32篇
           罪赦された喜び
 
            【聖句】
1 ダビデの詩。マスキール
 
幸いである、咎が取り去られ、
 罪が覆われた者は。
2幸いである、主に不義なしと見なされる人
  その霊に偽りのない人は。
 
3わたしが黙して言い表わさなかった間
  ひねもす坤いてわたしの骨は衰えた。
4御手が昼夜この身に重く
  わたしの精気は夏の熱気で涸れた。「セラ」
5わたしは罪をあなたに知らせ 
   自分の不義を隠さなかった。
 わたしは言った
  「思い切って自分の咎を主に告白しよう」と。
 するとあなたは、罪の重荷を取り除かれた。
 
6それゆえ神を敬う者は皆
  苦境の時にあなたに祈り求める。
たとえ洪水の波が押し寄せても
  その身に近づくことがない。
7あなたこそわたしの隠れ場
  苦難からわたしを守られる。
救われた喜びの声で
  わたしを包んでくださる。セラ
 
8わたしはあなたに目を留め
  あなたに歩むべき道を示し
眼をあなたに注いで導こう。
9あなたたちは馬やら馬のようであってはならない。
  それらは悟りがなく
  轡と手綱でおさえなければ
  あなたのもとに留まらない。
 
10邪悪な者には苦痛が多い
  主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
11正しい者よ、主にあって喜びおどれ
  心の直き者よ、みな喜び歌え。
 
                   【注釈】   
                  【講話】
 キリスト教は罪の赦しの福音である。これがあってキリスト教は立ち、これなくしてキリスト教はない。「罪の赦し」は、父なる神と人間との交わりを創り出す。神と人間との交わりそれ自体が「罪の赦し」なのである。神を知る者は罪の何たるかを知る。神を知らなければ罪を知ることもない。だからキリスト教は罪の赦しの宗教である。信仰が深まるとは、そのまま罪の自覚が深まることにほかならない。人は言うかもしれない。先ず罪が赦されて、その後で交わりが生じると、なにひとつやましい心を持たなくなるところにキリスト教の本質があると。理屈としては分かるけれども、わたしの体験はそうではない。神の御前で罪赦されると、良心のとがめが除かれるのは本当である。特定の人や事柄について罪を犯した場合には、特にこのことがよく分かる。具体的なあれこれの罪について言うのなら、その人の言うとおりである。
 しかし、心に「思い当たる」罪が何一つなくても、それでわたしの良心がやましきから解放されるわけではない。わたしのまわりには様々な不義・不正や矛盾が存在する。これらの矛盾や不正に苦しむ人たちが数多くいる。又、これらの人たちを助けようとしている人たちも多くいる。ところがわたしは、彼らに援助らしい援助もしてやれないのである。自分は恵まれている、主にあって幸いである、こう思うほどにますます自分の幸せをどこかで支えてくれている多数の人々と彼らが背負わなければならない重荷のことが心にかかる。事は何も国内だけに限らない。日本の経済発展(言うまでもなくわたしもその恩恵に浴している)の下積みにされて、意識するしないにかかわらず、わが国の経済発展の犠牲にされている人たちが、アジアの国々に多数いる。そういう人たちが目に留まると、自分の罪が赦されているから心にやましい点は何一つないなどとどうしても言えなくなる。人間とは自分に都合よくできた生きものだから、都合の悪い事には目をつむりがちになるものだ。そんな性(さが)の一人であるわたしでさえ、これだけ様々な不正や矛盾が目につくのだから、わたしの知らない所で、あるいは気が付かない事で、どれだけ多大の犠牲や負担を人々に強いているのかわたしには想像もつかない。現代とは、そういう時代だからである。
 罪とは「犯した」ことについてのみ言うべき言葉ではない。わたしが当然すべきであったのに<しなかった>こと、できるはずであったのにやらなかったこと、これらの「なさざりし罪」も犯した罪に劣らず重い。わたしは仏教徒ではないが、生きものを殺すのは、やはりいけないという思いがある。自分の手で生きものを殺すことが良心のとがめになるのなら、わたしに代って牛や豚を殺してくれている人たちにわたしはどう言えばよいだろうか。わたしが自分の手をよごさずに牛肉に舌鼓を打つことができるのは、こういう人たちのお陰だからである。
 こんな風に見ると、わたしがこの世に生きているその事が「罪」であり、自分の存在そのものが、何らかの犠牲を人に強いることで成り立っているように思えてくる。わたしは、罪を犯すことなしには片時も生きていけない人間なのである。だからわたしは、自分が生かされていることについて誰かに謝りたいと願う。人に対してではない。人は皆同じである。皆罪の中に生き生かされているにすぎない。わたしを生かしてくれているお方、その方にわたしは謝りたい。5節に「わたしの罪を隠さなかった」とあるが、わたしは自分の罪を意図的にせよそうでないにせよ、今でも隠そうとする傾向があるから、自分の罪を素直に<認めよう>としない、これがわたしの「なざざりし」最大の罪ではないか。そんな風に思えてくる。
 ここまで来て初めて、わたしの罪のために十字架にかかり、わたしの罪の犠牲として御自身を捧げられた神の御子、イエス・キリストに謝りたいという想いが湧く。御子の血(血は生命そのものである)の犠牲に出会って初めて、わたしの罪が<赦される>ことを知った。自分が特に宗教的な人間だとは思わないが、このイエス・キリストに出会って、罪の何たるかを知った。そして、罪赦される喜びをも知った。これがわたしの実感である。
 罪赦されたその後はどうなるのだろう。8〜9節に「わたしはあなたを導こう」とあり、10節に「主に<信頼する>者は慈しみに囲まれる」とある。だから主に「全託して」、「さとりのない馬や駿馬」にならないことが求められている。「罪赦され」者は、イエスを主と仰ぎ、その御名によって歩む。主イエスの御霊によって歩むと言ってもよい。これを、この世に「一度死んで新しい生に活かされる」とも言う。日々、キリストにあって死と再生にあずかることだと言う人もいる。わたしのような者でもこういう願いを抱くことができるのは、わたしの罪が赦されているからである。人は、罪赦されなければ、神に罪の赦しを求めることさえもできない。救われて初めて救いを求め、御国に導き入れられて初めて御国に入りたいと願い、赦されて初めて赦しを求めるようになるからである。
                       詩編へ