ミルトンの教会改革と結婚・離婚思想
(甲南女子大学公開講座より)
(1)ミルトンの生涯と一七世紀
始めにお手元の年譜よりミルトンの生涯とその背景をごく大ざっぱに見ていきたいと思います。下段に「エリザベス一世没」とありますが、これは、一六世紀と一七世紀の英国とを分ける重要な出来事でした。というのは、一五五八年に即位して以来四〇年以上も続いたエリザベス朝が終わり、英国は動乱の時代に向かおうとしていたからです。英文学では、シェイクスピアに代表される英国のルネサンスから、ミルトンに代表されるピューリタン革命の時代への移行を意味すると言えましょう。エリザベス朝からピューリタン革命に向かう原因については、社会的、経済的、政治的な要因があげられますが、それに加えて宗教的な要因を見過ごすことができません。
この宗教問題は、エリザベスの父であるヘンリー八世までさかのぼります。それまで英国は宗教的にはカトリック教会の支配下にあったのですが、ヘンリー八世の離婚問題を契機に、王は、一五三四年に、カトリックから独立して「英国国教会」という独自の制度をつくります。この頃すでにドイツではルターによる宗教改革が行なわれていましたし、またスイス、特にジュネーブでは、カルヴァンによる改革が始まろうとしていました。カルヴァンの改革は、ルターのそれよりもさらに徹底していて、カトリック的な要素を完全に取り除く教会制度を目指すものでした。このカルヴァンの強い影響を受けた人が、イングランドの北にあるスコットランドで、カルヴァンにならって改革を始めることになります。ジョン・ノックスという人で、この人が一五六〇年、ちょうどエリザベスが即位したすぐ後で、スコットランド改革派教会を成立させたのです。このように、ドイツ、ジュネーブ、スコットランドで行なわれていた改革に比べるとイングランドの英国国教会は、制度的には穏健で、その意味で、もっともカトリック的な要素を残していたと言えるでしょう。例えば、今日問題にします、離婚問題を例にとっても、英国のそれは、他のプロテスタントの国に比べてカトリックの考え方に近いものでした。とは言え、修道院の廃止、マリア崇拝の禁止、聖職者の妻帯、それに、ローマ法王に代わって、国王が同時に教会の最高の元首となるなどの大きな改革が行なわれたと言えます。
しかし、イングランドの国民の中には、お隣のスコットランドに比べて、改革がまだまだ不十分だと考える人たちも多く、なお一層の徹底した教会制度の改革を求める人たちが出てきます。この人たちは、教会を「清める」という意味で「清教徒」いわゆる「ピューリタン」と呼ばれました。ピューリタンには、いろいろな考え方の人が居ました。例えば、ミルトンの思想などは、スコットランドの改革派よりもなお一層進んでいたと言えます。ピューリタンは、新興の市民階級がその主体であったといわれますが、これもなかなか複雑で、貴族の中にもこの傾向の人たちが居ましたし、市民の中にも保守的な人たちが居ました。ちなみに、シェイクスピアのお母さんはカトリック教徒ではなかったかと言われています。ところで、当時議会の下院は、上流市民階級で占められていましたので、イングランド全体が、ピューリタンを主体とする議会派、そして国教会と国王を擁護する王党派、この二つに分裂して争うことになったわけです。ミルトンの父はピューリタンで、それもかなり熱心な信仰者であったようで、ミルトンにピューリタンの家庭教師をつけています。
年譜で見ると分かるとおり、ミルトンは、一六三二年にケンブリッジを卒業し、それから大陸を旅行するまで、父の別荘で勉学にいそしんでいました。この頃に『コウマス』という仮面劇を書いて上演しています。この仮面劇は「純潔(節操)」をテーマにしていて、この点が、後で述べる離婚論との関係で注目されます。ミルトンが大陸を旅行中に、一六四〇年にピューリタン革命が始まり、ミルトンは帰国して、議会派の秘書としてさまざまな文書(トラクト)を書きます。『イングランド宗教改革論』をはじめ、四つの宗教改革に関する文書がここにあがっています。ところで、彼は、この頃メアリ・ポウエルと結婚しますが、これは全く突然の出来事で、周囲の人たちは驚いたといいます。ミルトンのトラクト活動は、さらに広がり、一六四二年からは『離婚の教理と規律』という文書を出して、結婚だけではなく、離婚する自由をも認められるべきだという、当時としてはずいぶん大胆な思想を提唱します。離婚論は、全部で四つありますが、これと平行して『教育論』『アレオパギティカ』(『言論の自由』と訳されています)が書かれているのに注意してください。
ピューリタン革命は、議会派の勝利に帰して、この結果、一六四九年に、国王チャールズ一世が処刑されます。国民が王を処刑するというのは、歴史的にも画期的な事件でした。このために大陸から、イングランド国民に対して非難の声があがります。ミルトンはこれに答えるために、『英国民のための第一弁護論』と続いて第二弁護論を書いて、英国民の正当性を主張します。ところがこの頃、激務のために彼はついに失明し、また妻を失うことになります。しかし、その四年後にキャサリン・ウッドコックという女性と再婚しますが、彼女は産後の肥立ちが悪く、わずか一年半で亡くなりました(当時はこういう事がよくあったようです)。革命の立て役者であったクロムウエルが死ぬと、一六六〇年に王政復古となり、ミルトンたちの革命はここで挫折することになります。彼は、一時投獄されますが、友人たちの執り成しと、それに目が見えないことがかえって幸いしたのかも知れません、出獄することができました。その三年後にエリザベス・ミンシェルと三度目の結婚をします。
実は、詩人としてのミルトンの活動は、これから後に結実することになります。と言うのは、一六六七年に『楽園喪失』という大作の叙事詩が出て、これがミルトンの名を英文学史上不朽のものとしました。この作品は、聖書の創世記に出てくるエデンの園と、禁断の樹の実を食べたアダムとエヴァ、この二人をめぐる神と悪魔の闘いを描く壮大な叙事詩です。この後、『楽園回復』という小編の叙事詩と『闘志サムソン』という詩劇を一冊にして出します。以上で、ミルトンの生涯のごくあらましを終わりますが、この彼の生涯を、大きく三つに大別してみますと、一六四一年の革命までの青年期、続いて、革命政権の秘書として活躍したトラクト時代、王政復古以後の主として叙事詩の時代です。先にお話したように、詩人としてのミルトンは、青年期の仮面劇や小編の作品、そして王政復古以後の叙事詩や詩劇によって高い評価を与えられているのですが、今日は、その真ん中の時代、彼のトラクト活動に焦点を当ててみたいと思います。
(2)ミルトンの宗教改革論
★ミルトンのトラクト時代について。
もう一度年譜を追って彼のトラクト活動を振り返ってみますと、これも三つに分かれているのが分かります。始めは、教会制度の改革を訴えたもの、これを「信仰の自由」のための闘いと呼びましょう。次には、教育、言論、離婚の自由を提唱するもの、次には、国民の政治的な自由、この三段階です。信仰の自由から言論・離婚の自由へ、さらに政治の自由へと、彼の思想が、個人の内面の自由を追求することから始まって、漸次社会的・政治的な視野へと広がっていくのが分かります。ご承知のように、ミルトンたちのピューリタン革命は、英国では挫折しましたけれども、これが大西洋を越えてアメリカに渡り、アメリカ建国の理念となっていくわけで、彼の追求した言論の自由、信仰の自由、政治の自由は、近代市民社会の形成理念として、現在の日本国憲法にもその影響を及ぼしています。
以上長々とミルトンの生涯とその時代とを追ってみたのですが、これは、結婚・離婚の問題が、その時代の政治を含む社会的な状況に、とりわけその社会の宗教的な状況に大きく影響されることを知っていただきたかったからです。今述べたように、ミルトンの結婚・離婚思想は、彼の宗教思想と彼の政治思想との間にあって、これらと密接に関係しています。こういうわけですから、彼の離婚論に入る前に、彼の教会改革論を、特にその離婚論との関連においてもう少し考えてみたいのです。と言っても、教会改革という大問題を論じるのではなくて、そこに含まれる重要な考え方を四点ほどに絞ってみようと思います。
★制度と個人の自由
先ずあげられるのは、教会制度と個人の自由という問題です。英国国教会制度というのは、イングランドの全国民が国教会に所属して、幼児洗礼を受け、その礼拝の形式にいたるまで国教会の規定に従わなければならないというものでした。これに対してミルトンたちは、信仰は、個人の自由に任せるべきであって、国家や高位聖職者によって統治されるべきではないと主張したわけです。この問題は、現在の日本でも裁判で争われていますが、ここではそういう宗教論ではなく、問題を「制度と個人」という点に絞ってみましょう。ここでミルトンは、「個人」というものを、より正確に言えば、「個人の良心の自由」を前面に押し出しているのに注意してください。ここで「個人」が、近代の市民社会の基本になっているのが分かります。
教会は、言うまでもなく、神を礼拝するためのものです。しかし、礼拝する一人一人が、その内面において、言い換えればその良心において、ほんとうに納得していないならば、どうして神を礼拝する意味があるだろうか。ほとんどの人は、ただ決められた通りに教会に出席して、牧師の説教を聞くという形だけの宗教に止まっているではないか。このような中身の伴わない「宗教」では、信仰そのものの意味が失われるばかりか、教会へ行くことさえ神に対する冒涜になってしまう。だから、こういう形骸化した制度を廃止して、個人個人が、自分の心から納得できる形と内容を持った信仰のあり方を追求する自由が認められるべきである。こうミルトンたちは考えたわけです。ミルトンのこの考え方は、外面的な制度よりも個人の内面を重視する点が重要なわけで、ここに、制度の持つ外面的な形式と個人の内面、この二つの関わりが問題になります。こういうピューリタンの考え方を「内面化の論理」と呼ぶことができましょう。この考え方をもう少し突き詰めますと、個人が内面でほんとうに納得しないのに、外面的な制度に縛られて行なうのは「悪」であるとする考え方につながります。
★自由と責任
第二点としてあげられるのは、ミルトンたちの考えによれば、個人個人が、自分の考えで信仰生活のあり方を選ぶわけで、これは一見楽なようで、実はきわめて厳しい責任を個人の選択に負わせる結果になるということです。この選択の中には、当然の帰結として、「教会へ行かない自由」も含まれることになるでしょう。こうなりますと、信仰とは何か、何が正しい信仰のあり方なのか、さらには、神は存在するのか、キリストはほんとうに神の子なのか、というような問題が個人の判断に委ねられてきます。このように今まで考えもしなかった問題が、一人一人の良心の選択にかかってくるわけです。こういう問題は、それまでは、牧師や神学者が考えるべきことで、一般の信者が煩わされなくてもいい問題でしたが、今はそうはいきません。これは、大変厳しい責任です。ごく常識的に考えますと、制度は人間を束縛するもの、自由は人間を楽にするものだと思われがちです。しかし実際はこの逆で、制度があれば、人間は、ずいぶんといろいろなことを「迷わず」に済ますことができる、また問題を突き詰めなくても、適当に「とりつくろって」いくことができます。ところが、制度がなくなりますと自己の内面の選択が、そのまま外面の行為として、ごまかしなく現われざるをえなくなるわけで、ミルトンたちがねらったのもまさにこの点だったのです。
★制度の否定
次に第三点としてあげられるのは、制度の否定に関する問題です。この点は少し難しいです。先ず、注意してほしいのは、ミルトンが教会制度の廃止を求めたのは、その制度の中身であるキリスト教そのものを否定したからではないという点です。この点は大切です。なぜなら、制度の中身、すなわちキリスト教を否定する人たち、例えば、ミルトンの時代であれば、無神論者やイスラム教徒のような人たちの中には、当然教会の制度そのものにも反発を感じたり、できればこれを廃止したいと考える人も居たでしょう。ところが、ミルトンたちが教会制度に反対したのは、この人たちのようにキリスト教を否定するからではなくて、逆に、制度の「内面化」をはかること、すなわちキリスト教を普通の人以上に大切に思うところからでているのです。ここでは、制度の否定は、その中身の否定につながらないどころか、逆にこれをいっそう「徹底させる」ことを意図します。このようにみますと、ある制度を廃止しようとする人たちには、二通りあることが分かります。すなわち、その制度に含まれる内実を否定する人と、逆にこれをいっそう重視する人です。この二つは、ちょうど反対の理由で制度の廃止を求めているわけですから、わたしたちは、この二つを混同しないようにはっきりと区別しなければなりません。
★自由と束縛
四番目に問題となるのは、先にも触れましたが、ミルトンの主張には、「教会へ行かない自由」をも含まざるをえない点です。「もしもそんなことをしたら」とミルトンたちに反対する人は言います「ただでさえ教会へ来たがらない連中はどうなるだろうか。そんな自由を認めたら、不信心な者や無神論者を奨励するようなものではないか」と。今から考えますとこんな心配は要らないと思うのですが、この時代には、これは重大な問題でした。確かにこういう反論にはもっともな点があります。ミルトンたちの自由には、このような「悪」をも認めざるをえないものが必然的に含まれるからです。これに対してミルトンはどう答えるのでしょう。
ミルトンは、自分の意見には、「教会へ行かない自由」が含まれることを認めます。そして、これが「望ましくない悪」であることも率直に認めます。では、彼は、なぜそのような自由をあえて提唱するのでしょう。それは、この「教会へ行かない自由」が「教会へ行く自由」と密接に関係しているからです。すなわち、「教会へ行かない自由」が認められなければ、自ら進んで、誰からも強制されずに自発的に教会へ行くという大切な自由が生きてこない、こう考えるのです。ここにも、難しいけれども、大切な問題が提起されています。自分の意志で教会へ行くという信仰生活の大切な意味が、これをしなくてもいいという消極的な自由と表裏一体となっているのが分かります。「そんなことをしたら」と反対派の人は言うでしょう「誰だって楽な方を、すなわち行かない方を選ぶだろう」と。はたしてそうでしょうか。
一つの例えをとりましょう。この大学の学生の中には、何一つ不自由もなく、ただ毎日学校へ来て、授業を受けて帰る、そんな人たちもかなりいます。彼女たちが、ほんとうに学校生活に生きがいを感じているかというと、残念ながらそうではないようです。ところが、一部の学生は、クラブなんかを積極的にやって、結構充実した学生生活を送っています。考えてみますと、これは不思議なことです。何一つ不自由がないのならさぞ幸せだろうと思うのですが、必ずしもそうではない。ところが、クラブというのは、ここが特に大切な点ですが、充実したクラブというのは、ずいぶん厳しい練習をやらなければならない。これは、本人にとっては、かなりの束縛となるはずです。このように、何かをほんとうにやり抜くには、自分を厳しい「束縛」の下に置かなければならない。ここに「自由」の持つ不思議な二面性が浮かび上がってきます。「自由」は、特に「何もしなくてもいい」という消極的な自由は、「教会へ行かなくてもいい」という自由と同じで、これだけでは「生きてこない」。この消極的な自由が、自ら進んでこの「束縛」に身を置こうとする、より積極的な「自由」と結びついて、初めてこれが充実し生きてくることが分かります。「自由」と「束縛」、この不思議な関係が分からないと、ミルトンがなぜあえて「教会へ行かない」自由を認めてまでも、信仰の自由を押し進めようとしたのかが理解できません。
(3)ミルトンの離婚論
★結婚制度の内面化
以上ミルトンの教会改革論で指摘した点を彼の離婚論に置き換えて考えてみましょう。もう皆さんは、ミルトンが、離婚論の中でなにを言おうとしたのか、およその見当がつくと思います。先ず、制度と個人の問題を考えますと、これは、「結婚制度」と個人の自由となりましょうが、ミルトンたちの考えには、教会の礼拝のあり方で見たとおり、「制度の内面化」という思想が一貫して流れています。外面的な結婚制度にとらわれるよりは、それがはたして、現実の生活において、言い換えると夫婦の内面生活において、ほんとうに生きた意味を持っているだろうかと問うわけです。もしも、その中身が失われているのであれば、外面にとらわれて制度の中で「適当に」ごまかして生きていくよりも、そのような結婚は、はっきりと解消すべきであるという考え方がここから生じてきます。人間は弱いから、そういう弱さを守るために制度が存在するという発想は、ここにはありません。「内面化の論理」に従いますと、離婚の問題は、「良心の自由」に関わるとさえ言えます。アメリカの男女が、内面的な夫婦のあり方を、日本と比較しますと、そのまま外面に、形として現す傾向が強いのは、こういう思想がその底流にあるからだと考えられます。
★個人の責任
第二の点は「個人の責任」という問題です。先にわたしは、ピューリタニズムでは、「個人」が重要な意味を持つと述べました。これは、裏を返すと、それだけ個人が大きな負担を負っていることになります。英語で、"at your own risk"という表現がありますが、「自分の危険を承知の上で」個人の責任において決める、こういうことが、英米では多いようです。それだけ、結婚や愛のあり方において、個人個人が「成熟」していなければならないわけです。だから、この問題は、当然子供にも及んできます。
わたしは、イギリスで幼児の向けの「親の離婚」の本を見つけて学生にみせたところ、びっくりしていました。性の問題、養子縁組の問題、こうした内容を早くから子供に教えておこうという考え方がここにあります。国や社会制度は、もう結婚生活を守ってはくれない、日本でも徐々にこういう風潮になりつつあります。わたしの友人で、京大の民法の教授がいますが、彼も、これからの日本では、法律は、結婚・離婚を完全に個人の問題として考え、これを法律が守ったり防いだりすることはしなくなる傾向にあると言います。
★結婚制度と離婚の自由
ここまでくると、先にあげた三番目の点が問題となります。結婚制度を否定する人すなわち、この制度自体が、ある著名な評論家の言葉を使うと「不自然」だと考える人(こういう発想は、ミルトンの時代にすでにあったのですが)、このような人が、いわゆる「性の解放」を唱えるときは、その制度に含まれる結婚の意義そのものに疑問をもち、これを否定的にとらえるわけです。ところが、これとは対照的に、結婚をきわめて理想的にとらえる人たちがいます。こういう人たちも、結婚の「制度それ自体に」束縛されるのを嫌います。けれども、この人たちの場合は、決して「結婚」を軽んじるのではありません。その逆の方向、すなわち、結婚に含まれる意味を内面的に追求してこれを成就させようと心から求める人たちです。ですから、彼らが、制度に縛られたくないのは、「一度結婚したら決して離婚できない」状況の下では、自分たちの生き生きした結婚生活への努力や意図が、その意味を失うのではないかと恐れるのです。「離婚する自由」という裏付けがなければ、結婚への意義づけとこれに対する努力は、その積極的な内実を失ってしまうからです。法律で離婚の自由が大幅に認められるのは、けっして、離婚を「奨励」するためではないと思います。そうではなくて、このような自由が認められなければ、真に人間らしい内面的な結婚を二人で充実させていく意味が見失われて、そのような制度によりかかるさまざまな弊害、制度に反対する人たちが、ある意味で正しく指摘している旧来の日本の結婚制度の矛盾が、改善されないからだと思います。離婚の自由を考えるときには、この点を、それが、より充実した結婚への「必要悪」であるという側面をはっきりと認識しなければ、とんでもない誤解に陥ることになります。
しかし、このような積極的な自由は、逆の面からみると、それだけ個人の選択に制度の中身が委ねられるわけですから、社会制度それ自体としての「結婚」は、より多くの危険にさらされざるをえません。ひと昔前に、「家付きカー付きなんとか抜き」という言葉が流行しました。大家族の束縛からはなれて、夫婦と子どもの核家族だけのいわゆる「スウィートホーム」を目指した言葉ですが、このような家族構成の「個人化」とこれを目指す姿勢は、結婚を「制度」としてみた場合に、その安定をもたらすよりもむしろ不安定な要因の方が多くなるのに気がつきます。
★結婚への意志
今「充実した」と言いましたけれども、この「充実」が次に問題になります。結婚を「束縛」ととらえるのは一面の真理です。しかし、先に述べたとおり、それはあくまでも一面の真理にすぎません。人間が自分の存在を充実させていくのに、さまざまな生き方や方法があると思いますから、どうしても結婚したくないのであれば、それはそれで一つの選択であると言えましょう。ただし、安易に束縛を嫌って、この営みから逃避するならば、人生を生きる大きな意味を見失うことになります。事はそれほど単純ではないわけです。近ごろdink族とかいって「共働きで子供のない」夫婦二人の優雅な生活が、アメリカの都会では流行していると言います。確かに、子供を生むのは、特に女性にとっては大きな負担を伴いますから、その意味で、これが束縛をもたらすのは避けられません。しかし、そのような「束縛」を、あえて自分の意志で選びとる、この積極的な自由こそ、真に人間らしい決断ではないかと思います。その苦しさの中にほんとうの生きがいが隠されている、この大切な点を見落とすと自由の大切な一面を失うことになります。
★結婚愛について
このように問題を突き詰めていきますと、いったい結婚の究極の意味はなんだろうというところへ到達します。この問題は、例えば、これも現在ではよく見かける、結婚しないままともに暮らす、いわゆる「同棲」という形ではっきりと現われています。いったい結婚と同棲との間には、あるとすればどんな違いがあるのだろう、という問いと重なってくるわけです。「あるとすれば」と言ったのは、この区別それ自体がはなはだ曖昧な人たちが案外多いからです。紙一枚提出さえすれば結婚になり、出さなければ同棲になる。ただそれだけの事だ、という意見も出てくる時代です。その「紙一枚」がなにを意味するのか、あるいはしないのか、この辺が問われてきているわけです。ミルトンの「内面化の論理」からするならば、外面的にみる限り、結婚も同棲も全く区別はありません。とすれば、問題はその内面のあり方にかかわってきます。二人が恋愛して結婚を決意する。いったい、恋愛から結婚へと決断させるもの、それはなんなのか、これがここで問われてくるわけです。恋に「落ち入る」とは言いますが、結婚に「落ち入る」とは言わない。逆に、結婚に「踏み切る」と言いますね。いったい、なんに向かって「踏み切る」のでしょう。この辺が分からないと、結婚に積極的な意味を見いだせなくなります。ミルトンの結婚・離婚思想もまさにこの問題に行き当たったと言えます。このような意味で結婚を意義あらしめる内実を、ミルトンは、「結婚愛」と呼んでいます。この結婚愛は、ですから恋愛とある意味で対立する概念となってきます。この結婚愛と恋愛との対立をめぐっては、ヨーロッパではそれなりの長い歴史が中世以来続いていますが、今ここで、この問題に触れることはできません。
★結婚愛と宗教
この点を考察しようとするとき、初めに触れたミルトンの『コウマス』が、そのヒントを与えてくれます。これは、乙女の純潔とこれを否定するコウマスという魔法使いとの出会いをテーマにした仮面劇なのですが、純潔を尊ぶ乙女とこれを無意味で不自然だとするコウマスとの出会いを通じて、ミルトンは、両者の間に横たわるある種の亀裂を浮き彫りにしていきます。「純潔」(この言葉をミルトンはもう少し広義に解釈して「貞節」あるいはもっと一般的な「節操」という意味にまで発展させています)、これが意味を持つためには、人間を肉体的な存在として、別の言い方をすれば生物学的な存在と考えるだけではどうしても純潔にはっきりとした根拠を与えることができないことが分かってきます。「純潔」が明確な拠り所をえるためには、どうしても、人間の精神とその精神の思い描く世界観、やや難しく言えばコスモロジー、この辺まで広くとらえないと純潔とこれを基軸とする結婚愛は明確な意義づけを見いだせないことが分かってきます。平たく言えば、ぎりぎりの状況に追い込まれた場合に、それでもなお結婚生活を続けるのか、それとも破棄するのか、この選択は、その人の人間としての生き方の根底に関わる深さをもって迫るわけで、これはその人の世界観、つまり「宗教的な」レベルの問題と考えてもいいと思うのです。その人の「住んでいる世界」の違いとでも言いましょうか。こういう人間や自然を「見る」ものの見方、これの食い違いがコウマスと乙女との間で浮き彫りにされてきます。この違いは、例えば、女性の裸体を見る場合でも現われます。これを単なる情欲の対象として眺める場合と、例えばルノアールの絵にあるように、自分の妻の裸体を美しく描く画家もいるわけです。ルノアールの妻の裸体像は、見る者に美しい感情を呼び起こします。ここまでくると、同じものを見ても見る人の内面、その人の「世界」がそこで問われてくるわけです。宇宙や大自然の神秘、言い換えると宗教的な次元の問題へとこれはつながってきます。
(4)結びの言葉
わたしたちは、ミルトンの宗教思想から彼の結婚・離婚思想へと見てきたのですが、どうやら、問題は、もう一度宗教的なものへと戻っていくようです。シェイクスピアの悲劇は、ことごとく「死」で終わります。彼の喜劇は、必ずと言って良いほど「結婚」で終わります。「死」と「結婚」、この二つだけは、人間の手の届かない神秘に包まれているのかも知れません。儀式の廃れた現代でも、この二つの儀式だけはなくならないのもこの辺に理由がありそうです。
終わりにもう一度、年譜へ戻りましょう。ミルトンの散文で、政治の自由を論じた文書には、今日は触れませんでした。しかし、この政治の自由は、結婚・離婚が個人のレベルだけではとらえきれないことを、共同体や国家の形成理念とも関わってくることを示唆しています。今一つ、注意していただきたいのは、後期の『楽園喪失』の方です。今日は、ミルトンの離婚論についてお話したわけですが、肝心の結婚愛とはどういうものなのかについて、その中身に触れることはできませんでした。ミルトンが、散文時代に行き着いたこの問題を、彼は、後期の『楽園喪失』でさらに追求していきます。ここでは、アダムとエヴァという人間の男女の原型が、神から結婚愛を与えられ、これを失い、再びこれを見いだしていく過程が壮大な叙事詩となって展開されます。この辺は、次に機会があれば、とりあげてみたいと思います。
以上で、ミルトンの宗教と結婚・離婚についての話を終わりますが、彼が出会い、追求した問題意識が、現代の、特に欧米や日本を含む共通の大きな問題と重なることがご理解いただけたでしょうか。ここにおいでの皆さんが、この問題を考える場合に、なにかのご参考になれば幸いだと思います。今日は、ご静聴どうもありがとうございました。