『楽園回復』 随想
                明石工業高等専門学校『研究紀要』第6号(1969年3月)
 
 ミルトンの『楽園回復』(Paradise Regained)を一読して感ずるのは、ある種の「静けさ」である。この感想は、少くとも主題の点から見て「姉妹編」ともいえる『楽園喪失』(Paradise Lost)と対照されるとなお一層きわ立って来る。『楽園回復』を『楽園喪失』の「後書き」だと言ったのはワトキンであったか。「読者は『楽園回復』を、詩的刺繍をほどこすための布地(カンバス)としてではなく、すなわち、作者の筆力の見せ所としてではなく、誘惑の物語を銘記させるための他意のない試みとして、この主題を受け取るべきである。そうすれば、物語を語ろうとひたすらに意を用いる正真の叙事詩人の、かくされた巧みを認めるであろう」とはパッチソンの評である(Mark Pattison:Milton. Macmillan)。取りようによっては詩としてはダメだという風にも聞える。「詩的想像力の枯渇」、「ある種の疲れ」、「平坦な論議の連続」等々、この種の批評にはこと欠かない。『楽園回復』を語る時に、先ずこういう所から話が始まるのがそもそも問題なのである。問題は、この「後書き」の冷たい「静けさ」にある。もしこれが『楽園喪失』の続編だとすれば、甚だまずい続編である。作品の結構や詩的想像力の優劣をいうのではない。辛棒強い読者が、ともかくやっとの思いで読み終えた後に残る文字通りに天界から地獄に到る壮大な霊のドラマが発するダイナミックな後味を一瞬はたと静止させてしまうような、何かそんな逆の波紋をこの「後書き」は放つように感ぜられるからである。要するに『楽園喪失』をして第一級の作品たらしめている詩的要素が、こちらには全くといっていいほどに欠けているのだ。その代り、前者にはない構成の統一だけはしっかりしている、というのがジョンソン博士の鑑定のようである。
 果して詩としてそんなにまずいものなのか。それとも文字通りに「かくされた巧み」があるのか。その辺の所を考える。ほどに、この「静けさ」が気になって来る。一体その中味は何なのか。「誘惑の物語を銘記させようとするための他意のない」詩人の心根はどこにあるのか。まさか、詩的想像力のほうは『楽園喪失』で充分に発揮出来たから、今度は正真正銘のお説教でゆこうということではあるまい。こういう所に、この短い叙事詩の謎が秘んでいるように感ぜられる。
 
      Thou Spirit who ledst this glorious Eremitc
      Into the Desert, his Victorious Field
      Against the Spiritual Foe, and brought him thence
      By proof the undoubted Son of God, inspire,
      As thou art wont, my prompted Song else mute,
      And bear through highth or depth of natures bounds
      With prosperous wing full summ'd to tell of deeds
      Above Heroic, though in secret done,
             (PR. BookI. 8-15)
 
       この栄光ある隠者を荒野に導き、
       仇なす霊と闘いて勝を得し場より、
       試みにより、まざれもなき神の子として
       連れ帰りたる汝御霊よ、先になせしことく
       力を与え、しかざれば黙する外なき我が歌を鼓舞せよ
       そのさかんなる翼もて天の僻地の底までも我を荷ないて、
       秘かに行なわれしも類いなき勲(いさおし)の業を
       あます所なく語らしめよ。
 
 これを単なる型通りのinvocationとして読みすごすことは出来ない。「天の僻地の底」をめぐる類いない英雄的偉業が、「秘かに行なわれしも」という一句につながり、壮大な想像の視界を、いわばこの一句に、その視点を凝縮せしめようとする気韻が感ぜられないだろうか。こう思うと、この一句が
 
                hee unobserv'd
      Home to his Mothers house private return'd.
           彼は人目につかず
       母の住いへと秘かに戻りぬ。
という。この叙事詩の結びに呼応しているのが見えて来る。『楽園回復』には、この「秘かに」という視点が、全体を貫流しているのが感ぜられる。こういうinvocationに続いて、読者の眼は、キリストが洗礼を授かるヨルダン河に向けられ、そこからセイタン達の宿る中空へと、そして天界へと、上昇し拡大されてゆく。だがその間も、荒野にさまよう小さなキリストから離れることはない。あたかも空中撮影のように、高く広く映し出しながらも、絶えずキリストの小さな姿をとらえて離さないのである。『楽園喪失』では、視界は、セイタンの軍勢が、敗北にもめげず、鬨をつくってそのぎらつく反逆を誇示する地獄から、一転して清朗な天界へと、闇と混沌と光との間を大きく回転する。そして、天界と地獄の相克から、徐々に宇宙の中心である地球へと、更にアダムとエバへと焦点が絞られてゆくのを見る。我々は、この一組の夫婦の小さな存在を包む、無気味に渦巻く霊界のすさまじさに圧倒されそうになる。余りにも小さなものに、余りにも大きな意味が荷重されているこのアンバランスに息を飲む思いで事の推移を見守る。ここでは、人間は非常に巨大な相克する二つの力に挟まれて、ある不可抗力に支配されている小さな存在としてしか映らない。ミクロとマクロのこの微妙な共存(ambivalence)が、あるいはこの長編の叙事詩を構成上不安定なものにしているのかも知れない。
 だが『楽園回復』では、事情がすっかり異って来る。ここでは、悪霊の住まう中空の黒雲も、天使の合唱も、ヨルダン河畔の風物も、ローマの栄華も、すべてがかすんだ遠景となって、試みの場をとり巻くのである。色とりどりの道具立も、荒涼とした無人の野で静かに進行する闘いを一層ひき立たせる彩色なのである。
 
      He brought our Saviour to the western side
      Of that high mountain, whence he might behold
      Another plain, long but in bredth not wide;
      Wash'd by the Southern Sea, and on the North
      To equal length back'd with a ridge of hills
      That screen'd the fruits of the earth and seats of men
      From cold Septentrion blasts, thence in the midst
      Divided by a river, of whose banks
      On each side an Imperial City stood,
      With Towers and Temples proudly elevate
      On seven small Hills, with Palaces adorn'd,
      Porches and Theatres, Baths, Aqueducts,
      Statues and Trophees, and Triumphal Arcs,
      Gardens and Groves presented to his eyes,
      Above the highth of Mountains interpos'd.
             (PR B00k IV.25-39)
 
      彼、我等が救い主をその高き山の
      西側へと連れ来る。そこより今一つの平野を
      見る。長けれども巾広からず。
      南の海に洗われ、北には
      等しき長さに峰々波立ちつらなり、
      地の産物と人の住いを
      冷たき風北より隔つ。そこより
      河にて真二つに分たれ
      両岸に建つは帝都。
      七つの小丘に誇りかにそぴゆる
      塔や神殿、きららな宮殿、
      柱廓や劇場、浴場や水道、
      彫像や記念碑、又凱旋門、
      園や森、丘の頂をはさみて
       眼に映ず。
 
 ほとんどsimileをともなわず、全体を微妙な頭韻で包みながら一語一語をくっきりと浮かびあがらせ、淡々として多くを語ろうとはしない。“Wash'd by the Southern Sea”以下の四行が一きわ耳に響く。帝国の偉容も市中のざわめきも、かすみのように遠くにたたずみ荒野の孤独な静けさを妨げない。セイタンとのやりとりにも、所々に激しい感情の流露を感じさせる外には、これという劇的な展開も見られない。このような「静止した緊張」が、この叙事詩のクライマックスともいうべき、そして唯一の劇的な動きを見せる最後の塔の試みに到るまで終始続くのである。ベロックが業をにやすのももっともである。『楽園喪失』の起伏に富む手法の後では、この「続編」のhushed silenceは耐え難かろう。この「静けさ」の中に首をつっこんで、そこに流れている詩人のある種の禁欲的な厳しさを理解しようとするまでは、結局この詩は、ひややかで単調な「短編」に終るのではなかろうか。
要するに心中に生起する妖しく微妙な悶えや葛藤を描くのに、そのような綾を出来るだけ圧縮し濾過した上で。極度に切りつめた形式で定着せしめようとしているのである。心の動きそのものから生ずる危機(クライシス)をじっと見つめてゆこうとする姿勢である。動きの少ない閉じられた舞台とは、人間のこういう内的な裂け目を最奥まで追求しようとする時に、どうしても向かわざるを得ない形式といえるのかもしれない。この場合「劇的」とは、いわば心そのものに備わる動きを指すものと思うべきであろう。だから、成程ローマの偉容や、パルティア軍の威風堂々たる進軍ぶりは、まるでズームレンズでとらえたように極度に圧縮された広がりの中で適確に描写されてはいるが、それらはあるがままの事物に即して写実的に現わそうとするものではない。眼に映るものことごとくが、いわば心の映像そのものと化して、内面化されて映し出されて来る。
 セイタンの備える幻の食卓も、ローマの市も、アテネの文化も、こういうものが、現実と幻想との区別さえも消えてしまって、同列に同じスクリーンに投影されるという、何かそのような所から詩人は視ているのである。実在、幻想、精神的なもの、物理的なもの、更に自己の内に生ずる心の動きそのものさえもが透視されるような、いわば霊的な視点ともいうべき所から詩人は語っているのである。ダンテの『神曲』では、現実には存在しないものが、くっきりと生々しく視覚に訴えて我々の心に焼き付けられる。ミルトンの『楽園回復』では、少くとも十七世紀においては明確に歴史的事実とされていたことも、地理的な実在の場所も、内面的な心の投影、すなわち比喩としての性質を帯びて来る。キリストが試練を受ける荒野が、出エジプト記に出て来るイスラエル民族のさすらいの荒野と同一視されているからとて気にする必要はない。このような「混同」を平気で、しかも自然に行なう詩人の態度の方がはるかに大切ではなかろうか。要するに、そのような地理的identificationは、成程それなりの正確さを期すべきではあろうが、この視点から見るならば、本質的な重要さを持たないのである。           ‥
                 ...victorious deeds
       Flam'd in my heart, heroic acts, one while
       To rescue Israel from the Roman yoke,
       Thence to subdue and quell o're all the earth
       Brute violence and proud Tyrannick pow'r,
       Till truth were freed, and equity restor'd:
          (PR Book I. 215-220)
 
                  勝利する業
       雄々しき行為、心に燃ゆ、ある時は
       ローマの軛よりイスラエルを救い出し、
       かくて非道なる暴力と高ぶりたる圧政の力を
       あまねく制圧し消滅せしめ、
       真理を解放し公正を回復せんとて。
 
 こういう所にミルトンの自伝的要素を読みとろうとするのも間違いではない。かまわないと思う。だが。ミルトンにとって「自伝的」とは一体何を意味するのかを今一度考えて見なくてはなるまい。ミルトン自身と、十七世紀の英国の社会的政治的現実とが、この一世紀の世界とどのように結びついて来るのであろうかと。一世紀のローマ帝国が十七世紀のローマ教会と同義語であるとは、いわばこの二つの言葉が、同じ一つのものを表わす比喩(allegory)として用いられていることである。詩人には、この二つが、二重映しに見えている。そのような所に彼の視点があるように思う。ローマばかりではない。一世紀のイスラエノレと十七世紀の英国との間にも、このようなある種のアナロギーが通っていると言えよう。こういう類推は、聖書解釈の方法として極めて古くから行なわれていたものであり、ピューリタン達の間でも普通のことであった。ある意味で、彼等は、自分達の存在そのものを、この聖書的アナロギーの与えてくれる光の下で認識しかつ行動していたとも言えるのであって、それは単なる方法の問題以上の本質的な重要性をもって彼等の生活を支配していたと考えられる。一世紀のイスラエルは、霊的には十七世紀の英国なのである。『楽園回復』においては、ヨブ、ダビデ、ソクラテス、シーザー、アテネ、アッシリア等々の固有名詞が、単なる歴史的地理的実在を示すばかりでなく、それらが暗示する種々な連想と共に、それぞれが、一つの型(type)を表徴している点に注目しなければならない。例えば、ヨブは、セイタンとの一騎打でこれに勝った者として、来たるべき救い主の原型、キリストを予兆する型である。この詩が、淡々とした中に、非常に複雑な世界を読者に開示するのは、こうしたtypological associationをともなうからである。
 ここで、主人公のキリストについて考えてみたい。ミルトンのキリスト論(Christology)を詮索しようとは思わない。だが、詩人とキリストとの間には、ある種の呼応(correspondence)が息づいているのを感じないわけにはゆかない。少なくとも『楽園回復』においては、ミルトンは、彼自身とキリストとの同質性、両者の霊的一致を意識していると言えるのでなかろうか。だが、一体どのような意味においての一致なのか。ミルトンは彼自身とキリストとの関連において、自分自身をどのようにidentfyしているのか。この点を考えるほどに、それは荒野に導かれたキリスト自身の問いーー自分が「神の子」であるとはどのような意味なのかー−というキリスト自身の内なる問いにつながって来るのを見出す。そして、セイタンの試みも両者の鋭いやりとりの論点も正にこの点に集中して来るのである。これが、この短い叙事詩の主題なのであり、「試み」の意義もそこに存していると言える。我々は、試練の全過程が、この線に沿って展開してゆくのを見るのであり、一歩毎にキリストが、自分自身とその使命をその試練の中から発見してゆくという、いわゆるキリストの「自己発見」(self-identifycation)へと発展してゆくのを見る。これが、『楽園回復』のモチーフである。
 
        Mean while the Son of God,...
One day forth walk'd alone, the Spirit leading;
And his deep thoughts, the better to converse
With solitude, till far from track of men,
Thought following thought, and step by step led on,
He entred now the bordering Desert wild,
And with dark shades and rocks environ'd round,
His holy Meditations thus persu'd.
     (PR Book I. 183-195)
 
かくする間にも神の子は・・・・・
      ・・・・・・
ある日御霊に導かれ一人出でゆく
思いは深く、人気なき所にていや深まらんと、
とつ思いとつ考えつつ一足ごとに導かれ、
人里遠く離るるにいたりぬ。
今や人の住まわぬ荒野へ越え入り、
暗き影や岩もてかこまれつつ
かく聖なるもの思いを追う。
 
 「御霊に導かれて」出で行くのは、詩人自身かキリストかを問うまい。「御霊」とは、いわゆる聖霊を指すのか詩神(ミューズ)を指すのかも間うまい。又厳密な意味で三一神の第三のペルソナかどうかということすら詮索するまい。少くともこの一節では、ミルトン自身とキリストとの霊的なcorrespondenceを疑う訳にはゆかない。これに続く一連のキリストの独白が、詩人自身の回想につながるのは極めて自然であろう。ここではキリストは、完全に人間的なキリストであり、同時にそれは詩人自身の分身、単なる分身ではない、ティルヤード流にいうならば、彼自身の「理想像」なのである。霊的な呼応に文字通り「導かれて」、一足ごとにキリストの見たものを彼も見、キリストの受けた試みを彼自身も受けようとする、何かそのような所へと深まってゆく気迫が感ぜられないだろうか。何等かの巧みさを意欲的に追う間は、まだまだ本当の呼応の境地ではあるまい。我知らず人知れずに、何ものかにつかれたように、彼ならぬ彼の霊的な迫りに霊的な迫りに押し出され、それに引かれて初めて、かような一致、一世紀のキリストと十七世紀の彼とが、地理的時間的なへだたりを抜け出す世界へ人らしめられるのではあるまいか。唯一人、人の住まぬ荒野へと踏み入る境地に引き入れられるのではあるまいか。暗い影や無気味な岩に取り囲まれて歩むのは、荒野のキリストであり十七世紀のミルトンであるということが、単なる比喩以上に霊的な一致へと、詩人自身の実存が掘り下げられてゆく所まで、この詩は行っているのではなかろうか。
 試練とは本質において内面的なものである。真の意味での試練とは、人間を外部とのつながりにおいて、これを内面化するような方向へかり立てる力である。周囲のざわめきや喧騒、外的な様々の変転流転も、所詮は心のスクリーンに映っては流れてゆく影にすぎなくなるまで、深く内省的にさせてゆくものである。母マリアや弟子達との人間的な絆さえも絶って、孤独になり暗き岩影の間をさまよう所まで、追いつめられ追い立てられるということであろう。こういう閉ざされた中で、本当の意味で「闘い」が、初めてその真相を露呈する。この詩を手がけた時のミルトンの視点は、実にこういう所にあったのでなかろうか。
 『楽園回復』のセイタンも又。『楽園喪失』のそれとは異なったものになっている。そこには最早昔日の面影はない。
 
      High on a Throne of Royal State, which far
      Outshon the wealth of Ormus and of Ihd,
      Or where the gorgeous East with richest hand
      Showrs on her Kings Babaric Pearl and Gold,
      Satan exalted sat, by merit rais'd
      To that bad eminence; and from despair
      Thus high uplifted beyond hope, aspires
      Beyond this high, insatiate to pursue
      Vain Warr with Hea'n, and by success untaught
      His proud imaginations thus displaid.
           (PL. Book II.1-10)
 
      威風堂々たる王座に高く、
      オルムス、インドの富をも凌ぎ、
      豪華なる東洋が豊けき手もて
      不浄な黄金玉宝を王に注ぐともかなわじ、
      セイタンは勲(いさお)もて悪しき高みえと
      揚げられ、得々として坐す。
      絶望より思いの外高く挙げられ、
      いや高く登らんとして、飽かず
      天に向かい空しき戦いを挑まんと、かたくなに
      そのたかぶりの想いをかくは述べる。
 
 こういう精彩を『楽園回復』のセイタンに見ることは出来ない。『楽園喪失』のセイタンのこの生き生きとした姿が、ミルトンの「計算違い」であったのか、なかったのかはともかく、彼の躍如たる面目が『楽園喪失』を魅力あるものにしている点は否めない。自ら呼び出した悪霊の、自由奔放な振舞には、詩人も手が出なかったのかも知れない。だが、『楽園回復』には、このような「裏切り」は存在しない。溜息と卑屈、虚偽と好計、なめらかな舌先ーー言うなれば悪魔的な性(さが)をそのままに感じさせる。正真正銘の「セイタン」なのだ。
 
            ... and Satan bowing low
      His gray dissimulation, disappear'd
      Into thin Air dius'd:...
         (PR. Book I. 497-99)
 
           セイタンはその偽りの
      白髪頑を低くたれ、薄暮の中へと
      消えゆきぬ。
 
 この一句、『楽園回復』のセイタンを言い尽している。こういう所は、芥川の短編『るしへる』の一節を思い出させる。「悪魔『るしへる』は、かくわが耳に囁きて、薄暮の空をふり仰ぐよと見えしが、その姿忽ち霧の如くうすくなりて、淡薄たる秋花の木の間に、消ゆるともなく消え去りんぬ。」
 秘やかに心の襞にしのび入る、ほろ苦く暗い懐疑が両者に共通している。索漠たる孤独な魂にしのび寄り、薄霧のようにまとわり、巧妙な論理をろうしてこれを淪落へいざなう、あの不思議な「もの」の存在を映し出して妙である。人間の闘うべき敵として、いかにも「人間的」な弱点をついて来る『楽園回復』のセイタンが、「魔性そのもの」であるとはこういう所である。
 『楽園喪失』のセイタンは怒涛のようである。天の意志に真向から戦いをいどみ、出来得べくんばこれを打倒せんとの気概に燃えている。彼のねらいは神の意志そのものをこぼつことにある。神の支配に対する、悪魔的な、そして多分に人間的な反逆の精神である。従順という、人間の自我の最も深い所に触れ、かつそこで火花を散らす反逆の心である。彼は天に向かって吠え、訴え、憤り、わめき、絶望する。その痛ましいまでの悲憤は我々の共感をすら誘う。我々はふとミルトン自身の、ある意味で「雄々しい」姿を見る思いがするのも不思議でない。だが『楽園回復』のセイタンはそうではない。彼には天の意志を今更くつがえそうなどという考えはない。勝負はあらかじめはっきりと定まっているのだ。神が勝つか、セイタンが勝つか、というサスペンスはここにはない。彼自身の言葉を借りると「神の許しを得て」荒野のキリストの所へ来るのである。
 その構成はヨブ記のそれである。セイタンは、ここでは人間そのものを「試みる者」として現われる。このキリストを、じりじりと貴め、幻惑させ、巧みな論理や幻像や欲望によって、彼をおとし入れようと終始計る。ここには、人間が人間として試され、悩まされ、かつそれを克服してゆく過程があるばかりである。『楽園喪失』においては、試みは、「神の道」そのものに向けられている。だが『楽園回復』における試みは、人間に向けられたものであって、彼がいかにして誘惑に打ち勝つことが出来るかというのが焦点なのである。いうなれば、人間そのものが試されることであり、その意味で、ここでは、試練がそれ自体として純粋に追求されていると言えよう。
 このセイタンは、人間の欲望や弱点を巧みにひき出そうとするものであって、神の意志に服従しようとする者にしのびよる人間的な弱さをそのまま具現している。セイタンばかりではなく、マリアや弟子達の口を通じて、かような「ひそやかな懐疑」が、荒野に導き入れられて行くキリストの背後で、溜息と共にひかえめに語られる。聖意に対するキリストのゆるぎない確信と服従とが、このような弱さや溜息を背に、セイタンの鋭い説得と反抗の波を砕いて一歩一歩と試されてゆく。正にその過程の中から、彼がいかなる意味で「神の子」であり「救い主」であるかが、啓示され自覚されて来る。そこでは、試練の意義が縷々論じられたりはしない。その厳しさが、多くの比喩や豊かな修辞を用いて描かれるというのでもない。極度に圧縮された状況の下で、最小限の形容で、彼我の論争が、幻の食卓やパルティアの軍勢やローマの栄華やアテネの学芸を背景に展開される。ミルトンの真意はキリストの試練の「解説」などではない。また福音書に主題を得て、これに想像の翼を与えて、美しく「歌い上げる」というのですらない。彼はこの四巻の短い叙事詩の中で、キリストの荒野における試練を、彼自身で追体験しているのではなかろうか。キリストの自己発見が、同時にミルトン自身の自己発見と、重なり合いながら進展してゆくように思えてならない。『楽園回復』が、試練そのものを純粋に追求しようとしているとはこういう所である。
 王政復古以後のミルトンの心境如何ということが?々言われる。『楽園喪失』と『楽園回復』の違いも指摘されている。何が違っているのか、という問いには様々な答えがあろう。だが、少くとも、『楽園喪失』と『楽園回復』の間には、その長短というジャンルの差異を外にしても、temptationそのものを扱うミルトンの態度に、はっきりした違いがあるように思う。後者においては、試練は、あらかじめ予見されている神の意志に沿って、人間が如何にして主体的自覚的にその道を選びとってゆくかということと、そこから生ずる人間の内的な苦悩や闘いが焦点である。とるべき道は神の意志に対する絶対的な服従に尽きる。
 
              Who brought me hither
       Will bring me hence, no other Guide I seek.
           (PR. Book I. 335-36)
 
               我をここへ導き給いしもの
       ここより導き出ださん。他にしるべを求めじ。
 
 こういう所にミルトンのキリストは居る。これは、行方も知れぬ力や運命に身をまかせんとする諦念の言葉ではない。強調は二行目の後半におかれる。自らの意志と決断とによって己の歩むべき道を選び取ってゆく不屈の精神である。何か運命的な力が自分の内に働くのを感じつつ。それに向かって断固と従い抜くという気迫である。何ものもこれをとどめることは出来ず。何人もこれを阻止することを許さないーーミルトンの「自由」の存する所はここにある。ある必然的なものに導かれてゆく意志が、この自由の根底になっている。外からの一切の働きかけから自由であるとは、その精神の内部に、何ものも犯すことの出来ない衝動が、何か必然的な力で働いていることを意味するのでなかろうか。これがミルトンの「自由」の真髄である。それは内に深い厳しさを秘めた自由であり、どちらかといえば、禁欲的で重く肩に食い込むものである。ある定められた社会秩序や世界観の枠の中で、安息を呼吸しつつのびやかに翼を広げて感じかつ歌う所からは、このような自由は生じて来ない。概存の社会や世界観が崩壊して、新しい胎動が始まり、精神を囲み「保護」していた制度や思想や宗教が崩壊し始める時に、この「自由」が、真実の重さをもって人間精神に挑戦して来るのではあるまいか。それは、エデンの園を追われるあのアダムとエバの姿にも象徴されよう。
 
       The World was all before them, where to choose
       Thir place of rest, and Providence thir guide:
       They hand in hand with wandring steps and slow,
       Through Eden took thir solitarie way.
             (PL. Book XII. 646-49)
 
      世はすべて彼等の前に開け、そこにて
      安らいの場を得んとして、「導き」をしるペとなす。
      彼等手に手をとりて、さまよえる歩みも遅く
      エデンを抜けてわびしき道へと向かう。
 
 ミルトンの自由は、このように、既存の世界観、社会観から抜け出して、いわば唯一人大洋へ乗り出して行くような、孤独と厳しさの中にも激しいエネルギーを秘めたものとして今日の我々に訴える力を持つ。それは、そもそもの出発点から、闘い取ってゆくべきもの、絶えず試され鍛えられるべき運命を背荷っていたのであって、歴史という荒野で厳しく試されて、始めて獲得し得るものなのである。
 宗教改革が、広い意味でのルネサンスの一環としてではなくて、むしろこれと対立するものとする見解が以前から生じている(トレルチ『ルネサンスと宗教改革』1925)。とりわけピューリタニスムが、その反ルネサンス的性格と共に、近代精神の形成に重要な役割を果して来たことは、ウェーバーやトレルチの名を挙げずとも、今日広く認められている所であろう。我々が今日、ミルトンの思想を見る時に、その進歩的なことに驚きを抱くのである。むろん彼は、独創的な思想家であるというよりは、時流の代弁者であり、預言者であり、何よりも詩人であった。だが彼の思想が、今日の我々から見てさえ“radical”であったとすれば、それはその時代が、そのような「進歩的」にしてかつ「根源的」な問題を秘めていたことを示唆しているのでなかろうか。分裂、論争、戦争、革命、破壊等々の大きな歴史的渦の中から、いわば十七世紀の英国の動乱という激しい陣痛をともなって生れて来た思想を、我々は今一度見つめる必要がないであろうか。今日の我々に深くかかわりを持つ言葉、思想の自由、個人の良心、信教の自由、言論の自由というような言葉が、それらの誕生を直接にこの時代に負うている事実を省みなくてはならないと思う。
 我々の民主主義が、依然としてひ弱で底が浅いのを嘆く前に、この民主主義を生み出す母胎となった思想と信仰にその一生を捧げた詩人の闘いとった「自由」という言葉を、もう一度噛みしめる必要がないであろうか。
 『楽園回復』の静けさということを先に述べた。不思議なひややかな落着きである。うちとけてくつろいだ暖かさは感じられない。むしろ、閉じた貝のように人を寄せつけない気配がある。ごく親しいもの、努力して彼の世界に入り込んだものにだけ通ずる言葉で語っているようである。激しい感情も。ちらりとその片鱗を時折のぞかせるだけで、大方は抑えられた表現である。激しさというならば、この叙事詩の淡々とした流れの底に、張りつめた弦のように全体を貫くある思いつめたような緊張が感じられる。とっつきにくい。面白くない、突き離されたようだというのが第一印象であろう。だが。注意深い読者には、不思議な陰影を帯びたstyleの中から、言い知れぬ「おだやかさ」がもれて来るのに気付くだろう。固く張りつめた殻の中味は、案外おだやかで親しみ深いほほえみなのかも知れない。「まことに『楽園回復』は、たそがれの夢見るような描写と、市場や元老院や宿屋からは違いが、しかも、微妙に現実の談話の調子を偲ばせる会話と、そして、目も覚めるような光景との異常な混合である。それは、多様で、目覚ましい作品であるが。しかしまた、何かなじめぬ雰囲気がある。読者が、概して、この作品に心からの愛着を覚えないのも不思議はない。」(御輿員三先生訳)このティルヤードの評、言い得て妙である。
 だが、この穏かさは、詩人が自分の過去を「清算」することで達し得た心境であるというのはにわかに賛成しがたい。そのような心境の変化がなかったとは言わない。又、詩人を一層の孤独へと追い込んだに違いない王政復古後の世相が、その影をこの詩に投じているのを疑うものではないが、こういう穏かさと静けさは、むしろこの詩の主題そのものから、言いかえれば試練の追求そのものから、生れるべくして生れて来た性質のものではあるまいかと考えたい。試練は、人を己の内面へと向かわしめる。それは、どこまでも暗く深い苦悩との闘いなのである。ひそかに噛みしめる味。これが「試み」の本当の味なのだ。試みは、これを課せられる人間から、外的可視的な一切のより所を奪い去ってゆく。何等かの好転の兆や明るい見通しが射し込むと、試練はそれだけ色あせた生気のないものになる。外の世界にはどのような望みも見出せず、心の安心を託する所も許されないというのが試みの本来の姿である。人間の精神が、ぎりぎりの所まで試され、疑い、恐怖、欲望が底深い内側から様々のイメーヂや論理に扮して闘いを挑んで来るのは、こういう荒野においてである。
 セイタンとの一騎打は、このような固く閉じられた暗室で、初めて真相を露わにする。こういう所でじっと耐えつつ、自分自身を見失うことなく、己の信ずる所に固く立つということ、一切の外的又は内的な働きかけに動じないということ、これが、『楽園回復』のキリストを通じて我々がかい間見る人間の「自由」の真相ではあるまいか。
 ここでは、己を取り囲む種々の事物や状況が、遠いところにかすんでしまい、人の声も、己の内にささやきかけるどこからともない声も、くっきりと客体化されるような鋭く透徹した知性が目覚める。試練とは、かくして、自分自身の全存在をはっきりと客体化して捉えることの出来る不思議な視点へと人を導くものである。そこには全く新しい自己ーー少なくとも既成の自己を脱却せしめる、より高い次元の自己、何かそのようなものを発見させてくれる力が働く。そういう所では、実在の一切の現象も、自分の心中に生ずる様々な疑念や心像も、同じ平面に映し出されて見える。雑踏や栄華、嘲笑や怒号、身体的欲求ーーそうしたものが、より目まぐるしく、より激しく、より鋭く迫って来る程に、ますます深く、平静なとぎすまされた視点へと心眼を向かわしめる、何かそのようなものである。 王政復古以後のミルトンに、心境の「変化」をあえて見出そうとするのであれば、それは『コウマス』の中にすでに提起されている問題、真の美徳とは、試されることにより正真なものにされるということ、人間の精神とは、こういう試練を通り抜けて初めて、本当に人間的な自由に到達し得るということである。そして、このように人間を導く見えざる手が存しているという、いわばミルトンがその生涯をかけて来た主題を、より純粋に、より透徹した姿勢で彼は追求しているのに外ならないのではあるまいか。
 『楽園喪失』のセイタンが、その生き生きした活躍ぶりで、ミルトンの意図を裏切ったとするならば、『楽園回復』も、ミルトンをして、彼の置かれている現実から脱出させるのに成功しているといえようか。芸術とは。少くとも宗教的な芸術とは、一般に、何かそのような「裏切り」を本質に秘めているのかも知れない。絶え間ない不安や危険にさらされながら、混沌として定まることのない世界に生き抜かねばならなかった原始人の紋様は、神秘的な力を感じさせる「抽象性」を帯びている。言いかえれば、そのように抽象化された線や紋様によって、不安定な混迷の奥に安定した世界をつくり出そうとする努力の表現なのであろう。このような紋様を、自己の身体や身のまわりの品に彫り刻むことによって、現実から自己と自己に関係するものを隔離しようとする本能である。祈りをこめた芸術とは、常にそういう一面を蔵しているのかも知れない。人間が、自己の属する社会や世界から、何等かの理由で意識的にせよ無意識的にせよ脱離して、孤独の中にあって自己の姿を追求せざるを得なくなる時には、彼の生み出す芸術は、より抽象化されるということ、これは、例えば修道院や隠者の洞窟内に描かれている壁画が、その求道の形体がより厳しくなるにつれて、簡素な抽象性を帯びて来ることからも示唆されよう。
 ミルトンの『楽園回復』に流れる静けさは、単に、心境の変化というべきものではないと見るのである。それは。詩人が。それまでの過去を否定したり、訂正したりする所から生れたものではない。又、『楽園喪失』の「欠点」を補うために書かれたものでもなく、『楽園喪失』の主題をより圧縮した姿で、異なるジャンルによって試みたものとも言えないように思う。『楽園回復』は、王政復古後の詩人の内的な必然性から生れるべくして生れて来た作品である。目まぐるしく変動する社会状勢の中にあって、この盲目の詩人が取り得た唯一の自覚と動機に基いて詩作されたものではなかろうか。『楽園喪失』の「訂正」や「むし返し」や「後書き」などではなく、はっきりと異なる詩心、異なる内的動機に基いたものと見るのである。『楽園喪失』において追求されている主題、宇宙的規模をもつ人間の試練をめぐる主題とつながりながらも、それを更に、より純粋な形で徹底させて追求しようとしたのが『楽園回復』であると思う。この作品に漂う、一見ひややかな落着きと穏かさとは、詩人が、その生涯をかけて求めて来た問題を更に深くつきつめて行った所におのずと湧き出て来た独自の世界ではあるまいか。彼は、自分の過去を「反省」してもいないし、「後悔」してもいない。又、決っして「絶望」してもいない。一貫して彼の主題を追い続けているのである。それは、極度に切りつめた形で統一され、Styleも簡潔で淡々としている。人が、深い内面の緊張に支えられて平静を保っている時には、彼の感覚はのびのびとしたsensuousな働きを減ずる。
『楽園回復』では、言葉の一つ一つがその固有の豊かさ、感覚的官能的な暖かさを発揮してつながっているとは言えない。むしろ、一つ一つの言葉が、ある求心的な力にひかれて、その色彩や豊かさを減じ、代りに本質のみが、厳しく無駄なく組み合わされている。時としては、言葉が極度に抽象化されて、音のつながりのみとさえ感じられる場合もある。丁度晩年のレンブラントの絵のように、一切の色彩が、より強力な光の中へと求心的に向かわしめられ、個々の色彩はその固有性を失い、不思議な陰影を帯びて画面全体が統一されて来るのに似ている。ダンテは、自己の精神を、ある秩序ある世界観の中にはっきりと把え、そこを足がかりとして彼の感覚を充分に働かせ、豊かな肉づけを具えた言葉が手を取り合って、安定して暖かく結合する世界をつくり出すことが出来た。ミルトンの場合はそうではない。彼には安住すべき世界は存在していないのである。待望の中に生きているのである。そこには、安らいの代りに闘いがあり、秩序の代りに流動があり、構築の代りに破壊があった。彼は、ゆったりと旅情を楽しむ旅人ではなく、必死の思いで目的地に達せんとする、嵐の海の航海者なのである。ここでは、ある絶対的な存在を求め、そこからもれて来る光に照されて、言葉は色合よりも陰影を濃くする。「抽象性」とはそういうことであろう。ミルトンのStyleが崇高であるとは、こういう所から来ているのではなかろうか。sublimityとは、本質において、何か抽象性を帯びたものではなかろうか。『楽園回復』を陰に陽に一貫して流れるイメーヂとして、光と闇が指摘されるのは、決して偶然ではないと思う。
(原文の引用は、Helen Darbishire:The Poems of John Milton. Oxford. 1961によった。)
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