【注釈】
 この37篇も捕囚期以後の初期ペルシア時代に属するのであろう。1~89篇までの詩編の構成で見れば、「ダビデ詩集」の前半の部に入る。各節が2行の並行法であるが、内容的には二つの節が一つのまとまりを形成していて、それぞれのまとまり(二つの節)の始めは、ヘブライ語のアルファヘットの各文字で始まる構成になっている。ただし、7節、20節、34節などの例外もある。したがって訳文もまとまりごとに区切ってある〔NRSV〕〔REB〕。この形式は捕囚期以後の作に多いが、ここに表われる表現には古くからのものもあるから、捕囚期以前から歌われたものが編集されたと見ることもできる。この詩は智恵文学の「諭しの文体」であるから、誰か偉大な「知恵の教師」の教えを伝えているのだろうか。
 
[1]【悪を行なう者たち】この篇の「者」は大部分が複数である。全篇を通じて「悪を行なう」に対しては「善を行なう」が、「不義を行なう者」に対しては「義人」が対応する。
[2]【しおれる】イザヤ書40章6~8節参照。
[3]【この地】主から与えられた約束の土地(国)のこと。
[4]【心の願い】多くの場合この言葉は国王が国民のために祈願することであるが(詩編2篇8節/20篇6節/21篇3節)、ここではそれが一人の人(知恵の教師から諭しを受ける若者)へ向けられているのに注意。
[5]5節はこの篇全体の鍵である。
[6]【正しさ】原語「ミシュパット」は、「判断」「裁き」「大義」など広い意味がある。「裁き」〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕。「公正」〔岩波訳〕。"justice of your cause" 〔REB〕.
[7]【慕い求める】主が応えてくださるのを「待ち望む」とも訳すことができる。
[9]【地を継ぐ】マタイ5章5節を参照。
[10]【悪しき者】この語は単数である。民を苦しめる凶暴な(特定の)権力者を指すのか。
[11]【へりくだる人たち】「貧しい人たち」「苦しめられる人たち」の意味でもある。
[13]【その終わり】原語は「彼の日/時」で悪しき者が主によってさばかれる時のこと。
[14]【真っ直ぐな人たち】「真っ直ぐな道を歩もうとする人たち」の意味もある〔フランシスコ会訳聖書〕。"honest"〔REB〕。
【殺す】原語には「虐殺する」の意味もある。
[17]【腕】すなわちその力となる財力や権力のこと。
[18]【全き人たち】「完全な人」とはひたすら主の道を歩んで非の打ち所がない人のこと。「無垢な人」〔新共同訳〕。「罪なき人」〔フランシスコ会訳聖書〕。「敬虔な人」とも訳せる。
[19]【災いの時】社会的・経済的に「悪い時」の意味もあるが〔NRSV〕〔REB〕、続く「飢饉」と関連づけて「日照りの時」と解釈する訳もある〔フランシスコ会訳聖書〕。
[20]【献げ物の羊】「煙」とあるから、焼き尽くされる燔祭の羊のこと〔新共同訳〕。ただし原文の意味が不明である。七十人訳のように「彼らが栄える(賞賛される)その絶頂の時に」とも訳せる。しかしパレスチナの窪地では雨になると草が生えるがすぐに太陽に焼かれることを指して「窪地の焼かれる草のように」〔フランシスコ会訳聖書〕という訳もある。"like the glory of the pastures" 〔NRSV〕。
[22]受動態で語られているので主語がはっきりしない。通常「主」を主語とするが「神」とする訳もある〔新共同訳〕。
【主に呪われる者ら】物品・金銭に不誠実なのは主に呪われている「しるし」である。
21~22節を16~17節と比べると興味深い。なお祝福と呪いの対照は申命記28章を参照。
[23]【男子】原語の「ゲベル」は、「(強い)男」「勇者」であるが、より一般的に「人」と訳す場合が多い〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕〔REB〕。"our steps" 〔NRSV〕。箴言16章9節、同20章24節を参照。この篇は知恵の諭しであるから、会堂で少年たちがこれを暗唱するのに用いられたと思われる。
[24]主語は23節からの続きであろう。「倒れても」とは躓いて転倒しそうになっても、主が彼の手を取って支えてくださること。
[25]【義人】原語は「ツェダカー」(義/権利/正義/公正)から出ている。ここでは単数で、これが続く26節の主語であろう。
[26]主語は「彼」であるから前節から続く。申命記28章11~12節を参照。
[28]【その愛する人たち】「その」とは主のことであるから主に愛されて「主の慈しみに生きる人」〔新共同訳〕のことである。これを「主に忠実な者たち」〔フランシスコ会訳聖書〕〔岩波訳〕と解釈すれば「主の愛する人たち」は「主<を>敬う人たち」となり「敬虔な人たち」の意味になる。"his loyal servants" 〔REB〕。この意味の「主を愛する/敬う人たち」は「ハシィディーム」(敬虔なる者たち)と呼ばれようになった。
 28節の後半には三通りの読み方がある、
(1)現行の原典では「(彼らは)とこしえまで守られる」である。だから「彼ら(主の愛する人たち)はとこしえに守られるが、悪しき者たちの子孫は断たれる」と読む〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕〔岩波訳〕。
(2)しかし、行数から言えば、28節の後半はほんらいアルファベットの「アイン」で始まり、続く29節と組(くみ)になるべきところである。ただし現行では冒頭の「レオラム・ニシュマールー」(彼らはとこしえに守られる)は「ラメッド」で始まるから、前後のアルファベットと合わない。このためにヘブライ語原典の注(1006頁)では「アワリーム(不法者ら)・レオラム(永遠に)・ニシュマドゥ(追放される/滅びる)」と冒頭に「アイン」で始まる語を挿入した上で、動詞を「守られる」から「追放される/滅びる」へ読み替える異読が提示されている。"The lawless are banished forever and the children of the wicked cut off. "〔REB〕。これだと、冒頭が「アイン」で始まり、29節の「義人たち」と対照されることが分かる。本訳ではあえてこれをとった。
(3)現行のままの「彼らは守られる」の「彼ら」を29節冒頭の「義人たち」のこととして、28節後半と29節を一つのまとまりとする訳がある。"The righteous shall be kept safe forever,but the children of the wicked shall be cut off. "〔NRSV〕。
[30]【公正】原語「ミシュパット」は6節と同じ。
[33]【訴えられても】悪しき者が悪だくみによって正しい人を裁判にかけること。
[35]【冷酷な者】無慈悲で凶暴な圧制者が生い茂る大木のように周囲に恐怖を与えること。なお、この節の二行目は、七十人訳では「彼はレバノン杉(複数)のように高く茂る」となっているから、現行の原典本文とは異なる読み方から来ている。
[36]原典本文では「彼が過ぎ去る」であるが、七十人訳では「わたしが通り過ぎると」である。この方が後半の主語と合うので「わたしが」を採る訳が多い〔岩波訳〕〔NRSV〕〔REB〕。
[37]【真っ直ぐな】原語「ヤシャール」は「真っ直ぐな」「正しい」。これを「真っ直ぐに歩むように心せよ」の意味にとる説もある〔ミルトス・ヘブライ語聖書対訳『詩編』(1)164頁〕。
【子孫】原語は「未来」だが、「子孫」〔NRSV〕〔REB〕の意味にもなる。「未来に平和/平安がある」〔フランシスコ会訳聖書〕〔新共同訳〕〔岩波訳〕。38節の「未来」/「子孫」も同様。
[40]【逃れる】36篇8節を参照。
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