【注釈】
 詩編は全部で五つの巻に分かれているが、そのうちで1~3巻までが1~89篇で、一つのまとまりを成している。1篇は全体の序の篇であり、2篇から89篇までがいわゆる「メシア詩集」と呼ばれている。メシア詩集全体が現在の形として成立したのは、捕囚期以後のペルシア時代になってからであるが、このメシア詩集の成立過程も複雑で、捕囚期以前のダビデ詩集3~41篇、「神」(エロヒーム)への呼びかけがでてくるエロヒスト詩集42~83篇、後期コラ詩集84~89篇などから成り立つ。エロヒスト詩集は、さらに、初期コラ詩集42~49篇とアサフ=ダビデ詩集50~83篇から形成されている〔Hossfeld and Zenger. Psalms (2). Hermeneia.4-5.〕。したがって、メシア詩集全体(2~89篇)は、ダビデ詩集(51~72篇)を中核(E)にして、その前後が対応する形になり、両側に、アサフコラダビデ王のように配列されていて、A・B・C・D・E・D・C・B・Aという交差法(カイアズムス)で構成されている。
 詩編前半(1~3巻)のこのような構成から見ると、2篇は、89篇と対応していて、全体の交差法配列の一番の外枠を構成している。これら二つの篇は「王の詩」と呼ばれ、この対応から見て、2篇が「ダビデ的な王権の誕生」であり、これに対応する89篇が「ダビデ的な王権の危機」を訴えていることが初めて見えてくる〔新共同訳『旧約聖書注解』(Ⅱ)92頁〕。
 2篇全体は、1~3節、4~6節、7~9節、10~12節の四つの連に分かれる。1連では王あるいは王権への反逆が語られ、2連ではこれに対抗して神による新王の即位が告げられる。3連は即位した王への主の詔(みことのり)であり、おそらくこれは、イスラエルの新王が即位に際して唱えた宣言であろう。4連では告知を受けた諸侯による服従と彼らへの警告が告げられ、再び秩序が回復に向かう。
 この構成を「語り手」の視点から見るならば、1連では詩人が語り、2連では詩人から主ヤハウェへ語り手が移行する。3連で語るのは即位した王自身であり、彼は主の詔を宣言する。4連では、語り手が再び詩人に変わる。だから、1連と4連の詩人の語りが、2~3連を囲む形で、全体が劇的な構成を採っている。
[1]【なにゆえ】この問いかけは、続く3節の終わりまでを含んでいる。
【異邦の諸民】原語「ゴーイーム」(複数)は、とりわけイスラエル以外の諸国の民を指す。
【騒ぎ立て】「いきり立つ」と訳すこともできる。
【もろもろの民】原語の「ルウームミーム」(複数)は、「民族」の意味ではなく権力に支配されている「民/国民」のことである。この語は、前の「異邦の諸民」に対して、「戦闘的で勇敢な民」のことで、イスラエルの民をも含んでいる。
【企む】「つぶやく」こと、心の中で謀(はかりごと)を立てること。
[2]【地の王たち】今までその下に従属していた諸王たちのこと。
【事を構える】神の支配に対して反乱を企てること。
【共に謀議して】共に同盟を結んで、宗主国の王権の交替時期を見計らって反乱を起こすことであるが、ここでは主ヤハウェによる支配に敵対すること(48篇5~6節/83篇3~6節)。
【油注がれた者】原語「マーシーアハ」は、動詞「油を塗る/注ぐ」から「油を塗られた/注がれた者」の意味である。特にイスラエルでは「油」は神からの霊を象徴するから、「油注がれた者」は王(サムエル記上15章1節)や祭司(出エジプト記28章41節)にあたる。この意味からさらに「メシア」(救う者)を意味するようになり、これのギリシア語が「クリストス」(油注がれた者)である。
[3]【枷】「枷/軛」(モーセール)は「束縛」を意味する。「枷/軛」は、ほんらい外国の王による支配、例えばバビロンの王による北王国ユダの王に対する「軛」のことである(エレミヤ27章2節/同8節)。しかし、ここでの「軛」は、特に主ヤハウェとの「絆」(きずな)をも指すところから、主の「導きの軛」(くびき)を意味するのであろう(ホセア書11章4節参照)。新約聖書では、ここがメシアである聖なる僕(しもべ)イエスの聖霊の働きに逆らうヘロデやピラトやイスラエルや異邦人たちへの預言とされている(使徒言行録4章25~28節)。またパウロは、このような「軛」をば、人の知恵に逆らう「神の知恵」としての十字架のキリストによる支配と見ている(第一コリント2章8節)。なおイエスは、「軛」を「支配/束縛」とは<逆の意味で>用いているのに注意(マタイ11章29~30節)。
【縄目】「より合わせた綱/ロープ」のこと。なお、こことは逆に、主が正義をもってイスラエルの敵の「縄目を断ち切る」と詩編129篇4節にある。
[4]【主は】原文は「わが主は」。2節の「主」は「ヤハウェ」であるが、この節の「主」は「アドーナーイ」である。「アドーナーイ」は、神の固有名詞「ヤハウェ」をそのまま読むのを畏れて、ヘブライ語の「主」  "Lord"を意味する「アドナイ」と発音した。これが、そのまま用いられている。ここでの「主の笑い」については37篇12~13節/59篇9節を参照。新約で言えば、神が人の知恵を「愚か」だと見なすことに通じる(第一コリント1章20節/コロサイ2章15節を参照)〔Derek Kinder. Psalms 1-72. Tyndale Old Testament Commentaries(TOC). Inter-Varsity Press Academic. (1973). 67. 〕。
[6]【即位させた】原語「ナーサフ」は「(油を)注ぐ」で、これから「任命する」「(王を)立てる」の意味になる。「王」の原文は「わたしの王」で、もろもろの王侯に対して主自らが立てた「油注がれた王」(メシア)のこと(サムエル記下7章13節の預言を参照)。これと関連して使徒言行録2章36節を参照。
【シオン】主が住まわれ御自分を顕現されるエルサレム神殿の丘。特に万民支配の中心となるシオンについては87篇5節を参照。主が「世界の王」を立てることで、5節にあるように、諸民の王は「恐れおののく」とある。
[7]【告げよう】この詩は王の即位式の詩であるから、以下の「主の詔/御言葉」を新しい王が、世界に向けて「宣言する」ことである。この宣言は、主なる神が立てた新王が、その支配下の諸民との間で、王と臣下との新たな契約を結ぶことを意味する(列王紀下11章12節参照)。
【生んだ】「生む」とは新しい王の即位(誕生)を指す。だから、「わたしは今日あなたを生んだ」の「わたし」とは主ヤハウェのことであり、「あなた」とは、新たに即位した王のことである。「今日」とあるのは即位の日の意味。「メシア」としての王が「誕生する」ことについてはイザヤ書9章5節/同42章1節を参照。新約で神がイエス・キリストを「生んだ」ことにつながる(マタイ2章2節/同3章17節/ローマ1章3~4節)。
[8]「地の果てまで」は、主にある王権の支配の及ぶ範囲を指しているが(72篇8節)、この句は特にメシア預言においてもしばしば用いられる(22篇28~29節)。新約ではマルコ13章27節/使徒1章8節などを参照。
[9]【鉄の杖】「杖」はここでは王笏(おうじゃく)を意味する。しかし王は「牧者」でもあるから、同時に「杖」は「羊を飼う杖」でもある。だが、これにも羊を慰めるもの(23篇4節)と懲らしめるもの(89篇32節)とがある。「鉄の杖」とはさらに厳しい裁きを意味する(89篇33節)。なおこの「鉄の杖」はヨハネ黙示録の三箇所にでてくる(2章27節/12章5節/19章15節)。
【陶器師の器】粘土でできた土器で砕けやすい。エレミヤ書(19章11節)ではこの比喩が、イスラエルにも向けられている。
[10]【悟りを得よ】原語は「サーハル」(洞察力がある/賢明に振る舞う)の使役態の3人称複数命令形で「注意して思慮深くなれ」の意味。これは知恵文学にでてくる用語であるが、ここは王たちへの呼びかけであるから、王権が「知恵」と「真理」に基づいていなければならないことを指す(ホセア書14章10節)。
【戒めを受けよ】ヘブライ語「ヤーサル」(懲らしめる/糾弾する)の受動態命令形で「懲らしめを受けよ/警告を受けよ」の意味(エレミヤ書6章8節)。ここは2節と対応していて、地上の支配者たちへの警告である。
[11]この節の後半「おののきつつ主を喜べ」は、読み方が乱れている。ここを12節へつないで「おののきつつ主(の足)に口づけせよ」とする読み方もある "with trembling kiss his feet"[NRSV]。しかし、七十人訳に従って、新共同訳など現行の読み方を採る訳が多い。なお「仕える」「(足に)口づけする」は、古代オリエントの宗主国の王(皇帝)に対する従属の誓いを意味する用語であり、同時に王を「礼拝する」意味をも含むが、ここではそれが主に対して用いられている。
[12]【その御子に】「子」の原語「バル」はアラム語。もしもこの詩が古代のダビデ時代からの内容を受け継ぐのであれば、7節と同じヘブライ語「ベーン」となるべきであろう。「バル」はヘブライ語の形容詞で「純粋/純真な」を意味するから(名詞は「ボール」で古代では形容詞と同じ綴り)、これを「(主を)真心から崇めよ」と読む訳もある。ただし、アラム語「バル」は、ペルシア時代のヘブライ語以外の読み方であり、ここは諸国の王侯たちへの呼びかけなので、意図的に外国のアラム語が用いられているとも考えられる〔Biblia Hebraica (BH):978NB〕〔Peter C.Craigie. Psalms 1-50. Word Biblical Commentary. Word Books (1983). An electronic edition〕。
【主により頼む者】ここは10~11節を受けて、主を畏れ敬う者たちに与えられる恵みのことである。為政者たちの権力が平和と恵みをもたらす道がここに示されている。同時に彼らが主に背く時には、彼らの行く手は「道半ば」"in midcourse" REB]での滅びである。
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