【注釈】
 この詩は、もとは、詩編全体の序歌であったと考えられているが、分類としては「知恵のさとし」に入る(32篇/34篇参照)。ちなみに、使徒言行録13章33節の「詩編の第二篇に」を「第一篇に」と読む写本もある。もっとも、第一篇と第二篇とが一つながりになっていた時期があるから(使徒言行録の時代にはすでに分かれていたと思われる)、これだけで確定はできない。
 この篇は、全体が「さいわいな人」(1~3節)と「悪しき者」(3~6節)に分けられている。3節と4節とが並行(下記注参照)して、ここが善悪の分かれ目になる(AB|B’A’)。1節の「歩まず」「立たず」「すわらない」は、悪の道にだんだんと深入りする姿を描いているように見える。3節は、エレミヤ書17章5~8節を想いつつ書かれたのであろう。この詩全体が、エレミヤのこの部分の比喩とぴったり重なる。5節の「立つことができない」「入れない(この語は原語にはない)」は、1節の「立たず」「すわらない」に対応している。詩の結びの言葉「滅びる」は、最初の「さいわい」と対照されている。
 
[1]【さいわい】原語は複数だが、「人」は単数。「人たちは幸いだ!その人は~」となる。ここはマタイ5章3~11節を想わせる。
【悪しき者】原語は複数。神の律法に従わず、これに逆らう者たちのこと。しかし、ここでは、本質的に神の導きに「従う」ことが問われているから、「悪しき者」とは、主の言葉、神の導きに「従わない/背く」人たちのこと。
【はかりごと】忠告めいた「入れ智恵」をすること。ほんらいは、悪い者たちの「相談会」を意味するから、彼らの「仲間入り」をするという意味にもなる。
【道】ほんらいは政治的あるいは霊的な支配領域を意味する。回心する前のパウロは、イエスに従うことを「この道」(使徒19章23節/同22章4節)と呼んで、これを迫害した。マタイ7章13~14節を参照。
【あざける者】尊敬する人や信仰の対象である神を馬鹿にしたり、悪し様に言う人のこと。「悪しき者」から「罪人」へ、「あざける者」へと、だんだん神からの離反がひどくなる。
【座】日本語の「政権の座」「座長」のように、人が集まって会議をする場のこと。ここでは、あざける人たちに与して、自分も一緒になること。
[2]【おきて】原語は「律法」(トーラー)。ここでは、この語の本来の意味である「主の約束に基づく導き」のこと。
[3]【深く思う】原語の本来の意味は「口でくり返しとなえる」、すなわち常に思いめぐらして心から従うこと。
【植えられた】他の場所から(流れのほとりに)移し植えられた。イスラエルでは灌漑用水が多いから、ここでもその水路のことであろう。
【時期が来ると】その木にとって最も適当な時節になると「自ずから/自然に」実を結ぶようになること。
[4]【吹き飛ぶ】七十人訳では「地の面から(吹き飛んでなくなる)」とあるが、これは説明である。収穫の時にとうみを用いて、穀物と籾殻とを選り分ける様子を現わす。イザヤ書17章13節/29章5節を参照。
[5]【立っていられない】神の義による裁きの場で、堪えられなくなること。原語の「立つ」は、新約聖書では「立ち上がる/復活する」の意味に通じる。なお「(集いに)入れない」は、原文にはない。
[6]【知る】保護し導くこと。
 
〔注〕ヘブライの詩は、2行あるいは3行が並べられて、一つの短いまとまりを形作り、それらが、内容的に変化を伴いながら連なって全体が構成されている。一般に、このような詩の構成は「並行法」"parallelism"と呼ばれている。「並行」とは並んでいる状態のことである。新約聖書で言えば、マタイ4章1~2節のイエスの試練の節は、マルコ1章12~13節と内容的に共通するから、両者は「並行」関係にあると言う。ところが、ヘブライの表現法では、並んでいる二つ、あるいは三つの行が、内容的に見れば必ずしも同じではない。それどころか、この詩編1篇を見ればわかるように、正反対のことが並んで語られる場合も珍しくない。だから「並行」とは線路のように、同じものが「平行」するとは限らない。英語の「パラレル」は、単に類似するという意味だけでなく、「比較/対応する」の意味をも含む。「パラレル」のもともとのギリシア語の原義は、「互いに横に並ぶ」"side by side"ことだから、この意味で「並行」は、ヘブライの詩の構成で言えば「並列」に近いと言えよう。
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