あとがき
  実はこの論集をいつ書き上げたのか、自分でもはっきりしないのである。1977年に、わたしは黒田健二郎先生と二人で甲南女子大学の図書館で『弁明批判』原文を精読し始めた。訳文の私訳はすでにできていたが、先生との精読は3年ほど続き、これの訳文が完成したのは1982年だったと思う。ところが、これが黒田健二郎先生と共著のかたちで出版されたのは1994年から1997年までで、『甲南女子大学研究紀要』と『甲南女子大学英文学研究』に分冊で4回に分けてであった。『弁明批判』が合本で出されたのは1997年だから、『弁明批判』は15年間もわたしのパソコンのファイルで眠っていたことになる。その間に、ミルトンはなぜこのトラクトを1641年に書いたのだろうという疑問が湧いてきて、これを調べるために桃山学院大学図書館蔵のイングランドの下院と上院の議事録に直接あたることにした。これが8月の夏期休暇中の事であったのは確かなのだが、それがいつなのか今となっては思い出せない。とにかくこの議事録のコピーをとらせていただいて、これを基に書き上げたのが「ピューリタン革命前夜とミルトン」である(2000年頃か?)。これも書き上げてから2014年にコイノニア会のホームページに載せるまで、ファイルの形で十何年も眠っていた。今回思いがけずこれをまとめて載せることができた。こういうわけで、今回の「ピューリタン革命前夜とミルトン」はひとえにこれらの議事録のお陰である。桃山学院大学図書館の地下一階に蔵されていて、関西では唯一の貴重な文献であるにもかかわらず、これを自由に利用するだけでなく、多数のコピーまでもとらせてくださった同大学とその図書館に、遅ればせながら厚く御礼申し上げます。
2014年     著者

       ミルトンとその思想へ