イングランドの宗教改革と離婚の自由
   イエス様による結婚の内面化は、カトリックに反対する宗教改革において、新しい展開を見せることになります。そのひとつとして、それまで固く守られてきた聖職者の独身制度が、宗教改革によって崩壊するという大きな変革があります。さらに結婚と離婚を「個人」の問題として、離婚の自由を認める思想が生まれたことです。この辺の過程も複雑で、ここでそれをお話しすることはできません。離婚の自由を真っ先に唱えた人の中に、イギリスの詩人ジョン・ミルトン(1608〜1674)がいます。彼は、ピューリタン革命に参加して、教会制度と信仰の自由、言論の自由、離婚の自由、政治的な自由を主張した人ですが、その主張はイエス様の「内面化」をある意味で徹底させたとも言えます。
   ミルトンは、結婚・離婚を法的社会的な意味、すなわちその制度的で外面的な意味だけではなく、霊的内面的にとらえ直しました。彼は、イエス様の結婚・離婚への見方を再検討して、夫と妻とがほんとうの夫婦愛で内面的に結ばれていない場合、あるいは、何らかの事情で内面的な夫婦愛が崩壊している場合には、その結婚は、神から出た結婚とは言えないと主張して、結婚・離婚観を全く新しい方向へ転換させたのです。これは、いかなる理由があっても離婚は認められないとするカトリック教会とイングランド国教会との両方に対抗するものでした。イエス様によれば、結婚とは、夫婦が神様によって霊的にも身体的にも一心同体となる結びつきを意味しました。ミルトンはここで、夫と妻との内面的霊的な結び付きを追求することこそが、神から与えられた結婚の目的であるととらえ直したのです。その結果、そのような結婚愛が全く失われている場合には、それは神からの結婚とは言えないがゆえに、離婚が認められるべきであるという根拠へ到達したのです。だからミルトンにあっては、イエス様の内面的な結婚への信仰が、離婚を禁止する方向ではなく、逆に、離婚の自由を唱える根拠となったのです。すでに内面的に結婚愛を失っている夫婦は、外面的に結ばれているにすぎないから、もはや神によって会わせられたとは言えない。したがって、そのような場合は神から出た結婚ではないから当然離婚が認められるべきである、というのがミルトンの論理です。こういう彼の主張の背後には、結婚制度それ自体が形骸化した当時のキリスト教社会の現状がありました。
   このようなミルトンの思想について、間違いやすい点がひとつあります。それは、ミルトンは結局のところ、結婚・離婚問題を軽く考えていたのではないか? という疑問です。事実はこれの逆で、ミルトンは、結婚を普通以上に重視し真剣に考えているのです。不信心な者は教会の礼拝に出席する必要がないと考えるのは、教会の礼拝の意味を軽く考えているからではなく、逆に礼拝を大切にするからです。モーセの律法は、当時の古代世界にあっては、結婚・離婚についてきわめて優れた教えでした。だからこそイエス様は、その律法の精神を内面化することで、いっそう高い基準を示すことができました。と同時に、このような内面化は、それまでのモーセ律法を否定する結果にもなったのです。ミルトンは、イエス様の結婚・離婚に対する高い基準を受け継ぎましたが、これをいっそう徹底して内面化したと言えます。この結果、従来のイエス様の教えを否定するようにも見える結論に至ったのです。
   このような結婚観は、結婚を単なる世俗のこととして、独身者の聖なる生活から区別してきたカトリック教会と大きく異なるものでした。またイングランド国教会の教義は、大陸のドイツやフランスの結婚・離婚観とも異なっていました。大陸では、結婚は世俗のこととして扱われ、ドイツでは、離婚はどこまでも「世俗」の問題として処理されていました。ところが、ピューリタン革命におけるイングランドにおいては、結婚は、まさに霊的で「聖なる」問題と解釈されたのです。聖なる神の教会に、不敬虔な者が参加してはならない。これを同じように、聖なる神の結婚に、愛を失った夫婦がただ外面的に参与することは、偽善以外の何ものでもなく、冒涜に当たるとミルトンは考えたのです。こういう結婚観および離婚観は、ピューリタン革命の精神を受け継いだアメリカにおいて、これ以後の結婚・離婚観に大きな影響を与えることになりました。
   ミルトンのこのような結婚・離婚観は、さらに、夫と妻との関係において、もうひとつの重要な側面を有していて、これも以後の結婚観に大きな影響を及ぼすことになりました。それは、結婚愛は夫と妻との内面的霊的な結びつきであるという解釈によって、夫と妻とが神の前に完全に対等で平等なものとなったことです。それまで女性は、いわば、ある種の財産的なものとして、家父長制の下に、男性の下におかれていたのですが、ここにいたって従来とは全く違う結婚・離婚観が生まれたわけです。したがって、離婚の自由は、男女の平等の問題と深く結び付いています。ここから、女性解放と離婚の自由が、アメリカの社会において提起されるようになり、やがてこの思想が定着していく原因となりました。このように女性解放と結婚・離婚の自由とは深く結びついています。
   もっとも、最近のアメリカでは、キリスト教への信仰が失われていくにつれて、離婚そのものが無軌道に増殖し、このことが社会を不安定なものにさせています。このために、キリスト教原理主義などから、アメリカ社会の「リベラルな」傾向に対して批判が向けられるようになり、最近では再び、離婚を避ける旧来の宗教的な傾向も生まれてきています。「自由」とは不思議なもので、自由を与えられるから自由を求める、ということが起きるのですね。だから、「自由」とは、自由を「求める自由」のことなんですね。逆に自由がないとは、自由を「求める自由」が与えられないことなのです。ところで、結婚・離婚について提起されている問題は、非常に重要な問題です。現在の日本国憲法でも、結婚は両性の合意にのみ基づいて行われるとあるのに照らして、離婚の自由はますます幅広く認められていく傾向にあります。
戻る