【注釈】
■32篇について
 アウグスティヌスもルターも愛したと言われるこの詩篇は、古代教会の時代から憾悔の詩として知られている。憾梅の詩と呼ばれるものは全部で7篇あり、このほかに、6篇、38篇、51篇、101篇、220篇、143篇などがある。しかし、それぞれに重点の置き方が違っていて、32篇では特に罪赦された感謝の気特が強い。またこの詩には感謝と共に「知恵の諭し」様式もでてくる。だから「知恵」(1~2節)と「感謝」(3~5節)/感謝(6~8節)と「知恵」(9~10節)のように交差法で構成されているという指摘がある〔Craigie. Psalms 1-50.CFoem/Structure/Setting.〕。
 1~2節に「咎」、「罪」、「不義」という三つの言葉がでてくる。これらには、「赦される/移し替えられる」、「覆われる/浄められる」、「見なされる/責任を問われない」がそれぞれ結びつく。5節は全体の中心である。ここで、再び「罪」、「不義」、「咎」が繰り返され、これらに「あなたに知らせる」、「自分で覆わない」、「あなたに告白する」が続く。これら三つの動詞は、1~2節の三つの動詞に対応している。
 8~9節は、知恵文学の流れを汲む諭しのスタイルであるが、ここはやはり、祈る者に与えられた神のみ声であろう。代々のクリスチャンたちは、ここをそのように受けとめてきた。10~11節は、1~2節の「幸いである」に対応している。
■注釈
【マスキール】「さとり」「瞑想」「教え」を意味する語。このタイトルを持つ篇は全部で13ほどあるが、いずれも虜囚時代とその前後の作ではないかと考えられる(32篇は虜囚期以後)。「教訓の詩」を意味するとも考えられるが(78篇)、42篇/44篇/45篇などはこれにあてはまらない。「マスキール」の内容はよく分らないが、「瞑想」と「調和」の両方の意味を含むから、ある特定の伴奏の仕方を演奏者に指示していたのではないかと考えられる。
[1]【咎】原語「ペシャア」は「咎/邪悪/反逆」の意味で英語の"transgression"。
【赦される】原語は動詞「ナーサー」の受動態分詞。「ナーサー」は「持ち上げる」「取り去る」「移し替える」ことで、重荷などを別の物に移し替えることでその人から取り除くこと。このことから、人の犯した罪科を犠牲の獣に移し替えて負わせることを指す(レビ記4章22~31節参照)。英語の"forgive"はこの意味に近い〔Briggs.Psalms.(1)277〕。ただし同じ「赦す」が5節では「不義」について用いられているから、「咎」「罪」「不義」の間に本質的な違いがない。
【罪】原語「ハター」は「罪」「罪への献げ物」を意味する。英語の"sin"。
【覆われる】原語「カーファル」はヘブライ語で罪を「覆う」「赦す」「宥(なだ)める」「贖う」こと。
 第七の月(9月末から10月始め)の十日の大贖罪日(ヨーム・キップル)には、大祭司が、神殿の至聖所で自分たち祭司とイスラエルの民全体の「罪の浄め」の犠牲を献げた。至聖所の契約の箱の上部の「贖いの座」に犠牲の血を七度振りかけ、また外の祭壇にも血を注ぎ犠牲を焼き尽くす。これで、「イスラエルの民の汚れ(トマー)と咎(ペシャア)、すなわちそのすべての罪(ハッター)が贖われる」(レビ記16章16節)とある。ここでは「罪」が、「汚れ」と「咎」を含む言い方になっているから、これらの用語は内容的に重複している。民の指導者(長老)たちの贖罪では、聖所の香炉の祭壇が「香の煙で<覆われる>」ことが求められ、まだ聖所それ自体にも犠牲の血が漂うように振りまかれるから、聖所全体が犠牲の血と香の煙で「覆われる/包まれる」ことになる。これらの祭儀は祭司と民全体、あるいは指導者たちのためであるが、犠牲の祭儀は、個人の贖い(赦し)の場合でも、聖所の外の祭壇で血が注がれ焼き尽くされた。
 詩編に出てくる「罪咎」には、病気、悪霊(精神障害)、戦、非難、訴訟、処罰などの様々な災厄が、具体的な形態で個人あるいは共同体を襲っていることを表わす。したがって、これらの罪科を「赦す」「覆う」「贖う」こともまた、何らかの具体的な贖罪や賠償の犠牲の献げ物による。しかし、罪科の内容が具体的であればあるほど、贖いの祭儀だけでは解決されえない深刻さ/真剣さが求められることも洞察しなければならない。だから、贖罪の犠牲では、祭儀だけでなく、これに伴う切実な祈りが内面的に不可欠である。祭儀とこれに伴う心からの祈り、この二つが相まって、詩編の赦しの祈りが成り立っていることを思わせる。
[2]【不義】原語「アーヴォーン」(単数)は「歪み・ねじれ」の意味から出た言葉。「不正な者」〔フランシスコ会訳聖書〕。"iniquity" 〔NRSV〕。「不義/不正」と心の「偽り/欺き」は直接に結びつかないかもしれないが、「アーヴォーン」はほんらい人が人に対して行なう「不義」のことで、特に王などへの「忠義を破る」ことをも指す(サムエル記上20章1節)。だから「不義」の反対は「忠義/忠誠」である(サムエル記下3章8節)〔TDOT(10)550〕。詩編ではこの語が、個人の具体的な行為へ発展し、「罪/罪過」を犯す行為を指し、その結果「不義の罪」(32篇5節)をその者にもたらす〔TDOT(10)553〕。2節では主なる神への「不義/不誠実」を指すから、その反対が「霊に偽り/欺きがない」人のことになる。このように「偽り/不義」が「忠実/真実」と対照される場合が、新約ではヨハネ7章18節にでてくる。
[3]【黙して】「黙して言い表わさない」は意訳で、原語は「(自分から言わず)沈黙する」こと。ここでは自分の罪を悟らず頑なに神に向かって沈黙することであろう。
【骨】「骨」は人の霊が宿る部分であり(創世記2章23節)、全身の気力を意味する。「衰える/衰弱する」には「消耗する/滅びる」という異読がある〔Biblia Hebraica〕。
【呻いて】「沈黙しながら呻く」というのは不自然だと思われるが、「神に対して頑なに心を開かない」ために、全身がさいなまれて呻き苦しむこと。"While I refused to speak, my body wasted away with day-long moaning." 〔REB〕
[4]【精気は涸れた】原意は「わたしの精気が涸れたために、わたしは以前の元気な姿から変わってしまった」こと〔Briggs.Psalms.(1)278-79〕。「夏の熱気」は辞義通りの意味ではなく、神の裁きの御手が重く力が奪われたこと。「神の手」が人の罪に向けて裁きの重荷(罰)として働くことは詩編39篇11節を参照。
[5]【知らせ】原語は未来形。「告白しよう」〔岩波訳〕。しかし、これを次の「隠した」(完了形)と並行させて同じ完了形に読む場合が多い〔Biblia Hebraica〕〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕。
【罪の重荷を】原文は「罪の不義」。「罪咎を」〔フランシスコ会訳聖書〕。これを「不義と罪を」と読む異読がある〔Biblia Hebraica〕。しかし「不義」には、人あるいは神に対する忠誠/誠意を破ったことへの「やましさ/重荷」の意味があるから、「罪の重荷」と訳した。"the guilt of my sin" 〔NRSV〕。ただし「不義」(アーヴォーン)には「罪/やましさ/苦しみ/罰/犯罪」などの意味があるから、「罪への刑罰」〔岩波訳〕という訳もある。"remitted the penalty of my sin" 〔REB〕「罪はダムの水のように溜まるものであり、告白は水門を開けてこの水を吐き出すことである」〔Craigie.Psalms 1-50.Comment〕。
【セラ】もし結びの行を「するとあなたは、わたしの不義を取り除き、わたしの不義を<赦された>」と読むと、「赦された」(サラハッター)が最終部に来る〔Biblia Hebraica〕。ここの「セラァ」は、行末のこの「赦す」という動詞を読み違えたために生じた読みであろうか。
[6]【苦難の時に】ヘブライ語原典は「ただ発見(ムツォー・ラック)の時」となっていて意味が通り難い。この読み方は、「苦難」(マッツォーク/マッツォール)という単語が二つに切られたために生じたと思われるので、原典の欄外の読みに従った。"at a time of distress" 〔NRSV〕。「適切な時に」〔岩波訳〕のように七十人訳の読みを採る訳もある。おそらくこの句は後からの挿入であろうが、どうにもならない苦境へ追い込まれた時の逼迫した気持ちを表わしている。
【祈り求める】ここでは「(赦しを)乞い求める」こと。
[7]【わたしの隠れ場】突然3人称から1人称に変わり、強い調子で語られる。後半の「歓声」も「救い/救助」も詩編では比較的希な言葉であるが、内容的に迫るものがある〔Craigie.Psalms 1-50.Notes.〕。「隠れ場」は61篇5節を参照。この節の「わたし」のように「自分」を含む共同体全員を意味する用法は詩篇に多い。
[8]8~9節では、これまでの祈りから、教え諭す「知恵の様式」に変わる。
【目を留め】原語「サーハール」は「鋭く洞察する/賢明に行動する」で、この動詞のヒフィル(使役態)は「目を留める」、「教訓を与える」こと。「目覚めさせる」〔新共同訳〕。"instruct"〔NRSV〕
[9]8節は2人称単数で、9節は2人称複数である。知恵の様式では、語りかけられているのは個人であり、同時に複数の人たちでもある。
【騾馬】「駿馬」(らば)は雄のロバと雌馬との雑種のこと。頑固で強情な性質。
【あなたのもとに留まらない】最後の行だけ2人称単数であるが、原意がよく分からない。後からの挿入だろうか〔Biblia Hebraica〕。「そのようなものをあなたに近づけるな」〔新共同訳〕。「彼らは暴れて従わない」〔フランシスコ会訳聖書〕。
[10]【邪悪な者】原語は単数で「邪(よこしま)な犯罪者/神に敵対して罪を犯す者」のこと。「不法者」〔岩波訳〕。「神に逆らう者」〔新共同訳〕。「悪い者」〔フランシスコ会訳聖書〕。
【苦痛】原語は「身体の痛み」と「内心の悩み/辛さ」の両方を含む。
【信頼する者】原語は動詞「バータッハ」の分詞形(単数)で「安心する/頼りにする」こと。七十人訳では「信頼する」と「希望を託す」のふた種類のギリシア語に訳されている。「人に<より頼む>より主にすがるほうが善い。主に<望みを託す>ほうが君主たちにすがるよりも善い」(詩編118篇8~9節→七十人訳117篇)。このように「信頼する/安心する」は、しばしば(自分の判断をも含めて)当てにならないものを頼ることと裏表をなす(箴言3章5節)。だから「主(ヤハウェ)に信頼する/安心して身を委ねる」ことが一番確かな道である(イザヤ30章15節)。「バータッハ」はとりわけ神聖法規(レビ記17~26章)/申命記/エレミヤ書/エゼキエル書に多くでてくる〔TDOT(2)89-90/92-93〕。
【慈しみ】原語「ヘセッド」は、人の場合にも用いられるが、特に神(主ヤハウェ)が人に向ける「慈愛/憐れみ/恵み」を指す。旧約聖書では全用例の半分が詩編にでてくる。特に「慈愛/恵みと真実/まこと」として(25篇10節/40篇11~12節/57篇4節など)。「恵み」〔岩波訳〕。「慈しみ」〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕。
[11]「正しい者/義人」も「心の直き者/心のまっすぐな者」も複数形。
                                戻る