5章)1641年:ホールとスメクティムニューアスとミルトン
■ホールの『謙虚なる抗議』
 一六四一年の一月の最後の週に、一つの小冊子がある主教から出された。エクセターの主教ジョセフ・ホールの『議会の高等法廷に宛てた謙虚なる抗議』である。彼はこれを、アッシャー大主教の勧めによって書いた[Huntley 119]。大きな文字で印刷されいるわずか四三頁のこの冊子は、三月下旬にスメクティムニューアス(仮名)の反論を招き、五月にこれに対するホールの弁明を促し、七月にはミルトンをして『弁明批判』書かせる契機となり、さらにこれに対する論駁を呼び、ついにミルトン自身が『弁明』を出すきっかけとなった。
 ホールは、風刺家として広く知られていて、この意味で、スウィフトの先達であると言えよう。しかし、『謙虚なる抗議』には、彼の得意な風刺スタイルは見られない。その代わり、ここでホールは、彼の得意なもう一つの「書簡」スタイルを用いている。「書簡」は「手紙」ではない。新約聖書のパウロの手紙のように、諸教会の間で回覧され、礼拝の場で朗読するためのものである。四六版くらいの大きさで、大きな活字で四三頁というのは、おそらくこれを議会や法廷で朗読してもらうことを意図していたのであろう。実際にこれが法廷で朗読されたかどうかは分からないが。聖書の書簡は、物語として、事柄を「語る」スタイルではなく、教えたり、励ましたり、場合によっては叱責したりするための、いわゆる「勧め」のスタイルである。
 『謙虚なる抗議』にも、このような「呼びかけ」が現われている。しかし、『謙虚なる抗議』の呼びかけは、新約聖書の書簡スタイルとも異なっている。ホールは、ここで、聖書以後の、初代教父の護教と弁明のスタイルのほうを意識している。教父たちの護教のスタイルは、主として二つの目的をもって用いられた。一つは、異教世界にキリスト教の正しいことを示し、同時にキリスト教に対する誤解を解くためである。もう一つの重要な目的は、キリスト教の内部に起こった「異端」に対する反論ないしは弾劾である。この文書は、上院議員たちに呼びかけると同時に、「(激しく怒る悪霊が)快く思わぬ者たちの口を通してこの聖なる制度を傷つけようとやっきになっている」まさにこの時期に、「イングランド国教会の制度は、(改革的な神学者全員の一致した告白によれば)祝福された使徒時代より生じたもので、途絶えることなく(キリスト教世界において会衆による一つの反対もなしに)現在にいたるまで続いている」(七頁)ことを証ししようとするのである。
 ホールは、先ず、現在のイングランド国教会を病気に冒された人体にたとえて、これの原因を除去することが緊急の課題であると述べてから、「王国全体において、正統派のほうは(賞賛すべき忍耐をもって)静かに沈黙し、自分たちの正しさと無実を確信しているのに対して、いかに多くの激しく怒る悪質な霊どもが、至る所で醜聞を流して誹謗し、ひどい中傷を行なっていることか」と指摘している。
 その上で彼は、イングランド国教会を、その典礼と制度の二つの側面から擁護する。典礼と『祈祷書』については、「〔イングランド国教会の典礼は〕近ごろ他の言語にも訳され外国の神学者や諸教会の大きな賞賛を拍し国外で受け入れられている」(一〇頁)と始めて、これを中傷・誹謗する者たちに向かって、「福音的な教会は、それ以来、教会の平和と幸福を進めるためには、祈祷と感謝の信仰的な型をつくる方がよいと考えてきた。それらはわたしたちに伝えられている。だから、あなたがたは、忍耐してこう考えられないのか。立派なキリスト教徒なら、彼の心で祈るとおりに祈祷書にも書いてあるからといって、よい祈祷を非難するほど血気にはやるだろうかと。善良なキリスト教徒が、個人で礼拝する場合、時によっては公の場合でさえ、自分の思う祈りを用いるのをわたしが妨げるなどトンでもないことである。み霊に水をかけるようなやましいことをわたしはしたくない。むしろ喜んで油を注ごう。然り、魂のありったけを自由に注ぎ出してその聖なる思いに麗しい表現を与え全能者の胸に注ぎ込むがよい」(一一〜一二頁)と諭している。もっとも、六七歳になろうとする老主教が、「白髪の前では起立せよと自然それ自体が教えてくれている。老年に具わる重々しい外貌こそわたしたちに秘かな尊敬を起こさせる。そして、これら物事の変更にはたやすく応じてはならないというのが正しい方策の教えることである。長い慣習と数多くの法律により必要あるいは有益なものとして確立されているのだから」(一八〜一九頁)と諭すときに、はたして若い世代の人たちが、この言葉をすんなりと受け止めてくれるかどうか。
 もう一つは、イングランド国教会の制度に関する問題についてである。ホールの論点は、「先の件〔国王の主権を侵害するという非難〕については、もしも思慮深く考察していただけたなら、反論するまでもないことであった。この件、すなわち神の承認と国王の承認との件についてはなんら矛盾などないのである。どちらにも固有の目的と権限とがある。職能は神から、これを行使する地区と所在地と権力とは国王からである。主教管区を与えるのは国王であり、主教を立てるのは神である」(二六〜二七頁)という主張にすべてが言い尽くされている。要するにここでは、教会の行政に対する関与が、世俗に対する介入(それは王権の範囲に属する)とならないのかどうかが、問題の焦点なのである。
 先に述べたように、この文書は、書簡体と護教スタイルとを融合させているから、全体として比較的穏やかで、激しさは感じられない。次々と「誹謗中傷の文書」が出回る中では、ホールの小冊子は、あまりにも小さく無力であるという印象を与えるかもしれない。しかし、ホールが、一六四一年の一月というこの時期に、この文書を議会に書き送ったことの意味は決して小さくない。一つには、この年に入って、主教制打倒を唱える多くの請願が提出されていることと関連している。主教制の打倒は、以前から論じられていたことであったから、そのこと自体は、ホールにとって別に新しいことではない。しかし、現在の情勢は、これまでとは少し違うのである。これまでは、国教会を廃止するという大問題が、論としては出ていても、それが現実に起こると予測する者は、いたとしてもごく少数にすぎなかった。しかし、この年に入ってから、この問題が、一部の過激分子が論じ立てるだけではなく、それが議会の正式な議題として取りあげられる形勢になってきたのである。これまでは、国教会問題は、主として『祈祷書』と典礼に関する問題であった。しかし、この段階になって、国教会問題は、これの制度それ自体にも及び始めたのである。主教側は、国教会の廃止というとんでもない事件が、場合によってはありえる、少なくともそういう可能性について、公式の場で論じられるということが、起こりえる事態が出てきたことを敏感に感じ取った。ホールが、この書を「抗議の書」と題しているのは、まさにこのような意図からである。「出版界は近頃、中傷的な言葉ばかりを語っていると世間に思われないためにも、この真実の書が産声をあげた」というこの文書の書き出しには、主教制の廃止が現実に起こりえる可能性を前にした老主教の思いが込められていると見ていい。この文書が出たわずか一週間後に、「根絶請願」が、下院で正式に論議されることになるのを、彼は知っていたのだろうか。
 この文書の持つもう一つの意味は、今述べたことと表裏を成している。一月のこの時期では、主教制の廃止は、まだ可能性として議会で論じられる段階にすぎない。したがって、これの廃止が、まさか現実のことになるとは、ホールを始め大部分の人たちも思っていないのである。なるほど都市においては、『祈祷書』を非難する者たち、またこれの廃止を望む者たちが、多かったのは事実である。しかし、議会の議員たちをも含めて、「人々全体としては、決してそのようなことを目的としていたのではなかった。・・・・・昔から親しんできた『祈祷書』の言葉を愛している人たちは幾千人もいたし、それの格調高い調べは、彼らの精神生活の支えとなっていたからである」[Gardiner(1)274]。先に私が、主教制の存続について、やや仮定的なことを示唆したのもこの視点からである。ホールは、この文書において、まさにこの点を洞察している。彼は、「(賞賛すべき忍耐を持つ)物言わぬ静かな正統派」の人々に宛ててもこの文書を宛てているのである。今ならまだ間に合う。こう彼は議員を始め人々に訴えている。この意味で、『謙虚なる抗議』が議会に提出されたのは、イングランド国教会の歴史的な時期を指し示す一つの指標であったと言えよう。
■スメクティムニューアス 『謙虚なる抗議への答弁
   三月二〇日 [Yale CP 653]に、『謙虚なる抗議への答弁』と題する冊子が、「スメクティムニューアス」の名の下に出された。これは先に出されたホールの『謙虚なる抗議』に対する長老派側からの批判の書である。この文書は、この時期、すでに注目を集めただけではなく、一六四六年にソルトマーシが、一六五〇年にはレストレインジがこの文書に言及しており、一六六〇年にはトマス・マントンによって再版されている[Yale CP 1001ー2]。ソルトマーシは、その『数滴の怒り薬』のタイトル頁で、五名の著者の名を明かしている。「スメクティムニューアス」とは、スティーヴン・マーシャル、エドマンド・カラミー、トマス・ヤング、マーシュー・ニューコゥメン、ウィリアム・スパーストウの五名である。ただし、彼らがこのような偽名を用いたのは、わざわざ五名もの名前を出すのが異例であるという配慮から出たもので、それ以外に特別の思惑はなかったと思われる。ヤングを除く四名はケンブリッジ出身であるが、全員が長老派の牧師である。イェール版によれば[Yale CP 1003-8]、五名の略歴は次の通りである。
  マーシャル(一五九四年?)は、この時すでに著名な説教者であり、「長期議会」では、「自由意志」を否定する説教によって議会に感銘を与えた。彼は「聖職者の請願」にも重要な役割を果たし、また、三月のこの時期に、上院の委員会に招かれて、アッシャー大主教から教会行政について意見を求められている。非国教徒としての信念を堅持しつつも、外面において過激に走ることがなく、しかも、政治性をもそなえた人物で、ピューリタンの富裕層に大きな支配力を持っていた。彼は、「根絶請願」を下院に持ち込む政策を推進した重要な人物である。一六四一年の九月に、下院で説教した際には、星室庁と高等宗務裁判所とを廃止に追い込み、三年毎の定例議会の導入に成功したこと、スコットランドとの友好関係を回復したことなどを神に感謝している。
 カラミー(一六〇〇年生まれ)も、ロードの政策に対する強硬な批判者として知られていた。だが、国教会には穏健な態度を維持していたようである。家族はユグノーの系統であって、彼は、アルミニウス主義のゆえに母校ケンブリッジのペン・ブロックのフェロウを拒否されている。サフォーク州のセイント・エドマンド校の講師の地位をレン主教の条例によって追われて、ロンドンでセイント・メアリー教会の牧師補となり、その説教によって人々に知られていた。三月のこの時期に、彼はマーシャルと共に上院の委員会に加わっていた。そこでは、ホールもメンバーの一人であったから、彼らは互いに顔見知りであったと思われる。彼は「自由意志」や「自由な恩寵」を主張したが、穏健でリベラルなカルヴィニストと見られていた。
 ヤング(一五八七年生まれ)は、最年長で、ミルトンの家庭教師として知られている。五名のうち彼だけがスコットランドのセイント・アンドリューズ大学の出身である。ミルトンの家庭教師となった後に、ハンブルクで商人たちの付属牧師を勤めている。三月のこの時期に、セイント・ピーターとセイント・メアリーの両教会の教区代理司祭の職を得ていて、生涯この職に留まった。彼は厳格な長老派で、安息日の厳守を重視し、これに関する文書を著わしている。また、古代教父たちに関する学識で知られ、この意味で、ホールの文書への論駁の大部分は彼が書いたのではないかと言われている。
  以上の三名は、すでに著名であったのに対して、ニューコゥメンとスパーストウは、「長期議会」の開催以後にその存在が知られるようになった。非国教徒が公然と活躍を始めた一六四一年になってからである。最若年のニューコゥメン(一六一〇年生まれ)は、コルチェスターで講師の仕事をしていた。彼は、議会で、ロード、「パピスト」、アルミニウス主義を激しく非難し、その悪影響が主権者たる国王にまで及んでいると説教している。彼を含めて、スメクティムニューアス全員が、一六四三年に開かれたウェストミンスター会議の会員となったが、彼はそこで説教し、反パピスト、反アルミニウス主義、反バプティストを唱え、かつプロテスタント信仰の確立のために、長老制において一致するよう呼びかけている。スパーストウ(一六〇五年生まれ)は、ケンブリッジを出た後で、ハンプデンの教区牧師となり、さらにエセックス伯爵のハンプデン連隊付き牧師となった。内戦中には、チャールズとの交渉の委員の一人であった。後に、チャールズの処刑を深く嘆いたという。彼は、チャールズ二世の付属牧師となっているが、王政復古後は、長老派を締め出す「統一令」(一六六二年)への署名を拒否して職を追われている。
  私たちは、先ず、スメクティムニューアスがこの文書を出したタイミングに注目しなければならない。この文書は、ホールの『謙虚なる抗議』に対抗しようとしているのは明らかであるから、『謙虚なる抗議への答弁』も、議会高等宗務法廷へ提出されたものであろう。私たちは、この時期のあらゆる宗教活動は、同時に政治的意味を帯びており、同様に、あらゆる政治・軍事的な政策や決定も、そこには何らかの宗教的な意図が潜んでいることを忘れてはならない。ホールの『謙虚なる抗議』は、主教制廃止が、議会の議題として採り上げられる直前に提出された。これに対して、スメクティムニューアスの文書は、議会でこれが論じられている最中に、主教制の廃止を訴えているのである。彼らの主張は、次の四点に要約することができよう。
  第一は、イングランド国教会の体質についてである。 「第一に(見過ごしにできないのは)、二つの制度に対する彼〔ホール〕の区別である。すなわち、わたしたちの(現在の)君主制である政治制度と、彼の主教制である教会制度との二つである。前者について彼は言う『古き慣習を規範とするならば(いかにも主教制を弁護するようだ)、あるいは聖書(自分で解釈した通りの)に従うならば、それは変化しうるし恣意的である。これに対して後者は、神聖であり変わることがないものである』と。だから、彼の判断によれば、人々が君主制の変革を求めるならば、聖書と古き慣習に照らしてみて、聖職位階制の変革を求めるよりも罪が軽いわけだ。もしもこんな言葉を彼の言う『ふらちな中傷者ども』(いつも彼らのことをこのように穏やかに呼んでくださるので)が書いたとしたら、彼の言葉を借りるなら『この問題に関係する三つの王国、然り、近隣のすべての諸教会、さらには、こう言ってよければ、キリスト教国全体、さらには、これ以上の少なからぬ国々』に向かって、『反逆だ。反逆にほかならない』とのわめきが、耳をつぶさんばかりに鳴り響いたことだろう」(スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』四頁)。
  ここで、スメクティムニューアスは、ホールの「古き慣習を規範とするならば」という一句に注目している。「古き慣習」(アンティークィティ)とは、具体的には、ノルマンの征服(一〇六六年)以前のサクソン時代のイングランドの教会のあり方を伝える文献類を指している。したがって、この言葉は、一般には「古文献」あるいは「古文書」と訳される。イングランド国教会は、その伝統の拠り所を直接的にはこの時代に求めていた。例えば、マーシュー・パーカーは、一五五九年にエリザベス女王によってカンタベリの大主教に任ぜられると、イングランドの修道院に残っていたサクソン時代の文献を累纂し始めた。それは「現在のイングランド国教会の宗教が、なんら新しい改革ではなく、むしろ、この古い制度に教会を立ち帰らせる」ためであった。しかしながら、古文献によってイングランドの教会統一を確立しようとしたパーカーの穏健な路線は、より徹底した改革を求めるピューリタンとの間に亀裂を深めることになったのは周知のとおりである。
  ただし、ホールは、イングランド国教会の起源を、サクソン時代のイングランド教会だけではなく、それよりはるか以前の使徒時代にまでさかのぼって、国教会を権威づけようとしている。このような、イングランド国教会の教会観は、使徒ペトロに起源を有すると主張するローマ・カトリックに対抗する意図を秘めているのは明らかである。古代イングランドの伝統を使徒時代にさかのぼらせることによって、カトリックに代わり得る「普遍性」を有する唯一のプロテスタント教会として、イングランド国教会を位置づけようとするのがホールの立場だからである。この意味で、イングランド国教会は、「ローマ・カトリックのイングランド版である」と言えよう。スメクティムニューアスが、「古き慣習を規範とするならば」というホールの一句に対して、「いかにも主教制を弁護するようだ」とわざわざ注を加えているのは、国教会のこのような体質を突いているのである。
  スメクティムニューアスは、国教会のこのような「普遍性」を揶揄して、さらに次のように言う。 「第一に(彼は言う)聖職位階制は一五〇〇年間続いてきた。それゆえ変えるべきではないと。これはヒエロニムスが別のことで言う『兜をかぶった論証』と言ってもよいほどだ。主教制の子午線を計る論証を、世界中の宗教に当てはめようとする。そういう論法なら、ユダヤ人たちだって、何百年以上も続いた古き慣習だとキリストに反論できたろう。」
  国教会のこのような体質は、その聖書解釈にもはっきりと現われている。教会の権威が、「使徒時代に起源を有する古代の伝統」に基づくものとされている以上、その教会は、必ずしも聖書を唯一の基準とする必要がない。聖書は、どれほど重要ではあっても、それは、教会の伝統の中に吸収されるから、イングランド国教会では、例えば、カルヴァンの神学におけるような絶対的な聖書的権威を必ずしも必要とはしないのである。したがって、イングランド国教会にあっては、「聖書解釈」は、イングランド国教会の伝統に根ざした視点から行なわれなければならず、この意味で、神学的な聖書主義は、絶対的な意味を持たないのである。「聖書(自分で解釈した通りの)に従うならば」というスメクティムニューアスの皮肉は、国教会のこのような「弱点?」を鋭く突いている挿入である。
  ついでに、英国聖公会が中心になって出した最新の英訳聖書(REB)は、たとえば、アメリカで広く用いられている新改訳聖書(NRSV)に比較すると、あまりに「恣意的である」と批判されているようである。文献批評に基づくドイツ聖書学の流れを汲む学者からもこのような批判が出ている。こういう批判は、英国の聖書解釈の伝統を、大陸やアメリカのそれと同一視するところから来る「誤解」であろう。国教会のこのような体質を鋭く洞察しながら、スメクティムニューアスは、次に、国教会の最も「敏感な」部分に触れている。それは、王権と教会の権威との関係である。「君主制である政治制度と、〔ホールの〕主教制である教会制度」とを対照させた上で、スメクティムニューアスは、国教会が、変化することのない普遍の伝統に基づくのであれば、主教制の廃止を唱えるよりも王制の転覆をねらうほうが罪が軽くなるだろうと皮肉る。これは、イングランド国教会の最も触れられたくない部分を意図的にえぐり出してみせるスメクティムニューアスの戦術にほかならない。
 断わっておくが、チャールズの時代の国教会が、それまでと比較して王室との対立を強めていたのではない。逆に、チャールズと国教会は、この時期、かつてなかったほどに一体化していたと見ることができる。チャールズが、上院での主教の地位を擁護しようと最後まで抵抗したのが、両者の関係をよく現わしている。ちなみに、チャールズは、ホールの『謙虚なる抗議』を愛読していたと言う。こういう事実を踏まえながら、一体化した両者の間に楔を打ち込むことによって、君主制度と教会制度とを意図的に対立させて見せようというのが、スメクティムニューアスのねらいであり、その上で、国家の側に立ちながら、教会制度を敵視するというのが、ここでのスメクティムニューアスの戦略である。すなわち、スメクティムニューアスは、国王を擁護するかに見せかけることでチャールズの干渉を排除しつつ、しかも主教制の廃止を訴えるという巧妙な手法を用いているのが分かる。こうして、先ず主教制を排除しておいて、次の段階で、スメクティムニューアスは、今度は、「国王の権威」を「議会の権威」へと移し替えるのである。
  スメクティムニューアスの論点の二番目は、国教会の「法王主義」についてである。イングランド国教会が、ローマ・カトリックの教会理念を継承していることは、先に指摘した。したがって、国教会が「法王的である」ことを人々に納得させるのは、それほど難しくはない。スメクティムニューアスは、ここで「法王の言葉」を引用する。 「主教たちに神授権を認めることを宣言してほしいと頼んだところ、法王はこう答えた『貴王国は、自分の要請の意味が分かっていない。もしも主教たちにそのような宣言をしたら、彼らは国王の権力からも除外されて法王自身のように自立するだろう』と」(スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』四頁)。この引用は、一見すると、主教制が「カトリック的である」ことを、法王自身が証ししているかのように聞こえるかもしれない。スメクティムニューアスが、これを引用したねらいも、まさに「このような効果」をねらったからである。しかし、法王からのこの引用は、それ以上のことを含んでいるのに気がつく。すなわち、イングランド国教会に、主教制の神授権を認めるなら、彼らは、ローマ・カトリックと拮抗する「普遍性」を獲得するだろうというのが、ここでの法王の言葉の真意であろう。大陸の多くのプロテスタント諸派は、法王主義に「抗議する」教派にすぎない。ところが、イングランド国教会はそうではないのである。それは、イングランドの王権と協調関係を保ちつつ、使徒的伝承から古アングロ・サクソン教会の伝統を経て現在に至る普遍性を主張することによって、ローマ(及びこれと結託する国家権力)に取って代わろうとするの制度なのである。
  スメクティムニューアスが、イングランド国教会のこの正体に気づいていないはずはない。しかし、彼らは、大陸から導入した聖書主義とこれに基づく国家契約思想を、「法王的なイングランド国教会」と意図的に対照させようとする。こうすることで、自分たちの提唱する長老制が、伝統的なイングランドの民族教会と衝突するのを避けようとする。なぜなら、この対立の図式こそ、ホールが、『謙虚なる抗議』で明らかにしようと意図したことだからである。先に出されたチェシャー州の請願にもられていたように、「大陸の新規な」長老制とイングランドの民族的な教会制度とを対立させてとらえることは、スメクティムニューアスの最も恐れる論点だからである。したがって、スメクティムニューアスは、イングランド国教会に、「法王主義」のレッテルを貼り付けることに終始する。以下の引用も、主教制がいかに「法王的」かを説得しようとする戦術の一つである。「『イングランド国教会の礼拝は、たとえ法王が来てこれを見たとしても、英語でさえなければ自分のものだと認めるほどうまくできている』と。これでは、『典礼が外国の言語に訳されている』と言っても、お手前の名分はあまり成り立たないし、イングランド国教会にも同じくあまり役立たない。なぜなら、お手前たちイングランド国教会は、わが国の祈祷をまたもやラテン語[ローマ・カトリック流]で唱えるよう教えるのだから。法王の認可を妨げているのが典礼の言語[英語]なら、それを取り除くがよかろう。そうすれば法王が、これぞわがものと言うのになんの妨げがあろう」(スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』五〜六頁)。
  スメクティムニューアスは、イングランドの主教制がローマに対して「似ていることによって根本的に対立する」その二重性を見抜いている。だから、彼らは、国教会のローマに対するこの関係を逆に利用して、そこに内包された「危うさ」を、次のようにえぐり出してみせることができたのである。「第一に彼は、議員方にこう言う、『これは(ローマではなくキリスト教の)古代の模範から選択されたもので、聖なる殉教者たちと幸いなる宗教改革の告白者たちとにより考えだされたものである』と。議員方よ、わたしたちがどこまでこの種の人たちを信用できるかお考えいただきたい。彼らは、ローマ教会について言ったり書いたりする際に、時によってはこれは真の教会だと言うし、それでいてここでは、ローマとキリスト教徒を対立させるのだ。彼らは、時によって、典礼は多少の変更を加えたが全くローマのミサから採り入れたと言うし、しかもここで、ローマ的なものはなにもないと議員方を説得しようとする」(スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』一一一頁)。
  第三に、スメクティムニューアスが、攻撃するのは、礼拝の制度と個人の信仰に関する問題である。「このことに関して、もし抗議者の言う典礼が、教会の集会で守られる式順、すなわち聖書朗読、聖書講釈、聖餐の授与などであれば、このような典礼は、わたしたちも知っており、ユダヤ教徒もキリスト教徒も用いてきたのを認めよう。しかし、もし彼の理解する典礼が、規定され型にはまった内容として、教会の特定の人々によってつくられ、ほかのすべての人に課せられる(と彼は理解しているに違いない。さもなければ彼の言うことは無意味である)のであれば、わたしたちは、むしろ、抗議者が、『今なお現存しており、いつでも取り出せる』と言っている形式が再び現われてくる方を希望する。前者のような典礼ならば、殉教者ユスティノスとテルトゥリアヌスにも見いだされる。しかし、それらが抗議者が論じ立てるような型にはまった典礼ではなかったのは、テルトゥリアヌスの『弁証論』三〇章にでている。彼は言う。当時のキリスト教徒は、公の集会において自分たちの心以外にいかなる指示者もいなかったと。[中略]主の祈りで求めるのと同じことを祈る場合も自由であり、時にはある仕方で、また時には別の仕方であった。しかも、それ以前でも、あの有名な殉教者ユスティノスの『第二弁証論』では、『人々を導いた者も、彼の能力に応じて祈った』とある。アリウス派とペラギウス派が教会に侵入するときまでは、この祈りの自由は取り去られることなく決まった型を課す方法が取り入れられることもなかった」(スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』六〜七頁)。
  注意してほしいのは、スメクティムニューアスは、ここで、「主教制の下での制度」を否定しているのであって、主教制それ自体を必ずしも廃止しようと主張してはいないことである。これは、スメクティムニューアスにとって、大事な伏線で、この点で、スメクティムニューアスは、ミルトンと違うのである。スメクティムニューアスは、このように、主教制とこれが生み出した『祈祷書』が信者一人一人の自由を束縛するものであると断じてから、次のように言う。 「だが、どうやら抗議者殿は、これらの時代を超えて使徒時代の高さにまで昇ろうとしているようだ。彼は言う『もしもわたしたちの主教が、テモテやテトス、そしてアジアの七つの教会のみ使いたちに使徒的な権威により委任され要請された以上のなんらかの霊的権限を主張しているのなら、彼らは簒奪者として弾劾されるべきである』と。だが真実はこうだ。もしも彼らが、使徒がテモテやテトスに委任したのと同じ権限を主張するなら、彼らは弾劾に値する。なぜなら、テモテやテトスは、福音を伝える者であった。だから主教や長老以上の権限で動いたのだ」(スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』四八頁)。「彼は、わたしたちが言っているのを聞くと言うが、聖書の真理をわたしたちは示しているのだ。(中略)『わが国の主教が主張する聖職按手と裁治権の優越した権力』は、今や神の助けにより〔すなわち聖書に基づいて〕、初代には知られていなかったことが証明された。」
  ここで、再び、国教会の聖書解釈の問題が、採り上げられる。すなわち、ホールは、主教の地位を聖書にあるテモテやテトスと同じ地位に置くことによって、聖書と国教会とを同列に見ているのに対して、スメクティムニューアスは、聖書をば主教制の上位に置くことによって、主教制の権威を破棄しようとするのである。国教会では、典礼は、信者にとって聖書と同列(あるいはそれ以上の)意味を持つことになる。次のスメクティムニューアスの引用は、この点を突いている。 「(典礼)があまりに偶像化されていて、英国では礼拝される唯一の神と見なされており、今や説教なしでお勤めを行なわせているほどである。また、あまりに高く祭り上げられているので『人も天使も手を出せず、祈祷書を読むだけで十分に教役者のお勤めを果たしたことになる』と言って恥じない者さえいる」(スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』一二頁)。
  以上の論点を踏まえた上で、スメクティムニューアスは、自分たちの、最後の、しかし、ある意味で彼らにとっては最も重要な論点、すなわち、長老制の正当性に移るのである。スメクティムニューアスは、先ず、国教会対分離派という図式を相対化することから始める。 「博学な神学者であれ立派に改革された諸教会であれ(というのは主教制に反対して書いた人たちにはこの両方がいるのを、良心によってご存じだから)だれが言っても書いても、それらは『弱い人たちか党派的な人々の不当な野次』にすぎないときめつるのだ。確かに、この男は、自分が学問を独占していて、あらゆる知識が、知識ばかりか敬虔も平和心までもが、自分一人の胸中にしまってあるとでも思っているようだ。だから、彼と同意見でない者は、ご判定によれば弱い者か党派的な者にされてしまう。(中略)だが、議員がたよ、どうかその思慮深い敬虔なご配慮を賜りたい。主教制の不当な抑圧を正当にも非難した者には、だれでも『党派的』という忌むべき名を押しつけるのが彼らの変わらぬやり方であったことを」(スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』四〜五頁)。
  このように国教会側の「正統と異端」「主流と分派」という論理の枠をはずした上で、スメクティムニューアスは、次のようにその論点を主張する。 「さて次に注目すべきは、彼の行なっている比較、すなわち、わが国の隣の教会[スコットランド]に主教制の党派によって企てられた最近の『変革』と、権利の請願者たちによって名誉ある議会に正当に申請された変革との比較である。一方は、見知らぬ人たちが、確立された教会と国家の上に『新制度』を乱暴にも押しつけようと企てたことであり、他方は、『新制度』好きの党派[イングランド国教会]によってほとんど滅びかけている制度に、大衆が、わが国の王侯に穏やかに請願したものである」(スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』四〜五頁)。
  ここには、私たちがピューリタン革命を見る視点において、つい見過ごしてしまいそうになる、しかも重要な問題が提起されている。それは、イングランドの主教制をスコットランドに押しつける政策と、スメクティムニューアス側が、イングランド国教会の廃止を「大衆」の名によって議会に提案する政策とが、相互に照らし出されていることである。ホールは次のように言う。「隣国の教会[スコットランドの長老派教会]に新しい規範の制度と神を礼拝する形体とを持ち込もうと企てたかどで『扇動罪』の烙印を押されるのであれば、われわれ自身の国での制度に対してこのような仕業を行なおうと唱える扇動者ども[ピューリタン]をどうして許しておけるだろうか」(ホール『謙虚なる抗議』九頁)。これに対してスメクティムニューアスは論駁する。「ところが抗議者は恥知らずにも言う『もしも彼らが扇動罪の烙印を押されるのであれば・・・・・どうしてこれら扇動者どもを許しておけるだろう云々』と。こうして後者の行動によって前者を巧みに正当化しようとする。と言うよりは、前者よりも後者の方をより憎むべきものに仕立てあげようとするのだ」(スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』五頁)。
  ここで行なわれているのは、単なる非難の応酬ではない。イングランド国教会がスコットランドに対して行なおうとする宗教的植民地政策と、自らイングランド国民の代表として、国教会に突きつけたスメクティムニューアスの主教制廃止論とが、ここで衝突している。しかも、スメクティムニューアス側は、この際に、直接に民衆と国教会とを対立させるのではなく、国教会に対する「議会の正当な」政策として自分たちの長老制を持ち出している。ところが、スメクティムニューアスは、他ならぬスコットランドの長老制をイングランドに「導入」しようという意図を裏に秘めているから問題はややこしい。そこで、スメクティムニューアスは、この導入政策の正当性の根拠を、国王にではなく議会に求める戦術をとったのである。すなわち、スメクティムニューアスは、先に見たとおり、王権と国教会とを切り離し、国教会を王権の下に置き、さらにその上で、王権に基礎を置く「正当性」を議会にシフトさせることで主教制廃止の政策を正当化しようとしているのである。
  ここに見られる論理のシフトには、スメクティムニューアスに代表されるイングランド長老派の論拠に潜む「危うさ」が、はしなくも露呈している。私たちは、後に、イングランドの長老派が、ついに主導権を握ることができなかった弱点の一端をすでにここに見る思いがする。ホールが、スメクティムニューアスの論点に潜むこの弱点を見抜いていたことを、私たちは、彼の次の文書、『謙虚なる抗議の弁明』で見るであろう。ともあれ、ピューリタン革命という一見国内の「内乱」とも見える出来事が、実は、隣国スコットランドと、そしてアイルランドに対する植民地政策と不可分に結びついているというまさにこの点を、ここで強調しておかなければならないだろう。
  スメクティムニューアスは、彼らの最後の論点として、自分たちの長老制の正当性を以下のように明確にする。「この権威[聖職按手権]が、初期の時代に長老たちにあったのはテモテ(一)の四章一四節にでている。『預言により、また、長老の按手により与えられた賜をあなたは軽んじてはならない。』ここで語られている『賜』とは、教役者としての賜のことである。使徒[パウロ]はテモテに、これを行使することを軽んじるなと説いている。それは、と彼は言う、使徒であれ主教であれただ一人の人の按手によるのではなく、『プレスピュテリオン』、長老会、すなわち長老会全員の按手によるのだからと。ルカ二二章六六節、使徒行伝二二章五節にあるように、聖書ではこの意味でのみ『プレスピュテリオン』を用いている。これを、キリスト教会では教会元老会[仮訳]と呼んでいる。ヒエロニムスがイザヤ書三章[の註解]で『わたしたちには教会元老会、すなわち長老会がある』と述べており、イグナティオスも『マグネシア人への手紙』で『使徒会議』と呼んでおり、アンキュラ教会会議[四世紀]の教会法三でも、時には『プレスピュテリオン』と呼ばれている」(スメクティムニューアス『謙虚なる抗議への答弁』二四〜二五頁)。
■ホールの『謙虚なる抗議への弁明』
 スメクティムニューアスの『謙虚なる抗議への答弁』に対して、ホールは、直ちにこれに対する反論を書き始めたに違いない。ほぼ二〇日後の四月一二日に、今度は本格的な弁護の書『謙虚なる抗議の弁明』を出している。そこにはもはや書簡スタイルは見られない。また、書いているのは、風刺家でも哲学者でもなく、ケンブリッジ出身の若きカルヴィニストでもない。ロードやストラフォードが姿を消した今、まさにホール主教ただ独りが、国教会を代表して書いている。これは題名の通り「弁明の書」である。彼は、初代教父の伝統に従って、異端論駁と「正統教会」の正当性を主張することに徹している。
  弁明の論点は、スメクティムニューアスの攻撃に沿っている。ここでは、君主制と国教会との関係、ローマ・カトリックとイングランド国教会、典礼問題の三つが、その主な論点であると言えよう。「教会と国の制度とを比較して、わたしはこう言った、『古き慣習を規範とするならば、(一般概念としての)国の行政制度は、時により変化したが(ちょうどローマの国家が、七つの別々の形態をとったように)、教会のはけっして変わらなかった』と。国の制度は恣意的な権力者たちによるが、教会のは霊感された人たちによると。ところが、これらご丁寧な註釈者のかたがたは、無理やりわたしの言葉を現在の、しかもわが国の君主政体という特定の制度に当てはめようとするのだ。まるでわたしが、これは変革しうる恣意的なものだと言っているかのように。さらに、あつかましくも『反逆』などという恐ろしい名を口にするのである。故意に目をつむったりしない方ならだれでも、わたしが制度の一般的な形を言っているのが分かると思う。世界には、それぞれの国や領土があり、あるものは貴族制、あるものは民主制、あるものは君主制というように」(『謙虚なる抗議への弁明』四〜五頁)。
  「『反逆』などという恐ろしい名を口にする」とあるが、この段階での、この一句は、これを口にする者もこれを向けられる者にも、もはや修辞でなく現実の重みを帯びてきている。しかし、先に引用したスメクティムニューアスの批判に比べて見れば分かるように、論旨そのものに新しいところはほとんど見当たらない。ただ、この弁明で、いっそうはっきりとしてくるのは、文中にもあるように、「わが国の」君主政体に関してである。ここで「わが国の」と言う時に、ホールが、イングランドを意識しているのは言うまでもない。問われているのは「わが国の」君主政体と国教会であり、「わが国の」典礼であり、「わが国の」主教制である。弁明を通じて、この点が一層明確にされてくる。「それゆえこんなことは言わせない、主教制の制定は国王の主権の及ぶところではなく、国王がわたしたちを主教にするのではないと言うのなら、わたしたちには存在する理由がないなどと。なぜなら、読者もお分りのとおり、あなたがたは、自分で自分の口を封じているのだ。どうかお答えいただきたい。いつどこで国王が主教を立てたりしたのか。その名と名分とをあげてみられよ。陛下の嘉みせられることは、教区の『主教選挙許可書』を与えられて、これにより国王の承認を表されることである。その上で主教は、大主教やほかの兄弟たちの按手を受けて厳かに任命される。これらによって、神によるのと同じく、主教に聖なる召命が賦与され、主教は、その召命を国王の意図により与えられる地区において行使する。この真理ほど明白なことがありえようか」(『謙虚なる抗議への弁明』一三〇頁)。
  「わが国」の主教制は君主制と矛盾するところがなく、「この真理ほど明白なことがありえようか」とホールは、やや開き直りとも受け取れる姿勢で語っている。しかし、実際は、少しも「明白なこと」ではなかった。この時期、国王の指名は絶対的で、これを変更することは教会側にはほとんど不可能だったからである。スメクティムニューアスが、他のどの論点よりも、国教会のこの「弱点」を攻めているのは、彼らがその本質を見抜いているからに他ならない。実は、この問題は、次に述べる弁明のもう一つの論点とも絡んでくる。弁明を通じて明らかにされてくるもう一つの論点とは、イングランド国教会とローマ・カトリックとの類比関係である。 「そして反キリスト〔法王〕はなんと言っているか。彼はスペイン大使に答えて、彼の国王が総会議に当たりこの真理[主教の神授権]を宣言するように要請するのは、自分の要求の意味が分かっていないからだと言う。なぜなら、主教たちにそのような宣言をしたら、彼らは国王の法的権力からも離れて法王自身のように自立するだろうからと。兄弟たちよ、お答え願いたい。法王が言ったからその主張があなたがたのお気に召してこれを信じるのか。主教制の全裁治権を自分一身に集めておきたい法王が、主教たちの権利が法王自らのものと自認するその同じ根拠に立つのを嫌がるのは当然ではないか。聖職者が、世俗の権力の〔支配から〕除外されることを要求するこれらの国々に、このような危険があるからといって、どうしてわが国の主教たちにもその危険があるなどと悪意の告発をするのか。彼らは進んでこう誓っているのに。使徒的な権威ーーすなわち召命による神授権にもかかわらず、自分たち主教が、その地位を保ちその裁治権を行使するのは、ひとえに国王陛下のおかげであると」(『謙虚なる抗議への弁明』六〜七頁)。
  ここには、スメクティムニューアスが、イングランド国教会の最大の「弱点」だとして突いている問題、すなわち主教制の側の「王権依存体質」が、ローマ教会との対比においてはっきりとあぶり出されている。皮肉なことに、ホールが、ローマと「わが国」との違いを強調すればするほど、逆にイングランド国教会の王権依存体質が、いっそうさらけ出される結果になる。にもかかわらず、ホールのイングランド国教会に寄せる確信は、少しも揺らいでいない。彼の反法王主義も、一貫して変わらない。彼は、以下のように明言して、ローマに対するイングランド国教会の優位性を主張するのである。 「その当時、彼らは、悪魔の化身であったにせよ、それがわたしたちになんの関係があるのか。彼らは主教たちであったとあなたがたは言う。確かに。だが、それは法王の主教たちのことだ。その体の手足のことだ。その頭をわたしたちは捨てると誓ったのだ。彼らの邪悪は法王制のせいであった、主教制にあるのではない」(『謙虚なる抗議への弁明』一六四頁)。 「わたしたちがローマ教会をどのような意味で真実の教会だとしているかは、権威を誇る神学者たちの一致した意見によってすでに明確にされている。この鉄は、熱くて彼らは指も触れられぬほどである」(『謙虚なる抗議への弁明』二一頁)。「イングランドの教会回復と、神とわが国王の次に位する法王制の転覆とは、学識と熱意あるわが国の主教たちのおかげに帰せられるべきである。このためにある者は殉教者の冠を受け、血をもって福音に署名した」(『謙虚なる抗議への弁明』一六七〜六八頁)。
  この最後の引用こそ、おそらく老主教を支えているイングランド国教会の真骨頂なのであろう。大事なことは、スメクティムニューアスが、国教会の「ローマ主義」を強調すればするほど、「神とわが国王の次に位する法王制」に優るイングランド国教会の正当性をホールが強調していることである。彼の信念は確固として動かない。国家と宗教とが合体したイングランド国教会のこのような体質を、現代の批評家たちは、スメクティムニューアスと同様に、負の遺産として評価してきたし、現在でもこの傾向は変わらない。それにはそれ相当の理由があることを私も承知しているつもりである。しかし、ホールもロードもストラフォードも、国教会非難の嵐に囲まれながら、確固として彼らの信念を曲げていない。このような彼らの姿勢を、「頑迷な圧政者ども」の傲慢だと割り切るなら、事は簡単で問題も処理しやすくなる。しかし、ホールにしてもストラフォードにしても、またロードにしても、彼らは決して頑迷でもなければ明敏さを欠く人物でもない。チャールズの周辺にいて、現実に国家を支えている人物たちである。このような人たちが、そろいも揃って、「頑迷で暴君的」であったと考えるなら、スメクティムニューアスを始めとする反国教会側の言説(ディスクール)をそのまま受け入れるという誤りと偏りを免れることはできないのではないか。なぜなら、今にして思えば、スメクティムニューアスを含めて、国教会を非難している者たちのうちで、国教会に代わりうることのできる有効で現実的な制度を提案できる者は、誰一人いなかったからである。長老制の根拠の危うさについては、すでに述べた。
  エリザベス朝の遺産を引き継いだイングランドが、新興貿易国家として、近代における最も強力な植民地帝国主義国家の建設に乗り出そうとしているまさにその時期に、国政を預かったのがこれらの人物たちであった。すでにウェールズの支配権を確かなものにし、スコットランドとの「合併」を成し遂げ、アイルランドの植民地化を押し進め、アメリカ大陸に足場を築こうとしていたこの時期に、イングランドの抱えるもろもろの矛盾と問題点を誰よりもよく知り、これを肌で感じ取っていたのがこれらの為政者たちである。結局はストラフォードを処刑に追い込んだピムたちは、アイルランドの実状について何一つ知らない。これを熟知していたのは、ストラフォードのほうである。彼の高圧的な植民地支配政策を非難するのは、問題点をそらすことになるであろう。なぜなら、ピムにせよ、クロムウェルにせよ、そして、ミルトンにせよ、アイルランド問題で、ストラフォードよりも「融和的で反植民地的な」政策を提唱した者は、誰一人いないからである。もしも、この時期、このような融和政策をとったとすれば、事態をいっそう混乱させただけでなく、国家としてのイングランドの政策理念それ自体の崩壊をもたらしたことであろう。チャールズが「優柔不断」であると非難されるのは、まさにこの理由からである。
  国教会側の為政者たちにとっても、「新しい」イングランドの未来はまだ模糊としていて、彼らの針路も定まらなかった。この時期の彼らにとって、「エリザベス体制」というやや「古い」地図だけが、唯一の頼りであった。その地図には、彼らの針路に横たわる様々な障害はまだ書き込まれていない。しかし、これらの人物たちは、国家と教会とが合体した、独特のイングランド国教会体制が、植民地帝国主義国家としてのイングランドの政策貫徹に最も有効で確かな国家理念であることを見抜いていたのである。ストラフォードもホールも、ピューリタン革命期の中絶の後に復活し、アメリカ独立革命という大きな試練をも克服して、一九世紀に大英帝国を築くことに成功した彼らの国家理念の「正しさ」をまるで洞察していたかのように確固とした自信を失っていないのである。
 次に、典礼問題については、「もしも殉教者ユスティノスが、集会の指導者は(彼らがいささかやましげに訳すように)『彼の能力に応じて祈った』と言うのなら、それはそのとおりである。わたしたちもそうする。しかも、神に感謝すべきかな、わたしたちは典礼によるのだ。彼らもそれによったのだから。また祈祷において、自分の心のままに祈る自由が、公の形によってそれだけ妨げられるものでもない。なぜなら、これらは、どちらも共存しえるしまたしているから」(『謙虚なる抗議への弁明』一四頁)という発言以上に、特に新しい論旨は見いだせない。
  ホールの弁明に続いて、スメクティムニューアスから、『答弁への立証』が著わされ(六月)、これに答える形で、ホールの『長たらしい立証への短い答弁』が出た(七月か八月)。『長たらしい立証への短い答弁』は、だから、ミルトンの『弁明批判』とほぼ時期を同じくしている。内容は、それまでに論じられてきた論点、と言うよりは言葉それ自体の蒸し返しにすぎない。ただし、この文書でホールは、主教制の歴史的伝統に関して、異常なほどの長さで論じている。私は、これを読みながら、まるで、ミルトンの『弁明批判』に対するホールの『短い答弁』ではないかと、ふとそんな錯覚を覚えた。用語も採り上げられている問題点もそれほど似ているのである。
  突然に『長たらしい立証への短い答弁』を持ち出したのは、これには、「わが国の」典礼が、明確に出ているからである。しかも、ホールはすでに、スメクティムニューアスたちが、国教会の典礼を、その「不自由さ」のゆえに攻撃しておきながら、「自分たちが考案した典礼」なら、これを一律に実施しようと意図していることを見抜いている。 「あなたがたのほうとしては、『典礼を自由な形で用いるのなら異論はない』旨を明言するとおっしゃる。ご厚意に感謝しよう。これは、『典礼が自由でないからこれに反対するのだと明言する』と言うのと同じではないか?・・・・・さらにご丁寧にも、あなたがたは、『典礼は、国教会からわれわれが分離する理由ではない』と告げてくださる。読者よ、この言葉の欺瞞に注意されよ。彼らは、『典礼は分離の理由ではない』と言うが、『この〔わが国の〕典礼は』とは言わない。彼らが自分たちで考案した典礼なら、分離の理由にはならないだろう。しかし、現在行なわれている国教会のこの典礼は、彼らの受け入れるところではないのだ」[Hall(3) 415]。
  ここでホールは、イングランドの伝統に根ざす典礼をスメクティムニューアスの提唱する「新規な大陸風の」典礼と対立させてることで、イングランドの人たちの国民感情に訴えている。『謙虚なる抗議への弁明』でも、その後の『長たらしい立証への短い答弁』でも、要するに、ホールとスメクティムニューアスとの間に対話は成立していない。だから、ホールはの主張は、最後には、「言い放ち」に終わっている。彼は開き直って次のように宣言する。「典礼の古き慣習に関してのわたしの『類いまれなる論法』については、わたしほど典礼を高く引き上げた者は見たことがないとおっしゃるが、この世には、あなたがたの全知ならぬ目の届かぬこともあろう、これもその中の一つであると言わねばなるまい。驚かれてもやむをえないが、わたしのこの主張は正当であると申し上げておく」(『謙虚なる抗議への弁明』一一頁)。 「(彼らは)まるで天文暦を論証しているように『主教制の子午線を計って、それをすべての宗教に当てはめようとする』と告げてくださる。確かに、兄弟たちよ、あなたがたは、実に天頂の高さを十分に計ってはいないようだ。正しく天頂を観測していない」(『謙虚なる抗議への弁明』四五頁)。「抗議者がこれらの時代を超えて使徒時代の高さにまでも昇ろうとしているのはそのとおりである。まるで今まで気づかなかったかのようだ。それでいて、あなたがたは、今の今まで、使徒たちの主教職とわたしたちのとは違うとやっきになって示してきたのである。わたしは再度明言する。もしも、わたしたちの主教たちが、テモテやテトスに委任されかつ要請された以上の、なにかほかの権限を主張しているのなら、わたしは彼らの簒奪を認めると。あなたがたはご親切にもおっしゃる。もしも同じ権限を主張するなら(弾劾に)値すると。兄弟たちよ、なぜそうなのか聞かせてほしい。テモテとテトスが(おっしゃるように)福音を伝える者で、より高い権限範囲を行使したからか。勝手で大胆な言い分である。その根拠はどこにあるのか」(『謙虚なる抗議への弁明』九二頁)。 「『抗議者は純真にもイングランドの教会は一つしか聞いたこともなければ考えたこともない』と彼ら[スメクティムニューアス]は読者に告げる。嘲りの人たちよ。兄弟たちよ、いい気で嘲っているがいい。だが、あなたがたのさまざまな気晴らしの後でも、なおわたしの純真さは、イングランドのただ一つの教会のみを告げてくれるのだ」(『謙虚なる抗議への弁明』一五〇頁)。
  ただし、ホールは、そしておそらくスメクティムニューアスでさえも、国教会の廃止をありうべき可能性として論じ合っているのであって、廃止が現実のものになるという切迫感は、「まだこの段階では」伝わってこない。少なくともホールからは、伝わってこない。だが、三ヶ月後の『長たらしい立証への短い答弁』ではそうではない。先に、『長たらしい立証への短い答弁』は、ある意味で『弁明批判』に似ていると述べたが、似ているのはそれらが出た時期だけではない。その語調の激しさ。もはや冷静な論理の展開を許さないほどの切迫感においても両者は似ているのである。そこでは、ストアの哲学者を思わせる冷静な老主教でも、次のようにその不安を隠していない。 「近隣の説教壇に立つ少数の党派的な説教者が、この議会の開始以来、市と王国にこれほどの火をつけたのなら、これら扇動者どもの舌全部が一つになったらどんなことになるだろう!」[Hall(3) 386]。 「思い切ってこう言わせてほしい。キリスト教が全世界に臨んだ時以来、この王国において、然り、この市において、恥知らずの中傷者たちによって、この一年間に浴びせられたほどに高慢で卑劣な侮蔑が主教制に向けられたことはかつてないと!神よ、その大きな憐れみによってこれらの著者たちを赦したまえ。彼らをして、神の正当な復讐を感得させたまえ!」
 ■ミルトン『イングランドの教会規律の改革について』
 五月になって、ミルトンの『イングランドの教会規律の改革について』が出版された。ウルフとアルフレッドは、これの出版が五月の最後の週ではなかったかと推測している[Yale CP 514]。この教会規律の改革論の後半部分に、「ここで終わるところであったが、巷に喧伝される幾つかの反対意見を耳にしたので、これへの回答に努めるべく余儀なくされた」とある。このような書き出しは、これ以下が明らかに後からの付加部分であることを示している。しかも、この付加部分には、「我々の願うこの宗教が、はたしてこの王国で実践できるかどうかについて、それは慣習法とも王たちの安全とも両立しないと彼らは言う。主教制による行政が、今や慣習法に紡ぎ込まれていると言うのだ。〔それなら〕神のみ名によって、もう一度紡ぎ出せばよい。人の織りなす言葉の綾で、神の権威を覆い隠すな」という一文が含まれている。この文言は、二月に入って、議会で「根絶請願」の審議が始まった折りに、ディグビーが発言した「〔慣習法が〕紡ぎ込まれている」に言及したものと思われる。付加部分には、さらに、「これらの人たちの抗議が、我々に何を求めているか、その意味することをお知らせしよう。彼らは、我々に向かって、今まで肩の骨が砕けるほど耐え続けてきた耐え難い苦情をうみ疲れずに我慢するよう勧めるのである」とある。この一文は、四月二四日に出た「主教制と聖堂制度を擁護するオックスフォード大学からの謙虚なる請願」の内容と文言に言及していると考えられる。
 これらのことから、ウルフとアルフレッドは、ミルトンが、この教会規律の改革論の大部分をすでに一月中に書き終えていて、その後に、二月の議会での発言や四月の「オックスフォード請願」への言及を踏まえて付加部分を加筆したと判断している[Yale CP 514]。この説が正しいとすれば、ミルトンは、一月中に教会規律の改革論を書き、さらに二月になって、「根絶請願」が議会で審議され始めると、これの成り行きを見守り、さらに四月二四日の「オックスフォード請願」をも取り込んで、五月〔の半ば頃?〕に、これを出版したことになる。また、前半部分には、「主教たちを弁護する法王的な司祭サンタ・クララ」と並べて「不吉な恐怖にかられて同じ問題を論じたわが国の高位聖職者の一人」[Yale CP 528]を引き合いに出している。この高位聖職者とは、ホールのことを指しているから、ミルトンは、教会規律の改革論の出版までには、ホールの『謙虚なる抗議』を読んでいたことになる。ウルフとアルフレッドは、ミルトンが、ここで『神授権による主教制』のほうを念頭においていると注している[Yale CP 528n40]。しかし、私は「不吉な恐怖にかられて」という言い方を『神授権による主教制』に当てはめるのは、時期的に早すぎるし、文書の性質からも不適当ではないかと思う。『神授権による主教制』は、主としてスコットランドに向けて書かれたものだからである。この形容辞は『謙虚なる抗議』にこそ適切であろう。また、ミルトンは、三月末に出たスメクティムニューアスのものも知っていたことになる。二月の「根絶請願」の審議に続いて、三月には、スコットランドとの和平交渉が注目されていた。四月二四日に出た「オックスフォード請願」に言及できたのであれば、同じ日に、ストラフォードの処刑を求めて出された「ロンドン市民の請願」も知らなかったはずがない。
 以上を総合して考え併せるなら、ミルトンは、一月中にこの教会規律の改革論の前半部分をほぼ書き終えていた。また、すでにホールの『謙虚なる抗議』を読んでいた。さらに、主教制の廃止をめぐる問題が議会で審議され始めると、これの事態の推移を見守っていたと思われる。この間にスメクティムニューアスの反論が出たので、これも読んでいた。その上で、「オックスフォード請願」がこれに反論し、同時に、ストラフォードの裁判が大詰めを迎えるちょうどその頃に、この教会規律の改革論への加筆を済ませて、これを印刷屋に出した。この文書が出たのは、ストラフォードの処刑に向けて事態が急激に動き出し、ついに彼の処刑が終わった後のことである。したがって、この文書の本体部分が書かれた時点では、教会改革に関する事態はまだ急激な展開を見せてはいなかった。ミルトンは、この宗教論を書いた後で、主教制廃止に関する論議の高まりを見て書き足りなさを感じたのであろうか、宗教論の出版の後、『高位聖職者による主教制』を書き始め、さらに、スメクティムニューアスに対するホールの『謙虚なる抗議への弁明』が出るのを見て、これに対する反論として『弁明批判』を手がけた。このような推定に立つとき、ミルトンが一連の教会改革論を執筆した過程が浮かび上がってくる。
 ミルトンの教会改革論を本格的に論じるのが筆者の目的ではない。だからここでは、これらの文書の特徴とこれらがどのような情勢の中で出版されたかを確認するに止めたいと思う。ミルトンの文書は、例えばホールのものと比較してみると、独特のスタイルで、しかも晦渋である。それは分析的でもなく、一貫した論旨に沿っているのでもない。レトリックを用いてイメージや隠喩的な表現を積み重ねることで、物事の奥に潜む真相を読者に洞察させようとするスタイルである。この意味で、彼の散文は、本質的に詩的な要素を帯びていると言える。
 この文書には、いわゆる名指しの個人攻撃は見当たらないようである。しかし、私たちは、この文書のそこかしこに、これが書かれた当時の状況と、これに向けられたミルトンの洞察を読み取ることができる。例えば、王の主権と臣民の自由との狭間にあって、最近の主教たちの発言が、「先祖の代からの耐えざる内戦」[Yale CP 593]へ向かうのろしをあげる行為であるというくだりなどは、彼が、すでに内戦を予感していたのではないかと思わせる。また、古代教父からチャールズにいたるまでの主教制の弊害をたどったり、安息日を重視したりしていることなど、教会史に詳しかったヤングの影響を思わせる節もある。「忌むべき呪われた兄弟同士の戦争、性質においてもキリストにおいても親愛この上ない兄弟のイングランドとスコットランドとが、互いの血の中を渡り合わなければならない」とあるのは、「主教戦争」に言及したものであり、「我々両方の背後にあって、時宜に応じて奉仕してくれるお隣の自由アイルランド」[Yale CP 596]は、ストラフォード弾劾の理由とされているアイルランドとイングランドとの関係を意識した言い方であるのが分かる。
 宗教の改革論で、ミルトンは、全体として長老制を支持していている。この意味で、彼の論旨は、スメクティムニューアスのそれに沿っていると言えよう。「わが国よりもさらに厳しい君主制の下にあるフランスでも、この国の教会行政の下にいるプロテスタントたちは、いかなる王の下にあるよりも最良の臣民たちである。しかも、こう呼んでよければ、この『長老制』は、そこでは思うとおりのことを行なっている」[Yale CP 610]。事実としてこのようなことが言えたのかどうかはともかく、ここにはミルトンの「長老制」に寄せる思いがよく表われている。注意してほしいのは、ここでミルトンが、君主制と長老制を並列あるいは両立させて考えているが、この発想も、スメクティムニューアスと軌を一にしている。
 しかし、ミルトンとスメクティムニューアスとでは、一つ重要な違いがある。それは、国家(国民)宗教に関する両者の考え方の違いである。ミルトンは言う、「これらすべてを総合すると、コンスタンティヌス帝が、教会に対していかに益となる業を行なったかなどと論じ立てるのは納得が行かない。何らかの益があったにせよ、それはむしろ、おそらく知らずにではあろうが、キリスト教世界に害を及ぼす道への扉を開いたのである」[Yale CP 560]。ここでミルトンが主張しているのは、イングランド国教会に代わりえる長老制のことではない。そうではなく、彼は、そもそも教会が国家権力と手を結ぶことそれ自体が、教会の堕落と腐敗に繋がると見ているのである。ヒルが指摘するとおり、ミルトンはここで、公式のイングランド・プロテスタントの伝統に反して、コンスタンティヌス帝時代を教会の堕落の始まりととらえる最も急進的なグループに属している[Hill(3) 84]。すでにミルトンは、彼の教会改革文書の出発点において、国家と教会との分離を前提に考えている。あのプリンでさえ、彼なりの「国民教会」の理念から最後まで離れることができなかったことを思えば、一六四一年のこの段階で、ミルトンの教会観は「最も急進的な」思想に属すると見ることができる。
 ただし、ミルトンにとって、教会と国家との分離は、必ずしも、両者の対立ないしは抗争を意味しない。ミルトンに言わせると、王と国民を離反させたのはむしろ主教制のほうである。ロードの教会法こそ「国王とその領民との結婚である神聖な契約による一体化の最も聖なる命の血とも言うべき議会の基本法、規定、法令をことごとく踏みにじって」「臣民の身柄と財産と自由を奪ってきた」[Yale CP 593-94]のである。ミルトンは、国民を苦しめるのは、かつてそうであったような王権ではなく、今や高位聖職者どもの主教制であり、主教たちこそ、王権を侵害して世俗の行政に首を突っ込んできていると言う。彼はこの文書の最後まで、王権に対してではなく主教制に向かってその非を鳴らし続ける。したがって、ミルトンにあっては、教会と国家との分離の原則が、国王と臣民との「一体化した結婚」と矛盾することなく両立している。
 やや矛盾するとも思えるミルトンのこのような国家と宗教との完全な分離は、同時代の人たちの教会行政論から学んだものではないであろう。ミルトンは、この文書を「キリスト教的訓育を受けた者なら誰でも思いをいたすべき深く引きこもった思索の内にあって、私たちの間で成された神とその奇跡的な道とみ業とを思い、かつ神に対して成されるべき我々の宗教と礼拝とを思うときに、肉において弱さの最底辺まで苦しまれ、肉体と共に霊においてそこから栄光の最高点へと勝利された我らの救い主キリストの物語にちなんで、我々もその王国の啓示に与り霊肉ともにかれと一つにされるのを思うときに・・・・・」という祈りとも叙述ともつかない長い文章で始めている。この書き出しは、彼が、この文書を手がけるまで、「深く引きこもった思索」の内にあったことをうかがわせる。巷で議論されるさまざまな教会論などに左右されず、自らの内面に入り込んでキリストの十字架と復活とを自分の生きている時代と重ね合わせようとしているミルトンの姿がここに見えてくる。
 したがって、彼の教会と国家との分離論は、政治的な経験に基づいて、現在私たちが到達している宗教と国家に対する成熟した反省から生まれたものではない。それは、彼自身の内省的な思索から生まれたものであり、その根底には、霊肉の二領域にわたる彼のプラトニズムが働いているように私には思われる。「君主国とは、臣民の自由と王の主権の二つから成り立っていることを我々は知っている」[Yale UP 592]という彼の国家観には、キリスト教化したプラトンの共和国が重ねられている。それは何よりも霊的に聖くなければならない。したがって、ミルトンにあっては、現状をどのように改革すれば、事態がうまく治まるかという現実的で政治的な配慮よりも、理想の教会とは何かという理念のほうが先立つことになる。この点で、ある意味で極めて戦術的なスメクティムニューアスの文書とは本質的に異なっている。
 彼の主教制攻撃は、スメクティムニューアスのそれのように、神学的、政治的、歴史的な視点からと言うよりは、むしろ、道徳的で倫理的な視点からのものが多い。「信仰は、天の神秘へ至るための案内役あるいは解釈者として、弱く誤りやすい感覚の働きを必要としない」のである。イングランド国教会は、「官能の偶像礼拝という新奇な異教主義のヘドにまみれて、純粋よりも不純さを自由裁量の分野に帰して、御霊の内面的な働きを外面的で因習的な肉体の目による礼拝とした。まるで、自分たちが天的で霊的になれないから、神を地上的で肉的なものにすることができるかのように」[Yale CP 520]。ロードの教会法に向けたこの批判は、まるで『コウマス』の乙女が妖術師に向けた非難を思わせる。主教たちの罪の最たるものは、世俗の行政に介入すると同時に、その貪欲、肉欲、金銭欲なのである。
 ミルトンは、自分の思い描く教会と国家との関係について何ら疑問を抱いていないようである。長老制がイングランドの慣習法に抵触するという議会での批判に対して彼は答える、「わが国の創始者は、慣習法でも世俗法でもなく、敬虔と正義の女神たちである。彼女たちは、貴族制にも民主制にも君主制にも、膝を屈したり色を変えたりはしない。それでいて、それぞれの〔制度の〕道筋を妨げることをせず、より劣ったこれらの細々した〔諸制度に〕などよりはるか上にいて、これらに共感を示し、また彼女たちは、それらと出合うところで互いに口づけをするのである」[Yale CP 606]。
 このように、ミルトンは、時代の最も急進的な教会論のグループに属しながら、その教会論は、神学的であるよりは哲学的であり、実践的であるよりは瞑想的であり、その改革の眼目も、制度的であるよりは倫理的である。しかし、国家制度から完全に分離した教会が、その信仰において純粋に内面化する、すなわち、「個人化」した場合に、そこにどのような問題が生じるかについての洞察はまだなされていない。これは、ミルトンの教会論の「弱点」であるかのように見えるかもしれない。しかし、まさにその故にこそ、彼の教会論が、さまざまな諸制度にとらわれることなく、「敬虔」と「正義」とをはるか後の時代にまで問いかけることができたのを忘れてはならないだろう。
            ミルトンとその思想