『ラドロウ城の仮面劇』の「貞節」について 
 
                 (一)  
 『コウマス』(Comus)は、一六三四年九月二九日の夜、イギリスのサロップ州ラドロウの城で上演された仮面劇(masque)で、ジョン・ミルトン二五歳の時の作である。彼は、友人ヘンリー・ローズ(Henry Lawes)の要請を受けて、ウェールズの総督として現地に着任してきたブリッジウォーター伯爵(the Earl of Bridgewater)とその家族の祝宴の場で上演するためにこの仮面劇を書いた。『コウマス』は、だから、そのような祝宴の場にふさわしい形式と内容を具えていなければならないという制約を最初から受けている。(1)こういう作品を理解するためには、それがどのような約束にしたがって書かれているのかを知ることがきわめて大切である。
 仮面劇は、なによりも、それが献上される当の貴族に対する賛辞を含むものでなければならないし、時には、その家族たちも加わって演じる歌と踊りが織り込まれていなければならない。しかも、本来は行列(pageant)から発達したものではあっても、ドラマとしての上演にも耐えうるだけの性格を備えていなければならない。おそらく、こういうジャンルに属する作品をミルトンが手がけるためには、仮面劇の経験が豊かで、みずからもこの劇を作曲したローズの適切な助言が不可欠であったろう。(2)もっとも彼ら二人は、今までの仮面劇のしきたりにかなり独自な試みを加えている。これまでのこの種の劇の構成に重要な位置を占めていた歌と踊りをきりつめて、代わりに詩情豊かな台詞で全体をすっきりとまとめたことである。しかも、台詞の中で、ミルトンはさまざまな詩のスタイルを試みている。 仮面劇は、もともとイタリアで、カーニバルなどの仮装舞踏に源を発していたと思われる。これが、一六世紀の後半にフランスの宮廷を経てイギリスに伝わり、エリザベス朝からジェイムズ一世の時代にかけて全盛をきわめた。この仮面劇の形式が、最後にたどりついた地点に、ミルトンの『コウマス』を置いてみるのはおそらく正しいであろう。
 『コウマス』が、はたして厳密な意味で「仮面劇」なのかどうかという疑問が生じるのは、この辺の消息を抜きにしては考えられない。一貫した劇的な構成、あまりにも真面目なテーマ、全体を流れる田園詩(pastoral)ふうなリリシズム、これらが「もてなし」(entertainment)とダンスを主とする仮面劇の形式をはみ出していると指摘されている。しかし、宮廷仮面劇の伝統、すなわち、それが献上される相手とその家族を対象に構成されていること、劇的な効果とこれを支えるテーマ、最後に観客も参加するダンスで終わるという演出は、まさしく仮面劇の伝統に立っていると言ってよい。たとえ『コウマス』では、その台詞と全体を流れる音楽的な効果に比重がかかりすぎて、このために仮面劇本来の「見せ物」としての性格が脅かされるまでになっているとしてもである。
 こういうミルトンの手法は、おそらくこの作品の主題とも密接にかかわり合っている。「仮面」(mask)の性質上、これを用いた劇や舞踏は、現実を超えた世界、すなわち超現実的な存在を包含するものとして、最初から象徴的な性格を帯びている。それに中世以来のアレゴリー(allegory)劇の伝統も見逃すことができない。仮面劇のこのような特質は、例えば、王または貴賓の座席を中心として、周りに席を連ねる廷臣や親族によって構成される空間が、一つの調和と秩序を持った世界、言い替えると理想化された宇宙観を象徴するというかたちをとる。こういう象徴的な空間を舞台としている以上、そこに登場する人物にもこれにふさわしい役柄が与えられる。すなわち、善や悪などの抽象概念を擬人化した役とともに、ギリシア・ローマの神々のように神話的な人物も入り込んできて、これが現実の世界と交錯し合う。こういう舞台では、これらの登場人物が、さまざまな葛藤を演じながらも、それらが次第に臨席の王や貴賓の座を中心に収斂される構成をとり、最後にこれを中心として、全体の調和を象徴的に成就するダンスによって完結する。あるいは、それが演じられる場が、結婚の祝典である場合には、魂と肉体との調和といういかにもルネサンス的なテーマを完結させることもできよう。
 仮面劇の発達の過程で、本来はこういう超現実の世界に対して現実界をのぞかせる役を担っていた、いわば幕間の狂言とも言うべきアンティマスク(antimasque)さえもが、やがてはアレゴリーとしての性格を強めてきて、本筋(mainmasque)の秩序と調和に挑戦し、これを破ろうとする役柄を背負ってくるようになる。わたしたちは、『コウマス』の中で、ほとんどこの仮面劇の主役かと見間違えるほどに生き生きした姿を見せる同名の妖術使いに、このアンティマスクの最終的な姿を見ることができる。
 神話の世界とアレゴリーの手法という仮面劇の特性を考えるときに、ミルトンが『コウマス』を手がけるに際して、なぜスペンサーを模範にしたかを理解するのは容易であろう。実際、ミルトンは、彼の仮面劇を書きながら、常にスペンサーの『妖精の女王』(The Faerie Queene)を念頭に置いていたと言ってもいいかもしれない。その影響は、例えば、コウマスが乙女の歌を聞いて自分の母キルケーの歌声を思い出すようなふとした行間にも忍び込んでくるほど『コウマス』の隅々にまで及んでいる。(3)
 スペンサーとのかかわり合いが、神話的なイメージやアレゴリーの手法、詩的な語法に限られているのであれば、両者の関係はまだ皮相的と言えるであろう。しかし、『妖精の女王』と『コウマス』とのかかわりが、テーマそれ自体にまで及んでいるとなると問題は深い。言うまでもなく、テーマがジャンルによって規制されることが、現在よりもはるかに厳しい時代であって、ミルトンの場合は、この二つの統一が欠かせない条件であることを考慮に入れた上でのことである。『コウマス』が『妖精の女王』とは全く異なるジャンルに属するのは言うまでもない。その上、ミルトンが『コウマス』を手がけるにあたって参考にしたと考えられるいくつかの仮面劇がある。(4)これらの仮面劇には、『コウマス』の形式はもとより、キルケーも、美徳と楽しみとの対立と調和も、コウマス自身さえも見いだされる。
 にもかかわらず、ミルトンの『コウマス』が『妖精の女王』につながるのは、そのアレゴリーの扱い方や語法だけでなく、また、神話的な世界を継承しているということだけでなく、『コウマス』が、まぎれもなく一つの「詩」(poem)だということ、もっともスペンサー的な意味でアレゴリー的な詩だということである。両者の類似点は、例えばブリトマート(Britomart)と乙女(the Lady)との類比、『妖精の女王』第二巻十二篇のジーニアス(Genius)とコウマスとのつながり、第三巻六篇の「アドーニスの園」(the Garden of Adonis)と『コウマス』のエピローグとの関連等に見られる。しかし、こういう類似点を列挙する前に、全体を流れる詩的な雰囲気とこれによって支えられているテーマそのものの扱い方、すなわち「貞節」をめぐる両者に共通した問題意識こそが大切なのではなかろうか。ミルトンの珠玉のような仮面劇に流れているのは、ハンフォード(Hanford)の表現を借りれば、スペンサーが、『妖精の女王』の第二・三・四巻で追求している「キリスト教的な理想としての性的な純潔」とともにその「詩的本質」なのである。
 
                 (二) 
 このことを念頭に置いて初めて、この仮面劇のテーマである「貞節」を正しく見ることができよう。ミルトンが、なぜ貞節をテーマに選んだのかをめぐっては、さまざまな推測がなされている。(5)しかし、わたしとしては、ミルトンがこのようなテーマを扱ったその時代背景とでも言うべきものを見過ごすことができない。こういうテーマに取り組ませる内面的な迫りが、詩人の側にもあったには違いないが、同時に、そのテーマが、どのような社会的な背景、(6)さらには文学的な状況を背負っているのかということも考えてみなければと思う。例えば、『コウマス』が書かれる前の年に、ダンの『歌とソネット』(Songs and Sonnets)を含む詩集(7)が出版されていること、ダンの少し前には、シェイクスピアの『ソネット集』があり、スペンサーの『アモレッティ』(Amoretti)がある。こういう流れの上に『コウマス』のテーマを置いてみなければ、その意味を正しくとらえることはできないのではないかと思う。また、こういう見通しに立って、初めてミルトンの独自性も見えてくると思う。詩人の内に働く詩作への迫りは、その社会的・文学的な背景と無関係ではありえないのだから。
 乙女が、コウマスに誘われるままについていってから、ようやく自分が罠にかけられたことに気がつく。これに先立つ場面で、乙女に付き添ってきた二人の兄弟が、行方の知れない姉の身を案じて語り合う。
 
兄 おぼろな星よ覆いをとれ。うるわしい月よ、
  旅人の恵みとなってくれるお前も
  青白い顔を琥珀色の雲間からのぞかせ
  闇と森影の二重の夜でここを支配する
  混沌を追い払ってくれ。
                   (三三一~三五行)
 「この陰気な森の曲がりくねった小路」(三七行)をすっぽりと包んでいる闇とその上に君臨する「混沌」が、この仮面劇の主な舞台である。その暗い森は、プロローグが暗示する天界のほのかな光とエピローグのうっとりする愛の園への憧憬の間にあって、その暗さをいっそう濃くする。そこは試練の場なのである。この意味で、この森は、晩年のミルトンの作である『楽園喪失』(Paradise Lost)のエデン、『楽園回復』(Paradise Regained)の荒野、『闘士サムソン』(Samson Agonistes)の牢獄へとつながってくる。これらの作品を一筋の糸のように貫いているもの、それが、ミルトンの生涯をかけた課題であり、『コウマス』はその序章とも言えよう。しかも、この森の暗さがミルトン自身といかにかかわっていたにせよ、一七世紀中葉へと向かうイギリスの混沌と無関係ではない。
 
弟 それにしてもかわいそうな乙女、行方の知れない姉さん。
  今ごろどこをさまよっているのか。がさがさする毬や薊の中を
  冷たい夜露をしのごうと、どこへ向かっているのだろう。
                   (三五〇~五二行)
この乙女(virgin)が、たとえ若いミルトンの内面をなにがしか投影しているとしても、その姿には、彼の時代の底流に渦巻いている問題意識の一端が顔をのぞかせている。「がさがさする毬や薊の中」で、行き場を失ってさまよう乙女が、そのまま道徳の混乱と無秩序の中の「貞節」のアレゴリーだと言えるほど問題は単純ではないけれども。
 乙女とコウマスとの対決の場面では、若いミルトンは、「貞節」に焦点を合わせて、そこから自分を取り囲む社会と自然を見ている。彼は、弟の問いかけに答える兄の台詞で、この「貞節」を人間存在のあり方全般に及ぶ広がりの中でとらえようとしている。
兄 たとえ太陽や月が平らな海に沈んでも
  美徳はみずから発する輝きで
  美徳の思うとおりを行なう。英知自体も
  時折ひっそりと心地よい孤独を求め
  瞑想というこよなき乳母に育まれて
  その毛並みをそろえ羽を生やす。
  群衆のざわめく雑踏の中では
  羽もすっかり荒れるし時には傷めるのだから。
  みずからの澄んだ胸の内に光を宿す者は
  地の底に座っていても明るい昼を過ごす。
  だが暗い心と醜い想いを隠す者は
  真昼の太陽のもとでも暗闇を歩む
  己自身が牢獄なのだから。    (三七三~八五行)
 ミルトンは、ここで貞節を美徳(Virtue)と結びつけている。現代でも、貞節は、人間の美徳を構成する大切な要因であることに変わりはないと思うのだが、ミルトンの場合は、それが、単なる一つの徳目ではなく、美徳全体のいわば核のような位置を占めているのに注意しなければならない。人間の美徳の本質にかかわるものとしての貞節、これがここで追求されている。こういう貞節のとらえ方は、ミルトンのみならず、イギリスのルネサンス文学の倫理観を貫く基本的な考え方である。しかも、この意味での貞節は、人間の倫理面だけにかかわるのではない。人間存在をも含みながら、さらに広く、その存在を規定する自然観、宇宙観をも包摂するほどの射程を持っているのである。これが、スペンサーが『妖精の女王』でこの徳を扱っている角度であり、『コウマス』でミルトンが追求している角度である。もっとも『コウマス』では、主人公がまだ一五歳の処女であるという制約のために、前者よりはいくらか消極的で、やや防御的な姿勢になっている。このことを念頭に置くと、次のような、ミルトンの少し激しすぎるくらいの貞節に対する信念の真意が読み取れてくる。もっともそこには、出演の兄弟が、まだ未熟で理想主義的な若者を演出する効果もこめられてはいるが。
 
弟            どんな力です
  もしも天からの力でないと言うのなら。
兄 その意味でもあるが、天が与えても
  自分の力と呼べる隠れた力のことだ。
  それは貞節なのです。いいかい、貞節です。
  これを備えた女性は、身を鎧で固めていて(8)
  矢も鋭い矢筒を背負う妖精のように
  広漠とした森、身の置きどころのない荒れ地、
  名も恐ろしい山々や危険な砂漠を
  巡っても、貞節の放つ神聖な光のために
  獰猛な荒くれ者も山賊も山男も
  あえて処女のきよらかさを汚そうとはしない。
              (四一六~二七行)
 ミルトンの美徳が、ルネサンス・ネオプラトニズムか、それともキリスト教的な概念かは、長らく論じられてきた。問題の背後には、「人間の美徳」と「天の恩寵」との接点を問うという、キリスト教とギリシア・ローマのヘレニズム世界との接触以来の宗教的・哲学的な背景が控えている。人間の美徳をキリスト教的な恩寵の秩序の中に位置づけてみるならば、乙女によって現わされる貞節は、天の恩寵に守られて試練に克つことで、より高い信仰へと到達する力だと解することができる。一方ルネサンス・ネオプラトニズムによって全体を統一して解釈するならば、魂の清さを保って肉体の汚れを離れ、永遠の相を探求する乙女の姿も、おのずと異なるものがあろう。この辺の立場の相違によって、貞節が、その高次な世界へと上昇する次のような描写に出会うと、その受け取り方にも異なるニュアンスが生じてくることになる。
 
兄 聖なる貞節は天ではとても大切で
  ある魂が真実にそうだと分かると
  天衣をまとう無数の天使が彼女に仕え
  罪や汚れの元を一つ一つ遠ざけて
  きれいな夢や厳かな幻の中で
  汚れた耳では聞けないものを聞かせてくれる。
  天に住む者と交わりを続けるうちに
  汚れに染まない心の宮となる
  その人の外形にも光が射し染めて
  だんだんと魂の本質へと変えられ
  ついには、全体が不滅にされる。
                   (四五三~六三行)
                 (三)
 貞節が、人間の倫理性を規定するだけでなく、人間存在とこれを囲む宇宙全体への広がりを持つ概念であることが分かれば、先ほどの兄弟のやりとりに続く場面で、乙女とコウマスとの間の論議が、なぜ「自然」をめぐって展開されるのかが納得できる。この一五〇行あまりのやりとりの中に、「太陽の威光をまとう貞節」(七八二行)から見る乙女の自然観とこれに対立するコウマスのそれとをめぐって、イギリス・ルネサンス文学を覆うほどの重要な問題点が凝縮されている。コウマスは、魔法の杖で乙女を身動きのできないようにしてから、若く美しい肢体は、自然が与えてくれたのだから、これを楽しみ、感覚の喜びを満喫するのが自然との「契約」を果たすことになるのだと誘いかける。(9)彼は、例えば、こんなふうにその自然観を述べる。
 
  いったいなんのために自然は、豊かに惜しみない手で
  善いものを注ぎ出し、この地上を
  花々や果実や家畜の群れであふれさせたのです。
  海を無数の稚魚の群れであふれさせたのです。
  味覚の鋭い人間を喜ばせ賞味させるためじゃないですか。
                   (七一〇~一四行)
これに続くくだりは、なかなか説得力に富むので、ミルトンは、半ばコウマスに荷担しているのではないかと思われるほどである。彼は、自然は人間が楽しむために豊かな産物を生み出す数々の例をあげてから、さらに乙女を口説いて言う。
 
  お嬢さん、お聞きなさい。恥ずかしがって処女性などと
  誇らしげな名前に騙されてはいけません。
  美人は自然の鋳た貨幣、しまっておくものではない。
  通用させなくては。むつまじく楽しみを
  分け合ってこそ値打ちのでるもの、
  一人で楽しんでも味気がない。
  時を逃せば、見捨てられたバラのように
  首うなだれて萎れてしまう。
  美人は自然の自慢の種、宮廷や宴会、それに
  豪華な式典にも姿を見せて、大勢の人が
  その細工に感嘆するようにしなくては。
                   (七三七~四七行)
 ここに展開されるコウマスの論理は、いわゆる「現在を享楽する」(carpe diem)詩のテーマと通じる点があると思うのだが、人間に備わる自然な官能(sensuality)の正当性を主張している。コウマスの自然は、その魔性につながる「暗い森」によって現わされる自然ではあるが、人間存在に潜む「自然」の半面をまぎれもなく映し出している。彼の説得力は、人間の官能を大胆に肯定しようとする魅力にある。道徳や宗教に束縛されないあるがままの人間性をこのように大胆に肯定するのは、イタリア・ルネサンス以来の流れに沿うものであり、同時に、それは、近代のより合理的な人間観に影響を与えている。しかもこれが、もう一つの自然観、宗教改革の流れに沿いながら、これも近代精神を創り出す力となった乙女の主張する自然観と対立する。
 
   いかさま師、なんの罪もない自然が
   まるで自分の子を豊かさによって放埒に仕向けようと
   しているような言い方はおやめ。自然はよい賄い人、
   その与えるものは、善良な人のためだけなのです。
   節度ある自然の定めに従って生き、
   ほどよい「節制」の神聖な教えに生きる人のためです。
                   (七六二~六七行)
この乙女の考え方が、そのまま近代資本主義を支えてきたと言うつもりはないが、自然の合理的な管理と、楽しみは節制によってこそ増大するというミルトンの考え方が、コウマスの論理と対照的である。一昔前なら、「ピューリタン的な古い禁欲主義」というわけで、乙女の「こちこちの処女性」とともに冷笑の的になるところであるが、「自然の豊かさ」という神話がどうやら崩れ始めて、資源の節約などが叫ばれだす今の世の中では、「正しく理にかなった自然の節度ある管理」を主張する乙女の意見が、妙に新鮮に響いてくる。天然資源の問題だけでなく、官能の渦の中にいるような昨今の暮らしでは、「貞節」という言葉も、これにまとわりつく道徳臭や形式主義の垢が落とされてくるにしたがって、不思議な輝きを帯びて映じてくるように思う。
 実際、コウマスと乙女とのやりとりは、一見そう見えるほど単純ではなく、両者の間には、微妙な緊張と弁証法が潜んでいることが、最近の『コウマス』論の中で指摘されている。「自然はよい賄い人、その与えるものは、善良な人のためだけ」と言うときの乙女の自然は、どこまでも「なんの罪もない」自然であって、闇の中にうごめくコウマスの自然と対立しながら表裏をなしている。コウマスの自然は、乙女のそれのパロディである。こうして、一方が他方のパロディとすれば、他方も相手のパロディとなるというダイナミックスが、この仮面劇の世界を複雑にしている。この対立は、コウマスとその一味が、森の奥へ逃げ込んで姿を消すという形で、最終的な解決を見ないままで終わっている。もっとも、これに続く一連の踊りと、とりわけ守護の精霊が再び天へ昇るときに語るエピローグの中で、ミルトンは両者の和解を暗示していると見ることもできる。すなわち、このエピローグで、貞節と官能とが、ヴィーナスとアドーニス、キューピットとプシューケーの神話を媒介にして、より高い次元での結びつきを達成しているという見方である。先のジュピターの場合に述べたように、ここでもキューピットとプシューケーがキリストと教会を暗示していると見るならば、この和解を神の摂理による「結婚愛」(10)と呼ぶこともできるであろう。
                   (四)
 ここでスペンサーとのつながりの中にこの問題を置いてみよう。スペンサーは、『妖精の女王』の第二巻十二篇に登場する魔女アクレイジア(Acrasia)を、やはりキルケーをモデルにして描いている。彼はこの神話を下敷きにして「節制」の騎士ガイアン(Guyon)と魔女アクレイジアとのエピソードを構成した。と言っても、キルケーのイメージは、ルネサンス文学の中ですでにかなりはっきりした性格を与えられていた。
 
  バラの寝床に身を横たえて、暑さのせいか
  気だるくて楽しい罪に誘われているかのように
  薄絹の銀白のヴェールに全身を包んで
  身を覆うと言うより露わに出している
                   (『妖精の女王』第二巻十二篇七七節)
この魔女の住む館は、「至福の園」(the Bower of Bliss)と呼ばれている。そこに流れる歌の調べは、コウマスの母でもあるキルケーの分身にまことに似つかわしい。
 
  それゆえバラを摘みなさい。花の盛りのすぎないうちに
  間もなく歳が寄せてきて、彼女の誇りも色あせる。
  恋のバラを摘むのです、今の時のすぎないうちに
  互いのやましい恋心で、愛し愛されるうちに。
                   (『妖精の女王』第二巻十二篇七五節)
この部分は、イタリアの詩人タッソー(Tasso)の詩が下敷きになっているが、志の固い節制の騎士ガイアンも、つい気がゆるみそうになるのも無理はない。この園には、名をジーニアス(Genius)という老人の門番が居て、旅人をそこへ誘い込もうとしている。彼は、
 
  だれにも善を与えない命の敵で、
  人を陥れようと密かにたくらみ
  見せかけでわたしたちをたぶらかす
                   (『妖精の女王』二巻十二篇四八節)
偽のジーニアスである。この偽の守護役は、自然によらないが「自然そっくりな人工の園」の門番である。彼は、よこしまな快楽と淫らな肉欲に人を誘う女主人アクレイジアの性格にふさわしく、さまざまな花で身を飾り、大きな楓の杯を手にしてガイアンを誘い込もうとするが、ガイアンはその杯を地面にたたきつけ、老人の「巧みな魔法で幻影をつくる杖」を折ってしまう。
 スペンサーは、この「至福の園」に対置させて、『妖精の女王』の第三巻六篇で、「母なる自然の命」に育まれた「アドーニスの園」(the Garden of Adonis)を描いてみせる。
 
  そこにはあらゆる美しい花々が
  母なる自然がその身を装い
  その愛する者たちを花輪で飾るために
  集められている。
                   (『妖精の女王』第三巻六篇三〇節)
そこでは、母なる自然の命の営みによって、次々と生命が誕生されていて、
 
  その間、喜びあふれる小鳥たちが
  木の葉隠れに楽しく甘い巣の中で
  まことの愛をだれにも怪しまれずにさえずる。
                   (『妖精の女王』三巻六篇四八節)
この園を守る老人こそ、先の偽のジーニアスに対するほんとうのジーニアスである。彼は、まだこの世に生まれていない魂に肉体の衣を着せては、この世へと送り出しながら、(11)みずみずしい姿の人間が出て行く門と、老いてひからびた姿の人間が入って来る二つの門の番をしている。それらが、黄金の門と鉄の門であるのは、天国の門と地獄の鉄の門を開く二つの鍵を持つ聖ペトロの姿を思わせる。
 スペンサーの描くこの二人のジーニアスで、偽の方がコウマスのモデルとなっていることを指摘したのがケント・ハイヤットである。(12)ハイヤットは、スペンサーもミルトンもキルケー伝説を下敷きにしながら、人間の正しい楽しみを歪め損なおうと謀る人物として、スペンサーは偽のジーニアスを、ミルトンはコウマスをそれぞれ登場させていると見る。偽のジーニアスという発想は、スペンサー以前にもなかったわけではない。また、ミルトンのコウマスも、原型はフィロストラトス(Philostratus)にまでさかのぼることができるのだろう。しかし、ミルトンの場合は、むしろコウマスの伝統的なイメージがまだ確立していないことが、かえって彼を登場させた要因になっていると見る方がいいようである。
 [至福の園」に描かれる世界には、人間の官能を「人工」によって歪め、自然な機能によらない作意によって官能的な快楽を追い求め、こうして、淫らな肉欲に陥れようとする魔力がある。一方これに対置される「アドーニスの園」には、母なる自然に育まれた命にあふれる愛の姿がある。人間の欲求が、正しく充足され結実する世界である。スペンサーが、このような園を「結婚愛」のアレゴリーであるアモレットの養育の場に設定したのは当然であろう。だから、この園を司るジーニアスは、必ずしも官能と対立しこれを否定する性格の者ではない。彼は、人間の感覚をほんとうの意味で開花させる命の原理を体現している。もっとも、ジーニアスは、本来は、人間の幸・不幸を司り、これをどちらかに決める運命の支配者であった。(13)ハイヤットは、「アドーニスの園」に出てくるジーニアスを『コウマス』に登場する守護の精霊のモデルと見ている。このような推論は、『コウマス』のエピローグで、「アッシリアの女王」(一〇〇二行)として現われるヴィーナスと「若いアドーニス」(九九九)の二人が憩う楽園が、「アドーニスの園」を念頭に置いて描かれているという解釈を一つの根拠にしている。
 
コウマス 羊を檻に入れよと告げる
   明星空に高くまたたき、
   日輪黄金の車を走らせ
   燃える車軸を大西洋の
   逆巻き落ちる流れに沈める。
   傾く太陽残光鋭く
   天頂高く夕空を染め
   足どりゆるく大地の裏の
   東の果ての寝所を目指す。
   さあさ楽しく宴を始めろ。
   どんちゃん騒ぎで夜通し過ごせ。
   ティプシーダンスだ楽しく踊れ。
   バラの花輪で巻き毛を飾り
   香油を振りかけ酒をたらそう。
                   (九三~一〇六行)
 コウマスの登場にともなって、天空から人間界におよぶ雄大な宇宙が、軽快なリズムに乗って徐々に変貌し始める。それは昼の明るさから夜の暗さへと変わる「自然」の姿である。その有り様が、明星やバラや香油やティプシーダンスなどとともに浮かび上がる。だからこれらのバラや香油や踊りは、日没とともに姿を現わし、やがて呼び出される「地獄の暗黒」が、自然全体を支配するまでの合間に咲くあだ花であろうか。これが官能の喜びを現わすとすれが、まさにそのような変貌をとげつつある状況のもとでの官能を象徴していると見るべきであろう。 ところが後半で、コウマスの魔力から乙女を解き放つサブライナが登場してくると、様相が一変する。星は「空高く」(九五六行)輝き、サブライナの頭には「バラの花輪」(八八六行)が飾られ、神々の香油を注がれた(八四〇行)彼女の体は再びよみがえって、その髪からは琥珀の滴がしたたる。彼女は、宝石をちりばめた車に乗って「罠にかかった貞節」(九〇八行)を助けに来る。城では三人の子供を迎えて喜びの踊りが「つま先軽く」(九六二行)踊られる。サブライナの登場を機に、コウマスの支配する世界と守護の精霊の司る世界とが明らかに対比されつつ、しかも、コウマスの登場とともに現われる明星やバラや香油や踊りが、ここでは、いわば再生して姿を現わす。このようにして、紫のぶどう酒を「甘い毒」(四七行)に変えたバッカスの息子コウマスと、彼の妖術を解いて再びよみがえらせる霊水を持つサブライナとが対置される。このことは、本質的に同じ「自然」の与える賜でも、これを偽りの用途へと歪める「至福の園」と、これに本来の正しい機能を発揮させる「アドーニスの園」とが、コウマスと守護の精霊との背後にあることを知れば納得できよう。
 このように見てくると、『コウマス』においては、貞節と官能との対立あるいは和解という問題提起の仕方よりも、むしろ、人間の存在が、一つのあり方からもう一つのあり方へと変貌すること、この変貌にともなって、人間の感覚のあり方それ自体も変貌する点が問題にされるべきではないかと思う。人間に本来備わっている官能を、一方から他方へ変貌させる力、それはいったいなんなのか、これが、この仮面劇がわたしたちに提示する問題の一つであり、このような視点から貞節を見る見方が成り立つように思う。
                 (五)
 A・S・P・ウッドハウスが一九四一年に発表した「『コウマス』の主題」は、(14)『コウマス』批評に一つの転機をもたらした。その後、ウッドハウスの説をめぐってさまざまな論議が重ねられてきている。ウッドハウスは、『コウマス』に現われる世界を一七世紀の「知性の座標」を基準にして分析して見せた。彼によると、『コウマス』の世界は、先ず「自然の秩序」と「神の恩寵」とに大別される。そして、『コウマス』の主題は、「節制」(temperance)から始まって「禁欲」(continence)へと進み、さらに「貞節」(chastity)へと発展すると見る。ここまでが「自然の秩序」に属することになる。この「貞節」が、「神の恩寵」の世界まで高められると「処女性」(virginity)という概念になると言うのである。一方コウマスは、このような「自然」の奥深くに潜む邪悪を体現していて、恩寵の世界を見ることも悟ることもできない。したがって「貞節」も「処女性」も理解できないわけである。
 ウッドハウスの説は、「貞節」と「処女性」とをあまりに図式的に区別しすぎているとして、また、「自然の秩序」と「恩寵の秩序」とが判然と分かれすぎていて、その上彼が、両者の境界をエピローグの後半の部分に置いた点などが批判されている。しかし、貞節のアレゴリーである乙女が、善悪二つの様相を見せる森でコウマスの挑戦を受けながらも、兄が示唆するようにギリシアの哲人に教えられ、父の城に達し、高い恩寵の世界を象徴するエピローグに至るまでの軌道は、ウッドハウスの説が、今なお大筋においては正当であることを思わせる。
 ここで注目しなければならないのは、このような構成は、一方では自然の内に宿る善を認めながらも、その善が悪に決定的な勝利を得るためには、天の恩寵の世界へと上昇することが要求されてくる点である。乙女とコウマスとの自然観をめぐるやりとりが、ともすればコウマスの方に説得力を感じさせるのに対して、乙女の方は、少なくともこの段階では、決定的な勝利を得ることができないのは、このような主題の展開の仕方と無関係ではない。
 スペンサーでは、自然の内に働く力が、時には善となり時には悪とつながりながらも、問題の解決はどこまでも自然の内部で成就されている。偽のジーニアスの司る「至福の園」から、真のジーニアスの司る「アドーニスの園」へと自然がその自然の秩序自体の内で変貌をとげるのである。スペンサーの場合は、だから、貞節は、一方から他方へと自然を転化させるこのような原動力として働く。恩寵はここでは、自然が本来あるべき姿を回復するように仕向けるのであって、自然それ自体を超越させる力として働くことはない。このようなスペンサーの系譜の上に『コウマス』を置いてみるならば、ウッドハウスのように、「貞節」と「処女性」とを区別して、一方を「自然の秩序」に属するもの、他方を「恩寵の秩序」に属するものとして図式的に区別するのは必ずしも正確ではないのかもしれない。けれども『コウマス』の貞節には、このような二重の解釈を生む素地があるのも否定できないのである。この二重性は、例えばエピローグの解釈においても、乙女に宿る貞節が、自然の秩序の内側で結婚愛を成就させているという見方と、むしろ、人間の美徳全体を宗教的な高さにおいて完成させているとする見方との両方の解釈を生む素地ともなっている。
 ミルトンの『コウマス』では、自然は、それを超えたより高い秩序へと方向づけられることで初めてそのあるべき姿を取り戻す。貞節もまた、自然と恩寵の両方に属していて、一方から他方へと試練によって上昇していくという特徴を持つ。この二つの秩序の接点がサブライナの登場にあるのは言うまでもない。だから、「自然の秩序」の中では、乙女はコウマスの挑戦から身を守らなければならない。彼女は、人間の官能に対して、どちらかと言えば消極的になり防御的にならざるをえない。コウマスの雄弁に対して乙女の答が精彩を欠いている印象を与えるとすれば、それはこのためである。彼女は、コウマスとの論争が、この場所では決着がつかないことをよく知っている。ところが、サブライナの登場とともに貞節はにわかにダイナッミクな積極性を見せ始める。色彩や香りや踊りによって光彩を放ち始める。その美しさは、「自然の秩序」の内部から発しているというよりは、上からの恩寵の光に照らされることによって生じているように見える。
 『コウマス』の乙女に最も類似している人物を『妖精の女王』の中から見いだすとすれば、それはブリトマートであろう。スペンサーは、彼女によって貞節のあるべき姿を体現させようとしている。しかも、このブリトマートに対置して、スペンサーは、偽の貞節を体現するビュジレインを置いているのである。(15)結婚愛のアレゴリーであるアモレットを挟んで、ブリトマートとビュジレインとが闘う場面は、『妖精の女王』の中でも特に注目されている。だが、『コウマス』の貞節には、このような真偽の二重性は見られない。その代わり地上から天上へと試練によって試され高められていく過程が現われる。
 わたしたちは、ここで、「試練」というミルトン独特の考え方に突き当たる。「試される」ということ、それはミルトンによれば、善と悪、真理と虚偽の両者が、分かち難く絡み合っている場合に、これが敵対する悪の力や虚偽なるものから挑戦を受けて、善悪・真偽の葛藤の内から初めてほんとうに真なるものが生み出されてくることを意味する。『コウマス』では、それが、貞節を体現する乙女の試練という形をとる。彼女が、コウマスの魔力に屈しなかったことは、単に貞節が官能に克ったという単純な図式ではすまされない。なぜなら、すでに見てきたように、ここでの試練は、人間の官能それ自体の純化をも含むからである。だとすれば、ここでの貞節は、官能をも変貌させるような「力・美徳」(virtue)を試練の中から学びとったことになる。言い替えれば、乙女は、コウマスの挑戦を受けその罠に陥るという試練の中から始めて彼女自身の内に宿る愛と性との本来あるべき姿に目覚めさせられたということになる。しかも、乙女を導いて彼女の内面に宿る貞節にこのような業を達成させた究極の力は、人間と人間を囲む自然を超えた聖なるものから来るのだということを、この仮面劇は示唆しているように思う。
 わたしたちは、コウマスがバッカスの息子であるのを思い出す。バッカス、すなわちギリシア名ではディオニューソスと呼ばれるこの神は、本来は原始の野生の力、というよりは、秩序と調和が創り出される以前の混沌と無秩序を象徴していると考えられている。それは絶えず既成の秩序に挑戦してこれを試そうとする原理なのである。この挑戦を受けとめ(決してこれを忌避するのではない)、その中から新たな秩序と調和を再生させる働きこそ乙女のアレゴリーである貞節の意味であると言ってよいのではないだろうか。
 今わたしの手元にウィリアム・ブレイクが描いた『コウマス』の挿絵がある。全部で八葉からなるが、その最後の場面では、はるかな森を背景にして、両手を少し広げるような姿の乙女が、年老いた父母に迎えられている。乙女の後ろには兄弟が居て、一人は前を向き、一人は体を後ろ向きにしたまま首をよじるようにして守護の精霊(翼を備えた天使のようである)が飛び去ろうとするのを仰ぎ見ている。天使の向かう方向からは、夜明けの太陽がまさに昇ろうとしている。ブレイクの絵は、よほど注意しないと誤解を招くが、この場合もそうである。一見するとこの絵は、処女性を全うした乙女が、無事に両親の所へ帰り着いた姿を描いているように受けとれる。しかし、ブレイクの意図はそうではないであろう。おそらく、乙女のいくらか喜ばしい仕草と天使が両手をやや開いて上にあげているのは、乙女の内にある愛の開花を意味しているのであろう。太陽が真理を現わすとすれば、これに背を向けている者と天使を仰いでいる者とは、この真理を悟る者と悟らない者の姿を象徴しているのかもしれない。とまれ、「貞節への賛歌」とも言うべきこの仮面劇は、次のような夢見る描写を含むエピローグで終わる。
 
守護の精霊 そこでは虹の女神が露の弧を描いて
  しっとりと堤を潤し
  縫いとりした彼女の飾り紐よりも
  色とりどりの花を咲かせ、
  エーリュシオンの園の雫で
  (聞く耳ある人よお聞きなさい)
  ヒヤシンスやバラの床を濡らします。
  そこでは若いアドーニスが深手を(16)
  癒され、折々に身を横たえて
  そっとまどろみ、地面には
  アッシリアの女王が悲しく座るのです。
  だが、星空輝くはるか高みへ上げられた
  彼女の名高い息子、天のキューピットは
  長いさすらいの労苦の後でうっとりと甘美に浸る
  愛しいプシューケーを抱いています。
  神々の一致した思し召しで
  彼女は永遠の花嫁となり
  きよらかにうるわしいその体からは
  二人の幸いな双子、若さと悦びとが
  生まれるのです。ジュピターの誓われたとおりに。
                   (九九二~一〇一一行)
 
         【
(1)例えば乙女と兄弟の役は、伯爵の三人の子供、アリス・エジャトン(一五歳)、  ジョン(十一歳)、トマス(九歳)が、それぞれ演じることになっていて、彼 らが、父のいるラドロウ城へ来る途中の森が劇中の森に想定されている。
(2)ミルトンは、ヘンリ・ローズの協力のもとに、一六三四年の春頃から夏にかけて『コウマス』を書いたと考えられる。〔William Riley Parker, Milton:A Biography,vol.I(Oxford University Press,1968),p.128;vol.II,p.789,(28)n.〕また彼は、一六三七年(から三八年にかけて?)これに加筆訂正を加えたと思われる。〔John Carey ed.,Milton:Complete Shorter Poems (Longman,1968),p.168.〕
(3)ミルトンは、言論の自由を論じた『アレオパギティカ』(一六四四)で、スペ  ンサーを道徳の師と仰いで「賢明で真面目なスペンサー」と呼んでいる。
  コウマスは、乙女の歌を聞いて、母キルケーの歌を思い出し、乙女の歌と比べ てこう述べる。
   だが、彼女らの歌は心地よいまどろみで感覚を麻痺させ
   甘い恍惚で意識を奪うものであったのに、
                   (二六〇ー六一行)
 これと『妖精の女王』三巻序の歌(四)の次の行とを比較せよ。
   そして彼女の輝く光に驚きうたれて
   わたしの感覚は心地よいまどろみに恍惚となった。
(4)ディマリによれば、ミルトンたちが『コウマス』を手がけるにあたって参考にしたと思われる仮面劇の主なものは次のとおりである。
  John Fletcher, The Faithful Shepherdess.(1609)
        〔貞節をテーマにしている〕
  Ben Jonson, Hymenaei.(1606)
        Pleasure Reconciled to Virtue.(1618)
        〔コウマスが登場する〕 
  Aurelian Townshend, Tempe Restored.(1632) 
  〔キルケー、魔法の杖、杯、獣になった人間など。アリスが出演している。〕
  James Shirley, Triumph of Peace.(1634)
        〔守護の精霊にあたるジーニアスが始めと終わりに歌う。〕
  Thomas Carew, Coelum Britannicum.(1634)
       〔ジョンとトマスが出演して歌う。〕
 最近の論文では、Treipが最後の二つの仮面劇と『コウマス』との関係を論じて いる。Mindele Anne Treip, "Comus and the Stuart Masuque Connection,"  in A Quarterly Journal of Short Articles, Notes, and Reviews.Vol.2,no. 3,1989,83-89.
(5)代表的なものとして次の二つをあげておきたい。一つは、ミルトンの伝記の著  者パーカーの見解である。〔William Riley Parker, Milton(A Biography),vol.I(Oxford University Press,1968),pp.130;132.〕
  パーカーの見方を要約すると、ミルトンが貞節をテーマに選んだのは、出演者 の年齢と能力を考慮に入れたからで、それが一五歳の少女に最もふさわしい徳 目だからにすぎないことになる。これと対照的なのが、ティリャドの見解であ る。〔E.M.W.Tillyard ,Milton (Chatto & Windus,1930):Appendix C,"The Doctrine of Chastity in Milton,"pp.318-26.〕彼は、ミルトンが、聖なる詩人となるために少なくとも『コウマス』を書いていた時期には、生涯を独身で過ごすつもりで あったと推論している。
(6)この頃すでにオリヴァ・クロムウエルは議員に選出されていたし、王と議会と  の関係も険悪になりつつあった。また、ウィリアム・ロードがカンタベリの大  主教になるにおよんで、ピューリタンに対する弾圧も厳しさを加えていた。
(7)John Donne(1572-1631),Songs and Sonnets (1601?).彼の詩集はその死後に出版されたが、これらのソネットが書かれたのはアンとの結婚の頃(一六〇一年)ではないかと思われる。
(8)貞節が「鎧で身を固める」というイメージは、『妖精の女王』から。
(9)シェイクスピアのソネット四番の次の行を参照。
    美しい浪費家よ、なぜ君は美の遺産を
    自分のためだけに 空しく使いはたすのか
    「自然」の遺産は 贈与でなく貸与されるもの
    自然が気前よく貸すのは 気前のよい相手に限られる
                   (中西信太郎 訳)
(10)ミルトンの「結婚愛」については次の論文がある。
  William Haller,"'Hail wedded love'(1946)," in Alan Rudrum ed.,
  Milton:Modern Judgements (Macmillan,1968),pp.296-312.
(11)魂が肉体の衣を着せられてこの世に送り出されるという考え方は、プラトン  的であるが、スペンサーの場合は、特にここでのジーニアスのようにネオプ  ラトニズムとキリスト教とが二重写しに描かれることが多い。
(12) A.Kent Hieatt, Chaucer Spenser Milton: Mythopoeic Continuities and Transformations (MacGill-Queen's University Press,1975), chapter 2,
   "Faerie Queene II,III and Comus."
(13)ジーニアスは、ラテン語の「生み出す」から出た神の名である。本来はロー  マ時代の家族の守護神であり、結婚と結びついてまつられることも多かった。  やがてギリシアの「精霊」(daimon)と混じって一人一人の守護神として、幸  ・不幸を左右する役割を持つようになった。
(14)A.S.P.Woodhouse,"The Argument of Milton's Comus," University of Toronto Quarterly ,vol. 11(1941-42),46-71.なおこの論文は次にも収められている.Julian Lovelock,ed., Milton:Comus and Samson Agonistes,A Casebook(Macmillan,1975),pp.41-70.
(15)ブリトマートは『妖精の女王』の三巻と四巻で活躍するヒロインであるが、  彼女が貞節のアレゴリーであることに異論はない。しかし、ビュジレインにつ  いては諸説がある。歪められた異常な情欲と解することもできるが、新妻の
  "frigidity"とする見方もある。ここでは、ファウラーの説に従った。
  Alastair Fowler,Triumphal Forms:Structural patterns in Elizabethan
  poetry(Cambridge University Press,1970),pp.47-58.
(16)ここでのヴィーナスとアドーニス、キューピットとプシューケーの双組の神話的なアレゴリーは、いずれもスペンサーの「アドーニスの園」の中のそれらと関連している。ティリャドによれば、これらのアレゴリーをこのエピローグに入れることによって、ミルトンは、コウマスと乙女とが和解する道を示唆したことになる。"The Action of Comus," in Tillyard,Studies in Milton (Chatto & Windus,1951)を参照。しかし、「アドーニスの園」では、キューピットとヴィーナスとは、同じ園にいるが、ここでは、キューピットは、「はるか高みへ上げられ」ていて「天のキューピット」と呼ばれている。このことから、ここでのキューピットとプシューケーとの結びつきに象徴される愛が、神の恩寵の秩序に属すると解されている。なお、ヴィーナスが「アッシリアの女王」と呼ばれるのは、彼女がもともとアッシリアの神イシタールから出ているから。
    
 『コウマス』のテキストについて
 
 『コウマス』のテキスト批評は非常に複雑である。ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジの図書館に、ミルトン自筆の詩集の草稿が保存されている。この草稿は「ケンブリッジ草稿」(the Cambridge Manuscript)あるいは「トリニティ草稿」(the Trinity Manuscript)と呼ばれていて、その中に二つの仮面劇が含まれている。『コウマス』の草稿は、一六三四年から一六三七年か八年までの間に(あるいはそれ以後もか?)、すなわちこの仮面劇の初演の年からこれが最初に出版されるまでの間に、何回かに渡って削除、修正、加筆がなされている。その時期は大きく四つに分かれていると最近では推定されている。初演の台本は、この草稿の初期の段階で写し取られたのであろう。ケンブリッジ草稿とは別に「ブリッジウォーター草稿」(the Bridgewater Manuscript)と呼ばれるものが残っている。こちらの方は、ミルトンの自筆ではなく専門の書記によるコピーである。「ブリッジウォーター草稿」は、ケンブリッジ草稿とも初版のテキストともかなり違っていて、例えば、守護の精霊の語るエピローグの一部が、劇の冒頭のプロローグにきていたりする。この草稿が実際の台本に近いと考えられているが、一六三七年頃にケンブリッジ草稿から写されたという説もあり、一六三四年のものだという確証はない。いずれにせよミルトンは、上演以後も修正を続けていて、特に出版前の一六三七年には、ケンブリッジ草稿にかなり重要な加筆・修正を加えていると見られている。
 初版は、『コウマス』を演出したヘンリー・ローズによって一六三七年に出されたが、これも、ケンブリッジ草稿と一致してはいない。その後、『コウマス』は、一六四六年(表紙には四五年となっている)の『ジョン・ミルトン詩集』に収められて出ている。四五年版は三七年版よりも句読点が多くなっている。この詩集は、一六七三年に増補されて出た。現在の『コウマス』のテキストは、四五年版によるものと七三年版によるものとがある。巻末の訳は、先にわたしが出版した『コウマス』の原文につけた訳を全面的に改訳したもので、これの底本は、Douglas Bush ed., Milton: Poetical Works (Oxford University Press,1966)である。この版は学生のために編集したもので、一応四五年版を底本にしているが、七三年版をも参照しながら句読点を変え現代綴りに改めてある。
*この章は私市元宏著『ミルトン:ラドロウ城の仮面劇』京都あぽろん社(1992年)の第二章「『コウマス』序説」を抜き出したものである。
                        ミルトンとその思想へ