王国の祝婚
        45篇
       【聖句】
1聖歌隊の指揮者に。「ゆり」の調べにのせて。
コラの子たちに歌わせたマスキール。愛の歌。
 
2心にうるわしい言葉の湧くままに
 私は王にこの詩を歌おう
 書記の筆のようになめらかなこの舌で。
3あなたは世にも類いなくうるわしい。
 その優しい唇から恵みがあふれる
 神があなたをとこしえに祝されたから。
 
4勇ましき王よ、腰に剣を帯び
 あなたの威光を輝かせよ。
5威光によって勝ち進め
 真(まこと)のため、虐げられた義のために。
 あなたの右手は恐るべき業をあらわす。
6その矢は鋭く
  諸国の民は倒れ
  王の敵どもの胸を貫く。
 
7主よ、あなたの王座はとこしえに続く。
  公正の王笏こそあなたの王権の笏。
8あなたは正義を愛し悪を憎んだ。
それゆえあなたの主なる神は
 あなたに油注ぎを与え
 その仲間に優る喜びの油を注がれた。
9没薬とろかい、桂皮がその衣から香りを放ち
  象牙の殿から琴の音があなたを祝う。
10王家の娘たち、
  あなたの宮廷の貴女たちの居並ぶ中で
  あなたの右に立つのは王妃
  オフィルの黄金に包まれて。
11娘よ、聞け。目を留め、耳を傾け
  あなたの民と父の家を忘れよ。
12王は美しいあなたを慕う。
  彼こそあなたの主
  その前にひれ伏せ。
13ティルスの娘よ、民の富める者達は
  贈り物を捧げてあなたの好意を請う。
 
14王の娘は室内で輝く金糸の綾織をまとう。
15刺繍の色鮮やかに彼女は王のもとへ導かれる。
   乙女たちが彼女に付き添い
   あなたの下へ向かう。
16喜びと歓呼の中を導かれて
   彼等は王のいる宮殿に進み入る。
17あなたには、その父祖を継ぐ子孫が与えられ
  彼等は君侯として全地を支配する。
 
18私はあなたの名をよろず代に憶(おぼ)えさせ
  それ故にもろもろの民はとこしえにあなたを讃える。
                    【注釈】             
                   【講話】
 「神の国」を国家や民族を超えた霊的な支配原理だと信じているクリスチャンが多い。それはそれで間違いではないが、このような見方からすれば、ここに見られる国王への忠誠心は「旧約時代の民族主義」に過ぎないと映るだろう。とりわけ、「神の国」とは、現存する国家体制と根本的に異なるもの、場合によっては相容れないものだと信じている人ならば、ここに歌われている「聖書の君が代」とも言えそうな愛国的な詩篇を読んで当惑するにちがいない(私の理解が正しければ、「君が代」は、ほんらい九州地方で歌われていた民間の結婚祝いの歌であったのが、后(きさき)が天皇に捧げた愛の歌に転じた。そこでは天皇と国家と結婚が一つに溶け合い、かつ天皇が五穀豊穣に対して果たす祭儀的な意義をも含んでいる)。
 私などは、この詩篇から直に英国の国歌を連想する。国家と神の国とを対立的にとらえる日本のクリスチャンの伝統にはそれなりの歴史的な背景があることを私も自覚している。しかし、国家権力と神の権威との緊張した境界線上に生きるこれらの人にとっては、新約聖書の「神の国」がこういう詩篇から出発した事をもう一度考えてみる必要があろう。私の言うことは、近頃の右翼的な傾向と重ね合わされて、戦時中の「大日本帝国」の必勝を祈願した「愛国的キリスト教」を想い出させるかもしれない。だが、いわゆる靖国問題をも含む国家宗教とその祭儀性を正しく見通すためにも、ここでとりあげた詩篇の意味を現在の私達への神からの語りかけとして今一度聞き取ろうとする態度が欲しいと思う。
 この詩で最も注目したいのは、詩人がここで神の御霊に霊感されて、自分の国の王をほとんど「神に等しい」と呼んでいることである。ここには、古代エジプト以来の専制国家の王権、「太陽の子」として王が国を支配する「神王」的な理念の名残りを見ることができる。しかしながら、この詩の中では、詩人は、王をこのように絶対化するよりも、その背後に居ます神御自身に目を向けていることも見分けなければならないだろう。この違いは大きく、しかも一方から他方へと容易に移行しやすいがゆえに、この両者の区別は見過ごしにできない。旧約においては、王の地位は常に主(ヤハウェ)の意志によって左右される。神とイスラエルの王との関係が、いわゆる「養子縁組」の性格を帯びていたことがここでは重要な意味を持つ。古代から受け継いだ国家と国王の絶対性、そして、このような王権をも左右できる神の超越した権威、この二つの対立と調和を秘めた緊張関係をこの詩人はしっかりと見据えている。彼は、このパースペクティブ(遠近関係)に立って、主とその御力に支えられた王の支配が「とこしえに続く」と歌いあげる。7〜8節の王への賛美は、詩人のこのような信仰に支えられて初めて可能になる。
 王の結婚を祝して詩人は「仲間の誰よりも喜びの油を注がれた」と歌う。それは、自分の国に向けられた神の慈しみを信じる心から湧く賛美である。詩人の心は「うるわしい言葉」であふれる。宗教的な感動が抒情性を伴ない、さらに、これに広がりと普遍性が与えられて叙事詩が生れる(祝婚歌は本来叙事詩の性格を持つ)。この意味で、旧約聖書が古代イスラエル民族の叙事詩であることを否定する人はいない。一つの民族の魂の偉大さとその普遍的な理念は、美しい抒情を帯びる宗教的感動に支えられて叙事詩となることで初めて、諸国民に訴える力強い表現を獲得する。
 国と神が、真に正しい関係(パースペクティブ)に立った時に初めて、詩人は、国家とこれを支える神の理想をだぶらせて視ることができる。彼は大胆にこう宣言する「自分の国を愛さないものは神をも愛することができない」と。それは、「自分の隣人を愛さないものは神をも愛することができない」という新約聖書の御言葉と呼応する響きを持つ。現代の社会科学がこのような国家の祭儀性と人間の心に根ざす民族の抒情性の(時には極めて危険な)発露をどこまでその視野の中に取り込んでいるのか私には知ることができない。民族が、自分の歴史を感動を持って歌いあげることができるためには、その民族が形成する共同体の最高の象徴に向かって「あなたは正義を愛し悪を憎んだ」と心から言えなければならない。「公正の王笏こそあなたの王権の笏」という確信に立たなければならない。このような民族の持つ魂の偉大さは、古代エジプトの専制国家が膨大な人力と知力とを投入して築き上げたピラミッドのような建造物とはむしろ対照的なのである。
 ファラオの時代の王権崇拝とこの詩人の王への賛美との違いは、王権の背後にこれを立たしめている「王の王」「主の主」を見ているかどうかによる。ここでは、王と神の連続した一体観は否定され、超絶した神によって、国王が「神王」として絶対化される危険は克服される。7〜8節で王に向けられた賛美は、この意味で、単純な王権礼賛ではない。ここでは、王に対する賛美が、王に向けられた祈りでもある。言い換えると、権力者に向けられた「かくあれかし」という「要請」として働く効果を持つ。この詩篇が、なんらかの演劇的な目的を持つものであるとすれば、この点はさらに明確になる。詩人は王に詩を捧げる。捧げられた王は、その語りかけに対応すべく「演技する」ことが「要請」される。このような「演劇的な場」としての儀式では、王は、その「公正と正義」を民の前で「演じる」ことを余儀なくされる。こうすることで初めて、彼は神と「なる」ことができるのであり、これなくしてはそこに参加する民によって王とは「認められない」。王は、「正義によって勝ち進む」ことを、それゆえ自分と神とがー体であることを「神を演じる」ことによって民に証明しなければならない。このように、神との断絶と連続によって、イスラエルの王は宗教的な高さとその倫理性を獲得することになる。ティルスの地から嫁いで来たらしい王妃に向かって、詩人が「あなたの民と父の家を忘れよ」と勧告する時、彼はこのようなイスラエルの王位の持つ比類のなさを念頭に置いている。
 詩人が王を心から賛美できるのは、王権と神との間に神の御霊の恵みによる調和を確信できる時である。この確信は、王を頂点とする国民全体にも御霊が宿っているという信頼につながる。だからこの「愛国心」は、その超越的な霊性によって、無反省で無条件な権力礼賛に陥ることがない。それどころか、宗教的な情熱と民族的な抒情が民の霊的な一体感となるとき、それは国全体をそのあるべき姿へ近づけようと突き動かす情熱へ転じる。ある民族の持つ宗教的、抒情的、そして精神的な力が結集して、普遍性を獲得するに至る時、すなわち叙事詩の高さに到達する時、それは人類の歴史を変え、その行く手を照らす光となる。そのような「民族意識」は、偏狭な国粋主義を自らの力で打破し、はるか後の代までその光を発し続ける(18節)。
 新約聖書が旧約の「否定」の上に成り立つというのは真理である。だがそれは半面の真理に過ぎない。それと同じ位に確かに、新約は旧約の「連続」の上に成り立っている。そうでなければローマ帝国の迫害に耐え抜くほどの黙示録のあの力強いビジョンはいったいどこから生れてきたのか。私達はそこに、世界を裁くメシアなるキリストとその花嫁の結婚の終末が発する力強さを見る。ヨハネ黙示録では、キリストの支配が国家や民族を超えた普遍性を具えている。しかし、そのような普遍の理念を突き動かすエネルギーはどこから流れ出るのか。普遍的な原理がそれだけで力を獲得できるものならば、例えばエスペラントは、言語として最も強力な言語になるはずであろう。ところが、現代で最も力強い言語活動を行っているのは、一つの小さな民族が育てた英語なのである。それは、その特質をいささかも薄めることなく世界語となった。いかなる普遍性もそれを力強く働かしめる個体の情熱に支えられていなければ現実の力にはなりえない。ヨハネ黙示録は、現代の危機的な状況の中で、今もほとんど唯一の終末的な希望を私達に提示してくれる。それは、そこに描かれた明るさと同じくらいに強烈な暗さの故にいっそう真実味を帯びて迫る。王として世界に君臨するメシアなるキリストと世界中から集められたエクレシア(教会)としての花嫁、このような力強さとその普遍性は、外ならぬこの45篇のよう神の霊に動かされた民族の宗教的な情熱に根ざしている。イスラエル民族の培ったこの宗教的な民族意識と国家理念こそ新約聖書の神の国のエネルギーの源泉である。このような視野に立つ時に初めて、ヨハネ黙示録のキリストと花嫁が、この王の詩と結びつくのが見えてくる。
               詩編の招きへ