とは全く関係がないこと、この同盟は王国にとり有益であること、また甥と娘との関係をより深めることになることなどを強調した。しかしながら、議会のほうは、これらが今度の婚姻による同盟の真の理由だとは思わなかった。オレンジ公が、二万の軍隊を率いてイングランドに上陸するとか、王は直ちに議会を解散し、おそらくはアイルランドの軍隊をも導入して、ストラフォードを釈放する目論みがあるなどという噂が広まった。はたして、チャールズが、そのような計画をどこまで実行しようとしていたかは不明である。また、オレンジ王子が、それだけの軍隊をイングランドに派遣する決定に同意していたのかさえも明らかでない。ただ、チャールズが、自分の胸の内を議会の誰にも明かさないことによって、議会に圧力をかけようと計算していたのは確かであろう[Gardiner(1)287]。
 ところが、この噂を裏付けるような出来事が起こった。二月一一日に、「二、三日のうちに、三万から四万の兵が召集される」[Gardiner(1)289]というアイルランド軍に関する報告が入ったのである。しかも、ストラフォードは、今もこれの総指揮官である。さらに、アイルランド軍と呼応して、カトリックのウースター伯爵が、ウェールズでこのアイルランド軍と合流する計画があるという情報も流れた。議会が、特に下院が、極度の緊張に包まれたのは想像に難くない。一三日に、下院は、さっそく上院と図って、アイルランド軍の即時解散を王に要請した。王は、このような議会の要請を計算に入れていたかどうかは分からない。だが、「彼は譲る気配を見せなかった。彼は、使うことはできなくても、その武器を手放そうとはしなかった」[Gardiner(1) 290]のである。その上さらに議会の不安をかき立てたのは、ストラフォードがテムズ川を通って、上院へ向かっているという噂まで流れたことであった。議員たちは、議事堂の窓に駆け寄って、川をしきりに眺めるという有様であった。
■スコットランドとの和平交渉
 二月一一日の『上院議事録』[J.L.159]には、バトラー氏が、塔にいるストラフォードとの面会を申し出て、今回限りという条件で認められている。この日の記録には、ブリストル伯爵が、スコットランドとの和平協定の交渉について、報告を行なっている。実は、北部の二つの軍隊に対する給与は、いまだに支払われていないという状態であった。和平会談に臨んでいるスコットランド側の代表も、賠償金と給与の完全な支払いと会談の終結を急いでいた。このような情勢にあるときに、イングランド議会が、アイルランド軍隊の即時解散を要求したことは、結果としてスコットランド軍を刺激することになった。それは、イングランド議会が、給与と滞在費未払いによるスコットランド軍とその背後にいる「盟約者」たちの脅威よりも、むしろアイルランド軍に対する安全策のほうを優先させていると受け止められたからであった[Donald 282]。
 和平交渉は、すでに最後の詰めに入っていた。「盟約者」たちの名誉回復と両軍の撤退と砦の破壊が、最後に残った条項であった。この段階で、会談にアーガイルも参加してきた。先に約束した賠償金によって、和平会談の成功は、一応確実視されていた。ところが、この成功に気をよくして、スコットランドの「盟約者」たちは、イングランドの反主教制運動からも、イングランドの主教制反対者たちに対する支援からも手を引くのではないかという噂が流れたのである。この点をめぐって、「盟約者」たちの間に分裂が生じていたのは、ある程度確かなようである。二月二四日、このような「疑念」を打ち消す意図をもった文書が「盟約者」側から出された。それは、「スコットランドのある者たちが、国王寄りになった」[Donald 287]という噂は、根拠がないという主旨のものであった。これは、「盟約者」たちが、イングランドの政治、特に宗教問題に干渉するものであるとして、チャールズを激怒させた。「主教戦争」の張本人として、スコットランド側は、ストラフォードとロードの弾劾を主張していたから、スコットランド軍の存在は、ストラフォードの処刑に対する支援と見なされていた。しかし、この段階で、スコットランドが、イングランドの教会問題にまで口を出したことは、かえってイングランドの人々の嫌悪を誘ったのである。スコットランドの発言が、ストラフォードをめぐる議会と王との最も重要な駆け引きの段階でなされたことが、チャールズをいっそう怒らせた原因であろう。また、スコットランドのこの発言をめぐる「中傷のパンフレット」が出回ったらしい。二月一一日の『上院議事録』[J.L.159]は、ほとんど一面を割いて、「スコットランドにおける陛下の臣民の忠誠と忠義に対して、イングランドとアイルランドで出されるあらゆる宣言、条例、書物、中傷、パンフレットなどを回収し、押収し、禁止すること。また、スコットランドにおいてもこのようなものは、相互に取り締まるように」という命令を掲載している。もっとも、この件に関して、チャールズは、「盟約者」たちが、イングランド内での分裂を引き起こしたと非難しているが、これはせいぜい「事の真相の半分」[Donald 288-89]にすぎないとドナルドは見ている。
 この時期、チャールズは、ストラフォードの処罰を牽制するために、ブリストル、ベドフォード、ハッフォード、セイなどの反国王派の議員たちを枢密院のメンバーに昇格させる申し出を行なっている。ピムにも昇進の働きかけが行なわれいたのかもしれない。しかし、この頃のチャールズは、枢密院よりもさらに少数の「閣議」と呼ばれている会合で重要な政策を決定していたから、この申し出は、それほどの効果を持たなかったようである。こうして、上院を抱き込み、下院と離反させ、その上で強硬手段の構えを見せて脅しをかけるというチャールズの作戦は、完全に裏目に出る結果となった。王は、この失敗を「ストラフォードの命で支払う」ことになる。
■ストラフォードの喚問
 二月二四日、上院において、ストラフォードの尋問が行なわれた。ストラフォードの本格的な裁判が、ようやく始まったのである。『上院議事録[J.L.171]』には次のようにある。
「今朝、陛下が、外衣を付けずに上院に来られた。突然のことであったので、上院議員たちも外衣を付けていなかった。陛下は、上院議員たちに向かい、彼が来たのは、ストラフォード伯爵に対する告発と、これに対する伯爵の返答を聴くためであり、それは、自分の個人情報のためにすぎないと言われた。上院議員たちは沈黙したままであった。国璽尚書が陛下の右後ろに座り、ストラフォード伯爵の入廷を命じ、議会の書記により、彼に対する告発を箇条毎に読み上げるよう命じた。それから、すべての条項に対して、ストラフォード伯爵の返答を彼の弁護士が読み上げた。これらは、国王の面前で行なわれた。
 国王が立ち去ると、上院は、国璽尚書に、上院法廷を再度開くよう命じた。それから、国王の臨席の下で行なわれた上院のすべての行為は無効であると宣言し、ストラフォード伯爵に再度入廷を命じ、国璽尚書が、伯爵に対して、上院が要請したとおりに、書面での回答を求めるようにと命じた。ストラフォードの回答を読み上げる間、主教の議員たちが出席しているべきかどうかが問題となった。主教たちは、退出を希望した。
 ストラフォード伯爵が入廷し、法廷で回答に立ち会った。ストラフォード伯爵が入廷すると主教たちは退出した。上院は、回答を読み上げるよう命じ、それをストラフォード伯爵の弁護人が行なった。それが終わると、ストラフォード伯爵は、発言を許してほしいと申し入れた。国璽尚書は、回答の条項に触れないことを条件に許可した。許可が出たので、彼は、自分の弁護のために証人を審問してほしいこと、自分に不利な証人の名前のリストがほしいこと、また、彼らに反対尋問を許してほしいことを願い出た。」
 チャールズが突然姿を現わしたのは、デモンストレーションのためであるのは明らかである。彼は、弁護人の陳述にいちいちうなずいていたと言う。だが、上院は、王の威圧に抵抗して、彼が出ていくと、それまでの行為を一切無効と宣言して、もう一度やり直したのである。
■スコットランドへの和解金問題
 同じ頃、下院は、上院でのストラフォードの喚問を固唾を呑んで見守っていたに違いない。しかし、下院は、同時に、ロードの弾劾問題を投票にかけていた。これは、全員一致で決定した。主教制の廃止に反対して、これの変革のみを主張する議員たちも、ロードの弾劾には異論がなかったようである。三月一日に、ロードはロンドン塔に入れられた。この時下院で、一つの騒動が持ち上がっていた。ロンドン市当局は、スコットランドへの和解金の一部に当てるはずの補助金の支出を、ストラフォード裁判の遅延を理由に渋っていたのである。ところが、裁判が開始されたので、市は、これの支出に応じることになり、スコットランドに対する和解金のほぼ全額が支払われることになった。少なからぬ議員たちは、これで北部に居座っているスコットランド軍を厄介払いできると、ほっとしたことであろう。ところが、根絶派の議員たちは、スコットランド側が、自分たちへの「友好関係」を見限って、和解金を受け取り次第撤退するのかと非難したのである。あわてたスコットランドの使節団は、イングランドにおける主教制廃止を訴えるビラを議員たちに配布した。これは、チャールズを激怒させただけでなく、議会の議員たちをもいたく刺激した。ウェストミンスターの議会は、自分たちの宗教問題について、エディンバラから干渉されることに我慢がならなかったのであろう。スコットランド使節を弾劾せよという声があがり、下院は一時混乱状態になった。ようやく弾劾案は否決されたが、「スコットランド使節団は、薄氷の上を歩く思いであった」[Gardiner(1)297]。
■ストラフォードの裁判手続き
 三月七日の『下院議事録』[J.C. 98]では、先に提出されたストラフォードの回答に対して、下院は、先に出した告発条項どおりに、ストラフォードの大逆罪を確認すると決定している。だが問題は、罪状の「証拠」にあった。ストラフォードが、かつて枢密院において、アイルランド軍をイングランドに進駐させて、対スコットランド戦に投入しようと提案したというのが、「証拠」の焦点となった。しかし、この事実を「確証すること」が、はたしてできるのか? これが、下院の告発者たちの最大の問題となったのである。
 三月一〇日の『下院議事録』では、上院における主教たちの裁治件及び立法権が、霊的〔宗教的〕職務にとり多大の障害となっおり、連邦にとり害悪となっているが故に、法案によってこれを廃止すべしとの決議が成された。すでに、ロードの弾劾と塔への投獄の後に、上院は、聖餐のテーブルを、以前のしかるべき場所に置くようにとの通達を出していたから、この段階で、聖職者による世俗行政への関与が排除されることになった。しかし、この処置は、同時に主教制の廃止ではなくその「変革」路線を確認することにつながっていたことにも注意しなければならない。だから、主教制それ自体の廃止案は、逆に、これによって幾分後退することになった。「根絶派は、当分の間、自分たちがまだ少数派であることを知っていた」[Gardiner(1)299]のである。
 三月一一日の『下院議事録』では、下院と上院の合同委員会で、ストラフォード裁判の場所、出席する人物、証拠の扱い、弁護人の役割について話し合いが行なわれ、全体の状況証拠としては、ストラフォードの処刑へ有利に向かっているが、なお予断は許されない状況が確認されている。場所としては、先に、上院を改装して全議員を入れる案も出ていたようであるが、この日は、「白い部屋」すなわち謁見の間が候補に挙がっている。しかし、床が弱いので、大勢の人が入れないという意見が出た。さらに上院側は、下院に対して、議会全体として出席するのか? それとも議員一人一人の資格で出席するのか? と質問している。また「証拠の取り扱い」とは、いったいどういう意味なのか? という質問も上院から出されている。ストラフォードは、事実認定に関しては弁護人を用いないだろう。しかし、法的な疑義に関しては、弁護人を立てるだろう。何が事実認定であり、何が法的な疑義かは、上院自体が決定しなければならないとしている。
■軍隊の陰謀事件
 三月一二日の『上院議事録』[J.L.182]では、北部イングランド軍司令官ホランド伯爵からの書状が読み上げられている。それは、「バウィックの連隊が極端に窮乏し危険な状態に陥っている」こと、「軍資金の欠乏が兵士たちの間に大きな不満を引き起こしている」ことを訴えている。さらに三月一七日の『上院議事録』では、スコットランド軍が駐留してきた北部二州では、「家畜も食料も全く食べ尽くして、もはや食物がない」状態であることが報告されている。スコットランド軍は、和平が完全に締結されるまでは、駐留費をイングランドに求めているのである。ここに来て、北部の、特にイングランド軍に対する資金の欠乏が深刻な問題になっているのである。
 下院は、北部のイングランド軍に対する軍資金の供給を急ぎ始めた。三月六日の『下院議事録』[J.C.97]では、二万五千ポンドをウォリック伯爵を通じて、北部諸州へ送ったとある。また、別のルートで、一万ポンドを北部イングランド軍に供給することを決定している。ウォリックは、チャールズのスコットランド出兵に対して援助を続けていて、チャールズは、その軍資金を彼に頼るところが大きかった。北部のイングランド軍から厳しい催促が議会に届いたのは、兵への支払いが遅延していたため、これが軍紀の乱れの元となって、容易ならぬ状態にあったからである。下院が、この段階で、北部への軍資金供給を急いだのもこの理由からであろう。
 ところが、三月七日の『下院議事録』[J.C.98]によれば、スコットランド使節との会談により、和平交渉の完全な締結と、これに伴う北部スコットランド軍の完全撤退と砦の取り壊しを急ぐようにとの要請が上院から下院に来ていて、下院はこれに同意している。ガーディナーによれば[Gardiner(1)313]、この時に下院は、前日承認したばかりの北部イングランド軍への軍資金一万ポンドをスコットランド軍のほうに回したらしい。この処置は、北部のイングランド軍を憤激させるのに十分であった。この事が一つのきっかけになって、以下に述べる「軍隊の陰謀」が、密かに進行することになった[Gardiner(1)311-17]。
 チャールズの側近の一人であったサックリングが、イングランド国民の国王に対する伝統的な親愛を取り戻すために、国民の要求に応えるような譲歩を、議会の指導者たちにまさるとも劣らない思い切った処置として実行することをチャールズに勧めた。その点では、彼の進言は正しかったのであるが、同時に彼は、王妃の相談役であるジャーミンと陰謀を図った。ジャーミンは、マライアの相談役であったが、彼自身はカトリックでなかった。三月の半ば頃に、二人は、国王と議会との軋轢の解決に、北部の軍隊を巻き込むことができないかを話し合った。二人の考えは、必ずしも軍隊を動員することではなく、そうすることが国王に可能なことを議会に悟らせる効果をねらったものであったらしい。しかし、このためには、北部の軍隊の総指揮を、健康が優れなかったノーザンバランドからニューカッスル伯爵に移す必要があり、これには北部の将校たちの支持を取り付ける必要があった。彼らは、この役として、ゴリング大佐に目を付けた。彼はゴリング卿の息子で、王妃マライアのお気に入りであり、このためにポーツマスの知事にも任命されていた。王妃は、ゴリングを通じて、この港を確保することができ、大陸との交流を行なうことができたし、万一の場合に、ここを通じて、大陸からの軍隊を上陸させることもできたからである。二人の計画を、王妃が知っていたのは間違いないであろう。サックリングは、ゴリングに、北部軍中将の任官をちらつかせたらしい。
 三月二〇日に、下院の北部軍への冷たい処置に怒った将校たちは、下院が「友好関係」を保とうとするスコットランド軍と一戦を交えるために王の下へ密書を送った。この手紙を携えたのは、チャドリー隊長であった。彼は、後に一〇〇〇人の騎兵隊が待機していることを暴露した人物である。チャドリーは、サックリングやジャーミンと密接に連絡をとっていたようである。
 この件は、さらに下院議員のパーシーとも繋がることになった。パーシーは、ノーザンバランド伯の弟で、彼自身将校であると同時に下院議員でもあった。軍の将校としては国王に、議員としては議会に忠誠を尽くさなければならない彼の立場からすれば、下院の北部イングランド軍に対する軍資金の処置は、彼を苦境に立たせたと思われる。パーシーたち北部の将校は、もしも議会が国王に圧力をかけて、上院から主教を締め出そうとした場合、あるいは、議会が王に、スコットランド軍の解散以前にアイルランド軍の解散を強要した場合、あるいは、王が長年の間手にしていた王の収入が〔議会によって〕王に納められなかった場合、この三つのどれかの事態が生じた場合には、軍は王の側に立つことを文書にして宣言する計画を立てたのである。この三点こそ、チャールズが何よりも望んでいたことを将校たちが計算に入れていたのは言うまでもない。パーシーが代表となって、王にこの計画を進言した。ところがパーシーは、彼らの計画よりもさらに重大で、しかも危険な計画が進行中であることを知ったのである。
 サックリングとジャーミンの計画、チャドリーたちの作戦、パーシーたちの王への進言などがより合わさって一つの陰謀へと発展する気配ができてきた。だが、実際に軍隊をどこまで動員するかまでは、決められていなかったようである。三月二九日に、ジャーミンは、ゴリングとともにホワイトホールに宿泊中のパーシーを訪ねた。そこには、他の議員将校たちも集まっていた。ゴリングは、北部軍が南下して、ロンドン塔を占拠しなければ何も始まらないと主張した。ジャーミンは、ニューカッスル伯を北部軍総司令官に任命するよう提案した。しかし、ゴリングを中将にするという案に、パーシーは賛成しなかったようである。また、軍を南下させて塔を占拠する案にもパーシーは同意しなかった。ジャーミンとパーシーとは、チャールズにこの計画を打ち明けて、彼の選択を求めた。だが、こういう決定的な時に見せるチャールズの逡巡と不決断が、ここでも彼の側近の命取りとなった。チャールズは、「無意味で愚かな〔計画〕だから、そういうことはもう考えないことにしよう」[Gardiner(1)317]と言って、この案を採り上げなかった。
 ゴリングは、計画が却下されたばかりでなく、自分の昇進もふいになったことを知った。彼は、今度は逆に議会の好意を得ようとして、この陰謀を上院のニューポートに漏らしたのである。四月一日、この陰謀の一端が、上院から下院のピムに通報された。ただし、ピムは、軍隊が王に請願を提出することは知らされたが、軍隊の動員までは知らなかったらしい。
 軍隊の陰謀事件とストラフォードの裁判、この二つは同時に進行していたが、表面的に何の関係もない。だが、ストラフォードが有罪にされたとしても、国王の赦免権が、ストラフォードの判決に及ぶことは予測されることであった。ピムたちは、ここに至って、ストラフォード問題に思い切った決断を迫られることになった。軍が国王の側に立って、ストラフォードと手を結んだ場合に、それが議会にとってどのような結果を招くかを予測するのは難しくなかったからである。この時から、「下院は、ストラフォードの処罰を、公的正義の証しとしてではなく、公共の敵に対する必要な警戒態勢」[Gardiner(1) 301]ととらえ始めたのである。『下院議事録』によれば[J.C.132]、この事件の全貌が表沙汰にされ、下院がこれの本格的な追求を始めるのが、五月三日である。その五日後の五月八日に、ストラフォードは、私権剥奪法によって処刑の判決を受けることになる。
■新編成のアイルランド軍解散要求
 三月一一日の『下院議事録』[J.C.101]には、両院の合同委員会において、ストラフォード裁判の件で、その場所、出席者、証拠の扱い、助言者〔ストラフォードの弁護人〕の四項目について、具体的な打ち合わせが行なわれたとある。さらに一二日と一四日の『下院議事録』では、委員会の決定として次のことが報告されている。ストラフォード裁判の場所はウェストミンスター・ホールとすること。出席者として下院全員が認められること(ただしこの処置は今回限りとして前例とはしない)。証拠については、出来事の真実性に関して下院が〔証拠の提出を〕命令し、これの提出を強要できること。ストラフォードの助言に関しては、議会の法律家をも交えた委員会に一任すること。ただし、助言者たちは、法的な処置に関しては助言を許されるが、事実認定に関しては発言できないこと。ストラフォードが、議会全体と下院によって大逆罪で告訴されていることを十分に考慮して事に当たることなどである。こうして、「イギリスの歴史において最も重大な告訴」[Gardiner(1)303]が、本格的に始まろうとしていた。
  裁判と並行するように、下院ではもう一つの問題が討議されていた。三月一五日の『下院議事録』[J.C.104]には、下院が、「この王国〔イングランド〕の安全に関わること」として、新たに編成されたアイルランド軍の解散と現在のアイルランド軍からパピストを排除すること、さらに、二〇〇〇名の兵の補充は不適切であることを、上院と合同で国王に申し入れるとある。ここに来て、アイルランド軍の存在が、ストラフォードの裁判の成り行きに大きく関わってくることになった。これに関連して、三月一八日の『上院議事録』[J.L.188]によると、アイルランド使節が、軍隊の解散について上院で査問を受けているが、使節たちは、事が重大なので、回答まで少し時間をくれるよう要請している。さらに、一六日の『下院議事録』では、今度は名指しで、宮廷内のカトリックの国教忌避者たち、モンタギュー、ディグビー(ケネルム)、ウィンター、マシュウーの四名の排除と、アイルランドの新規軍と国内のパピストの武装解除、宮廷からのパピストの排除を要請している。
 新規の二〇〇〇名の補充というのは、チャールズが、カトリックを排除する代わりに二〇〇〇名のプロテスタントのアイルランド兵を補充するという提案に対して議会が返答したものである。このような議会のアイルランド軍に対する警戒は、その存在が、議会に対して無言の圧力となるだけでなく、ストラフォード裁判において、特にその「証拠」との関連において、重大な意味を持つからである。だが、上院も下院も、アイルランドの実状に関しては、ほとんど何も知らないと言っていい。そこには、エリザベス朝以来のイングランドによるアイルランドの民衆への苛酷な弾圧と迫害の堆積があった。だが、イングランドの議会には、アイルランド民衆の感情とその実状に対する視点が完全に欠落していた。イングランド議会は、アイルランドをイングランドの植民地としてしか見なしていなかったのである。この時点で、チャールズは、他の誰よりも、ストラフォードの救済を望んでいた。しかし、彼も彼の王妃も、ストラフォードの救済のためには、アイルランド軍の恐怖を取り除くことが、議会対策として最も重要な手段であることを見落としていた。チャールズは、逆に、ストラフォード裁判の切り札として、アイルランド軍の存在を最大限に利用しようという致命的な誤りを犯したのである。
■ストラフォードの「犯罪」
 三月二三日の『上院議事録』[J.L.195]には、ストラフォードの事実上の初公判が行なわれたことが出ている。最初にストラフォードは、下院が証拠の提出とこれに関する陳述を十分に行なった後でないと発言が許されないことを確認させられている。ピムが立って、すでに手渡されていたストラフォードの告訴に対する回答について、逐一反論し、さらに、一二名の証人を出した。ストラフォードは、そのうちの一人、コズビーに関して、彼が星室庁でストラフォードに不利な発言をしたという理由で、異議を申し立てて認められている。ピムは、証人を立ててストラフォードの「悪行」を陳述した。こうして、ほぼ一ヶ月以上にわたるストラフォードの裁判が断続的に行なわれることになった。
 下院を代表して論告を行なったのは、主としてピムであった。彼は、ストラフォードが、アイルランドにおいて、議会の法を無視して独断で政策を実行したかどで厳しく彼を非難した。その上で、彼のアイルランド政策は、彼個人の性格から来る政策によって苛酷を極めたとしてその圧政ぶりを強調した。また、ストラフォードのむごい性格と同時に、彼の貪欲ぶりをも非難するのを忘れなかった。これに対するストラフォードの答弁は、激しい怒りを抑えながら、堂々としていた。彼は、王に対する忠誠において、告発のどの条項にも当たらないと主張した。私たちは、ここでスペンサーの『アイルランドへの見解』を思い出してもよい。スペンサーも、アイルランド総督グレイ卿の「苛酷な政策」を「正義」の名において支持した。ストラフォードは、自分の政策が「憲法的」ではなく、彼の先人たちが行なったやり方で政策を断行したことを認めた上で、そうしなければ、アイルランドの秩序が維持できないと主張した。だが、これに反論するピムも、これに聞き入る議会の議員たちも、アイルランドについては何一つ知らなかった。「要するに、ピムは、他のイングランド人と同様に、アイルランドをイングランドの植民地としてしか見ていなかった。ケルトの民衆に、彼は何の同情も抱かなかったのである」[Gardiner(1)304]。
 仮にストラフォードが、アイルランドでの政策において、法を破ったとしても、それがいったい大逆罪の根拠になるのであろうか? 大逆とは、国家の主権者に対する裏切りと犯罪であるのなら、ストラフォードが反逆を犯していないことは、本人が誰よりもよく知っている。こう彼は主張した。ピムは、「反逆」の定義を、主権者としての国王自身に対する犯罪から、その主権者によって保たれている制度それ自体に対する犯罪へとその解釈を拡大した。すでに、フィンチもロードも、この理由によって下院から反逆罪として弾劾されていた。しかし、現存の制度を意図的に変えようと企むことが「反逆」であるとしても、これをストラフォードに適用することは難しかった。彼自身に全くそのような考えがなかっただけでなく、彼は、自分の行為が、そのような視点から解釈されるとは思いもしなかったからである。「上院議員たちは、何はともあれ、ストラフォードは反逆罪に当たらないという確信を抱き始めた。」この一方で、「下院は、過去のことよりも未来のことを考え始めた」[Gardiner(1)307]。
 スコットランドとの戦争とストラフォードとの関係も、立証が難しかった。彼が、「短期議会」解散直後に、スコットランド戦を遂行するために、アイルランド軍を投入し、そうすることで、「イングランド王国と陛下の臣民を滅ぼそうとしたばかりか、この王国において確立している基本法を破った」こと、さらに、もしも議会が、王に正当な戦費を承認しない場合には、軍隊の力によってこれを獲得することも正当化されると王に進言したというのが、ストラフォードに対する最大の告発理由であり、彼に対する告訴の中核であった。これの証拠となる書記官ヴェインのメモがあったとされていることが、この裁判の鍵となる「証拠」とみなされた。しかし、仮に、このような案が出たとしても、「三つの王国の王」である国王が、その軍隊を自由に動かすことは正当なことであるというのが、ストラフォードの考え方であった。「アイルランドの軍隊をイングランド人に差し向ける」という発想が、イングランドの議会には「感情的に受け入れ難い」ものであったとしても、これが、ストラフォードの大逆罪に当たるのかという根本的な疑問が残っていた。
 「短期議会」直後の八名の枢密院会議の席上で、はたしてそのような発言が、ストラフォードの口から出たのかどうか? 書記のヴェインが証言に立たされた。彼も他の証人も、ストラフォードが、スコットランドへの攻撃的な戦争を仕掛けることを進言したと述べた。また、問題とされている発言に関しては、「そのような意味の言葉」が出たと証言した。これに対して、ストラフォードは、アイルランド軍をイングランドに投入する計画など自分には一切なかったこと、彼の意図は、アイルランド軍を〔スコットランドの〕エアに上陸させることであったと述べた。また、会議に居合わせたハミルトン、コッティントン、ジャクソンは、ストラフォードが、アイルランド軍をイングランドに投入すると提案した覚えはないと証言した。結局、書記のヴェインが残したメモを、後でチャールズが焼き捨てるよう命じたという証言だけが残った。
 しかしながら、ここでストラフォードが放免になれば、前年の夏彼がなんと言ったかよりも、今度は、アイルランド軍が議会にとって本当に脅威となる恐れがあった。国王は、アイルランドの軍隊と、給与未払いの北部の軍隊との信任を得ていた。議会にとって、この裁判は致命的な失敗に終わる恐れがあった。しかし、まさにこの議会の恐怖こそ、チャールズが、この時点で、最も警戒すべきことであった。なぜなら、王が、自分の武器をちらつかせるほどに、議会は、ますます追いつめられて、ストラフォード有罪と彼の死を勝ち取らなければならなくなったからである。だが、チャールズは、この有能で忠誠心の厚い僕を救いたいと思いながらも、自分の行為が、まさにこの逆を行く致命的な過ちを犯していることに気づいていなかった。
 四月一二日の『上院議事録』[J.L.215]によれば、下院は、二三条の大逆罪に当たる証拠としてヴェインの証言を持ち出していたが、上院は、大逆罪の成立には、さらなる証拠が必要であると結論している。また、「ストラフォード伯爵が、アイルランド軍をイングランドに導入するという危険な言葉を語ったその同じ時に、居合わせた他の二人、大主教とコティントン卿も、その場で、違った言葉で語ったというメモが、ヴェインの机の引き出しから発見された。それゆえに、上院は、さらに時間をかけて、誰によってそれらの言葉が語られたかを検討しなければならない」とあり、さらに「ストラフォード伯爵は、先ず自分の証拠を再提出し、下院の議員たちも自分たちの証拠を明らかにする必要があり、どちらも互いに妨げられることなく、これを行なわなければならない」と議事録にある。翌四月一三日の『上院議事録』には、ストラフォードが、自分の証拠を再提出して、「制定法に照らしても慣習法に照らしても、反逆罪に当たる罪は何一つ有効でない」と〔弁護人を通じて〕主張したとある。これに対してピムは、ストラフォードの弁護人に回答して、「王国の基本法を犯すのはなんという僭越な罪であろうか」と述べたとある。さらに議事録には、これに加えて、「下院の〔この件に関する〕委員会は、事実に関する証拠を扱っているが、これを法に照らして大逆罪とするかどうかは、下院〔全体〕の指示に従わなければならないと結論した」ともある。
■ロンドン市民の請願
 四月のこの段階では、先に述べた軍隊の陰謀が、上院にもまた下院にも伝わっていた。四月六日の『下院議事録』[J.C.116]には、出版の許可に関する項目と並んで、北部軍に対して、スコットランド軍が何らかの挑発的な行為に出ない限りは、下院の宣言に反する戦闘行為に出てはならないという通達を出している。これは、王と議会の同意とを得た上でなければ、こちらから戦闘を仕掛ける者は、王と国家の敵と見なす旨を将校たちに徹底させる意図をもって出された通達であった。
 この日の午後の下院で、ストラフォード裁判に関する請願が、市民から提出されて、読まれている。この請願は、二万名とも三万名とも言われる人々の署名を集めてロンドン市民から提出されたものであった。それは、「議会が開始されたときに、市民の苦情が取り除かれ、王国内の扇動者たちや市民への圧政が取り除かれると期待していたが、議会開始後、五ヶ月になるのに、何らこれらに対して有効な手段が講じられないばかりか、ストラフォードは、異例な厚遇を受けており、その身もその安全も保たれている」という主旨のものであった[Manning 21]。そこには、ストラフォード裁判と彼の処罰の遅れに対する市民のいらだちが現われており、「ストラフォードの処置が決まるまでは、宗教改革もその他の苦情も期待できない以上、伯爵の早急な断罪と処刑を切望する」とあった。さらに、「パピスト」が宮廷に未だにのさばっていて、アイルランド軍も武装解除されていないことから来る不安が広がっているともあった。言うまでもなく、これはピューリタンたちから出された請願である。四月一〇日に、王はロンドン市に対して、このような請願を制止するよう命令を出したが効果がなかった。
 ストラフォード裁判をめぐって、市民の間に動揺と混乱が生じ始めていた。ロンドン市民のこの動揺は、議会にも影響を与えていた。四月一二日の『下院議事録』[J.C.119]は、「本院は重要かつ長時間の討論に入っており、事の重大さに鑑みて、上院との会談を開くまでに至っていない」と下院内での混乱ぶりを短く伝えている。その後、かなりの長時間を経たのであろう。「現在の混乱と危険とに鑑み、かつ長時間の討論の末に、証拠の扱いに関しては、当面これを見送り、上院が同意できない以上二三条〔大逆罪〕の告訴をこれ以上続けることを控えて、ストラフォード伯爵を別の条項で尋問する。時間の経過は、連邦に極めて危険かつ悪しき結果を招くと結論した」とある。翌一三日の『下院議事録』には、ストラフォードを「私権剥奪法」によって反逆罪で告訴するよう、委員会に諮るとある。下院は、ストラフォードを「大逆罪」の適用ではなく、「私権剥奪法」による告発に切り替えたのである。この場合でも、ストラフォードは処刑を免れないという読みがピムたちの側にあったからである。ただし、実際にこの切り替えが行なわれたのは、四月一〇日であった[Manning 23]。ここからは、ストラフォードの「私権剥奪法」をめぐる裁判が続くことになる。
 四月一九日の『下院議事録』[J.C.123]に、「ストラフォード伯爵は、イングランドとアイルランドの王国の古来からの基本法を破り、この両王国において、法に反して恣意的圧政的な行政を行なったかどで大逆罪と判定する」とある。これは下院の委員会で決議されたもので、評決は三対一であった。これで、下院に関する限りは、「私権剥奪法」が事実上成立した。ただし、この処置は、上院と下院との間の亀裂を生じさせる一つの大きな原因となって後々尾を引くことになった。
 四月二三日、チャールズは、ストラフォードに宛てて手紙を書き送り、「王の言葉にかけて、貴下の生命、名誉、財産に害が及ぶことはない」と約束した。同時に、チャールズは、ピムを密かに呼んで、彼に大蔵大臣の役職を提供している。二人の間にどのようなやりとりがあったかは不明であるが、結局ピムは、ストラフォードの命と引き替えにするいかなる申し出も拒否したものと思われる。
 四月二四日。この日の『下院議事録』にもロンドン市民から二つの請願が提出されたとある。この請願も、二万人あまりの市民の署名を集めたもので、ストラフォードの処刑を要求している。市民の間に異常な興奮が襲い始めていた。経済の行き詰まりを打開するために、先ず彼の処刑をという認識が人々の間に広がってきた。ストラフォード事件は、政治問題から社会問題へと発展していっているのが分かる。この間にも、ピムたちは、チャールズに、アイルランド軍の解散を要求していると議事録にある。ところが、この時に決定的とも思われる事件が起こった。
 四月二八日の両院の議事録には、ストラフォードが、ロンドン塔より脱出する計画があることが知らされたとある。「テムズ川には、彼を運ぶ船が複数用意されており、塔の門には警護がいなかった」(『上院議事録』)のである。上院は直ちに塔の指揮官を喚問し、その上で、塔の警護を厳重にする旨を通達したと下院に報告している。議会は騒然となり、下院はほとんどパニック状態に陥りかけた。しかも、この同じ日に、チャールズは、北部のスコットランドとイングランドの軍隊が解散するまでは、アイルランドの軍隊を解散するつもりがないことを議会に通告したのである。「多くの者が王のこの言葉に深い憂慮を示した」[Gardiner(1)344]。議会は、この脱走計画に宮廷が深く関わっているという疑いを深めざるを得なかった。
 その翌日四月二九日に、ストラフォードの「私権剥奪法案」が上院にかけられたのである。これはストラフォードにとっては、まさに最悪のタイミングであった。上院はそれまで、ストラフォードの処刑には消極的であり、少なくとも、四月二七日までは、「ストラフォードを処刑台に送ることはしないという意向を固めていた」[Gardiner(1)341]。しかし、この日、セイント・ジョンは、それまでの上院の慣習をかなぐり捨てて叫んだ「我々の法は、野兎や鹿のためにある。それらは追跡される獣だからだ。しかし、狐や狼は、見つけ次第に首をはねても残酷でないし不当でもない。それらは獲物を襲う獣だからだ。兎の飼育者たちが、いたちや狐どもを罠にかけて捕らえるのは、兎を保護するためなのだ」[Gardiner(1)345]。ストラフォードに対する「私権剥奪法」は、この段階で、上院において成立する可能性を帯びてきたのである。
 五月に入った。五月一日の朝、黒杖守衛官(上院の役人で、国王の演説を聞かせるために下院を呼ぶ役を持つ。彼は黒い杖を持っていた)が、下院の扉を叩いた。議員の誰もが、解散命令とこれに続く王の武力介入を予期した。しかし王は、議会に対して次のように述べた。今までにアイルランド軍をイングランドに導入するよう王に進言した者はだれもいない。イングランドの臣民が不忠義であるという議論が、王の前で行なわれたこともない。また王は、イングランドの法をたとえ少しでも変えるつもりはない。それゆえ議員方よ、王に現在の苦境から抜け出す道を見いだしてほしいと述べ、ストラフォードも、自分の行為に対して少なからず反省しているであろうからという主旨を付け加えた。彼の演説は高圧的であった。一週間前なら、この演説は効き目があったかもしれない。しかし、今や「上院でも動かなかったのであれば、下院はなおさら動く気配も見せなかった」[Gardiner(1)347]。
 五月二日、王室のメアリー王女とオランダ王室ウィリアム王子との結婚式が行なわれた。五月三日、下院において、サックリングたちの北部軍隊の陰謀の全貌が暴かれた。議会は騒然となり、下院の議事録は、サックリングたちが尋問のため召喚されたことを伝えている。この日、下院は、この陰謀の真相究明を始めた。同時に、これに対して下院によって出された「抗議書」が掲載されている。これの前文に、「司祭たち、ジェズイットたち、ローマに味方するその他の者たちが、・・・・・確立された陛下の領土において、改革された真の宗教を滅ぼそうと企んでいる」とあり、彼らが「イングランドとアイルランドの基本法を犯し、恣意的圧政的な行政を導き入れようと努めている」とある。さらに「イングランドの軍隊をして議会に対する誤解を生じさせたかどにより」このような「悪質な側近たち」に対して強く抗議するとある。これに続いて、有名な誓文書の文面が掲載されていて、それは、「私何某は、法王主義とあらゆる法王的で新規な改革に反対し、イングランド国教会の教義に表わされているとおりの、真の改革されたプロテスタントの宗教を維持しこれを告白することを、全能の神のみ前で、約束し誓いこれを告白する・・・・・」で始まる。実は、この誓約文の原稿では、「現在行なわれているイングランド国教会に表わされているとおりの」となっていた。ところが、根絶派の議員から、この一句を削除せよという要求が出たのである。議論の末に、「イングランド国教会の教義に表わされているとおりの」という形に落ち着いた。下院内の分離派とその他の議員との間で行なわれたこの議論は、根絶派が、まだ少数派であったことを示している。この日の下院の議事録の終わりには、下院議員全員の署名が、ぎっしりと並んでいる。下院は、この「抗議文」を直ちに上院へ提出した。下院は、王の「悪質な側近たち」にその的を絞っているのである。
 この頃から、ロンドン市内では、宮廷において、軍隊の将校たちが、ロンドンへ軍隊を南下させて、市内の群衆と議会とを鎮圧しようと企てているという噂が広まり始めた。さらに、王は北(ヨーク)へ行き、北部の軍隊と合流する。王妃は、ゴリングの護るポーツマスへ逃れる。下院が、ストラフォードのロンドン塔からの脱走計画を調査している。サックリングが、塔の近くの居酒屋で、六〇名の兵士と待機していたなどの噂が飛び交い始めた。五月三日には、五、六千人の市民たちが、ウェストミンスターの周辺に集合し始めた。「正義を求める声が、『処刑せよ』という叫びと入り交じった。群衆全体が、このスローガンを叫びだした。『正義と処刑を!』それは、どのような冷静な人々さえも驚愕させるほどの激しさを帯びていた」[Manning 23]。明らかに何か異常なことが起こり始めていた。議員たちは、群衆を避けて、水路を通って議場に入らなければならないほどであった。この日のリーダーの一人は、無罪を勝ち得たばかりのリルバーンであった。群衆の一人が叫んだという。「もし司令官代理〔ストラフォード〕の命(いのち)がもらえなければ、我々は王の命(いのち)を要求する」と。
 翌四日、群衆の数はさらに増加した。しかも、その数だけではなく、群衆には多くの「サザークからの職工たちが、剣や棒などで武装してやって来た」[Manning 26]。五日の『下院議事録』では、下院が、市長や市参議会に市内の警護を厳しくしてほしいという要請を出している。下院は、七日に、さらに広範囲にわたって、同じ要請を出している。一方上院は、下院に、大勢の人々の群に取り囲まれて、とても自由な状態にあるとは考えられないと訴えている。
■ストラフォードの処刑
 五月七日の『下院議事録』では、ピムが、上院との合同委員会を至急開くことを提案し、「王が〔北部の〕軍隊を誘導して、他の軍隊と合流させ、ここ〔ロンドン〕へ進出する計画があることが確認された」と報告している。さらにこれに続いて、フランス軍がポーツマスに上陸する可能性があること、至急ポーツマスに議会のメンバーを派遣すること、また、早急にウィルトシャー、バークシャーで兵を召集すること、ハンプシャー、サセックス、ドーセットの正規軍を待機させることを委員会に提案している。
 五月八日、上院は、ストラフォードの「私権剥奪法案」を通過させた。「もしも上院が、この案の通過を否決した場合、ロンドンの群衆の反応を恐れたためであると信じられている」[Manning 28]。今や、王が、議会を解散して、この騒乱の街から逃れて、軍隊を率いるという可能性が出てきた。上院は、さっそくこの決定をチャールズに伝え、かつチャールズの署名を議会の名において請願した。すでに、王が、フランスとフランス軍導入の協定を結んだという噂が広がった。群衆は、王の居るホワイトホールへと押し寄せた。王たちの耳には、一日中怒号と叫びしか聞こえなかった。宮廷内のカトリック教徒たちは、死を覚悟した。
 五月九日、王は、枢密院を開いた。枢密院は王に処刑の署名を進言した。ただ、ジャクソンは、ここで王が譲歩することに反対した。チャールズは、まだ決断がつかないようであった。苦悶の末に、王が譲歩を決意したのは、この日の夜一一時頃であったと言われている。チャールズは、ストラフォード「私権剥奪法案」に署名した。「自分の身の危険だけを考えるのであれば、ストラフォードの命を救うために喜んでこれをかけよう。しかし、妻と子供たちと王国全体がこの身に関わっている以上、私は譲歩せざるをえない」[Manning 30]とチャールズは言ったという。
 五月九日の『上院議事録』[J.L.242]には、北部軍に宛てた手紙が掲載されている。これには、「国家に対する危険な意図ともくろみの下に軍隊内で密かな企てが行なわれている」とあり、軍は実状を早急に議会に知らせること、また、この段階で、国家に忠誠を誓い、正直に報告する場合には、議会はその責任を問わないとある。
 五月一一日の『下院議事録』には、上院からの連絡として、セイント・ジェームズ地区にあるチャールズの母である皇太后の邸が、群衆のために危険な状態にあること、千人の水兵たちがロンドン塔の周辺に終結して不穏な動きがあることなどが伝えられている。同じ五月一一日に、ストラフォードは、塔に幽閉されているウィリアム・ロードに面会を申請している。しかし、議会の承認が得られないと許可されないと聞いて、彼は議会への申請を断わっている。その代わり、訪ねてきたアシャー大主教に、自分が彼の部屋の前を通るときに、窓から姿を見せて、祈りと祝福とを与えてほしいというロードに対する伝言を依頼している。
 五月一二日。処刑の日の朝、ストラフォードは、ロードの部屋の前を通るときに、ロードは窓から姿を現わした。「祈りと祝福を」とストラフォードが低い声で言うと、彼は手を挙げて祝福を与えたが、別れの言葉を告げてから、そのまま気を失って倒れたと言う。その日、タワーヒルには、二〇万の人が集まった。不思議なことに、処刑の場面の絵は、後に行なわれたチャールズの処刑よりも、大英博物館にあるホラーの描いたこの日のストラフォード処刑の絵のほうがよく知られているようで、マニングのペーパー・バックスの本の表紙にも、処刑台を中心に、立錐の余地もないほどに(この中にミルトンも居たのだろうか?)、人々が辺りを埋め尽くしている絵が使われている。英国史の挿し絵などにもたいていこの日の絵が載っているようである。ストラフォードは、「処刑に向かう囚人と言うよりは軍の先頭に立つ将軍のように見えた」[Gardiner(1)369]。彼が人々に宛てた最後の言葉は、「イングランドの議会は王国と国民のための幸いな制度であり、神の下で、王とその民を護る最善の手段である」[Gardiner(1)369]であった。
 彼の処刑は「歓呼の中で行なわれ」「その処刑の日には、ロンドン市とその周辺では喜びの大デモストレーションが行なわれた」[Manning 30]。「篝火を焚いてこの祭りを祝う」人たちもいたと言う[Manning 31]。革命のはずみ車は、この日、ゆっくりと回り始めた。ストラフォードの処刑によって生じたチャールズと議会との間の溝は、結局最後まで埋めることができなかった。ピューリタン革命における第一次内戦は、事実上ストラフォードの処刑で始まり、チャールズの処刑で終わったと言ってよいであろう。私たちは、この異常な事態が、この年の一二月の末に、再び、今度はこれを上回る規模で繰り返されるのを見ることになる。もっともその時には、スローガンは、「ストラフォードに死を!」から「主教とパピストは要らない!」に変わっているが。
 「ストラフォードが、自分なりの意味において、議会制度に対する信頼を吐露したのは真実から出ていたと理解してよい。それでいて、彼は、真の意味で議会の最も危険な敵であった」[Gardiner(1)370]とガーディナーは述べている。彼は、その理由を、「絶対主義かそれとも議会による主権かの唯一の選択において」、ストラフォードがエリザベス体制を維持しようとしたからであると分析する。マニングは、「法や議会や王が、この問題に決着をつけたのではなく、それは群衆であった。権力は、街の騒乱者たちに移ったように見える」[Manning 31]と述べ、さらに、議会の一部の者たちが、自分たちの政策を議会と王に押しつける意図で群衆を扇動したことを示唆している。ヒルは、階級闘争の立場から、ストラフォードの処刑にあまり大きな意味を見いだしていない。この事件がこの時点において持つ意味の重大さを洞察する視点が、彼には欠落しているようである。
 先にも述べたように、私がここで注目したいのは、革命の「原因」ではなくその直接の「動因」である。民衆の暴動が、分離派やリルバーンのような過激なピューリタンたちによって誘導されていたのは、まず間違いない。しかし、囲い込みや経済不況や階級意識や宗教的信念は、ストラフォード処刑の背景としての原因ではあっても、それらは、この事件を引き起こした直接の動因とは言えないように思う。すでに見てきたように、この事件は、チャールズとスコットランドとの戦いに端を発している。なぜなら、このための対策として、アイルランドの軍隊をイングランドへ導入しようとしたというのが、ストラフォード弾劾の最大の理由だからである。スコットランドとその軍隊だけでなく、アイルランドとその軍隊の存在が、この事件に決定的な影響を与えているのも確かである。その上に、すでに三月頃からしきりに唱えられていた「パピストの脅威」も加わってくる。
 五月に入ってからの一週間は、スコットランド軍、北部のイングランド軍、アイルランド軍、フランス軍、そしてチャールズの宮廷の背後で糸を引く(と信じられていた)ローマ・カトリックへの恐怖が、ほとんど狂気に近い暴動へと民衆を駆り立てている。はたしてそのような脅威が、ほんとうに存在したのかどうかを問うのは、この場合あまり意味がない。そのような噂が、人々の間に広まり、それが信じられ、しかも議会さえも巻き込んで、一つのうねりを醸成していったという、この事実の方がはるかに重要だからである。そこには、「原因」と呼ぶには、あまりに偶発的な出来事も含まれていて、しかもそれらが、共時的な相互作用によって、事態を進行させているのである。
 ストラフォードの処刑をも含めて、ピューリタン革命の発端となったもろもろの出来事の「原因」が、イングランドの「内部に」存在していたという見方に私は反対するつもりはない。「革命」であり「内戦」である以上、その原因がイングランドの「内部に」求められるのは、全く正当なことであろう。しかしながら、イングランドの「外から」の要因もこれと同じほどに重要ではなかったのか、こう私は思うのである。ピューリタン革命は、決してイングランドの「国内問題」ではない。少なくとも、それは事の真相の半面にすぎない。この革命は、イングランドが、スコットランドやアイルランドを含めて、その近隣諸国とイングランドとの関わりの中から引き起こされた「国際問題」でもあった。保守的で粘り強く、国家宗教と共に議会の伝統を尊ぶ国が、なぜこの時期に、悲劇的な内戦へと文字どおり「引きずり込まれて」いったのか? このような事態を避けることができなかった決定的な要因とは、いったいなんなのか? これを考えるときに、この革命とこれに続く一連の内戦が、イングランドの国内ではなく、むしろスコットランドやアイルランドなどの植民地を含む国外とイングランドとの関係によって惹起されたことを見落としてはならない。この「内戦」は、イングランドが、近代の最も強力な植民地帝国主義国家として、その第一歩を踏み出そうとしているまさにその時に起こった。内戦の原因は、イングランド社会のメカニズムにあったとしても、そのメカニズムを突き動かしていった動因は、植民地帝国主義へと脱皮しようとするイングランドと、これの周辺諸国との関係に求められるべきである。王やストラフォードが、なぜあれほどにエリザベス朝絶対王制に固着したのか? 議会が、なぜあれほど頑強に王の政策に反対したのか? これらの疑問に対する答えを、私たちは、この視点から再検討する必要があろう。
■主教排除法案と根絶法案
 五月二一日に、上院から主教を排除しようとする主教排除法案が、下院から上院に回された。この法案は上院の委員会にかけられたが、ことが上院の問題に関する以上、両院の間では、この法案をめぐって少なからぬ亀裂が生じた。ところが、五月二七日に、上院は、聖職者排除法案として、聖職者を世俗の行政機関から排除する法案を可決した。しかも、これには、ただし書きが付いていて、この可決では、主教が議会において議席を持つこと、したがって投票権を有することは例外として認められることになっていたのである。これは、いわば、下院に対する上院からの挑戦とも受け取られた[Gardiner(1)378]。
 上院のこの決議は、逆に下院の根絶派の立場を有利にする結果になった。上院からの知らせが下院にもたらされたその同じ五月二七日に、下院では、ヴェインとクロムウェルが、大主教、主教以下のすべての位階をイングランド国教会において「完全に廃止しかつこれらを取り除く」法案を提出したのである[J.C.159]。これが根絶法案である。この日、根絶法案はディアリングへと回され、彼はこれを下院に提出した。ディアリングは、聖職者の世俗行政への関与を嫌ってはいたが、主教制の廃止までは考えていなかったらしい。その彼が、根絶法案を提出する役割を担ったのは、先の上院の聖職者排除法案で、主教たちの投票権が上院で認められたことに反発し、主教排除法案を復活させようと上院に揺さぶりをかける戦略であったらしい[Gardiner(1)382]。ディアリングの提案は、根絶派を大いに勇気づける結果になった。
 根絶派は、この段階で、下院においてまだ多数派ではなかった。ハイドやカルペッパーやフォークランドは、根絶派と対立していて、下院がスコットランドと手を結ぶことに反対していた。今や下院の動向を握っているのはピムたち中間派であった。根絶法案の持つ「完全虐殺」的な性格をめぐり、厳しい議論が交わされた。その後で、この根絶法案を再度読むべきか、すなわち議題として再度採択すべきかどうかをめぐって、下院では意見が分かれた。採決の結果一三九対一〇八で、この法案の再審議が採択されている。ところが、この記録の直ぐ下に、上院から下院へ、主教と聖職者たちに関する法案について、両院の合同委員会を開きたいという申し入れがあり、下院はこれを了承したとある。
 六月四日の『下院議事録』[J.C.167]には、上院からの質問に答える形で、主教を上院から排除すべき理由が列挙されている。
一、行政機能の妨げになる。
二、主教は本来の召命に専心すべきである。
三、教会法も主教が世俗の問題に関わることを禁じている。
四、二四人の〔上院の〕主教たちは、二人の大主教の指揮下にある。
五、主教たちは、彼らだけの生活を送っているから、他人の身柄や自由に関する立法権を持つべきでない。
六、より大きな利益のある場所〔主教区〕へ移りたがる。
七、最近、主教たちが、臣民の良心や財産に介入しすぎる。
八、主教の裁治権は、三王国の苦情の種である。
九、主教とそれ以外の聖職者との間に距離があり過ぎる。
 ここに挙げた理由の他に、もう一つ見過ごせないのは、主教たちの提案で始まった「主教戦争」が、莫大な軍費と補償金とを要する結果になったことである。これが、下院において、根絶派が次第に優勢になる原因の一つであったのは否めないようである。また、主教たちが上院において持つ二六票が、事実上チャールズの思い通りにされていることに反発する者もいた[Gardiner(1)381]。
 議事録には、この法案についての上院からの質問とこれに対する下院の回答が記載されていて、主教の議会における投票権は長い間の慣習であること、また、この法案に伴う不便さなどについて、下院の回答が短く記されている。特に大学における主教の地位に関する上院からの付帯条項が問題になった。この付帯条項は、一三九対一四八の僅差で否決されている。下院のほうも、この問題で明らかに分裂しているのである。
 同じ六月四日の『上院議事録』[J.L.265]では、午後になって議会が開かれ、そこで先に列挙した主教排除の理由と上院の質問に対する下院からの回答とが読まれている。上院はさらに審議を続行するとある。しかし、六月八日、上院は、この主教排除法案を三度目の審議にかけて、これを廃案にしている。ただし、この日に、星室庁とその裁判所を廃止する法案が三度目に読まれ、こちらは一致して可決された。この星室庁の廃止は、七月五日にチャールズによって認可されている。
 私たちは、まだこの段階では、根絶派が下院においても少数派であったこと、また、主教排除法案は、ある意味で、根絶法案を牽制する効果を持っていたことに注意しなければならない。上院が、主教排除法案を可決するのは、なんと翌年の二月五日のことである。だが、この時には、「主教制もパピストも要らない!」という民衆の声に押されて、根絶派が下院において多数派と占めていて、もはや体勢を動かすことはできず、あまりにも遅すぎる決定となった。
 六月一一日、今度は、根絶法案が、両院の合同委員会にかけられている。議長のハイドは、チャールズの命令で、審議の引き延ばしを図っていた[Gardiner(1)383]。審議はなかなか進まなかった。根絶法案に反対する者たちは、主教制の改革について、何一つ代案を用意することができなかった。ただ一つあるとすれば、それは長老制であった。長老の中に主教たちも加わるという「珍案」さえ出たようである。それでも、六月二一日には、各主教区に、主教制に代わる委託委員会を設置するという案が出された。ようやく根絶法案が、具体性を帯び始めたのである。    
                  ミルトンとその思想