121篇
        助けはどこから
 
都(みやこ)もうでの歌
 
わたしは山々を見上げます。
 わたしの助けはどこから来ますか。
 
 
2あなたの助けは主から
 天と地を造られた方から。
 
 
3どうかわたしの足が躓くことなく
 わたしを守る方がまどろむことのないように。
 
4見よ、イスラエルを守る方は
 まどろむことも眠ることもされない。
5主はあなたを守る方
 あなたを覆う陰
 あなたの右に立たれる。
6昼は太陽が打つこともなく
 夜は月の魔がさすこともない。
 
7主はあらゆる災いからあなたを守り
 あなたの命を守られる。
8主はあなたの出ると入るとを守られる
 今から後いついつまでも。
                【注釈】
               【講話】
 わたしたちは「守られる」という言葉を聞くと、不幸や災難や病気や悩みから免れることを思い浮かべる。「なんにも悩みがない」無事平穏な状態を「守られる」と言う。確かに、これも「守られる」ことには違いない。ここでの「守られる」にも、そういう意味がこめられているのは否定できない。しかし、この詩篇で歌われるのは巡礼に旅立とうとする者のことである。彼は、平穏無事を自ら捨てて、エルサレムにある神の宮へ危険を承知の上で出かけようとしている。こういう人に与えられる祈りであり祝福なのである。英語のトラベルが、本来「悩む・苦しめられる」の意であることからも分かるように、旅とは、自ら進んで危険や困難に立ち向かうことを意味する。旅の途中で出逢うであろう様々な困難を乗り越えて、無事に目的の神の宮にたどりつけるのか、これが、この詩の初めにでてくる問いかけである。
 人は平穏無事を願い求める。しかし、それを手に入れると、再びそこを抜け出したいと願い、新たな「旅立ち」を求める。人はこのようにして、自己の持っている全能力を出し切ってしまうまで、「生きる」ことを止めない。こうして、言わば、神から与えられた到達点に達するまで歩みを止めず、ついにその念願を果たすことが、ここで言う「守られる」 である。
 だからそれは「苦しみ、悩みが来ない」ことではない。苦しみに耐え、これに打勝ってこれを克服することである。「わたしが願うのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることである」(ヨハネ17章15節)と主がわたしたちに祈られたのもこの心であろう。ギリシア語の「テーレィオー」(守る)とは、この意味で文字通りに「成就する」ことである。主はこのように旅立つ者を守られる。このように「あえて困難を選び取る者」と共に歩まれ、その右に立たれる。これがこの詩篇の巡礼に与えられる約束である。
(『光露』68号:1985年春号)
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