【注釈】
 この詩は、1〜7節と8〜15節とに分けられる。もともと別の詩であったのが結びつけられたと考えられている。前半では「神」(エール)が用いられ、後半で「主」(ヤハウェ)に移行している。様式的に見ると「賛美の歌」と「知恵の教え」とに分かれることになろう。しかし、二つの結びつきは周到に考慮されていて、賛美が諭しへと拡大するように全体の一致が構成されている。
 2〜5節は2行ずつペアになっていて、天の大空とそこでくり返される昼と夜とのめぐりが描かれる。もし、4節を3節と結びつけて、5節の「その響き」を2節の「天」と「大空」の響きと解するならば、2〜5節の四つの節はAB|B’A’という構成になり、昼と夜のめぐりを天の大空が囲む形になる。ちなみに、初期ヘブライの「一日」は、夜明から夜明までを指していたのが、後に太陰暦が用いられるのに伴って、日没から次の日没までを一日とするようになった。
 5節の3行目で、天の大空の中心である太陽があらわれ、太陽への賛美が始まる。この部分も、5節の3行目と7節の3行目とが対応していて、中の6節を包んでいる。6節と7節との韻律の違いに注意してほしい。堂々と姿をあらわしてのぼり始めた太陽と(6節)、彼がよろこびに満ちてかけて行く様(7節)が生き生きと描かれている。
 8節からは別の詩であった。しかし、なぜこの二つの詩がこのように結びつくのか、その点を考えてみることのほうが、その違いを論じるより重要であろう。大自然の法(のり)から人間の心の法(のり)へとつながるこの二つの間に、たとえば詩編8篇のような詩を入れてみると両者のつながりが見えてくるのではないかと思う。
 8節から11節までは、主の律法の賛美である。この部分を119篇と比べてほしい。119篇では、ヘブライ語のアルファベット順に22の連が並んでいて、その各連に、「おきて」「あかし」「さとし」「いましめ」「さだめ」などの言葉が出てくる。だが、これらの言葉が、それほど厳密に区別されているわけではない。同様に、19篇でも、これらの言葉は、ほぼ同じような意味だと解して差し支えないと思う。
 律法の賛美は、己の心の内に、これを破ることへの罪の意識を呼び覚ます。12節から14節までが、罪の赦しを求める祈りへと発展するのは自然であろう。15節には、「受け入れる」、「み前に至らせる」など、犠牲を捧げる時の祈りを思わせる言葉があらわれる。詩人は、自分の賛美と祈りを神への犠牲として捧げているのである。最後の呼びかけは、全篇を結ぶのにふさわしい。
 
[1]【聖歌隊の指揮者】この表題の正確な内容は分かっていない。古代へプライでは、「コラの子ら」などの表題が示すように、専業の神殿合唱隊がいた。さらに、「聖歌隊の指揮者による歌集」と呼ばれるものが存在していたとも考えられる。この歌集には、それまでのもの、すなわち、「ダビデ」の名をもつもの、「アサの子ら」の歌集、さらに、これらをも含む賛美歌集(ミズモリーム)などが含まれていたと思われる。19篇も、こうして伝えられた「ダビデ」の名を持つ篇の一つであろう。
[2]【大空】古代ヘブライでは、天はドーム型をしていて、その上には「水」があると考えられていた(創世記1章6節参照)。
[5]【その響き】原語が楽器の弦を意味するところから、ここでは合唱や音色をあらわすと解することもできる。太陽や月や星が歌や音楽を奏しているという考えが、古代からあった。「その」とは「天」や「大空」を指すともとれるが、「昼」と「夜」の語る「言葉」や「知識」ともとることができる。ちなみに、ヘブライ語では「音」と「声」の区別が厳密でないから、ここを「その声」と読むこともできる。
【天には】原語は「それらに」で、「天」(ヘブライ語は複数)を指す。しかしこれには「海には」という異読もある。太陽は、夜の間、海の底で休むと考えられたから。
[6]【その祝いの部屋】「部屋」の原語は新郎新婦のための天幕のこと。後には二人がその下で結婚式を挙げる「天蓋」を指すようになった。
[8]【命】「魂」と訳すこともできる。
【確固として】93篇5節を参照。
【賢く】箴言1章20〜23節参照。
[10]【おしえ】原語は「畏(おそ)れ」である。「畏れ」自体にも「命令」の意味がこめられているが、前後の並行法から見て、これを「主の教え/ことば/勅令」などへの読み替えが提案されている。なお「清純」を「輝く」"radiant"と訳すこともできる。
[11]【純金】119篇72節参照。
【蜂の巣のしたたり】これは蜂蜜をさらに精製した極上の蜜のこと〔岩波訳注〕。
[12]【警告】原語は心が「照らされる」、すなわち心の中の想いが明るみに出されること。「警告される」とも「照らされる」とも訳すことができる。
[13]【ふとした罪】不注意から律法を破った罪。
【きよめて】「(罪から)解き放つ/放免する」と訳すこともできる。
[14]【思い上がり】原語は前節の「ふとした罪」に対して「故意の罪」と解することもできる。これは、続く「大きな罪過」とも関連している。この「大罪」とは、己れを偶像化すること、すなわち自分を神とする罪のことか。
 ただし、「高ぶり」を「故意に罪を犯す傲慢な者たち」の意味にとることもできる。これだと「どうか僕を図々しく罪を犯す者たちから守り、彼らの支配から免れさせてください」という意味になる。この解釈によれば、不当な無実の罪で法廷に訴えられている人が、自分の身の潔白(「全き者」の意味)を証明してくださいと祈り求めていることになる。ある英訳では"the insolent"「厚かましい者ども」とあり欄外に"from proud thoughts"「高慢な想いから」とある〔NRSV〕。
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