1篇 幸いな人
1さいわいな人は
  悪しき者のはかりごとに歩まず
 罪人(つみびと)の道に立たず
 あざける者の座にすわらない。
2 かえって主のおきてをよろこび
  昼も夜もそのおきてを深く思う。
3このような人は
 流れのほとりに植えられた木のように
 時期が来ると実を結び
 その葉もしぼむことがなく
 そのなす事はみな栄える。
4悪しき者はそうではない。
  もみがらのように
  風で吹き飛ぶ。
5 それゆえ
 悪しき者はさばきに立っていられない。
  罪人は義人たちの集いに入れない。
6確かに主は義人たちの道を知る。
 だが悪しき者の道は滅びる。
【注釈】
【講話】
 詩編の巻頭を飾る序の詩の最初の言葉が「さいわい」で始まるのは、私には大そう興味深い。さらに、この「さいわいな人」に対置されているのが「不幸な人」ではなくて「悪しき人」であるのも見逃すことができない。
 全篇を貫くのは「道」であり、道を「歩む」ことである。言うまでもなく、「道を歩む」というのは一つの行為であり、しかも実践的な行為である。人は自分の足でてくてくと歩くのでなければ「道を歩む」ことにはならない。ところが、詩の前半を注意して読むと気が付くことがある。それは、「道を歩いて」いるのは「悪しき者」のほうなのである。彼は道に「立ち」、「はかりごと」をめぐらして「歩き」、行きついた所で「あざける者たち」の座に「すわる」。
 その上で、「さいわいな人」は、このような道を歩いてはいけないと警告される。その代わりに為すべきことは、主のおきてを「よろこび」、これを「深く想う」ことである。ところが、これらは、二つとも行為をあらわす言葉ではない。動かない状態の内面で生じる心の有りようである。言い換えれば、私たちは、「さいわいな人」になりたければ、何もしないでじっとしていることが求められているのに気が付く。
 これは一体どうしたことだろう。こういう「無為の姿勢」は、3節にいくとなおはっきりと描き出される。そこには、流れのほとりに1本の木がある。その木は、外の場所からわざわざ移し植えられたものである。木は、流れのほとりに植えられたままじっと動かない。ひたすら「時期が来る」のを待っている。
 こういう描写は、私にある種の不安を呼び起こす。それは、多分私自身はその部類に属さないであろうと高をくくっていた「悪しき者」とは、一体だれのことだろうと気になりだすからである。言うまでもないことだが、私は朝から晩まで動き回り、自分の頭でいろいろと「はかりごと」をめぐらしている。もしも私のはかりごとがうまくいって物事が成就すると、私は得意になって、自分の才能に自信と誇りを抱くだろう。そうなれば、私は、自分を頼み自己の力を過信して神を「あざける者」に成り上がってしまうのはまず間違いない。何のことはない。「悪しき者」といい、「罪人」というのは、かく言う私自身のことなのである。
 どうやらこの詩は、こんな風にせかせかと動き回る私自身を断罪しつつ、この私のもう一つ奥に居る「別の私」に語りかけているらしい。それはおそらく、自分でも気が付かないか、あるいは付いていてもとてもうかがい知ることのできない深い所にいる「もう一人の私」なのであろう。この詩編の言葉は、私の手の届かないもの、焦っても、もがいても、逃れることも抜け出すこともできない何かそのような私の隠れた部分に向けられている。そして、そこが「さいわい」を生み出すほんとうの源であり(マタイ5章3〜10節)、そこから自分の実生活にほんとうの意味が与えられてくることを教えてくれる。
 私のこの隠れた部分に働きかけて、この部分に光を当て、「ここを」変えて下さるもの、それが「主のおきて」と言い表わされた神のみ言(ことば)である。み言から発する御霊は、剣(つるぎ)のように鋭く私たちの内面を刺し貫く力として働く(ヘブライ4章12節)。わたしたちにとって神の「み言」とは、人となった神のみ言(ことば)、イエス・キリストのことにほかならない(ヨハネ1章1〜5節)。わたしたちにとって、この神のみ言こそ、祈りつつ「昼も夜も深く思いめぐらす」神のおきてである。このみ言(ことば)によって働く御霊こそ、私たちの内側を根底から変えていく原動力である。この原動力こそ、私たちの心の深いところで「さいわい」を生み出し「よろこび」を生じさせる。それゆえ、真の「さいわい」とは、心の奥から自然に生まれてくるもの、風のように軽やかに、泉のように深い所から湧いてくるものである。
 なぜそれが「さいわい」を与えるのか私には分からない。ただ、み言は、ちょうど種のように、心の内に宿り、そこで成長し続ける。それは生命そのものとなって成長し続ける。それがそうなるのは、「主のおきて」だからである(ヨハネ13章34節)。そして、この「おきて」こそ、私たちに「生きるよろこび」を与え続けてくれる。
 このような生命の木の種こそみ言であり、その種が、植えられて成長し始める時に、私たちは神の御霊の流れのほとりに植えられた木になる。「死から生命」に移し植えられた者になる(ヨハネ5章24節)。この生命の川のほとりに育つ木は、その人の内面にあって(聖書で「木」は、しばしば人そのもの、特に人の内面の象徴として用いられる)とどまることなく成長を続ける(マルコ4章26〜29節)。外なる人は老い、内体は弱くなり、活力は衰えても、この内なる木は一貫して成長を続け、この地上にその人が存在する限り、最後の瞬間まで成長を続けて神に至る。
 だが、「悪しき者」はそうではない。彼は、日毎日毎の生活の中で、もみがらのように空虚な日々をすごす。野望を抱き、はかりごとをめぐらし、事を成就し、成就した事を見て自らにおもねり神と人とをあざける。彼は、外面を生き、外面を重んじ、外面に自分の価値を置き、これによって人を評価する。このような人は、「主のおきて」を知らないから、自分の行為に意味を与えてくれる神のみ前における自己を持たない。彼の一生は、風に吹かれて舞い上がり、しばし空中に漂ってやがて消える。
 
また、わたしはすべての労苦と、すべての巧みなわざを見たが、
これは人が互いにねたみあってなすものである。
これもまた空であって、風を捕えるようである。                    (コヘレトの言葉4章4節)
 私は、今まで、大きな犯罪を犯すこともせず、同時に大きな名声を博することもなく生きてきた。恐らく、私は、こういうごく普通の人間としてこの世の生を終えるのであろう。そのことについて私には少しの不満もない。この世で、いわゆる地位や名誉を保っている人でも、ほんとうに「偉い」と思う人は、残念ながら数少ない。むしろ、ごく普通の生活の中で、一握りの人たちにしか知られずに、主の僕(しもべ)として生涯を全うした人たちの中に、私がほんとうに偉いと思う人たちがいる。その人たちのような生涯を私も送りたいと思う人たちがいる。このような人たちは、確かな手ごたえをもって、自分の人生を最後まで生きた人たちである。この人たちの生涯は、今も人々の心に強い影響を及ぼしている。人が死んでからでも、なお強い影響を人々に与えるためには、その人の生涯がその人だけでは終わらないもの、その人の生涯を超えた何かがこれをとらえていなければならない。だから、このような生き方は、人が望んでもできることではなく、ましてや人の「はかりごと」で得られるものではない。私が、ほんとうに偉いと思うのはそういう人たちである。これ以外の名声や評価は、私の目には「風の吹き去るもみがら」のように映る。
 普通の人には二通りある。ただ生きてただ死んでいく人たち、艮いこともせず悪いこともすることなく、その日その日を安逸の中に暮らす人たちと、心の内に「主のおきて」を宿して、これによって生命の木へと成長する人たちとがいる。彼らは、言葉の最も確かな意味で、この人生を「生きた」というよろこびを味わう。「生きる」ことは苦しく、時には悲しく重い。けれども、それはやはり「よろこび」である。「生きる」こと、それが「よろこび」だからである。私は、一粒の麦になりたいとは思うけれども、一粒のもみがらにはなりたくない。
 この詩篇が伝える「悪しき者」とは、どうやら自分の意志や思いで動き回る人のことらしい。そういう人は、「義人の集い」(5節)には、来れない/入れない/留まれない(原文には動詞がない)ようだ。当然だろうと思う。自我の動くまま来た者なら、何時でも自我の赴くままに立ち去る。風に吹かれて散る籾殻のように。「義人」とは、新約聖書で言えば、罪赦されて、イエス・キリストの御霊の法(ローマ8章2節)にどこまでも留まり続ける人のことである。流れのほとりに植えられて動かない人のことである。「動かない」のは、イエス・キリストにどこまでも従い続けるからである(ヨハネ15章4〜5節)。彼は「義人の集い」から離れることがない。なぜならイエス・キリストは、「義人の集いから離れよ」とは決して言わないのだから。「罪人」はそうではない。イエス・キリストという御霊の法道を「踏み外す」(「罪を犯す」の原義)。イエス・キリストに従うことで、次第にその「自我」を棄てて「義人たちの道」(6節)を歩むことができるようになる。
 人がこの地上を去った後で、彼の後に来る人たちは、地上における人の生を判断し評価する。それは、人間的な誤謬や偏見を避けることはできないが、おおむね公平で、それだけに厳しい。地上における人の評価がそうだとすれば、主のみ前で受ける神のさばきは、もっと正しく公平でごまかしのきかないものであろう。その時、はたして神のさばきに耐えて「立つ」ことができるかどうか、それは、人が、この地上で、どこまで忠実に「主のおきて」をよろこび、これを心に宿したかで定まる。悪しき者と歩まず、罪人と立たず、あざける者と共に座らなかったかで定まる。もしも、主の恵みによってこのような生が許されるならば、その人の人生は、五十倍、百倍もの実を結ぶとある。これが、「何もしなかった人」が、神のみ前で「する」ことのできるただ一つのことなのであろう。
                    詩編の招き