ラドロウ城の仮面劇について
(一)
イギリスの西方、ロンドンから特急で一時間ほど行った所からウェールズ地方が始まる。この地方と旧イングランドとの境界には、チエスター、シュルーズベリなど、古い町並みを残した都市があり、ラドロウもその一つである。ウェールズは、スコットランドやアイルランドよりもずっと早い時期にイングランドに服従した地方であるが、それでも、この地域には、中央の支配に対して地方の分権を守り通してきた歴史があり、それが今にいたるまで独特の風格をこれら境界の町々に伝えている。
シュルーズベリから北へ汽車で四〇分ほど行くとチェスター市があり、南へ同じほど下がるとラドロウ市がある。市と言っても、人口は一万にも満たないような小さな町にすぎない。サロップ州のなだらかな丘とその間を埋める森や木立や牧場に囲まれている。ラドロウの駅は、町の外側にある。そこで汽車を降りると市の中心まで歩いて二〇分くらいである。わたしがラドロウに来たのは、先ずなによりもここにある城の廃虚を見るためであった。町の中心を通り抜けると西の方に古い門が見えてくる。中に入ると一面に芝生が広がった。入口で四〇ペンスを払ってから芝生に入る。緑の芝生の向こうに黄土色の石の廃虚が、城壁や塔の跡を見せて連なっている。まさに廃虚としか言いようがないほどにそれらはみる影もなく崩れ落ちている。むろん各部屋の面影などあろうはずもない。しかし、案内書にはちゃんと城の見取図と各広間の解説がしてあるのだから面白い。城の内部に入る。十二世紀にできた円形の礼拝堂の外壁だけが残っている。苔むした壁が美しい。本丸の横の一郭が、大広間の跡で、ここがわたしの訪問の目的地点であった。
一六三四年九月二九日の夕べ、ここで一つの出来事があった。ジョン・ミルトンが書いた『コウマス』という仮面劇が、この広間で初めて上演されたのである。十一世紀に起こったノルマンの征服のすぐ後で、ロンドンの中央政庁は、このウェールズに臨む要地に城を築いて、この地方の守りを固めると同時に、ここをこの地帯を支配する根拠地とした。一〇九四年のことで、これがラドロウ城の由来であり、同時に市としてのラドロウの事実上の始まりであった。だから、この町は、中世のイギリスの典型的な城下町として発達したと言える。城のすぐ東には、これも十二世紀に建てられた聖ローレンス聖堂が美しい姿を見せている。十三世紀には、町を囲む城壁ができて、ギルドと呼ばれる職人たちの宗教団体も生まれた。羊毛の集散地として栄えたこの町は、十五世紀には、ウェールズの政庁所在地となり、以後十七世紀半ばまでウェールズ行政の要の地であった。
(二)
一六三四年の九月、ラドロウ城に、すでにウェールズの総督に任ぜられていたブリッジウォーター伯爵が着任してきたときには、だから、この町は、いわば最後の繁栄を楽しんでいたことになる。この伯爵の着任を祝う席でミルトンの仮面劇が上演されたのであった。「仮面劇」というのは、シェイクスピアの劇などとは少し違っていて、貴族の館や宮廷で 半ば家族的な祝いの際に演じられるもので、歌や踊りを多分に取り入れていて、その家族の人たちもこれに参加するのが特徴の一つであった。この夜の仮面劇も、こういうわけで、伯爵の家族、すなわち彼の三人の子供たちの参加を得て上演された。ところが、この上演には、着任を祝うと同時に、もう一つの大事な目的があった。それは、伯爵の三人の子、アリスとジョンとトマスとを、この席で列座の客人たちに紹介し、合わせて、アリス嬢が貴夫人として社交界に加わるという、いわば、アリスの顔見せ、いわば「成人儀礼」としての役割をも兼ねることであった。三人の子どもたちに音楽を教えていたヘンリー・ローズが、このための仮面劇の作詞をミルトンに依頼したのが『コウマス』の生まれるきっかけとなったのである。だから、ミルトンは、始めから、この仮面劇が、どういう目的でだれによって、どこで演じられるかを頭に入れて『コウマス』を書いた。
ところで、ブリッジウォーター伯爵夫人は、伯爵の継母の連れ子にあたる人で、したがって、夫人の母、ダービー伯爵未亡人は、伯爵の継母でもあり義理の母にもなる。この時代の貴族の血縁関係は、現代のわたしたちのとはずいぶん違っているが、それでも伯爵一門をめぐる複雑な親族関係の一端がうかがわれる。さらに、この一族の中で、自分の妻を家来の一人と関係させるという異常なスキャンダルがあって、この事件が伯爵一門の威信を傷つけていたと思われる。ウェールズは、先に述べたように、地方分権意識の強い地方である。そこへ中央からの総督として着任する伯爵にとって、その夜の催しと宴は、ことのほか気をつかう行事であったろうと想像される。このような晴の舞台で、総督としての威信を列座の人たちに印象づけ、同時に三人の子どもたちを紹介してアリス嬢を社交界に仲間入りさせること、これがミルトンたちに課せられた仮面劇の意図であった。
ミルトンは、ローズを通じて自分になにが要求されているのかを熟知していた。ところが、ミルトンの方にも、彼なりに一つの意図というか抱負があった。彼には、ケンブリッジ在学中から、将来聖職に入り、神と国家に奉仕したいという思いがあった。だが、当時の英国国教会の現状を見るにつけて、またピューリタン的な進取の気質の強かったケンブリッジの影響をも受けて、ついにこれを断念し、その代わりに詩人として神と国家に奉仕しよう、こういう思いが彼の内に芽生えていたと考えられるのである。ミルトンがちょうどこの仮面劇を書いた頃、彼はケンブリッジを卒業して、父の住居のあるロンドン西郊のハマースミスで、独り「真の詩人となるために」学んでいたときであった。将来に対する抱負と、それに一抹の不安もあったであろう。なによりも彼の心をとらえて離さなかった問題、それは、牧師が神の言葉を語ることによって人々を教化するちょうどそのように、詩人が詩を通じて人々を感化することができるだろうか、ということであった。だから、この仮面劇は、彼に、自分のこの問いかけを実地に試す一つの機会を与えたわけである。
ラドロウは、なだらかな丘に囲まれて、美しい森と牧場の広がる丘陵地帯にあった。ティーム川の流れに沿って城がそびえ、その城壁が町全体を囲むように延びていた。城の前には聖ローレンス聖堂の鐘楼が立ち、町並みは今でも当時の面影をとどめている。一歩城壁を出ると、そこは牧場と鬱蒼と茂る森であった。ミルトンは、伯爵夫妻だけが先に現地に赴き、子どもたちは後からラドロウへ向かうという状況を設定した。そして、伯爵の三人の子どもたちが、父母のいる城へ向かう途中の森の中で道に迷い、独りはぐれた乙女が、妖術師の誘惑にさらされるという場面を設定した。このような設定の中では、森は一つの象徴性を帯びてくる。それは、大自然に潜む混沌と無秩序、そしてその中をうごめく人間の獣性が顔を出す場となる。一方、城と町は、神の秩序と、この秩序に支えられた人間社会を現わす。そして、この森の中で試されるのが三人の子どもたちの美徳、とりわけ、アリスが扮する乙女の「純潔」あるいは「貞節」である。以下に『コウマス』の粗筋を紹介しよう。
始めに守護の精霊が現われると、自分が来たのは正しい人たちを守るために天から遣わされたからであると述べる。特に、今夜この森を通り抜けて父の城へ向かっている乙女とその兄弟たちを、森に住む妖術師のコウマスの誘惑から守るのが使命であると前口上を語る。すると、コウマスが、その手下ども(頭が獣に変えられている)を連れて登場して、自分は昼の世界に挑戦する夜の世界の司祭であって、禁欲的な生活に対して官能的な生き方を謳歌するためにこの森でお祭り騒ぎをやるのだと宣言する。そこへ、兄弟からはぐれた乙女が現われる。彼女は、暗闇の中で方向を見失ってはいるが、天の力添えで恐れることなく美徳の心に安んじることができると述べてから、兄弟たちの居場所を探し求めるためにエコー(こだま)に向かって歌を歌う。コウマスは乙女に近づいて、二人の居る所へ案内するからと乙女を誘い出す。一方兄弟の方は、姉の身に何事か起こったのではないかと案じる弟に対して、兄が、美徳を身につけた乙女の貞節には、どのような敵も近づく力がないと力説する。そこへ牧人に変装した守護の精霊が登場して、乙女がコウマスに連れ去られたことを知らせる。三人は、乙女を救い出そうと、コウマスの魔力から身を守ってくれる薬草を身につけて出かける。一方コウマスは、魔法によって乙女を椅子に固定したままで、処女性を捨てて自然が与えてくれる豊かな楽しみを享楽するように迫るが、乙女は彼の言葉を聞き入れないで、逆にその主張を一つ一つ論駁していく。そこへ兄弟たちが現われてコウマス一味を退散させる。だが、コウマスの杖を奪うのを忘れたために魔法が解けない。そこでセヴァン河の女神サブライナを呼び出して、彼女の聖水によって乙女を自由にしてもらう。精霊は三人の子どもたちをともなって、彼らの父の居城に着き、エピローグを語った後再び天へ帰って行く。
(三)
アリスは当時一五歳、「兄」役のジョンは十一歳、「弟」役のトマスは九歳であった。また、守護の精霊はヘンリー・ローズが演じている。ところで仮面劇のこのような特徴、すなわちそれが献上される貴族たちみずからがこれを演じるという特徴は、劇が演じられる舞台となる場そのもの、この場合は伯爵のいる広間が、そっくりそのまま象徴性を帯びることをも意味している。ラドロウ城の二階の広間が(現在そこは「コウマス・ホール」と呼ばれている)、そのままで宇宙全体の中心となる演劇的な空間に変わるのである。伯爵夫妻がその真ん中にいる。そこはいわば「王座」であり、地上の権力そのものを彼の座が具現している。上には神のおられる天が存在し、広間の外には、妖怪のうごめく「森」が黒々と広がり、城と町とを取り囲んでいる。
こういう象徴的な舞台構成は、観客と観客に演じて見せる舞台という現代のわたしたちが一般に考えている概念とは異なった性格を持つ。ここでは、俳優が観客に演じて見せるというよりも、臨席の人たち自身が舞台に参与することが要請されてくる。だから、ミルトンは、この仮面劇を伯爵の前で演じて見せるために書いたのではない。少なくとも、同程度に、伯爵の三人の子供たちに演じて「もらう」ためにも書いているのである。
このことは、この仮面劇のテーマである「純潔」を理解する上でもきわめて大切である。なぜなら、伯爵の家族が、このようなテーマを演じることによって、一門にまつわるスキャンダルを臨席の人たちの心から消し去る効果をともなうと考えられるからである。だが、「純潔」とは、この場合、未婚の女性が処女性を全うするという狭い意味だけに理解されるべきではない。原語の"chastity"は、本来既婚の女性の「貞操」という意味をも含む言葉である。ミルトンは、ここでは「処女性」と「貞操」とを区別しているという説もある。しかし、アリスがまだ処女であるという事情を考慮に入れるならば、処女性と貞操とがつながっていても少しもおかしくはない。ミルトンは、両方の意味を含む広がりをもってこの語を用いている、こう解する方が正しいと思う。それどころか、ここでの"chastity"は、女性に課せられた倫理性という枠を越えて、人間の生き方そのものを規定する広がりと高さを有しているのである。すなわち、人間の美徳を構成するさまざまな徳目の中心を占めて、これらの徳目を成り立たせる中核としての"chastity"が描かれている。この意味では、この語を「貞節」、あるいはもう少し意味を拡大すれば「節操」と訳す方が正しいのであろう。
このように見てくると、ミルトンが「貞節」をテーマに選んだ意図が初めて見えてくる。このテーマの背後には、ある政治的な意図が秘められていたことが分かるのである。この日の催しは、なによりも政治的に重要な意味を持っていたし、ミルトンはこのことをよく知っていた。もっともミルトンが、ひたすら伯爵の政治的な意図に沿ってこのテーマを扱っていると解するのは正しくない。むしろ、彼は、ここで為政者の「貞節」という問題を持ち込むことによって、これを演じる子供たちだけではなく、伯爵と臨席の司法・行政の役にある人たちをもこのテーマの中へと引き込み、これに参加することによって、彼らが、この主題にもられた道義性を獲得しそのように「成る」ことを期待していると考えることができる。詩人は、自分の作品を特定の為政者とその家来たちに捧げる。同時に、捧げられた者は、その作品にもられた主題と一体になることが要請されてくる。地上の権力を象徴する席にあって、伯爵は、彼の政治姿勢がこのような貞節に貫かれるべきことを自他ともに向いて宣言するように仕向けられるのである。これが、預言者であり詩人であろうとするミルトンの意図したことであったと言えよう。
このような政治的な意図は、しかしながら、この作品の内容を豊かにする要素とはなっても、これを矮小化するものでは決してない。なぜなら、この作品は、第一義的には、三人の子供、とりわけアリス嬢がヒロインとなるように構成されているからである。この仮面劇は、いわば、彼女が大人の世界へ仲間入りする晴の舞台であった。この劇を主演することによって、一人の「乙女」が、成人した女性へと成長し、その過程を演出するように全体が仕組まれている。「処女」から成熟した女性へと成長する過程の中で彼女の「貞節・節操」が試されるのである。ここでの「処女性」には、いったいどのような意義が与えられているのだろうか。彼女にとって処女性は、成熟した女性となる妨げになっているのだろうか。それとも、彼女が、ほんとうの意味で女性として開花するまでは、処女性は、守り通さなくてはならない重要な過程なのだろうか。これが、この仮面劇のヒロインをめぐって浮かび上がってくる問題提起の一つである。ここに提示されるのは、言うまでもなく、きわめて倫理的な問いである。そして、コウマスが乙女を誘惑するのも、まさにこの点をめぐっている。
(四)
ジュピターの宮殿の星の型どる門の前に
わたしの住まいがあります。
という出だしで、守護の精霊は、この仮面劇のプロローグを語り始める。ジュピターは、言うまでもなく、ローマの最高神である。どうしてミルトンは、ローマの神でこの仮面劇を始めたのだろう。一つには、ギリシア・ローマの神々が、この時代には、キリスト教の神とその世界を暗示する役割を果たしていたからでもあるが、むしろ、ミルトンは、神々の世界を、聖書の神のいる天よりも一段下に置いていたからだと考える方が正しい。聖書の神が造り主であるなら、ギリシア・ローマの神々は、本来、太陽や海、河や森、性愛、学問、音楽、戦いなどの神々である。これらの神々の支配する世界がどんなに高くても、そこは、この宇宙全体を含む大自然の内側に存在している、こうミルトンは考えていたのである。そして、この大自然の内側から劇を始めたのは、そこにもられた主題が、人間の肉体とその性、人間の道徳を性格づける「貞節」を扱っているからである。
さて、乙女が「貞節」を体現していて「暗い森の迷路」の中で試されるとすれば、コウマスは、彼女をまどわす妖術師である。彼は、巧みに乙女の目をくらませて、官能の悦楽へと誘い込もうとする。「自然」は、せっかく美しい肉体を与えてくれているのだから、せいぜいこれを楽しむのが「自然」の理にかなう行為であると彼は主張する。ここでは、「貞節」が「自然」と結びつけられている点が注目される。「自然」を人間がどのように理解し、どうこれに対処するのか。言い方を替えれば、なにが「自然」であり、なにが「自然」ではないのか。これが、コウマスと乙女との間に争われる論点の一つになってくる。性を楽しむのが「自然」なことであるのなら、これを制約するのは自然に反することになり、この見方に従うなら、「貞節」という言葉も色あせてくることになる。はたしてそうなのか。自然はほんとうに豊かで、あり余る恵みを人間に注いでくれるのか。また、人間の肉体は自然が与えてくれたものなのだから、これを楽しむのが一番理にかなうことなのか。それとも、自然は、決して無駄を許さない正当な管理を要するものなのか。さらに人間の肉体は、節制によって正しく用いられるべきなのか。これが、コウマスと乙女との間で問われてくる。この問いに対する答は、二十世紀の現在でもまで出てはいない。出ていないどころか、ますます鋭く切実に現代の自然観、人間観が、この答を迫られているのをわたしたちは感じている。 コウマスと乙女との論争は、平行線をたどりつつも、その中から両者の食い違いが徐々に浮き彫りにされる。要するにコウマスにとっては、どこまでも目に見える「自然」だけが彼の世界なのである。これ以外の存在や価値は、彼には無縁である。彼は、この物質の世界とその中心にある人間の肉体以外のものを「悟る耳も心もない」(七八七行)のだ。だが、乙女は自然をそのようには見ていない。自然の奥になにか神秘なもの崇高なものの存在を感じとっている。その「気高い神秘と崇高な理念」こそ、乙女をして「貞節」を尊いものに思わせる唯一の根拠である。「貞節」という人間の肉体と心のあり方に関係する言葉も、人間を囲む自然の奥に潜む超自然なもの、神秘なものと結びつかないと意味を持たない、このことが示唆されてくる。言い替えると、人間の倫理は、なにか宗教的なものと連動することによってしか、その究極の根拠を保ちえないことが浮かび上がってくるのである。
(五)
舞台をもう一度一七世紀のラドロウ城に戻そう。明々と灯火に照らされた大広間の一方には、伯爵夫妻が座に着いている。この座を中心に、その両脇には、廷臣貴族やラドロウの司法・行政の役人たちが席を並べる。そこは、秩序と調和の支配する世界の象徴である。広間の反対側には、背景となる森が置かれ、この秩序に対する反逆を暗示している。ローズが登場する。彼の口上は、宇宙の果てから始まり、大西洋に浮かぶ島国のイギリスに及び、さらにその中のウェールズへ、そしてこの広間へと焦点を絞っていく。コウマスが登場して無秩序と不協和と人間の獣性と享楽とを呼び覚ます。闇の底から上ってくる恐ろしい地獄の女神までが呼び出される。続いてアリスが登場すると一斉に拍手が湧く。これから大人の世界に入ろうとする乙女にとって、なによりも大切なのは「貞節」であり、それがコウマスによって試されるわけである。
城と森、人間と自然、大人と子供、節制と享楽、これらの相反する世界が対立し反発し合いながら出会う。これらのさまざまな出会いの接点に、ミルトンは「貞節」を置く。混沌から秩序を、自然から人間の文化を、子供から大人を生みだし創り出す力の原点を、ミルトンは、「貞節」という独特の概念でとらえているようである。いわば、貞節あるいは「純潔のコスモロジー」とでも言うべきであろうか。彼は、この概念の中で、伯爵の座に象徴される為政者のあるべき姿と、誘惑にさらされる乙女の倫理的な選択とを一つに重ね合わせる。これが演じられる舞台は、全宇宙の中心を象徴していて、これらの選択が、全宇宙を支配する神ご自身から人間に委託されていることを暗示している。ミルトンは、教会での説教ではなく、仮面劇という演劇的な形式を用いることによって、見る者も演じる者も共に参与する一つの世界をこの大広間につくり出そうとした。これこそ、彼が、詩人として預言者として、なによりも神の僕として自分の役割を演じる道であった。
わたしは、始めに、この広間で一つの出来事があったと言った。それは、ミルトンの仮面劇が、第一義的には、読者に読ませるための詩として書かれたものではないからである。また、観客に繰り返し見せるための芝居の台本でさえもなかった。まして、単なる美徳を説くための説教ではなかった。少なくとも、こういうことが、ミルトンの本来の意図ではなかった。彼が第一義的に目指したもの、それは、一六三四年の九月二九日の夜、伯爵の三人の子供たちによって、ラドロウ城の広間で演じられる「現実のドラマ」だったのである。それは、一つの政治的な事件であり、倫理的な事件であり、宗教的な高さに至ろうとする事件であり、文学的な事件であり、これらをすべて含めた「演劇的な」出来事であった。なるほど、彼は、上演の後に、この仮面劇の台本にかなりの加筆訂正を施してはいる。しかし、ミルトンがこれの再演を望んだも、この出来事に含まれている内実の意味と切り離すことができない。彼がこの時に書いた詩が、今なお多くの研究者の注目を引き、かつ読み継がれていくであろうという事実は、「この出来事」と切り離して考えるわけにはいかない。そこで現実に起こったことの意味が、幾度も幾度も問われ続けなければならない。
ミルトンは、この仮面劇に題名をつけなかった。『コウマス』というのは、後にジョン・トウランドという人が、その「ミルトン伝」の中でつけた呼び名にすぎない。(1)原題はこうである。
『ラドロウ城において、一六三四年、ミカエル祭の夜、ウェールズ総督ブリッジウォーター伯爵とブラックリー子爵のご臨席のもとで上演された仮面劇』
これが、この仮面劇の正式の題であり、この仮面劇の意味するところである。
(六)
ラドロウの夕暮れは遅く、しかも、珍しいほどのよい日差しに包まれて、城の後ろを流れるティーム川では、子供たちがボートに乗ってはしゃいでいた。川には、古いアーチ型の橋がどっしりとかかり、岸の緑と調和していた。やや日も傾いたので、わたしは、この原稿の下書きを書く手を止めて、再び城壁に沿って坂道を城門の方へ歩いていった。城壁の側は公園になっていて、色とりどりの花が咲き乱れている。城の門前を右に折れて、聖ローレンス聖堂の方へ向かう。聖堂の中はひんやりと落ち着いている。教区の信者さんらしい人が、売店の番をしていて、にこやかに挨拶してくれる。
わたしが聖堂に戻ったのは、ここの礼拝堂にある十二使徒のステンドクラスを写真にとろうと思ったからである。夢中でとっている間は気がつかなかったが、ふと、隣の祭壇で、結婚式が行なわれている最中であるのを知った。あわてて、恐縮しながら、そっと礼拝堂を出て本堂の後方の席に座った。聖歌隊席の奥の祭壇で、新郎と新婦が立っている姿がはっきりと見える。司祭の朗々とした声が、後ろまで響いてくるとオルガンの音色が静かに広がった。観光に訪れた幾人かの人も、じっとこの式を見守っている。祈っている人もいる。十四世紀までかかってできあがったというこの美しい聖堂の中では、こうして幾代も幾代もに渡って、結婚式が繰り返されてきたのだろう。わたしは、ラドロウ城とそこで演じられた仮面劇のことを思いながら、司祭の前に立つ若い二人を見るともなく見続けていた。
注
(1)ジョン・トウランド(John Toland)は、ミルトンの『散文集』(一六九八年)を出版したが、これに付した「ミルトン伝」(
Life of Milton)で、『コウマス』という名称を初めて用いた。Willam B.Hunter,Jr.,et.al.eds.,
A Milton Encyclopedia,vol.V(Lewisburg:Bucknell
University Press,1979),p.84.
*この章は私市元宏著『ミルトン:ラドロウ城の仮面劇』京都あぽろん社(1992年)の第一章「ラドロウ城の仮面劇」を抜き出したものである。
ミルトンとその思想へ