詩編119篇(ペー)
             お言葉の光
 
129あなたの証しはすばらしい
 それゆえわたしの魂はこれを守る。
130お言葉が開けると光みなぎり
  純朴な者に知恵が降る。
131わたしは口をあけて慕い求める
  あなたの戒めを願い求める。
132み顔を向けてわたしをかえりみ
  み名を愛する者にご配慮ください。
133わたしの歩みを約束どおり固くし
  あらゆる悪に負けないようにしください。
134人の虐げからわたしを贖い
  あなたの定めを守らせてください。
135み顔を僕の上に照らし
  あなたの掟を教えてください。
136この目は涙の川となった
  人々があなたの律法を守らないからです。
 
                   【注釈】
                   
【講話】
 この詩にでてくる八つの言葉は、いずれも神の「語られること」に関係している。ヘブライ語では、「言(こと)」は「事」であるから、それらは単なる「言葉」ではなくて、現実に自分の身に「生じる」出来事である。神は事実を通して語りかけ、人の心に働きかける。信仰はその意味で「言葉」ではない。どちらかと言えば体験であり、むしろ霊験と言ったほうがよい。これを通じて人は、神の言葉がほんとうに「働く」ことを知り、神がほんとう居ますことを信じる。冒頭で、神の証しを「驚くべき・不思議・すばらしい」と言っているのはこのゆえである。
 けれども、ここでは、作者は、自分の心に語りかけてくる神からの直接の示しをほめ讃えているのではない。「掟」とは「書き記されたもの」の意味からも分かるとおり、ここで作者は、だれの目にも分かる文言、律法であれ、戒めであれ、約束であれ、定めであれ、文字として書かれ人々の目に見える「神の言葉」をほめ讃えている。神の言葉と神の法は、森羅万象の奥にあって、これらを支配し、かつ人間の心にもそれが刻まれていると考えるのはそれ自体間違いでない。しかし、その法が、文字通りに書かれた「文字」となって自分の目の前にある、こう言われるとだれでも戸惑いを覚えるものだ。いったい、神様のお言葉が、人間の作った文字に入りきるのかというしごくもっともな意見に始まり、ヘブライの文字は特別に「神聖な」神格を帯びているのだというなにやら「秘義」めいた話にまで発展してくる。もっとも英語の「スペル」が、秘密の呪文の言葉を「書きつづる」からきていて、今でも「スペル」には「まじない」の意味があるくらいだから、文字と魔法とが結びついても不思議ではない。
 言うまでもないことだが、ここで作者は、そのような魔術的な意味合いをこめて書かれた法を見ているのではない。「魔術的な意味」と言えば、文字などよりもっと有効な手段がいくらでもある。目を奪うばかりの美しい色彩に彩られた「聖なる画像」、壮麗な大寺院や大聖堂、感覚を刺激する香り、心をうっとりさせる音楽、そして、これらすべてを総合した壮麗な式典がある。イメージ操作の発達した現代では、テレビのCMから政治ショー、宗教団体の大仕掛けな祭典にいたるまで、あらゆる巧みな誘いや刺激によってわたしたちの感覚はほとんど麻痺しそうである。こういう演出に比べると、書かれた文字はいかにも「魅力」(これもチャーミングという言葉のとおり魔法にかけることだ)に欠ける。白い紙に黒い文字で書かれた神の言葉など、もっとましな演出方法がありそうだと思われても仕方がない。現代でもそうなのだから、古代ではもっとこの落差は大きかったに違いない。「違いない」どころか、神々を祭った壮麗な神殿などは、ほとんど抵抗し難い力をもって人々を魅了したのである。古代のイスラエルの民が「偶像礼拝」に陥ったと笑う資格はわたしたちにはない。このことを念頭に置くと、ここで作者が、「あなたの証しはすばらしい」とただ書かれただけの神の言葉に賛美を送るとき、それがどういうことを意味しているのか、わたしたちにも少しは想像がつこう。
 この詩は、そういう人の目にまばゆい宗教的な演出と自分が今ほめ讃えているみ言葉との本質的な違いをはっきりと意識している。ここで賛美されている神の言葉は、そのような一切の魔術的な要素、要するにわたしたちが「魅力」と感じるものをことごとく拒否するところから始まっているのだ。先ず、この点をしっかりと押さえておいてほしい。およそ、神を知る場として、これほど見栄えのしない簡素な形はない。良くも悪くも、これが、まことの神と出会う唯一の場である。こうこの詩編は主張している。
 一切は、耳で聞き目で読む「言葉」に始まり「言葉」で終わる。そこにしかこの詩は信仰の拠り所を知らない。目に見えず手で触れることもできない言葉に頼る以上、彼がこれを保持することのできるただ一つの所、すなわち、その「魂に」これを刻みつけたとしても不思議ではない。どうして「言葉」がそんなに重要なのか、こう思う人もいるだろう。わたしたちが、だれか今まで知らなかった人と出会った場合を思い浮かべてみるとよい。その人の容貌や服装を見て、彼あるいは彼女がどんな人かを自分なりに想像することはできる。けれども、はたしてその人が、自分の思ったとおりの人なのかどうか、それを知るすべはどこにもない。これを知るただ一つの方法は、その人と「言葉を交わす」ことだけである。それも、その人がだれかほかの人と交わす言葉を聞くのではなく「自分に向かって」語る言葉を聞くことである。なぜなら、その人が「どんな人」かは、その人が自分に向かって語る言葉を聞くまでは決してほんとうに知ることができないからである。
 この詩の作者にとっては、書かれ聞かれる神のお言葉は、このように直接「神から自分への語りかけ」として魂に響く。彼の時代には、まだ旧約聖書自体もできあがってはいない。しかし、彼が「み言葉」と言うとき、現代のクリスチャンたちが、「書かれた神の御言葉」と考える旧新約聖書に対するのと同じ思いを読みとってよいであろう。もう少し人との出会いのたとえを続けさせてほしい。神の外見、すなわちその「服装」とは、わたしたちの目に映る大自然であると言ってよい。「自然は神の衣裳である」と言ったのは、19世紀の英国の哲人、カーライルであった。この意味で、わたしたちが自然に接するときには、「神の服装」を見ていると言っていい。しかし、そこからは、わたしたちに対する神の語りかけを、ましてや、直接に自分に向けられた神のお言葉を聞くことはできない。「カミ」を伝えるために、現代でもさまざまな壮麗な式典や魂を魅了する演出が行なわれているのをわたしたちは知っている。しかし、わたしは、それらのどんなにすばらしい演出よりも、直接自分に語りかけてくれる「神の一言」のほうを選ぶ。
 ところで、ある人が一時間しゃべってくれても、そこになに一つ自分の心に響く言葉が聞かれないことがあるものだ。どうやら言葉は、その語られる量にはあまり関係がないらしい。これに対して、たとえ一言葉でも、聞く人の人生を変える力を持つことがある。なぜなら、言葉は、このように、語られる一つ一つに、語る人の「全人格」が宿っているからである。言葉は、本質的に「人格的」なのである。詩編の作者が「魂に響く言葉」を聞き取ることができるのは、このような言葉として、すなわち、神との人格的な交わりの言葉としてこれを聞いているからである。
 わたしは先に、現在のわたしたちには、旧新約聖書が与えられていると言った。聖書がわたしにとって大切なのは、それが、今述べたように、一つの全人格的な統一体として語りかけてくれるからである。だが、初対面の人をなにもかも分かろうとする人はいない。同じように、聖書を手にとって読み始める人で、初めからそこに書かれてあることをなにもかも分かろうとする人はいないであろう。ほとんど理解できないか、できてもそれが自分になに一つ響かない、というのがほんとうであろう。しかも、これもだれしもが経験することだが、そんな中で、必ず一つや二つは、なにか心に感ずる言葉があるものだ。わたしが言いたいのは、そのような言葉に出合ったとき、それがあなたに語りかける「神のお言葉」なのだということである。聖書はこのように、ある人格的な存在としてわたしたちに語りかけ響いてくる。いわば、聖書の言葉全体が、一人のお方なのである。聖書が、数多くの言葉から成り立っているとすれば、それは、その奥にあってこれらを成り立たせている一人のお方から出ているということである。そのお方こそ神がわたしたちに送ってくださった人格的な「み言(ことば)」である。新約聖書が、「神のみ言(単数)を宣べ伝える」と言うとき、それはこのような「お方」を指している。このような人格体としての神のみ言葉こそイエス・キリストその方にほかならない。端的に言おう。聖書は、イエス・キリストご自身にほかならない。良くも悪くもこれが、一人一人に対して聖書が持つ意味だと考えて間違いない。
 こういう言い方は、すいぶん大ざっぱで、近代の聖書批評を少しでも知っている人なら、古めかしい保守的な聖書解釈論だと思うに違いない。わたしは、こういう聖書解釈が「古い」ことは認めるが、それが、遅れているとも保守的だとも少しも思わない。また近代の聖書の文献批評の驚くべき成果が、こういう聖書解釈と相容れないとも思わない。むしろ、このような姿勢で聖書を読み、それをこのようなものとして受けとめることこそ、優れて「現代的」だとさえ思っている。わたしの言いたいのはこうである。試みに、現在手に入る、もっとも詳細な聖書の注解書を読んでご覧になるがいい。ギリシア語やヘブライ語の原典のそれでもよい。例えば、現在わたしは、二人の信友とローマの信徒への手紙を原典で読んでいる。その際に、わたしたちは、現在世界で最も詳細な注解と思われる二冊の注解書をその他のものとともに読み比べている。そこには、驚くほどの該博な知識と、詳細な分析が織り込まれている。しかし、二つの注解書は、しばしば、パウロの同じ表現同じ言葉に対して違った解釈をとるばかりか、時には全く正反対の立場をとることさえも珍しくない。優れて学問的な著作ならば、同じ言葉に同じ解釈がなされて当然であろうと読者は思われるかも知れない。けれども、詳細を究めるほどに、逆にその差は大きくなっていく場合さえあるのだ。なぜそうなるのか。それは、彼らの学識がいまだ不十分だからではない。それは、これらの著者が、真剣に聖書のテキストを解読しようとすればするほど、彼らは、その作業を通じて「自分自身を」解読しようすることになるからである。彼らは、聖書を解読しようとするまさにその営みを通じて、聖書によって「自分自身が解読される」のを意識せざるをえなくなる。優れた聖書学者ならば、このことをはっきりと意識しているはずである。聖書は、あたかも物体のように客観的に対象化して、これの性質について、「一致した見解」を打ち出すことなどできない性質のものだということを。もちろんある程度の学問的な合意は必要であろう。しかし、それは、聖書のほんとうの理解にいたるための予備段階にすぎない。
 聖書を「理解」してやろう、「研究」してやろう、そう考えて始める人がだれでもおそかれ早かれ気がつくのがこれである。自分が聖書を理解していると思っていたのが、いつのまにか、聖書によって自分自身が照らし出され、自分の生き方あり方が聖書によって映し出されてくるのである。それは聖書が、断片的な知識や言葉ではなく、一つの人格的な「み言(ことば)」だからである。彼の研究方法が、どんなに分析的であり、聖書本文に対して批判的であろうとも、そんなことは、この場合に問題ではない。どのような読み方どのような研究方法をとろうとも、彼が真剣に聖書を読んでいる限りは、聖書は彼に人格的に働きかけ、「彼自身を理解させて」くれる。み言葉が開けると光がみなぎり、純朴な者・無知な者(自分をほんとうに知っている者がこの世に居るだろうか)に知恵を与えてくれるのである。
 この詩編の作者が、神のお言葉に対するとき、まさに今わたしが述べたのと同じ態度でこれに接している。お言葉が全人格的な存在であればこそ、その方が「心を開いて」自分に語りかけてくださることが、この上なく大きな喜びなのである。そうでなけば、どうして、「お言葉が開けると光みなぎる」のか。この詩編に一貫している「あなた」と「わたし」との人格的個人的な出会いと、これを求める詩人の魂の祈り、ここには、研究する相手の経歴や性格を分析して、自分の思うとおりに相手を動かしてやろうなどという思い上がりはみじんもない。もしもわたしたちが、聖書を研究し分析して、その結果聖書をして、自分の思うとおりの解釈を引き出し「お言葉を開かせることができた」と考えるならば、そういう人は、ヨハネの言い方を借りれば「闇の中に居て光を知らない」と思っていい。人と人とがその出会いにおいて、心開かれて相手の言葉が魂に響くのは、そこに出会う人格的な誠実さ、一方の誠実ともう一方の誠実とが響き合い応え合う以外にはない。
 だからここに降る「知恵」とは、全人格的に彼を包む「英知」である。人間を他の動物と区別するものは、言葉の使用であると言われる。これによって彼は、他の動物が到達することのできない「英知」を得ることができる。ところで、「英知」のことを英語で「サピエンス」という。ラテン語で「ホモ・サピエンス」とは、「英知の人」すなわち現在の人類を指す。この「サピエンス」という言葉は、ラテン語の「サペレ」(食べて味わう・理解する・洞察する)という動詞からきている。「知恵」とは、食べるもの、味わうものらしい。エデンの園の知恵の木ノ実を思い出すまでもなく、わたしたちは人間の知恵のありがたさと同時にその恐ろしさをも身をもって「味わい」つつある。知恵や知識が人間にとってどうしてこんなに恐ろしいもの、不気味なものになったのだろうか。しかもなお、人間は、自分の知恵、自分の知識をむさぼり続けている。実際わたし自身で、自分の知識欲の貪欲さかげんに呆れている。金儲けのほうはとっくにあきらめているが、こちらはなかなかあきらめきれない。一生これにあくせくして終わるのかと思うとなんとも情けなく、大切なものを見失わないようにと、一生懸命努力だけは続けている。
 そんなわたしが、この詩を読むとき、ここには、わたしが常日頃追い求めている知恵や知識とは、全く異質な「知恵」が隠されているのに気がつく。この詩人は、なにかわたしの知らない知恵を「口をあけて慕い求め」ている。どうやら、知恵や知識を求めること、そのこと自体が悪いのではないらしい。問題は、どんな知恵をどんなふうに求めるかにあるらしい。わたしの全身全霊を照らすような知恵のみ言、そんな知恵をわたしはほしいと思う。わたしだけでなく、今人間にとってもっとも必要なのは、このような知恵、このような光なのではないかと思う。どこがどう違うかを説明するのは難しいが、「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める」とパウロが言ったように、自分を謙虚に正しく知る、言い換えれば、自分の知恵の本質を見きわめる、これが今人間に求められているもっとも大切なことなのではないかという気がする。この詩は、現代の人間に反省を求めている。わたしたちは、命の木ノ実を食べる代わりに死の木ノ実を食べてはいないかと。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つのお言葉によって生きる」というあのイエスのお言葉が思い起こされるが、このお言葉は、わたしたちがなにを食べ、なにを「慕い求める」べきかを教えてくれる。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは永遠の命を持つ」。これこそ、この詩の作者が求めて止まないものなのである。
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