五月になって、ミルトンの『イングランドの教会規律の改革について』が出版された。ウルフとアルフレッドは、これの出版が五月の最後の週ではなかったかと推測している[Yale CP 514]。この教会規律の改革論の後半部分に、「ここで終わるところであったが、巷に喧伝される幾つかの反対意見を耳にしたので、これへの回答に努めるべく余儀なくされた」とある。このような書き出しは、これ以下が明らかに後からの付加部分であることを示している。しかも、この付加部分には、「我々の願うこの宗教が、はたしてこの王国で実践できるかどうかについて、それは慣習法とも王たちの安全とも両立しないと彼らは言う。主教制による行政が、今や慣習法に紡ぎ込まれていると言うのだ。〔それなら〕神のみ名によって、もう一度紡ぎ出せばよい。人の織りなす言葉の綾で、神の権威を覆い隠すな」という一文が含まれている。この文言は、二月に入って、議会で「根絶請願」の審議が始まった折りに、ディグビーが発言した「〔慣習法が〕紡ぎ込まれている」に言及したものと思われる。付加部分には、さらに、「これらの人たちの抗議が、我々に何を求めているか、その意味することをお知らせしよう。彼らは、我々に向かって、今まで肩の骨が砕けるほど耐え続けてきた耐え難い苦情をうみ疲れずに我慢するよう勧めるのである」とある。この一文は、四月二四日に出た「主教制と聖堂制度を擁護するオックスフォード大学からの謙虚なる請願」の内容と文言に言及していると考えられる。
これらのことから、ウルフとアルフレッドは、ミルトンが、この教会規律の改革論の大部分をすでに一月中に書き終えていて、その後に、二月の議会での発言や四月の「オックスフォード請願」への言及を踏まえて付加部分を加筆したと判断している[Yale CP 514]。この説が正しいとすれば、ミルトンは、一月中に教会規律の改革論を書き、さらに二月になって、「根絶請願」が議会で審議され始めると、これの成り行きを見守り、さらに四月二四日の「オックスフォード請願」をも取り込んで、五月〔の半ば頃?〕に、これを出版したことになる。また、前半部分には、「主教たちを弁護する法王的な司祭サンタ・クララ」と並べて「不吉な恐怖にかられて同じ問題を論じたわが国の高位聖職者の一人」[Yale CP 528]を引き合いに出している。この高位聖職者とは、ホールのことを指しているから、ミルトンは、教会規律の改革論の出版までには、ホールの『謙虚なる抗議』を読んでいたことになる。ウルフとアルフレッドは、ミルトンが、ここで『神授権による主教制』のほうを念頭においていると注している[Yale CP 528n40]。しかし、私は「不吉な恐怖にかられて」という言い方を『神授権による主教制』に当てはめるのは、時期的に早すぎるし、文書の性質からも不適当ではないかと思う。『神授権による主教制』は、主としてスコットランドに向けて書かれたものだからである。この形容辞は『謙虚なる抗議』にこそ適切であろう。また、ミルトンは、三月末に出たスメクティムニューアスのものも知っていたことになる。二月の「根絶請願」の審議に続いて、三月には、スコットランドとの和平交渉が注目されていた。四月二四日に出た「オックスフォード請願」に言及できたのであれば、同じ日に、ストラフォードの処刑を求めて出された「ロンドン市民の請願」も知らなかったはずがない。
以上を総合して考え併せるなら、ミルトンは、一月中にこの教会規律の改革論の前半部分をほぼ書き終えていた。また、すでにホールの『謙虚なる抗議』を読んでいた。さらに、主教制の廃止をめぐる問題が議会で審議され始めると、これの事態の推移を見守っていたと思われる。この間にスメクティムニューアスの反論が出たので、これも読んでいた。その上で、「オックスフォード請願」がこれに反論し、同時に、ストラフォードの裁判が大詰めを迎えるちょうどその頃に、この教会規律の改革論への加筆を済ませて、これを印刷屋に出した。この文書が出たのは、ストラフォードの処刑に向けて事態が急激に動き出し、ついに彼の処刑が終わった後のことである。したがって、この文書の本体部分が書かれた時点では、教会改革に関する事態はまだ急激な展開を見せてはいなかった。ミルトンは、この宗教論を書いた後で、主教制廃止に関する論議の高まりを見て書き足りなさを感じたのであろうか、宗教論の出版の後、『高位聖職者による主教制』を書き始め、さらに、スメクティムニューアスに対するホールの『謙虚なる抗議への弁明』が出るのを見て、これに対する反論として『弁明批判』を手がけた。このような推定に立つとき、ミルトンが一連の教会改革論を執筆した過程が浮かび上がってくる。
ミルトンの教会改革論を本格的に論じるのが筆者の目的ではない。だからここでは、これらの文書の特徴とこれらがどのような情勢の中で出版されたかを確認するに止めたいと思う。ミルトンの文書は、例えばホールのものと比較してみると、独特のスタイルで、しかも晦渋である。それは分析的でもなく、一貫した論旨に沿っているのでもない。レトリックを用いてイメージや隠喩的な表現を積み重ねることで、物事の奥に潜む真相を読者に洞察させようとするスタイルである。この意味で、彼の散文は、本質的に詩的な要素を帯びていると言える。
この文書には、いわゆる名指しの個人攻撃は見当たらないようである。しかし、私たちは、この文書のそこかしこに、これが書かれた当時の状況と、これに向けられたミルトンの洞察を読み取ることができる。例えば、王の主権と臣民の自由との狭間にあって、最近の主教たちの発言が、「先祖の代からの耐えざる内戦」[Yale CP 593]へ向かうのろしをあげる行為であるというくだりなどは、彼が、すでに内戦を予感していたのではないかと思わせる。また、古代教父からチャールズにいたるまでの主教制の弊害をたどったり、安息日を重視したりしていることなど、教会史に詳しかったヤングの影響を思わせる節もある。「忌むべき呪われた兄弟同士の戦争、性質においてもキリストにおいても親愛この上ない兄弟のイングランドとスコットランドとが、互いの血の中を渡り合わなければならない」とあるのは、「主教戦争」に言及したものであり、「我々両方の背後にあって、時宜に応じて奉仕してくれるお隣の自由アイルランド」[Yale CP 596]は、ストラフォード弾劾の理由とされているアイルランドとイングランドとの関係を意識した言い方であるのが分かる。
宗教の改革論で、ミルトンは、全体として長老制を支持していている。この意味で、彼の論旨は、スメクティムニューアスのそれに沿っていると言えよう。「わが国よりもさらに厳しい君主制の下にあるフランスでも、この国の教会行政の下にいるプロテスタントたちは、いかなる王の下にあるよりも最良の臣民たちである。しかも、こう呼んでよければ、この『長老制』は、そこでは思うとおりのことを行なっている」[Yale CP 610]。事実としてこのようなことが言えたのかどうかはともかく、ここにはミルトンの「長老制」に寄せる思いがよく表われている。注意してほしいのは、ここでミルトンが、君主制と長老制を並列あるいは両立させて考えているが、この発想も、スメクティムニューアスと軌を一にしている。
しかし、ミルトンとスメクティムニューアスとでは、一つ重要な違いがある。それは、国家(国民)宗教に関する両者の考え方の違いである。ミルトンは言う、「これらすべてを総合すると、コンスタンティヌス帝が、教会に対していかに益となる業を行なったかなどと論じ立てるのは納得が行かない。何らかの益があったにせよ、それはむしろ、おそらく知らずにではあろうが、キリスト教世界に害を及ぼす道への扉を開いたのである」[Yale CP 560]。ここでミルトンが主張しているのは、イングランド国教会に代わりえる長老制のことではない。そうではなく、彼は、そもそも教会が国家権力と手を結ぶことそれ自体が、教会の堕落と腐敗に繋がると見ているのである。ヒルが指摘するとおり、ミルトンはここで、公式のイングランド・プロテスタントの伝統に反して、コンスタンティヌス帝時代を教会の堕落の始まりととらえる最も急進的なグループに属している[Hill(3) 84]。すでにミルトンは、彼の教会改革文書の出発点において、国家と教会との分離を前提に考えている。あのプリンでさえ、彼なりの「国民教会」の理念から最後まで離れることができなかったことを思えば、一六四一年のこの段階で、ミルトンの教会観は「最も急進的な」思想に属すると見ることができる。
ただし、ミルトンにとって、教会と国家との分離は、必ずしも、両者の対立ないしは抗争を意味しない。ミルトンに言わせると、王と国民を離反させたのはむしろ主教制のほうである。ロードの教会法こそ「国王とその領民との結婚である神聖な契約による一体化の最も聖なる命の血とも言うべき議会の基本法、規定、法令をことごとく踏みにじって」「臣民の身柄と財産と自由を奪ってきた」[Yale CP 593-94]のである。ミルトンは、国民を苦しめるのは、かつてそうであったような王権ではなく、今や高位聖職者どもの主教制であり、主教たちこそ、王権を侵害して世俗の行政に首を突っ込んできていると言う。彼はこの文書の最後まで、王権に対してではなく主教制に向かってその非を鳴らし続ける。したがって、ミルトンにあっては、教会と国家との分離の原則が、国王と臣民との「一体化した結婚」と矛盾することなく両立している。
やや矛盾するとも思えるミルトンのこのような国家と宗教との完全な分離は、同時代の人たちの教会行政論から学んだものではないであろう。ミルトンは、この文書を「キリスト教的訓育を受けた者なら誰でも思いをいたすべき深く引きこもった思索の内にあって、私たちの間で成された神とその奇跡的な道とみ業とを思い、かつ神に対して成されるべき我々の宗教と礼拝とを思うときに、肉において弱さの最底辺まで苦しまれ、肉体と共に霊においてそこから栄光の最高点へと勝利された我らの救い主キリストの物語にちなんで、我々もその王国の啓示に与り霊肉ともにかれと一つにされるのを思うときに・・・・・」という祈りとも叙述ともつかない長い文章で始めている。この書き出しは、彼が、この文書を手がけるまで、「深く引きこもった思索」の内にあったことをうかがわせる。巷で議論されるさまざまな教会論などに左右されず、自らの内面に入り込んでキリストの十字架と復活とを自分の生きている時代と重ね合わせようとしているミルトンの姿がここに見えてくる。
したがって、彼の教会と国家との分離論は、政治的な経験に基づいて、現在私たちが到達している宗教と国家に対する成熟した反省から生まれたものではない。それは、彼自身の内省的な思索から生まれたものであり、その根底には、霊肉の二領域にわたる彼のプラトニズムが働いているように私には思われる。「君主国とは、臣民の自由と王の主権の二つから成り立っていることを我々は知っている」[Yale UP 592]という彼の国家観には、キリスト教化したプラトンの共和国が重ねられている。それは何よりも霊的に聖くなければならない。したがって、ミルトンにあっては、現状をどのように改革すれば、事態がうまく治まるかという現実的で政治的な配慮よりも、理想の教会とは何かという理念のほうが先立つことになる。この点で、ある意味で極めて戦術的なスメクティムニューアスの文書とは本質的に異なっている。
彼の主教制攻撃は、スメクティムニューアスのそれのように、神学的、政治的、歴史的な視点からと言うよりは、むしろ、道徳的で倫理的な視点からのものが多い。「信仰は、天の神秘へ至るための案内役あるいは解釈者として、弱く誤りやすい感覚の働きを必要としない」のである。イングランド国教会は、「官能の偶像礼拝という新奇な異教主義のヘドにまみれて、純粋よりも不純さを自由裁量の分野に帰して、御霊の内面的な働きを外面的で因習的な肉体の目による礼拝とした。まるで、自分たちが天的で霊的になれないから、神を地上的で肉的なものにすることができるかのように」[Yale CP 520]。ロードの教会法に向けたこの批判は、まるで『コウマス』の乙女が妖術師に向けた非難を思わせる。主教たちの罪の最たるものは、世俗の行政に介入すると同時に、その貪欲、肉欲、金銭欲なのである。
ミルトンは、自分の思い描く教会と国家との関係について何ら疑問を抱いていないようである。長老制がイングランドの慣習法に抵触するという議会での批判に対して彼は答える、「わが国の創始者は、慣習法でも世俗法でもなく、敬虔と正義の女神たちである。彼女たちは、貴族制にも民主制にも君主制にも、膝を屈したり色を変えたりはしない。それでいて、それぞれの〔制度の〕道筋を妨げることをせず、より劣ったこれらの細々した〔諸制度に〕などよりはるか上にいて、これらに共感を示し、また彼女たちは、それらと出合うところで互いに口づけをするのである」[Yale CP 606]。
このように、ミルトンは、時代の最も急進的な教会論のグループに属しながら、その教会論は、神学的であるよりは哲学的であり、実践的であるよりは瞑想的であり、その改革の眼目も、制度的であるよりは倫理的である。しかし、国家制度から完全に分離した教会が、その信仰において純粋に内面化する、すなわち、「個人化」した場合に、そこにどのような問題が生じるかについての洞察はまだなされていない。これは、ミルトンの教会論の「弱点」であるかのように見えるかもしれない。しかし、まさにその故にこそ、彼の教会論が、さまざまな諸制度にとらわれることなく、「敬虔」と「正義」とをはるか後の時代にまで問いかけることができたのを忘れてはならないだろう。
ミルトンとその思想