【注釈】
詩編120~134篇は「上京の歌」あるいは「巡礼の歌」と呼ばれる。84篇もこれに属する。これらの歌が作られたのは、マケドニアがエルサレムを占領してからマカバイ戦争までのギリシア時代(前330~前170年)であろうと考えられる。内容は一定しないが一節ごとに上昇する構成になっているものが多い。42篇5節にもあるように、エルサレムの神殿に詣でる時には列を成して賛美を歌いながら進んだから、この際の歌であろう。神殿の石段を登りながら唱えられたという説もある。
121篇は対話形式になっている。これから立とうとする者(恐らく若者であろう) に祭司が答える場面である。二人を父と子と考えることもできる。この場合の「山々」とは旅の途中に横たわる危険地帯を意味する。もっとも、この歌を逆に巡礼者が帰途につく時のものと解すれば、「山々」はエルサレム神殿の建つ場所となる。恐らくこの歌は、その両方の場合に用いられたのであろうが、本来は前者の場合の歌と考えられる。
1節は神の宮に向かって信仰の旅に立とうとする若者が、前途に横わる山々を見て問いかける。2節は、これに答えて、主が天も地も「山々」も創られた事を思い起こさせる。3節では自分の足が躓くかどうかは、ひとえに、「主の見守り」にかかっていると告白する。4節は、これに答えて、主が確固としてイスラエルを導くこと、すなわち神の民の歴史を導き、又一人一人の人生をも導くことが示される。5節は三つの動詞がつながり、最後の「右に立つ」に重点が置かれる。6節で再び創造者である主が思い起こされる。7節では、「あらゆる」が強くひびき、これが後半の「命」へつながる。私訳の全体でも、「主」が4回、「あなた」が7回、「守る」が6回くり返される。これがこの詩篇の主題だからである。
[1]~[2]これらの節は、人称代名詞「わたし」「あなた」の読み方で三通りの読みが可能である。
(1)1~2節と3節以下とは、旅立つ者と、彼に祝福を与えて送り出す者との対話形式をとっていると考えられる。原典本文は1~2節を旅立つ者の言葉と解して「わたしの」と読み、3節では「あなた」を「わたし」と読み替えて、これを送り出す者の言葉とする〔新共同訳〕〔NRSV〕〔REB〕。
(2)しかし原典欄外の読みに従って2節を「あなたの」と読み、3節を「わたしの」と読むこともできる。こうすると1節が旅立つ者、2節が送る者、3節が旅立つ者、4節以降が送る者の言葉となる〔Briggs.Psalms.(1)〕。上にあげた私訳はこの読みを採っている。
(3)又、2節の「助け」に代名詞を付けず、3節で「あなたの」と読めば、2節以降が送り出す者の言葉ともなる〔ヴァイザー『詩編』NTD〕。恐らく二番目の読み方が最も元の形に近いと思われるのでここではこれに従った。しかし読む者の判断でどの読み方も可能であろう。
[3]【どうか】ここは平叙文とする訳が多いが[フランシスコ会訳]〔NRSV〕〔REB〕、祈願文ととることもできる〔新共同訳〕。上にあげた中で(2)の読みをとるなら、祈願とするほうが適切であろう。
[5]【覆う陰】「覆う陰」は、古代の王権がその支配領域に及ぶことから、転じて神の守りが木の陰のように覆うこと(80篇9~12節)。日本語の「お陰(かげ)」に近い〔Hossfeld and Zenger.Psalms (3). 327-28.〕。
【あなたの右】「右」はいつも守護者の立つ側である(16篇8節参照)。
[6]【太陽】パレスチナの山岳地帯は、暑い時には35~40度にもなるため日射病で倒れることがよくある。
【月の魔】月の光はわざわいをもたらし病気や狂気の原因になると一般に信じられていた。マタイ17章15節「てんかん」とあるのは「月に打たれる」が原義。
[7]【生】霊的な生命と肉体の生命の両方を意味する。
[8]【出ると入る】ほんらいは闘いに「出る」ことと闘いから「戻る」ことを指していたが、転じて、その人の人生の歩み全体を指す〔Hossfeld and Zenger.Psalms (3). 329.〕。
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