19篇  自然と律法

1聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌

 

2天は神の栄光をあらわし

  大空はみ手の業を示す。

3昼は昼へと言葉を語り

  夜は夜へと知識を伝える。

4話すことなく語ることなく

  その声も聞えないのに

5その響きは全地に広がり

  その言葉は世界の果てに及ぶ。

 

天には太陽の幕屋がある。

6彼は花婿がその祝いの部屋を出るように

7  天の果てからのぼり

   天の果てまでめぐり

その暖かさを受けないものはない。

 

8主のおきては完全で

  命をよみがえらせ

主のあかしは確固として

  無知な者を賢くする。

9主のさとしは真直で

  心をよろこばせ

主のいましめは透明で

  眼を明らかにする。

10主のおしえは清純で

  とこしえに立ち

主のさばきは真実で

  ことごとく正しい。

11これらは金よりも慕わしく

  多くの純金よりも慕わしい。

その甘さは密にまさり

  蜂の巣のしたたりにまさる。

 

12これらはあなたの僕への警告ともなり

  それを守れば大きな報いがある。

13誰が自分のふとした罪に気付くでしょうか。

  どうかわたしの隠れたとがをきよめて下さい。

14さらにあなたの僕の思い上がりを引きとどめ

  これに支配されないようにして下さい。

そうすればわたしは全き者とされて

  大きな罪過を免れるでしょう。

 

15どうかわたしの口から出る言葉を受け入れ

  わたしの心の想いをみ前に至らせて下さい

  主よ、わが岩、わがあがない主よ。

                        【注釈】

【講話】

■宇宙と人の法
 わたしたちキリストにある者は、太陽や月や星や、さらに、山や木や石など、いわゆる自然現象を拝むのは、神の教えに背く偶像礼拝だと教えられている。それはそれで正しい。自然は、人間によって管理され征服されることで手なずけられなければならないとも言われている。それも間違いではないかもしれない。しかし、わたしたち人間が、この大自然の一部分であることも紛れもない事実である。だから、わたしたちは、自然の一部でありながら自然を征服し、自然を拝むことを拒否しながら、これによって生かされていると言ってもよい。

 19篇は、人間の在り方のこのような二面性をわたしたちに気付かせ、わたしたちと自然(あるいは宇宙)との正しい関係を示唆してくれる。この篇の前半(1〜7節)で、詩人は、宇宙にくり広げられる昼と夜(そこには、昼と夜の天体の運行も、これらに支配される地上の生き物の一切の営みも含まれる)の壮大な姿に感嘆の声を放っている。だが、彼は、これらをただ見るだけではない。自分自身もこの壮大な営みの一部であることを、その中で刻刻に生かされ続けていることを実感している。彼が昼と夜の両世界の語りかけを聞くことができるのは、自分自身が、そのような動きの中に身を置いているからにほかならない。

 だから、この詩人は、宇宙を支配している「法則」だけに気をとられているのではない。言うまでもなく、このような「法則」、わたしたちが「自然科学の法則」と呼んでいいものも、彼の驚異の対象であるには違いない。しかし、詩人は、このような法則を、自分の存在から切り離された「客観的な事実」として眺めているのではない。何よりも、自分自身の存在そのものが、これらの法則に支配されていること、昼と夜とのめぐりの法則の中で「生かされている」自分を自覚している。だからこそ、自然の法(のり)が、この詩の後半で語られる自分の内なる心の法(のり)と一つになるのである。

 彼が聴いている「言葉」、彼が学んでいる大空の「知識」は、だから、単なる断片的な「言葉」や「知識」を集めたものではない。それは、自分の生き方そのものを支えている深い知恵に向けられた鋭い洞察から生じるものである。だからそれは、人がそれによって生きる命そのものの法のことである。

 

彼女を捕える者たちには

  知恵は命の木であり

これを保つ人たちは

  さいわいを得る。

主は知恵をもって地の基をすえ

  その英知によって天を定められた。

        (箴言3章18〜19節)

 

■法にある平等
 19篇の作者は、物理的な意味で自然界を支配する科学の法則、人間の心を支配する心理学の法則、人と人との関係を規定する社会的な法律、神が人間に与えられた宗教的な律法、という区別を立ててはいない。ここでは、人間を取り囲み支配しているこれらの様々な法則が、窮極的に一つの「法」(英語ではこれらがすべて"law"で表わされる)としてとらえられている。このように、自然と人間と神とを一つながりの法としてとらえる見方は、現代のように、テクノロジー(科学技術)の発達が、人間性にひずみをもたらし、自然破壊を引き起こし、宗教的な教えが自然科学の結果と衝突する恐れのある時代では、とても斬新(ざんしん)に映る。神を排除し、自然と人間の精神とを切り離し、それぞれに固有の理論を見出そうとする現代では、「空の鳥を見よ。野の花を見よ。神は彼らをも養ってくださるのなら、ましてあなたたちを養ってくださらないはずがあるだろうか」(マタイ6章26〜30節)という霊的な視野は開かれてこない。特に、自然の法則と社会の法律と神の律法の三位一体は、人がその法の前では完全に平等かつ対等であるという現代民主主義の最も基本的な法概念の土台となる思想である。大自然の法と神の律法とを一つに結びつけたこの篇が、現代に大きな示唆を与えてくれる訳がここにもある。
■偶像と神

 天と昼と夜を歌った後で、詩人は、太陽の賛美に移る。この部分に古代の太陽崇拝の痕跡を見る学者が多いが、恐らくそれは正しい。だが、ここでの太陽も、あくまで創造者なる神のつくられた「み手の業」の一つにすぎないという見方も当然できよう。だから、自然を偶像化する思想から、自然を神の創造と観るヘブライ独特に思想へと移行する、その過程をこの節に読み取ることができる。自然と人とが直接に対峙するのではなく、その間に創造の神が介在することで、人と自然とが、神との「契約」関係において、両者が調和に達する。洪水の後でノアが見た虹がこのことの証しであった(創世記9章14〜17節)。聖書の神は、太陽が人間のために造られた単なる道具立ての一つにすぎないことを教えていると思う者がいるなら、彼はこの神を完全に見誤っていることをこの詩は露わにしてくれる。

 この詩の前半で、詩人は、宇宙と自然を通じて神を見ている。彼は、太陽のめぐりの中に、昼と夜の相互展開の中に、神の語りかけを聞く。くり返すが、そういう彼自身も、この宇宙の営みの中で生かされ動かされているという認識に立ってである。この認識の中では、太陽の運行の姿と主のおきてとが一つに重なる。その姿、そのおきての働き、そこに躍動する生命の法がある。それは、「命をよみがえらせ」、「人を賢くし」、「心をよろこばせ」、「眼を明らかにする」。彼は、自分を生かしているこのような「神のみ手」の中に、絶対に破ることのできない神の法を見る。宇宙や太陽に向けられるこのような詩人の目には、厳かなものを見る謙虚さがある。

 もしも科学技術が、自然を神から切り離して、これを、人間が利用するために与えられた「道具立て」だと見なすなら、このような躍動感がわたしたちに訪れるだろうか?「偶像礼拝者」は、なるほど、太陽に向かって恭しく頭を下げる。しかし、そこには、できうべくんばこの太陽のお蔭をこうむって自分の欲を満たしたいという魂胆が見え隠れする。古代の太陽崇拝は、五穀豊穣を願う素朴な願いと結びついてはいるが、そこには、自分の欲望を成就したいと思う人間の性(さが)も秘んでいるのを見過すことができない。偶像礼拝が聖書の中で、しばしば「貪り」と同一視されるのはこのためである。それは、自己の欲望の成否も自分自身の生殺までも、どうにもならない自然の力に握られているという認識から生じる屈従の姿勢である。彼は、何とか太陽をなだめすかして自分の思うようにしたいのだ。だから、彼には、太陽と自然力を暴君として恐れる卑屈さはあっても、あるいは逆に、科学技術によって自然を征服してやろうともくろむ傲慢はあっても、驚きと感謝をもってこれらを見る謙虚さがない。だから、謙虚な目に映る自然の気高さ、厳かさが彼には見えない。彼は、自分自身もそのような厳かなものの一部なのだという洞察を持たない。

 わたしたちが、この19篇に見るのは、正にこのような厳かな自然である。それは、主のおきてに向けられるのと同じ敬愛の姿勢に結びつく自然である。その厳かさの奥から神からの語りかけを聴き取る霊性こそが大事なのだ。そこには、魔術性あるいは呪詛性を帯びた多弁で装飾的な表現は見られない。抑制の効いた言葉遣いに驚きと感謝をこめた見事に均整のとれた一篇である。この詩が、わたしたちに言い知れぬ力をもって迫るのはこのためである。

 こういう謙虚さによって、人は初めて、本当の意味で自然の中に神を見ることができるのだろう。自然と正しい関係に入ることができるのだろう。賢しらな人間のエゴイズムは、自然に対するのに、卑しい屈従をもってするか、でなければ、これを利用し搾取しようという不遜な高ぶり、科学技術万能主義をもってするかのどちらかなのだ。このような「思い上がり」こそが偶像礼拝の根である。屈従も征服欲も、実は、同じ胴体を持つ二又の蛇である。自然は人間の主人ではない。自然は人間が征服すべき対象でもない。自然は人間が共に生きるため、「共生」するためにある。このような自然と人間との交わりは神から与えられる眼による。
■人間の霊知と宇宙

 以上、19篇を通して、人間と大自然とのつながりと共生について見てきた。さらに一つ付け足したいことがある。それは、昼と夜の廻りや大洋の運行などは、現在の自然科学的な観点から見れば、人間を支配する法とは別個の法則に基づいて動く存在、すなわち人間の外にある客観的な世界であるという見方である。これに対して、人の心を支配する法律や、神と人との関係を表わす律法は、人間の内面に関わるから、この分野は人の主観に関係する。ところが、詩編19篇では、これら二つが一つにつながっているから、ここでは「主観」と「客観」の区別が消えることになる。言わば、客観と主観のどちらにも属さない、「主客一如」の世界がここにはある。これが、詩編19篇の霊的な世界の特長である。人が自然を見て神をほめ讃える。人が神に祈り、神を礼拝する。このような行為は、ここに見るような主客一如の霊的な世界が存在しないならば、そもそも成り立つはずがない。「祈り」とは、まさに主客一如の世界でのみ意味を持つからである。このことを悟る知性、これを霊知と呼ぶ。
 この詩篇は、自分と自分を取り巻く大自然の中に、絶対に破ることのできない厳かな神の法を見る目を与えてくれる。この法に映し出されて、人は初めて、自分の心の醜い在り様が見えてくる。自然の厳かな輝きを観て、それが「響かせる」調べを聴き取るために、人は、己の理性が、いかにも不完全で、その知性が、欲望に歪められていることを悟る必要があろう。だから詩人は、己の心に目を留め、そこに潜むやましい欲望を取り除いて下さるよう祈り求める。主が与えてくださる霊知にいたるために、罪に曇る己の知性を「贖って」くださるよう祈り求める。彼をしてこのようにしむけるもの、それも、この篇全体に一貫している澄んだ謙虚な目である。
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