3章 キリストの赦しの御力
■死を呑み込む勝利
 パウロは、第一コリント人への手紙で、「死は勝利に呑み<込まれた>」と受け身で言い表わしています。いったい、この「呑み込まれる死」とは、どんな「死」でしょうか。「死にゆく肉体」に働く力だと思えば分かりやすいですが、どうもそれだけではなさそうです。パウロは、人間に具わる身体のことだけでなく、その「生身(なまみ)の体(からだ)」に宿る「弱さ」や、人に潜む「弱点」や、「からだ」にまつわるもろもろの「罪性」も、それら全体を含めて「肉」と呼ぶからです。
 だから、パウロが「死の刺」と呼ぶのは、人の肉体に働く「死の力」のことだけでなく、体を具えたわたしたち人間が、否応なく帯びざるを得ない弱点や、罪の性質をも含みます。言い換えると、人がその肉体を通じて生きることそれ自体に「避けがたくまとわりつく」諸々の悪しき言動をも含むのです。あえて言えば、人が生きることそれ自体が、「悪の実を結ぶ」のです(ローマ6章20~23節)。言葉を選ばずに言えば、人は、「悪の花を咲かせる」存在なのです。
 こういう人間が、十字架のイエス様の御前に出る時、何が起こるでのしょうか? 彼は「悪かった」と素直に謝るでしょうか? それも無いとは言えませんが、先ず無理です。逆に、イエス様の十字架の鏡の前に立つ時、そこに映じる「自分」から、まるで湧き上がる泥水のように、悪しき想い、悪しき言葉、悪しき衝動が、フツフツをこみ上げてくるのを抑えることができなくなる。こういう「思わぬ」事態が生じるのです。「これが」イエス様の十字架の前に出る時に、その人に起こることです。これが、イエス様の十字架に「挑(いど)みかかる死」が発する挑戦です。
 人が、十字架のイエス様の御前に出る時に生じるこの「不思議な闘い」こそ、十字架の死によって「死に打ち勝った」御復活のイエス様の「ほんとうの出番」であること、「このこと」をパウロはここで言おうとしているのです。「肉」のわたしたちは、その罪性もろともに、「憎しみも恨みも罪業もそのありのまま」、「すべてありのまま露だに飾らず」"Just as I am, without one plea." (賛美歌271番)、あえてイエス様の前に身をさらすのです。言わば、これは、「一切を相手に委ねる」全面降伏です("I surrender all." 総合版聖歌565番)。
 その時、彼になにが起こるのでしょうか? イエス様から厳しくとがめられるのでしょうか? いいえ。「まあ、いいですよ」と「あったことをなかったことにして」甘くみてもらえるのでしょうか。違います。自分の悪と罪性が、きれいさっぱり「取り除かれて」、消滅するのでしょうか? それも違います。そもそも、「全面降伏」は、「こちら側」からの闘いだけでは、起こりえません。「相手側から」も闘いを挑まれて、その相手側からの攻撃に曝されて、相手が自分に向ける「予想だにしなかった」強大な力に「負けた」からこそ、全面降伏するのです。したがって、その前に、「相手側からの攻撃」がなければなりません。
 だから、わたしたちは、「全面降伏した時に初めて」、はたと気づくのです。実は、闘いは、「相手側から」こちらに向けて仕掛けられていたのだと! 神の側こそ、イエス様を通じて、わたしたち人間に「闘い」を挑んでおられたのだ。わたしたちは、「このこと」に初めて気づくのです。これを悟ったその時に、驚くべきことが起こります。死の体を具えたわたしたちが、なんとそのままの姿で、相手に圧倒されて「呑み込まれてしまう」のです! これが、イエス様の十字架の「赦しの御力」のお働きだったのだ! わたしたちは、初めて「このこと」を悟るのです。パウロが、「もしも、わたしが、今狂っているのなら神のせい。気が確かならあなたがたのせい」と叫んだのはこのゆえです(第二コリント5章13節)。「死を呑み込んで勝利する」十字架と御復活のイエス・キリストの「絶大な御力」が、こうして、その人に初めて、キリストの贖いと復活の花を咲かせて、実を結ぶ(アンブロシウス)。こういう、驚くべき「秘義」が生じるのです(第一コリント15章51節)。どうぞ、神とイエス様から降る、聖霊のお働きを「見損なわない」でください。
■サタンの手下「肉の刺」
 わたしたちは、ここで、第一コリントから第二コリントの「肉の刺」に移ります。パウロが言う「肉の刺」とは、何らかの身体的な疾患のことであろうと推定されています。しかし、たとえそうだとしても、単なる疾患と、これの癒やしのことだけでは、「サタンの手下」とは言えないと思います。先の書簡で「死の刺」の敗北を発信したパウロは、今回の「肉の刺」にも、何らかの関連性を持たせていると考えることができます。
 では、自分の身体の疾患が、なぜ、「サタンの手下」の働きなのでしょうか? おそらく、その疾患が、福音の使徒としてのパウロの自尊心を傷つける刺であり、それに気づいた人たちの前で、屈辱的な想いに襲われることがあったからでしょう。パウロが、自分の福音伝道を妨げる「サタンの手下」だと呼ぶのは、おそらくこの理由からでしょう。
 「無くて七癖」と言いますが、人それぞれに癖があります。癖はその人の個性ですから問題ないとしても、この言い方を借りれば、人それぞれに「無くて七罪」があります。これをどんなに取り除こうと焦(あせ)っても、「罪の律法」は己(おのれ)に与(くみ)せず、逆にサタンの手下に機会を提供するだけです。だから、「自己流の諸行」ではどうにもなりません(第一コリント15章56節)。ところが、パウロが言うには、己の「弱点」を自他共に証しするその「サタンの手下」の仕業をば、あるがままに主の御前に持ち出して、少しも飾らず、祈りによって主にお委ねする時に、不思議や不思議、その弱点も罪性も、そのまま逆転されて、主の恩寵の働く場と化するのです。まるで、己(おのれ)という「肉の瓶(かめ)」に、冷水をいっぱい満たす時に、その水が、そのまま恵みの葡萄酒に変じる。そんな不思議な事態にも似た出来事が生起するのです。
 こういう体験を幾度となく繰り返すうちに、弱さを強さに変じる主の御霊の御臨在のものすごさが、徐々にその人に啓かれてきて、「死の刺」も「肉の刺」も、十字架と復活の主イエスの恩寵の働きをますます広げる勝因になるのです。こうして、パウロに働く主の御霊の御力は、どこまでも拡大されて、主の御臨在の力強さとなり、ついには、宇宙全体が、キリストの御力で変容されることを待ち望んでいるという啓示にいたるのです(ローマ8章21~23節)。
 「肉の刺」の弱点が、イエス・キリストの御力の偉大さをいっそう明らかにし、サタンの仕業による「弱さ」が、イエス・キリストのお働きの「強さ」に逆転される恩寵の不思議な御業。これが、パウロの屈辱を誇りに変え、パウロの弱さを強さへのエネルギーに変えるのです。イエス・キリストの十字架の恩寵とは、かくも不思議で、かくも偉大で、罪に向かってかくも挑戦的に働くパワーを秘めているとは! 「このこと」が、彼を観る者、彼に聞く者に証しされるのです。
■パウロの「キリストの御力」
パウロは、第一コリント書簡で、「死の刺をも呑み込む」十字架と復活のキリストの御力を証ししました。第二コリント書簡では、そのキリストの御力が、サタンの手下の仕業がもたらす弱さを逆転させる恩寵の御力であることを証ししました。続いて書かれたローマ人への手紙では、その「弱さ」とは、「罪の律法」が信者に自覚させる「人の諸行」の無力さであると語られます。しかし、そこに働くキリストの御力は、被造物全体にも変容をもたらすほどの広大かつ無限の御力であることが証しされます。
 パウロのこの証しを受け継いで、それが、現在のキリスト教徒が形成するエクレシアに現臨し働いていること。これを明確にしたのがエフェソ人への手紙です。ここで初めて、十字架と復活のキリストの「絶大な力」が、人々に明瞭に提示されています。エフェソ1章8節~14節/同17節~23節には、イエス・キリストの十字架の贖いの結果として、イエス様を信じる人たちのエクレシアに降る聖霊のお働きが、「知恵と啓示の霊」となって、エクレシアの一人一人の目を開いて、「信じる者に働く絶大なキリストの御力」がどんなに大きいかを悟るように祈ることが求められています。エフェソ人への手紙が証しするこの御力とは、実は、ナザレのイエス様が、その存命中に、自らの御言葉でお語りになった父なる神のお働きをわたしたちに想起させてくれます。
 それは、ただ十字架の輝きを我が身に体し、弱い時に強く、無力無心にして無即無限大のパワーを知ること。無限の愛光に包まれて、善い者にも悪い者にも太陽を昇らせ、罪ある者にも罪なき者にも雨を降らせてくださるお方をわが神として礼拝すること。野の花、空の鳥を生かし、人それぞれをその人の能力によって活かてくださるイエス様にある赦しの絶大な力。これが、人に宿る「キリストの御力」であると知ることです(マタイ5章43節~48節/マタイ6章25節~30節)。イエス様がわたしたち人類に啓示してくださる「最終目的地」が、ここに啓示されているのです。
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