主と共に
                                23篇
 
1ダビデの詩。
主は、わたしの牧者
  わたしに乏しいことはない。
2わたしを緑の牧場に伏させ
  いこいのみぎわに伴い行く。
3わたしの魂を生きかえらせ
み名のゆえにわたしを
  正しい路(みち)に導かれる。
 
4たとい暗黒の谷を歩いても、
  わたしは災いを恐れない
  あなたが共にいてくださる。
あなたの棒、あなたの杖が
  わたしの慰め。
 
5あなたはわたしの前に
  宴を設けてくださる
  わたしの敵の見ている前で。
わたしの頭(こうべ)に油を注ぎ
  わたしの杯をあふれさせる。
 
6必ず恵みと慈しみが
  わたしに添いきたる
  この命ある限り。
わたしは、主の家に住まおう
  いついつまでも。  
                        【注釈】
【講話】
 この詩は年代的に最も古い部類に入る。韻律の上から見ても、古代ヘブライ語の韻律とその構成を現在では正確に知ることができない。全体を通じて、この詩は「わたし」で貫いている。「わたし」の牧者、「わたし」の杯である。この「わたし」は、4節で「あなた」と出会う。そして、4節後半から5節まで「あなた」と「わたし」とが重なり合い、6節で再び「わたし」に戻る。だからこの詩は、「わたし」と主なる「あなた」との個人的な結びつきに終始する。
 冒頭は、「わたしの牧者」で始まる。イスラエルの名を持つ父祖ヤコブも、イスラエル民族の最強の王であるダビデも、共に牧者であった。古代オリエントの国々でも、王は、しばしば牧者にたとえられた。牧者が多くの羊の群れを導くように、王も民を導くからである。だから、「わたし」は「牧者」に結ばれることによって、他の大勢の羊群の一員であることが暗示されている。「わたし」が、父祖や王を共にする「わたしたち」へつながる含みを持つ。
 2節では、牧場と泉が並ぶ。牧場では青草を食べ泉では水を飲む。私には、牧者とは「よい羊飼」である主イエスのことであるから、ここに描かれる食べ物と飲み物は、主が「まことの食べ物」「まことの飲み物」と言われた主の体と血とを思い出させる。そうすると、この二つは、そのまま3節の「生き返らせる」という復活のイメージへつながってくる。緑の牧場で元気を得て、いこいのみぎわで安らうことで、さわやかな生命によみがえる。この地上での満ち足りた思いが、キリストの贖いと復活に重なる。正に「乏しいことは何もない」のである。だから1〜3節は、ただ主が共に居ませばそれで満ち足りる、という境地につながる。
 3節で牧者は案内役となる。彼は、曲りくねる危険な小路を「正しく」導く。「正しい路」とは、本釆、行きたいと思う所へ通じている、というほどの意味である。どんなに楽な道でも、自分の望む所へ通じていなければ、それは良い道でも正しい道でもない。その意味で、「正しい路」とは、私には「主の居ます所」であり、主が「所を備えて待っていて下さる」場所へ通じる路である。自分の歩みが「正しい」かどうか、これを基準に定めるのである。
 4節は、3節の裏面を映し出す。すなわち、この「正しい路」には暗い「死の影の谷」がつきまとう。2節では、一組の類似したものを並べる表現方法がとられていたが、4節では、互いに対照するものを表裏一体として出している。この23篇は、詩篇の中でも信仰告白の詩に分類されている。このような「告白」の詩は、大抵、恐ろしい体験や暗澹(あんたん)たる思いと一体になっていることが多い。この詩でも、4節の「死の影の谷」で、裏に秘められていた恐怖や暗い思いがあらわれる。「わたし」は、実は、敵に追われていたのだ。まかり間違えば殺される、こういう恐怖の真暗な谷底を逃げていたのだ。この恐れは、5節の「敵の面前で」宴を開いて下さるお方にかくまわれた悦びへと通じている。
 ここまでは、「牧者」は、三人称の「彼」で語られている。しかし、4節の後半で、「彼」は「あなた」に変わる。あたかも、暗い谷底から呼び求める声のように、ここで、「わたし」は「あなた」に呼びかけ「あなた」に出会う。「正しい道に導く主」(3節)と「死の影の谷」(4節)とが表裏をなしているとすれば、「災いを恐れない」(4節)の「恐れない」は、「死の影の谷」とはっきり対立している。牧者の棒と杖は、そのための慰めと励ましを象徴する。
 「正しい路」が、主の居ます所に通じるとすれば、そこへ至る路は、主と共に歩む路である。「共に」は、二人並んで歩くことではない。主イエスが、すなわち門であり路となる。主イエスこそイマヌエル(神わたしたちと共に居ます)だからである。主の門をたたき、主の内に歩み、主の居ます所へたどり着く、これが、私にとっての「正しい賂」の全行程である。だが、そこに至るためには、様々な危険があり、とりわけ、すべての人が、一度は通らなければならない谷がある。世々代々のキリスト者たちが、この「死の影の谷」を通る時に、この4節を頼りとしてきたのは偶然でも読み違いでもない。その時は、「あなたの棒、あなたの杖」だけが、唯一の慰めとなり頼りとなるからであろう。
 5節では、今までの牧者のイメージが、客人をかくまい、これをもてなすホスト(主人)に変わる。ここで、逃れてきた「わたし」は、おいしい食事にあずかる。6節に示されるように、そこが「主の家」であるのなら、ここで出される食べ物は、祭壇に捧げられた小羊の肉であろうか。主イエスの下さる贖いの犠牲の肉はどんなにかおいしいであろう。ここで宴(うたげ)の中心となるのが「わたしの杯」に注がれるぶどう酒である。「わたし」がすなわち「杯」であり器(うつわ)であれば、そこに注がれる中味によって「わたし」の運命は定まる。
 5節では、「わたし」のための宴(うたげ)と額に注いで下さる油とが一組になり、類似した並列になる。だから、御霊の油が注がれると、私の杯は「あふれる」のである。満ち足りたよろこびが「あふれる」の一語にもられている。「敵の見ている前で」「頭に油を注ぐ」の二行は対立する。結果として「敵の目の前で」わたしの杯があふれるのだ。そして、この「恵み」(善意)と「慈しみ」を「わたし」から奪うものはない。6節後半の「命ある限り添い来たる」は終わりの「いついつまでも」と呼応していて、この世にある限り絶えず伴い釆たる「恵みといつくしみ」は、永遠に絶えないことが暗示されている。そして、「わたし」は、「主の宮」にいつまでも住まうと心に定めるのである。
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