*この書評は『本のひろば』2003年7号に掲載されたものです。
書評 私市元宏
ミルトン『イングランド国民のための第一弁護論および第二弁護論』
新井明・野呂有子訳 聖学院大学出版局 2003年
ジョン・ミルトン(一六〇八〜一六七四)は、叙事詩『楽園喪失』で知られるイギリスの詩人である。しかし彼が、激動の時代にあった一七世紀のイギリスで、革命の一役を担う当事者であったことは案外知られていないかもしれない。彼は三二歳から五一歳までの間、ピューリタン革命の渦中にあった。しかもその間に失明している。王政復古の時にかろうじて難を逃れた後、ようやく大詩人として後世に名を残すことになった。イングランド国民への弁護論は、その革命の最中に書かれた。彼の文書活動は、まず教会制度批判に始まり、言論の自由と離婚の自由へと進み、そこから国王の処刑を正当化する政治問題へ及んだ。信仰の自由から個人の自由へ、さらに政治の自由へと活動の範囲が広がったことになる。二つの弁護論が書かれた経緯は本書の解説に的確にまとめられており、またこれに至るまでのミルトンの心境は『第二弁護論』で語られているので、ここでは触れない。
本書の背景には、「絶大な権力を握る一国王が、法を犯し、信仰を迫害し、暴政を行い、ついには、自分が奴隷として扱ってきた国民と戦って敗北を喫し、監視下におかれても言動にいささかの反省の色もなく、王国の最高裁判所より極刑を宣告され、彼自身の宮殿の門前で首をはねられた」出来事がある。問われているのは、国王の権利(王権)とはなにか?である。ミルトンは、法の前では国王の犯罪も強盗のそれも同じであり、国王の「法的権限を極度にまで拡大解釈すれば、極度の不法に到達する」と言う。国王が処刑されたのは、「統治すると見せかけて不正を働く輩は、公然たる敵よりも始末が悪い」からであり、「国民を侵害し破滅させるために巨大な権力をふるう者は国王ではなく敵と呼ばれて然るべきである」という理由からである。その上で、国家と国民は「自分たちの望む統治形態を自由に選び、また統治形態を望みどおりの形に変える権限を持つ」ことが主張される。
ミルトンは、教会制度への批判に際して、時の大主教ジョゼフ・ホールを批判する『弁明批判』(一六四一年)を書いた。この文書で彼は、ホールの文書を章ごとに抜粋して引用し、これを徹底的に論駁している。『イングランド国民のための第一弁護論』でも、サルマシウスからの批判に対抗して、ほぼ同じやり方が踏襲されている。このため相手側からの個人攻撃に曝され、これに対して自己を弁明するという事態まで『弁明批判』と弁護論とは似ている。異なるのは、『弁明批判』は国内に向けて英語で書かれたのに対し、弁護論は国際的な舞台でラテン語で書かれたことであり、また内容が、信仰と教会制度にかかわるのに対し国王を倒すという政治体制にかかわる点である。
離婚論と『弁明批判』は、ミルトンをイングランド国内で有名にしたが、弁護論は、オランダ語やフランス語に訳されて版を重ね、「イングランド国民の代弁者」としてのミルトンの名を一躍ヨーロッパに広めることになった。この論争は、サルマシウスに対するミルトンの勝ちだというのが、おおかたの判定である。この意味でこの文書は、イングランド国民から全ヨーロッパに向けて発信された「民主主義宣言」であると言えよう。
ミルトンの詩は、その文体においておおむね禁欲的である。『楽園喪失』においてさえ、セイタンの描写の一部を除くと、無駄を省いて言葉に隙がない。ところが、彼の散文になると様相が一変する。相手を攻撃する場合に、皮肉、諧謔、洒落、揚げ足取りありで、時にはかなり際どい表現も飛び出す。これは、笑いと嘲笑を意図的に誘うことによって、相手をおとしめる戦術から来ているのであろう。ミルトンのこういう散文スタイルは、どうやらラテン語の場合でも健全らしい。訳文はこの特徴をよく捉えており、この点でも訳者の労を多としたい。終わりに「放出」(二〇頁)は「放逐」とし、また「国王が自分自身の主権を」(二七三頁)とあるところでは、「主権」を「王権」とすべきであろう。